答えを出さなくてはいけないのは、判っている。いつまでも宙ぶらりんの状況というのがよくないのは、俺のこの胃の痛みを顧みるまでもなく判っていることだ。
俺がナップを、……そして、ナップが俺を、好きっていうのは、もう少しも揺るがないことであって、日常的にナップからキスを貰っているし、俺たちは一緒に寝ているし、お風呂だって入っている。そして、俺はやっぱり、ナップのことを冷静な目で、生徒として、見ることは出来ない。ときどき、一緒にお風呂に入っていて辛くなってくるくらい、或いは一緒に眠る布団から夜半過ぎに起き出してしまうくらい、俺はもう、ナップのことが好きで好きでしょうがないんだ。
ナップの覚悟が、十三歳相応のものでしかなくとも、それを補うだけの責任力が俺に無いように見えたとしても。
俺はナップを、愛している。そして、ナップが俺を愛している。お互いの抱く心からの愛情を、俺は心底から尊重したく思っている。
だから俺は今日、初めて自分から、ナップにキスをした。
いつも、されていることを、し返すだけなのに、なけなしの勇気を搾り出していって、最後の一滴でようやく踏ん切りがついた、怖かった。頬杖を突いて、お世辞にも綺麗とはいえない字の散らばるスバルのノートと睨めっこしている。
その横顔に、俺は、息を潜めてそっと顔を寄せた。悪いことをするんだという自覚があったからだろうか、本当に息を止めて、少し苦しくて、やっぱりやめようか、でもここまで来て、でも、でも、でも、そんな風に右往左往して、もう、引き返せない、ナップが俺の顔が近づいていることに気付き、顔をこちらに向けかけた。もう、俺は反射的に、ナップの頬に、唇を、押し当てていた。
これまでの人生、交わしたキスの数なんて、そんなに多くは無かった。だからこそ、俺はナップにキスをされるたびに、いちいちびくびくしていたんだ。
新しい世界が、目の前、ぱっと、開けたような。
「……せんせ……?」
ナップは眼を真ん丸くして、俺のことを、見る。
何だか、心底びっくりしていて、怯えてしまったようにも見えて、俺は胸が詰まる。
「せんせい……」
俺は、ナップにそう呼ばれても、ただ、黙って、ナップの顔を見ていた。そんな俺の顔は、どういう風に映るんだろう。ちゃんと人間の顔をしているんだろうか、ナップがいつも見てる、俺の顔に少しでも似てるんだろうか。
だってさ、冷静に考えたら、アホだ。今の一瞬だけを切り取ってみたら。俺は自分の生徒である少年の頬っぺたにキスをしたんだ、って。ああ、ああ、ひどいな。
でも、やめとけばよかったなんて思わない。少しも後悔なんてしていない。俺はナップが好き。もう、どうしたって隠せないんだ。
ナップを思う。その眼を、その鼻を、唇を思う。そして、首、肩、胸、脇腹、おへそ、その下まで、俺はナップのほとんどを、見て知っている。そして、それらを余すところなく愛しいと思ってしまう、そういう心の構造に、いつの間にやらなっていた。そしてこれが到底一過性のものと思えないのだ。構造上の問題だから、そう簡単に解決するとも思えない。つまり俺は、楽になりたかった、とっとと幸せになりたかったんだ。
「……びっ……」
ナップは、頬を、少し赤くして、俯いた。
「びっくり、したあ……。い、いきなり何すんだよ」
俺は、息をひとつ飲み込んで、
「ナップだっていつも、いきなりするじゃないか。だから俺もいきなりしてみたんだけど?」
ナップはそうしていた自分のことを忘れて居たかのようにはっとして、
「で、っ、でも、……先生、今まで一度も、した、こと、なかったじゃんかよ……」
「うん。今まではいつもされてばかりでね。でも、したいと思ったんだよ。駄目だったかな?」
ナップはおそるおそる、顔を上げて俺を見た。その眼線が、空中に浮遊する何かを追うように留まらない。
「……なんで」
漸く、その視線は俺の視線の上に止まった。
「ん?」
「なんで……、急に、そんな、する気になったんだよ……」
「……正直に言ったほうがいいのかな」
「何だよっ、嘘なんかつくなよな」
「じゃあ、正直に言うよ。……ナップのことが大好きで、我慢できなくなったからだよ」
俺は、俺の手が意外と震えていないことに感心しながら、ナップの髪に触れた。
「ナップが俺のこと、いつも好きって言ってくれるのが、凄く嬉しくってさ。俺もナップのこと大好きだから。でも、大人としてね、色いろ考えてみたら、やっぱり俺はこの気持ちを諦めた方が良いんじゃないかな、って思った。……ただ、思ったはいいけど、そう思ったからナップに対して抱くこの気持ちをどうにか出来るかっていったら、やっぱり無理でね……」
どういう風に君はこの俺の言葉を聞くんだろうね。言いながら、そればっかりが気になった。
「多分、どういう風にしたって、俺はナップのことが好きなんだろうと思う。色いろ問題があるのはよく判ってるんだけど、でも、だからってどうにか出来そうもないし……。ただ、俺がナップを幸せにしてあげられればそれが一番いいんだって事に気付いたんだ。頑張って、いつもナップが笑顔でいられるようにすればいいんだって、そう思ったんだよ。それには結構、努力も必要だろうけれど、俺はナップと一緒にいられるならいいかなって思ったんだ。
それで、……うん、まあ、そういう風に考えて、まず俺が一番最初にナップに……俺の、大切なひとに、してあげられることって何だろって、そう考えて出てきたのが、……今のだったんだ。……駄目だったかな」
ナップは、ぎゅっと俺のことを、見詰める。
俺は心臓が止まるまでに言い切らなければならないと、思った。絶対に俺は、死ぬ前にこれだけは伝えなきゃ駄目だって。もちろん、今日明日には死なないつもりでいるけれど、人間の身体だから、何が起こるか判らないから。
今を逃したら言えないかもしれないじゃないか、誰にも保証は出来ないじゃないか。だから俺は、焦りすら感じながらも、どうにか急く気持ちの手綱を引いて、言った。
「君が好きだよ」
鼻血を噴きそうなくらいの興奮と、全てを損得で捉えられる理性とが、丁度半々になって、俺は今多分、知力体力共に誰にも負けない。そんな勇気を全て、この一言に傾ける。
「俺は……ナップ、君が好きだよ」
ナップはじっと黙って、俺のことを見詰めているばかり。
「ナップ」
「……ん、うん……」
俺は、ナップの髪を、さらさら、さらさら、撫でている。ずっとずっと撫でていたいと思う。時間の許す限りは、本当、ずっと。手のひらにナップの髪をサラサラ感じるだけで、うんと幸せに近づけたような気がする。
「……ナップは、俺のこと、好きで居てくれる?」
「え?」
「俺のことを、恋人だと思ってくれるかい?」
「……先生を、恋人……?」
「うん。……俺は、もう、君のことをただの生徒じゃない、特別な存在、俺の、たった一人の恋人だと、思うようにするから。もう、細かいことにこだわったりはしないよ」
どんなに小さく、ぎこちなくであろうと。
俺には関係は無かった、たったひとつほんの微かに、ナップが頷いてくれた、ただそれだけで、俺は幸せが更に倍、倍、倍、俺の体では抱えきれなくて、ほとんど潰されるほどの、でも、俺は笑ってる。
ナップのことを、ベッドの上、膝に乗せて、後から抱き締めて、明日ナップが教える単元の予習をする。お風呂上りの体からはおそろいの石鹸の匂いなんて、ありがちな恋人同士みたいなことをしてしまいながら、俺は、満ち足りた気分でナップの教え方に間違いが無いかどうか一応確認する。
俺がこんなに自然にこういうことをしているのに、ナップが逆に恥ずかしそうだ。
手を繋いだままベッドに入って、その理由を尋ねたら、
「だって……、今まで先生、ぜんぜん、してくんなかったし……」
「うん、ごめんね。これからはするよ、一生懸命するよ。大好きだよ」
昨日までの夜とは、まるで逆、「せんせえだいすき!」って纏わり付いて甘えていたのは、誰だったっけ? 今日は急に大人みたいだね、向こう向きで寝ようとするのを、俺はそのお腹に手を回して、抱き寄せた。
「は、離せよっ、暑苦しいだろ!」
「まだ夏には遠いよ。……ね、ナップ、大好きだよ」
ナップはそう言われたがっていたくせに、いざ言ってあげると、なかなか微妙な態度を崩さない。
ひょっとしたら俺のこと好きでも何でもなかったりして。
だとしても、俺はもう恐れない。俺は単純にナップが好き。俺が好きという気持ちが、まず重要なんだ。そして、大丈夫、多分ナップも俺のこと、好きだし。
「……言ってくれないの?」
「……そんなの……、知らない」
「そう? じゃあいいや。……おやすみナップ……大好きだからね」
大好き大好き大好きッ……言えば言うほど好きになる呪文のようだ。
そして、なかなか、幸せな興奮で眠れないまま暗闇で目を開けていたら、ナップがひとりごとを言った、すなわち、
「……大好きだよ……」
危うく、狸寝入りがばれそうになって、俺は「うぅん」なんて言いながら、もぞもぞ動いて見せた。