電源の入れ方入り方

 俺は一応「先生」である訳だけど、自分は「先生」である以上に「人間」でありすぎるということに関してはすでに書いたとおり。「先生」と「人間」の関係を一言で表すのは難しい。「人間」でなければ「先生」にはなれない、少なくとも一般的には、人間の生徒相手に教えるためには、先生も人間でなければならない。「人間」の定義が、人間の言葉を操り、人間と一定水準以上の相互理解を得られる生き物であるとするならば、そう言うことになる。

 しかし「人間」と「先生」の関係は相互矛盾的位置関係とも言える。そこが問題なのだ。「先生」であるためには、「人間」を多少なりとも放棄する必要があると言えるのだ。また、「人間」であるためには「先生」の放棄が求められる。ここで言う「人間」の意味は、「個人」へと転じてくる。教職に滅私奉公出来るのが「先生」の理想だろう。だがその滅私奉公の度合いというのは非常にセンシティブなものであって、つまりどこまで自分を抑えることが出来るか。教育という神聖な場において自分の「個人」の必要となる機会も必ず来るわけだが、そうではないときに、どこまでストイックに教育という行為に没頭できるかということが、やはり求められるのである。当然幾つものタブーが「人間」には強いられることとなる。教師と生徒は共に人間でありながら、そこに余りにも人間的な関係と言うのは好もしくない訳だ。人間的な関係と言うのはたくさんあるだろうが、例えば親子が前提の関係を強制的に教師と生徒と置換することは非常に難儀だ。前提が余りにも人間的な関係であるがゆえ、それを無視して教師と生徒の関係へ転換することはほぼ無理に等しい。無論、ここでは判りやすく言うために「教師」と「人間」を対立項として置き、まるで教師が非人間的みたいな言い方をしているが、そんなことはないということを確認しておくが。教師ほど人間が要求される職業もきっとあるまい。

 ともあれ、教師と生徒の関係に、人間的な関係を持ち込んでしまうのは、タブー視されている。タブー視されていると同時に、好ましい形ではないこと、よく判っている。だから、生徒に対して特別な感情を抱くのは誤りである。誤りでないにしても、やはりそこにさまざまな問題の介在する事は、否定しがたい。その関係は、例えば小説になったりもするように、ドラマチックではある、しかし、理想化された物語は理想かされているがゆえに多数の問題を問題として捉えることを忘却した結果のものであることを俺たちは知っている。教師が生徒に、あるいは生徒が教師に、恋をしたりしちゃいけないんだ……。

 別に、俺が恋をしているという話ではなくて。……誰に対して? ナップに? いや。

 そういうつもりは、まだ、ほとんど、ほんのちょっとだけしか、ないんだけどな。

 ともあれ、そういう点において、やっぱり俺は「先生」である以上に「人間」過ぎるのだ。揺らいではいけないようなところで揺らいでいることを自覚するにつけ、本当にそう思わずにはおれない。俺って駄目なやつ、いけないやつ、そういう風に悩むところから脱却できない。なぜかと問われれば、悩んでいる限り、俺は先生ではなくて、まだ人間のままで、ナップの側に「立場上」いることが出来るから。

 

 

 

 

 もちろん俺が常にナップのことを意識して教えているかといえばそうではない、そうはない時の方が多い。授業のとき、俺は俺の教えられることを一つひとつ、ナップに渡していくことに専念している。ちょっと見たら普通の教師と生徒。だけど油断してはならない、そうだよなレックス、お前はナップが俺の顔をじいっと見詰めて、それからスケッチブックに目を戻して、「うーん……」、眉間に皺を一本寄せて、描いた線を消して……。一瞬一瞬の表情の変化を少しも漏らさないようにその手のひらで汲み取ろうとしているんだから。

 可愛いなあ。

 と思いながら。

 実際問題、これは教師も人間も関係なかろうと俺は思う。何かを見て抱く感情の種類は肩書きなんて関係なく、浮かんでは染み付くもの。ナップを絶対的に可愛いと思うことは俺の勝手であり、そこには教師という肩書きも介入できない。

「うー……、出来た、けど……、これでいいのかなあ」

 おずおず、と差し出された、俺の絵。

 上手い絵じゃない、それはまあ、仕方がない。俺が求めていたのは絵の達者さではないので。もっと他のもの、他の部分を見たくて。

 でも俺は更に他の部分、……ナップが一生懸命に俺を描こうとした結果の、紙のあちこちに薄く残る鉛筆の走った後に、多分この授業には全く意味のない物を見て、まあ、早い話が、あっさりと感動をしてしまったわけだ。

「上手く描けたね」

 俺はその絵だけでお手軽に昇天できるような気がした。

 熱が出そうにもなる。

 そんな体質でもないのに不整脈。

 その他もろもろの心身的ダメージを受ける。

 嬉しいんだ。

「先生?」

「うん……、本当に上手く描けてる。偉いよ」

 心が躓く、あっちこっちで転んで、気付いてはっと見たらそこにはナップの髪の毛がある。可愛い、可愛い、可愛い、俺の決して広いと自分では思っていない心が一杯になる、手のひらにその感触が欲しい、知っているさ、さらさらなんだ、なぜって……俺が洗ったから。昨日の晩も俺が洗ったから。先生洗うの上手だと、甘味を帯びた表情で言ったことまで思い出す。

「じゃあ、今日の授業はここまで」

 俺の心は簡単に色を変え、簡単に形を変え、不定形生物となってナップの鍵穴にはまるためにはどういう形がいいのかを無意識のうちに試行錯誤する。俺はこう言うときの俺の見っとも無い姿を自分でよくわかっており、とりあえず自分の孕んでいる危険性も認識しているから、ナップと離れるために立ち上がる。

「もう?」

 確かにいつもより十分くらい早い。きょとんと見上げるナップに微笑んで、……そして止まらない俺の手は、ナップの髪を、予想通りにさらさらの髪を、ふわりと撫でて、

「ちょっと出かけてくるよ」

 と踵を返す。

 こういう自分の姿の、第三者から見たときたまらなく見っとも無いことは、よく理解しているつもりだ。だから、俺は少なくともナップには、これ以上晒してたくなかったんだ。

 

 

 

 

 しかし二十代も半ばになって、あんな小さな子供に心を左右されるようで本当に俺って大丈夫なんだろうかと不安にもなる。……駄目だなあって思う。

 その微笑が!

 ……俺に片手で龍を殺さすだけの力を与えてしまうんだ。その代わり俺は蛇の首をぎゅうと握り締めた。実際、龍だって俺は片手で。ナップ、ナップ、ナップ、可愛い……ああもう! 可愛いなあナップは……!!

 馬鹿みたいだ。……馬鹿みたい。馬鹿みたい。スイッチが切れて、途端に俺は自分の手の穢れていることを自覚する。俺は教師なのだ、教師なのに、教師なのにどうしてこんな。心臓がドキドキ言って、苦しくてたまらなくなる。誰かに許して欲しくなる、誰かって、一人しか居ない、ナップに、俺の穢れていることを許して欲しくなる。

 俺はよろよろと立ち上がり、下草を踏んで船へと戻る。途中、悪行せんと、俺はぐるりはぐれ召喚獣に囲まれたような気がしたけれど、そして知らない間に抜剣していたような気がするけれど、覚えていない。てこてこ歩いて、気がついたら夕暮れに燃える海をバックに、船へ戻ってきていた。その景色が、涙が出そうになるくらい綺麗で、対照的な自分の汚らわしさに、俺は胸がほんとに痛んだ。

「センセ……? ちょっと、どうしたのよ、そんな汚れて」

 鍋を持ったスカーレルが俺を見つけた。俺は曖昧に微笑んで、

「うん、ちょっと……。大丈夫だよ」

「大丈夫って……、一人でどこ行ってたのよ、ほんとにもう、泥だらけじゃない、手だって怪我してるし」

「ああ……、うん、これも平気」

「平気、じゃないわよ全くもう。……ちょっとヤード、ヤードってば、アンタ、治してあげなさいよ」

「あああ、いいよいいよ、ほんとに、ちょっとあっちの叢で躓いて転んだだけなんだから」

 こんな俺に気を使わないでいてください。

「ほんとに、いいよ、大丈夫だから、却って悪いよ。それにピコリットなら俺も呼べるから。お風呂に入る前にでも。ね?」

「……ほんとに大丈夫?」

「うん。ありがとうスカーレル」

 逃げるように、俺は部屋に戻った。部屋に戻って、ああ、たしかにすりむいて血の滲んでいる手の甲をじっと見る。膿んでしまえばいいなんて、無意味なことを考えてみたけど、気分は鬱のまま変わらなかった。

「……せんせえ?」

 こんこんこんこんこんと、あまり常識とかを勘案しないノックがする。ナップだ。今は正直、会いたくないなと思った。だけど、拒絶するほどの勇気も決意も持ち合わせていない俺は、すんなりと扉を開けてしまった。

「どうしたの?」

 ナップは心配そうな顔で覗き込む。

「いや……、先生が怪我して帰ってきたって聞いたから……」

「怪我……、ああ、いや、別に怪我って程の怪我じゃないんだ、転んだだけだからさ。心配しなくてもいいよ」

「……そうなのか?」

「そうだよ」

「……ふーん」

 疑るような目をしていたが、やがて納得したように、ポケットの中から、

「はいこれ」

 取り出す、Fエイド。

「これ?」

「使ってよ。オレの、余ってたから」

「余って……って、いいよ、これくらい、自分で治せるよ。これはナップが必要なときに使えばいい」

「でも、はい、あげる」

「はい、って……」

「オレがあげたいからあげるの。ダメ?」

「……ダメってことは、ない、けど……」

「じゃあいいじゃん、先生にこれあげるよ。そのかわり、オレに必要になったらオレのこと治してよ。ね? それでおあいこでいいでしょ?」

 純真無垢天真爛漫、少年は片手で……。

 俺の鎮まっていたスイッチは、またパチンと入ってしまう。だけどもう出かけられない、もうすぐ晩ご飯、それにまた無意識のうちに抜剣なんてしては。とあっては、もう我慢するほか無い。

「そうか……、うん、ありがとうナップ、いい子だね」

 俺のこの繕われた微笑。時折俺は、何のために微笑むのかその理由を見失う。

 

 

 

 

 こう言った事情から明らかな通り、俺は「先生」と呼ばれてはいるけれど、その実「先生」というものには全く相応しくない、(寧ろ、という意味で)人間であることが判る。もちろん、人間であることが間違いであるのではない。先生であるべきは、単純にナップや、或いは子供たちの前でだけでOKなんだ。

 だけど、それが一番難しい。ナップの前でこそ俺は一人の人間でいたい、ただの男で在りたい。まだ感情の形や名前を含む正体すらも判らないままで、しかし盲目的にナップを求めるこの心身を抱えている以上、俺ほどナップの先生に不向きな男はいるまい。

 しかし、

「せんせえ、お風呂入ろ!」

 そう、その「せんせえ」は、ナップに呼ばれるからこそこんなに胸が躍る。

 こんな俺は、……間違ってるよな、やっぱり……。


back