誰もがサスペンスを嫌う

 ダメならダメで良いし、良いなら良いと、はっきり言って欲しいものだが、それは俺のエゴに過ぎないから、口には出さない、風の吹く心の中で思うに留める。

「ナップ……」

 四度目も、返答は無かった。俺は溜め息を吐くが、その溜め息は嘘のものだということを本人で判っているので、別に苦しくも痛くも切なくもない、ただ一回の呼吸を、ことさら大げさにして見せただけで、誰に対して見せたかったのかといえば、今くうくうと眠っているこの子に対して。先生が溜め息をついちゃってるぞということを、教えたかっただけだ。しかし、整理して考えてみると今の溜め息、……ということは相当にやらしい溜め息だと思った。

 太股に適度な重さは、非常に気持ち良いもので、安心しきった顔を上から見下ろすというのは、支配欲の充足にも繋がって、気分は良い。

 しかし、俺は一個の人間というよりは、今、教師として何をすべきなのか判っているつもりだった。そうだよ。俺は先生なんだ、ナップの家庭教師なんだ、から。

「ナップ、起きて。続きやろうよ」

 俺の声は蚊の鳴くようなもので、要するに俺はナップに、ちっとも起きて欲しいなんて思っていない訳だ。このまま、愛らしい寝顔を独り占めしていたい訳だ。レックスという男はちっとも精神的に大人じゃないって訳だ。いいさ、判ってるもん。

 でも、こうしてナップを見下ろしているだけの状況というのは、決して、周りが思う程に幸福な状況ではない。「ナップをひざまくら」、この甘美な九文字を、それだけで幸福と感じられるほど、俺は出来た人間ではない。もっとずっともっとずっと欲深い。「ナップをひざまくら」は確かに幸せだが、俺としてはいざその幸せが叶ってしまうと、「ナップをひざまくらしてかみのけなでなで」とか「ナップをひざまくらしてかみのけなでなでして(以下延々)」という幸せを望んでしまう。っていうか、これは判ってもらえるだろうと思う、人間っていうのは幸いを相対評価する。自分の現状と周囲の状況を相対化して考えるから、自分にはプラスマイナスゼロのことであっても、それによって周囲が苦痛に苛まれたりすると、「ああ、自分でなくて良かった」とそれだけで幸福になってしまうのだ。しかし、現状に慣れてしまえば、現状だけで満足など到底出来なくなってしまう。今の俺のように。具体的に何がしたいのかと言うことは、まだまだ縋りつくつもりの「教師という立場」上、不都合が生じるように思うので伏せておくが、ともあれ、俺は今、幸福から徐々に不幸へと転がりつつある。そして不幸にずっぽりとはまったときには「ひざまくらなんてするんじゃなかったよ」と後悔するのだ。

 そもそも、なんでひざまくら?

「ふ、あ、ああああ」

「……」

「あー……あ、ごめんなさい」

「……ナップ、眠いの?」

「んー、眠いっていうか……、ん、平気だよ、平気、……ん、あああ」

「……眠いなら、十分間だけでも眠って気分を変えたほうが効率がいいよ?」

「そうなの? うーん……じゃあ、そうしよっかな」

 さて。

この部屋には君専用のベッドがあるじゃないか、ナップ君。

 然るに、なぜ君はわざわざ僕をベッドに座らせて、僕を枕に眠るのか。

 それって「良いよ」ってこと? 何が「良い」のかはあえて問うまい、そういうことなのか? ナップ……。

 ナップがいい夢を見ているであろう事はその寝顔から十分に想像できた。俺の膝が、彼の頭には合っているらしいということが判って、なんだかとっても嬉しくなる。と同時に、寂しくなる。

 揺り起こして、リセットしてしまうのがきっと一番の解決法だ。そうしたら、幸せか不幸せか、何が良いのか悪いのか、そういうことを考える必要は全くなくなって、そうだ、そもそも俺たちは、勉強をしていたんだ。本題に戻るのが本当のところだろうレックス。違うか?

 だが、人間として(うう、人間として、なんて言っちゃったよ……)優しい眠りについている子供を揺り起こすことに微塵の罪もなかろうか。

「ナップ」

 もう、声を出さずに唇だけで名を呼んでいる。無意味だ。俺にはナップを起こせない。身動き一つ取れない。このまま石になって死ぬかもしれない。

 宙ぶらりん、俺の状況は宙ぶらりん。すべてにおいて中途半端な状況だと言えるだろう。起こすか否か。そして、どうするかどうもしないか。きっと誰もがこう言う状況を嫌う。しかし、俺の今抱いている種類の感情を、ひとたび抱いてしまうと、人間はどうしたってこう言う状況と、それこそ一日に何度だって直面せざるをえなくなってしまう。そういう状況は、どう考えても億劫だ、出来る限りご免被りたいものだ。しかし、この気持ちを、暴走した形ではなく、ちゃんと育てた形で表現したいと人間が思ったなら、こういう滑稽な状況は、我慢しなくてはいけないもの。

 あてもなくいま。

「ナップ」

 もう一度、唇で名を呼ぶ。ナップがノーリアクションであることに、安堵感すら覚えている。俺は本当に駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ。しかし、コレくらい駄目なほうが、この感情はゆっくりと、しかしスムーズに、大きく、育つような気がする。何となく、変に優等生ではないほうがいいように思う。不器用なほうが時間はかかるけど、大きく育つことができるような、そんな気がする。そんな気がするのは、要するに俺がどうしたって不器用だからで、本当は器用だったらいいのにと思っているからに他ならないのだが。

「んん……」

 ナップが少しうめいて、顔の向きを変えるだけで心臓をドキドキ言わせている。

 起こすなら、一瞬でも眠りの浅くなった今が千載一遇のチャンスのはずなのだ。それは重々承知している、承知している、承知している。

 しかし俺は息を殺し、その時が過ぎ去るのを、今までで一番心臓をどきどき言わせながら、待った。

 その瞼の開かぬことを。

 甘やかな眠りへ再び落ちんことを。

 こんな少年みたいな我儘もいいだろう。エゴもまた許されるだろう。そうだ、そうだ、俺は教師じゃない、先生じゃない。一人の人間だ。恋したときには一人の人間は教師だろうが聖人君主だろうが、同じ行動をとるに決まっている。その行動を「奇行」呼ばわりされようとも、へっちゃらだ。だから俺は、心の中で、いままたナップの表情が和んだのを見て、悦んでいる。

 可愛いんだ。

 それだけは否定できない、否定できないからって何度も言う理由にはならないだろうけど、でも、本当に。

 ナップが可愛いんだ。

 見てるだけで気が和む。

 ナップ。

 俺は、もう言葉には出さなかった。僅かでも、この子の安眠の妨げになるようなことはしないでおこうと思った。だから心の中で、そっと呼んだ。いい夢を見てね、ナップ。

「ん……」

 しかし、俺の思いとは裏腹に、ナップの眉間には一つ皺が寄った。

「う、うーん……」

 え? え? え? どうして?

 あんなに気持ちよさそうに寝てたのに、いいよ、いいよ寝てていいよナップ、起きなくっていいってば……!

「せんせえ……、んー……、きもちよかったあ……」

 大げさな言い方はしない。軽めの言い方で留めておく。そうでないと誤解を招く。軽く言おう、軽く言えば、言った俺も「軽いことさ」と受け止められるだろうから。うん、絶望だね。

 ナップは目を擦って起き上がり、ベッドから下りる。

「すっきりした! ごめん、ありがと」

 俺は唖然としたまま、馬鹿みたいに、相変わらずナップを起こさない為の慎重な姿勢を崩さないで、ナップの、ほんとに「すっきりした」顔を目を、嘘みたいに見つめている。

 宙ぶらりんからの解放、そうだ、最初からこうすればよかったんだ。そう、起こして、勉強を再開して。するべきはひざまくらなんかじゃないだろうレックス、そうだろうレックス。

 でも、だけど、その、なあ。

「……きょ」

 俺は震える唇で、

「今日は、このくらいにしよう、ね、うん、ちょっと、難しいとこやっちゃったし、うん、ね、そうしよう、ね」

 言って、震える膝で、立ち上がって、ナップのほうを見ることが出来ない。ナップの顔を見ないで、でもせめてと、ナップの髪をなでて、与えられた軟らかな感触が全身を駆け巡る。俺は殆どもう、逃げるようにして部屋を出た。

 結論が出てみて、それはそれで、やっぱり見られたもんじゃない。