「だけどさオレ、先生のこと大好きだし、それで駄目なことなんてないと思うんだけどなあ」
オブラートを八枚くらい重ねて薬を飲んだことがあるだろうか。オブラートって言うのはあれで意外なほど堅いもので、喉がつかえて死にかけた。真似はしないように。しかし一枚だとどうしても薄くって心許ない、大体、オブラートって、薬包んで飲む前に軽くコップの水に浸さないかな? 俺だけじゃない、よな。その時に、もうてろてろになって、舌の上乗せたらもう、じわあって苦い薬の味がさ、して、もう、うえってなっちゃうんだよ。だから俺、薬は全般的に嫌いだけども、粉薬が特に苦手。錠剤や糖衣錠なら、全然平気なのだけど。粉薬でも、顆粒のタイプなら、上手いこと飲み込める。でも、乳鉢でぎりぎりまで細かくした、クシャミしただけで飛んでしまうような散のタイプが、どうしても駄目なんだ。って、俺の薬の嗜好について話してどうする。
要するに、俺は包みすぎていた。「それは……」
苦い薬を飲んだばかりの舌はびりびり痺れて、とにかく甘い水が欲しくなる。目に涙が浮かんで、苦しくて苦しくて、俺は病気になって覚える苦しみよりも、薬の苦味の方が怖いから、病気にはならないように気を付けているんだ。
シロップなら飲みやすくていい。
「……どういうこと?」
「だからあ、よくわかんないけどさ、オレ馬鹿だから。でもさ、いいんじゃないのかなって、そんなん、決まってんのかよって思うんだよ、自由なんじゃないかって。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、それじゃあ駄目なのか? そりゃ、食べ物だったら駄目だろ? オレ嫌いだけどセロリ食えるようになったし。でも、そういうのとは違うんだろ? 食べ物食べられなかったら身体おかしいようになっちまうけど、そんなの心じゃん、嫌いなもの好きになったり好きなもの嫌いになったりなんて、ルールでどうこう出来るもんじゃないだろ、それに、ルールあったって守れるかよ」
本気で「五分でなれる」はずと思ってなってしまった家庭教師の先生が専門外の保健体育を教える訳で――しかも大好きな同性の生徒相手に教える訳で――スムーズに行ったとしたらそれは奇跡というか怪現象。理科の教科書を取り出して、おしべとめしべの仕組みを教えて、それを人間に置き換えて……、うん、この辺から俺の顔は真っ赤だっただろう、即ち、即ち、男性の男性の象徴、象徴っていうか、まあ、男性の証っていうか、平べったい言い方はしたくないので一応ぼかしておくけど「あれ」から出て来た精液の中にたっくさんうようようごめいている精子が、女性の、……うーんと、めしべ、いや、うん、「それ」の中にある卵子の子宮の精子の受精の受精卵のあれがなにして子供が出来るんだよナップそういうことなんだよナップって。だから君にもお父さんとお母さんがいたよね? みんなそうなんだ、お父さんとお母さんの間に子供って言うのは生まれてくるもので、だから、君も向こうに無事戻ったら可愛いガールフレンド見つけないとね。
そう言って俺は全てを無に帰して、正しい道に戻ろうとしたんだよ、本当だよ。
「ガールフレンド、オレ別にいらないな」
ナップはそう言った。
「恋人、いらないのかい? まあ、まだ早いかもしれないけど」
「そうじゃないよ。……そりゃ、女友だちなら欲しいさ。でもそれって、マルルゥもソノラも、クノンやアルディラだって、言いようによっちゃそうなるだろ、成り行きで向こう戻ったら多分また、出来るだろうってのは判るけど、でも……、ガールフレンドって、ただの女友だちって意味とは違うんだろ?」
ナップは不満そうに足をぱたんぱたんゆわせて、そう言って、俺をじろりと見た。
そして、溜め息を一つ挿んで、冒頭の科白へと戻るわけである。
「オレは先生のこと好きだよ」
自分で頭が悪い勉強が嫌いと言いながら、その言葉を操る力に関しては太鼓判を押そう。
どうしたらそんなパワーで言葉を発することが出来るのだ。
俺はその言葉の閃光を真っ向から受けて、……ガード不能、後には真っ黒い影と真っ白い灰だけが残るのならば潔くていい、中途半端に俺は生き残っている。
「俺も……、ナップのことは勿論大好きさ」
そう言うしか、無かったろう。俺はこの罪無き男の子に、袋小路へと着実に追い込まれていっているようだ。気づきながら、そこしか照らし出されていない道を足先の感覚だけを頼りに歩くほかない、この心細さ。俺も潔くは決してないな、ナップが欲しいなら口八丁で丸め込め。そうでないなら教師としての職掌を全うせよ。どっちも選べないで、俺の責任ではなくナップに導かれる形で幸せになりたいなんて、とんだ卑怯者。
「だったら、いいじゃんそれで。オレはそれがいいな」
あっさりと、さわやかに、ナップはそう言い放って、椅子から立ち上がった。
「もう、終りでいいだろ? 眠くなったからもう寝るよ。先生、おやすみ」
取り残された俺は死体のように椅子に座ってナップの閉じた扉を見ながらじいっとじいっといつまで経っても動き出せないで、呆然と、拍子抜けするほどあっさり為された一往復の告白を反芻していた。
オレは先生のこと好きだよ、俺もナップのことは勿論大好きさ。
違うよな、違う、意味が全然違う、整理しないと混乱してしまいそうだけど、要するにナップはまだ何にも判っちゃいないんだよ、俺たちがそういう関係になってはいけないという以前の問題として、まだあの子の中には恋の芽どころか種だって植わっていない。だからあんなこと平気で言えるのさ、そうだ、そうに決まっているさ。
今はたまたま、俺しかいないだけなんだよ。あと五年もしたら、あの子可愛いし、きっとカッコよくもなるだろうし、たくさんの女の子に好かれるようになるだろう。俺のこと好きなんて言ってちゃ駄目だよ、だってさ。
「な、ナップ君っ、あの、これ……受け取ってくださいっ」
「……ああ? なにこれ、ラブレター? いらねえよ、だってオレ、レックス先生が好きだから」
駄目だ駄目だ駄目、駄目だって、そんなの絶対ダメダメ!
「ナップ!」
部屋のベッドの上でアールの頭を拭いていたナップは、ノックもナシで入って来た俺をビックリと見た。
「な、なんだよ……」
止めなくては駄目だ。それは、理屈だ。
「恋愛はやっぱり、女の子としなくちゃ駄目なんだよ!」
既にそれが出来ていない俺が言っても全く説得力が無いと判りながら、言わずにはおれなかった。それは俺の中に、ナップが好きだと言うこと、みんなに正直に言うことが出来ない惨めな気持ちがどうしてもあるってことを、判っているから。
罪ではないだろう、にしたって、それを抱えることはどうしても苦しみになる。
「男の人と女の人が恋をして結婚して、初めて俺たちは生まれてきたんだ、だから、俺たちもそれに倣って、女の人のことを好きにならなきゃ駄目なんだよ」
ナップに磨いてもらって、ぴかぴかになったアールが、じいっと俺を見て、それからナップを見て、俺たちを見比べて「ピ?」、語尾を上げた。
人間って馬鹿みたいだろう……。だけどね俺は、こういう風に悩んでられるから人間捨てたもんじゃないんだって思うよ。
間違えそうになって、でも悩んで、ぎりぎりでも軌道修正できたならそれは。
ああ、うん、だから、ナップを俺は正しい道に連れ戻すんだ。
「イヤだね」
ナップは、久々に反抗的な態度で俺に臨んだ、フン、と笑って、ベッドに大の字になる。
「オレはそんなの知るもんか、そんなの、誰かも知らないような連中が決めたことさ。オレはオレのやりたいように生きるんだ、誰かに決められたりなんかするもんか」
「ナップ……」
「いいかい先生、誰がオレの心の中身を見れるって言うのさ。先生だってわかんないだろ? それなのに、ああしろこうしろ、ルールに従えってさ、オレがまるでルール守ってないみたいじゃん」
「でも、……いいかい、恋愛って言うのは男性と女性即ち異性間で行なわれることであって」
「んなこたあわかってんだよ、バカにすんない。そうじゃなくってさ。いくらだって変えられるんだろってこと、それだって。例えばスカーレルどうなんだよ、あいつ、男だろ、男だけど男好きだろ、あれはいけないのか? 間違ってるのか? だったら先生はスカーレルに『おまえ間違ってる』って言えるのかよ」
「それは、……言えないけど」
運の悪いことだ、こんな近くに同性愛者が一人おわす。ああ、彼を見ていたら、確かにそうなってくるわなあ……。俺には不幸なことだった、ナップにとっては尚更に。
「男が男好きになるのは別におかしいことじゃないだろ」
でも世間の人は君ほど賢くも無いんだよ、それを忘れてはいないかい?
「オレはルール守ってるよ、間違ってなんかないよ。守んなきゃいけないのはさ、そんな、男がどうのって話じゃないと思うんだ、どんだけ相手のこと想うかとか、愛せるかとかじゃないのかな。子供作るってのは二の次じゃないのかな。そりゃ、赤んぼは可愛いし、赤んぼ抱っこしてるおかーさんとかすごい綺麗だ、でもさ、それ以前にあんだろ、誰かのこと好きになって、真剣にその人のこと考えてって、オレはそれさえ守れてたら誰に何言われたっていいよって思うよ」
俺の脳は戦慄いた。ううう、わ、あああ、あ、あ、あああ、視界が白く染まる、と思ったら血の赤か? それが交互にフラッシュして、ああ、おめでたい色だこと、違う違う、う、うえ。
吐きそうになった。眩暈がして、本当に俺は蹈鞴を踏んだ、
「お、おい、先生……、大丈夫かよ……」
壁に頭を持たせかけて、「うう」と俺は何とも言えない返答をした。
「……プピー……」
「す、座んなよ」
「いや、……、うん、大丈夫、もうよくなったよ。ちょっと、ふらっとしただけだからさ」
ナップは、しばらく心配そうに俺を見上げていたけれど、ぷいと顔を背けて、アールを抱いてベッドに座った。
「そんなにイヤかよ」
口を尖らせたような言い方をする。
「オレに好かれるのそんなイヤかよ」
「嬉しいさ」
「嘘つけ」
「ほんとだよ、本当に嬉しい、俺もナップのこと、大好きだから。……ただ……」
ナップはこっち、振り向いた。愛らしい顔だ。気の強そうな目元も、なだらかなラインの頬が険を消している。将来はきっと、いや、間違いなく、いい男になる。それは俺が保証する。今俺は、この将来性溢れ、今からもう既に可愛くて仕方の無い少年を、独り占めしたいという強い衝動に駆られた、そして、天井を見上げ、木目が俺を笑うのを見て、それにも少しも心が揺らがないでいられるだろうかと、しばらくじっと見上げていた。
「先生……?」
ただ、ね。
……ナップ、先生は君が大好きです、本当に本当に大好きです。
「……ただ……、俺に、本当に君を愛する覚悟を決められるかどうか、考えるだけの時間をください」
言葉の意味を推し量るように、俺の目を覗く。無駄だよ、言ったことだけが全てだから。
俺はナップにやっとのことで微笑んで、部屋を出た。その瞬間から、一人で部屋のベッドに入ってからも、俺はずっとひとつのことを考えつづける。
これはどうしようもないことなのかもしれない。俺ごときが考えたところで解決したりするもんでもないだろうけれど。……ただ、どうしても、考えなくてはいけないと俺は自分を急かした。
数学の答みたいに一つだけが出るものでもないだろうけど。だったらどんなに楽だろう。
俺はナップを、どうしたらいいんだろう。愛している、愛しているけれど、それはまだ、生徒を愛する教師の気持ちの範疇を越えてはいない、はずだ。一線を越えて、人間として、いや、男として、俺はナップという男を愛することが出来るだろうか……、出来るといえば出来るし、出来ないといえば、出来ない。では何故出来ない? まず、それは同性愛である。ナップはあと五年もすれば許されるような年齢になるのだし、すぐにそう言うことをするかって言われても違うと答えられるから、相手が少年であることはひとまず置いて、ナップは男の子である、同性愛者は、どうしたって色眼鏡で見られることを覚悟しなければならないものだろう、スカーレルを見るとき、今でこそ意識はしなくなったが、……最初の数日間、やはり何らかの思いを俺たちは抱いてはいなかったか。周囲からの視線は、優しいものばかりとは限らない。そう、軍学校でも確かにあったよ、同性愛者っていたよ、そういう奴、……俺はそういう風に認識していた、「何だろうあの人、こっちジロジロ見て、気持ち悪いな」……、素直さから本当に俺はそう思っていた。そして、これからは俺がそう言う風に見られる立場に廻ることになる。
そしてもっと重要なのは、ナップというまだこれからいくらだって可能性のある少年の未来を、俺なんかが奪ってしまっていいのかということ、これが一番引っかかるのだ。五年後、まだ決まった人がいなくても、十年後、二十年後、五十年後には判らない、その時になって、もっとずっと素敵な女性、うん、女性と出会うかもしれないその可能性を、俺なんかが全部摘み取って自分のものとして食べてしまうのは、余りにも可哀想といえるのではなかろうか。
大好きだよ、ああ、そうさ、大好きだ、俺はナップのことが大好きだよ、抱き締めたい、キスをしたい、その先はまだいい、けど、本当はしたい、セックスをしたい、あんないたいけな少年をそういう目で見ている自分がオゾマシイ、だから今は伏せておこう、しかし健やかなる時も病める時も俺はナップを愛したい!
しかし、俺は全てを敵に回してまでナップを愛せるだろうか。みんなに叱られて、いや、叱られているうちが華だろう、今に見放されて、心の冷える思いをして、それでも俺はナップの手だけ握り締めて、ナップを幸せにしてあげられるんだろうか。
既に心の冷たいような気持ちになって、俺はただ、ナップを俺の太陽として崇め、その暖を、現時点でもう、求めている自分に気が付いた。