Deep forest in his mind

 巳槌なり円駆なりが、人間の心の中に潜るとき、彼らが意識の裡で「見」る「光景」は可視化しやすい。例えばそれは、部屋の形をしている。広さや形は差はあれど、その部屋の中に例えば引きだしや本棚のような形で思考や記憶や知識が散らばっていて、手近なところにあるのが「思考」であり、少し奥まで進むと「知識」が眠り、更にその向こう側の薄暗い空間まで至ればそこに「記憶」がある。

 久之の場合、全体に何となく靄が掛かって見通しが効かない。ただそこにある「書物」の量は、巳槌と円駆の知る他のどの人間よりも膨大である。部屋にかかる靄、視界の良し悪しは、概ね年齢と比例するらしいということを巳槌と円駆は知って久しく、子供はあっけらかんと最奥まで見通せるし、書物の量も限定的だ。逆に子供の心でありながら妙にかすんでいたりすれば、それは何らかの問題がその子供の心に生じていることを意味する。逆に、老人になればなるほど霞んだ心の部屋の主は増え、知識や記憶の幾割かは何処に何があるのかまるで見当もつかないような塩梅になっていることさえある。身体が年を経るにつれて、心も老いるものなのだと巳槌は解釈している。果たして自分の心の中など、一体どのようになっているのか。自分自身の心が一番判らないし、神同士であっても覗き合うことは出来ないから、全く不可解だ。ともあれ久之が、人間の身体としての年齢から考えれば妙に視界が効かず、その一方で不相応な量の「書物」を抱えていることは確かである。もっとも、……例えば「議会制民主主義」という書物に円駆が手を伸ばしたとして、まずその本を正しく読むために他の本棚を探って何十冊と参考資料を用意した上、何日も掛けて読む羽目になる。だから一々それへの知識を深めていく必要はないと思っている。久之が知っていればいいのである。

 もうほとんど手探りで辿って行った先、久之の記憶の書棚がある。そこは古くなればなるほどぎちぎちに詰まっていて、容易に取り出して読むことは出来ない。ここ十年未満の出来事、……彼が山に這入り、巳槌や円駆と、そして空戦と出遭ったことなどは敢えて巳槌たちも読もうとする必要はないことばかりであるが、そこから数年遡った過去の記録を、大いに骨折りながら読んだことが、巳槌も円駆もあるのだった。

「久之はどうしてこの山に這入ろうなんて思ったんだろう?」

 心を読む術を持たない空戦がその日、言った。三人の久之の「恋神」は空戦がその問いを口にする半時間ほど前から山の日陰の余白で思い思いの格好で日向ぼっこをしているところで、巳槌は梢に白蛇の姿で横たわり、円駆は人間の姿で広げた浴衣の上に横臥し、空戦はぼんやりとあぐらをかいているのであった。梅雨のあいまの、久しぶりによく晴れた日の午後であった。

 空戦の言葉に巳槌が言葉を返そうとするより先に、

「お前それ久之に直接訊いたんじゃねえだろうな」

 円駆が鋭く訊き返した。一拍遅れて巳槌も同じことを訊こうとしたところだった。

「訊いていないよ。僕だって馬鹿じゃない」

 空戦の言葉の途中から、巳槌は幹を伝って地面に降り、這って二人のいる側まで辿り着いた。「人間が人間の群れから離れてわざわざ彼らにとっては暮らしづらいはずのところで生きようって思ったんだもの、何か特別な事情があったに違いないって判るからね」

 確かに空戦は馬鹿ではない。冷静であり、聡明である。だが年かさの自覚で巳槌が一つ付け加えるとすれば、

「敢えてあいつがそれについて説明しないのならば、興味を持つ必要もなかろうよ」

 糸のように細い蛇の眼で巳槌は言った。「言っておくが、僕も直接あいつにその問いをぶつけたことはない。恐らく円駆もそうだろうよ。そして久之は僕らがそのことを知っていることを、恐らくは知っている。その上でなお、言及しない。僕らも問おうとは思わない。それで上手くやれている」

 巳槌は初めて久之の記憶を抉じ開けて読んだとき、この先何があろうとこの男から目を離すものかと決意したし、僕が側に居ることでこの男と人間が上手くやれるようになればいいと祈り続けている。一方で円駆は一度は眠らせたはずの人間性悪説をまたぞろ目覚めさせかけたようだ。

 いま、尾野辺や老人や子供たちからある種の敬意のようなものを寄せられるに至った久之であるが、それは彼が人間ではない生きものになろうとしているからである。それは久之が人間の社会にあって人間に容認されている訳ではないことに、もちろん久之は自覚的である。

「なるほどね、そういう考え方もあるか」

 空戦は納得したように頷いた。

「僕の眼には、久之は時折人間を憎悪しているように見える瞬間がある、……まだ開いてからそれほど時間の経っていない眼だけど」

 円駆がじろりと空戦を睨んで、それから巳槌の白い身体の一番端を見た。

「そうだな」

 巳槌はそのまま認める。久之が人間を恐れ、人間に怯える理由を見た以上は、それが憎悪に繋がる可能性があることは自明である。空戦も、

「だけど彼は、争い事が嫌いだ。争い事そのものを恐れていると言っていいし、恐れの感情は時として憎悪に繋がる」

 巳槌の思うところをそのままなぞるようなことを言った。「人間と、人間である久之との間に争いが起きたとき、久之はとても深く傷を負ったのだと思う」

「そこまで判ってんなら」

 空戦の言葉を遮って円駆が立ち上がる。「やめろ。それ以上は何も言うな。お前はあいつのことが好きなんだろうよ、あいつと同じ布団で寝て、同じ風呂に入って、同じ飯を食って、それで幸せなんだろうがよ。だったら」

 たぶん、この三人の中でいちばん優しい心根をしているのが円駆なのだ。

 人の姿に戻った巳槌は、腹の土を掌で払い、土の上に置いたままの六尺を締める。

「僕らにはない感覚を人間は持っている」

 空戦が巳槌を見上げた。「お前は眼が開かなくても空間の把握が出来る。しかし人間の持っているその感覚を理解することは出来まいよ。僕らにだって出来ないのだからな」

「……人間しか持たない、感覚?」

「『愚かしいことに』とそこのけだものは言うかもしれないが」

 けだもの呼ばわりに鋭い視線を投げた円駆を無視して、「例えば僕とお前たちでは違う生き物だな。僕は蛇で龍で、円駆は麒麟で、お前は蝙蝠だ。それぞれに同じところと違うところがある。こうして人間の身体になることは出来るけれど、本来は全く違う生き物であり、それが当然だと思っている」

「うん、それはそうだね」

「しかし人間は皆同じだろうか?」

「それは、違うんじゃないかな。久之みたいな人間は、あまりいないようだし」

「とは言え、人間は皆同じだ」

 空戦はきょとんとしていた。巳槌は座って、「蛇同士だってそうだ。黒い者、青い者、緑の者、僕のように白い者もいる。だが蛇は蛇で、持って生まれたその色の違いは大した問題ではない。……せいぜい性格の悪い鳥獣に狙われやすいか否かという差はあるだろうがな」

「……何を言っているのか判らないなあ」

「人間は進んで争いたがる生き物だということだよ」

 巳槌、と円駆が声を飛ばしたが、巳槌は止めなかった。「生存のために争いの必要が生じるのは僕らも同じだ。しかし人間はことさら生存のために必要ない争いをしたがる。おかしな話に思われるかも知れないが、人間は人間同士大した差のないことを知った上で、自分が、あるいは自分の属する集団が他者より優れていることを自覚したくって溜まらない。だから何かと理由を付けて、自分と他人を論をこねくり回して区別して、差を付ける。自分が他者と同じぐらいであることが我慢ならない、だから他者を卑下して優越に浸りたがる。……久之は人間のそういうところを愚かしく思っているんだ。恐らく多くの人間よりも、ずっと強く」

「それは、彼が踏んで来た経験に拠るものだろうね?」

「さあ、それをお前は知らなくてもいいし、僕も知った上で、敢えて知らなくてもよかったと思っている。久之はそういう人間の外に出たかった。そのためなら死んでもいいと思った。しかし人間の外に出て、人間ではなくなった今になって、人間のそういうところを改めて実感するときも多い。そういう人間を『憎悪』するとしたら、久之自身の中にある人間的な差別意識が影響していることは想像に難くないし、久之は何よりそんなことを考えてしまう自分自身を嫌っている」

 だから、と巳槌は浴衣を肩にかける。

「僕らはそれを見なくてもいい。久之だって判っている。あいつは幸せ者だ。僕らが側に居る、幸せであいつを包んでやれる。人間的な争いのないところで暮らしていられるし、……しかしあいつはこうも思うだろう、どこまでも人間の自意識で人間を見て嫌な思いを抱いたとき、自分が結局人間からは差別される『人間』でしかないことを」

「堂々巡りだ」

「それでいいんだ。あいつに考えることを止めろとは言えまいよ。ただあいつの、これといって罪なところのない心のありようを僕らが認めてやった上で、あまりあいつの柔らかな心に負荷がかからぬよう気を配っていればそれでいい」

 空戦がそれで納得したかは判らない。ただ一応、形の上だけでも空戦は頷いた。

「僕は久之が好きだよ。久之が幸せでいてくれなきゃ困ると思う。要するに僕は、それぐらいあの『人間』のことが好きだから」

 手を伸ばして、空戦の黒い髪に触れた。時間を掛けて、撫ぜてやる。

「早く『人間』なんかじゃなくなっちまえばいいんだ」

 黒い炎のごとき悪辣な言葉を吐いて、円駆が眼を閉じた。

 

 

 

 

 巳槌と円駆と空戦がそんなことを思っていることも知らず、久之は小屋の畳の目地を丹念に拭いていた。この男は綺麗好きの自覚もなかったが、それでも三人の「子供」の形をした神を同居させるからには、彼らにとって健康的な生活を送れる環境を整えるのが自分のつとめだと考えている。例えば布団は太陽が出た日には必ず干すし、週に一度は畳をこんな風に端から端まで拭き清めるのだ。

 どうしてか、こういう単純な作業が好きだった。

 こういうとき、久之の頭の中にはいろいろな考え事が巡る。とりとめもなく、転がり続ける。

 ときに、思い出したくもない過去のことが何かのきっかけで転がり出すことがある。糸車のように伸びてしまった糸をしまうまでには時間が掛かり、そういうとき誰かが帰って来てくれれば考えを中断することも出来るのだが、今日は誰も帰って来ない。

 例えば今日久之は、自分の過去のことを思い出してしまっていた。

 畳の目地と目地の間にきっと存在する、見えない汚れを拭きとるように、記憶の襞に挟まったものを掻き出して清らかにすることが出来たならば、それはどんなにいいことだろう。ただそれは、……喩えが悪いと指摘されるかもしれないがと前提を置いた上で久之は思う、「宿便」のようなものだ。この博識な男は、腸管の襞の深部に挟まった宿便が食物繊維では掻きだすことが出来ないことを知っていた。腸管の襞の深部のあれをどうにかするには、食物繊維では大きすぎるのである。

 そもそも、畳の目地の見えない汚れだって、少々力を入れて拭いたところで限度がある。

 表情がいつの間にか険しくなっていたようだ、眉間が痛くなって、ついでに腰が強張っていることに気が付いて、久之は身を起こす。端から端までと一言に言っても、自己満足に過ぎない。それでも全部終えるまでにはいつも二時間近くかかってしまうのだ。

 このところ久之は怠惰さを覚えた。

 考えたって仕方がないだろう、と思うのだ。

 有難いことに、……本当に、有難すぎることに、久之は今、幸せでいる。誰にも話せない苦しみ、痛み、哀しみ――恐らく巳槌も円駆もまだ知らないはずだ、とこの男は思っている――を抱えていることは確かだし、そういった過去のあったことも否定しようがない。しかしそれが今の幸せを陰らせるとも思わないし、過去を否定できない以上に今を否定することはもっと難しい。

 糸車は遠くまで転がって行った。部屋を掃除したのだから心の中は掃除しない。尽きることない悩みならいっそ数を重ねて行けばよい。どれほど悩みが嵩もうとも、巳槌が円駆が空戦が愛しく可愛い三人が「恋神」を自称して飽かず共に暮らしてくれる事実が重い。

 人間は愚かなものだという考えを、人間であったころから、しかもずいぶん早い時期から、久之は思い続けている。人間は、愚かな、ものだ。それゆえに愛すべきとも、久之は思わない。もちろん個々の人間に愛すべき者がいることは判った上で、しかし人間の集合体は結局のところ愚かであり、その集合体に属する自分もまた例外ではない。

 人間は極めて愚かだ。その証拠に、痛みを忘れる。自分の感じた痛みさえこんなに遠くへやってしまえるのだから、人に与えた痛みなどもっと軽微な扱いになる。だからこそ人は人同士争うことを止めないし、口ではそれを愚かだと反省したようなことを言うのに、少し時間が経っただけで平気でまた、傷付け合うことを選ぶ。しかし久之は半神の身体を――望むと望まざるとに拠らず――手にした今であっても、人間であるという自覚を捨てるつもりはない。恐らく今後も、捨てずに生きて行く。そう在ることで、何が出来るのか、……何も出来はしないだろう。それでも人間が愚かであることを忘れないで生きて行く人間が、一人、いや二分の一人ぐらいはいたっていいし、もっといてくれることを願う。言葉で、こぶしで、刃で、容易に人を傷付けることを選べたり、そういう世界であることを是認したりする、それは自らが愚かにも容易に人を傷付けてしまう生き物であることを忘れるから。つまり、愚かという水準にも達していないから。

 ならばせめて俺は俺の、人間の、愚かさを忘れずに生きていよう。

 そんな怠惰な考え方を、このところの久之はするようになった。

 人間にはそれほどの力もない。そのくせ息を切らせて汗をかいて、人を殴るための拳を振り上げる。自分と同じ色の血の流れるのを見て嗤う。自分以外は自分ではないから痛みを共有する必要もないと嘯き、事によっては流れるその血を見てもなお、「同じ人間ではない」と言うことさえ出来る。愚かさに迂闊な器用さが伴うと一層手に負えない。せめて自分の愛する者ぐらいは傷付けずにと思うけれど、……あるいはそれもまた、自分本位の勝手な考え方だろうか?

 出涸らしの茶を入れて、小屋縁に座って啜っていたところ、珍しいことに三人が一緒になって帰って来た。あるいは同じところで昼寝でもしていたのだろうか? 特に仲良くも見えないが、生存以外の理由で争うことは選ばない。一緒にいてくれるだけで和むような、そんな存在。

 一時期の久之は木や石をことのほか愛した。木や石は物を言わず、ただそこに在るだけ。その分、意図的に誰かを傷付ける言葉を吐くこともない、……もちろん、意図せざる刃を剥き出しにしたような言葉をを発するようなことも。

「お帰り」

 ただいま、と返事をするのは空戦だけで、これはいつものこと。巳槌は畳に上がり掛けて、その清浄さに気付いて足を止める。草履を脱ごうとしていた円駆と空戦の浴衣の帯を引っ張って、「わう」「お、おい! 何だよ!」蛇口のところまで連れて行き、足を洗い始めた。もちろん彼らの裸足を拭くための布は久之が用意すればよい。もちろん久之がそう考えるところまで判って巳槌が足を洗うことは明らかだ。

「どこかで、昼寝をしてきた……?」

 足を拭いてやった順に小屋に上がる。最後に待っていた巳槌に訊いた。

「日向ぼっこをしていた。寝てはいないよ。お前のことを考えていたらちんちんがむずむずしてきたから帰って来た、……というのは冗談だが」

 冗談に聴こえない声であり顔であるが、とりあえず巳槌は笑ってはいなかった。円駆が出涸らしの薄い茶を入れてかぱりと呑む。空戦が小屋に上がった巳槌に変わって久之の傍らに寄り、

「畳が綺麗で気持ちがいいね、とても爽やかな気分になれるよ」

 と肩に負ぶさる。円駆まで含めて久之が抱き上げたり背負ったりすることに大した苦しみも伴わない。背負ったまま部屋の真ん中より端の方に移動して腰を下ろすと、欠伸を一つした巳槌が久之の腿を枕に横たわる。

「……お前は幸せか?」

 手をあげて、細く冷たい指が顎の下をなぞる。無精ひげが生えているだろうかと考えた久之は、

「それは、もちろん」

 ごく素直に答えを返す。

「そうか」

 と巳槌は言って、空の湯呑茶碗を掌で転がす円駆に目をやった。

「……んだよ」

「んだよ、じゃない。久之の左足が空いているぞ」

 別に空いていたって何の問題もない場所ではあるのだが。円駆もそう思ったに違いない。ただそれでも彼は湯呑を畳の上に置いて久之の側までやって来た。ごろんと横になると、久之の左腿に頭を載せた。

 巳槌は目を伏せて、

「お前が幸せなら、僕らは何の不足もない。お前がお前自身を幸せな男だと思うとき、同じように僕ら自身はが幸せになるんだ」

 と、久之には何だかもったいなく思えるような言葉を口にした。


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