AFTER LIVE

 祭の夜から二週間が経過していた。人間の暦の上では、今日から九月という日の朝、久之は朝食後、三人の神なる身を小屋に残して里に下りた。現在でも、怪しまれるべき風采の男、という自覚を持つ以上、あまり子供たちの姿のある時間帯には下りないようにしている久之であり、このときも始業のチャイムが近付いて村のあちこちから子供たちが駆けていくのを見かけるたびに、塀や電信柱の影に身を隠している。そうすることで却って己の不審者ぶりに拍車をかけていることは認識していない。

「せんせえおはようございます!」

 通学路の行き止まり、つまり小学校の校門が見えるところまで辿り着いて、さてどうしようと。目的意識を持って子供の行く道に息を潜めるのは不審者であるが、目的もはっきりしないまま徘徊しているのもまた不審者である。この久之のように気のあまり大きくない上に対人交流能力の著しく低い物というのは、自分が怪しまれるべき存在であるということに気付いた瞬間、なおのことどうしたらいいか判らなくなって、あっけなく混乱する。

 困っている人を助けるのが、「お巡りさん」の仕事である。そう肝に銘じて生きているはずの男から、

「久之殿!」

 いきなり声を掛けられたとき、不審者に見られることを恐れる男の心臓は大きく跳ねた。

「おはようございます!」

 仕事熱心な小柄な駐在・信楽が、何故か黄色い旗を持って久之を見上げているのだった。

「先日のお祭りでは、素晴らしい催しを見せて頂き、本官大変感服いたしました!」

 ぴっ、と音が立ちそうなほど凛々しく敬礼をした。その顔に、手にしていた黄色い旗が垂れる。「児童横断中」の緑の文字が見えた。信楽ははにかみながら、学校のある日には村で数少ない横断歩道で子供たちを誘導するのだと自己紹介した。いかにも警官らしいその仕事は、里の人々からも大いに愛されているものだろう。この駐在氏はどうも、先日の祭前の一件以来、久之のことを信頼し、愛するべき男だと思ってくれているらしかった。

「今日はお一人でおられましたか。空戦殿や巳槌殿は?」

「あ……、あの子たちは、小屋で……」

 特にするべきことがある神なる身たちではない。空戦は日永一日小屋でごろごろしていることもあるほどだし、円駆は一日に一度山の頂まで駆け上がって一声吠えるのを「仕事」としてはいるがそれも強いられているものでもない。そして巳槌は出掛けたと思ったらどこかの梢で昼寝をして帰って来るという、……極論すれば、怠惰な生活ぶりをしている。

 とはいえ、家事だけこなしていればいい久之もそれは大差ないが。

「今日は学校へ? でしたら校門から堂々と入られればよろしかろうと思います。なあに、何か言われるようなことがあっても本官が一緒であれば大丈夫でしょう!」

 恐縮しきりの久之は結局、信楽に伴われて正面から小学校に入ることとなった。

 久之がここへやって来たのは当然、尾野辺に会うためであった。玄関では主事たちに挨拶をし、始業式の最中であるからとがらんとした職員室に通され、茶を出され、……たっぷり一時間ほど待たされた。その間、居心地悪く縮こまる久之に対して、

「それにしても。本官全く心から感動しましたぞ。いやはや、全く尾野辺先生のお美しいことと来たら! そして空戦殿たちのあの踊りや歌も、何と神々しかったことか。素晴らしいパフォーマンスでありました!」

 一切隠さぬ尊敬と誤解の眼差しを向けていたが、……久之は何と答えたらいいものやら。ただ、この駐在氏の言う通り、先日の神三人と女性教諭の「パフォーマンス」が「素晴らしい」ものであったことは、こっそり覗き見ていた久之にもまず同意出来ることであった。

 ただ、それ以上に重要だったのは久之にとって、……そしてもちろん信楽にとっても、尾野辺が三人の神なる身を従えて唄い踊ったということであろう。

 尾野辺の中に葛藤があったことは想像に難くない。それでも彼女が踊ることを選んだ気持ちもまた、久之には理解できる。あれは巳槌の描いた物語の筋書き通りに現れた確かな幸福であったろう。舞台袖で口を開けて見ていた久之は、巳槌と円駆と空戦の汗だくの身体をいっしょくたに抱きしめながら、頬の紅潮した尾野辺が微笑んで深く頭を下げるのを見て、恐らく三人の神なる身よりも尾野辺よりも幸福な景色を目にしていた。

「あなたがたは真にこの村の人々のことを考えておられる。あの三人のお子たちも含めて……。そのことを、この村に住む皆さんは決して忘れてはおりませんぞ、もちろん本官も……、いや、本官はここから山を越えた、隣の飯盛村の出なんですが、この村で多くの方が、あなたがたが山に住み、この村を護ってくださっているとおっしゃっておられます。……本官としても、まあこの制服を着てこのようなことを申してはいけないのかも知れませんが、安心してこういった」と情熱的な信楽は旗を掲げて見せた。「ことに時間を割くことも出来ると言う次第であります」なるほど、横断歩道の誘導は誰かに乞われたことではなく、この駐在氏が独自に行っていることであるらしい。

 久之は恐縮しながらも、……巳槌が「ほら見ろ」と言うような気がした。

「僕の乗る船は沈まない」

 と巳槌は言っていた。それが、こういう事態になることまで看破しきっての発言だったのかどうかまでは判然としない。ただ事実として、巳槌の乗る船はこうして、沈んでいない。このあたりの川は場所によってはずいぶん流れが急だが、それでも……。

 俄かに、廊下が騒がしくなってきた。駐在氏と駐在する職員室に、次々と教諭が戻って来て、

「お待たせしてしまって、申し訳ありません」

 上下ジャージ姿の尾野辺教諭もやって来た。反射的に立ち上がった久之よりも、ずっと勢いよく、

「はっ、とんでもございません!」

 信楽が頬を紅潮させて敬礼をした。また黄色い旗が、彼の顔を隠した。尾野辺はにっこりと微笑んで、「いつも子供たちのこと、どうもありがとうございます」と礼を言う。駐在氏は黄色い顔のまま「勿体ないお言葉! 恐悦至極でありますっ」と声を張り上げ旗を揺らす。ほかの教諭たちが苦笑を交わしている。

「そ、それではっ、本官は横断歩道に戻るでありますっ」

 右手と右足が同時に出る、奇妙な歩き方で駐在氏は職員室を駆け出て行った。

「先日は、本当に、何から何までお世話になってしまって」

 恥ずかしそうに、尾野辺は言う。久之は慌てて首を振り、そっと、職員室の一番上座とでも言うべき席に座した、いかにも厳格そうな教頭を盗み見る。

「……あの、……教頭、先生には、怒られませんでしたか……?」

「おかげさまで、怒られましたよ」

 さらりあっさり、尾野辺は微笑んで答える。「それはもう、大いに」

 久之の股間にある雄の証明たる二つの珠がひゅっと寒くなった。

「そんな顔なさらないで。……十日ほど前から、二学期の準備に向けて何度も教頭とは顔を合わせて、そのたびその話になって」

「えっ……」

 久之は思わず声を上げてしまった。てっきり今日が、尾野辺と教頭が祭以来初めて顔を合わせる日だと思っていたのだが。しかし冷静になって考えてみれば児童たち同様のタイムスケジュールで動いている訳でもあるまいし、浅はかな考えであった。場合によっては(それが久之に可能かどうかは置いておいて)悪いのは尾野辺ではなく自分なのだと教頭に申し伝えなければなるまい、とまで思っていたのであるが。

「でも、安心してください。私には心強い『味方』がたくさんついていますから」

「味方……」

「という言い方をされると、まるでわたくしが尾野辺先生の『敵』みたいじゃあありませんか!」

 思わず「ヒャッ」と声を上げてしまった。いつのまにか、あの厳格そうな教頭がすぐ側まで来て、尾野辺と久之の言葉を聴いていたのだった。

「それに、わたくしは申し上げたはずですわね、尾野辺先生。ああいったことをする際には、必ず事前に学校の許可を取るようにと。それを、何ですか、……お宅様のお子さまたちまで巻き込んで……、本当にご迷惑をおかけしてしまって……」

「ひゃ、や、いや、いえ、あの……」

 恐ろしい存在であるはずの教頭に頭を下げられ、上げかけた久之の腰はソファにすとんと落ちる。座ったまま、

「ち、違うんです、違う、あの……、いえ、違わない、のですが、今回は、……今回のことは、全部俺、いや、あの」

 しどろもどろになって、それでも無理に喋ろうとするのだから舌を噛みそうだ。自分が言っていることの訳の判らなさを察した耳がどんどん熱く紅くなる。全く以ってみっともない自分であるという自覚はあるが、教頭先生がそれを笑うようなことはもちろんなかった。

 言葉とはぐれた久之の前、教頭先生は尾野辺の隣に座り、

「子供たちはとても喜んでおりました」

 厳めしい微笑みを浮かべて、言った。

「わたくしが赴任してきたのは今年度のことです。……かつて大変痛ましい事件があり、子供たちの間にも不安が走ったことがあったことは耳にしておりました。子供たちがいつでも元気に笑っていることは、わたくしたち教師全員、共通した願いです。そういう意味では、今回尾野辺先生やお宅様のお子さんたちの演し物は、子供たちの胸に明るい灯をともすような、そういった素敵なものであったというのがわたくしの認識です」

 左右田、という教頭の言葉に、久之はずいぶん救われた。同時に、なんだか本当に申し訳ないことをしてしまったという思いも抱く。彼がやっとのことで口に出すことが出来たのは、

「今回の、ことを、……発案、というか、考え、……いえ、思いついた、のは、うちの、……巳槌です。私は、特に何かを、したのではなく、ただ、巳槌の言うことに、したがってきた、……それだけです、ですから……」

 ということであったが、久之がここまで言ったところで、

「久之さんがおられなければ、私があんな風に踊ったりすることもありませんでした」

 尾野辺がにこやかに、左右田へ言葉を注ぎ足す。

「私自身、子供たちのためという思いは常に忘れたことはありません。しかし今回、久之さんに踊ることを提案されたときに,自分の中でずっと閉じ込めて、忘れた気持ちになっていたことを思い出しました。私は……」

 アイドルになりたかった、とはっきり口にすることはなかったが、何故だろう、久之にはそれが判った。

 左右田が少し目を細めて何か言い掛けたが、それを尾野辺は敏感に察したように、

「今後は一切の迷いなく教師としての職責を全うする覚悟でおります」

 先んじて言った。

 

 

 

 

 久之が昼前に小屋に戻ると、小屋にいたのは円駆だけだった。

「おう、帰ったか」

 顔が赤い。左目下の痣が普段よりも鮮やかだ。傍らには湯呑だけがあるが、それが何を意味しているかは明らかだ。昼間から酒を愉しんでいたに違いない。

 あの祭を境に、神なる身は多くの物を得た。

 円駆は酒を、空戦は書物を、巳槌は衣服を。それぞれに望んでいた人間からの供物である。とりわけ円駆は多くの酒を得るに至り、酒と言えばしばしば巳槌との争いの種になるのがこれまでの常であったが、このところは豊富な酒瓶の中身を巳槌に分け与えることも珍しくはない。

 そんな次第で、彼らの日々はより充実したものとなっている。もっとも、円駆は「あんだけくそ暑い中で運動させられたんだから当然だ」と思っているかも知れないが。

「学校に行ってきたんだろう」

「うん……。お酒だけで飲んでいたのか、帰って来るまで、待ってくれたら、何か作って……」

「わざわざそこまでしてもらわなくてもいい。呑みたいときに呑みたいように呑めばそれで美味い」

 飲酒中毒のようにならなければいいとは思うが、その点は一応神なる身であるからきちんと自制出来ているようだ。

「その面を見れば、いいことがあったんだろうってことは想像がつく」

 円駆は茶碗の中に残っていた酒をくいと呷って空にすると、紅い顔で微笑んで「よかったじゃねえか。お前は今でもまだ『人間』の色が濃いし、人間でいたいと思ってるんだろうし」座った久之の膝の上に平気な顔で乗っかる。巳槌や空戦ならばいざ知らず、円駆である。素面のときにはそんな真似は決してしないはずの円駆である。

 久之はひとまずその紅い髪を撫ぜて、

「円駆は、いつごろ、気が付いた?」

 訊いてみる。

「あ?」

「……尾野辺先生の、夢、に」

 ふん、と酒臭い溜め息を吐いて、「夢っていうのは寝るときに見るもんじゃねえのか」と素っ気ない。久之の膝から降りて、畳の上にごろんと横になる。もちろん、枕にするのは久之の腿だ。そういう体勢になれば、自然と久之の掌は円駆の髪に乗る。習い性だ。円駆がそれをうるさがる様子はない。

「人間の見る『夢』とやらのために駆かずりまわるほど俺は暇なつもりはねえし、それがあるかどうかを知るためにわざわざあの女の心に潜ったりもしねえ」

 無愛想にぶっきらぼうに、ことさら意地悪さを感じさせる口調で円駆は言って寝返りを打った。顔を、壁に向ける。

「けどな。……別に何だっていいじゃねえか。お前が何かを望んで、お前が望んだとおりに行ったんなら。そんなの別に、あの女がどうとか、そういうことじゃねえだろ。俺はあの女のことなんて見てねえし、……逆に言や、俺はこの辺のことしか見ちゃいねえよ」

 大雑把に、「この辺」と顔の前にぐるり、右手を回した。

「それぐらいのとこに居られんのはお前らぐらいのもんだろ。でもって、……お前が、俺が何かしたことでそこそこいい思いして、……でもって俺は新しい酒がたらふく呑めて、……それでいいだろ。何か問題あんのか」

 言い方は本当に乱暴なものである。それでも久之はこの麒麟の優しいことは知っている。ただ少しばかり素直でないだけだ。「俺は寝るぞ」と言ったから、久之は腿を貸したまま何も言わず頷いた。偉そうなことばかり言う、と巳槌は円駆に意地悪を言うし、それは確かかも知れないが、久之にとってはいとおしい。

 円駆が尾野辺の心を読んだかどうかは、実際のところどうでもいいのかも知れない。円駆もまた、久之が何を考えたのか――それを読もうとしなくとも――察した結果として動いている。

 幸せがぐるぐる回る中に、俺はいるのだ。いるのだ、として、では俺に何が出来るだろうかと考えたとき、情けないぐらいに何もできない自分がいることを知る。誰かのためになりたい、役に立ちたいと思ったところで、久之という人間ふぜいに出来ることなど少ししかない。少しでも「ある」だけましと考えるべきかもしれないが。

 この男は善良で臆病で無力だ。臆病で無力であることを替えられないなら、せめて善良でいなければいけないことは自明である。だから結局久之は、常に優しく正しく在ろうとする。けれど膝に子供の頭を乗せて寝付かせる自分の一体どこがどれほど善良で優しく正しいのか、……何一つおぼつかなくなる。ただ確かなことは神なる身が久之の腿を借りて無防備な寝顔を晒せるということだけだが、久之の考慮の中にそれがどれほどの比重で入っているかは全く曖昧だ。

 少し、眠っただろうか。

「腹が減ったぞ」

 小屋の扉ががらりと開いて巳槌が戻って来た。円駆が眠っていることなどお構いなしに、ずかずかと畳の上を歩き、よりによって円駆の身体を一度跨いでから久之の正面に膝を下ろし、「久之、腹が減ったぞ」と凛とした声で言う。これにより、円駆が起きる。

「ああ……、うっるせえなテメェは」

「お前は酒臭いぞ甘えんぼ。幼子みたいに甘えるか大人のように酒を呑むかどちらかにするがいいよ。ああそうだ、そう言えば空戦を見なかったか」

 久之の目はぱっきりと醒めた。「空戦が、いないの?」

「今朝、お前が下山してから少しして、僕より先に出て行ってから見ていない。山のどこかには居るのだろうが、生憎僕ら同士では気配を感じ合うことは出来ないからな。余程の力が弾けるようなことがない限りは」

 例えば円駆や巳槌がどこかで力を放てば、山の神なる身は敏感にそれを感じ取ることが出来る。「今のところそういう気配はない。つまり、あのいんちき阿呆鳥がちょっかいを出して来た訳ではない」

「どこかで寝てんじゃねえのか」

「昼飯に戻って来ないほど長く寝ることはあるまいよ、あいつは食い意地が張っているからな」

 それに、あまり長いこと昼寝をして夜眠れなくなることは避けるべきだという認識もしている空戦である。

 久之が不安がる表情を浮かべたからだろう。円駆が久之の肩を借りて立ち上がり、「別に死んじゃいねえよ。死んだら俺らだって判るからな」と、恐ろしいことをすらすらと口にして無理やり久之を安心させる。

 と。

「……意外なところに居るようだな」

 巳槌が顔を小屋の外に向けて言った。円駆には先刻承知だろうが、久之にはどうして巳槌が空戦の居所を掴めたのか判らない。

「水の中に居る。この山の水は僕と繋がっているからな、水の中に居れば判る」

「水。……の、中?」

「暑いから、水浴びでもしたくなったのだろう。だが水を浴びるならば場所を選ぶべきだ、……それこそそこのホースから出る人間の水だって十分に冷たいのに、わざわざ一番冷たい水の中に入るとは」

 巳槌は少し不満そうに「だいたい、足も洗わずに無礼な奴だ。風呂桶か何かと勘違いしている」と小屋の戸を開けた。円駆が少し考えて、「……ああ。あいつ最近あそこよく行くな。何してんだか知らねえけど」小屋縁から草履を履いて外に出る。まだ酒が入っているはずだが、さすがは神なる身できちんと考えは出来るし足取りに不安もないようだし、そういえば頬の紅潮ももう収まっていた。迷いなく道を行く二人をすぐに久之も追ったが、二人の足はまもなく止まった。

 巳槌の泉の前である。辿り着いたと同時に久之は思い出す。先日、ここに頭を突っ込んで足をばたばたさせていた空戦の姿を。

 なるほど、すぐそばの木に浴衣と六尺がぶら下がって晩夏の風に揺れている。草履もきちんと並べて置かれていた。

 間もなく、泉の水面がぶくぶくと泡立って、

「ぷはっ」

 空戦が冷たい水の中から顔を出した。

「何をやっているんだ、お前は。僕の泉で」

 空戦は、ぱちぱちと瞬きをして掌で顔を拭って、何故だか少しの間じいっと巳槌の顔を「見」ていた。それから、ぱぁっと笑顔になって、

「ああ……、ああ!」

 甲高い声を上げて、水から上がり、囲いの岩に乗せた裸足の裏を滑らせて体勢を崩す。慌てて円駆がそれを支えた。

「あにやってんだテメェは……」

 空戦が、自分を抱き支えた円駆を「見」て、今度は「ああ……」溜め息に声を溶かし込んだ。

 久之は、どくんと心臓が震えるのを感じる。

 空戦が、違う。

 空戦はまっすぐに久之の目を「見」て、「……久之」と言う。

「空戦」

 巳槌も円駆も、まだ気付いていないらしかった。久之は慌ただしく空戦の前に跪き、「空戦」……しかし言葉は出て来ない。

 少年の顔である。いつもと変わらない。幼く、そして無垢な。季節柄少しばかり肌が焼けた。それでも不健康に思えるほど白い肌の名残は見て取れる。

 涙の傷を得た頬、その始点たる大きな双眸、長い睫を宿して。

「何だ」

 巳槌が不審そうに久之に訊いた。

 空戦は、うつむいてくつくつと笑いを堪える、大きく深呼吸をして、その発作を収めて彼が言うのは、

「僕は、こんなに美しい生き物に囲まれて、こんなに美しい世界で生きていたのか」

 ということ。

 空戦は濡れた身体で久之に抱き着いた。

 

 

 

 

 秘密だ、と言っていた。何故あんな風に泉に頭を突っ込んで、傍目には溺れかけているようにしか見えない真似をしていたのか。

 久之はかつて円駆が麒麟態で身に受けた銃創を癒すために、あの泉に浸っていたことを思い出した。

「目が見えるように、なった、だと?」

 ぷしゅん、というくしゃみを思い切り顔に浴びた巳槌は迷惑そうに顔を洗って「目が見えるようになった、と」もう一度同じ言葉を繰り返した。

 円駆はまだ信じられないような顔をして、じろじろと空戦の目を覗き込む。魔を秘めているような紅い瞳だ。しかしその瞳の動きが、明らかに変わったことには円駆も気付くだろう。それまでは茫洋とどこを見ているのかあいまいだったその瞳は、間近にある円駆の顔をきっちりと捉えている。

 たどたどしく、

「この間から、空戦、……この泉に、頭を、突っ込んでいた。頭じゃなくて、……顔を、浸していた、のか。顔じゃないか、……その、眼を……」

「その通りだよ」

 空戦は頷いた。

「巳槌の泉には癒しの力がある、それについては知っていたからね。もしかしたら、僕の眼に光を取り戻すことが出来るかもしれないって思ったんだ」

 最初は、あの通り頭だけ浸していたのだろう。けれど季節が快くなって冷たい水も心地よくなって、全身潜ってしまった方が早いということに空戦は気付いたらしい。そういう次第でこのところは全身ざぶんと浸るようになったのだろう。

 空戦が視力を喪ったのは、彼が神獣として覚醒したとき、今から二百年以上も前のことだ。元が暗所に棲息する蝙蝠であり、仮に光がなくとも音の揺らぎ風の囁きで、夜は事によっては目明きの巳槌や円駆よりも強い「光」を受けて飛翔するのが空戦である。日常生活も、目が見えないことを忘れさせるほど支障を来さない。実際、尾野辺の周囲を踊り回っているときは目を開けずにやっていた。音と他の二人の動きを頼りに自分の役割を果たしていたのだ。

 光のない世界に、不便を感じている様子は一切なかった。時に久之も、きっと円駆も巳槌も、空戦に視力のないことを忘れてしまえるほどに。

 それでも、「見たい」と思ったのだ、空戦は。

「僕は、見たかった。みんなの顔を」

 にこ、と微笑んで空戦は言う。「この手で触れれば、みんなの顔の形はある程度判る。でも、そうして判ったときから、もっと欲しくなる。どうしてもこの目で見てみたいって思った。だから」

 巳槌は懐疑的だった。

「そこまでの力がある水ではない」

 自分の手で水を掬って、「せいぜい怪我の治りを早めることが出来るぐらいで、所詮はただの水だぞ。喪った光を取り戻せるほどの力はない。あとはそうだな、酒に入れるとすごく美味い」

 巳槌を認めることなど滅多にしない円駆が、それには素直に同意を示したうえで、

「例えば折れた骨がくっつくまでの時間は変わらねえだろうし、指や腕をすっとばしたとして、この泉に漬けておいたからってそれが治るわけじゃねえだろうよ。……光だって同じだろ、その、目ン玉の奥の……、ええ」

「神経……?」

「ああ、そう、それだ。それがぶっ壊れてんのは、なくなってんのと同じだろ。だったら漬けたところで……」

 その事態を招いたのは円駆であり、そうするようそそのかしたのは巳槌である。二人がその件について話すとき、何となく言葉が円滑ではなくなる理屈は久之にもよく理解できた。

 一方で空戦は、当時の彼らの選択ないしは決断を「正しかった」と支持する立場を変えない。あのまま放っておかれたら山のいきもの全体へどれほど害が及んだかも判らないのだから、巳槌の判断は冷酷と言われるむきもあろうけれど正しい、そしてせめて殺さずにおいてくれただけ、円駆は優しい。

「でも、事実として僕は今、みんなの顔を見ているよ」

 そう。その理屈は泉の主たる巳槌にも判らないようだが。

 彼は少し考えて、「おい、円駆、ちょっとお前のことを怪我させてもいいか」唐突に言いだした。

「あ? テメェなにいきなり訳の判んねえことを」

「怒るなよ」

 手を翳した、と思った次の瞬間には、巳槌は円駆の浴衣を肌蹴させ、その右肩にがぶりと噛み付いていた。

 久之も空戦も、あ、と声を上げる暇もない。

「て、て、てめえぇえええええ!」

「怒るなと言っただろう」

 当然、血が噴き出す。巳槌はぐいと円駆の浴衣を引っ張り、抗いを封じつつ、泉の中に蹴り落とす。全て目にもとまらぬ早業であるが、全く以ってとんでもない、信じられない所業を顔色一つ変えずにするのが巳槌である。

「……ごぼっ、ぶっ、ぐぼ……!」

 一瞬で真っ赤に染まった泉が、みるみるうちに澄んでいく。久之はそういう化学反応を見たことがあった。何がしかのビタミンで着色された液体に、何がしかの何かを入れることで、みるみるうちに色が落ちて透明になる、……全くあいまいな記憶だが、ただ、そういうものを久之に思い出させるような現象であった。

「なるほど、これは興味深いな」

「感心してんじゃねえおいこらテメェこの糞蛇殺す気か!」

 ほうほうの体で泉から這い出した円駆の肌にあったはずの傷は、既に塞がっている。薄っすらと、ああ、ここを噛まれたのだなと判別できるような巳槌の歯形が残っているぐらいで。

「どうでもいいが、お前の血は不味いな」

 口の周りの血を濯いで巳槌は不満を漏らす。久之が止めていなければ今度は円駆が巳槌に大流血をさせていたであろうことは想像に難くない。

「君の力が強くなっているということだろうね」

 空戦が総括した。「そういう予感があった。この泉に浸かれば、あるいはと。白蛇に過ぎなかった頃の君の泉だったら、僕の視力が戻ることはなかっただろう。応龍の泉だからこそ、こうして僕の眼は光を取り戻した。……ただ」

「うん、それはお前や円駆がや僕自身や、あとはせいぜい久之までという限定的な範囲にとどまるものだろうな。僕の力と親和性の高い者にしか僕の水は癒しの効能を発揮することはしないはずだ。何にせよ」

 巳槌はぽんぽんと空戦の、まだ湿っぽい黒髪を撫ぜた。

「治って良かったな」

「うん、ありがとう。僕も嬉しいね」

「どこを見てるかよく判らんような眼より、何を見てるかちゃんと判る方がましだからな」

「うん? うん」

 空戦は、久之と、その腕の中でまだもがいている円駆に向き直って、

「みんなの顔を、僕は見たかったんだ」

 と、また言った。

「僕が瞼の裏に描いていたよりも、みんなずっときれいだ。もっとも、他の誰かと比べることが出来る訳ではないから、いい加減な言い方だけどね」

 円駆の長い抗いは、空戦を前にしてようやく止まった。空戦が細い腕を伸ばし、円駆の頬を両手で包んで、

「円駆」

 嬉しそうに、嬉しそうに、嬉しそうに微笑む。

「ん、んだよ……、じろじろ見てんじゃねえ!」

「ずっと見たかったんだから、今日ぐらいはいいじゃないか」

 幼子はいたずらっぽく言って、「円駆」笑い、その胸に縋り付く。

「不思議だね。円駆はずっと僕の側にいて、僕は君の匂いをずっと嗅いでいた。それなのに君の顔を見るのはこれが初めてなんだ。……君の起こす炎の色も、君の落とす雷の色も、僕は見たことがなかったのに、……でも、君の顔を、ずっと僕は見ていたかもしれない。いつも威張ってるのに、僕とそんな変わりがないみたいな顔だね」

「だッ……」

 誰が変わりがない、と上げかけた声は、久之によって留められる。人間の年齢に換算すれば空戦より三つほどは年上であろう円駆だから、大いに誇りが傷付くのかも知れない。とはいえ、大人げないのは誰もが知るところではある。

「良かったな」

 尊大に言って、巳槌が空戦と円駆の髪を順繰りに撫ぜて、「さて、もうとうに忘れられてしまっていることかもしれないが、僕が小屋に降りて来たのは別に空戦の眼に自分の顔を披露してやるためでも獣くさい血汁を啜るためでもない、腹が減ったからだ。久之、とっとと昼飯を拵えるがいいよ」

 いま少し、久之に円駆を留めるための腕力を費やさせるようなことを言った。

 

 

 

 

 昼食後、茶碗を洗っていた久之の背中に「いいか」と声を掛けたのは巳槌である。昼食はいつもの通り、細い身体には十分な量を口にしていたし、特に表情を変えることもなく「美味い」と言っていた。そういう巳槌がわざわざやって来た理由が、皿洗いの手伝いではないことぐらい久之も判っていた。

 空戦の眼が治ったのだ。それを、もっと歓迎したっていいだろう。しかるに――普段から無表情であるが――巳槌はこれといった反応も示していない。

 その理由について、指摘されるまでもなく久之は把握している。ちょうど皿洗いが終わったところだ。

「……円駆は?」

「空戦が寝たので、側に居させている。目を離されては困る」

 巳槌は草履を引っ掛けた足でずんずんと進んだ。山の深い方へ、深い方へ。人間の身体としての力は久之の方があって、その久之でも息が切れるほど急な坂を登り切ったときには、巳槌の身体は汗びっしょりになっていた。

「……本当は、応龍になって来たい、ところだったが、……また、文句を、言われると、面倒だからな」

 呼吸を整え、腕で額を拭って、

「おい」

 巳槌は空に向かって、ふんぞり返って言った。

「僕がわざわざここまで来てやったんだぞ。とっとと降りて来い馬鹿者」

 返答は、雷の礫だった。久之の眼に見えたのは一瞬何かが閃いたと思った次の瞬間、巳槌が肩に飛び付かれて倒れた、ということだけ。瞬間的に氷の杖を生み出した巳槌が、それで雷球を弾き返していたのだった。

「無礼な男だね。人の住処さえも君は侵略しようと言うのか」

 辟易したような声が、慎重に立ち上がった久之の耳に届いた。舵禮、あの、鳥の神獣の声だとすぐに気付く。

「しかも、よりにもよって、人間まで連れてくるとは」

「円駆を連れて来て欲しかったのか? お前はあいつに叱られるのが好きか」

「冗談じゃない。何故私があのけだものに叱られなければいけないんだ」

「僕にも判らん。ただあのけだものは周りに偉ぶるのが大好きで、僕もよく叱られる」

 円駆の地獄耳に届かぬとも限らないから、久之はひやひやする。巳槌は膨大な冷気の力を秘めた杖を握りつぶすように消した。それを見て、舵禮の顔からも少しばかり、緊張感が減退したように見える。

 久之は、巳槌が自分に言いたいことがあるのだと思っていた。そして何を言われるのかもある程度判っているつもりでいた。しかるに、こうして舵禮のところまで、……少し前まで敵対関係にあった相手のところまで自分を連れて来たのは意外だった。

「お前に伝えておくべきことがあるから、責任を持って僕が伝えに来た。……空戦が視力を取り戻したぞ」

 舵禮の緩みかかっていた緊張感が一気に膨れ上がるのを久之は肌で感じた。

「何だと?」

「僕の泉に、このところずっと顔を浸していたらしい。……僕自身、円駆が奪った視力を取り戻せるほどに泉の力が強まっているという自覚がなかった」

 長く伸びた舵禮の金髪の先が、微かに揺れていた。

「君は、自分がどういう意味のことを言っているのか判っているのか」

 目を剥いて、舵禮は怒鳴った。巳槌は少しも動じず、「……判っている」と低く答えた。巳槌の背後で、久之は一人、舵禮の怒声にびくりと小さく震えていた。

「あの子供が、空を飛ぶのみならず、視力を取り戻したとなれば……」

「判っている。お前にとって極めて厄介な存在となったということだ」

「……のみならず……」

 忌々しげに、舵禮は巳槌を見た。巳槌はうん、と一つ頷いて久之に振り返った。

「……僕らとこいつは、僕らの側に空戦を置くことで圧倒的な力関係の差を作り出した。この鳥は、これだけの力の差を判ったうえで僕らの平和を害そうとするほど愚かではない。事実として僕らはここのところこいつからちょっかいを出されずに来ているな」

 久之は首肯した。

「僕はそれで安定したと思っていた。……そして舵禮も、僕らの側から舵禮にちょっかいを出して不快がらせるようなことはしないから、納得して僕らに攻撃を加えることをやめたんだ」

「それというのも、君たちが空戦をきちんと管理していると理解したからだ」

 管理? 訝った気配が通じたのだろう。「そうさ」と舵禮が軽んじたような笑いを久之に向ける。

「あの子供がどれほど危険な存在か、人間、君は判らないだろう。空戦はまだあのように幼いのに、……あれほど恐ろしい力を持っているんだ。今に手に負えないようになる。だから私は」

「空戦を自分の管理下に置こうとした。そして僕らとの力を拮抗させようとした」

 巳槌は冷静な声で言い放った。「その発想が悪いとは言わない。けれど、僕らの被る負担と不安が大きすぎるから、僕らはそれを却下した」

「だが、空戦は目を開けたのだろう!」

 非難の視線を舵禮が向けた。巳槌は堪えた風もなく、一度肩を竦めただけだ。

「……どうするつもりだ。あと何十年かすれば、あの蝙蝠はとんでもない化け物になるぞ。目を塞いでいればまだ……、お前たちならお前たちの私なら私の言うことに素直に従う無害な生き物でいただろうが」

「お前は何か勘違いをしていないか」

 巳槌は淡白に言った。傲岸不遜を絵に描いたような態度に、鳥の神獣が鼻白んだが、巳槌は全く意に介さない。

「お前が空戦を恐れることも、僕を舐めることも、僕は一向に構わないが現実を見ろ、……まだ昼間だぞ? お前の眼でも見通すぐらい造作もなかろうよ」

 敢えて相手の神経を逆なですることを、巳槌は誰に対してもする。唯一されたことがないのは、久之ぐらいだ。

「仮に空戦が危険な存在となる日がこの先来たとして僕が、……応龍が、空戦ごときに敗れると思っているのか?」

 緩やかに首を傾げて、巳槌は問うた。「いかな危険な力を空戦が手に入れることとなったとして、所詮奴は蝙蝠。龍の前では無力に等しい。お前がそんなに怖いのなら、奴がそういう存在になったときには一番に、空戦の首をここに持って来てやる。もっとも」

 巳槌は振り返って久之を見上げる。恐ろしく、恐ろしさを通り越してとんでもない発言をしたのがこの顔であるとは到底信じられないような、さらりとした無表情でいる。美しく、可愛らしくもある。

「僕らは空戦を離さない。空戦も僕らを離せない。それを、僕らが証明していく。そっちの方がずっと簡単だろうよ」

 舵禮は巳槌の方法論を知らない。知りたくもないかもしれない。ただ巳槌は信念として抱いているのだ。空戦が自分たちから離れ、その力のまま「危険な存在」になることはないと信じているのだ。

 厄介だ厄介だと言う。それは事実だろう。空戦の力がその心身に比してあまりに大きすぎることは久之ももう理解している。山全体に行き渡るあの声の上げ方を一つ間違えれば多くの命がたちどころに失われることになるのだ。

 しかし、空戦がそんなことを望むだろうか。

 平穏でいたいと思う子供でいる以上、そういう子供でいさせてやる以上は、舵禮が懸念するような事態には決してならない。

 まして、巳槌が空戦の首を刎ねるときなど、来るはずがない。

 いや、来させはしない。

 久之は緊張した声で、

「……俺は、俺たちは、空戦を、大事に育てる、その、育てるという、のは、ちょっと違う、かもしれないけど、でも、ちゃんと……、あの子を、幸せにしていく、誰かに、山の……、君とか、他の、神に、迷惑になるような、振る舞いをしない、いい子に。それでも、もし俺たちが、……万が一にもない、……ない、ことだけど、俺たちが、もし、上手く、そう出来ていないと、思ったときには、すぐ、……来て欲しい。その、……命を潰してしまうのは、君たちには簡単だろう、でも、……潰れた命は、巳槌の泉に浸したって戻って来ない。だから……」

「君は人間だろう」

「半分だけな」

 鋭い視線で舵禮が言い、巳槌が補足説明を施した。「いや、もう半分も残っていないかも知れないが」

「いずれにしても新参者ではないか。しかも、人間に戻れると言うのならなおのこと、どれだけの責任をこの山に対して持てると言うんだ。無責任に山を泥足で踏みにじり恵みを貪り食って行く連中と変わらないような相手を」

「この男は命を張るぞ」

 巳槌は再び久之に背中を向け、舵禮に向き直った。「僕が応龍になったきっかけを、お前は知らないだろう。円駆がこいつの喉笛を割こうとしたときは夜だったからな、お前は見ていなかっただろう」

 僅かに、舵禮が表情を動かした。

「何故あれほど人間を嫌っていた円駆が当時まだ人間だった久之と一緒にいることを選んだと思う?  お前も馬鹿ではないと言うのなら理由があることぐらい察しが付くだろう。こいつはな、舵禮。人間と円駆の間に立って円駆を守ろうとしたんだ。円駆が次の瞬間に自分の首を切り裂くつもりでいることを判った上で」

 そんなこともあった、と思い出す。円駆が、当たり前のように久之の膝を借りて昼寝をするようになった、唇を重ね、たまに甘えるように抱き着いて頬ずりをする、……彼の誇りのために言い添えるならそんなことは滅多になかったが、ともあれ愛しい存在となって久しいものだから、それはもう記憶の函にしまって、見返すこともあまりしない。それでも確かに円駆は久之に殺意を向けたのだ。それを理解しながら、久之は猟銃を向ける人間たちから円駆を庇うために仁王立ちしたのだ。

「銃、……お前も知っているだろう。筒の先から火花と大きな音と」

「……殺意の弾が飛び出す人間のからくりだろう、……あれによって何体も同胞が殺された」

「そう。僕らの身体ならどうということもないが、生身の人間や鳥獣が食らえばひとたまりもない。こいつは人間でありながら、人間のくせに、神のために生き、死ぬことを選んだ命だ。それぐらいいとおしい命だ。そういう男が空戦の取り扱いについてきちんと責任を取ると言っている。いいや、もちろんこいつだけではないぞ、円駆にしたってそうだ。円駆と久之が上手にやれなかったそのときには、お前が文句を言いに来ればいい。それでもどうしても上手く行かないときには僕がいる。応龍の力の恐ろしさは、わざわざ今から実演して見せるまでもなくお前も判っているよな?」

 巳槌はそこまで一息に言い、ふう、と一つ息を吐いて、

「久之、昼寝をしに帰ろう」

 と久之の浴衣の袖を引っ張った。

「え……?」

「もう用は済んだ。急な坂を上ったから僕は疲れた、お前も疲れたろう。ひと眠りしてから風呂に入るぞ」

 舵禮は憮然とした表情で久之を見ていた。巳槌に引っ張られてまろびそうになった久之に向けて、

「……一時的なものとなるかも知れないが、……仮に一時であってもいい、人間」

 険のある視線を向けて、「空戦を君に託そう。但し君が仕損じたときには、容赦なくその責を問うことになる。覚悟しておきたまえ」と言い放った。


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