HE THINKS (HE DOESN'T FEEL)

 久之は料理全般がもともと得意だった訳ではない。ただ、「いつ死んでもいい」と思って山の中に入って巳槌と出会うまでも、まあ、腹は減る。腹が減るから仕方なく物を、人間らしく火を使って調理していくうちに、知識もあることだし、出来はどうあれ一人分の飯を完成させることぐらいは出来るようになるわけだし、そこに巳槌がやって来て腹が減ったと言ってそこらで狩ってきた野鼠など目の前で貪り食われるのはあまり気分のいいものではないので米の飯を食わせるようになり、日々にそれが習慣づく頃にはもう、大概のものは作れるようになっている。必要は成功の母である。

 そんな久之が、汗を滲ませつつ、行き交う里の住民らとぼそぼそ挨拶を交わして歩く道行、手に下がる風呂敷包みに入っているのは握り飯である。具は梅干しだけ。これは村の老婆に分け与えられたものである。三人の、食欲旺盛なる神なる身のためにこしらえたそれらは我ながら不格好であると思うし、味も、まあ塩を付けて梅干しを握りこんだだけであるからそう間違えるはずもないのだが、こんなもので彼らが満足してくれるかどうかということにはあまり自信がない。しかるに家の仕事を終え、漫然と絵を描いたり詩を書いたりして時間を過ごしていられるほど落ち着いてもいられず、夏休みで閑散としているはずの小学校に久之は足を運んだのである。人間の暦では、明日で七月が終わる。

 無人かと思われた小学校だが、久之の思惑とは異なり、校門からはぞろぞろと濡れた髪の子供らが出てくるところだった。皆似たようなビニールのバッグを提げている。

 茜と、彼女の弟が久之に気付いた。

「こんにちは」

 もうすっかり蔭のなくなって明るい笑顔で、茜が会釈する。弟ともども、よく陽に焼けているのを見て、久之はようやく夏休みは学校のプールが開放されるのだということに思い至った。

「こんにちは……、あの……、巳槌たちは、どこにいるだろう……」

「たいくかん!」

 弟の方が元気よく返事をしたのに応じて、

「尾野辺先生と、わたしたちが来るより早くから体育館にいます」

 と茜が補足する。

 ありがとう、と礼を言って、久之は十年以上足を踏み入れていなかった校舎に入る。もはや不審者ではない男は見送りの教諭の方から挨拶をされ、うちの子供たちの昼飯を持って来た、体育館に入っても構わないかどうか、たどたどしく訊き、快諾される。森原と警官の一件以来、教諭たちは全面的に久之を容認したようだ。

 懐かしくも苦くも思える校舎に、来客用のスリッパで上がり、渡り廊下から体育館へ、……今でも重く感じられる鉄の扉を引き開けると、途端、音が全身に襲い掛かって思わず身を竦めた。

「空戦くん! 遅れてるわよ! あと円駆くんはちょっと速い! 巳槌くん、もっとシャキシャキ動くの!」

 叱声を飛ばす尾野辺の向こう側、体育館の舞台の上で踊っているのは、久之が「うちの子供」以外に形容する術を知らない三人の神なる身である。

 三人は揃いの体操着――この小学校の児童が着るのと同じものだ――に身を固めて、尾野辺の足元にある携帯端末から大音量で流れるアイドルソングに合わせて踊っている。体育館は密閉されていて、一歩入っただけで久之の肌にも汗が浮かんだ。

 しかし、久之は口を開けたまま立ち尽くしていた。巳槌に円駆に空戦、いつも浴衣でいるのが当たり前の、人間の目には「常識外れ」と映るところの多い三人の神なる身が、まるで人間の子供のような格好で踊っている。……それはある種の滑稽さを伴うと考えてもいいかもしれない。しかし三人とも、その表情は真剣そのものなのだ。久之がいちばん心配していたのは言うまでもなく円駆であるが、その円駆も汗を散らして、規格外に切れのある身のこなしを見せている。

 大いに馬鹿げていることであるが、自分が感動してしまっていることを久之は自覚した。

「……はい! オッケー! じゃあ休憩にしましょう」

 ぱんぱんぱん、と手を叩いて携帯端末の音楽を止めたところで、「あら」と目を丸くした尾野辺が振り返る。久之は慌てて目を擦って、ぺこりと頭を下げた。尾野辺は、上は派手な柄のTシャツ、下は短パンという、本職は養護教諭でありながら低学年に体育を教えるような、身軽な恰好であった。

「あの、昼ご飯を、持ってきました……。先生の分も、あります、ので……、よろしかったら……」

 拙く言った久之に、とうの昔に気付いていたらしく、「久之」体操着のシャツをたくし上げて羽を文字通り伸ばした空戦が飛んできて飛びつく。甘酸っぱい汗の匂い、びしょ濡れの髪であるが、久之は問題なく幼い身体を抱きとめる。

「こら空戦、羽を出すなと言っただろう」

 巳槌も舞台を降りて上を脱ぎながら空戦を咎める。

「空戦くんは、油断するとすぐ羽が出てしまうのね。最初の頃よりは我慢できるようになったけど」

 尾野辺はもう、三人が神なる身であることに納得しきっている様子で、少しの動揺も見せなかった。実際、天翔ける応龍や紅蓮の炎を纏った麒麟に比べれば、羽の生えた子供など可愛いものだろう。

「ああ……、もう……、糞暑い……」

 暑さにはいちばん強いはずの円駆だが、先程尾野辺が「速い!」と言っていた。体操服は水を浴びたようにびしょ濡れで、舌を出しながら渡り廊下にある水飲み場へと向かっていく。

 この夏の三人は、斯様な日々を過ごしている。即ち、朝起きて、体操服を風呂敷に入れて小学校へ行き、子供らがプールで歓声を上げている一方、この体育館で尾野辺から踊りを習う。「踊り」といっても盆踊りではなく、尾野辺の好む現代的な若者向けの、……要は、アイドルグループのダンス、である。少年たちはまずみっちりとそのライブ映像を覚えこまされ、踊りの基本から叩き込まれ、このところようやく実際に身体を動かして踊るようになったらしい。

 踊りの勉強が始まってから今日で一週間が経つ。正直、ここまで実践的なことをすでにやっているとは思っていなかった久之だ。いつもならば昼飯を食べに一回小屋まで戻ってくる三人にわざわざ握り飯を拵えて届けに来た理由の一つは、三人がちゃんと練習しているのか、尾野辺を困らせていないか、気になったからだ。

「あの三人、本当にすごいですね」

 体育館の床で車座になって、久之の持って来た握り飯を分け合って食べる神なる身たちを見やって、自らも久之の握り飯を齧りつつ尾野辺が言った。「呑み込みがすごく早いし、動きも……。円駆くんが中学生ぐらいかしら。巳槌くんが六年生ぐらいで、円駆くんは四年生ぐらい?」

 当人たちはもう少し大人のつもりでいるらしいが、久之も尾野辺の見立てには賛同するから黙って頷いた。もちろん、

「本当は……」

 と付け加えることは忘れないが。

「ええ。……冷静になって考えてみれば、あの子たちが、……仮に羽が生えたり火を出したりすることがなくっても、普段教師として見ている子供たちとは全く違うということは判るのに」

 少し反省したように尾野辺は言った。久之は浅く頷くだけにしておいた。

「……それよりも……、先生」

 居住まいを正して、久之は尾野辺に向き直った。久之はここへ来たかった二つ目の理由について口にする。

「今回の件……、あの、本当に、大丈夫なのですか」

 久之は、……巳槌に言われるまでもなく判っている、……俺は心配性だ、と。持って生まれた小心がそうさせるのか、それとも数々の経験ゆえにこうなっているのかは判然としないが、「うちの子供たち」と対外的には称する三人の神なる身について――彼らがいかに常識から出はずれた存在であると知っていても――心配をしないわけには行かない。実際、久之のいちばんの仕事は壺を焼いたり家事をしたりではなくて、何より「心配」をすることである。

「教頭先生は……、とりわけ、俺……、たちのこと、存在に、……寛容ではないと、うかがいました」

 慎重な久之である。人間たちの目から見れば得体のしれない自分たちが完全に容認され切ったなどと思う訳もなく、それはまだ、あくまでごく一部に過ぎまい。三人の神なる身は森原や駐在の悪事から学校の子供を救った存在であり、それは事実であるが、だからと言って久之が三人の子供たちとしている行為をつまびらかにして何ら問題がないとは思わない。ただ、その言及が止まって、一先ず無害なものであることだけを認められたに過ぎない。

 中には依然として、久之と目を合わせようともしない住民もいる。それは当然のことであり、その中の、いわば急先鋒であろうかと思われるのが、この小学校の「教頭先生」なのだ。

 もちろん久之は、尾野辺のダンスレッスンに巳槌たちを通わせるにあたり、小学校の設備を使用する訳でもあるし、尾野辺と共に三人の神なる身を伴って挨拶に上がっている。この際も、……教頭が「アイドルグループ」を毛嫌いしていることを事前に尾野辺から聴かされていたから、大いに緊張していた久之である。

「……なんだか、よく判りませんが」

 五十代の、半ばほどであろうか。きつい目つきの女性であった。痩せていて小柄だが、何とも言えない迫力があるし、声にははっきりと棘があった。その棘に反応してまた巳槌や円駆が悪いことを言いだすのではないかと戦々恐々としていた久之ではあったが、幸いその思いが通じたか、彼らは大人しくしていてくれた。

「お祭の部隊の使用許可は。……尾野辺先生?」

「はい。実行委員長には昨日許可を頂きました」

「夏休み中は尾野辺先生にも研修へ行っていただかなくてはいけません」

「それは、存じております。あくまで研修以外の時間帯に行います」

「プールの監視の係はどうします」

「それも、もちろん行います。幸い私の担当は午後ですので、体育館を使用するのは午前中に」

 教頭先生は一度も久之に視線をやることなく、ごく淡白に尾野辺の要請を許可した。ただ、去り際に、

「他の児童たちはどう思うでしょうね」

 と鋭い声で尾野辺に言った。「尾野辺先生、あなたはあくまでもこの学校の教師です。それを、……何ですか、よその子にかまけて。そういう姿を見て……」

「僕の見ている限りで、尾野辺先生ほど子供たちに慕われている先生はこの学校にはいないようですが」

 そこまでずっと黙っていた巳槌が唐突に言った。教頭先生が鼻白むのを見て、すぐに円駆が冷静に「行くぞ」と巳槌を促す。巳槌がくるりと踵を返して、「いやみめがね」と呟いた。それが主に高学年の児童たちが教頭先生に授けた綽名だと久之が知るのはこの後だ……。

「教頭先生は厳しいですが、悪い方ではないと思っています。真面目なんです、とても。……だものだから、私みたいな若い人間……、いえ、若くはないかもしれませんけど……、世代の離れた者の考えに容易に寛容になれないという理屈は判ります」

 そんな浮ついたものにかまけていては、子供たちの気持ちが判らなくなってしまいますよ! 教師たるもの、児童たちの模範にならなければいけません、常にその意識を忘れないように! ……そんなことを尾野辺は、教頭先生に言われたのだそうだ。

「教頭先生は、この小学校を、児童たちを、宝物のように思っています」

 久之は、先日の森原の一件で尾野辺以外の誰かから礼を言われたことはない。もっとも、誰かに礼を言われたりしたら――そもそも自分に向けられていた巳槌たちへの「虐待」自体は否定できるものでもないので――恐縮で死んでしまうかも知れないから構わないのだが。

 尾野辺は、教頭先生こそがいちばんに久之への感謝の気持ちを抱いている、という意味のことを言った。それを久之がどうとらえるかは久之に委ねられているに決まっているが、生憎久之にはどうとらえるべきか判らなかった。

「そしてこの小学校と子供たちは、過疎化の進むこの村にとっても同じく宝物です。……いまはみんな東京に出て行ってしまうでしょう? 私自身も生まれ育った街から東京へ出て、ここへ移動してきたわけですけど、東京がいいと一概に言うことは出来ないと思うの。この村は確かに小さくて貧しいかもしれないけど、東京には決してない魅力もあるわ。……巳槌くんたちのような神様がまだいる、それって、素晴らしいことだと思うんです。だから子供たちにはこの村の魅力を理解して、……もちろん、巳槌くんたちが『神様』ってことは伏せて、でも、素敵な思い出をたくさん作ってあげられれば、いつか大人になって東京に出て行っても、この村に戻って来てくれるかもしれない……、教頭先生も私もそう思う気持ちは同じです」

 尾野辺は本当に子供たちを大切に思っている……、久之のそんな想像は、恐らく間違ってはいないだろう。巳槌たちを思う久之の気持ちとはまるで似ていないだろうが、その純真な思いは久之のような者であっても少しは理解できるし、大いに共感できるものだ。この真面目な女性教諭がそういう人物であることは、もとより久之も想像していたことである。

 しかし。

「……先生」

 久之が今日、わざわざ握り飯を自ら届けに来たのは、巳槌たちの踊るところを観たかったから、というだけではない。

「あの……、今日、あの子たちの、練習が終わった後、……少し、お時間を頂いて、いいですか」

 相手のことを「先生」と呼ぶ習慣が付いてしまったものだから、どうも尾野辺に対して物を言うとき、久之は彼女の「生徒」になってしまったような気持ちになる。尊敬に値する人物であることは確かだが、彼女の方が久之より年下である。

 尾野辺は少し目を丸くして、

「ええ、構いませんよ」

 とにっこり微笑んで応えた。久之が――言葉に器用なところの少しもない男が――そんな風に誘うのは、これが初めてのことだった。

 

 

 

 久之は学校の保健室に招じ入れられた。クーラーが入っていて、思わず背筋が伸びるような涼しさである。久之の思うところを察してくれたらしく、巳槌は「子供らと遊んで来てやろう」と嫌がる円駆と眠そうな空戦を引っ張ってどこかへ行った。本質的に人と話をすることが不得手で、しかも妙齢の女性と二人きりになるなど全く不慣れであるから、久之は大いにどぎまぎする。

 ただ、彼が尾野辺と二人きりになることを望んだのは、別段色艶のある話をするためではなくて。

「先生は……、お祭の日は、どう、されますか」

 尾野辺は久之に麦茶をすすめ、「どう、とおっしゃると?」首を傾げる。

「……あの、当日、先生はあの子たちのことを、何処から、ご覧になりますか」

「どこから……」

 尾野辺は少し考えを巡らせて、「例年、仮説の舞台を建てることになっています。巳槌くんたちのダンスもそこで披露することになるはずです、だから……、そうね、ぎりぎりまで舞台袖で一緒にいたいと思っています」久之の想像の範疇にある答えをもたらした。

 言うべきことは決まっている。けれど、それをどう伝えたらいいのか。

 久之が言葉に対して怯えに近い感情を抱いている背景には、いつもそういう迷いがある。

 あらゆる言葉はそれだけで力を持つ。誤った受け取られ方をされたらどうしよう、意図なく傷つけるようなことになったらどうしよう、……そういうことを考えては、言葉とはぐれ、喉がつかえ、舌が回らなくなる。

 久之の思うところに気付かないらしい尾野辺は、

「まだ粗削りだけど、本番までにはきっと三人とも、ダンスを完全にマスターして……、きっと村の人たちみんな喜んでくれると思います。私もそれを見るのが今から楽しみです」

 それだけで満足であると言うように微笑んで言う。その顔を見れば、固めた決意があっさりと揺らぎそうになるのが久之という男で、「そうですか」との言葉が口をついて出掛かった。仮にその言葉を発したならば、次には「では、これで」と頭を下げて帰る、……それだけで済む。

 そもそも。久之のいま考えていることは片っ端から久之自身の妄想に過ぎないかもしれないのだ。巳槌がどういう考えを持って「踊り」をしようと言い出したのかということについて、巳槌の口にした言葉以上のことを想像したとき、それが正しいとする根拠はまるでない。巳槌の――神なる身の――考えることを未だ人間の色の濃い自分が類推することは罪深いようにも思われるし。

 しかるに、巳槌が久之だけのためにこれほどのことを始めたとは思いがたいのだ。そこまで浅い考えしか持たずに周囲に影響を与えるような巳槌でないことは、久之はもう誰より知っている。

「……先生は、踊られませんか」

「はい?」

 思わず零れた言葉に、尾野辺も思わず、といった感じに目を丸くして久之を赤面させた。まるで出来の悪い生徒だ、これでは。口の中が急激に乾いていくような感覚がある、冷房のかかった部屋でありながら背中や脇の下に汗がにじみだす。そのくせその汗は、やたら冷たい。

「……つまり、あの……、こういうことです、……先生。先生も、あの子、たちとともに、踊られては、いかがでしょうか。その、……子供たち、……学校の。先生のこと、が、好きな、子供たち、先生が、守りたいと、心から思って、おられる子供たち。と、……あと、うちの、子たち、も、子供たちを、愛しています、特に、巳槌は、……特に。その、あの子たちが、先生と、仲良く、一緒に、踊っておられるところを見れば、村の子供たちは、きっと、喜ぶと思う、のです。ですから……」

 常人にあっても、差し出がましさを自覚して物を言うときほど気まずく心づまりなことはない。その上、元来人間との会話が極端に苦手な男である。だからもう、だんだんと、自分が何を言っているのかも危うくなってきて、その顔は紅くなったり蒼くなったり忙しい。焦れば焦るほど言葉が出なくなる。

 尾野辺はじっと久之を見詰めて、一度、硬く結んだ唇を緩めた。

「考えたこともありませんでした」

 久之は叱られた児童のように小さく「すみません」とだけ言う。

「あなたが仰ることにも、確かに……、意味がある、そして価値があると思います。しかし私は人間であると同時に教師ですから、……学校という企業社会の中に組み込まれている企業人と言い換えることも出来るかもしれません。教頭先生にあんまりじろじろ睨まれているのは、私だって少し困ってしまいますし」

 身体が縮むならば縮んでいる。蛇というか、ミミズにでもなって、土に潜って逃げ出したい。久之という男は背ばかりは高いのだった。

 腫れたような舌を叱咤して、

「すみません、余計な、ことを言いました」

 そこまで言って頭を下げて、髪に隠れた耳まで真っ赤にして久之は辞去した。声に追われることもなかったが、自分の浅はかな考えを呪いながら校舎を出て、とぼとぼと通りを行く、空は茜色に染まりつつあったが、まだまだ暑い。

 里外れの道で、空戦と出会った。

「やあ、こんどこそ久之だね」

 浴衣姿の空戦は路肩の縁石に小さな尻を乗せて、久之に気付くなり立ち上がって微笑んだ。

「……巳槌と、円駆は?」

 盲目の子供の側にはいつでもどちらかが付いているはずだ。無論空戦だって――光こそないにせよ――極度に発達したそれ以外の四つの感覚を用いれば、一人で放って置かれても小屋まで帰り着くことは容易いだろうが。

「二人は、お風呂を沸かすと言って先に小山で行っている。僕は君が帰って来るのを迎えるように言われて、待っていたんだよ」

 風呂は、確かに空戦には沸かせない。水の応龍と炎の麒麟が力を合わせればあっという間に湧くだろうが、だからと言って空戦を伴わなかった理由が久之には判らなかった。空戦だって疲れているだろうに。

「一緒に寄り道をして帰ろう」

 空戦は久之に手を伸ばす。円駆と巳槌に比べても小さく幼い少年の手が温かく思えたところで、久之は自分の身体の末端がずいぶん冷たくなっていたらしいことに今更ながらに気付いた。

 そんな手を、少しも嫌がらない空戦に、

「……こんどこそ、って、さっき、言ったのは……?」

 そっと久之は訊いた。

「さっきから、人間が三人来た。うち二人は子供だったよ。僕が暑そうに思えたのかな、冷たい麦茶を持って来てくれた。それから三人目は、この村の『駐在』をしているという大人だった。久之より少し年下だろうね」

 駐在、という言葉に、久之はまたあの指先が冷たくなる感覚に陥りそうになった。全く以って、嫌な思い出しかない対象であるから。もっとも、それであの駐在や森原を責める言葉をどの程度発せるか、久之自身には全く覚束ないのであるが。

「とても面白い言葉遣いをする人だった」

 空戦は思い出し笑いを噛み殺したような顔になる。顔の形は愛らしく幼いのに、浮かべる表情は時折巳槌よりも大人びるのがこの蝙蝠の神なる身だった。

「……面白い、というと……」

「『本官は、この村の駐在であります。以後、何卒よろしくお見知りおきをお願いするでござる』」

 しゃちほこばった言い方を真似て、空戦はおかしそうに笑った。

「どうやらこの村の人間たちは本当に君と君の周囲に居る僕らに対して、ある種の『おそれ』を抱いているみたいだね。悪いことじゃないと思うよ、君が円駆と巳槌と、一緒に積んできた実績が彼らにそういう思いを抱かせるんだろうね」

 空戦の足は、小屋に繋がるケーブルカーとは逆の向きに進んだ。間もなく村に唯一の消防署が見えて来て、その向かいには駐在所があるのだった。

「やや、これは、これはこれはこれは!」

 空戦の言ったように「若く」て、いかにも生真面目そうな青年警官は空戦に手を引かれた久之の姿をみとめると、読んでいた帳簿をすっ飛ばして出て来た。

「ちゃんと久之は来たよ」

「はっ、全く以って、仰る通りでござる」

 緊張しているのか、顔を真っ赤にして、おかしな言葉遣いをする警官はすぐさま制帽を取り、「本官、七月よりこの村に派遣されて参りました、信楽と申すものでござります」と深々とこうべを垂れた。久之は信楽と名乗った駐在と、隣でくすくす笑う空戦とを見比べて、何とも落ち着かない気分でいるのみだ。

「信楽くんは」

「くん」

 思わず訊き返した久之だったが、こんな幼子に「信楽くん」などと呼ばれても信楽は全く気にする様子もない。「去年の冬に、久之がお巡りさんたちに捕まりそうになったときのことをよく知っている。あの日山に入ってきた警官隊の中に、彼はいたんだ」

「はっ……、全く以って、いやはや、何と申し上げればよろしいか……」

 信楽はしどろもどろになりながら、

「しかし、久之殿におかれましてはあの、警察を代表して、心よりお詫びを申し上げたい所存でございまする……、こともあろうに、我々警察官の中にて起きた不祥事で、罪なき民間人であるあなた様にご不快の念を抱かしめるような出来事を……」

 体の柔らかい男だと、久之は思う。そんな風にぴっちり両足をそろえた状態で、よくもまあ、そこまで綺麗に前屈が出来るものだ。

「信楽くんは、さっきね」

 空戦はあどけない微笑みを浮かべて久之を見上げて、言う。「僕を見付けて、僕が久之の家の者だということをすぐに判ったんだ」

「その……、このお暑うござる中、お一人で、おられたものですから」

 弁解口調で、ようやっと顔を上げた信楽が付け足す。

「そう。それで……、僕は久之が尾野辺先生と話をしているから、それが終わるのを待ってるって答えた。そうだよね?」

「さようでござります」

 はて。いま空戦が「尾野辺先生と」と言ったとき、一瞬不穏なものが信楽の中に走ったように思えたがそれは思い過ごしか。

 しかし、目の見えない空戦はそれでも全て「見通して」いると言うように、

「久之は、尾野辺先生とどんな話をしたんだろう?」

 そらとぼけた様子で訊いた。

「どんな……? どんなって……」

 思い返すだけで、恥ずかしさが再び沸き起こってくるようだった。

「……お祭の、……ええ、お祭の日の、ことを、お話しした、よ」

「お祭と仰るのは、三週間後の地鎮祭のことでありますな?」

 また、少し目を光らせて信楽に問われ、久之は黙ってこくんと頷いた。

「ぐ、具体的にですな、具体的に、久之殿は尾野辺先生と、お祭について、どのような、ええ、どのようなお話を、いえもちろん差支えのない範囲で結構ではございますが!」

「ぐ、具体的……、具体的に……」

 腰は低いが妙な威圧感がある。しかしどこかぎくしゃくとしていて、信楽自身自分の態度の可笑しさを自覚している様子である。それゆえに、微妙な滑稽さがその動きには伴っていて、彼自身が彼の所作を戯画的なものにしているようにも見える。

 久之は、溜め息を一つ飲み込む。

「……先生は、踊られませんかと、……その、差し出、がましい、ことは、すごく、承知した上で、……そう、申し上げ、ました」

 頬が紅くなっている自覚を持って、そっと信楽の反応を伺ってみれば、信楽はうってかわってぽかんとした表情を浮かべているのだった。まだ成人したばかりのような、少年っぽい純情さがにきび跡のある頬に浮かんでいる。

「先生に、踊られませんか、と」

「……そう、です……。その……、先生も、踊りは、お好きなはずですし、その、……うちの、子供たち、……この村の、子供たちと、仲良く、出来ては、いますけど、でも、……子供たちが、大好きな、先生が、一緒に踊って、いるところ、見たら、……より、受け容れられる……、のでは、と。そう……、愚かにも、考えて……」

 叱られたことを思い出して、力なく久之は首を振る。

「先生には、却下、されました。教頭先生に、怒られてしまう、でしょうし……」

 信楽は、塩を振られた小松菜のように顔をしわくちゃにしたかと思ったら、ぱっと澄んだ表情になって、

「久之殿は、素晴らしいお考えをお持ちのようだ」

 唐突に言い出すなり、久之の、空戦とは繋いでいない右手を両手で取った。ずいぶん熱い掌である。

「なんと、何と素晴らしいお考えか! おお、尾野辺先生の、踊り、ダンス! ステップ! それはきっと、……そう、天女の舞に勝るとも劣らぬ、素晴らしいものであるに違いありませんなあ!」

 今俺が言っていたことを聴いて貰えていなかっただろうか。あるいは、やっぱり俺の言葉が拙いから正しく意味が伝わらなかっただろうか。信楽に腕をぶんぶんと上下されながら、久之は暗澹たる気持ちになる。振り回される久之の隣で、空戦はにこにこ微笑んでいたが、

「良かったね、信楽くん。久之は尾野辺先生に懸想文を書いたりはしていないようだよ」

「けそう……?」

 やけどをしたように、信楽が久之から両手を離して幼子を睨んだ。

「くっ……、空戦殿! それは空戦殿と本官の秘密でありましょう!」

「でも、久之は僕の保護者であり、僕の一番愛する者でもあるからね。そういう者が尾野辺先生に懸想文を認めるようなことがあってはいけないと思うのは、君も僕も同じだから」

 ころころと子供の声で笑うが、空戦の表情には老人のような余裕がある。「じゃあ、帰ろうか」と久之の手を引く空戦に、

「絶対にっ、ぜったいにこのことは内緒でございますぞ! 久之殿も! どうかこのことはご内密にッ」

 泣きそうな声で言葉を投じる信楽に振り向いて、まだあいまいな表情のまま頷いているうちに、ようやく事の中身がきちんと見えた久之である。

「……駐在、さんは……、尾野辺先生のことが、好きなのか……」

「そのようだね」

 空戦はすんなりそれを認めた。「君が尾野辺先生と二人きりになっているという状況に、酷く不安を覚えたようだよ。君だって人間から見たら雄だし、尾野辺先生だって雌だから」

「俺は……、もちろん、尾野辺先生のことは、好きだけど、そういう風には、……とても」

「僕がそれを知らない訳もない、円駆も、巳槌もね。だけど人間同士ではそういう訳にも行かないだろう。だからちょっと意地悪をしちゃった」

 いたずらっぽく笑った。「人間は面白いね。巳槌が人間を好きと思う気持ちとは別かも知れないけど、僕も人間のことが好きになれる」

「……そう……、それは……」

 俺にとっても喜ばしいこと……、に決まっていた。空戦など、何処へ出しても誰からも嫌われない、そんな見目と性情を持っている。その点は正直、少し羨ましく思える。

「ねえ、久之?」

 今度こそちゃんと単索軌道へと向かいながら、空戦はゆっくりと言った。

「僕には君の考えていること、まだ見えないけど、君の考えることが間違った例というのは少ないと思って間違いはないよね?」

「え……?」

「君は尾野辺先生を僕らと踊らせようとしている。それは君がさっき信楽くんに、そして尾野辺先生に言ったのとは違う理由だろう。……どうかな」

 久之は、少し黙って、

「……巳槌か、円駆が、そういうことを、言っていた?」

 慎重に訊いた。

「いいや」

 空戦はゆるやかに首を振る。「あの二人がどう考えているかは判らないし、あの二人も僕が考えていることに気付いているかどうかは……。それに彼らは最近、君の心を読もうとはしていない様子だよ。それだけ君のことを信頼しきっているということだ。つまり」

 円駆と巳槌を上に運んで、二人によって下に戻された単索軌道の箱の中に、久之の手を借りて乗り込んで空戦は大きな目で久之を見上げる。何も見えていないはずなのに、何もかも「見」ている。鏡のような目だと久之は思った。

「僕たちはみんな、言葉を使って意志の伝達をするけれど、たまに言葉を使わなくても同じことを考えてしまうときがあるんだ。今がきっとそういうときで、……巳槌も円駆も君が尾野辺先生の所へ行ったと知ったとき、何も言わなかった。彼らが言わないんだから、僕も何も言わないよ。ただ、君が何を考えてそうしたかを、僕らは確かめ合うまでもなく判っていて、それを支持している」

 久之が乗り込むと、その背中にくっついて、「そして僕は少し援護をする」と囁いた。

「信楽くん」はこれからどうするだろう? そういうことを考えて、久之は自分の背中にある体温の深さの途方もなさに、思いを馳せた。

 

 

 

 

 久之という男は、生来の口下手を自覚するがゆえに必要以上に慎重な男である。そういう男であればこそ、昼間尾野辺に話したことは彼の真なる心から発したことではあっても、それが彼女に何らかの不穏な感情を呼び覚まさせはしなかったかということに、不必要なほど緻密な神経をすり減らしてしまいそうになる。

 空戦が言ったように、このところ巳槌と円駆が彼の心を「読む」ことをあまりしなくなった、ということは久之も自覚があった。心を読まれることに不快感を催したことはなく、むしろ言葉を敢えて用いずとも「読んで」もらえるだけで楽が出来る、……そういう怠惰な感覚がないではない。しかるに、そうやってある意味「甘やかす」ことで久之の言語能力の発展を阻害するおそれについて考えてくれているのだろう。

 月下、巳槌は言った。

「厄介なことを考えているんだろう」

 そして、付け加える。「心に踏み入ろうとするまでもないことだ。お前の顔を見ればそれぐらい誰だって察せるよ」

 巳槌は二度目の風呂に入りたがった。彼は円駆と、久之は空戦と既に一回ずつの入浴を済ませた後であったが、何故彼が入ることを望んだかと言えば「あのけだものと入ると湯が熱くなってのぼせる。いつまでも身体の芯が暑苦しいから、お前と入ってさっぱりしたい」などという全く以って不必要な理由で――無論、円駆はまた大いに腹を立てていた――なるほど、そういう理由を捏ねて造ってまで二人きりになりたがった上に、巳槌が微笑みの欠片さえ浮かべないことからは、久之だって「察する」ことは出来るのだ。

 巳槌は鍋縁に腰掛けて品なく足を広げ、太陽から守った白い場所を月の舌に舐めさせて久之の答えを待った。

 この件に関しては、……巳槌が動かし始めたことである。それは間違いない。意図をきちんと訊いたことは、まだ一度もなかった。ただ巳槌が何を思って――単に酒やら何やら、人間からの供物を求めて――始めた訳ではない、のだろう、ということに関しては、既に空戦が気付いているぐらいだから、円駆だってとうに辿り着いているはずで。

 しかし、ならばそれを敢えて俺が確かめるべきなのか。

 久之が黙ったまま答えないでいると、

「僕がお前を否定したり非難したりすることはないぞ」

 と眩い月に目を向けて、不愛想に言った。全体、何を言うときにも愛想が良かったためしがないし、良くない方が原則的に他者を安心させるという難儀な男である。その難儀さに自覚もない男である。

「真心の結果は常にいいものと相場が決まっている。逆に、邪心の贈り物はどんなものだったとしても価値はない。僕はたまたまそういう力があるからな、お前に何だってくれてやる。だけど僕がお前に贈ったもので、真心を籠めなかったものは一つたりともない。それはわざわざ僕がこうして言うまでもないことだろうし、お前が一々判っていると答える必要もない。訊いて確認した訳ではないが」

 ちゃぷ、と湯の中に入り、そのまま久之の膝の間までにじり寄って、

「空戦や円駆も当然同じことを考えているだろうよ。そしてあいつらは僕を信頼している、……僕の乗る船は沈まない。船頭としてお前が同乗しているならば、その信頼感はなおのこと強まる」

 あいまいで、かつ奇妙な言い回しをしたところで、巳槌は無表情のまま唇を重ねた。目を閉じる隙もなく、銀色の長い睫毛が眼球に刺さるように思われた。それほどに美しい顔が間近にあって、息を呑む時機すら失っている久之の前に座り直した巳槌は、

「お前は僕らを全能なる身だと思っているだろう」

 やや断定気味に言って、首を振った。

「僕らは幾らでも間違えるし、だからそれだけに考える。僕が物言いをするときには必ず、先々のことまで考えているし、それは人間たちと少しも変わらないはずだ。それ相応に悩みもするし、……だいたい、僕らが全能なる身であったとすれば、あのけだものがあんなけだものなはずないし、空戦の視力だってお前と会う頃までには治っていただろうよ」

 小屋の方を思わず見やったが、大きなくしゃみでぼろ小屋が揺れるということはないようだった。

「それでもって、僕はお前が好きだからな」

 巳槌は無表情で言う。月の光で蒼褪めて、それでいて日焼けしていることがはっきり判る頬、大きな眼、美しい眼、それでいながら控えめな、口。

「お前のことが好きだから、どうにかしてお前がいい思いをすればいいと思ってしまうし、それについてもあいつらは同じだろうよ。ただ僕の方があいつらよりも多少なりとも人間に慣れている、……ひょっとしたらお前よりもな。だからその分だけ僕が知恵を働かせるのが妥当であろうと、そういう風に考えている」

 生真面目な顔をして言うとき、巳槌は本当に真面目そうに見える。いや、事実として真面目に物を考えているのだろうけれど、この神なる身と長い時間を過ごせば過ごすほど、この少年のそのときどきの精神状況がいかなるものか、判らなくなりがちだ。それは久之のみに限ったことではなかろう。円駆など、巳槌と一番長い時間を共に過ごしながら、誰より一番彼のことを「判らない」と思っているかも知れない。

 久之はただじっと少年の顔を見詰めて、一つ、頷く。

「お前の考えていること、わざわざ言わなくてもいい。と言って、別にお前の心を読もうという訳でもない」

 巳槌は背中を向けて久之の膝の間に収まった。よく陽に焼けた肩の描く線が、いつもよりも精悍に見えた。しかし巳槌は久之の両手を取ると、自分の腹に回させる。相変わらず華奢な、痩せた身体付きであり、自分より余ッ程強い応龍であることを束の間忘れさせた。

「ただ、僕ももう、そういうことをするまでもなく、お前の考えることを観通せるようになったというだけのことだ。そして言うまでもなく僕は、久之、お前の幸せを祈る者だ。神なる身として『祈り』を捧げたくなるぐらいに、お前のことが愛しいから」

 巳槌が何を考えているかは、判らない。判らないなりに信じることが出来るのは、この小さな神なる身は、間違いなく自分を愛してくれるのだということ、自分がこの神なる身を心から愛し続ける限りは。

 人間の身にしてはたいそうなことを考え過ぎているだろうか、と少し思う。人が人を幸せにしようとするとき、それはごく限定的な範囲にとどまる。どんなに富と権力を持ち合わせている者であろうと、結局その腕に包み込める程度の範囲でしか誰かを幸福にしてやることは出来ないだろうから。

 しかし。

 久之は「わがままかもしれない」と思う上で、巳槌と円駆と空戦が居たなら、あるいは……、ということを考えることをなかなかやめられなかった。

 

 

 

 

 

 小学校の体育館に握り飯を届けに行く道すがら、

「やや! これは! 久之殿! 偶然でありますな!」

 信楽が反対側から息せき切って走ってくるのを久之は見た。麦茶が入っているのであろう大きな給水器を抱えて。

「あの、……こんにちは」

「ほ、本官も、ちょうど、今来たところでありまして!」

 激しく息が弾んでいるし、汗だくだ。体育会系の部活動や地域の運動大会で使われるような代物である。いったいどこで仕入れて来たのだろうと思ったら、

「本官が、学生時代に、使っていたものであります、せっかくなので、皆様のお役に立ちたく、思いましてな」

 ようやく少し息を収めて、信楽は応えた。その心意気、意識の高さは尊敬に値するものであろう。ただ、人の「恋」する心というものを明瞭な形で見せられて、久之は少々戸惑いも感じる。感情表現を大きくするだけの素養が久之にはない。ただ、素直であることは間違ってはいないだろう。

 信楽は信楽で、久之に尾野辺に向かう特別な感情を抱いている訳ではないと知って、久之に対して妙な共感を覚えているようだ。彼の恋する感情の清らかなることはその眼を見れば明らかである。空戦が可笑しそうに言っていたように、信楽の言葉遣いは緊張と敬意がないまぜになっているせいで奇妙極まりないが、幸せになって欲しい真心を持った人間であることは久之にもよく判る。……また幸せになるべき人間が増えてしまった。

 俺に出来ることがあるわけじゃないけども。

 久之はそう思いつつ、体育館に入った。

 先日来の熱のこもった練習が続いている。舞台上の三人の踊りの動きは、もとより人間を超越したものであるからすさまじい運動神経の賜物であるに決まっているが、更に磨きがかかり、切れ味鋭いものになっているようだ。

 尾野辺が久之と信楽に振り向いた。信楽の背筋が伸びる、ぴっという音が聴こえた気がする。尾野辺も信楽が現れたことには少々驚いたようではあったけれど、それを疎んじる気配は全くない。

 そして、……信楽はもちろん気付かないだろうが、久之は気付く。曲を止めた彼女の服が、先日来たときとは違うことに。

 より、身軽な動きやすいものに変わっている。

 もちろん、それを見て何かを言う久之ではない。彼が抱くのは確信ではなくほのかな予感だ。それでも、その予感の体温は夏としては爽やかで、それでいて春の陽射のように温かい。

「じゃあ、休憩にしましょう」

 舞台上から汗だくの三人がとろとろと降りてくる。「腹減った。くそ、腹減った!」円駆がぶつくさ言い、早速久之から握り飯をねだる。空戦は信楽の存在に気付いて、微かな笑みを久之に向けた。そして巳槌はいつもの通り、何の愛想の欠片もなく髪を掻き上げて、信楽の許しも得ずに久之が渡したコップで麦茶を飲み始めた。


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