KILLING TIME OF "KILLING TIME OF GODS"

 原則として、久之は巳槌のみならず三人の神に対して無限の寛容を発揮する。自由気儘なな廬及び山での暮らしではあるが、その点だけは厳に守られていなければならないと、……巳槌たちの誰も思っていない、ただ久之はそう思っているのだ。

 明くる日、

「何か、騙された気がすんだよな……」

  一緒に来い、と言われて、久之は円駆に付いて行った。正確には麒麟の背中に乗って、山の頂き近くの、今は空の洞穴まで到った。もう、雲が届きそうなほど近く、風も冷たい。

浴衣の帯を適当に結んだ円駆は、岩くれに腰掛けてそう言ったのだ。

「……と、言うと……?」

「目先の酒に釣られて、何かわかんねえけど損なことに巻き込まれてるような気がする……」

 さすがに巳槌の性格の悪さを一番知っていて、尚且つその被害を最も受けてきただけある、正解である。

「なあ、あいつは俺に何をさせようとしてる? ……一応な、お前の心を覗きゃ、んなことすぐ判るけど、それは礼に失するやり方のような気もするから、ちゃんと訊いてやる」

 じろり、と三白眼を向けて訊く。

 久之だって、巳槌の判断に対して全面容認したい気持ちと、しがたい気持ちとの両方が混じり合っているのだ。騙されているかもしれないという懸念を円駆が抱くのも当然のことではあろう。

「何て、言ったらいいか……」

 溜め息を吐いて、久之は口を開いた。ごく重く、決して滑らかではない口を。

「……巳槌は、……俺のことを考えて、くれているんだと、思う。その……、この間……、学校の先生と駐在さんが、あの女の子に、虐待を……、していたときのこと」

「同質」と捉えられても仕方のないことを、その「被害者」たる円駆に向けて「加害者」たる自分が言う、という事実に、久之は困惑を禁じ得なかった。ただ円駆は「『さん』なんて付けなくていい」と不快そうに顔をしかめて言うだけだ。

「あのとき以来、ずっと……、巳槌は、人間と、あの村の人たちとの関係を、考えていたのかも、しれない。……あの子は、元々人間が大好きだ、だった。でも、あの件で、……たくさん、の、警察の人間とか、あと、……そもそも、俺とお前たちが、そういうことをしているって、……疑い、じゃない、事実から、身を、護ろうとした……、そういう、『対立』があって、巳槌は……、きっと、しんどかった、んだと思う。……つまり」

 我がことながら、何と拙い言葉であろうかと情けなくなる。自分に引け目があるからそうなるのだろうか。

「巳槌は、……村の、特に、……かつての森原先生、とか、他の、子供たち、の親、の人たちと、新しく、関係を築き、直したい。そう思って、……考えた、結果が、……俺なんかがあの子の、考えを、代弁するの、が、正しいかどうかは、判らないけど……、とにかく、……夏の、祭を通して、新しく、上手くやって行ける……、ようなやり方を、模索している、のだと、思う……」

「んで?」

 円駆は足を組み、膝に置いた腕をぶらぶらさせて続きを促す。「それは、具体的にどういうことだ。あいつは俺に何をさせようとしてんだ。……ああ、お前の考えでいい、直接聴いてんなら、それを言え」

「それは……」

 緊張して、久之はごくりと唾を飲んだ。

 本当に、言っていいのだろうか。

 しかし、じいっと睨んでいる円駆から逃げることは出来ないし、そもそも逃げようなどと考えること自体、「恋神」に対してはこの上ない不義理に当たる。

「……歌を、唄おうと、思っているのだと、思う」

 円駆が、毒気を抜かれたような顔になった。

「……うた?」

「歌を……」

「歌を……、……唄う? 誰が? ……俺がか?」

「だけ、でなくて、……巳槌と、空戦も……、三人で……。人間の歌、を。人間の服を着て……。そうすることで、……人間の側、が、神獣や、この山と、……恐らくは、巳槌にとって、好ましい距離感を、作る、きっかけになるって。……そう、考えている、んだと、思う」

 当然、円駆は怒るだろう、……久之はそう考えていた。しかし十数えても二十数えてもその癇癪玉が破裂することはなかった。円駆はただただぼんやりとしているように見えた。

「……よくわかんねーな、それがどうしてお前や巳槌に得な形になんのかがまずわかんねーし、俺が酒を貰える理屈もわかんねえ。でも、あいつはそう言ったのか」

「……うん、……多分、そういうこと、だと思う。お前たちが、そういうことをして、人間たちを、喜ばせられる、って、思っているのだと、思う。そうしたら……、って」

 円駆はまだしばらく、じいっと久之を睨んでいた。或いは、いまこうして久之が口に出した言葉の他に何か隠し事をしている可能性について、円駆は考えたのかもしれない。

 しかし、やがて納得したように頷くと、

「……よく判らんが、あいつが勝手なことだけは判ってる」

 深い嘆息を、円駆はした。激しやすい性質で手が出るのも早いし、言葉遣いも荒っぽい円駆ではあるが、聡明さでは巳槌に負けていない、或いは、三人の中で一番理性的な物事の考えをするのはこの円駆ではなかろうかとさえ久之は時に思う。

「……その、巳槌にも、考えが、たぶん、ある」

「あー、そりゃそうだろうよ、何も考えなしに行動を起こすほどあいつは愚かじゃねえだろうよ。でもな、その考えをあいつは一人で纏めちまうし、お前はそれを咎めねーし、……まあいいけどよ」

 円駆が怒っていないのは、意外なことであった。まだ少しの間、円駆は考え込む。久之は天井の低い洞穴の底に腰を下ろした。

「……あいつが女の服を持って来たのは、……俺ら三人を人間の女みてーにして、お前とそういうことをするつもりなのかと思った」

 小さな声で言って、「独り言だぞ、なんでもない」と円駆は打ち消した。それから明瞭な、凛とした声で、

「言っておくが、俺はあの女のひらひらした服を着て唄ったり踊ったりなんて絶対しねーからな。それだけは言っておくぞ。人間の服を着るのだって鬱陶しいんだからな」

 と宣した。

 巳槌も、「人間の服に慣れるため」と言っていた。だから性はともあれとにかく服をと尾野辺に求めたのだと。だから其れについては、恐らく懸念することはないものと思われた。

 それより驚いたのは、先程の「独り言」の内容である。

「あの、……俺は別に、あの、お前たちが、女の子の、服を着ている必要なんて、感じたことは、一度もないよ……」

「だ、だからさっきのは独り言だっつってんだろ」

「ああ、……うん、ごめん……」

 口を滑らせてしまったことを反省しつつ、久之は頭を下げた。ただ、口にした内容そのものに関しては、ぐるり囲われてどこから見られようと不安がないぐらいに本心である。そしてそれだけに、精査されるのはたまらない。

「……ったく、……馬鹿久之……」

 紅い顔をして、円駆はぶつくさ言う。「と、とにかくだな、あれだ、あの、……声を出せ身体を動かせって、そういうこと自体はだな、俺は、酒の為なら……、あいつが『やれ』って言うからじゃねーぞ、まだ呑んだことのない酒がそれで手に入って、どっかのついてでお前が助かることになんなら……」

「い、いや俺は、助かるかとか、そういうのは……」

「とにかく! 別にしてやらんこともないっつってんだよ! 俺は新しい酒があるならそれを呑みたい!」

 何で怒られているのだか久之には判らないし、きっと円駆も円駆で何で怒っているのか判然としていないであろう。

 そして、沈黙が訪れる。

 其れを、言葉の下手な方が破るのだ。そっと障子紙に指を立てるようにして。

「……俺は、……その、本当、だよ? お前たちが、……女の子であっても、なくっても、……大事だ。その、俺なんかの側に、いてくれる、幸せを分けてくれる、そういう、……こと、だけで、幸せだから……、俺はお前たち、が、可愛い、から」

「可愛くねえ!」

 いや、可愛いのだ。

 其れが、……巳槌にしても空戦にしても、美しく整った顔であるから、ひ若い少年であるから、……男児であるから、そういった理由ではないことを、久之は何度も何度も思って来た。

「俺には……、俺にとって、お前たちが、全員、大事な『恋神』で、ある、……それだけで、どんなとき、でも……、可愛く見えるように、そういう風に、見える、……力、目がある……」

「あァ……? なんだよそれ……」

 いまだ完全な神ではない身体の久之である。僅かにその片鱗が覗くのは、焔と水の両方を操る力を身に付けていることばかりだ。

 しかし、本当は違うのだ。

「俺は、円駆がいるのを見ると……、嬉しくなるし、お前が、可愛く見える目を持つように、なったんだ。それは、お前たちと一緒に、過ごして、分けてもらった火と水の力だけじゃ、なくって、お前たちのことを、そういう風に見える、……そういう、風にしか見られないような、目になった」

 少し微笑んで、久之は言った。不機嫌に、ごく胡散臭げな顔をして、円駆はじいっと久之を睨み上げるが、これについても幾ら疑われたって本心である。円駆は頬を染めて、

「馬鹿じゃねえのか」

 とそっぽを向いて吐き捨てた。

 しばらくまた黙りこくって、何か思案していたが、……名案でも浮かんだのだろうか。一度物も言わずすたすたと草履の足で洞穴の入り口まで行って、何やらきょろきょろと見回してから、……人の姿のまま麒麟の咆哮を一つ。久之の耳にも、山のあちらこちらからそれに呼応する声が返って来たのが届いた。

「……じゃあ、証明して見せろよ」

 浴衣を「着崩した」というよりはただ単にだらしなく身体に絡み付けただけの円駆は、そう言って、笑った。

 ことによっては巳槌以上にあまり笑わない円駆である。巳槌によって空戦によって、そしてこんな風に久之によって、だいたいいつでもぷりぷりと怒っている少年の、不意に見せる笑顔に久之は思わず息を呑んだ。

「お前のその目には、俺が『可愛く』見えるんだろう? ……物好きな目だよ。巳槌と空戦だけそう見える目だったらどんなにか得だったろう」

「……そんなことは、……ない」

「どうだかな……」

 瞳は彼の操る焔の色で、それが暗く揺れている。お世辞にも優しく顔立ちではないが、それゆえに巳槌や空戦がこれから長い時間をかけたとして手に入れることが出来るか判らない、刃のような雄の鋭さを円駆は纏っている。それでいながら、……どうにも甘さが抜け切らない。それが彼自身の誇りをどれほど損ねるものか、久之には想像出来ないが、ただ全てを含めて円駆を見たとき、どうしたって、……いとおしい、と思うのである。その思いを止められなくなるのである。

「……俺はお前が一番判らん」

 円駆はそう言って、久之の着物の襟を掴んだ。「巳槌や空戦をそうやって『可愛い』と思うのは別にいいだろうよ。俺だってあいつらの面見りゃ、そりゃ確かに『可愛い』と思ってる。でも、何であいつらと俺が一緒なんだ。何だってそんな損な目を持っちまったんだろうな……?」

「……それは……」

 間近に凄まれても、久之の両腕は円駆の背中に回った。随分ずれた浴衣を直して、「お前が、好きだからだよ」

「……逆じゃねえのか」

「逆……?」

「……着せてどうすんだ、脱がすとこだろうがよ」

 円駆は小さく咎めて、久之の着物の袷を噛んで、ぐいと外へずらした。露わになった久之の胸に、唇を当てて、それから一度、歯を立てる。

「脱がせて、……いいのか……?」

「……別に。お前が脱がせたくねえなら脱がせなきゃいいだけの話だろ」

 愛想なく言い放つが、背伸びをして、

「お前が、本当に俺のことが、『可愛い』なんて馬鹿なこと抜かすんなら、……俺は……、俺も、巳槌も空戦も、別にお前のこと馬鹿にしたりしねえし……、好きにすりゃいいんだよ」

 囁くときには、その声は鋭く尖っていても優しく響いた。

 するり、と円駆の尻の下に、肩に引っかかっていた浴衣が落ちた。改めて、少年として最大限に凛々しく、また男らしくもある裸身を抱き締めて、……抱き上げた。

「おっ……」

 背中を丸めて唇を重ねるとき、円駆は一瞬だけ目を丸くして、……すぐに久之がするよりもずっと挑戦的なやり方で舌を出して来た。

 腰を下ろし、膝の上に乗せてその続きをする、息継ぎの隙間に、

「……どうだよ」

 円駆が問う。

「……俺が『可愛い』か、馬鹿」

 答えは、もちろん一つだ。

「……可愛いよ」

 フン、と鼻を鳴らす、そういう仕草だって可愛く映るのだから、円駆がどう抵抗したってそれは無駄なことだ、……聡明なる神なる身も、間も無くその事実に気づいただろう。

「……勃起してるのかよ……、もう……? 早くねえか? お前いっつも、こんな早く反応しねえじゃねーかよ……」

 着物の前に手を当てて、其処に久之の熱を感じて、円駆はやや意外そうに言った。先日空戦と肌を重ねた時もそうであったように、この男の其処は目覚めが遅い。

 言い訳をするよりも先に円駆の其処に触れられたのは、この臆病な男としては最大限勇を鼓してのことであった。

「……お互い様……」

「……お前と一緒にすんな」

 円駆は力任せに久之の帯を解き、その西洋風の下着の中から熱源を乱暴に引っ張り出す。

「お前の方がここでかいんだから、お前の方がずっとどうかしてんだ」

 などと、意味の通らぬことを言って。

 身体つきや性格の強さに比して、ひ弱に見える細い茎の先端を、久之の熱へと押し当てた。

 久之が再び唇を重ねると、左手に自分の、右手に久之のものを捉え、質感のまるで異なる先端同士を擦り付ける。……久之は完全な露茎であるが、円駆がまだ上手に晒せない其処が、濡れてぬるつくのを久之は感じる。口付けの合間の吐息にも、声が混じり始めている。

 欲が募り、快楽を追い始めている。ならば俺がしてやるのが筋であろう……、それぐらいの判断ならば出来ると、唇を離しかけた久之に、円駆は敏感に反応した。

「いい……、このまんまで、……お前は、だって、……俺とこういうことしてえんだろうがよ、俺が、『可愛く』見えるから……」

 糸を引いたのが、見えた。

 可憐と言えば怒るに決まっている。

 言葉遣いは妙に乱暴で、態度も悪いし、すぐに手が出る気の短さも決して褒められたものではない。とはいえどこまでも男らしく在ることを願って、一定以上の責任感とともに円駆がそうする姿は大概いつだって久之の目には好もしく映ったし、こうして、

「んぁ……、ふ、……っん……ん」

 深い口付けを交わすとき、眉間にしわを寄せて、翻弄されまいと肩に爪を立ててくる意地の強さも、……全部含めて或いはどこで切り取ったとしても、「可愛い」と評することに何の躊躇いもない、要らない。

「うはぁ……」

 唇が離れたとき、自分の頬から涙が零れたことを自覚したのだろう、俯いて、「……ああもう、クソ、……ったく」ぶつくさぶつくさら文句を言う。

「……俺もなあ、巳槌とか、……あいつみてーに、あそこまでは、なんなくても、……空戦ぐらいに、やれりゃーいいんだよなぁ……。いや、空戦はそういうこと、考えてねーのかも、しんねーけど……」

 久之は円駆の、……暗闇でも紅いことが判る髪から伸びる、うっすらと発光してさえいるかも知れない稲妻色の二房に唇を当てた。巳槌たちの髪よりも硬く、寝癖が頑固に付きがちな髪質である。それは久之と似ているし、器用さが足りないその性質なども合わせて、……似たところがある、と思っていいはずだ。

「俺も、もっと上手に出来たら、いいんだ、けど……」

 円駆の頬に手を当てて上を向かせる。潤んだ金色の目が、戸惑ったように揺れた。「俺は、……ええと、壺を、焼いたり、あと、皿を、……焼いて、売って、……お前たちに、ちょっとだけでも、美味しいものを、食べてもらえるようにって。でも、それ以外にも、そばにいてくれる、俺なんかの、の、お前たちに、感謝してるから、……こうやって、お前を、……生命を、膝に乗せてるとき、本当に、……責任、って言うのか、幸せに、しなきゃいけない、って思う、俺が……、俺の方が、早い、ところ器用に、ならなきゃ」

 久之は照れ隠しに微笑んで、円駆を抱き締めた。巳槌や空戦のようにそうすることを求めて来ることはない円駆をこうして膝に乗せるときには、自己判断で抱き締めることこそが必要なのだと学んでいく。

 一つひとつゆっくりと、学んでいく。

 ただ、そういうときに円駆が(そして巳槌が空戦が)どういう気持ちになるのかを、これほど経験を重ねてもまだ、この男は学習し切ってはいない。だからこそ、……抱き締めた腕を緩めて、そっとその表情を覗いて、安堵する。そういう一連の、余計な動きをなさないではいられない。

「……いいよ」

 本人としては精一杯強がっているつもりなのかもしれないが、生憎それさえも久之には判らない。実際、いつ叱られたっておかしくない自分であると、この男は自らを定義しているので。

「い、……れ、たい、んだろ……。だったら、とっとと入れて、気持ちよくなりゃいいじゃねえかよ……。そういうことを……、して、お前だけじゃなくて、俺も一緒に気持ちよくなれんなら……、お前が俺で、ちんちん硬くしてんなら、そういうのが、俺らのやり方だろ……」

 愛想のなさで言えば、それは普段の巳槌以上かも知れない。そんなものは最初から備わっていないと言いたげにさえ見えるのだ。目付きだって、いつだって鋭い。

 しかし久之の目には、あくまで可憐なものとして、……どうしても、映る。

 これは円駆がどれほど威張って叱ったところで変えようのないこと、変えられないこと。出会ったことで久之自身の内奥に芽生え、共に暮らす時間を重ねてせっせと水を享け、いまや隅々まで頑丈な根を張り巡らせた、確固たる感情という生き物。

 自分の着物を円駆の背に敷いて、やや腰を軋ませて身を一つに重ねて、口付けをしながらひとかたまりに繋がる。円駆の腕が首に回って抱き着くのは当然のこととして、両足まで使って腰にしがみ付く。空戦よりも巳槌よりも大きい身体であって、……だから女児の服は全く似合わないのであるが、それでも久之は円駆を抱き支えることなど容易くできた。

「愛しい」とはそういう意味の言葉だ。

 その身の中へ欲を吐き出した久之に、震えてしがみついたまま円駆は、

「お前はもっと堂々としてりゃいいんだ」

 と、そういう意味のことを言った。

「お前、昨日、巳槌のこと止めようと思ったら止められただろ。お前が嫌だって思ったら、嫌だって言やいいんだ。あいつはお前が嫌がってんの判ってんのに、お前が言わねえ……、いや、言えねえのいいことに勝手なこと決めやがった。でも、お前が嫌だって言ったらあいつきっと、お前の勇気に免じて引っ込めてたかも知れない……、っん」

 ゆっくりと、円駆から欲の塊を抜き去って、じっと双眸を見詰める久之に、言うなり円駆は起き上がる。

「お前はあいつの子分でもなけりゃ況してや奴隷じゃねえんだぞ。あいつは思ったことよく考えもしねーでやりたがる。お前が嫌だと思うことなら、それは止めたっていいし。それであいつが文句垂れやがったら俺が……」

「いや……」

 久之は、苦笑した。円駆の髪に手を置き、彼が素直に膝に乗ってくれることを嬉しく思いながら。

「正直に言えば……、心配なんだ、その、……あまり人間たちと、深く、……お前たちがね、交流を、したとして、……巳槌の思うように、うまく行くのかどうか……」

 何かを、……恐らくは「だったら」と言いかけた円駆は、久之の言葉がまだ続くことを察して口を閉じた。

「この間みたいなことは、いくらだって起きる。……人間って、人間とそうでないものを、完全に、分けて考える……。尾野辺先生の、ことを、見ていればきっと、……判るよね?」

 あれほど久之に、「手前勝手な善意」を向けて来たのが嘘のように、彼女は変わった。それは巳槌と円駆が彼女の可愛い児童を守ったからであろうが、それとともに、久之たちが人間ではないということを重く受け止めているからであろう。

 しかし、他の多くの大人たちはそうではない。

「人間の中に、人間のように、服を着て、入るっていうのは、つまり人間の側から、人間の、尺度で、扱われる、ことになる、……んだと思う。そう、なったときに、この間のようなことが、起こらないとも限らない……、だけど」

 円駆は久之の言葉がまだ続くことを理解してか、黙って耳を傾けていてくれた。

「そういう、問題さえも、起こらなくなればいい、……俺も、元は人間、として、長いこと生きて、来て……、これから先も、人間でいたことは、……お前たちと同じ身体になったとしても、なくなるわけじゃないから。だから、巳槌は、この辺で、……この辺でって言うのは、変かもしれないけど、人間と、里と、俺たちの小屋の、距離感、みたいなものを、定めておいた方がいいって、そう、考えたのかなって……」

 たどたどしい言葉が終わったところで、円駆が深く溜め息を吐いた。それは先ほどまで久之に抱かれて、素直さを全て発揮してしがみ付いていた姿ではなく、もう少し大人びて責任ある神なる身としての態度だった。

「お前がそんな難しいこと考えなくてもいいよ」

 立ち上がり、円駆の掌が久之の髪に乗せられた。「俺は、お前が思うようになりゃいいと思ってるし、新しい酒が呑めりゃそれでいいのかも知れない。……わかんねーけどな。でも、何があろうとお前が不愉快な思いしないで済むようにしてりゃいいんだ。でもってそれは、別にそんなたいしたことじゃねえ」

 円駆は、少し笑う。


back