KILLING TIME OF GODS

 僕に判らないことなどない、……と、不遜にもそういうことを思って巳槌は生きている。もっとも、神なる身であるのだから、そう思うこと自体それほど問題ではなかったかも知れないが。例えば雪や霧や水のことで知らぬことはなかったし、それらは誰かに教わったがゆえのことではない。そもそも自分がそれを操るがゆえに、当然身についた知識なのである。

 しかるに、……この、もともとちっとも謙虚ではない応龍の神、頭が良いことは事実であろうが、人へ偉そうに物事を語ったりするのが大好きで、そうであるがゆえに円駆からしょっちゅう「いやなやつ」と苦言を呈される。円駆の方が長く生きているぶん知識の総量では上であろうが、円駆の方が何倍も気が短くてすぐ理性とはぐれてしまうので、傍目には逆の印象を与えるかもしれない。そんな訳で、「僕に知らぬことなどない」と思ってはばからない巳槌は、あまり「学ぶ」ということはしないし、そもそもそんなもの自分には必要ないとも思っているのだ。

 久之はその初夏の暑い日に、円駆の手を借りて風呂代わりの鍋を洗っているところだった。久之が、巳槌円駆空戦、三人の子供の身体をした神と一緒に入浴出来る鍋であるから大きく、洗うとなれば毎度大仕事。大抵は応龍巳槌に天から鋭い勢いで水を打ち下ろして貰うことで洗い清めるのだが、今日に限って巳槌はいない。よって久之と、身体に焔を纏った麒麟の円駆が力いっぱい協力しあって掃除をしているのだ。

 円駆の毛皮はさっきから浴びたくもない水を浴びて、しゅうしゅうと白い湯気を立てている。

「……糞、鬱陶しい……」

 麒麟がどういう生き物であるかを定義することは難しい。はっきりしているのは、彼は神獣態でいるときには他の獣たちと同様に、毛皮が濡れることを嫌がるのだということで。

「ごめんね、ありがとう……」

 洗って濯いだ鍋を、円駆が角のある頭でぐいと押し、石組の上に乗せたところで、久之が例を言った。彼も汗だくである。陽射しの強さばかりによるものではなく、焔の麒麟の側は必要以上に暑くなるのである。

「はー……、もう、風呂より水浴びだ」

 その上、円駆自身が随分と暑がりである。そんな円駆が人のときには汗っかきであるし、麒麟のときには火の玉付きの毛皮であるというのは、彼にとって不幸なことと言えるだろう。冷え症の巳槌と体質を取り替えられればどんなに楽だろう。

「お前も汗でびしょびしょだろ、泉行くぞ、行水だ……」

 円駆が言い、その言葉に久之も素直に頷いた。冷た過ぎる泉の水ではあるが、ひと浴びすればたちまち心身ともに爽やかになるので、円駆の誘いは大いに魅力的であったのだ。

 そうして二人が泉に向けて歩き出そうとした草履は、背後からぎいぎいと、単策起動が喘ぎながら上がってくる音によって止まった。巳槌が帰って来たのだ。

 きっと巳槌も、大汗をかいていることだろう。そう思って振り返ったのだ。

「ギャ……」

 という声が、円駆の唇から漏れた。

「何だお前は、人を見るなり『ギャ』とは失礼極まりないやつだ。自分は褌もしてない浴衣はだるだるのいい加減な格好をしているくせに」

 巳槌の言う通り、ついさっきまで麒麟の身体でいた円駆はそういうだらしない姿ではある。しかるに、久之にとっては見慣れたもので、かえって円駆らしいと好もしくすら映る類のもので。

 一方で、巳槌の格好は何だそれは。

 普段、久之は神なる身と言葉を交わすとき、可能な限り横文字を使わないようにしている。言っても大概は通じないものと思われるし、久之も詳しくないことが多い。巳槌たちが使える横文字は、「ランタン」と「モノレール」の他には数えるほどしかないはずだ。

 しかし久之は、いまの巳槌を形容するために、横文字を活用しないわけには行かなかった。

「どう、……どうしたんだ、その、スカートと、シャツと、……あと、リボン、は……」

「ほう、この髪留めは『リボン』と言うのか。他のは教えてもらったが、これだけ聴き忘れてしまっていた。……尾野辺に頼んでいたものが届いたので取りに行ったのだ」

「尾野辺……、先生に?」

 里の小学校の教諭である。彼女の同僚と無能な働き者である駐在に、虐待を受けていた女児を救ってやって以来、彼女も久之たちの暮らしを容認する側の人間となった。それは久之も円駆も知っていたが、里に降りた際に巳槌が彼女と個人的なやりとりをしていたことは、全くもって知らなかった久之である。

「うん。……人間の、いや、今の人間の子供が着ている服を着てみたいと。でも、どうやってそれを手に入れるべきか判らないし、お前をびっくりさせたかったから内緒で相談していたんだ。それが今日届いた。尾野辺の姪が、肉体の年齢的には僕らより少し上で、古着が余っているということが判ったから送ってもらったんだ。……どうだ? 似合うか?」

「ぶははははは!」

 笑ったのは、もちろん円駆である。

「馬鹿じゃねえかお前! それ、女のガキが着るような服じゃねえか!」

 円駆の爆笑、それは滅多にないこと。それだけ彼の目に、巳槌の姿が滑稽に映ったということなのだろう。

「お……、尾野辺先生、は、なんて言って、お前にその服を……」

「『女の子のしかないけど本当にいいの』かと繰り返し訊かれたが、何だっていいとにかく牡のだろうが牝のだろうが構わないからいっぱいあるだけ寄越せと言った」

 久之がうっすら懸念していたとおり、巳槌はそんな尊大な求め方をしたようだ。それを謝りに行くのは、もちろん久之である。

「あと、そこのけだものの分もある。それから、……空戦は出掛けているのか」

 笑い転げていた円駆がピタリと動きを止めた。「ああ……?」

「前に、下で人間の服を着ただろう。お前にあれがよく似合っていたからな……、安心しろ、ちゃんとお前の身体の大きさを伝えたから、きっとぴったり入るはずだ」

「ちょ、……ちょっと待て! なんで俺がそんなん着なきゃなんねんだよ!」

「ごちゃごちゃ言うな。僕が何で尾野辺にこういう服を求めたか、その理由は後で話す。とにかく浴衣を脱いでその汗まみれの身体を洗い清めたらとっとと着るがいいよ」

「誰が着るかこの白うんこ! 勝手なことばっか抜かしやがって……」

 

 

 

 

 巳槌が勝手なことばかり口にするのは、今に始まった事ではないし、それを一番よく知っているのが他ならぬ円駆であるはずだ。

 加えて、……人間の身体をしているときにはどうあれ、応龍態をとったときの巳槌には誰も敵わない。

「うん、全くと言っていいぐらい似合っていないな」

「うるせええええ! 久之てめぇもじろじろ見てんじゃねえぞ!」

 応龍に拘束された状態の円駆に服を着せたのは、もちろん久之であり、その際円駆が大騒ぎをしたものだから「うるさいなあ」と何処かで昼寝をしていたらしい空戦も戻ってきてしまった。そして空戦は巳槌に「これを着ろ」と言われたところで、「これ」がどんな服であるが見ることが出来ないものだから、ごく素直に身に纏って縁側で足をぶらぶらさせている。

「どんな服なのか判らないけど、着心地は悪くないね」

 などと、呑気なことを言いながら。

「うん、お前も似合っているぞ」

「そうなの? よくわからないけどありがとう、うれしいね」

 久之一人、いつもの着物姿である。要するに尾野辺教諭の姪は現在中学の三年生で、久之が着られる大きさのものはないということだったが、……もしあったら、俺まで着せられていたのだろうか……、恐ろしいことを想像しかけて、久之は慌ててやめた。

 ともあれ、巳槌も円駆も空戦も、それぞれ違う「少女」の衣服を身に纏っている。

 元々、中性的な顔である巳槌はいつもの通り愛想のかけらもないが、それでもまあ、こういう具合の少女がこの世にいたとしても不思議ではないかという印象を久之に与えた。似合っているかどうかは別として、変ではない。巳槌は骨格こそ男子のそれであるが、まだはっきりと性差の現れる前であるから、どこか妖艶ささえ漂わせているのだ。

 空戦は、幼く甘ったるいが、少年として見紛うことのない顔立ちである。しかしそんな空戦が、「デニムのスカートと白いブラウス」……何が「デニム」なのかということまで三人に説明する術を、もちろん久之は持っているが上手に出来る自信はない、とにかくそういう服装をしているありさまは、何やら姉の悪戯で女装させられた素直な弟のような、妙な安定感があった。

 そして円駆はと言えば、……巳槌が言ったように全くと言っていいほど似合わない。巳槌よりも一つは歳上の身体をしている円駆である。顔立ちも凛々しく男っぽい。声や発毛など性徴を迎える直前であろう身体に、三人の中で一番少女らしいピンク色主体の上下、下はもちろんスカートであるが、それが短い。内側には黒のスパッツを穿いているがそれだけならばまだよく、ふわふわというかもこもこというかがあしらわれたブーツを履いている。そういった方面には極めて疎い、というかほとんど全く何の知識も持っていない久之だが、アイドルグループの衣裳を真似ているかのようで、……尾野辺教諭の姪なる少女の服装嗜好の変遷が、かなり振り幅が大きいことを伺わせた。

「……それで……」

 奇妙な女装少年三人を見渡して、久之は訊く。

「巳槌は、……どうして、こんな服を、尾野辺先生に頼んだんだ……」

 久之が、礼に行くこと以上に気鬱に思われるのは、……彼女がこの少年たちと久之が特殊な関係にあることを想像するのではないか、と。つまり、巳槌たちに女装をさせて、そういう行為を……。

 実のところ久之は、巳槌がこの服を着て現れたのを見たとき、そういうつもりでいるのではないかと思ったのである。

「……やらしいこと考えるやつだなお前は。無論、お前がそうしたいなら僕はそうすることに躊躇いはないが」

 久之の考えを見抜くのは巳槌だけだったようだ。円駆に人の考えを気にする余裕などなかっただろう。

「何故僕がこんな、そこそこ似合っているか、あんまり似合っていないか、とにかく全く似合っていない女児の装束を欲しがったのか。……大したことではないんだ。先日、お前に僕と円駆の着るための、人間の子供の服を買わせたな?」

 揃いの、灰色のスェーターと半ズボン、それから靴下と、スニーカー。「そうなの?」と空戦が首を傾げる。あのとき一度着たきりで、行李にしまったままである。

「人間の服を着ただけでは、僕らは人間にはならない。ちょうど、円駆が女の服を着たところでちっとも可愛くならないようにな」

「うるせえええ!」

「ん? それともお前は女の服を着て『可愛い』と言われたいのか?」

 途端、円駆は黙った。

「人間たちは、……僕らが此処で暮らしていることを知っているな。尾野辺や、あるいは茜のように、そして一部の老人たちもそうだが、僕らがどういう存在であるかということも知っている。一方で、まだ多くの人間たちは僕らのことを胡散臭く思っている。先日の森原や駐在のような者たちは今後も現れるかもしれないし、現実として茜と茜の祖父母は僕たちが何者かということについて従順な理解を示すが、父母に関しては否定的だ。……しかし今後も僕らは此処にいるしかないのだし、彼らに違う里へ行けというのはまた話が違う。そういう次第で、どこに折衷案というか妥協点があるものかと、僕はずーっと考えていたのだ」

「その『考え』が、僕らが牝の服を着るということなのかい?」

 空戦は全く訳が判らないという顔でいた。それは久之だって同じだし、円駆に至っては何を言われたって理解などするものかとヘソを曲げ切っている頃であろう。

「誤解するな。今日はたまたま女児の服しか手に入らなかった、……手っ取り早く協力してくれそうなのが尾野辺しかいなくて、あいつの血縁に僕らぐらいの男の服を持っている者がいなかったから仕方なくこれらで手を打ったというだけだ。……さて空戦よ、下穿きの心地はどうだ?」

「下穿き……、ああ、うん、ええと……」

 きっちりとした大きさの、女児のデニムである。空戦の尻は小さいから苦もなく入ったけれど、それを穿かせるに当たって「六尺を外せ」と巳槌は命じた。その下に穿いているのは、……さすがに尾野辺の姪の下着ではない。巳槌はそれさえも平気な顔で尾野辺に求めたらしく、結局服屋で尾野辺に買ってもらったと言う。久之が巳槌たちの服を揃えてやる際に併せて購入した白い男児下着である。円駆もスパッツの下にはそれを穿かされているし、巳槌は尾野辺の姪からそれも譲られるものと考えていたようだから、もちろんそんなものは穿かずに行って、穿かずに帰って来た。

「ちょっと、変な感じがするね。ちんちんのほうはいつもと同じだけど、お尻が……」

「まあ、それは半刻もすれば慣れる」

「僕らがこういう下穿きを穿くことと、人間たちの中に僕らに否定的な者がいるということと、どう繋がるのかな」

「それはな、……僕らを見て、久之はどう思う?」

 不意に、矛先を向けられて久之は戸惑う。

「どう、って……」

「別に僕は怒りやしないから、思ったことを何でも言うがいいよ。空戦はお前の心は読めないのだから」

 巳槌は勝手に言って、……口ごもる久之を待つ。空戦も気長に待つし、円駆は不貞腐れてそっぽを向いている。

「可愛いか、可愛くないかは、……置いといて、……その、まあ……、面白い、格好だと思う、……つまり、ええ……、女の子には、どうしても見えないん、だけど、……何て言うか、……男の子が、女の子の、服を着ていると、思う」

「うん、……それで?」

 久之は言葉とはぐれる。……それだけだ、他に、何を言えばいい?

「では訊くが、久之、僕らが普段浴衣に六尺で、あるいは六尺も外して浴衣の帯をいい加減に結んでちんちんぶら下げてふらふらしているときと今と、どちらがより『人間らしい』ように見えるだろう?」

 巳槌のその問い掛けは、久之に巳槌の真意を推察させるに十分なものだった。

「……それは……、いまの、ほうが、人間みたいに、見えるのは……、間違いない、と思う」

「うん、だいたい判ったようだな。……よいしょ」

 小屋淵に、空戦と並んで巳槌が腰掛けた。平気で足を組むせいで、白い男児下着が覗いた。

「つまりこういうことだよ。僕も円駆も空戦も、一応人間の身体にはなれるわけだ。……まあ、お前たちは目の下にしるしがあるわけだが、それを除けばほぼ完全に人間だ。……僕らの中にある性質や振る舞いがそうではないというだけでな。ただそれ以上に僕らと人間との間にある大きな差は、普段着ている服であると言うことが出来るだろうよ。……僕は久之がこしらえてくれる浴衣が好きだし、六尺を締めると気が引き締まるようで、これも好きだ。でも、人間の目には大層奇妙なものと映るようだな。僕がかつて里に下りた頃には、男たちは大人も子供も褌を締めていたし、みんな着物を纏っていた。しかるに今はどうだ、こういう服を着ている者ばかりだ。そんな中に僕らが六尺を締めて、ときにちんちんぶらぶらさせながら降りて行けば、それはやはり目立つし、人間たちは僕らを異物視するだろうよ」

 ……後から来たくせに勝手なこと抜かしやがる、とぶつり、円駆が呟いた。

「とはいえ、こうも考えられる。例えば着ているものが人間と同じであるというだけで、その異物感を人間の中から除去することができるならば、そんなに手軽な話もなかろうよ、と。……浴衣と六尺は、僕たちにはとてもくつろげる、着心地のいい衣だが、人間たちに異物と捉えられるなら、それこそこの山の領域を人間が歩くことを、円駆のように多くの神が『侵略』であると定義して、礼儀を守れと言うのなら、逆に其れを求める僕らの側もまた、人間の領域を歩くときにはある程度の礼儀が求められるというもの……。つまり」

 一息でそこまで言って、「……あっつい」と巳槌はシャツを不器用に脱ぎ、スカートをずるりと下半身から落とした。

「こうしてこういう服を敢えて着て、慣れて行くことも、好むと好まざるとに依らずすぐそばに里のあるこの山でこういう身体で、なおかつ久之と共に生きることを選んだ僕たちにとっては、まあ必要と言うことも出来るのではないか、と思うのだ。……おい空戦、風呂に入ろう。お前も暑いだろう」

「もう脱いでもいいのかい?」

「うん。でもこれからはちょくちょく其れを着てもらうぞ」

「慣れられるかなあ……」

「今に慣れる。少なくとも僕はこの下穿きにはもう慣れた」

 いつもの通り、大いに自由で勝手なことを並べて巳槌は男児の下着を脱いで裸になった。そういえば足元は依然として草履である。そこ辺りまで考えが至らなかったに違いない。

 

 

 

 久之は尾野辺の元に感謝と謝罪に訪れ、苦笑と共に「お気になさらないで」という言葉を頂戴するとともに、

「巳槌くんはそんなことを考えているのね……」

 と感慨深いようすで言うのを聴いた。

「父兄の皆さんは、『山は危ないから近付かないように』という教育をなさっています。学校でも、それは同様に。熊が出ることもあったと聴きます。それに、山は不快から、遭難することだって考えられます。教師である私の立場からも、子供たちが山に近付くことはとても薦められません」

 それは当然であろう、と久之は頷く。かつて久之自身が山に入って巳槌と出会ったばかりの頃、この男は巳槌がどんなに「大丈夫」と言っても彼が山の奥に一人で遊ぶことを危うく思ってしまったものだ。

「恐らく、……巳槌は、先日の、……茜ちゃんの、一件で、……村と、……いや、人間と、すごく、……高い壁が、深い溝が、出来てしまったと、……そう思って、いるのだと思います。彼は、……元々、人間を、とても善良な生き物だと、……自分の、友達である、と、考えていた、んです、けど、……あれから、少し、考え方が変わったところが、あるかもしれない、と、思います……」

 教諭も、巳槌たちと同じく久之の言葉をじっくり待つのだった。子供相手の職業として相手の言葉を受け止めることが身に染みついているのかもしれない。少し年下であるはずの尾野辺に、久之はずいぶん安心して話をすることが出来た。

「山が、……巳槌くんや円駆くん、あと……」

「……空戦」

「そう、空戦くんのような子たちばかりではないということは判っていますし、物理的な面でも子供を遊ばせることは難しいとは思うわ。でも、巳槌くんは人間を好きでいたいんですね?」

 恐らく、つまるところそういうことなのだろう。

 人の間に在った人好きの神は、何かをせずにはいられないのだろう。

 久之の、そういう考えはすぐに改められた。

「……先週、巳槌くんがやって来たとき私はDVDを観ていました。そのテレビで」

 テレビにせよ、巳槌にとっては初めて見るものであったはずだ。ただ賢い神であるところの巳槌はその仕組みはさておき、黙ってしばらく眺めていたと思ったら、巳槌は不意に、

「何故、この女たちが唄って踊るだけで周りの者たちはこんなに大騒ぎをするのだ?」

 と訊いたのだそうだ。

 尾野辺は「いい年して、ちょっと恥ずかしいですけど」とアイドルのDVDを取り出した。久之はもちろん名前も知らない少女たちのグループの、ライブをまとめたものであるらしい。

「私はこういうのが好きで、たくさん持っているんです。……巳槌くんはこれを見て、こう言ったの。『こういう服を着て唄って踊れば、いま僕たちを異物視する人間たちも僕たちを受け入れて、僕たちが山に在ることを認め、そっとしておいてくれるだろうか』って」

「な」

 久之の口から、思わず、そんな声が出た。

「……そういうことを、彼は言って、それで……」

 今日来たのは他でもない。人間の服が欲しいのだ。どんなのでもいいと思っていたが、出来れば人間の中でも良く見られるようなものがいい、お前の親戚の中に僕らぐらいの身体で着られそうな服を持っている者がいたら譲ってもらえないか。……ああ、女しかいないのならそれでもいい。何よりまず、人間の服であることが重要だと思うから。

 普段からして、思ったことが口に出て来にくい久之である。尾野辺教諭にもたらされた情報から、……はたしていったいどのような解釈をすればいいのだろうかということは、瞬時に判断しかねる。

 ただ事実として理解出来るのは、……人間とより良い共存関係を築き、この平穏をより強固なものとして行くために、「人間の服」を求めた。そしてその際、すぐそこのテレビにおいて、画面の中のアイドルたちの姿を見た。「僕らが唄って踊ったら」……? 其処から先は久之の想像であるが、何かとんでもなく恐ろしいことを考えているのではないか、……どうも、そんな懸念が去来してならない。

 胸騒ぎを抱えたまま、尾野辺の家を辞去した。彼女が「私がアイドル好きでいることは、学校の人間には内緒にしておいてください。今の教頭はそういうものを毛嫌いしている人なので」と繰り返し久之に頼むのに頷きながらも、……とにかく直接聴いて見る他ない、と思うのが関の山。山に戻ると円駆はまた何処かへ行ったらしくいなくて、眠い空戦に膝を貸して巳槌は酒を飲んでいた。見慣れた六尺に、浴衣である。

「ああ、お帰り。尾野辺は別に迷惑がってなどいなかっただろう」

 久之の顔を見るなり立ち上がるものだから、「ぶにゃ」頭を落とした空戦が悲痛な声を上げた。

「僕の考えを、お前がどこまで想像出来るか判らないが、概ねそういうことだよ」

 久之の考えを読み取って、巳槌は言う。「珍しいな。僕の考えに反対か?」

 久之は口を噤んで、しばらく黙りこくって、……こくり、と頷いた。

「……そうか、無茶だと思うんだな?」

 うまく紡ぐことの出来ない言葉は巳槌に任せて、久之は頷くだけにした。

「いい考えだと思ったのだがな。……夏のさかりに、人間たちは祭をやるだろう。あそこでそういうことをすれば、僕らがおかしなものてはないということを人間たちに知らしめることが出来ると思ったんだが」

 それは、恐らく逆効果になる。尾野辺が言っていた通り、小学校の教頭が厳格な人物だとすれば、それは却って山と人間たち、とりわけ巳槌の好きな子供たちを隔てるものとなりかねない。

「あいたたた……、やっぱり寝るときは布団がいいね……、首が痛いや」

 空戦が首を傾げながら起き上がった。

「人の足を枕にしておいて随分な言い草だな」

「でも、僕の側頭部を肘掛けにしていたよね。お互い様だよ」

 唇をとんがらがして空戦は「おしっこして来る」と小屋を出て行った。のんびりやである。

「話の続きだが、……人間たちが踊り唄うのはそもそも何のためであるか考えたときに、自然と僕のやろうとしていることの妥当性が見えてくるように思うが。お前はどう考える?」

「……踊り……、唄う、理由?」

 久之は唄わないし踊らない。小学校のときは「声が小さい」と散々叱られたもので、音楽は大の苦手だ。身のこなしは、長らくの山暮らしで洗練されたものだろうとは思うが、音に合わせて踊るとなるとまた別の話だろう。人ごみが嫌いだから、夏祭りの日はいつも一人で家にいた。

「あれはそもそも、僕らに捧げられるべきものだろう。それがいつからか、人間たち同士、人間たち自身が愉しむものと変わった。……いや、その変化自体は好ましいものだと思っている。文化、というのか。そういうものを人間たちの手で育てて行くからこそ、あの女が見て愉しむようなものになるわけだからな。楽しいことは僕も好きだ」

 文化の歴史、という見地に立てば、確かにそういうことは言えるかもしれない。喋る言葉の拙さとは裏腹に、知識や学力は一般の人間を凌ぐ久之は立ち止まる。「神楽」は書いて字のごとく、神々へ歌舞を捧げる神事であり、里の夏祭りも、いまは納涼行事として村落の人間関係の醸成や子供ら若い衆の娯楽という側面が濃くなっているとはいえ、そもそもは巳槌の言ったとおり、山の神々を鎮め、あるいはもてなす行事であったに違いない。

 人々の側が其れを忘れても、神の側はこうして覚えている。また人間の側も、村外れの水田に、小さな小さな社があって、其れが「裸の蛇神様」ことかつての巳槌のために設えられ、今も地元の古老が酒を切らさぬよう納めていることなど一端であるように薄まりつつも人と神とを繋ぐ糸は今も残っていると言うことが出来るだろう。

「……つまり……、どうする、つもりなんだ。……その……」

「うん、祭のときに降りて行って、僕ら三人で人間たちの耳目を愉しませることが出来たなら、それは僕らにとってのみならず人間たちにとっても心地よいものであろうかと思ったんだ。……まあ、お前が反対だと言うのなら、無理にしようとは思わない。何か別の和解、……ではないな、とっくの昔に対立関係ではないのだ、でも上手いこと、人間たちとの最適距離というものを定める方法を考えるとするかな」

 ……その考えは、志は、仮に其れがいかにも神的で人間の常識とは相容れないものであったとしても、……認めてやりたい気持ちが久之にはあった。巳槌がそう考えるのは、何より久之が先日の森原と駐在の一件にて傷を負ったようなことが二度と再び起こらぬようにと願うからだということも、久之は理解していた。

「……何だ久之、戻ってたのか」

 小屋淵から円駆が上がり込む。「……酒くせえな、昼間っから呑んでんじゃねえよてめぇは」ほんのりと頬の紅い巳槌を咎めはするが、女児の可愛らしい装束を着せられたことで損ねた機嫌は一応元に戻ったらしい。

「うん……」

 巳槌は、先ほどのようなことをもう円駆に話したのだろうか、空戦には? 久之には想像できない。円駆は巳槌が飲酒しているのを見て、自分も呑みたくなったのだろう、酒瓶を取り出し、直接口を付けて二口呑み下して栓をした。

「……そう言えば久之、今日尾野辺のところへ行ったときに聴いたんだが、『ビール』という酒があるのだそうだな」

「……は?」

「あいつの、飯を作るところ……、台所か、あそこに鉄のような器が空になって幾つも並んでいた。そしてその器の口から漂っていたのと同じ匂いが、あの女からも漂っていた。あれは何だと聴いたら、『ビール』と言うのだと教えてくれたぞ」

 どうやら尾野辺教諭は休日を謳歌している最中に巳槌に押しかけられたらしい。ビールを呑みながらアイドルのライブDVDを一人で見ていた……、という事実が示唆するところを久之は少しだけ思ってすぐにやめた。

「酒?」

 円駆が鋭く反応した。「はー、すっきりした」と、空戦も小屋に上がり込んで、「……ああ、お帰り円駆。君も酒を呑んだの?」訊く。

「酒っていうのは……、こういうのばっかりじゃねえのかよ」

 酒瓶を掲げて円駆が訊くのに、久之は頷いた。

「僕らが呑んでいるこれは、日本酒とか清酒と言うのだ。これは米を磨いて作っているらしいな。でもって人間たちはこれ以外にも、小麦を使って作った『ビール』だとか『ウイスキー』だとか、他にも色々な酒を生み出してはぐびぐび呑んで酔っ払って陽気に踊って唄って時々気持ち悪くなって吐いているんだ」

 もう久之には判っていることだが、巳槌はどうも人から得た知識をさも自分のものであるように「だそうだ」という言葉を省略して語る癖がある。それゆえにこの少年は必要以上に大きく賢く見えるのであろう。

「僕が昔里の者たちに振舞われたのは、まだ青い梅の実や杏などを砂糖で漬け込んで味と香りを出した酒だったな。甘くて美味かった」

「本当に? 青い梅の実なんて食べられたものじゃないよ」

 空戦はまだ酒の味が判らない、……かどうかは判らないが、空戦自身は巳槌たちから「まだ早い」と聴かされたその言葉に従順である。

「それが、砂糖と酒に付けるととても甘くなるのだ。……尾野辺に『ビール』を呑ませろと言ったのだが、何だか、仕事がどうとかで呑ませられないと断られた。僕が子供の形をしているのが問題なんだろうが、あいつも物分りが悪い」

 もう一度謝りに行くべきか、と久之が腰を浮かせかけたところ、

「なあ……、人間たちは何種類ぐらいの酒を持ってるんだ?」

 円駆が質問を投じた。

「な、何種類、ぐらいの……?」

「俺がまだ呑んだことがない酒を、人間たちはそんなに隠し持っていやがるってことだろう」

「それは……」

 酒屋に行けば、酒は山ほど売っている。久之は巳槌と円駆にせがまれ、いつも「あんたはウワバミだねえ」などと酒屋の主人に言われながら一升瓶をぶら下げて買って来る。なぜ日本酒かと言えば、単に「酒が呑みたい買って来い」とそもそも巳槌が言ったからで、例えば「ウイスキーを買って来い」と言われればそうするし、「ビールがいい」と言われれば、やはりそうしていただろう。

「……日本酒、を、大きな、括りで一種類、って言うこと、出来るだろう。焼酎も……、米や、麦や、……色々な原料から作られるけれど、大きく一種類、……あとは、外国の、……ええ、ウイスキー、……ウオッカ、あと、ジンや、ラム、テキーラや」

「すごいね、そんなにたくさん種類があるのか……」

 空戦が感心したように言う。「人間たちの文明というのはすごいのだね。何となくは判っていたつもりでいるけど、そうやって列挙されると計り知れないって改めて感じるよ」

「でも人間は俺らみたいな力は使えねえけどな」

 ぶっつり、不満そうに言った円駆だったが、

「それで? そういうもんは、お前がいつも酒を買ってくる店に置いてあんのか。買って来いっつったら買って来られんのか」

 すぐに興味関心は人間の作った「酒」へ向いたようだ。

「あまり久之を困らせるな、子供じゃあるまいし。酒だって安いものではないのだぞわからないのかこのけだものは」

「んだと!」

「事実を言ったまでだ。……その点、僕も他の国の酒というものは呑んだことがないが、この国に根付いた酒はこういう清酒以外にも、果物の酒や、さっき久之が挙げた焼酎ぐらいは口にしたことがある……。いずれも美味なるものだと知っているうらやましいかけだもの」

「やかましい!」

 人間と、巳槌は近かったからだ。遊びに行けば飯を貰えたし、祭となれば酒を振る舞われもてなされた。吉兆たる白い蛇であり、子供たちの面倒も見てくれる、そして水不足に困ったときは泉の水を快く譲ってくれる巳槌は、それだけ人々に愛される存在だったのだろう。

「お前も、人間たちに頼めばいいだろうよ。だいたい僕らは人間の側から見たときなんの仕事もしていない。久之が壺や皿を焼いて稼いだ金でのうのうと暮らしている。本来ならば僕らは僕らの呑む酒くらい、自分で働いて稼いだ金で贖うべきなのだ」

「誰が人間から金なんて恵んでもらうもんか」

 しかし、円駆は久之に背を向けてあぐらをかいた。久之が其れをどう思うかということとは関係なく、円駆と巳槌が口にする酒が久之のささやかな稼ぎの結果であるということはどうしたって事実であり、円駆はまだ一度も久之に「ありがとう」なんて言葉は言っていない。それで一向に構わないと思っている久之ではあるが、円駆としてはずっと言わないままでいいとは思っていない、……が、今言うのは恥ずかしい気がする、そういう態度ではなかっただろうか。

 巳槌が、そんな円駆の前にしゃがみ込んで顔を覗く。

「ならば、神として人間にしてやることをして、人間から酒を貰うのならばいいのか?」

「……ああ?」

「僕が何故人間から色々な酒を貰っていたか。……断っておくが、僕から頼んだ訳ではないぞ? 人間の側からあれやこれや、呑んで欲しいと言って僕に押し付けて来るのだ」

 神の存在に感謝する人間たち、もちろん神的な力を操るわけではないから、巳槌に礼をしようと思えば自然、巳槌の欲しがるものを贈ることになる。

 言うなれば供物だ。

 巳槌の社に酒が耐えないのは、巳槌が酒を好むことを人間たちが知っていて、巳槌のことを快くしたいと思う気持ちの現れである。

「つまり、お前も人間に求められるような神になったなら、人間たちが持っている未知の酒を浴びるほど呑むことが出来るかもしれない。……まあ、吐かぬ程度にしておくがいいよとは思うがな」

 ことここに至って、巳槌が何を考えて酒の話を始めたのかということをようやく久之は悟った。

 しかし、

「未知の、酒……」

 円駆の興味は、すっかり酒に奪われている。

「僕もまだ呑んだことのない酒だ。お前が何かをして、人間たちのことをちょっと気分良くしてやれば、それだけで幾らでも分与されるだろうよ。たやすいことだ」

「僕は酒は要らないけど、人間たちの文明には興味があるなあ」

 空戦は人間の賢い子供のようなことを言った。「人間たちは僕のように羽が生えていなくても、空を飛ぶからくり仕掛けを作ったんだろう?」

「らしいな。そういう知識の詰まった書物も人間たちは持っている。だがお前はまだ人間の字が読めないだろうよ、そこから気長に勉強して行けばいい」

「うん。僕は気が長い方だと思うからそれで平気だよ」

 酒と誇り。黙って考え込んでいた円駆がぶっつりと、

「……どうしたら、人間たちは俺に酒を贈る? お前みてえに人間のガキの面倒を見りゃいいのかよ」

 はっきりと、決定的な言葉を口にした。

 巳槌が納得したような顔で、

「悪く思うなよ」

 呆然と座ったままの久之の膝に乗って、言った。

「僕が積極的にお前を困らせるときは必ず、お前を幸せにする方法を思いついているときだ。僕の存在あるがゆえにお前が不幸せになったことなど今まで、まあ一度もなかったと言い切るつもりもないが、大概は幸せにしてきたと自負している。例えば僕が笑うとき、いつだって最終的にお前が幸せになっているように。だから信じるがいいよ」

 僕は水の神だからな、と巳槌は言う。

「僕の護る舟は沈まない、どんなに川に水が増えて荒れようとも……。そういう風に、昔から出来ているのだ」


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