STAY ON THE GROUND

 生活は乱律していた。円駆の血圧はいつもそれほど低くはなく、あの冷血動物や蝙蝠のように起き抜けに手足が凍りついたかのように冷え切ったり頭がまるで回らなくなったりということはまずないのだが、その彼をして布団の上、しばし呆然と動きを取ることが出来ない。

 今は夕方なのである。小屋の木戸の隙間から差し込む光は既に橙色である。……多くの人間がそういうとき憂鬱になるように、この神なる獣の身であっても、昼遅くに目を覚ますということには慣れられない。しかし円駆は決して自堕落に眠りこけていたわけではないのだ。

くあぁ……、と大きなあくびをした。一人で寝ていたのではない。

「んふふ……」

 どんな夢を見ているのか知らないが、隣で寝ながら笑っている、空戦、蝙蝠の子供が一緒に寝ているのだ。そしてそれがゆえに、円駆はこんな時間に目を覚ました。床に就いたのは、いまや西の山の陰に姿を隠しつつある太陽が東の山の端に姿を現しつつあった頃。

 つまり前の夜、円駆はずっと夜行性の空戦と一緒に過ごしていたのである。更に言えばその前の夜から、しばしの昼寝を挟みはしたが、ほぼずっと起きッ放しなのである。

 乱律、である。

 空戦に布団で添い寝する愉楽を味わわせるとともに、このところ頻繁に空を舞い、ちょっかいを出して来るようになった舵禮に対し、空戦ならびに久之を孤立させることのないように、巳槌が円駆のどちらかが常に側に付いているようにする。……円駆にしろ巳槌にしろ、久之と過ごす時間を必須と思っているから、一晩半ずつの交代で徹夜をすることに定めた結果として、これまで陽が昇れば起き、沈めば寝支度をするという規則正しい生活を何百年と送ってきた神なる身はこのところ慢性的な寝不足とそれに伴う疲労感に苛まれているのだった。

 向こう数日の予定を記すとするならば。

 円駆はこの後数時間を起きて過ごす。しかし夜が更ければ久之と一緒に明日の朝まで寝るのだ、……眠れるかどうかは別として。明日は朝からずっと起きている。寝るのは夜で、久之と一緒に。一方でいま起きて久之と一緒にいる巳槌は今夜このまま空戦と共に過ごし、明日の昼は空戦と寝て、更に夜に起きて空戦と過ごす。

 いっそどちらかが完全に昼夜を逆転させてしまった方が楽だということはもちろん察しがついているのだが、やはりそれは出来かねる。あるいはいっそ全員が夜型になるというのも手ではあろうか、……いやそんなことをすれば舵禮に寝首をかかれかねない。結局のところ体力精神力に於いて秀でた円駆と巳槌がこんな生活を送るのが最善という結論は揺らがないのである。

 もう起きてしまった方がいい。その方が夜も寝やすい……、そう思いはすれど、身体も頭もずっしり重い、布団が誘っている、ついでに言えば、円駆の腿に空戦が頬を擦り寄せている。

 全く布団というものは恐ろしい。あの夜の巳槌を笑えない。この布団の中に在ると空戦という子供に対してすら、円駆は欲を覚えそうになるのだ。罪のない寝顔のそれそのものが既に罪深い。このところ不規則な生活による体力の消耗のみならず、この子供にぴっとりとくっ付かれて、あらぬことを考えて、なかなか寝付けないがゆえの精神の疲労の大きいことも否定し難い。

 空戦は円駆が巳槌とあるいは久之とどんなことをしているかを知っている。

 しかし巳槌に「お前にはまだ早い」と言われているから、行為に強い欲を抱くということは今のところないようだ。

 時に円駆は、……散々巳槌を非難していたくせに、こう思う。

「……いっそやっちまおうか、もう……」

 口に出すだけで呪わしい気持ちになって、すぐに考えは止められる。誇り高き麒麟であることをやめて蝙蝠の子供の身体を咀嚼するような真似をしてはいけないと。

 と。

「……あにしてんだよ」

 戸の隙間からそっと覗く姿がある。久之だった。それが巳槌だったらそもそも覗くのみならず蛇の姿で隙間から這い込んで驚かせるという悪趣味をしているはずである。

 音を立てぬよう、久之はそっと戸を開けて小さな声で「おはよう」と言った。

 巳槌と一緒ではないのか、と思う。しかし起きた円駆が一緒なら、舵禮が来ようと何ということもない。

 円駆は尿意を催していた。空戦を起こさぬように立ち上がり、すっかり乱れた浴衣の前もそのままに、少々精彩を欠いた足取りで表に出る。……日が長くなった。春の唄は少し前に山に響き渡り、雪はもう日陰に僅かに溶け残っているのみだ。

 暖かくなってきたことが、鳥神舵禮をより活動的にしているのかもしれない。そんなことを考えつつ、仮設がそのまま常設と化した便所の囲いに立ち、ぼんやりと六尺を解いたところで、

「お……」

 後ろから久之の手が腰に回った。

「な、なんだよ……、小便をするんだ」

 うん、とやや自信なさげに久之が応える。

「巳槌が……、一人で、舵禮のところへ行った」

「……あ?」

「本当は、お前には知らせるなって言われてて……、要するに、一人で、『片付けて来る』って、巳槌は言っていた。でも、円駆に知らせたら、円駆も来るから、だから知らせるな、って」

 ならば、知らせなければいい。しかしこの男がどうしてそれを口にしてしまったのか、その上でこうして後ろから円駆を拘束しようとするのか、……その理屈は判ってしまう。

 教えないわけにはいかないと、久之は思うのだし、かと言って巳槌の意に反することをするのも抵抗があるということなのだろう。

 円駆の陰茎からは、……既にその準備が整い切っていたわけで、小便が迸る。一度出始めでしまったらそうそう止まらない。しかし久之に反論をぶつけてその腕を解かせるほど長くはかからない。

「……あいつ、舵禮のとこに何しに行った。『片付ける』ってどういうことだ」

 久之は、

「判らない」

 と答えた。しかしその答えとは全く違う考えを彼が抱いていることは読み取れる。

「……で? お前はどうすんだ」

 円駆は用を足し終える。久之は無言で六尺を締める。

 久之はどうしたらいいのか判らないのである。久之が舵禮に対してどういう考えを抱いているかぐらい、巳槌だって察しているはずだ。すなわち舵禮という、現状対立している相手ではあるがはたして攻撃をするに足るかと問われれば、……さにあらず。そもそも空戦を此方側に置いておきたいと願いそれゆえに舵禮を刺激する理由というのは、全面的に此方の都合によるものだ。

「……あいつは、そこまで馬鹿な真似はしねえと思ってるけどな」

 円駆は久之の腕の緩んだところで振り返り背伸びをする、ぐいと彼の着物の襟を掴む。そしてそのまま、口付けをした。馬鹿みたいに優しい男、それだけに円駆が、愛しく思わざるを得ない男。

「行ってくる。……んーな心配すんな、あいつにはお前に聴いたとは言わない。俺だってでかい力がぶつかり合えばすぐ判るんだからな」

 今のところ、その気配はない。……巳槌と舵禮はどこにいる? 探るまでもなくすぐに判った。

「お前は空戦と一緒にいろ」

 そう言い置いて、円駆は走り出した。

 

 

 

 

 舵禮のことを、円駆は一度だって「好き」と思ったことはない。そもそもこの山の監督を円駆が請け負うことになったとき、最後までそれに異を唱えることをやめなかったのが舵禮である。曰く、「君のように空も飛べないけだものが」……性格のねじくれ方、何処かの誰かを彷彿とさせる。だものだから、円駆は巳槌を排除しようとしたとき、つまり久之を巡って対立したときにも、空戦をはじめとする朋輩の多くに協力を要請した一方で舵禮には声をかけなかった。場合によっては邪魔にさえなると考えたからだ。

 ただ、自分に従わないから嫌いと思うわけではない。

 あの阿呆鷄は、ことごとくこの山の治安を乱そうとしてきた「実績」がある。今回空戦を自らの側に引き入れようとするのは、突発的な舵禮の反逆ではなく、一連の活動の延長線上にあるものなのだ。

 久之の存在があろうとなかろうと、そして空戦が望もうと望まなかろうと、円駆としては彼の行動に釘を刺しておかなければならない理由がある。応龍と化した巳槌と強き麒麟の円駆が組んだ現状、舵禮が仮に空戦を得たところで出来ることなど限られているということは自明であるが、それでもなお和を乱そうとするならばもう捨て置けない。

 無論、殺すつもりはない。

 が、場合によってはそうせざるを得ないかもしれない。

 しかし、それを久之は空戦は、望むまい。……そこで初めて久之と空戦が出て来る。彼らのことを思えばこそ、やはり殺すわけには行かないという結論に至るし、事態はより厄介なものとなる。巳槌もそれは判っているはずだ。

 にも関わらず巳槌が「片付けに行く」と言った理由も、円駆には察しが付いていた。彼はもうこの乱れ切った生活に辟易しているのだ。理由が「空戦に添い寝をする」だけならいざ知らず……。

「……久之め」

 巳槌が円駆の姿をみとめて舌を打った。巳槌はまだ浴衣も脱いでいない、人の姿でいた。

「あいつが黙っていられるわけがねえだろうがよ。っつーかテメェだってあいつが俺に言うかもしれないってことぐらい判ってただろうがよ」

 ふん、と巳槌は鼻を鳴らす。珍しく蛇の図星を円駆は付いたらしかった。

「……やれやれ、お節介な麒麟のお出ましか」

 大いに面倒臭そうに舵禮は言うとともに、馬鹿にしたような笑みを浮かべる。「君も、よほどあの人間にご執心と見える。あれだけ人間を馬鹿にしていた君ほどの者が」

「舵禮」

 蛇は、嫌われ者だ。足がない。だが巳槌が嫌われるのはそれだけの理由ではない。巳槌は意地が悪く口が悪く態度が悪く要するに性格が悪いから、多くの神に嫌われてきた。当の本人が「馬鹿どもに何を言われようと」堪えない顔をしていたのが余計に反感を買う。

 同じことをすれば、当然舵禮だって嫌われるのだ。それが判らないから、円駆は舵禮のことを軽蔑する。

「お前巳槌とやりあってまともなままいられるとでも思ってやがんのか」

 舵禮は薄っすらとした笑みを浮かべたまま、頷きもしなければ首を振ることもない。

「君たちこそ、私を排除することが出来たとして、……無事でいられると思うのかい?」

 馬鹿のくせに、人を馬鹿にしたような言い方だ。しかし円駆はその問いに即答することが出来なかった。

「要するに」

 巳槌が言う。……彼は杖を手にしていた。氷の杖だ、正確に言えば、氷を固めて作った杖である。「この男を僕らが殺しでもすれば、それは他の連中の不興を買うことになる、と。……麒麟と応龍、僕らを無害と解釈するがゆえにいまは黙っている他の連中がこれまで通り僕らに害をなさぬとも限らない。無論、束になってかかって来られたところで動じる僕はではないが、山を追い出されて生きていけるかどうかは覚束ないな」

「加えて言うならば、……もし君たちが私をこれ以上害するようなことをしたならば、空戦さえも君たちと敵対することを選ぶかもしれない。どうやら彼は、私のことを護ってくれるつもりらしいからね」

 口元に手を当てて舵禮は愉快そうに笑う。もちろんその笑みは、円駆にとっては至極不愉快なものだ。

「確かにな」

 巳槌は舵禮と向き合ったまま、くるりくるりと氷の杖を回して弄ぶ。何でもないような顔でそうしているが、円駆が触れれば指が剥がれなくなるはずだ。「あの子供はお前のような者ですら攻撃するべきではないと僕に言った。……空戦の首を落とすことなど僕には容易いが、その断末魔を眼前で喚かれるのは相当に気分が悪いものだろうよ」

 麒麟とて、それは同感だ。何より、体温の通った相手だ、さっきまで一緒の布団に寝て、温もりを分け合っていた相手だ、……弟のようなものと言っても、まあそれは過言かも知れないがとにかく、空戦と敵対することは実利からも感情からもしたくない。

 しかし、舵禮がそういう「切り札」を有していることを認識した上で巳槌が「片付ける」と言って此処へ来たのは解せない。それを言われれば巳槌とて、継ぐべき言葉がなくなろうというもので。

 だが巳槌は表情を変えず、杖を回す手を止めた。

「だけど、僕らは空戦を僕らの側から離さない手段を持っている」

 舵禮が眉を動かした。

「お前には到底思い付かないやり方さ。僕がこの乱暴者の麒麟さえも従えたやり方さ」

「おいこら誰がいつお前に従った」

 巳槌は円駆を無視した。いつものことながら無礼であり、それには何百年経とうと全く慣れられる気がしない。

「蛇は嘘をつく」

 舵禮のその言葉が強がりだと、円駆には判った。結局のところ舵禮も他の神たちも、……ただ一人空戦を除けば、何故あれほど仲の悪かったように見える巳槌と円駆が今のように一緒にいるのか、しかも円駆が嫌っていた人間と共にいるのか、いまだ判らないでいるのだ。

 巳槌は杖をかざして、

「嘘だと思うなら、お前の『本当』だけを信じているがいいよ。それで損をしたいのなら好きにするがいい。僕らは別にお前が損をしようと困ることはないのだからな」

 冷気を集めながら言う。

 巳槌がどの程度の本気を持って言葉を発しているのか、円駆には未だ計りかねた。空戦は現状「布団に風呂に人間の食事」でもって此方側にいるけれど、それに一つの理由を加えたところで、はたして全面的に肯定するだろうか? それについて、どれほどの自信が巳槌にはあるのだろうか?

「お前も腕には自信があるのだろう。……僕がこの姿のままで相手をしてやると言っているのに、そんな無防備なままでいいのか? もっともお前が多少足掻いたところで、そして僕がこの姿でいたところで、阿呆鷄が僕に敵いっこないのだけどな!」

 円駆の考えがまとまらないうちに、巳槌が踏み込む。強烈な冷気を纏った杖を振り上げたところ、舵禮が慌てて発した雷の扇とぶつかり、山の大気が震えた。

「私を、舐めるなよ……? 応龍でない貴様ごときにやられると思ったか!」

 雷が、舵禮の右手の扇を中心に破裂する。巳槌の軽い身体は弾き飛ばされ宙を待った。空中で体勢を立て直そうとしたところ、舵禮が飛び上がり、追撃の一閃を放とうと振りかぶる。

 円駆は右手に生んだ焔の剣でそれを受け止めた。至近距離から雷撃を放ち、舵禮を退ける。

「二対一では不公平になってしまうだろう」

 着地した巳槌が不平の声を上げるのは当然頭に入っていたし、

「やかましい!」

 と怒鳴るために腹に力を入れる支度も出来ていた。

「これ以上、俺の前で喧嘩をしてみろ。テメェらどっちもただじゃおかねえぞ!」

 巳槌と舵禮が武力の衝突をした瞬間に、円駆には言葉が生じた。その言葉を発する理由が生じた。

「この山に、もう争いごとは要らねえ。舵禮、テメェは喧嘩がしてえのか。だったらどっか他所行ってやれ。巳槌が応龍になってからこっち、テメェが空を飛ぶのを邪魔したことがあったか! テメェに危害を加えたことがあったか!」

 舵禮は、人間態の巳槌よりは強いのかもしれない。背丈に秀で、体力に秀で、……加えて彼は、本質的には水を司る巳槌の苦手とする雷を自在に操る。

 巳槌が応龍であれば少しも苦戦する相手ではないだろう。しかるに人間態ではその運動能力も含め、体格に比例したものでしかない。

 それは、円駆が巳槌と時々、いやしばしば、ごく下らぬ理由で取っ組み合いの喧嘩をするときでも、決して本気にはなれないことからも証明される。巳槌は応龍となれば誰も敵わぬ力を得るが、人間としてある限りは円駆に噛み付いたり急所を引っ張ったりすることでしか勝てない。

 そのことを巳槌が判っていないはずがないのに、「この姿のままで」などと、馬鹿なことを。

「テメェもテメェだ巳槌!」振り返って怒号を飛ばしたところ、背後の舵禮から雷球が飛んできた。剣の柄で弾き返して、「何のつもりだ! 空戦が言ってたんだろうが!」舵禮を刺激すればするほど、窮鼠となった舵禮は何をしでかすか判らない。だからこそ、放って置くことが大事なのだと空戦は言っていた。円駆はそれに同調するし、巳槌も当然理解したものと解釈していたのに。

 この期に及んで何の相談もなく「片付けに行く」などと。事態をややこしくする以外何の役にも立たぬことを。頭のいい男であるはずなのに。

 巳槌は憮然としたまま言葉を返さない。更に責め立てる言葉を発そうと、腹に力を込めたところだ。

「久之っ、耳を塞いで!」

 甲高い声が、空から降って円駆の耳に届いた。

 と。

「うわあああああああああああ!」

 絶叫。

 反射的に見上げた視線の先ら自分よりもずっと大きい久之の身体をぶらさげ、黒い翼をはためかせながらよろめきつつ飛来する、空戦の姿があった。久之は全身を強張らせて必死に耳を塞ぐが、その声の出処のすぐ側に在ってまだ半分しか神になっていない久之が長く耐えられるはずもない。

 が、それは離れたところにいる円駆も巳槌も舵禮も、……神なる身であっても同じこと。それぞれの手から焔の剣、氷の杖、雷の扇が消滅する。

「うわっ、わ、……わあっ」

 力を放った反動か、体勢を崩しながら、空戦が落ちてくる。円駆は慌てて麒麟に変じ跳躍する。その広い背中に空戦の身体を受け止める。空戦の声は迷惑極まりないものだが、それでも久之を離さないでいたことだけは褒めてやっていい。

「全く……、うるさい声だ」

 無表情に言う巳槌に、

「黙れ!」

 と円駆は吠える。どうしてこいつは……、という考えは、

「舵禮」

 非難の目を向ける空戦までも無視して、巳槌の口にした言葉で中断させられる。「お前の負けだ」

 舵禮は忌々しげな表情を顔全体に行き渡らせて空戦を睨んでいた。

「空戦は来た。僕らの争いを止めるためにな。そして久之と共に。……この賭けは僕の勝ちだ」

 巳槌の声が舵禮に届いたかどうかは判らない。舵禮は両の手に再び雷の扇を生じさせ、二発の雷球を空戦目掛けて放つ。

「わう!」

 まだ久之を抱えたままで、空戦は慌てて飛び上がって避ける。円駆はその雷球を身体に受け止めることとなったが、麒麟にとっては痛くも痒くもない。

「何するのさ!」

 空戦が怒り、あの「声」を再び放とうとしたところで巳槌が跳躍する。浴衣と六尺が下草の上にふわりと落ちた。瞬時に応龍の姿となり、空戦の身を背に転がす。

「空戦は僕のために来たぞ」

 応龍の姿を成していた。……応龍、麒麟、山の双頭たる神獣に怒れる空戦が揃ったところで慌てたように舵禮が巨大鳥の姿をとるが、趨勢は既に明らかである。

「空戦は僕のことが好きだ。円駆のことが好きだ。そして何より、僕らの好きな久之のことが好きなのだ」

 久之は一人、ぽかんと巳槌を見上げているばかりだ。

「この構造は、つまりは事実は、僕らはお前がどうしたところで揺らぎはしない。しかしお前が下らんことを考えてちょっかいを出してくることには、相応の不快感を抱く。これもまた事実だ」

 独善的に、巳槌は言う。

「仮にお前を殺したところで、他の連中に僕らを迫害する度胸があるかな。……もし刃向かう者がいたとして、はたしてそれが僕らにどの程度の脅威となるだろう」

 無表情の応龍は空を覆い、言葉を降らせる。舵禮は丸い双眸を歪め、忌々しげにただ睨みつけることしか出来ないでいる。

「それでも僕は大いに譲歩しているつもりだぞ。……さっき其処の麒麟が言った通り、お前が空を飛ぶことに僕は何の文句もない。飛びたい時に飛ぶがいいよ。ただお前が徒らに空戦の力を求め、僕の……、いや僕らの平穏を妨げようとするならばそのときは……、愚かなお前でもこの先は言われなくとも判るだろうよ」

 応龍はゆっくりと心地良さげに空を舞い、降りた。降りたときには背に空戦を負ぶった人間の姿へと戻っていて、いつもの通り冷徹な顔である。

「判ったなら、それでいい。僕だって喧嘩はしたくない……」

 テメェで争いごとの種を蒔いて水をやって花開かせて何を言うと円駆は鼻白むが、麒麟の姿を解く。巳槌は円駆がどんなに睨んだって少しも表情を動かさなかった。

 ただ彼は、足元に解けた六尺を拾い上げてそれを締め直すなり、

「帰ろう」

 と言った。舵禮がもう動けないことを確信しているようだったし、万が一舵禮がその無防備な背中に攻撃を加えようとしたときには円駆と空戦がそれを護らざるを得ないことまでも巳槌は理解しているに違いない。

「舵禮」

 翼をしまって空戦が言う。悄然と肩を落として、「僕は君の味方にはなれないよ、君が円駆の言うことを素直に聞かない限りは。僕は……、円駆や久之と離れたくない。彼らが僕にくれるものは、僕にとってすごく、大事だから」幾分、申し訳なさそうに。

「久之、空戦、乗れ」

 円駆が促すと、空戦は一度に舵禮にお辞儀をしてから久之の手を借りて円駆の背中に跨った。久之はと言えば、円駆が脱いだままの浴衣と六尺を抱えて畳んで。

 舵禮に向き直った。

「申し訳ない、……と、思う。……その、俺がいなければ、……こんなことにはならなかった、のに。……君の生きる空は、君だけのもの、だったのかも、しれないのに……」

「それは違うよ」

 反論したのは空戦だった。

「空は誰のものでもない。僕のものでも舵禮のものでもない、そして、巳槌のものでもない」

 そうだ。この山の何処を切り取っても、全ては共有されるべきもの。存在に伴って生じる恵みも害も、誰かが単独で背負うべきではないものだ。

「……お前は、好きにしろ」

 久之が背に跨るまで待ってから、山の監督者である麒麟は舵禮に背を向けたまま言った。「巳槌は俺が叱っておく。お前を無闇に刺激するような真似を、俺は認める訳にはいかない。それについては俺が責任持ってやる。お前は好きに空を飛べばいい」

 そう言い残し、大人の身体をした半神と、子供の姿をした神獣を背負って円駆は踏み切った。

 

 

 

 

 巳槌が素直に自分の非を認める訳がないとは思っていたが、

「何を怒っているのだ偉そうに」

 などと抜かすものだから、円駆は当然怒った。飛び掛かってぶん殴ってやろうと思ったところを、

「やめなよー」

「円駆、……巳槌も……」

 空戦と久之に止められる。「言い方ってものがあるだろう……、わざわざ、そんな、悪い言い方しなくたって……」

 久之にそう諌められても、

「僕が悪いことをしたならそのときは謝るがな」

 巳槌は銀色の髪をかき上げて尊大さを損なわない。「結果として全ては好ましい結論に至ったんだぞ? そこのけだものが短気で尻軽なくせに腰重くいつまでも舵禮に好き勝手な振る舞いを許しているものだから僕が文句を言われる筋合いはない」

「誰が尻軽だクソがぁあ!」

 人を不愉快にさせる悪口ならば、全くもって巳槌は天才的である。だから他者から悪く言われるのだ。円駆は久之に後ろから抱えられ前から空戦にしがみ付かれつつ、巳槌の言葉を聴く羽目になる。

「僕は舵禮に、『賭けをしよう』と言ったんだ」

「賭け、だと……?」

「そう、賭けだ。僕とあいつが喧嘩をするとしよう。そうなったとき、……お前が来るだろうか、お前が来たとして、空戦が来るだろうか」

「アァ……?」

 円駆には、巳槌の意図が判らなかった。空戦も判っていない顔をしている。

 ただ、……背中でごくんと唾を飲む音が聴こえた。

「舵禮に、空戦が奴の側に着くことなどあり得ないと思い知らせてやる必要があった。あいつは単独で応龍と麒麟に敵うことはなくても、空戦のあの声、……僕らから力を奪い、長く聴けば間違いなく精神を害する声を味方につければ、対等に渡り合えるという希望的観測を持っている。だからこそ長きに渡りちょっかいを出していた」

「待って。僕の声は確かにそういうものかも知れないけど、でも舵禮と組んだとしたって君たちと喧嘩をして勝てるとは思わないよ」

 空戦の言葉はもっともだ。あの声は無尽蔵なものではない。腹の底に溜めた空気がなくなれば息継ぎの必要が生じるし、一瞬あれば応龍は蝙蝠も鳳も一撃の元に倒してしまえるだろう。

「だが、僕に空を奪われたと恨み、……遡れば円駆のような、空を飛ぶ力のない者が山の頂に君臨する事態についても快く思わないで長々と過ごして来た男だ。お前が目覚めた上で、……あいつには判らない理由でこの小屋に寝泊まりしていると知れば、反撃の望みをお前に託したとして何の不思議もあるまいよ。仮令事実がお前の言う通りだったとしても、耳を塞いだあいつには理解するには至らない」

 巳槌は言って、座る。

「だから僕はあいつに言ったのさ。……僕とお前が喧嘩をしたら、空戦はどちらに付くだろう……? もしあいつが僕を庇うようなことがあったなら、あいつの持っているだけ無駄な望みを断ち切ることが出来る。そして……」

 円駆の背中で、久之はずっと緊張していた。

「……俺は、……空戦を起こして、それで……、巳槌と舵禮が、生身の体で喧嘩をしに行ったって、そう言って……」

 久之の言葉を空戦が受け取る。「僕は……、巳槌を止めなきゃって……。だって、人間の身体で巳槌が舵禮と喧嘩をしたら……」

「分かったか円駆。初めから空戦は来ることになっていたんだ。久之まで連れて来るとは思っていなかったけどな。僕がお前の意図を汲まずに何の考えもなしに、いかな嫌いな舵禮相手とはいえ何の益もなく喧嘩を吹っかけると思ったか」

 円駆の身体が熱くなっていることを、久之は当然判っている。しかるに、久之を殴ることは円駆には出来ないし、巳槌を殴ろうとすれば久之は困る。

 となると、円駆に出来ることは何もないのだ。

「お前がいまの生活を何の苦労もなくしていると僕が思っているとでも? ……僕が辛く思うのと同じようにお前がしんどい思いをしていることぐらい気付いているさ。単に生活の形を変えるのならば問題はない、ただそれが、よりにもよって舵禮のためにと思うのは精神衛生上極めて良くない……」

 巳槌は何もかも判って言っている。……馬鹿ではないことを、円駆は知っていた。巳槌は賢い、……しかし、腹は立つ。

「……ごめん」

 久之が、掠れた声を搾り出した。

「巳槌は、……お前がしんどいし、……自分もしんどいって、言って、だから……、絶対に怪我をしないって、約束するって言うから……」

 久之は巳槌のその言葉を信じられるのだ。かつての彼ならば、判っていても巳槌を止めたはずだ。

 巳槌のみならず円駆も「しんどい」ということまで久之は理解しているからこそ、巳槌のために嘘をつくことを選んだのだ。

 ただ、疑問が一つ。久之の心の読める円駆が何故、そのことを看破できなかったのか。

 疑問には、巳槌が答えた。

「寝起きではお前だって力の全てを発揮出来るわけがなかろうよ。ましてや寝不足の状態でならなおのこと。久之も『円駆に見抜かれたら』と言っていたけど、その懸念はさほど大きくはなかった。いや、見抜かれたところで、お前や空戦が僕を助けに来ないはずがなかったけど」

「……君は酷いね」

 空戦が唇を尖らせていた。空戦は久之の心を読むことが出来ない。だから久之の言葉を額面通りに受け取るしかなかったのだ。「僕は寝起きに重い思いをして飛んで行ったんだよ?」

「ああ、それについては謝らなければならないな。小さい身体で久之を抱えて飛ぶのは難儀したろう」

「空戦に、だけじゃなくて……」

 久之が珍しく、少し怒った声を出した。「円駆にも、謝らなきゃ駄目だ。……円駆が気を揉んだこと、ちゃんと、判って……」

 別に謝られたって、腹立ちが収まるわけではない。蛇は嘘をつく、舵禮の言った通りだ。すごくたちの悪い嘘を。

「うん。……空戦、退け」

 巳槌は円駆の前に膝を揃えて座る。

 退いた空戦には、その顔は見えない。もとより目に光のない空戦ではあるけれど。

「嬉しかったぞ。お前が僕を案じてくれるのが。……自分の考えがどう転がるか、当然その結果までを含めて頭に描いてはいるけれど、それでも完璧ということはあり得ない。だからお前が来てくれたときには、笑いたくなるくらいに嬉しかった」

 こういう馬鹿なことを言う奴は、引っ叩いてやるに限る。しかしながら円駆は未だ、巳槌の顔を叩いたことがない。その白く、完璧に美しい顔を目にしていると、畏れ多いような気がして叩けなくなってしまうのである。それは、そもそも「叩く」などという選択肢さえ浮かばない久之にしても同じであろう。

 とはいえそういう円駆でいるからこそ、巳槌の性格上の問題は一向に治る気配はないどころか、ますます増長させることになる。

 今日も円駆は巳槌をぶつことは出来なかった。

「一言相談してくれればよかったんだ」

 空戦が不満げに言うが、巳槌がそうしなかった理由には円駆も察しがついている。

「……もし、そうしたら」

 低い声で、唸る。「お前はあんな慌てて来やしなかっただろうがよ。久之まで連れて来たかどうか。……お前は大慌てで飛んで来たんだ」

 いまいましいような気持ちは一度の舌打ちで片付ける。

「あんま勝手な真似すんじゃねえ。……テメェが勝手なのは今に始まったことじゃねーけどな、テメェが一人で考えて決めたことにテメェの周りの奴が振り回されんのは、仮令テメェの考えが正しかったとしてとその時点で間違いだ」

 巳槌は意外にも「うん」と素直に頷いた。「わかった、これからはそう努力しよう」

 もう一度舌を打つが、もういい音はならなかった。久之がやっと両手を離す。だが立ち上がる元気もない。特大級の癇癪玉も水をかけられて湿気てしまった。

「では円駆、一つ相談がある」

 円駆の前に膝を揃えて座ったまま、巳槌は神妙な面持ち、というよりはいつもの通り何を考えているのか測りがたい無表情で言う。

「何だ」

「空戦を昼に行動させようと思う」

「え」

「え」

「……アア?」

 巳槌は他の三人の反応に頓着した様子もない。

「空戦。舵禮が飛ぶ時間にお前も飛べ。そして、少しずつ舵禮と会って、対話しろ。あいつは今日のことでお前を『味方』にすることは諦めざるを得ないと判断出来るぐらいの脳味噌は持っているだろうから、お前が鉢合わせたところでもうちょっかいを出しては来るまいよ。……加えてお前が昼に起きて夜に寝るという生活をしてくれたなら、今のように僕だけとか円駆だけとかではなく、僕ら三人のくっついて眠る温かい布団にお前を入れてやることも出来る」

 ちょっと待て、と円駆が言いかけるところまで、巳槌は当然読み切っていたのだろう。だから躊躇いなく言葉を繋げる。

 巳槌の言葉を黙って、……つまり瞬時には発言の核に当たる部分にまでは辿り着けないでいる。

 一方で円駆は、巳槌の心など読めなくとも意図するところはすぐ判る。

「それ……、っていうのは、……つまり」

 固い土に垂らされた水が染み込むようにじわじわと久之の中に理解が浸透して行く。「それと、いうのは……、ええと……」その辺りで、久之は先にあるものの輪郭を捉えられたのだろう。口を開けたまま、固まった。

「空戦を一緒に寝かせるということは」

 巳槌は超然としていた。「言うまでもないことだが、空戦も僕らがしている『寝方』に付き合ってもらうことになる」

「うわあ」

 何を言われるのかあらかじめ判っていたくせに、そういう声が円駆の口からは零れた。

「寝方」

 平常な表情を浮かべているのは何もかもを判っている巳槌と、いまいち判っていない空戦だけだ。「……って言うと?」

「そのままだ。そのものすばり『寝方』だ」

 巳槌の提案、その主旨は十分に理解出来る。昼夜が完全に逆転しているならばまだいいが、中途半端に朝起きたり夜起きたり。その根幹にある二つの原因のうち片方を排除するのみならず、もう片方についても……。

 確かにそれは一つの「解決」と呼ぶべきなのかもしれない。しかし同じほど、そう呼びたくないという意識が円駆の中では働く。

「お前たちの言いたいことはよく判るぞ」

 円駆と久之の視線をするりとかわすように、巳槌は小屋の戸口から外を伺った。

「しかしな、こう思うのは僕だけだろうか? 『もっともっと、幸せになりたい』と。……いいか空戦、僕は今から随分と酷いことを言うが、落ち込まないことだ。しかしもし落ち込んだとしてもそのときには責任を持って慰めてやる。僕はお前の存在が必要不可欠であると思う。しかし同時に、お前を邪魔臭く思うこともある」

「ひどいなあ」

 空戦はむっと唇を尖らせ、

「しかし事実だ。お前がこの部屋で過ごしてくれるからこそ、僕らは平穏な生活を今後築いていくことが出来る。しかるに他方、久之と円駆はお前がいる前でちんちんのしゃぶりっこみたいなことはするなと言うし、僕がお前とそういうことをするのも駄目だと言う」

 構わず言い継ぐ巳槌に、ヘソを曲げたように膝を抱えた。

「勝手なことばっかり……、邪魔なら出てくよ」

「待て。僕が、僕らがお前にやれるのは布団と風呂と人間の飯だけでなない。……それこそ僕らが知り、一度知ったからには一生手放したくない愉楽をも、僕らはお前に与えてやれる……、空戦お前は僕らとちんちんのしゃぶりっこしたいんだろう」

 久之の身体の何処かが軋む音がした。空戦は虚を衝かれたような顔になる。

「でも……、僕は君たちみたいに大人じゃないから、ちんちんをしゃぶったらいけないって言われたよ? ……他でもない君に」

「僕は馬鹿ではないのでな。現実というものは時間とともに変遷するものだと判っている。確かに僕は、お前にはまだ早いと言った……、あの時点ではな。しかし刻々と時間は過ぎる。お前の身体があのときと今とで同じだとはお前自身にも言えまいよ」

 こんな短期間で成長を遂げるような容易い身体ではない。神獣の身体は既に数百年を生きた円駆や巳槌が人間としては「少年」「子供」の域を脱しないことからも明らかであるように、彼らの肉体の形が変わるには途方もない時間を要するのだ。

「そうなの?」

 と空戦がびっくりした顔で問う声と、

「んな訳あるか!」

 円駆が間髪入れずに否定する声が重なった。

 しかし巳槌は動じない。幾つかの例外的な局面を除けば、円駆が巳槌を動揺させることなど出来ないのだ。

「少なくともちんちんを咥えることなど、……人間が後から作った法においてどうかは知らないがな、その埒外にいる僕らは咥えたいと思ったら咥えればいいんだ。咥えるだけならば別に身体がどんな形をしていようと変わらないし、咥えられることに関しても子供だったからと言って、……まあ、多分面白くないというだけで害になるわけでもない。そもそも僕はもう、空戦は大人だろうと判断している。つまり、お前が僕らを楽しませてくれるように、僕らもお前を楽しませることが出来るだろう……」

「勝手なことばっか抜かしやがってテメェは……」

 円駆がまた相貌を怒りに燃やしたところで「おお、そうだ」何ということもないように、巳槌はぽんと手を叩く。「いいことを考えたぞ」と裸足でぺたぺた部屋を横切り、

「折角だから、この山における空戦の兄であり保護者であり責任者であるお前が空戦にちんちんしゃぶらせてやるがいいよ。うん、それがいいそうするべきだな、そうしよう」

 久之の背中に纏わり付いた。

「どんだけ勝手なんだこの白うんこ!」

「白うんことはずいぶんな言われようだが僕は寛大だから許してやるぞけだもの。なあ久之よ、僕は妥当でないことを言ったかな?」

 気は弱くとも、「……言った……」久之はその辺り責任感を持って巳槌を咎めた。

「俺は、……まだ、半分は人間だから、……お前は気にしなくっていいって言うかもしれない、けど、お前や円駆とああいう……、そういう、ことをするのだって、やっぱり罪深いと思うし、それに……、円駆をそんなに困らせては、いけないよ」

「円駆がちんちんしゃぶらせてくれるの?」

 空戦は目をきらきらさせて訊く。久之の言葉など、大した意味を持つまい。人間の法の話をここですること自体、そもそも間違いなのだから。

「しゃぶらせねえ!」

「いいじゃないか。……だって僕は円駆の責任の下にいる、この山に生きる他の神獣たちと同じように、……さっきだってそこのけだものが喧嘩をするなと言ったからやめたんだ。つまりこの山で起こることの責任は円駆が取るべきなんだ。この山でお前と僕が出会ったことも、空戦が再び目を覚ましたことも、ひいては空戦が僕らと一緒にいること、ちんちんをしゃぶってみたいと思うようになったことまで含めて、円駆が責任を負うべきことだ。……空戦の中に生じた興味まで含めてな」

 勝手な理屈である。そもそも無法者の巳槌が何をするかなど円駆の監督外のことであるし、円駆に監督されているなどと思ってはいるまいし、更に言うならば巳槌は、円駆を困らせることにさえ躊躇いはあるまい。

 悪意のあってのことではないから、余計にたちが悪いと言わざるを得ない。

 無論巳槌はそんな風に誹られたって平気で、文字通り眉ひとつ動かすことはない。誹られることまで判って言っているのだ。

「円駆のちんちん、しゃぶってもいいの?」

 円駆の目の前では空戦が畳に手を付いてじいっと見上げてくる。

「お、お、お前はっ……、自分が何言ってんのか判ってんのか!」

「判らないよ」

 円駆の側で過ごした時間は、ことによっては巳槌と同じほど長い空戦である。よって怒鳴られたところでほとんど効果はない。そう判っていても、巳槌に対しても空戦に対しても怒鳴ることしか出来ない麒麟であり、……別に怖がらせたくもない久之が身を強張らせるのはただただ苦々しいばかりのことだ。

「んなもんッ、不味いに決まってんだろ! テメェみてーなガキしゃぶりてえなら何か違うもんでもしゃぶってりゃいいんだ!」

「けち臭いことを言う奴だ」

 巳槌は久之の背中におぶさり、甘えながら言う。……その声の質が変化したことに、久之はもちろん円駆も、そして、

「おや、巳槌が笑ってる」

 空戦も、気付く。

「笑うさ。僕は愉しいときにはちゃんと笑うように出来ているんだ。なあ久之、そうだよな?」

 その微笑みの危うさに慄きながらも、久之は巳槌に抗うことは出来ない。円駆を膝に乗せた状態では、もとより動けるはずもない。だから彼は巳槌に耳を舐められても何一つできないのだった。

「ほら空戦、何してる。円駆のちんちんしゃぶってやるがいいよ。お前にも円駆のことを幸せにしたい気持ちがあるのだろう、でもって、僕らが好きなものを同じように同じほど好きになりたいのだろう」

「うん。それはそうだね」

 空戦は納得したように頷いて、円駆が久之の両腕に抑えられているのをいいことにその足の間へ跪いた。光のない少年はそれでも、円駆が自分を蹴飛ばしたりはしないという信頼を置いて動くし、蹴飛ばされても構わない気でいるのかもしれない。そう判ってしまっている以上は、円駆にも空戦を蹴飛ばすことは出来ないのだった。

 間の悪いことに、円駆の六尺は空戦の前、浴衣の下半身がはだけてすっかり晒されているのだ。

「ええと」

 空戦の手は、全く何の躊躇いもないままに円駆の前袋に当てられた。局部を包むその布の脇から指を入れて、巳槌と比べ合う程度、つまり空戦のそれとも大差ない大きさの陰茎に、触れる。

「……ぷにゅっとしてる。僕のと同じだ。……形も、たぶん僕のと同じだよね? でも、あれ? この間君たちが『愛し合って』いるときには、みんなもっと硬くて熱くなっていたよね?」

 素朴な感想は少年の中に思い浮かんだ言葉をそのまま並べただけのものだろう。問いに対しての答えを持っていながら言葉にする術は持たない円駆は急所をふにふにと弄り回されたまま黙りこくっている。だから代わりに、

「そうだよ。これからお前が硬くするんだ、円駆のことを、熱くするんだ」

「僕が熱くする……。でも、巳槌のはもう熱いね?」

 視力をほとんど持たない代わりに、空戦は其処に存在する温度を感知する。巳槌は「ああ、そうさ」と得意げにすら感じさせる声で答える。「僕は久之とこうやってくっついているだけで嬉しくって幸せで、だからちんちんが熱くなる。……円駆は僕より奥床しいつもりらしいからな、お前に舐められるまではそう簡単に硬くなったりはしないつもりだろうさ」

「ふうん……、そうなの? 円駆」

 もちろん、円駆は答えない。

「実際のところ、お前がしたところで円駆のちんちんが熱く硬くなるかどうかは、僕に保証できるようなことではない。ただ僕はこの男たちのちんちんをしゃぶることで確実にこの男たちのちんちんを熱く硬くすることが出来るし、この男たちのちんちんがそういう反応をすることについては心の底から誇らしく思っている」

「ふうん」

 判ったような判らないような顔を、空戦はしていた。ひょっとしたら言葉を発した巳槌自身にも、自分が何を言っているのかということについて確固たる理解はないのかも知れない。

「……ちんちんがそうなると、円駆は嬉しい?」

「嬉しくねえ!」

 やっと出た言葉も、

「嘘をつけ。本当に素直じゃないね、円駆は」

 巳槌にあっけなく掻き消されてしまう。

「僕にとっても、それは嬉しい、久之にとっても、……ひょっとしたら、お前にとってさえ幸せなことであるかも知れない。何にせよ実践してみないことにはわかるまいよ」

「うーん、そうか……。そうだね」

 空戦はまだ子供である、そう思っている円駆である。だから一定以上の監督をしてやらねばならないと信じているし、こういうことはまだ早いとも思うのである。事此処に至り、改めて空戦を「子供」と評するならば、

「ひっ……」

 ……あの日久之からどういった説明を受けたか知らない、けれど空戦自身は突然「ちんちんをしゃぶる」ことへの疑問を抱いたはず、それでも結局はこうして純真な心の赴くままに、巳槌という蛇の甘言に流されて

 とうとう、円駆の「ちんちんをしゃぶる」に至った。

「んー……」

 空戦は縮み上がった円駆の性器というよりは泌尿器を口にして、「んー」……しばし、考え込んでいる。円駆としてはとうとう自分が空戦を穢す時が来てしまったという悔恨……、よりは「噛まれんじゃねーか噛まれんじゃねーか噛まれんじゃねーか」そんな目先の恐怖心で頭がいっぱいだ。

「どうだ? 念願叶ってさぞ嬉しいことだろう」

「んー……」

 ちゅる、とその口から円駆の芯を解放する。首を傾げて、見えない赤目を真っ直ぐに円駆に向けて、

「しょっぱいね」

 素直に。

「ほう、しょっぱいか。そのしょっぱいの、お前は嫌いか?」

「うーん……、好きとか嫌いとかっていうのは、まだ判らない。久之の作るごはんを食べるようになるまで、『しょっぱい』の、あんまり知らなかったしね……。でも」

「でも?」

「うん……、正直、不安視してたほどじゃないかなって。もっとめちゃくちゃ臭かったりまずかったりするものなら、一度でお腹いっぱいって思ってたんだ。でも、これぐらいの味や臭いだったら僕は平気。君たちが口にしたいと思う気持ちも、なんとなくだけど、理解出来るような気がするよ」

 円駆は、……少なくとも円駆自身の自覚としては、「ちんちんが臭くないまずくない」などと思ったことは一度もないのだ。久之のは、「大人」の形であるからしてさほど汚れもしないらしいが、巳槌のはまぁ、風呂上がりで無い限り芳香漂う……、とは言い難い。無論、それは同じ記号で表されるはずの自分自身のものもそうであろうから、決して文句ばかりを垂れ流す訳ではないのだけれど。

 それに、し始めてしまったら味も臭いもどうでもよくなってしまうものなのだけれど。

 空戦にとっても、それはさほど気にならないものなのだろうか? もちろん円駆には判らない。

「ならば、もっとしてやるがいいよ。今度はもっと愛情をこめて、優しくやらしく舐め回してやれ」

 巳槌は久之に頬擦りしながら促す。

「かっ……、勝手なことばっか抜かしてんじゃねえ!」

「今更だな。僕が勝手な生き物であることを一番知っているのがお前だろう」

 二番は久之に違いないな、巳槌は言って、また笑う。久之はじっと身を硬くしたまま動かない。無力を自認する半神は、勝手な巳槌の始めたことを自分などが左右出来るはずもないものと諦め切って、ただ事態に身を任せることしか出来ないと決め付けているらしかった。

「じゃあ……、円駆、続きするよ? ええと、よくわからないけど僕がこうやってすることで君が喜んでくれたらいいなと思うし、あと」

 にこり、と空戦は微笑む。「これから先、君と一緒に寝るとき、……えーと、巳槌はこういうことを僕にさせるのを、我慢していたんだよね?」

「そうだよ。僕はお前と布団に収まるとき、お前が可愛くて悪戯したくてうずうずしていた。そしてそれは、円駆も久之も同じだろうよ」

「そう……、じゃあ、僕は君たちがそうしたいときに、相手をするよ。僕が君たちから受け取ってきたものはもっと大きいと思うし、こうすることでどの程度お返しが出来ているかまるで覚束ないけど……」

 違う!

 俺はお前にそんなことさせたりしなくたって。

「いい加減納得しろよ」

 巳槌が嘲笑うような声で言った。「僕らには、……久之とお前と僕の三人には、もうこうして『愛し合う』時間は必要不可欠なんだ」

 それに納得していないなどと言った覚えはない、ただ其処に、空戦を巻き込むことが、巳槌に百言並べられたとしても納得し難いと言っているのだ!

 空戦はまだ子供である。その上、久之を占領する時間を目減りさせる存在ですらある。此方に都合良くその存在を用いるのであれば……、その礼は布団と風呂と飯で充分であることを、空戦自身も認めているではないか。

「お前は……、久之もだけど、空戦をずいぶん軽んじてはいないか」

 巳槌は独善的な物言いを、未だ変えない。

「空戦自身が望むものを僕らは提供しなければならない。僕ら自身の腹が痛まぬものだけ選んで分け与えるようなやり方は不義理だろうよ。……この子供は何度も言ってきた、『僕もしゃぶってみたいなぁ』……お前たちも聴いたろう。それが空戦のしたいことなら実際にさせてみて、その後空戦自身に決めさせればいい。空戦がお前のちんちんをしゃぶって美味いと思ったならまたやらせてやればいいし、……お前はお前のちんちんが美味いと思うのか?」

「思うか!」

 義理、などという言葉を用いて巳槌は自分を正当化しようとする。

 認めるも認めないも、ない。

「僕はよくわからないけど、またしゃぶるよ?」

 空戦は巳槌の言葉からさえ自由だ。その複雑かつ不規則な飛行軌道、誰にも捉えられるはずがないのだ。

「空戦っ……」

 ぱくんと、その口に再び包まれる。

「久之が前に、里で飴を買って来ただろう……」

 巳槌が言う。もう、雑音でしかない。「あれみたいに甘くはないけどな、でも、あれを味わった時のように丹念に舐めるんだ。そして円駆のちんちんが硬くなってきたなら、歯を立てぬように口というか頭全体を使って、舌を絡めて扱くんだ」

「んー」

 空戦は巳槌の言うことをよく聞く。

「もう……、バカ、馬鹿空戦っ、も、やめっ……」

 円駆の言うことは聞かない。

 ごく腹立たしいことであるし、後で絶対叩いてやると思っているのだが、理由は単純に「麒麟より応龍の方が強い」という認識があるからではないか。それに加えて、「円駆は僕のことをあんまりぶたない」と思っているからではないか。ますますもって腹の立つことだが、怒号を上げたとしてもほとんど悲鳴のようになる公算が高い。

 空戦の舌、……決して器用なものではないのだが、なんというか、妙に熱意を感じさせる。真心がこもっていると言ってもいいか。清潔ではないものを口にしているという意識を捨てて、施すことが

「んっ……、巳槌、円駆のちんちん硬くなってきた」

「うん、お前がいい子で上手に出来ているから反応しているんだ。円駆の顔を見てみろ」

「頬っぺたが紅いな。熱でもあるみたい」

「気持ちいいと、僕らの身体はそうなる。久之だってそうだろうよ」

「ほんとうだ」

「僕らの身体はな、空戦、お互いがお互いを心地よく高め合う、ある種の装置のような側面を持っているんだ」

「そうち?」

「人間の作ったからくり仕掛けのようなものだよ。それが僕らには生まれながらにして備わっている。人間たちは十年やそこらでそれを知るわけだが、長生きの僕らはその事実に気付くまでにずいぶんかかってしまった。……でも、遅いということはない。今夜はお前が愛し合う悦びを……、さしあたり誰かを愛し幸せにする悦びを知る、最初の夜ということだ」

 本当に、本当に、本当に、どこまでも勝手なことばかり言う。はたしてこの男は自分が勝手なことを言っているという自覚があるのか。あってなおそうするのならば本当に性格が悪いし、そもそも性格が悪くなければ自覚出来ていてしかるべきことである。結果、何の答えも出ない。

 空戦は円駆への愛撫を再開した。

「は……っ……」

 円駆が口の中で陰茎を震わせるのが面白いのか何なのか、やたらと積極的である。こんなことを教えるつもりはなかった、……しかし円駆が久之とともに尾野辺の部屋に泊まった翌朝まで遡ることは出来ない、あの朝に久之が言ったことは最善であった老師、苦しい一夜を過ごした巳槌を慰めなければならなかったこともまた事実である。

「んー、ひょっぱく、なっふぇひた」

「男は気持ちいいとそこがしょっぱくなるように出来ている。勉強になったな?」

「ん、……えんくは、ひもひぃの?」

「そうだよ。……いまにもっと違う味のものが出て来る。さてそれが童のお前の口に合うかどうかは別問題だが」

 む、と空戦が挑む目で巳槌を見上げた。

「僕は童じゃないよ。きっとその、円駆のちんちんから出て来るものだって美味しいって思えるさ」

 巳槌は甘ったるく笑う。「そうだといいな。それを確かめるためにも、……円駆、とっとと出してしまうがいいよ。もう諦めろ。お前が意地を張ったところで今更何を守れると思うのだ」

 他でもねえ、誇りを護るんだ!

 ……などと、威勢のいいことを言える状況ではない。せめて円駆にできるのは、悦びに浸り切った自分の声を空戦に聴かせぬよう、唇を噛んで塞ぐことぐらいだ。

「早く出してよ、円駆」

 出したくて出すもんじゃねえし出したくもねえよ!

 この後でぶってやることを、円駆は決めた。誰をって、決まっている全員だ。巳槌も空戦も久之も、お前ら全員同罪だ。

 しかしそれは「決めた」ところで実現が可能かどうかは、また別の話。こみ上げてきたものをどんな形であれ処理出来ないままでは、無限に喘ぎ続けるだけの無様な生き物でしかない。

「う……、うあっ、……あ! あっ……、ぅあっ……」

 細く引き締まった身体に走った脈動で、円駆は巳槌と久之の目にもその到達を知らしめることとなった。もちろん、その口に放たれた空戦も、生まれて初めてその味を知るのだ。「んう」と小さく呻き、……どうやら少年が思っていたよりも量が多かったのだろう。それでも咄嗟に吐き出したりすることはない。恐らく本能的に「それはやってはいけない」のだと判断したに違いない。

 ぶってやると決めていたくせに、円駆は久之の腕がほどかれても動けなかった。ぐったりと、……酷く疲れた。何も考えないで寝てしまいたいような気持ちばかりこみ上げてくる。考えさえも滑らかには回らない。

「んぐ」

「うん、飲んだか。どうだ? 不味かったか?」

「……判らない。味はあまり……、でも、今のは円駆が僕で気持ち良くなったから出たんだよね?」

「そうだな。それだけは間違いないことだ。お前がいい子だったから円駆はお前の口にそれだけのものを出して寄越した」

「そうなのか……。だとすれば、まあ……、よかった。味は本当に、……ぼやっとしていたね、もっとものすごいのを想像していたから、ちょっと拍子抜けな気もしないでもないね」

「身体が作ったものが出て来るのに、そんな極端な味になってたまるか。そして身体から出てきたものであるからそこまで不味いはずもないし、お前の身体にも吸収されやすいはずだ。舌はそれが毒かどうかをきちんと判断する。反射的にお前が吐き出さなかったことからしても、それがお前にとって益になるものであることは明らかだろう」

 身体の力の入らない円駆の頭越しに、巳槌は空戦に向けて好き勝手なことばかり言い並べている。腹立ちを通り越して悲しさまでも浮かんできそうになるが、この期に及んで泣くようなことばかりは硬く硬く自らに禁じる。ぐっと唇を結んで心を落ち着ける円駆に構わず、「久之、次はお前だ」散々甘えていた「恋神」から巳槌はするりと離れた。

「空戦、久之の膝の上が暖かいぞ。お前は暖かいの、好きだろうよ」

「うん、大好き。……久之の膝に乗っていいのかい?」

 久之がどんな表情を浮かべたか、……円駆には下からの角度で把握出来る。大体いつも、いつでも、概ね困惑した顔で居る男である。このときも空戦に向けてこっくりと頷くときには、少し困って弱っているような表情を浮かべているのだった。

「いつまでそんなところに転がっているつもりだ、いや転がっていたいなら転がっているがいいよ、僕が跨るまでのことだ」

 円駆は跳ね起きる。が、巳槌は露わになったまま空戦の唾液もまだ乾いていない円駆の性器を指で摘まんでいる。そういうところを抑えられると、要するにぶってやることは出来ないのである。

「わあ久之あったかいね……」

 背後では空戦が久之の膝に後ろ向きに収まり嬉しそうな声を出す。「ふふ……、やっぱりみんな暖かいんだ、布団の中が暖かい仕組みが、少し判った気がするよ」

「僕らの身体はそれ自体が熱源だ。肌を重ねることでその熱は増すし、布団はその熱に蓋をして逃がさない役割を果たす。そして、……とりわけこれを、僕は重要であろうと思うのだが、例えばこうして僕と円駆が身を重ねる」と、巳槌は断りもなく円駆の身体にのしかかった。無論、そう重たくもないが、気分のいいものでもない。「と、僕らの間で同じくらいの量の熱が、接したところでやり取りされる。……するとどうだろう、僕らがそれぞれ放ち得る熱よりももっと大きな熱が作られる。これについてはお前も感覚的には納得が行くだろう」

「うん、解るよ。いまも久之のお腹と僕の背中がくっついているところが一番暖かい。……ねえ久之、僕のお腹も暖かくしておくれよ」

 久之は従順である。誰かに逆らうことなど、もとより思いつくような男ではない。

「補足をするならばな、肌を接する、というのは、こうしてくっついているのみならず、……さっきのお前とこの男のように局所的なものであって十分過ぎる程の効果があるものなんだ。お前は口の中で円駆のちんちんがどんどん熱くなっていったのをちゃんと感じたよな?」

「んー、うん」

「僕らの普段している行為には、……心の底から愛する相手を、あったかくしてやりたいという願いが篭っている。今日のように春がまだ浅くて寒い日に、愛しい者が心も身体も暖かく健やかでいてくれるようにと念じながら僕らはこうする。ただ、一般的かどうかは判らないし、僕は本気で愛しいと思う相手としか肌を重ねたくはない。そして、……僕らが定義するその範囲に空戦、お前も徐々に含まれつつあるのだ。久之」

 不意に名を呼ばれて、円駆にも畳伝いに通じるほど、彼は身を強張らせた。「……なに」

「お前も空戦を、僕や円駆と同様に愛してやれよ。空戦はお前が大好きだ、……そうだな? 空戦」

「んーと、……そうだね」

 空戦は少しだけ考えた様子がある。しか大して考えていないことはまず間違いないだろう。

「久之は優しいし、こんな風にあったかい。僕がいることでしなければいけないことが増えて負担だろうに、それでも僕を追い出そうとはしない。仮令それが、……円駆たちが思うように、舵禮との喧嘩を避けるためという意図があったとしても、舵禮と喧嘩をしたくないのは僕も同じだ。だから僕が久之のことを好きにならない理由はないし、……ねえ、ひょっとして久之も、僕がさっきみたいにちんちんを舐めたら嬉しいのかな。こんな風にあったかい思いをさせてくれることに、お礼が出来る?」

 問いに答えるのは、

「もちろん」

 久之ではなくて、巳槌である。

 円駆がはっきり悟るのは、……久之が巳槌の企みに、そしてこうして行動に移すことに、全面的に同意しているのだということ。卑怯であるのみならず汚らわしくさえある考え方であることは百も承知の上であっても、結果的には久之は巳槌を信じたのだ。

 いや、……それも違うかも知れない。

 巳槌が安易にこの結論を選んだのではないことぐらい、初めから判っていたことではないかと円駆は気付く。円駆に、空戦と、増えて行くに連れて巳槌の既得権益は損なわれて行く。それを当初は巳槌自身も嫌がっていたではないか。それなのに。

「でも、物事には順序というものがある。……久之は僕らよりも発達した肉体を持っているから我慢強い。……そうだな?」

「……ああ……、うん」

「良い返事だ。つまりな空戦よ、僕らは愛されっぱなしであってはいけない。僕と久之が二人で愛し合うときには必ず片方が暖かい思いをさせてもらったらもう片方がそれに返礼する。そして最終的には二人で暖かくなる。……ただそのやり方ばかりはお前に精液が不味く感じられなかったとしても時期尚早である可能性が否めない。あとで僕が手本を見せてやるとして、本来ならば円駆がお前を暖めてやらなければいけないところではあるが、僕が一定程度暖めてやった久之がお前を温める。……お前は久之に暖かい思いをさせてもらうのでは嫌か? ……うん、嫌じゃないなら、そのまま久之に暖めてもらうがいいよ」

 空戦は「うーんと……」幼い割に聡い神ではあるが、未開拓な方面への知識が疎いのは当然で、具体的にどう「暖めてもらうがいい」のかは考えつかないらしい。そもそも円駆を射精せしめ「暖めた」ことにしたって、「あれが暖かい?」という問いさえまだ空戦の中で解決したかどうか怪しいものだ。

 しかし、

「ええと、褌を外せばいいんだろうか……?」

 久之の膝の上で、空戦はとにかく浴衣の帯を解くことに決めたらしかった。帯の結び方も六尺の締め方も、一度ですっかり覚えた空戦である一方、円駆は相変わらず一人では結べない。かと言って空戦に頼んで結んでもらうなど、巳槌に頼むよりももっと出来ない。

「久之、……いい?」

 久之の膝から立ち上がり、空戦が向き直る。「いつまで寝転がってるつもりだ。僕らはこっちだ」と巳槌の勝手は際限なく続き、円駆の身体は裸に剥かれ布団の上にうつ伏せに横たえられた。背中に巳槌がのし掛かり、と言っても軽いものではあるが円駆の行動を奪い、「ああ、あったかい」巳槌も浴衣を脱いで、嬉しげに呟く。

「僕も暖かくなりたい。久之、君に暖かくしてもらいたい」

 遠慮がちに、空戦が強請る。

 そのいかにも幼い陰茎は、まだそれらしい反応を一つも示していないのだ。これから彼の身に生じる一つひとつは全て、……空戦にとっては「初めて」のことばかりだろう。

 久之は幼い裸を前にして、一度手を伸ばしかけて、……やめた。考え込んで、

「円駆……」

 と、呼んだ。

「俺が、するより……、円駆が、してあげた方がいいよ……、きっと、その方が……、空戦も嬉しいはずだ。……そう、だよな……?」

 久之の気持ちは手に取るように判った。……彼の手や口を以ってすれば、空戦の身体はたちまち快感に溺れることになるだろう。赤子の手をひねるように容易いことのはずだ。そして空戦が、……射精出来るかどうかは脇におくにせよ、それを経験すれば結論は出る。

 それでも久之は、不器用で優しいばかりの男はここに至って僅かばかり、我儘を言う。

「……なるほど」

 背中の上で巳槌も納得したような声を、しかしあくまで偉そうな姿勢を崩さずに言う。「僕としたことが、間抜けなことだったな。確かに久之の言う通り、空戦の『初めて』は久之よりも僕よりも、お前がやるべきだ。それが保護者としてのつとめというものだし、空戦の口で温かくなった以上、義務であるとも言えるな」

 別に、空戦に初めての射精をさせる手あるいは口が、久之や巳槌のものであったって構うものか。別にそんな作業を俺がやる必要なんで。第一俺はこの子供を穢すのは嫌だ……。

「空戦……」

 珍しく久之が自発的に声を出した。

「ん? なんだい?」

「俺たちは……、確かに最初は、空戦を、……俺たちの都合がいいから、……力関係を……、舵禮との、争いを避けるための、って、思っていた」

「んー、まあ、僕は別にどう思っててもらっても構わないのだけどね」

「でも……、俺たちのそばにいてくれる以上は、……少なくとも、返せるものが、俺たちにある限りは、返さなきゃいけない……、そう思う。それは、……布団や食事や、……風呂、でも俺たちには、持ってるものが、他にもあるから、……俺たちは、俺たちが出来る全てで、お前に返さなきゃいけないし、……お前に愛してもらえるようにつとめなきゃ、いけない。一緒にいるってそういうこと、だと思うし少なくとも……、俺は、巳槌と、円駆が、一緒にいてくれる、っていうことが、すごく、すごく嬉しいから、だから、俺に返せるものはこれまで全部返してきたと思う……」

 久之にしては珍しく、あまりつかえずに言い終えた。円駆はそれが自分に向けての言葉だということも判ったし、その言葉を発する久之自身が口にした自分の言葉に全面的な納得が行っているわけではないことも伝わってきた。ともすれば、子供の形をした神をこういう形で穢すことに恐れおののきそうな久之がいる。しかし、巳槌と円駆を、二人の望むままにそのやり方で幸福にして来た、……して来ざるを得なかったし、今は久之自身も幸せだと思ってそうする以上、そこに空戦が加わって形を区別し、端的に言えば生活を乱律させることに悩むのは円駆や巳槌以上に久之だってそうなのだ。

「わかった、と思う。多分。……でもね、久之はそんなこと難しく考えなくっていいよ。いまや僕にとって、君たちがいる景色、……この目は見えないけどね、でも、君たちがそばに居て、僕のことを思ってくれてるのは判るから、この状況が自然になっているんだ。君たちに求められてここにいるというのは、僕にとってだって幸せだと認識して欲しいな……、久之のこと、大好きだよ」

 にこり、円駆や巳槌には到底できない、柔らかく優しく毒のない微笑みを空戦は浮かべた。それから円駆に向き直って、

「円駆、あったかくしてくれる? 昔みたいに」

 誤解を招く表現をした。「昔?」「むかし……」巳槌と久之がそれぞれに訝る。

「僕が水に落ちて寒がっているときに、……この姿ではまだ、上手に飛ぶことが出来なかった頃にね、円駆が麒麟の姿で暖めてくれたことがあるんだ。それだけじゃなくて、僕が地面で寝るときに、円駆が側に来ると暖かいのを感じたよ。君たちほどではないけど、特に巳槌ほどじゃないけど僕も寒いのは得意じゃないから、円駆がそばにいてあったかいのは、とても嬉しい記憶としていまも僕の中に残っている」

「なるほど」

 腑に落ちたような声を巳槌が上げた。ただそれだけでは終わらせない。其処に、

「ならば円駆はもう、空戦を暖かくしてやることなど朝飯前だな。お前らしい僕ららしいやり方であっためてやることに何のためらいもあるまいよ」

 余計且つ勝手な理屈を一つ加えることを忘れるような巳槌ではない。

「っくちん」

 空戦が、くしゃみをした。まだ春浅い日に、痩せた身体でひとり裸でいれば当然のこと。

 しかし、円駆に義務を感じさせる。仮令間違っていると円駆が久之が思ったところで、一つの事実として厳然と存在するのは、円駆がこの子供のことを暖めてやらなければいけないということだ。

 付け加えるならば、もう円駆を「暖める」ことに成功してしまった空戦の身体を、抱き締めたり麒麟の毛皮に包んでやったところで、芯まで温めることはもう出来ないだろうということだ。

「糞が……!」

 円駆は奥歯を軋ませた。

 ……間違っていると、やはり思わずにはいられない。

 しかし、空戦を蚊帳の外に置くことはもう出来ないだろう。そしてこれから円駆がすることが「間違っている」ならば自分だって久之に巳槌に延々「間違い続けること」を望むのではないか。

 空戦が嫌いか?

 違う。

 俺はお前たちよりもずっと、ずっとずっとこの子供のことを、愛してきた。

「わあ……、すごい、にゅるにゅるする……」

 塩の味と臭い、巳槌よりもずっと行儀がいいのが空戦である。円駆よりもいいとさえ言える。巳槌が何事か言ったようだが円駆は聴く耳を持たなかった。巳槌よりも小さくもちろん久之よりもずっと小さく、だからつまり、口に入れることに苦しさを覚えるものではない。

「ん……、ちょっと、くすぐったいね……。円駆もさっきくすぐったかったのかな……?」

 空戦がひくっ、ひくっ、と痩せた腹を震わせて言う。そっと見上げれば、何も見えないはずの大きな目を瞠って円駆を見下ろしている。……目にすることの出来ない代わりに、両手を伸ばして円駆の髪に触れた。

 少しずつ、空戦の陰茎が円駆の口中温よりも「あったかく」なりはじめた。伴って徐々に膨らみ始め、硬さを帯び、……それは「反応」だ。

 恐らくはもう、この蝙蝠の雛が、円駆の思うような「子供」ではないことの証明としての。

「……なんで、……だろう」

 少年自身もその「反応」を示す身体に疑問を呈する。「あったかいのに、ふるえるよ。とろんとしてくるのに、……ちんちんが硬くなる……、わからない……」

 また何か、巳槌が余計なことを言ったようだ。

「そう、なの……、かな。……うん、かもしれない……、円駆の舌が……、はっ……、ちんちんの、……先っぽすると、……きゅっ、て、なるね……」

 塩味の正体はどう言葉を選んだって小便によるものだったはずだ、……巳槌に口の中で失禁されたことが何度かある円駆にはそれぐらい判る。しかるにいま円駆がその舌に覚えるのは、もっとずっと大人びたもの、空戦が先ほど「しょっぱい」と評し、空戦以前に円駆が「不味いとは思わない」ものの味だ。

 別に心の狭いつもりもない。しかし、俺の見ていないところでいつの間にか大人になりやがって、という思いが僅かに浮かんだのもまた事実。

「んぅっ……」

 身体の震えも、……卑猥な側面のあるものへと変じている。

「……ああ……、なんだろう、これ……っ」

 声が、濡れた。寝起きにはやたらにだらだらと、しかしきちんと目が覚めた後には普通の速度で喋る。円駆も巳槌もやや早口になってしまうきらいがあるから(言うまでもなくそれは、口喧嘩をするからだ)のんびりとした空戦の穏やかな口調はそれだけで聴く側の耳に優しいものであろうが。

「ちんちんが……っ、ちんちん、とぉ……っ、肛門っ、勝手にっ、……ヒクヒクするの、……止まらないっ……」

 自分が卑猥な声を上げているという自覚も空戦にはまだあるまい。股間のものを円駆にしゃぶられて、そこに巻き起こる、理性を丸ごと吹っ飛ばすに足るほどの快感を幼い身に真っ向から受けて、……この少年にどれほども耐えうるはずもない。

「んっ……! んぁっ、ぅンっ、ん、んんっ」

 その両手が円駆の髪をぎゅっと握る、少し痛い、しかしその力が緩んだとき、円駆の舌の上には空戦が初めて放った精液の味があった。

 それは、ごく僅かだ。味も薄い。かろうじて、どうにかして、その身体がそれを生産し、射出することが出来たもの。

 しかし確かに、空戦は円駆が思うよりも大人だった。巳槌が言うように。それが、少し、悔しい。

「はあぁ……、びっくりしたぁ……」

 よろめいた空戦の幼い身体を、後ろから久之がしっかり抱き留める。その身体の大きさの対比と、……苦しげな久之に対し、ぽかんとした空戦という、表情の対比。円駆は口を手の甲でぐいと拭って立ち上がると、つかつかと畳を踏み越えて、

「ふい」

 空戦の両の頬を、摘まんだ。

「……この野郎」

 摘まむところまでは決めていた。しかしそれから何をするかまでは決めていなかった。自分よりも瑞々しくて柔らかい頬をしていることはこうして改めて確認するまでもなく知っている。空戦とは、そういう子供なのだ。

 そして僅かに付け加えるならば、円駆がこんな風に頬を摘まんでやると、その頬に円駆が付けてやった焼印も一緒になって形を変えるのだ。

「どうだった?」

 久之の膝に落ちた空戦の横、巳槌がその顔を覗いて訊く。「どう思った? お前がどう思うかが重要なんだ、素直に答えろ」

「ええ……、ええと」

 円駆が手を離した。空戦はぼんやりした目で頬を掌で擦り、円駆を「見」つめながら、

「うーんと、何だろう、円駆にちんちんを舐められているうちに、どんどんちんちんが硬くなって、くすぐったいような、痒いところを掻いてもらっているみたいな感じがあった」

「だから、それはどうなんだ、言い換えると」

 巳槌は焦ったそうに急かす。

「言い換えると、……んー、気持ちよかった、のかなぁ。よくわかんない……」

「わかんない? 自分が味わった感覚を判らないと言うのかお前は」

「んっと……、ちんちんからおしっこが出そうになって、でも、……ほら、円駆の口におしっこしたりしたら、絶対ぶたれると思ったから、我慢をしようと思っていたら……」

「いっそおしっこしてしまっても良かったぐらいだが」

「いいわけあるか!」

「少なくともお前のちんちんから出たのはおしっこではなくて精液だ」

「無視か!」

「ああもううるさいなお前は文句を言うためにある口なのか違うだろうお前の口は、僕や久之や今日からは空戦のちんちんをしゃぶって精液と時々おしっこを飲むためにあるものではないか」

「そんなことのためにあってたまるかクソがぁああ!」

「やめなよー」

「二人とも……」

 円駆と巳槌の諍いを、久之一人では止められまい。空戦と二人、協力してそれぞれが止めたとき、効果は覿面だ。

「あのさ、円駆」

 久之の膝から立ち上がり、すぐまた、空戦は座った。畳の上で、にっこり笑う。

「ありがとう。よくわかんないけど、腰が軽くなった気がする。それに、円駆のおかげでやっと僕、みんなと家族になった気がするね、嬉しい」

無害で、しかし有益であることを自覚しないまま、……空戦は言う。

「僕はぼんやりしたところがあるようだから」

「ところがある?」

「全体的にそうだろうよ」

 つい、円駆も巳槌も言葉を挟んでしまったが、空戦は何ら気にした風もなく、「でも、そのうちわかるようになるよね、きっと。そうしたらもっともっと詳しくなって、三人が嬉しくなるにはどうしたらいいかを考えるよ。差し当たっていま、最初の、……ええと、おしっこじゃなくって」

「射精」と短く巳槌が言葉を教える。「射精? ええ、じゃあ、射精、させてくれてありがとう。そうすることで僕を、君の家族にしてくれてありがとう」

 巳槌は納得が行ったように頷く。空戦は疑うことを知らぬという顔で居る。久之は何と結論づけたらいいのか判らないらしく、全てを円駆に委ねる気でいるらしかった。

 一秒、二秒、三秒。

 空戦の身体を、ぐいと引っ張って、

「久之、巳槌」

「ぴゃ」

 背後から拘束する。空戦の方がふたまわり小さいのであって、円駆には実に容易い仕事である。

「こいつは、俺のこと『家族』と抜かしやがったぞ。この俺のことを。……お前らは、……特に久之、お前はこいつを布団に入れて寝る気はねえのか。お前はこいつと家族になる気はねえのか」

「えん……」

 久之の呆気に取られた顔に、悪鬼のごとく笑みを浮かべて言ったのだ。しかし、「円駆は優しいな、久之」と巳槌は言う。うるせえうるせえ、俺は優しくなんかない、そんなお手軽な生き物じゃねえ!

「久之も僕がちんちんしゃぶって射精させたら僕と家族になってくれる?」

 空戦がまだ、何も知らぬままに問う。円駆は自分一人悪い笑顔を浮かべたつもりになって、「ああ、なれる……、そうしなきゃ、なれねえ」とその耳に言葉を差し込む。

「円駆は優しい男だな。後でたっぷり褒美をやらないといけないな」

 巳槌の浮かべる笑顔の方が、実のところ余ッ程悪質なのであるが。

 誰より無垢な笑顔で、

「家族になろう」

 空戦が両手を広げた。

 

 

 

 

「ふああぁ、あ、あ、っと」

 起きるのは、空戦が一番早い。板に付いた夜型生活を改めさせるのは一苦労で、とにかく早く寝かせることに決めたはいいが、それが極端に過ぎる。布団に収まるなりぐーぐーと寝てしまい、その分、馬鹿に早起きになる。円駆はまだ布団に頬を当てたまま、瞼を開けずに空戦が布団からもごもごと起き上がり、立ち上がるのを気配で感じる。それに遅れて久之も起き上がるのを聴く。空戦は早起きのくせに寝起きがすこぶる悪くて、一度小屋の中で小便を漏らしたことがある。だからそれ以来、責任感の強い久之も一緒に起きて、空戦を便所に連れて行くのである。

 巳槌は全く起きる気配がない。死んだように眠っている。ただ青白い顔で規則正しい寝息を立てているばかりだ。

 目が覚めた、ということは円駆も尿意を催したのである。それに納得したから、まだ重たい身体を叱咤して、ゆっくりと起き上がる。しかし円駆は、……無作法な男ではないが、崖淵に作った便所というより囲いではなく、庭先の菜園の前で六尺を外し、そのまま其処で放尿を始める。巳槌がいつだったか言った「僕らのおしっこは栄養になる」という言葉を全面的に信じるわけでもないが、わざわざ便所に行って空戦と久之の邪魔をするのも無粋だと思ったので。

 蝙蝠は嘘をつく、かも知れない。しかし空戦はただの蝙蝠ではないので嘘はつかない。

「久之と一緒におしっこをしに行って、それから射精をさせてもらうんだ。このところずっとね、朝起きたときにちんちんが硬くて困るんだって。だからね、おしっこをするとき、射精もいっしょに済ませられたらいいなって」

 甘えん坊である。しかも、かなりたちの悪い部類である。とはいえそれに応える久之も久之であるし、結論から言えば円駆は二人を責めることは出来ない。

 ただ、

「……朝起きたときちんちんが硬くて困るのは、俺だってそうだ、みんなそうだ」

 ぶっつり呟いて、円駆は布団に戻る。もちろん六尺は解いたままだ。

「……おしっこ」

 布団に収まったところで巳槌が起きた。大して重くもない身体を、鉛のように感じているらしい。両腕を突っ張って眉間にしわを寄せて、「……見てないで手伝え、漏らすぞ」などと抜かす。せっかく二度寝をしようと思っていたのに。しかし手伝わないと本当に何の躊躇いもなく漏らすだろう。だから舌を打って、低血圧な蛇を抱き起こし、

「……何でここなんだ」

 菜園の前で六尺を解く。

「うるせえ。……聴こえねえのかよ」

「ああ……、うん、聴こえる」

 巳槌の陰茎から尿が噴き出した。「全く、僕らの暮らしは乱れているな。久之のやつも楽しかろうよ」

 巳槌は円駆に身体を支えさせながら楽しげに笑う。……本当にこの蛇は勝手なことばかり言うのだ。忌々しいことに。

 ただ、判っている。いまや久之は安心して空戦の求めに応じられる。其の行為の妥当性を論じる段階にはもうない。乱れたと思うのは今だけで、……そもそも最初は久之が此処に小屋を拵えたこと自体を問題視した円駆であることを考えれば、有為転変は有意なるものであればこそ多少の塩味苦味があろうと呑み込めるものた。

 というか、

「何を笑ってんだテメェは……」

 目の前の問題と一つひとつ向き合って、解決して来た結果が現在地である。

「何って、判らないか? 起きたときにはちんちんが硬くなって困るんだ。僕らは雄の身体をした生き物だからな。そしてお前も雄の生き物であって、褌もしないで丸出しのちんちんが生えているわけだ。毛の一本も生えていないけれど、一応は僕より大きいと自負しているのだろう? だったら僕のために役に立ててみせろよ」

 久之と空戦が戻ってきたらどうするつもりなのか。

 しかし、そうなったらそうなったで、……また解決策をどうにかして捻り出すことになるのだろう。そして後から考えたときには、これまで幾つも重ねてきた困惑ごとと並べても大して変わらない程度だったと思うはずである。

 この山の監督を請け負う麒麟の円駆は、人間、応龍、蝙蝠、……迷惑なものに囲まれて生きて、迷惑をかけられながら暮らしている。

 しかしながら、其処を決して離れようとはしないのである。

 


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