SLEEP IN THE SKY

 この身体に、嬉しそうにぴったりとくっつく身体、に、

「……眠れない?」

 久之はそっと問い掛けた。

 子供の体温、巳槌や円駆よりも温かくぽかぽかとしている。

「ううん、眠れそうだよ。……久之は身体が温かいのに足のほうはひんやりしているね」

「そういう……、体質なんだ。……昔は、もっと酷かったよ、……冬の、寒い、……ときには、痛く……、痛みを感じるぐらいに」

 だけど、こうして誰かと布団に入ることを知った。巳槌と、円駆と。そうこうしているうちに、徐々によくなった気がする。二人によって温められた血液が全身を円滑に巡ることを覚えたのかも知れない。

 体質だって変わるのだから、そういうことがあったとしても不思議はないだろう。

「……ねえ、久之?」

 空戦の顔は目の前にあった。見れば見るほど子供である。身体も小さく、声も幼い。

「さっき、どうしてみんなちんちんが濡れていたんだろう」

 そういう幼子に、ああいう状況を「見」せてしまった、……空戦は視力がないにしても、どういう状況で久之らが居たかはすっかり把握しきっていただろう。

 考えてみれば、と久之は考えるのだ。

 大人の仕事ではないか……、と。

 決して自分は真ッ当な「大人」ではない。かつて駐在たちに抱かれた疑念は事実である。事によっては久之自身、逮捕されたあの駐在と教師のごとき扱いを受けて当然の者なのだ。仮令巳槌に請われたからと言って、そして反抗することが出来なかったからと言って、久之のような身体をした者が、巳槌のような身体をした者と性行為することが正しくなるわけではないのだ。

 巳槌と円駆は子供なのだ、空戦はもっと子供なのだ。そういう相手を側に置くときに、彼らが――この場合空戦が――抱く疑問に真ッ正面から向き合い、真摯に答えて行くこと……、それこそが、大人として自分のするべきことなのではなかろうか。久之はそう考えて、欲を持て余したまま空戦を布団に運んできた。

 もちろん久之の頭の中からは、この幼く甘ったるい相貌の蝙蝠神が自分の何倍もの時間を過ごしてきたいう事実は抜け落ちている。

「……空戦の……、その、……そこは、ああいう形には、濡れないよな……?」

「おしっこをすれば濡れるよ」

「うん……、それは、そうだ。でも……」

「みんなのちんちんを濡らしてたのは、おしっこじゃなかったね? あれはなんだろう。べとべとしていたし、匂いも違ったね」

 久之は、教師ではない。そういう心得を持っていない。そもそも自覚として、「俺が誰に何を教えられるというのだ」という謙虚というよりは意力薄弱なものを持っているから、大いに思い悩む。

 しかし、……言葉の選び方が悪いことは承知の上で久之は思う。

 巳槌に任せたらどうなるか、円駆に任せたらどうなるか。どうにもならないだろう、と。

 巳槌は一夜をこの布団で過ごした。当の本人は「どうにかなる」と思っていたようだが、あの通りまんじりとも出来ないまま夜を明かす羽目になった。恐らく円駆はもっと辛い思いをすることになる。

 愛しい者たちに悶々たる思いをさせるぐらいならば、自分が整理をしてしまうべきなのだ。

 整理、とは。

 久之だってそう多くの考えを持てるわけではない。ただ真ッ正面からこうして空戦と向き合い、教えてやること。巳槌と円駆とこの自分が、どうして共に過ごすことを選ぶのか、……どういう時間を過ごすのか。

「……空戦は、……ええ、どう、やって、子供が出来るかは、知っている……?」

「もちろん」

 得意げでもなく、かと言って恥ずかしがる素振りもなく、空戦は横向きの顔で頷いた。

「蝙蝠の群れの中にいるとき、たくさん子供が生まれるところを見てきた。僕自身はどうやって生まれたかはわからないところがあるけれど、普通の生き物がどうやって出来るかは知っているよ」

 考えてみれば当然のこと。ましてや空戦は哺乳類である。

「……その、子供の……、出来る行為、というのが、……どういう風に、……される、……というか、なされるもの、かということは……?」

「知らない」

 空戦はこれまた素直に答えた。

「知ろうと思ったことがないではないし、……一応、知識としては持っている。でも、実際に見たことやしたことがあるわけじゃない。……どうしてそんなことを訊くの?」

 久之は、一つ密やかに深呼吸をした。

 踏み込んだらもう止まらないぞ、ということは判っている。子供に興味を与えることは逆の効果さえ持つだろう。然るに聡い空戦は単なる「子供」ではない。曖昧なままにしてしまうよりは、きちんと情報を提示してやった方がいいはず。

 そして、それは空戦にとって負の知識にはならないはずだ。

「……俺と、……俺は、円駆と、巳槌と、……彼らを相手に、子供を作る、その、真似事をしている」

「まねごと?」

「さっき……、空戦が起きてきた、あのとき、……していた」

 瞳の、血のように紅い双眸をじっと久之に当てて、

「子供を作る真似事……?」

 もう一度、空戦は言う。その表情には今のところ、困惑や忌避の色は浮かんでいない。驚きさえも希薄で、ただ判然としないという思いだけで塗り潰されている。

 しばらく久之に心苦しさを味わわせてから、

「……よく判らないな」

 空戦はやっと言った。

「子供を作るためには、雄と雌が必要だよ。それは麒麟も蛇も、きっと人間だってそうだよね?」

 そう言われて、……この不器用な男は、あ、と思い至る。

 そうだ。まず第一に「子供相手」の行為であるという問題があるのは当然だとして、

「雄と雄では、仮にそういう行為をしたとしても子供が出来ることはないよね?」

 そうなのだ。久之も円駆も巳槌も「雄」の生き物であるという問題がある。

 それが久之の頭からはぽっかり抜け落ちていた。当に「失念」という言葉が一番しっくりくる。

「そう……、そう、それは……」

「だから、『真似事』と言ったの?」

 空戦は、あまりその場所に踏み止まろうとはしなかった。

「……そう……、うん、そうだよ……」

「どうして?」

 その問いは妥当なものだ。久之がかつて、巳槌に対して抱き、円駆も巳槌に対して抱いた。

 その答えはもう久之にだって用意できる。

 どうして、と問われればこう答えるしかない。

「俺は、……巳槌と、円駆のことが、好きで、……ありがたいことに、彼らも、俺……、なんかの、ことを、好き、で、いてくれる、から……」

「僕も円駆のことは好きだよ。巳槌と君のことも好きだよ。だから一緒に居たいって思ったんだ」

「……そう……、ありがとう……。多分……、違うかも知れない、でも俺はこう思う……、んだけど、……空戦が、円駆や、俺たちと一緒に居たいっていう……、そういう風に思う気持ちの続き、ずっと進んで行く道の、先に、俺たち、……円駆と巳槌と俺は、いるんだろう。つまり、……お互いのことが、すごく好きだから、男同士、……雄、同士だっていうことは、承知の上で、ね……。その、巳槌は、円駆のために、俺のために、雄でも、雌みたいなことを、しようとしてくれるし」

 何ということを話しているのだ、という気にさせられる。

 普段目にしている巳槌と円駆の顔だって罪深いほど幼いものなのだが、目を真ん丸くして耳を傾けている空戦の相貌は純真無垢そのものである。

 だが空戦は、それを気にした風もない。

「……雄と雌の身体の違い。僕の知っている範囲での話だけど……」

 よいしょ、と身を起こした。この話に本腰を据えて取り組むべきと考えたのかも知れない。浴衣の裾を捲り上げて、横たわったままの久之が止める間もなく、六尺を解き、外した、いかにも幼い形の茎を自ら久之の目に晒して、

「ちんちんが付いているのが雄で、付いていないのが雌。そして、胸が」と自分の胸部に手のひらを当てる。「成長と共に発達するのが雌だよ。……僕の認識は、そう間違ってはいないよね?」

「……合っている。そして雌の……、身体には、その、空戦のそこにあるもの、に値するものがない代わりに、その、……身体の中で子の命を育むための器官がある……」

「そうらしいね」

 空戦は頷く。

「ええと、人間の身体だとこの辺りになるのかな」

 その陰嚢を持ち上げて、付け根の辺りを指差した。久之も起き上がり、頷く。

「その奥にね……。……雄の身体の、その……、つまり、ちんちんから出る、精液、っていう……」

「精液」

「そう……。その液体の中にある、精子という、その、花で言えば、雄蕊から出る花粉が、雌蕊に触れて、そのまま奥へ入って、種を作る、……種って言うのはつまり、子供だ。そういう、仕組みがあって……」

 うん、と陰嚢から指を下ろして、空戦は納得したように頷く。

「雄蕊同士くっつけたところで新しい花は咲かないね。きっと君たちはみんな其れを知っている。でもそれを敢えてしようとする、……さっき巳槌は『愛し合っている』って言ってたね。……理由が、歴然とあるということだ、そうだね?」

 やはり賢い子だ。いや、空戦に限ったことではない、神々は皆恐ろしいほど賢いが、見た目がこんなに幼いものだからつい、久之にはいちいち其れが舌を巻くべきことのように思われてしまう。

「そう……、そういう、ことになる」

「『愛し合う』って、どういうこと?」

 空戦は首を傾げる。「……もちろん、生き物の、親子の間の、つがいの間にある、気持ち、思い、……そういうものについてはぼくも何となく判る。群れの中の誰かが具合を悪くしたらみんな心配で、泣きそうになる。それだって愛情と呼んでいいものだよね?」

「ああ、もちろん……、そう思う」

「でも、君たちの使う言葉の『愛情』とは、それだけの意味ではないみたいだね。つまり、ぼくのまだ知らない……、想像したこともないような。……実際ぼくは、雄同士で子供作りの『真似事』をするということなんて、考えたこともなかったし」

 当然、そうであろう。

「どうして君たちはそういうことをするの?」

「……その、前に。……生き物は、どうして子供を作るのだろう……、と、考えてみて欲しい」

 巳槌たちの気配は小屋の外にはない。二人で山に分け入って行ったか。どこかで落ち着くまで一緒に過ごしているのだろう。

「それは、必要だからだと思っているけど。だって、子供が居なければ絶えるばかりさ。どうあっても生き物は子供を生んで血を繋げていかなければいけないものだよ」

 そんな空戦の言葉に「なるほど……」と唸ってしまう。その考え方が根底にある少年を納得させられる自信が、久之には正直なところ全くないのだった。

「子供を作る……、……実際にその、子供が、出来るかどうかは脇に置くとして、その、行為自体……」

「つまり、『交尾』?」

 生々しい言葉に一度息を詰まらせて、久之は頷いた。

「……その、こう……、交尾、することは、生き物にとって不幸なこと、だろうか?」

「そんなはずはないと思うよ」

 聡明な空戦は首を振った。「僕はまだしたことがないけれど」と前置きを踏んだ上で、

「だって、苦痛を伴うようなものであるならば、全ての生き物は今頃とうに途絶えていてしかるべきだもの。幸せって認識されるものでなかったなら、誰も『交尾』をしようなんて思わないはずだよ」

「……そう、うん、……つまり、その行為、……行為そのものだけ切り取って言うんだけど、あれは、……幸せなものなんだ。その、子供が出来なかったとしても。俺にとっては……、いや、巳槌にとっても円駆にとってもそうであって欲しいって祈る……、俺たち三人にとって、その、『子供作りの真似事』は、とても……、強い、快楽と幸福感を伴う」

 空戦は納得したようなしていないような顔で久之を見ていた。

 久之は覚悟を決める。この人間としてはそう程度の高いほうではない男にも、一応、きちんと整理し心を固めるぐらいのことは出来るのである。

「俺は、巳槌と、円駆が、……あの子たちが、側に居てくれるってことが、本当に幸せで、……嬉しくて仕方がない。俺は……、この通り、言葉が、その、……すごく下手で、社会、……人間の……、中に、人間として生きる方法が、あまりない。誰かから、……どんな形、で在れ、求められることなんてないと思って……、でも、あの子たちは、初めて俺の幸せを、……願ってくれた人、……人ではないけれど、そういう、生き物なんだ」

 じれったいような言葉にも、元来がのんびり屋なのだろう空戦は黙って頷いている。

「……巳槌が、……巳槌と出会ったときには、あの子は、裸で。俺が、いま空戦も、してるみたいな、褌を作った。……でもあの子は、俺の作った褌を外して、……『愛してやろう』って、言ったんだ。俺に、……この、俺なんかに」

「愛して?」

 うん、久之は頷く。

 その言葉を聴いたとき、耳を疑ってしまったことをよく覚えている。それぐらい自分には向けられるはずのない言葉だと思っていた。

 巳槌はこう言ったのだ。「寂しい人間、可哀相な人間、でも僕はお前が正しい人間であることを知っているし、僕が愛するに足る人間だということも知っている。だから僕はお前を愛してやりたい、そしてお前に愛されたい。僕の身体の形は少々気に食わないかも知れないし、僕もこういうことは初めてだからお前を十分幸せにしてやれるかどうか覚束ない。でも精一杯一生懸命誠心誠意に頑張るから、お前も裸になるがいいよ」と。

 初めて、笑顔を浮かべて。

「……男、雄の身体同士で、さっき、言ったみたいな、……交尾、のようなことをするのは、問題がある。それに……、それにね、仮に、どれほど長い時間を生きていたとしても、子供の……、巳槌も円駆も、そして……、空戦も含めて、子供の形をした身体と、交尾、することは、人間の社会の中では……、つまはじきされてしかるべきような、行為なんだ。でも、……それでも、俺は、……嬉しかったんだ。俺みたいな役立たず、……人間の中ではね、底辺みたいな、……社会の底を這い蹲って生きるしか、なかったような、そういうやつを、『愛する』って、言ってくれた……、巳槌が、すごく、嬉しかった……」

 空戦はじいっと久之を見詰めていた。否定も肯定もうかがわせない、静かな表情で。

「巳槌がしたいって言ったからそういうことをしたの?」

 すぐに久之は首を振った。それから、少し考える。

「いいや……。いや、……巳槌に誘われていなかったら、していなかった……、かもしれない……。仮定の話だ、……巳槌に誘われなくても、いつか、……あの子を側に置いて生き続けているうちに、俺も、したくなっていた、かもしれない。仮定の話は、出来ない」

「うん、そうだね」

 少なくとも「否定」も「肯定」も、その判断はまだ下さないつもりの空戦らしい。うーん、と腕を組んで考えて、

「でも、わからないな。最初の疑問がまだ晴れないよ」

「最初の、疑問……?」

「うん。どうしてさっき、みんなちんちんが濡れていたの? 交尾をするとき、ちんちんを使うっていうのはわかったよ。でも、どうしてあんな風に濡れるの? 僕はてっきりみんながおしっこを漏らしたのかと思った」

「それは……」

 関係の構造だとか、その根幹にある思いの向きだとか。空戦はそういうものではなくて、もっと素朴なことへの疑問を抱いていたようだ。

 確かにあの時、久之も、巳槌も円駆も、性器が濡れていた。当たり前だ、互いに唾液をその場所に纏わせあうようなことをしていたのだから。

「……そういう、やり方を、して、俺たちは、……していた、ということだよ」

 久之は不器用である。それは同時に、嘘が下手だということを意味する。嘘を嘘として貫けないぐらいなら結局の所、本当を口にしてしまうのが一番この男にとっては楽なのだ。

「その、つまり……、俺の、……は、巳槌と円駆が、口で……」

「口」

 空戦はびっくりしたように目を丸くする。「ちんちんをしゃぶるの?」

「……うん」

「どうして?」

 さて、「どうして」と問われたって、

「その、……それが、……お互いにとって幸せだと、思えるから」

 としか、久之には答えようがない。

  もちろん久之だって、空戦が抱いたものと同じ疑問を巳槌に呈したことがある。

 お前は男だろう。

 そんなところを口に入れてはいけない。

 然るに巳槌は「どうして」と訊き返すのだ。何ら悪いことなどしていないと言うように、「どうして」と。「僕はお前にこういうことをしてやりたいんだ。僕には他に理由は要らない。寧ろお前は何に疑問を抱くんだ」……。あのときと同じように今の巳槌が、この空戦の抱く現実的な疑問にどう答えるかは興味がある久之だった。

「お腹を壊したりしないの? だって、その、ちんちんは、どんなときでもあまり綺麗な場所じゃないだろう」

 空戦の的確すぎる指摘に、うん、と小さい声で久之は応え、

「……これまでのところ、その、巳槌と円駆の、あの、そういう場所を口にして、腹を下したことは一度もない。単なる幸運なのかもしれないけれど」

「その公算が高いように思うなあ……」

 空戦は呆れたように言う。顔立ちが自分よりも、巳槌や円駆よりも更に幼い少年で在るものだからついつい忘れがちだが、やはりこの子も神なる身なのだ。そして恐らく、あの二人よりももう少し冷静で、均衡の取れた考え方をするのが空戦なのだ。

「訊いていい? ……ごめんね、何だか質問ばかりなのだけど」

「……うん」

「久之は、あの二人が好きなんだ。でもって、あの二人も久之のことが好きなんだね」

「うん……、そう」

「僕も君たちのことが好きだよ」

「……ありがとう」

「でも、正直よく判らないんだ。僕は君たちのことを好きって思ったとき、君たち三人がしているような、その……、ちんちんをしゃぶったりした方がいいのかな。そうした方が、みんなは嬉しい? 逆に、僕のちんちんをしゃぶりたいって思っているのかな」

「いいや」

 久之は即答した。

「そういうことは、誰も、思っていない」

「それは、……やっぱりちんちんをしゃぶるってことに抵抗があるから? 久之の場合なら、巳槌や円駆なら平気でも……」

「そう、そういうことじゃ、なくって……」

 うーん……、と久之は眉間を押さえる。「俺は……、うん、俺も、空戦、お前のことは好きだよ。大事にしなきゃ……、俺たちの、側に、此処に、いてくれるっていうことを、噛み締めて、だから、大事にしなきゃいけないって思ってる……、うん、大好きだ。でも、……その『好き』っていうのは、義務でも、権利でもない。ただ人を好きになる、思いを求める、欲求は、誰にだって、それぞれの形であっていい」

 空戦は義務、権利、久之の使った四角張った言葉を繰り返した。

「うん……。その、相手のことが好きだから……、俺と、ええ、巳槌の関係で言うよ? 巳槌と円駆、円駆と俺は、多分、また違う」

「好きにはいろんな形があるってこと?」

「そう……、多分、そうだ。つまり、……巳槌は、俺と、その、さっき言ったみたいな形で『好き』っていう、気持ちを表現しようと思ってくれた。俺も、……俺の側にも、巳槌がそうしてくれる、ことへの、感謝……、俺も、応えてあげたいって思う、気持ちがあった。いや、応えなきゃいけないって、思った」

 なるほど、空戦が頷く。「義務と権利ってそういうことか」大意が伝わったらしいことに久之は安堵して溜め息を吐く。

「巳槌が久之のことを好きだと思って、結果的にちんちんをしゃぶる。それは『好き』って気持ちの条件を充足させるために必要だからしたんじゃない。そして君が彼に応えるために同じことをするのも、そうしたいからするだけ」

 空戦の冷静な賢さにこの時間、ずいぶんと久之は救われている。

「僕はつまり、君のちんちんをしゃぶりたくなければしゃぶらなくてもいいし、君にそれを強要されても断ることが出来る。逆に、僕が其れを求めたり拒否したりするのも自由ということだ」

 求めるようなことがあるとは、今のところ思えないが、「そう」と久之は一先ず頷く。

「俺と……、巳槌は、円駆は、その、さっきお前が見たような、そういう形で『好き』を、お互いに表現するのが、愉しいんだ。だから、そうしている。でも、それが愉しくないと思うひとがいたっておかしくない。……その、俺がお前を起こしてしまった、あの人間がたくさん山に入ってきた日に何が起きていたか、話しただろう」

 村の女児が、通う学校の教師と村の駐在の汚い牙によってまさしく望まぬ関係に括られていたという状況。空戦が現れてくれたから、山の調和はそれほど大きく乱されずに済んだ。助けてくれた空戦に、もちろん久之は全ての事情を話した。

「そうだね、君たちが護った女の子は、応えない権利を持っていながら一方的に男たちの権利を浴びて苦しんでいたんだ。ああいう形はよくない。その少女も気の毒な話だ。だけど君たちの間にはきちんと行き交う思いがあって、だからそういう関係で問題がない」

「と、思う……。だから、俺は、……きっと、巳槌も円駆も、お前にそういうことをしようとは、思っていないはずだよ」

 ん? 空戦は首を傾げる。

「僕がいつそんなことを言った?」

「え……?」

「僕はね、久之、君から授かったこの浴衣と褌と布団を、すごく大切な物だと思っている。かけがえのない物だと思っている。ついこの間まで裸で歩いて飛んで、何の不便も感じなかったのに、今は例えば褌の締りが緩いと思うだけで何だか落ち着かなくなるし、きゅっと締め直してきちんとすれば、自分そのものが凛と張ったような気持ちになる。この布団は僕にとって幸せそのものだし、……ついこの間まで蝙蝠の巣の中にいて不足を覚えたこともないのに、此処で過ごす日々が愉しくってしかたがない。……君たちが僕のことを大切に扱ってくれていると判るからね。だから君たちが望むと望まざるとに関わらず、僕が君たちに抱く感謝の気持ちを何らかの形で表現したいと思うのは僕に与えられた自由じゃないのかな」

 久之は、言葉に詰まる。

「巳槌はこう思っているかもしれない。……『舵禮からこの暮らしを護るために、空戦が此方で生活しているだけで価値がある』って」

 応龍の胸の裡を、この蝙蝠は十全に理解しているようだった。

「なるほど僕も喧嘩は嫌いだからね。僕が此処で暮らしているというそれだけで舵禮が手出しし難い状況を作れるなら、……舵禮の気持ちを考えると少しばかり申し訳ない気もするけど、それでいいとは思う。君たちへの貢献は、そのまま君たちへ僕が向ける感情に置換できるものだと思うから。……でも、僕がそれだけじゃ足りないと言ったら? 久之、僕は君から、君が思っているよりたくさんのものをもらっているよ」

 硬直し、何も言葉が出てこない久之の身体に「よいしょ」と乗っかって、

「困らせちゃったね……、ごめんね、悪気があったわけじゃないんだ。でも僕は多分、君のことがすごく好きだよ。君はあったかい。あったかいから好きなんじゃなくて、君があったかいという事実が僕には幸せだ。こんな風に一緒に寝てくれるって言うんだからね……」

 身を重ね、首に顔を埋める。「あったかい……」と呟いたのを最後に、空戦は規則正しい呼吸だけを残して動かなくなった。

 眠ってしまったようだ。

 夕べはただでさえ動き回った上に、長話にもう眠気が抗い難いものとなったのだろう。久之は溜め息をつきたくなったが、それでこの少年を起こしてしまうのに忍びなくて、飲み込む。

 久之は自由な足と腕を動員して、布団を手繰り寄せ、自分の身の上に乗った空戦の背中を冷やさぬように包む。子供の体温によって、布団の中はどんどんと温かくなっていった。

 巳槌と円駆に、届くかどうかは判らないけれど、「大丈夫だよ」と伝えて、久之も目を閉じる。

 次に目を醒ましたときには昼近くで、どういう訳か空戦を乗せる久之の身体の両脇には巳槌と円駆がいつものように収まっているのだった。

 

 

 

 

「久之はあまり腰がよくないんだ」

 巳槌が空戦を咎めた。「しかし、お前は久之が好きなのだろう、だからああやってくっついて眠りたいのだろう」

 うん、と空戦は頷く。

「ごめんね久之、痛かった?」

 起きたときにはやはり、多少なりとも強張りがあったことは事実だ。だからこそ、起きてすぐ沸かした風呂に浸かると、湯がその部分にしみて、内側から和らげて行ってくれるようで心地良い。

「久之の生活習慣を乱すのはあまり好ましくはないが、……久之、時々は空戦と二人で寝てやれ。今朝みたいに、僕らが外で遊んでいる時にでも」

 巳槌に言われて、素直に久之は従う。

 大鍋の湯の中に、三人の神なる身と一人の半神。太陽は間もなく山の端に隠れつつある。この時間に起きて生活しているというのは、空戦にとっては相当な「早起き」であるはず。しかし一度中絶しているとはいえ、その睡眠時間は十分に確保されているから、案外にさっぱりとした顔をしている。

 円駆は少し考え込むような顔でいた。いや、事実として考え込んでいたのだ。

 そして彼がどのような考えに沈んでいるかは、巳槌には手に取るように判るのだった。

 巳槌と円駆は久之と空戦を放っては置けなかった。円駆は家の裏の土手から、巳槌は屋根の上から、空戦に気付かれないよう気配を消して二人の会話を盗み聴きしていた、……あまり褒められたことではないということは自覚の上で、それでもやはり、せずにはいられなかったのだ。

 概ね、久之は間違っていなかったと巳槌は思う。

 いかに若かろうと、身体の形が大人であるがゆえに、考え方もきちんとしている。……そういう、短からぬ時間いっしょに過ごしたがゆえに理解していることを、改めて思い知る。僕でなくてよかった、円駆でなくてよかった、そう思わずにはいられない。僕なら今度こそ「どうして? 知りたいならお前の身体に教えてやろう、とくと学ぶがいいよ」などと言っていたに違いないし、円駆なら面倒臭さに辟易して逃げ出していただろう。

 久之は立派にやってのけた。どうやら彼の中の何処かには「保護者」という尊大な自認があるのだ、その責任感に基づいて……。僕がお前を護っているのだろうとは思うが、とはいえそういう思いを抱くがゆえに久之が人間たちとの窓口として存在しようとしてくれるのもまた事実だから、構わない。

 ずっと考えに沈んでいた円駆が、欠伸を噛み殺した。巳槌もまた眠い。久之は昼寝をした、空戦はこれからが活動時間だ。間もなく訪れる夜の時間、さてどう過ごそう? 人間が作った「時計」というものはこういうとき何の役にも立たないのだな。

「僕、忘れていた。……久之からもらったもの。布団と浴衣と褌と、あとこの温かなお風呂」

 空戦は久之の足の間を今日の定位置として彼に凭れている。左に円駆を右に巳槌を従えた久之は、三人の「子供」の肩が冷えぬようにと気を遣うのに忙しく、ゆったりと身体を弛緩させることも出来はしない。とはいえ其れを呪うようなことを、彼はしない。自分のするべきことだと誰に言われるでもなく心に浸透させて、いっそ愉しみにそうするのだ。

「……舵禮は、また手を出してくるだろうか」

 円駆が呟く。

「どうだろう、……その可能性は高くないと、僕は思うが」

 巳槌は持説で応える。「空戦と舵禮では、まだ多少、舵禮の方が強い。だが空戦に手を出せば、空を埋めるほど巨大な龍が自動的に喚び出される……、麒麟はどうか知らないが応龍は寝ていても空戦が呼べばすぐに現れるからな。夕べあれだけ嚇かしてやったんだ……、追い詰められて力のない鼠が猫を噛み麒麟が応龍に歯向かうように、暴挙に出ないとも限らないが、……その場合は」

 空戦は「うん」と頷く。「僕は、そういうことを望まない。僕は此処にいる。けれど、舵禮と敵対したいとも思わない。何かあったらすぐ、みんなを呼ぶよ」

 円駆は些か憮然とした顔でいた。

「……俺らが、気を配らなきゃいけないのは其処だ。舵禮の阿呆が追い詰められたとき、……空戦ならまだいいよ、お前が舵禮より弱かったとしても、簡単にはやられねえ。けどな、久之に手出しをしてきたらどうする」

 久之が、その可能性に一度も至らなかったとは思えないのに、「……ああ」と驚いたように声を漏らした。

 そこだ、と巳槌は思う。久之も舵禮と僕らの交戦は望んでいない。どちらにせよ傷を負うし、空戦が其れを嫌がることをもう理解しているからだ。

 だが、……だからこそ、舵禮が久之に矛先を向ける可能性については十分に考慮しておくべきだ。久之を人質に取られれば、それは相当に厄介なことになるから。

「久之の側には、常に僕かお前たちの誰かが居るだろう」

 夜は三人一緒に寝るのだし、昼の間、用がなければ久之は小屋から出ない。仮に庭に舵禮が現れることがあったとしても、……寝起きであっても空戦が居れば舵禮が戦いの主導権を握る前に、巳槌も円駆も駆けつけることが出来る。久之も自分の身を護るくらいの力は発揮できるだろう。「……まあ、用心に越したことはないと僕も思うが」

 円駆は溜め息を吐き、顔を洗う。それから、「暑い」と立ち上がり、鍋縁に尻を乗せる。その様子を見た空戦が、

「ねえ、巳槌、円駆、久之」

 同じく立ち上がり、反対側の縁に座って、足を広げる。

「ちんちんっておいしいの?」

「ギャ」

 尻を滑らせて背中から転げ落ちた円駆が短い悲鳴を挙げた。「あ、あつっ、熱ッ!」鍋底の熾の熱を浴びて、焔の神獣が挙げる情けない声を軽蔑する傍らで、巳槌もずるりと尻を滑らせて鼻まで湯の中に浸かっていた。

「……何、何だと?」

「うん……、久之に訊いたんだ。どうしてみんなちんちんをしゃぶるのか。それで、一応理解できた気で居る。……それでも、どうしても判らないことが在ってね、それが、ちんちんの味。甘いのか酸っぱいのかしょっぱいのか……」

「ん、んなこと知ってどうすんだよ……!」

 土の付いた頬を擦って円駆が顔を覗かせる。空戦は首を傾げて、

「だって、知らないから。知らないから、知りたいっていう、それだけさ。……例えばすっごい不味いものだったら、どんなに思いが在ったとしても其れをしたいとは思わないはずだし……。実際、どうなんだろう? 臭かったりするんじゃないかって思うんだけど」

 子供は無邪気である。

 子供以上に無邪気な神という自意識を持って久之に甘える巳槌をして、言葉と逸れさせるぐらいに無邪気である。

「時と場合による」

 久之も円駆も答えられるはずがない。そう読み切ったからだろう、巳槌はごく淡白な声でそう言った。「人の身体というのはそのときどきの具合の良し悪しで味も匂いも変わるものだということは判るだろう」

「うん」

「加えて言えば、舌」巳槌は自分の赤い舌をぺろりと出して指で差す。「……とは、つまり粘膜だ。同じ物を食べたって味が違って感じられるときがあるだろう」

「うん、そうだね。僕は多分君たちよりそういう感覚は優れている。目が見えない分だけ発達しているのだろう」

「ならば判るだろう。ちんちんの味をどう感じるか……、ということに関して、その感覚を言葉で表現したところでお前と僕らが共有できるわけではない」

 なるほど、と空戦は自分の其処を摘んで興味深げに頷いた。巳槌が「僕は、……あくまで僕の場合で久之と円駆はどうだか知らないが、少なくとも僕はこの男たちのちんちんを不味いとか臭いと思ったことはない。ただそれは、この男たちが同様に僕のちんちんをしゃぶってそう思うという訳ではない。だから『時と場合による』と言った。賢いお前なら判るな?」

 うん、と誰より「賢い」若しくは「狡猾」な巳槌に言われて、円駆は素直に、やや誇らしげに頷いた。久之は鍋縁から円駆に手を貸し、もう一度湯の中に浸からせる。

「僕も一度くらいはちんちんをしゃぶってみたいものだなあ」

 空戦は罪無き顔をして言う。極めて複雑な表情を久之が浮かべ、それ以上に強張るのは円駆であった。

 いや、空戦に欠片の罪もあるものか。だって空戦は無意識で無垢な、……まだ子供なのだ。

 だから、

「お前がもう少し大人になったなら、そのときは僕のをしゃぶらせてやる」

 巳槌は溜め息混じりに言った。円駆と久之が同時に視線を送ってきたのを感じ、髪を一振りして言葉までは出させない。「ただ、それは今日明日の話じゃない。もっとずっと後、……そうだな、お前が酒を呑んでも顔色一つ変えないぐらいの大人になったときに初めて考えるべきことだ」

「ふうん、そうか」

 肩が冷えたか、空戦は湯に浸かりなおす。ちょっとばかり不満げに、「……でも酒を呑んで顔を紅くするのは、巳槌だってそうじゃないか……」と呟く。実の所僕だって子供だということは、……少なくとも身体のつくりに関してはそうなのだということについては、残念ながらこの応龍も認めざるを得ない。けれど空戦の股間にあったものより僕の方が少しぐらいは発達していてしかるべきだ、……そんなことを考えながら、巳槌は久之の肩に頭を委ねた。


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