BACK TO THE GROUND

 空戦の寝起きの悪さについては、彼を居候させ、種々の問題はありつつもひとまず「同居」という環境そのものには慣れつつある同居人たちのことを、相変わらず戸惑わせてやまない。

「いたいな……」

「何をしようとしたんだ」

 巳槌がポカンと訊く。

「戸を開けて外に出ようとしたんだよ。……判るだろう、起きたばっかりは、おしっこがしたいよ」

「それは判るが、……お前は目が見えなくても空間把握は出来るんだろう? 見ているこっちはどうして壁に頭突きをするのかと思うじゃないか」

「ああ……、壁……」

かように、起き抜けは調子が出ない。首を捻りながら外へ出て、「……ん?」振り返る。

「巳槌がいる。……いや、巳槌しかいないね。他の二人はどうしたの?」

「久之は里に降りて行った。新しい着物の生地が届いたと言っていた。円駆もそれについて行ったよ」

「巳槌は行かなくてよかったの?」

 巳槌は答えず「おしっこしたいんだろう、さっさとして来るがいいよ」と言い、「……というか、僕も我慢してるんだ、お前が戻ったら行くから、早くしろ」と六尺の前を抑えたのが、空戦には「見」えた。

 晩の御飯はどうするのだろう。巳槌は食事を「作れない」と言っていた。彼がそんな風に自分に不可能なことを素直に認めるのは珍しいことだが、とにかく食事は久之頼みだ。言うまでもないことだが空戦だって神なる身である、人間様式な火を加えられた食事に頼らずとも、済ませられることは済ませられるのだ。

 ……とはいえ、久之の作ってくれるご飯は美味しいので。

 箸というものも、きちんと使いこなせる空戦である。

「……お前は何をしているんだ」

 おしっこが、我慢出来なくなったのだろう。巳槌がいつの間にか傍に来ている。

「何って……、決まってるじゃないか、おしっこをしに来たんだから、おしっこをしようと思って……、あふ」

「そこは便所じゃない」

「……ん?」

「丁度便所の囲い一つ分右にずれている。……何だお前は、寝起きは色々とずれるのか」

「ずれるときと、ずれないときがあるよ。……今日はよくずれる、角度も距離感も……」

「ああもういい、おしっこしたいんだろ。褌外してとっととしてしまえ。あとおしっこ終わったら草履を返せ、それは僕のだ」

「ん……?」

「ついでに言うと、左右が逆だ、さぞかし履きにくかろうよ」

 ごそごそと、すぐ隣で巳槌が浴衣の裾を捲り、六尺を緩める。巳槌もおしっこしたいから、もうここでしてしまうつもりなのだ。空戦もそれに倣って、褌から陰茎を引っ張り出した。

「なっ……」

 巳槌が驚いたような声を上げる。それからいまいましげに舌を打ち、「おしっこの向きまでずらすんじゃない……」と低く唸った。

「ごめんなさい。……何で今日はこんなにぼうっとするんだろう、いつもの百倍ぐらい頭が重いよ」

「……普段同様の時間、眠っていたように見えたがな」

「んー……、あの、ひょっとして、巳槌、僕が寝ている時に側にいたかい?」

「いたよ」

 放尿を先に終えた巳槌はほうっと溜息を吐いた。間も無く同じく終わった空戦が褌を締め直そうとした手を止めさせ、「ちゃんとちんちん振ってからしまえ。そうしないと六尺の内側が黄色くなって恥ずかしいぞ」と指図する。神としても人間との同居生活の経験でも巳槌の方が先輩であるから、「こう?」指で摘まんで振るって見せる。

「そうだ。これからおしっこしたらいつもそうしろ。……それで?」

「側にいた? 何をしていたの?」

「僕がお前の側にいたのは、昼前に一回、それから午後から今まで。昼前のときは、久之もいた」

「うん、それは、いつもそうみたいだね。僕が布団から転がり出してしまったとき、いつも元通りにしてくれているみたいだ」

「そうだ。僕は退屈だったから、久之と遊んでいた。……あまり声を出した記憶もないが、そうか、うるさくてお前の睡眠を妨げてしまったのなら悪いことをした、ごめん」

「ん、まあいいよ。いずれにせよ、僕の寝起きが悪いのはいつものことだし……、やっとちゃんと頭が動いてきた。ごめんね巳槌、足が濡れたね」

「洗えば済むことだし、これはお前の草履だ。目覚ましに泉の水で顔を洗おう」

 円駆が、乱暴な言葉遣いとは裏腹の優しさを持っていることは先刻承知の空戦であるが、巳槌のことも周りが言うほど性格が悪いわけではないと思っている。事実として、ほら、こんな風に優しい。比較すべきではないが、円駆の足におしっこを引っ掛けてしまったなら、まあ間違いなく頭を叩かれていたであろう。

「君の泉は冷たいね」

 浸した顔を上げて空戦は言い、もう一度顔を突っ込んで二口、透明な冷徹さを胸に満たす。「あまり髪を濡らすんじゃないぞ、風呂はまだ湧いていないからな」と面倒見良く巳槌は言い、いつから用意していたか手拭いで空戦の顔を拭いてくれる。

 彼の手は、空戦の右目の下で幾度か止まった。

「それは、落ちないよ」

「……知っている。円駆が付けたのだろう」

 うん、空戦は頷く。

「ここから……、この辺りまでかな」

「もう少し下だ」

「そう? 広がったのかな。身体があの頃より少しは大きくなって、背も、少しだけど伸びたから」

 焼印のようなもの。

 円駆の目の下にも、同様の、……痣とも隈とも言い難い、黄色の何か、がある。円駆曰く、「稲妻の力を塞いでるんだ」ということで、あれがあるせいで紅い髪の中で二房、金色の束があり、また円駆には空気中の熱を擦り合わせて焔を起こす力のみならず、召雷の能力まで備わっている。

 いいなあ、と言った空戦に、円駆は少し呆れたような顔をしていた。

 お前はこんなもんで力蓄える必要なんてねえだろうがよ。誰がお前に喧嘩なんか売るもんか。……山のいきものの大半はまだ、空戦の騒がしすぎる「目覚め」のことを鮮烈に記憶していた。これ以上力を持たれては困るということを円駆は考えたかもしれない。

 でも、強そうで格好がいいね。

 そう言った空戦に、円駆は面倒臭そうに嘆息し、……形だけでいいなら、お前にも付けてやる……、今も残るこの場所に、消えることのない「おそろい」の刻印を埋め込んだ。色は、円駆の金色に対して黒。

「似合っているぞ」

 そう言って、巳槌は空戦の髪を撫ぜる。

「ありがとう。うれしいね」

 少し照れ臭い気持ちもあるが、空戦にとっては円駆と「おそろい」を褒められるということは単純に喜ばしい。力の量がどうとか、誰より強いとか、……そういうことには甚だ無頓着でいたいし、円駆のことをいまでも慕う空戦である。

「……お前は円駆のことが好きだな」

 語尾は、ほんの少し上がったか。しかしほぼ断定する言い方だった。

「うん、好きだよ。好きだし、感謝している。僕のことを殺さないでくれたし……」

「あいつは誰かを殺すようなことはしないさ。……知っているかも知れないが、僕はあいつに『お前を殺せ』と言った。それが最善だと思ったからな」

「うん、知ってるよ。最善だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。どちらにしても僕は今も、そこそこ元気に生きているし、君が殺せって言ったところで円駆にそれが出来たかどうかは……、ね」

 巳槌はもう一度空戦の頭を撫ぜてくれた。笑うことのない男だが、真心がある。

「……小屋に戻ろう。お前に教えておくべきことがある。ただ、僕がお前に物を教えるということを、久之と円駆は知らない。だからお前も、僕から教わったということは隠しておいて欲しい。……僕ら二人の秘密だ」

「秘密……?」

坂を下り、小屋の中に入る。外はもうほとんど暮れていて、小屋の中は暗闇だった。空戦はそれで一向に構わないが、巳槌は角灯に火を点けたようだ。

「今朝、……お前にとっては昨日、ということになるのかも知れないが」

「今朝、でいいよ」

「ならば今朝だ。お前は布団に潜り込んできて、久之の身体に乗っかったな」

 うーんと、考えて「そうだね、確かにそうだった。温かくて幸せだったよ」と空戦は答える。

「うん。お前の言う通り、久之と一緒に眠るのは、僕にとっても久之にとっても幸せなことなんだ。……なぜ今日、僕が本来起きている昼の間、お前と一緒に寝ていたか判るか?」

「もちろん、判らないよ」

「……お前と一緒に夜更かしをしてみるのも悪くないと思ったんだ。でもって、明日の朝、お前と一緒に寝てやろう」

 巳槌は無表情でそう言って、目を丸くした空戦の黒髪を撫ぜた。

「僕らばかりが幸せな思いをして、お前を一人の布団に寝かせているというのは、……いくらお前と僕らとで生活に慣れた時間が違うと言ってもいい話ではない。あの小屋で一緒に暮らしているという点を考えても、お前はもう、……人間みたいな言い方を選ぶなら、僕らの『家族』だからな。扱いに差を作らない方がいいと考えたんだ」

 家族、という言葉、一応空戦にも馴染みがないわけではない。つがい、という言葉の方が一般的であるが。

 そもそも、

「僕が、君たちの家族? 僕は蝙蝠で、君は蛇だし、円駆は麒麟で……」

「久之は人間だ。……それは大した問題ではない。事実として、あれほど人間を嫌っていた円駆があんな具合に久之にぴったりくっついて気持ち良さそうに眠っていたろう。つまり僕らは違う生き物である以前に、一つの家族であると言うことが出来る」

 疑問が伴わない訳ではなかった。巳槌は僕がいまいち理解に至らない「家族」という言葉を、……僕には判らないからって上手いこと使いこなしているだけではないだろうか、どうも、そんな気がする。

 とはいえ一方で、巳槌の言葉が優しさに基づくものであるのだということも判る。……皆が言うほど悪い男ではないと思ってきた空戦にも、それは少しの感動を催させる事実だった。

「さすがにいきなり、久之と円駆まで生活習慣を改めさせるというのは無理がある。だから徐々に変えて行くという形を取る。初めは僕だけだ。……ああ、でもお前が僕と一緒に布団へ収まるのが嫌なら考え直すが」

「ううん、嫌じゃないよ」

 自然と空戦の頬は綻んでいた。今朝知った、自分が思っていた以上に大きな「布団の幸せ」を形作る要素の一つである巳槌が隣に眠ってくれるというのは、……多分、素晴らしいことなのだ。具体的にどう、という想像は付かないけれど、きっと。だって、今朝の円駆も巳槌も久之も、とても幸せそうだったじゃないか。

 巳槌はやっぱり優しいのだ。きっと、円駆もそれを知っている。

 だからこそ二人は仲直りをして、いまは人間である久之も一緒に一つの布団に収まっている。

 指先だけでもそこに潜り込ませてくれる巳槌に感謝の言葉を発そうとしたところで、……空を、音が裂いた。悲痛な鳴き声一つ。

 空戦にしか聴こえない波長のはずだが、巳槌もはっきりと認識して顔を上げた。

 反射的に黒い翼を広げた空戦に、

「今のは、お前の眷属の声か。……只事ではないな」

 巳槌は表情を変えないながらも頬は強張らせる。

「何かあったんだ、何かは、判らないけど……」

「ああ、行ってくるがいいよ」

 巳槌に頷いて、すぐに空戦は身を翻して小屋を飛び出し、宙へ駆け登った。空はまだ微かに青味を残して、高いところの雲の輪郭をなぞることも容易い。起き抜けであれば飛行の軌道も安定しないところだろうが、洗顔を済ませた空戦は遣い魔の声のした方へと一直線に飛んで行く。急降下しながら気付くのは、声の出処が山の頂きだということ。

 あの子がそもそもひとりでこんなところまで上がってくるものか。

 まだ雪の残る山頂が、薄ぼんやりと光っている。

 その光の中央に立つ人型の姿があった。彼はその手に、空戦の遣い魔の羽を掴んでぶら下げている。

「……何のつもり?」

 土の上に足を下ろした空戦に、鳥の神は笑った。

「だって、こうでもしなければ君は会いに来てくれないじゃないか」

 舵禮は黄色がかった長い髪を揺すった。彼は空戦よりもずいぶん背が高い。並べて比べるまでもなく、円駆よりも高いはずだ。

 舵禮は右手で足掻く蝙蝠を興味深げに眺めながら、空戦の反応を吟味しているようだった。空戦は足元の光の正体が、舵禮の巻き起こす雷だということに気付いた。光がない時間に舵禮が視力を保っているためには雷光が必須となる。

 幕のように広がった雷はちりちり、ちりちりとかすかな音を立てながら発光している。

「この間から繰り返しになるけれど……、そして私は同じ問いを何度も投げるのを不格好に思うけれど」

「僕は君と組んで彼らと喧嘩をするような真似はしたくない」

「と、この蝙蝠が嘘をつくのでね」

 怯え、声さえ上げられない遣い魔の痛ましさに空戦の心は震え上がる。

「彼は嘘なんかついていない、僕自身の判断でそうしているんだ。……彼を離せ」

「いや、だからさ……。判らないかな」

 舵禮はどこかしらに優しさを潜ませた笑みを空戦に向けた。「そんな『嘘』は聴きたくないんだ。……君は私の右手に何があるのか、見えない訳ではないだろう? この哀れな生き物が嘘つきだったと言うなら、……まあ、飼い主の責任だろうからね。君に返すから、しっかりと叱ってやるのがいいと思う。しかし、君まで『嘘』をつくと言うならば、……それは随分不義理な真似であって、僕としても心は傷付く。その報復に出るという選択をしてもいいように思うんだがね」

 極めて独善的な選択肢だけを提示されて空戦が戸惑うのを、舵禮は余裕綽々の態度でいる。

 困ったことになった。

「舵禮、君は馬鹿だよ。……僕の力を手にして君はどうするんだい? 円駆と巳槌と喧嘩をすることが君にとってどんな価値があるんだい? ……いいよ、あったとしても、説明されても僕には判らないから。判りたくないから」

 舵禮から何度も繰り返された要請に対し煮え切らない返事をしてきたのは、……言うまでもなく、対立の鮮明化を避けるためだ。舵禮が単独で円駆と巳槌に楯突こうとは思うまい、……そこまで馬鹿ではあるまい。円駆と巳槌にしても、領域の拡張には興味はないはずだ。……ただ、応龍の巨躯はそれがそこにあるというだけで他者を圧迫するものである。舵禮が天翔る龍の姿を目の当たりにして、第一の危機感を抱く理屈は空戦にも判る。

 加えて巳槌が人と交わることで力を手にしたという事実を掴み、あろうことか人嫌いの円駆までもが巳槌の側に付いた、という事態になれば、よりその危機感が募ることになる。

 だからこそ、……心根は円駆の側にいることを選ぶ空戦も、舵禮にはっきりとそれを表明することは避けてきた。ただ自分があの小屋で彼らとともに生活し始めたことを以って、舵禮が状況を明察し、争いを避けることを空戦は狙った。舵禮だって三対一、しかも最強の応龍と「厄介」な力を持つ蝙蝠の与する麒麟と真っ向から戦って、勝算があるとは思っているまい。だから空戦を自らの側に付かせ、戦力差を埋めようとしているのだ。空戦自身も自覚があるとおり、円駆や巳槌と本気で戦うことになったとして、勝つことは出来ないなりに相当の傷を負わせることは出来るであろうから……。

「簡単なことではないか、何故君には判らない? ……応龍が我が物顔で飛び回るこの山の全天は、全て私と君のものであったろう。それをあの蛇が、……円駆の庇護無しでは生きてさえ居られなかったような脆弱な蛇が、我らの手から空を奪ったのだ」

「それは、違うよ、舵禮」

 空戦は落ち着きを保ったまま首を振る。

「そもそもこの山のどこをとっても、『誰かの』ものである場所なんてない。この山の火も水も風も空も、この山に住む者ひとしく全員のためにある。だからあの空にしたって、……元々君のものじゃない、ましてや偶然この力を手にした僕なんかのものだった瞬間が一度でもあったはずがないじゃないか。巳槌だって同じ気持ちのはずだし、円駆に至ってはそんなことを君が考えていると知ったら酷く軽蔑するはずだ」

 いや、元々円駆と巳槌は舵禮のような者のことを軽蔑している。その点については人間というものを軸に長い対立から現在の和解に至っているあの二人が一貫して共通している。

「私が欲深いかのような物の言い方はやめてもらおうか」

 気分を害したように、舵禮は顔を顰める。「君がどう考えようと、実のところ私には関係ない。私は応龍と麒麟が徒党を組んだ上に、君まで彼らに与するのが気に入らないし、何と言われようと屁理屈にしか聴こえない。……もっとも、君が何を考えていようと実のところ、私にはそうたいして重要なこととは思わない」

「……そうだろうね、君は、そうだろう」

「解っているのだろう。君は自分の眷属を私に奪われて、この上私に抗うことなど出来はしない」

 誰かのことを「馬鹿」と思うことは、あまりしたくない。巳槌も円駆も時にお互いを酷い言葉で罵り合うが、あれも、はたで聴いていてあまり楽しい気持ちになるものではない。巳槌と円駆の間に彼らしか判らない感情があるのだということは、察した上でも。

 しかし、

「君は馬鹿だよ」

 空戦は言った。右手を振り上げる。

 舵禮の手にあった蝙蝠が、風の塊に変わる。

 自らの腕に包みこんだ風は再び蝙蝠の形をなし、ひしと腕に抱き付いた。

「ただの蝙蝠だと思ったのかい? ……君のことを何ら警戒なく扱う僕だと思ったのかい?」

 おうちへおかえり、と空へ放ち、それを追いかけた舵禮を制して飛び上がる。掌に集めた風の気弾を炸裂させたところで、舵禮は身動きを取れなくなる。遅れて身体に殺到する雷の網は、くるり宙返り一つでやり過ごす。

「僕は喧嘩が嫌い。そして、君みたいな欲深い考え方も嫌いだよ。……円駆たちは確かに力を持っている……、けれど君の懸念しているようなことには、決してなりはしないよ。彼らだって自分の守りたいものを守る以外の理由で誰かを攻撃したり、ましてや君が主権を主張するこの空を独占しようなんで思いつくはずがない」

 何か呪わしい言葉を舵禮が吐き出す。耳にするだけで不快な言葉だから、言葉としては捉えないことにする。

「君が空を飛ぶのは、誰かの要請に基づく訳でもなく認められた君の自由だよ。それは応龍や僕がそうするのが自由であるのと同じように……、誰のものでもない空を自分のものだと言うことがどれだけ愚かか、判らないのだとしたら、僕は君に少しだって同情できなくなる」

 風を解いた。

 舵禮は忌々しげに睨みあげている、右手に雷球の波動を集めている。空戦は静かな表情で息を吸い込み、あの「厄介」で「迷惑」な音を、……解き放とうとしたところで「わう!」視界がぐるんと回った。

「な、なにっ……、……巳槌っ」

 小さな身体は浴衣の襟首を応龍のあぎとに咥えられて、銀の鱗が妖しく光る夜空でもがいた。危うく首が締まりかけたところで力が緩み、身体が落ちたのは応龍の頭の上。

「舵禮」

 巳槌は静かな声で言う。

「どのみち夜は飛べないお前だろう。夜の空をお前が手にして何になる?」

「黙れ! ……貴様はその醜い身体で、私の空を……」

「醜いか。悪いな、醜いものであっても僕が守りたいものを守るために手にした力だ。守りたいもの、……久之に円駆、……そして、この子供のような存在のために、僕は売られた喧嘩は買ってやってもいいぞ」

「巳槌ッ、駄目だよ!」

 空戦の悲鳴に近い声にも、蛇面の龍は能面のように表情を変えない。

「……僕の周りは久之といいお前といい、僕が暴れるのは好きじゃないやつばかりだよ。もっとも、僕だって暴れるのは草臥れるから嫌いだが」

 龍はゆっくりと空戦を頭に乗せたまま、舵禮の周りを旋回した。舵禮が放つ雷球を、身体に受けてもびくともしない。

「失せろ舵禮。僕の家族に害なすのならば、僕は家族の意に反して、お前を排除せねばならなくなる。……とはいえお前が僕に敵わないことも判らないぐらい愚かならば、それは生きていたって仕方がないのかもしれないが」

 空戦は困った。舵禮の返答次第では、本当にこの恐ろしいまでの力によって巳槌は総攻撃を仕掛けるかも知れないと思えて。

 そうなったときのために、空戦が再び喉に音を蓄えたところで、

「……このままで済むと思うなよ……、私は必ず、貴様から空を取り戻して見せる……、必ずだ!」

 舵禮が呪詛を口にし、雷の幕を破裂させ空を煌煌と照らした。応龍が目を伏せた一瞬の間隙を突いて、舵禮の姿は闇へ消えた。

 空戦が心底からほっとして、溜息を吐く。巳槌は今しばらく頂の空を舞っていたが、やがて飽きたようにゆっくりと身体をくねらせながら航路を変える。

 空戦が小屋の前に下ろされたとき、隣には裸の巳槌がいた。霧を浴びたように濡れた顔を拭って、

「お前もたいがい面倒臭い男だな」

 無表情に、彼は言う。

「神同士は心が読めないはずなのに、お前の考えていることは手に取るように判る。……お前は久之と同じことを考えている。あんな奴でも敵ではないと思っているんだ。これから先、あいつは久之にさえ手出しをしてくるかも知れないぞ」

 空戦は答えなかった。憤りを覚え、しかしそれをどう表現したらいいのか、滅多に怒らないものだから判らない。

「言うがいいよ」

 巳槌は縁側に腰を下ろして言った。

「言葉が下手な奴の言うことを聴くのは慣れている」

 喉でぐるぐるしていた音の波動は、

「僕は喧嘩が嫌いだよ」

 平凡と自覚出来る言葉となって溢れた。

「舵禮は、……彼はあんな男だけど、攻撃しようとは思わない。もし久之に危険が及ぶようなことになったとしたら、それは君があんな風に力を見せ付けるような真似をしたからだよ。君はますます彼を追い込んでしまった」

 巳槌は空戦の言葉を黙ったまま聴いていた。

「僕は仲間が守れれば良かった。あの可哀想な蝙蝠を危険な目に遭わせてしまった……、あの子が覚えた恐怖を、僕はどうやって贖えばいいの? 舵禮が次に何かをしてくるとして……、そもそも彼の心が歪んでしまうのを、僕はどうしたって止めなければならない、だって」

「お前には、それが出来るかもしれないから」

 巳槌は無表情のまま言った。空戦は言葉を止めて、唇を尖らせる。

「……空戦、僕だって喧嘩は嫌いだよ。僕が喧嘩をすることを望まない男のことを、僕は愛している。円駆が僕との喧嘩をやめたのも、あいつが久之のことを愛しているからだ」

「だったらどうして」

「お前が考えていることが間違っていると言うつもりはないよ。……ただ、僕も考えるのさ、どうしたら争いを避けることが出来るのか。……お前が舵禮と僕らの力の均衡を破る存在であることには、お前も自覚があるだろう」

 空戦が黙って頷くのを見届けてから、巳槌は言葉を繋いだ。

「お前はお前そのもので居るだけで、その強過ぎる力によって争いを生み出す。そのことは紛れもない事実だ。……だからお前という存在の扱いについて、僕らは、……舵禮も含めて僕らは、慎重にならなくてはいけない。僕らに敵対する位置にお前を置いて、力の均衡を意図する舵禮の考えも判らなくはないよ、あいつにしては知恵を絞ったと評価してもいい」

 空戦はその言い方にやや引っかかったが、黙っていた。

「それでも、あいつは欲深な男だ。お前も気付いたろう、あいつはお前の力を喧嘩に使おうとしている……。なるほど確かに、お前は強いよ。お前が本気を出せば、僕だってただでは居られない。今では僕の方が強いだろうとは思うが、今後お前が力を蓄えて行ったとしてもお前を一蹴出来るなどと楽観的な考えは抱いていない。……そして恐らく、舵禮もそれは考えているはずだ。いつの日かお前が、麒麟より応龍より強くなるときが来たなら、その時お前が自分の側にいたなら……、と」

 空戦が顔を上げるのを予め見越していたように、そうだよ、と巳槌は頷いた。

「お前はそのとき、争いごとの道具として用いられることになる。今日はお前の遣い魔の蝙蝠、あれがお前の作り出した眷属で、風の霊体という一面を持っていたから良かった。しかしお前は久之や円駆を人質に取られたとして、それでも舵禮に抗うことが出来るか? ……無理だろうよ。お前は舵禮の側についたなら、いつの日か必ずその力で僕を破壊することになる」

 巳槌は空戦が言葉からはぐれるに任せて見つめていた。

「……僕は、……中立にいるわけにはいかないのかな。此処ではなくて、……あの穴倉で、僕が前みたいにずっと眠っていれば」

「でも、事実としてお前は目覚めた。そして久之に出会い、あいつのことを好きになった。……変わらないだろうさ、舵禮はお前を叩き起こしに来るぞ。僕らの側にいないと判れば、益々好都合とお前の側に巣を構える。そうなったとき、お前はどうすれば僕らと喧嘩をせずに済ませられるだろうな?」

 既に巳槌は、空戦に答えのないことは見抜いていただろう。

「僕は、お前に殺されたくはない。……いや、久之を護り切って死ねるならそれも悪くないような気はするが、僕が死んだ後の久之を思うとそれも不憫だ。だからやはり、僕は久之に添い遂げなければならない。そのためには争いを避けねばならない。そして……、判るだろう。一度目を覚ましたお前を舵禮のような者の側に置くわけには行かない、そのためには、僕らの側に置いておくほかない……、でも」

「……でも?」

 巳槌は、両の掌を一度上げて、溜息とともに下ろした。

「僕らはお前のことを愛してやれると思う」

「……愛……?」

「争いごとの対局に位置するものだ。例えばお前の好きな、暖かなあの風呂であり、何より布団だ。あればかりは人間の文化だから、舵禮には作り出せないぞ。それから久之の作る飯も、久之が居なければ誰にも用意出来ない」

 空戦は考えた。深く深く考えたが、答えは出てこない。結局彼の考えが纏まるより先に、「さっき、僕も寝ぼけていた。……久之と円駆は今夜は帰らない。でも久之は優しいから僕とお前の分の飯をきちんと作ってから出掛けた。だから飯にしよう。それからゆっくり風呂に入って、あとはお前の思う通りに空で遊ぶのに付き合うとしよう」と、まず間違いなく初めから用意していた言葉をすらすらと並べた。

 

 

 

 

 大丈夫だ、僕のことがそんなに信用出来ないのか全く。むしろお前たちの方が問題だ昼間どんだけ派手に遊んだんだ。黙って僕の言うことに従うがいいよ。……というような一つながりの言葉があって、円駆を連れて山を下りた久之であった。元々が山に住み着いた浮浪者のような趣の久之であるから、別に何処で夜明かしをしたっていいとは思っていたのだ。一晩ぐらい、どうとでもなる。だから出来るだけ人目につかぬ場所で円駆と一緒に、……今度はお互い心穏やかにして寝よう、そう思っていたのだが。

「あ……」

「あら」

 この場合、好ましい相手なのかどうかがまず判然としない。少し疲れた顔をして、食材に膨らんだビニール袋をぶら下げた尾野辺と鉢合わせた。ちょうど道端で円駆と握り飯を食べているところだった。

「何見てんだよ」

 なぜこの子は誰に対しても開口一番そういう言葉が出てきてしまうのか……、久之が戸惑った通り、尾野辺も表情を強張らせたが、

「……お久しぶりです」

 と頭を下げた。

 先日、……尾野辺の同僚の男性教諭が駐在とともに、勤める小学校の女子児童に乱暴していたことが判明した一件。あれは久之が空戦と初めて出会ったときと重なるが、久之が尾野辺と顔を合わせる回数はめっきり減った。彼女が小屋を訪れることはなくなったし、久之が里に降りるのはもっぱら昼の間なので、鉢合わせようがないのである。

 道端で円駆が貪る握り飯を見て、彼女の腹はぐうと鳴り、頬を赤らめる。慌てたように表情を取り繕って、

「なぜ、こんなところで」

 と少し怒ったような顔になる。「もう一人の子はどうしたんです」

 彼女は先日の一件を経て、久之と彼の周りの「子供」たちの存在に対して、一応は容認の態度を取るようになった。巳槌は彼女に力の片鱗を見せたと言っていた。巳槌も円駆も、それを側に置く久之という男も、常なる人間ではないということに納得せざるをえなかったのは当然だ。

「巳槌は、あの、小屋にいます。……その……」

「『もう一人』と一緒に、今頃飯を食ってる」

 指についた飯粒を啄ばみながら円駆は答えた。

「もう、一人?」

「お前たちが知らねえだけで、山には俺らみてーなのがうようよいるんだよ、お前たちの考えることとは無関係に」

 尾野辺の目は少しの間山に向き、また久之へと戻った。

「その、……二人きりで話すことがある、と、言われたので、……今夜は、ですから、二人きりにして、おこうと」

「要は、小屋から追い払われた。明日の朝までここにいる。悪いか」

 円駆がそう言ったことがきっかけとなり、この半神と神なる身は尾野辺の住むアパートの部屋に招じ入れられることとなった。仮にも女性の独り住まいに男二人が入ること云々、久之は当然固辞したが、

「仮であっても私は女ですが、あなたがたはそこらの男とは違うのでしょう」

 と結局押し切られてしまった形だ。久之はもちろんのこと、円駆は随分と居心地悪そうに「人間」の住まいの隅っこできょろきょろと視線を彷徨わせていた。

 彼女は炬燵の上に鍋を作った。招かれて炬燵に収まった円駆は、いかにも不審なものを見るように炬燵布団をめくって顔をしかめていた。

「あんなところで夜明かしをするとなれば、また騒ぎになりかねません。……新しい駐在さんはとても真面目で仕事熱心な方なので。……どうぞ召し上がってください、お鍋は一人で食べるよりは」

 彼女は円駆の酷い箸使いが気になる様子であったが、それは指摘せず、恐縮しながら箸を動かす久之に向けて、

「教師が足らなくなって、私もこのところは黒板の前に立つようになりました。……私は養護教諭ですが、元々、小学校の教員免許も取得していたので、こういった緊急時には教壇に立てるのです」

 と独り言のように語る。

 足りなくなった人手、というのが、この村の少女によからぬことをし、その結果として巳槌と空戦によって今は塀の中にいるはずの教師であったことは、もちろん久之にも判っている。

「あなた方には本当に、感謝しなくてはいけないわね。……子供たちを守るべき立場にいて……、それも養護教諭として、子供の変化に誰より一番に気付いてあげなくてはいけなかったのに、私は……」

 こういうとき、巳槌だったら何と言葉をかけるのだろう。円駆はむっつりと黙っているばかり。……元々が人間との会話に適していない久之は、うろうろと言葉の海で迷子になった挙句、やっと見つけ出した言葉を、今度は本当に口にしていいものかどうか惑う。

 結局、

「あのガキは今どうしてんだよ」

 円駆が訊いた。尾野辺はやはり子供のことが好きなのだろう、優しい微笑みを浮かべて、

「元気良く学校に通っています。……とても感謝していたわ、あなたと、巳槌くんに」

「別に、感謝されるようなことなんてしてねーや」

 微笑みを浮かべていた尾野辺は、再び真面目な表情に戻った。「これは、……特別な意味がある問いではなくて、あくまで、……個人的に訊きたいことなのだけど」と慎重な前置きをした上で、

「あなたや、巳槌くんや、他にもいるという……、子供たち」

「だから子供じゃねえっ」

「……そう言うと、怒らせてしまうようね。……だから、だとしたら何と言えばいいかしら、子供のように見えるから……」

 フン、と機嫌を損ねたように円駆は鼻を鳴らした。その様子は子供にしか見えない。

「……巳槌くんは、その、……何て言えばいいのか、……雪を水にしたり、氷にしてみたり……、それから、……記憶が曖昧なのだけど、私が初めてあなたたちのところへ行った時に、……その……」

 どうやら尾野辺自身、未だに見たものを全面的に信用していいかどうか、躊躇いがあるようだ。

 しかし、曖昧なのなら曖昧なままで保っておくべきことだろうか。……ただの子供ではないから、巳槌も円駆も、そして、空戦も「学校」に行く必要はないのである。

 とはいえ、……円駆たちは自分たちが山にいることをあまり広げられたくはないだろう。かつての円駆がそうであったように、山には人間を快く思わない神も多いようだし。

 尾野辺は今のところ巳槌の力について触れて回ってはいないようだが、恐らくそれは、自分の見たものを確信するに至らないからだろうと久之は想像する。教諭という立場として、非科学的な現象をおおっぴらに口にすることに抵抗もあるだろう。……しかし彼女が確信するに至ったとき、他の人間たちに喋ってしまうとは考えられないか。

「……俺たちは、お前たちとは違う。俺も巳槌も、他の奴らも、今はこうしてお前たちと大差ない格好でいるけどな。俺は獣だし、巳槌は蛇だ」

 円駆が答えていた。

「元が人間なのは、こいつぐらいのもんさ。……お前が今吸ってる空気、この鍋の汁の元になってる水も、無から生まれたもんじゃない、山から生まれて、ここまで流れて流れてお前の口に入っている。それは俺たちが山の大地を支え水を浄め、滞らせることなく風を巡らせ焔を揺らすがゆえのことだ。季節の巡り代わりも、星辰の進行も、全て俺たちみたいなもんが関係してる」

「神」という言葉を使わずに円駆は説明したが、尾野辺の顔を見ればそういう言葉が彼女の中に現れているに違いないことは心の読めぬ久之にも判る。そして円駆がこういう説明をしたからには、尾野辺が他の人間にこのことを伝える懸念はないということだろう。

「俺は、人間なんでどうでもいい」

 円駆は再び箸を動かし始めた。「俺だけじゃない。多くの連中は、どうでもいいどころか排除しようとする。人間たちは山を荒らし、勝手に占拠する迷惑な生き物だからな。……でも巳槌は人間が好きだ。あいつは山に死にに来たこいつのことを気に入って、山の中で生かせることを選んだ。今じゃこいつも、もう半分ぐらいは人間じゃない」

 尾野辺は目を瞠った。久之は小さくなって、「……はい」と、自分のことながら何が「はい」かと思うような言葉を発した。

「人間たちは、山に入るべきじゃないんだ。山はお前たちにとって居心地のいい場所じゃない。……こいつみたいにな、端っこに間借りして、自分が住まわせてもらってるってことを自覚してんならまだいい。でも山にある命を、恵を、我が物顔で踏みにじるような連中に対して、俺たちは牙を剥く。……お前たちには十分すぎるぐらいの力があるだろう、住む場所も食うものもあるだろうよ。過分なものを求めに山に入ってくる者たちには、俺たちは排除の機能を発揮する」

 円駆はそう言い切って、器の汁をぐびりと飲み込み、無言で器を差し出す。尾野辺の作った鍋が随分気に入った様子である。

 久之と円駆はその夜、そのまま尾野辺の部屋に泊まることとなった。尾野辺は無意識のうちに、かつての人間たちが人間に親しんだ神である巳槌にしたように、美味なる飯を振る舞い、円駆の望むままに酒を差し出した。彼女はもう「子供がお酒を」などとは言わなかった。

「よかったの、か」

 明かりを落とした部屋、借り物の布団に包まって、久之は円駆に訊いた。

「あんな、全部、話したりして……」

「全部なんて話してねえよ。……それとも全部話した方がよかったか? 俺たちが普段、どんな風にしているか……」

 確かに、それは絶対に秘しておくべきだ。それを知れば尾野辺はやはり、黙ってはいられないだろうから。

「人間は馬鹿な生き物だ。……俺はこの考えを、まだ、変えていない」

 布団は、一組でいい。そう円駆が告げるまでもなく、この部屋には客用の布団というものは一つしかなくて、久之と円駆は同じ布団に収まっている。巳槌がいないから、却って広いぐらいだ。

「けど、……俺はお前が馬鹿だとは思わないようにしてる。……いや、たまに本当に馬鹿だって思うことがあるけど、それは例外としてだ。……そうでないと、俺は馬鹿と一緒に暮らしてるってことになっちまうからな」

 円駆は他の人間の匂いを嗅ぎたくないのか、久之の浴衣にぴったり鼻を当てていた。しかしその身体からは、普段とは違う臭いが漂っている。つまり、尾野部の浴室で使われている石鹸の匂い。

「でも、そうすると、……矛盾する。お前だってまだ、半分は人間だ。お前の半分が馬鹿だとは思いたくない、でもそう思わないためには、人間が馬鹿だと思えなくなる……。そういうの、面倒臭いからな。だから、柔軟に考えるようにしたんだ。人間の中にも馬鹿な奴と馬鹿じゃない奴とがいる。お前はその中で、特別賢い。……何かおかしいか?」

 久之は指摘しなかったが、それ巳槌とは逆の考えの進行法だ。巳槌はついこの間まで、「人間はすべからく善なるもの」と信じたがっていたが、あの一件でそうではないと学んだ。

円駆は久之と交わり、逆のことを学んだのだ。

「おかしく、ないよ」

 久之の撫ぜる掌を、黙って受け止める。円駆は神である、久之は半神である。互いの身体の構成要素に差はあれど、そして生まれてからの時間には大きな隔たりがあれど、こうして同じ布団に収まっている時にはすべて等しく、……心を持つ者同士となる。

 自分のいることで相手を温め、相手のいることで自分が温まるという、体温のやりとりを行う一対の。

「……あの女はもう寝たな」

 円駆は呟いて、俄かに半身を起こす。暗い部屋で見上げる久之には、それでも円駆が唇を尖らせて不機嫌な顔を形作っているのが判った。

「……昼間、したから、もう要らん」

 そう、曖昧な前置きを彼はした。

「だいたい俺はあの蛇みたいなのとは違って、もっとちゃんと、節度ってもんを心得てる」

 でも、望むことそのものが罪だとは誰も言わないよ。

 久之は、円駆を抱き寄せて身体の上に乗せた。驚いて目を丸くした少年の頬に、唇に、口付けをする。

「……明日の朝まで待ってやる……」

 なけなしの勇気を発揮した久之に、円駆は何故だか悔しげにそう言い放って、背中を向けて横たわった。

 

 

 

 

 久之と円駆はもう寝ただろうか。月に向かってゆっくりと昇りながら、巳槌は思う。尾野部の家に泊まったようだ、というのは判ったが、建物の中に入られてしまうとそのあとは判らない。ただまあ、円駆は馬鹿ではないわけで、いくら二人でくっついて寝ているからといって、他の人間が側にいる状況でそういうことをしようと考えるほど軽率ではないだろう。

 空戦の放った風の球が身体に当たったこそばゆさに身じろぎをした応龍は、しゅう、と牙口から霧を溢す。

 ……黒い羽を生やした空戦の機動力は思っていた以上のものがあった。風の操り方も驚くほど器用であり、未だ若い神であるということを巳槌に忘れさせた。無論、「他の者の迷惑になるから」とあの「声」は止めさせているが、これにあの声が加わったら、なるほどそれはかなりに厄介な「敵」となる。

 しかしまだ、可愛いものだ。「可愛げがある」という範疇に留まらず、……可愛いものだ。応龍の鱗に傷を付けるにも、未だ至らない。

「空戦」

 俊敏に自分の周りを飛び回る少年に向けてゆったりと首を擡げながら巳槌は訊いた。

「舵禮はお前より強いのか?」

「……知らないね。僕は雷の使い方を知らない、けれど僕のような風の使い方は、彼も知っている。でも……」

「でも?」

「……君からしたら、舵禮の方が厄介な一面もあるだろうし、他方で舵禮の方が戦いやすい面もあるだろう」

 うん、そうだな、お前は賢い。

「舵禮はお前と違って雷を操る。僕は雷が嫌いだ、痺れるからな」

「君は身体が濡れているから」

「だが、お前の使うあのうるさい声は舵禮には出せないし、舵禮はお前のように気持ち悪い飛び方もしないな」

 蝙蝠特有の、安定感のない軌道なのだ。こっちかと思ったら明後日の方向に、気まますぎる方向転換、非常に無秩序で、狙いを定めにくい。

「……僕から言わせてもらうと、大きな蛇が羽もなしに空を飛んでいることこそずいぶん気持ちが悪いものだと思うよ。でも確かに、僕の飛び方は不規則かもしれない」

「かもしれない、じゃなくて事実として不規則だろう。どういうつもりで飛んだらそんな飛び方になるのだろう」

 空戦の夜遊びに「付き合おう」と巳槌は言った。空戦のいまの力量を測っておく意味もあったが、それ以上にこうやって運動しておけば少し早い時間に眠いと言い出すだろう。昼に少し寝たとはいえ、さすがに徹夜は辛い。空戦の生活時間を少しずつ昼に傾けて行ければいい。

 無論、舵禮に対しての示威行為という側面もないではなかったが、それは夜浅い時間のあの一件で十分事足りているだろう。

 空戦の撃った竜巻が四方から不規則な軌道で襲い掛かる。速さはそれほどでもないが、一つ一つが別の動きをしつつ巳槌の鱗に牙を剥く。ほう、こんなことも出来るのか。感心しながら銀の鱗から発した波動でその向きを逸らし、口から鋭く吐き出した霧を竜巻に混ぜ込む。

「うわ……」

 一回りも二回りも生長した竜巻が加速して支配から外れ、一斉に殺到するのを慌てて空戦は避けた。

「何、今の……」

「興味深いな。僕の霧の力とお前の風の力、掛け合わせるとあんな『忌み子』が生まれるのか」

 なかなかに魅力的な現象であると言える。竜巻が霧を飲み込み加速度的に膨れ上がったのだ。威力として、大雑把な計算としても倍以上。

「例えば円駆の焔とお前の風とを合わせれば、それもやはり恐ろしいものとなるだろう」

「山火事になるよ」

「そうならないよう風の形を変えるのはお前の仕事だ。……待てよ、僕の水と円駆の焔とを掛け合わせたら?」

「久之はどちらも扱えるよね。でも多分、すごく相性が悪い」

「僕らの相性が悪いことはお互いよく判っているつもりだよ」

 そろそろ降りよう、巳槌は言い、空戦も頷いた。二人とも寒い夜空に長くいたが、身体にはしっとりと心地よく汗をかいている。布団に入る前に身体を洗わねばならない。火を起こし風呂の残り湯を温め直して、巳槌は空戦の尻を押して湯に入らせ、自らは一瞬だけ応龍に化して収まる。

 空戦があくびをした。

「たくさん動いたからもう眠いのだろう」

 膝を抱えて、やや恨めしげな目をして空戦は頷いた。応龍との圧倒的なまでの力の差、……そして巳槌の抱く考えを読み取って、やはり少しばかり、思うところがあるのだろう。

 しかし巳槌はまた別のことを考えていた。

……空戦はまだまだ強くなる。「声」を用いずとも、応龍の僕と、その動きに限って言えば対等に渡り合うことが出来る。円駆も大概すばしっこいが、空を飛べるという点で空戦に理がある。

 力そのものはまだ、生易しいものではあるが。

「おい、風呂の中で寝るなよ」

「は」

 船を漕ぎ始めてはいるが、まだ空は暗く朝は遠い。……体力という点でも、円駆にも、もちろん巳槌にも遠く及ばない、子供の空戦である。

「風呂から出たら、布団に入ろう。……久之たちが帰ってきたとき、起きられそうなら飯を食えばいい」

 目を擦りながら、空戦は頷いた。

 身体を髪を拭いてやり、三つある枕の一つを退かして、並んで収まった。円駆よりも巳槌よりも小さな身体だし、巳槌ももちろん子供の形をした身体なので、布団には大きな余裕がある。

 空戦は暗闇で、誰かと眠る不慣れさに紅い目を瞬かせている。

「ねえ、巳槌?」

顔を巳槌の方に向けて、遠慮がちに彼は言った。

「僕は、ここにいることで、山に平和をもたらすことが出来る? 舵禮も傷を負わずに済む?」

「舵禮のような者でも、一応は山の住民だ。僕らの平穏な生活を敢えて害そうとしない限り、僕から攻撃を加えることはない。そしてお前がここに留まっている限り、あいつがこちらにちょっかいを出してくることは考えづらい」

 空戦はまた小さく溜息を吐いた。「舵禮はどうして、あんなに喧嘩をしたがるのだろうね……? 彼にだって、空はあるのに」

「判り合えないことだってある。僕だって久之や円駆の何もかもを判っているわけではないよ。そういう部分をそのままにしておいてはいけないか?」

「いけなくはない、と、思うけど」

 空戦は紅い目を瞬かせた。ものを映し出さない目であるがゆえに、かえって何かを見出そうとするのかもしれないと巳槌は思う。

 横を向いた空戦の髪を撫ぜ、抱き寄せた。

「僕らの、というよりは、僕のわがままに付き合わせているよな。……でも僕はやっぱり、この生活のためにも平和を手放したくない。……久之が来るまで、僕に在った平穏は決まって崩れるものだった。僕自身が崩すことを選択してしまったこともある。でも、久之を山に迎え入れるにあたって円駆と喧嘩をしたのを、僕は最後にしたく思っている」

 巳槌の掌に、空戦は抗わなかった。小さくこっくりと頷いて、むしろぴったりとくっ付く。

「……巳槌は、温かい身体をしていたんだね」

 薄く目を開けて少年は言った。

「この身体の形をとっている時にはな。蛇のときには冷たいよ」

「それは、想像出来る。でも、だからこそ不思議な気がする。すごく気持ちいいね。……君は円駆と久之と、こんな風に温かい布団でいつも寝ているんだ」

「……今更三人が四人になったところで、少なくとも僕は文句を言おうとは思わないぞ。僕が文句を言わなければ、久之だって問題にはしないはずだ。円駆はまあ、僕が言いくるめてどうとでも出来るだろう。お前があの窮屈で夏の間はひどく暑苦しい空間に身を置いてみたいと言うのなら、検討することはやぶさかではないし、お前にあの狭い布団での寝方を教えてやるよ」

 小さく笑った気配があった。彼は顔を上げて、巳槌を見て「あれ?」と驚いたような顔になって、巳槌の頬に子供らしい体温の掌を当てた。

「巳槌、……笑っているの?」

 そう問われるまで、巳槌は無自覚でいた。しかしこの淫らな龍神も自分がどういうときに笑うのかということについてはとうの昔に自覚できるようになっている。何と無く面白くないことに、自分が笑うと久之も円駆も「どうしよう……」と困惑するという事実も。

空戦はただただ驚いているだけの様子だ。

「巳槌が笑っている。……初めてだね、君は、笑うということをしないのだとばかり思っていたよ」

「失礼な奴だな、僕だって笑う時は笑うんだぞ」

 などと言いながら、巳槌は内心で焦りを覚えている。……いけないんだぞ、今は。だいたい、そういう相手ではないだろう空戦は。

 僕が空戦とそういうことをしたと知れば、久之も円駆も相当に深い困惑の中に陥るし、結果的に怒らせることにもなりかねない。……ほぼ万能と言ってもいいこの神なる身も、叱られるのは好きではない。

「……僕は、何か面白いことを言ったのかな」

「何……?」

「だから君が笑ったのだと思ったのだけど」

 違う。

 この反応の意味するところはそうではないし、そもそもこの相手に反応してしまうことが「違う」のだ。困惑しきって、それでも顔は微笑ませたまま、

「お前が知らなかっただけで、僕はよく笑うぞ。久之も円駆も、僕の笑顔をいつも見ている。あいつらは僕のことを、とても上手に笑わせてくれるからな」

 などと、真顔の自分ならば「おい落ち着けお前は何を言っているんだ……」と声をかけたくなるようなことを口走っている。

「……ん? すると、やっぱり 僕が君を笑わせたの?」

「違う」

 と答えてから、では何故笑うのかを訊かれることを恐れて、「そうだ」と言い直した。

「お前が色々と可愛らしいから笑ったんだ」

 それはそれで正直なところということにはなるのだが、どうして自分が空戦で「笑顔」になるのかという理屈は判らない。……確かに愛らしい顔をした空戦であるし、恐らく、その動機さえ整えば巳槌は空戦を抱ける。ただ、いまはその時ではない。

 散々久之たちを困惑させるようなことを言いはして来たが、現状、空戦を「此方」の領域に誘い込んでしまうことが尚早であるという判断は巳槌も下している。ではなぜ、こういう反応が起きるのか。

「僕が可愛い? 巳槌は時々面白いことを言うね。僕は目は見えないけど、可愛いという言葉は君みたいな顔のためにあるんだろう。久之や円駆も、きっとそう思っている」

 気が付いた。この布団が良くないのだ。

 久之と、円駆と、いつも温もりを分け合って収まり、それだけでは飽き足らず抱かれることを願ってしまう、この布団。今は当然、空戦の体温がある。……温もりに喚起される形で、心身が反応を示すに至ってしまったのだ……。

 表情は笑顔だが、頭の中は決して笑顔を浮かべるような余裕はない。これでは普段の無表情のときと何らかわりはないではないか。

「布団は温かいね。一人の時でも温かいけど、誰かと一緒だと、もっと温かくて幸せだ……」

 巳槌だって、眠たげな空戦の声に全面同意するつもりがある。ただ、形ばかりは優しい微笑みを浮かべる龍神の心中は色々な理由から全く穏やかとは程遠く、眠りのきっかけさえ掴むのは難しい。ああもう、身体の局所もそういう反応を示し始めた。蝙蝠め、どうして僕の手首を握っているのだ。この心臓の音に気付いていないのか。僕はもう少しでも刺激されたら、お前を丸呑みにしてしまうかもしれないのに、どうしてそんな無垢な寝顔ですやすやと眠っていられるのだ。

 


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