UNDER THE SKY

 巳槌や円駆ほど長生きはしていない空戦ではあるが、自然が刻む時については彼らと同じほど敏感で、今では人間の手による浴衣と六尺を纏っても裸のときと同様、夜にうろつき回る空に満ちる風の肌当たりが優しくなったことには気付ける。

 寒いのに何故空を飛ぶのか、昔、円駆に訊かれたことがある。明け方に帰って震える空戦のために、寝起きの円駆は麒麟に変じて小さな少年の身体が凍てつかないよう暖めてくれながら。

「どうして……? どうしてだろうね。……僕が、飛べるから?」

 地を駆ける獣である円駆は気分を害したような顔をしていた。

 自分でもはっきりと判っているわけではない。ただ何となく、そうすることが好きだから、空戦は毎夜欠かさず空を飛ぶ。飛びたいと思ったならば寒かろうが暑かろうが雨だろうが雪だろうが風が自分の言うことを聴かないほど荒れ狂っていようが空戦は飛ぶ。夜空は彼のものだった。

 月が山の向こうに姿を隠して、一番暗い夜明け前、物を見る力のない紅い双眸を瞬かせて空戦は空の上に横たわる。漆黒の巨きな翼に風を保ちつつ、「見」上げた空に両の掌を掲げ、

「んー……、んっ」

 幼い唸り声と共に風の気弾を撃ち上げる。球体は激速を以って未明の空の頂へ至り、音もなく炸裂する。

 その瞬間、地表の酸素が俄かに薄くなる。無論、生き物に迷惑がかかる程の振れ幅ではないにせよ。

「今日のはよく出来た」

 微笑んで独語し、翼を広げてゆっくりと舞う。

 山の端が色付き始めた。まだ少し遊び足りない気がしないでもないが、「見」えない目で光を感じると途端に眠気を覚えてしまうのは積年の習性である。そろそろ円駆たちも目を覚ますだろう。夜明け前特有の湿り気を帯びた空気を肺に満たしながら緩やかに高度を下げて行く空戦の耳に、子猫のような鳴き声が聴こえて来た。

「……ん?」

 声のする方に降りて行く。山頂に生えた短躯の樹の梢に、逆様にぶら下がる一匹の蝙蝠が呼ぶ声だった。

「何かあったかい?」

 空戦の「見」えない視線の先、やや肥えた鼠ほどの大きさの蝙蝠は金色に光る円らな瞳を瞬かせて、ミーミーと鳴く。

「ああそう……、ああそう……。解ったよ、教えてくれてありがとうね」

 丸っこい身体の、耳の後ろを撫ぜてやると目を細める「彼」は空戦と同じくただの蝙蝠ではない。と言って、円駆や巳槌と同じ神獣でもない。蝙蝠の群れを置いて久之の小屋に逗留するようになって以後、同種の生活の安全においての万障を避けるために空戦が群れの中から聴き分けの良いものを選び出し、自らの霊力を注いで生み出した精霊、或いは「遣い魔獣」とでも呼ぶべきものである。

 円駆や巳槌には、斯様な生き物がいない。必要がないからいないのだろうと思っている。言い換えれば、空戦だって久之の小屋に住むことにならなければ円駆も彼のような物を生み出す必要はなかった。

 おやすみ、と洞穴に戻る蝙蝠を見送って、空戦は白い溜め息を一つ。

 やっぱり、歪みがあるんだろうか。

 仕方が無いことだとは思う。神獣と人間が一緒に生きることが第一に妙だ。そもそもこの二種類の生き物は、生きる時間からして違うのだから。第二に、円駆と巳槌と一緒に過ごすことで久之が人間ではなく神獣になりかけているということ。生き物の生きる道からして、それが正しいか間違っているかということについては自前の結論を出す気はない。しかし、単純に奇妙だとは思うのだ。

 この二つの奇妙さを乗り越えてまで、どうして円駆たちが久之に拘るのかということが何より一番、空戦には判らない。元々人間に対して差別的な感情を一切持たないで生きてきた空戦である。寧ろ人間を嫌っていたのは円駆の方ではなかったか。巳槌のように人間と積極的な交流を持とうとする神獣など、この山では極端なまでの少数派であり、円駆はそれを諌めることに躍起になっていたはずなのだけど。

 いや、久之という人間が、「いい」ということは空戦だって理解している。あの、不器用な言葉しか操れない男の中にあるのは善良と言うほかない清らかな心だ。ただ優しさだけで彼は生きている。空戦は風で乱れてしまった浴衣をかき合わせ、帯を結び直した。

確かに、久之の側は空戦にとっても居心地がいい。友達である円駆と巳槌がそうするのに倣って、同じく久之に寄り添って暮らすことを選んだ今でさえ、……やっぱり、歪みを意識しないわけには行かない。

「でも、……舵禮もしつこいなぁ……」

 蝙蝠が教えてくれたのは、あの鳥の神獣が相変わらず執拗に空戦の力を求めている、ということ。円駆と巳槌の側に身を置く空戦に苛立ちつつ、それでもどうにかその力を引き寄せんとしているということ。

 舵禮には、義理がない。円駆と久之には義理がある。それだけで空戦は、歪さを差し引いても舵禮の側に付く理由がない。

 加えて舵禮の欲張りにも、空戦は抵抗感を抱いた。空戦と同じく翼を持つ生き物でいて、空戦より年上の舵禮が何故空戦に拘るのかと言えば、単純にこの空を独り占めしたいからだ。……言われるまでもなく、現在の生活習慣を考えたならば空戦が昼の空を飛び回ることはまずないし、舵禮もその視覚の構造上、夜空を舞うことは出来ない。即ち空戦に夜を、自らは昼を、それぞれ占拠し、空戦が自分の味方というよりは配下にあると定義付けられれば全天即ち自分の所有物と思うことが出来る。空戦にはくだらないこととしか思えないが、どうやら舵禮にはその事実が極めて魅力的に思えるらしい。

 目下、目の上のたんこぶとして存在するのが巳槌である。円駆や他の神獣同様、空を飛ぶことなど出来ようはずもない蛇に過ぎなかった巳槌が人間との交流を契機に応龍と化し、昼夜問わず空を跋扈する力を手にしたことが、舵禮には憎たらしくて仕方が無いのだ。

自分の力だけではどうすることもできないからと言って、力を持つ空戦に名代を務めさせようという魂胆は、円駆と巳槌に比べても一回り小さい身体と幼い相貌を持つこの神獣にも好ましくないものと思われる。……何より僕が舵禮の側に付いたなら、それは円駆たちと喧嘩をすることになる。強大な、と評される力を持つことを自覚した上でこの神獣は、のんびりと過ごすことこそ何より幸せだと思って日々を過ごしている。

 難しいことを考えたから、眠たくなってきた。明るくなる前に帰って来てはいけないと言われているが、そろそろ空が白み始めたからもういいだろう。ふあぁ、とあくびをして、小屋の近くに降り、翼を畳む。久之の作ってくれた浴衣、空戦が黒い翼を広げるときには元ある穴をそれ以上裂くことはないし、畳むときにも何処にも引っ掛からない。長い時間をずっと裸で過ごし、それでも何も困ることなどなかったが、自分の見た目が良くなったような気がして嬉しい。

 夜のうちは山のどこでも適当な場所で済ませる小用を、久之の拵えた便所の囲いの中で済ませ、六尺を締め直す。汲み置きの水で手を洗い、指先からぴっぴっと水を弾き飛ばしながら、小屋の引き戸を開ける。

 円駆たちは、まだ眠っていた。

 昼の間は空戦が独り占めし、どっちに寝返りを打っても構わない。布団が身体から剥がれることだってあろうけれど、寒い思いをしたことがほとんどないのは、恐らく久之がそれを見つける度に掛け直してくれているからだろう。空戦は布団が大好きだった。蝙蝠の身体になって洞穴の天井からぶら下がるのもいいとは思うけれど。

 それにしても、と空戦はこんもり盛り上がった布団を見て、感慨に耽る。

 このところ夜の時間が少しずつ短くなって、空戦がこの部屋に戻る時間には円駆たちはまだ眠っているということも増えているが、見るたび、何だか凄いなと思ってしまうのだ。

だって、どう見たって狭ッ苦しい。

「大人」の身体の形をした久之が真ん中に眠り、両脇を円駆と巳槌がきっちり寄り添って固めている。きっと久之は寝ている間じゅう、同じ姿勢で居なければいけない。彼のことだから円駆か巳槌が寝返りを打って布団からはみ出してしまったときには、その度に起きてもう片方に寒い思いをさせないよう気を配りつつ元の通り布団の中へ収めてやるのだろう。

 どうして久之はそこまで彼らを大事にするのだろう?

空戦はぼんやりと膨らんだ布団を「眺め」ながら考えを巡らせるが、これはどうやらこの神獣の知識だけでは賄えないものであるらしい。

 ただはっきりと判るのは、あの布団が幸せなものだということだ。これから彼らが起き、一緒に風呂に入り、食餌を採り、それから布団に入るときにはもう三人分の余韻は体臭を除けばどこにもなくて、掛け布団をしっかり身体に巻きつけてからでないと落ち着かない。しかしあれほどぎゅうぎゅうに寄り添っていれば布団の中には温かな安らぎが自ずと満ちるものだろう。

「あふ……」

 安らぎを目にしているうちに、益々眠気を催してきた。空戦は空戦なりに考えてから、少しだけならばきっと大丈夫だろうと布団の足の側を捲る。久之の脛が覗けた。其処に頭を突っ込み、出来る限り眠る者たちの邪魔にならないよう努めながら肩から腰、尻へ、布団の中へ侵入する。目の見えない分、暗闇でも空間の状態を把握するのは空戦には容易なことだ。

 首尾よく、布団を背に負って久之の身体の上に乗ることができた。無作法ではあると思うが、やすやすと自分の身体を担ぐことの出来る久之だから、そう重たく感じさせることはなかろうと思われた。ただ自分の身体が冷たいことは、少しばかり気が咎める。

 久之の胸が温かく、彼にぴったり吸い付くように寄り添って眠る円駆と巳槌の腕も温かい。とりわけ、いつも表情がなく冷たい印象の巳槌の身体がこれほど温かく感じられることには驚きを覚えた。

 何て贅沢な空間だろう。たちまち瞼が重くなる。しかし今寝てしまっては風呂も朝食も逃してしまうことになる……。

 そう懸念を抱いたところで。

 久之の眉間に皺が寄り、無精髭の伸びた口元が、

「……巳槌? ……どう、……した……?」

 やや不明瞭な声を発した。

「巳槌じゃないよ、僕だよ」

 きっと、円駆よりも軽いからという理由で誤解したのだろう。

「……空、戦……?」

 久之が呆気に取られて目を見開く。その左右で、円駆と巳槌がむぐむぐと覚醒し始めた。巳槌は、なかなか目を開けない。一方で円駆が思い切り顔をしかめて、

「おい……、こら……、お前なにやってんだ……」

 空戦はにっこり微笑んで、「おはよう」と応じる。

「温かくて、幸せそうだったからお邪魔したんだ。どうせもう朝だから起きるだろうと思って」

「……温かくて、幸せそう……、確かにな」

 目を瞑ったまま、眉間に浅い皺を寄せて巳槌が言う。聡明な彼にしてはのんびりとした喋り方になるが、そんな巳槌の振る舞いにももう驚きはない。

「僕らの……、僕と円駆が久之と寝る布団の中は、お前の言う通り幸せが満ちている」

「すごく、温かい」

「そうだな……、うん」

「何を呑気にテメェらは……、おい空戦、久之から降りろ、重たいだろ」

「いや……、その……」

 何か言いかけた久之に構わず、「いいから降りろ」と円駆が命じるから、仕方が無い、基本的に円駆の言うことには従順に居ると決めている空戦は、よっこらせと背負った掛け布団ごと身を起こし、「幸せの空間」に朝の冷気を嫌という程に吹き込ませる。

「どうして巳槌は裸なの?」

 真っ白い裸が白い布団に横たわっている。巳槌は六尺さえ締めていない。久之が何故だかはっとしたように言葉に詰まり、こちらはぐだぐだに寝乱れてはいるものの浴衣を身体に巻き付けている円駆が「それは」と言い淀む。

「……布団の中は、温かいからな」

 巳槌はまだ相変わらず目を閉じたままのろのろと身を起こし、「寝ている間に、脱いでしまうんだ。僕も円駆も時々ある、……そうだよな? 久之」

 まだ仰向けのままの久之は、一度こくんと頷いた。

「ついでに言うとな、僕は寝起きは裸で居た方が楽なんだ」

「……そうなの? どうして?」

 空戦は巳槌が人間態から身を縮ませ、白蛇へと変じるのを感じた。まだ目を糸のように細めたまま、身をくねらせてきちんと閉めたつもりでも僅かに隙間の空く、立てつけの悪い戸をくぐるのはその身体には容易なことだろう。

「……小便に行く。人間の形よりはこちらのほうが草履も要らない分、楽だ。……おい円駆、いつまでも寝ているなよ。水は僕が注いでおくから、お前は火をつけろ。空戦も風呂に入りたいだろう」

 うん、と空戦が頷いたから、円駆はやっと起き上がり、くしゃくしゃの頭を掻きむしって溜息を吐き、立ち上がる。浴衣を整える円駆だが、彼も六尺は外れている。それが、空戦にはとても不思議だった。前を掻き合わせながら、「まだ寒ィな畜生……」とぶつぶつ言いながら、円駆も出て行く。小便をしに行くのだろうと空戦は察する。

「……久之、僕は重たかったかい?」

 空戦の呈した疑問に、半身を起こした久之は二人の神なる身に比べると随分はっきり目が覚めた様子で、「いいや……」と首を振る。空戦は布団の上に座った久之の頬に掌を当ててみる。それほど冷たくはなっていないはずの掌なのに、久之は敏感に身体を震わせた。

「……不思議だね、布団の魔法みたいだ。久之はすごく温かい」

 久之は暫く言葉を探して、

「……巳槌と、円駆が、温かいから」

 自分の吐き出した言葉に潜り込むように、「だから、俺も、温かくて、……だから、よく眠れるんだろう……」声を重ね塗った。

「僕は群れの中で寝ていたけれど、確かに洞穴の天井で身を寄せ合って眠るのは温かかったよ。……布団の中なら三人だけでも『群れ』という呼び方ができるのかもしれないね」

 そうだね、と同意してはくれるものの、久之は何だか困っていた。恩義のあるけど相手を困らせるのはよくない。温かさが名残惜しくはあったけれど、手を離す。

「これを、君に話していいのかわからないけど……」

 布団の表面からも、其処に篭った体温が伝わってくる。撫ぜることで掌を慰めながら、空戦はゆっくり言葉を選んだ。小屋の外からは巳槌が注ぐ水の音と、円駆が飛沫を飛ばすなと怒鳴っている声が聴こえて来る。

「舵禮、……鳥の神獣が、相変わらずしつこく僕を呼んでいるんだ」

 まだ久之は会ったことがないはずだが、厄介な男だということは円駆たちから伝え聴いているだろう。実際に彼らが「厄介」という言葉を選んで説明した対象は空戦自身であったけれど。

「理由は……、聴いた。……その……、空戦が強いから……」

「僕はちっとも強くないと、僕自身は思っているんだけど……、それはいいね。でも僕は、最初に会ったときに話したと思うけど、喧嘩は嫌だ。僕が此処に居ることで舵禮を不愉快にさせてしまうのは申し訳ないとは思うけど、争いごとを回避するためにそうするのが一番なら、やっぱりそうしたいし、……それにね、久之」

 微笑みを浮かべた。それは申し訳なさと照れを合わせ含み、その身体の形作る歳よりも更に幼いものとなる。

「僕は、布団と風呂が好き。君の用意してくれる空間が、とても好き。だから此処を離れたくはない」

 視力のない空戦は自分のそういう表情を見たことはもちろんない。ただこの神なる身が「円駆は口が悪いけど優しいし、巳槌もみんなが言うほど性格悪くないと思う」ために、その笑顔が相当な威力を発揮していることは事実として存在する。

「さっき、君たちの眠っている布団に潜り込んだとき、改めてそう思ったよ。円駆と巳槌が、……とりわけ人間が嫌いだと言っていた円駆が、君の側に居たがる理由、僕にも理解出来る。君はきっと僕たちに幸いを齎す存在なんだろう」

 久之の頬が熱を持つのを感じられる。「俺は」たどたどしい言葉で「そんな」紡ぐ「大したことしてない……」申し訳なさそうな声。

 がらり、引き戸が開いた。

「おい、風呂が沸くぞ。ってか巳槌は浸かってるぞ」

円駆は布団の上で微笑む空戦と、言い訳をしている久之とを見比べて、「……何やってんだよ」と不安がるような声で問うた。

「秘密」

 空戦は立ち上がり、「幸せ」に自分も身を浸すべく、浴衣の帯をほどいた。

 

 

 

 

 朝食後、空戦は寝入り、巳槌と円駆は思い思いに山の中へ這入って行く。久之は洗濯だとか庭の手入れ、それからもちろん焼き物といった細々とした仕事がある。「恋神」なるくすぐったいような言葉を選んだのは巳槌であるが、その実彼らが日永一日小屋でべたついて過ごしているわけでもない。

 だから空戦の心地よい昼の眠りを妨げることにはならない。

 太陽がまだ天の頂に至るよりもだいぶ前に、久之の過ごすべき仕事はほとんど終わった。午後には里に下りて売り物の焼き物を置いてこようと思っているが、それより先に昼飯だ。しかしそれにもまだ時間があるからと、そっと小屋の中に上がり、読みかけの古本を開いた。小屋の中に差し込む、このところ暖かさを取り戻しつつある陽射に頼りながら、頁を捲る時間は久之の日々にあって最も静かなものの一つであると言える。久之は昔から、書物に没頭するのが好きな男だった。

 空戦の寝息を除いて物音のしない部屋に、とん、と足音が鳴った。顔を上げると巳槌だった。こんな時間に戻って来るのは珍しい。今日のように好天の日には、適当な木に登って日向ぼっこをするのが普段の彼の過ごし方であるはずだが。

 巳槌も空戦に気を遣ってか、無言のまま久之の隣に腰を下ろす。一つ、あくびをした。眠いのかもしれない。しかし布団は空戦が独り占めしている。

 しかし巳槌は久之の心を読んで首を振る。眠くはない、と声には出さずに。

ならばなぜ、俺の腿を枕にして横になるのか。丁度本の陰に隠れた顔、退かして瞼を閉じているか否か確かめようか。もし本当に眠いのなら、布団はないが自分の外套を掛けてやらなくてはと。

 巳槌が此処に来た瞬間から久之の興味は巳槌だけに占められる。その髪の色の絵の具を浸した刷毛でひと塗り、あまりに容易いが仕方ないことではある。久之にとって巳槌は、「恋神」であるからして。

 そっと、本をずらして顔を覗く。

 巳槌は目を開けていた。

 そして銀色の睫毛に縁取られた目を、優しく微笑ませていた。

 ……その現象の意味するところはいつだってひとつきり。反射的に見なかったことにしようと思いかけた久之の手にある文庫本の、背中に垂れる栞紐を摘み上げてふわりと揺らす。開かれた書の中央部、谷の中へ、はかったように収まった。

 はたり、久之の手から本を滑り取り、閉じる。身を起こした巳槌は呆気にとられる久之をよそに、浴衣の帯を解き前を開き、久之のあぐらの中へ向かい合って収まり、抱きつく。

いつものことではあるが、巳槌が成した一連の所作に伴う久之の反応はと言えば、口を開けたままの呼吸幾つか。

 ただ確かに巳槌は笑っている。

「巳槌」

 久之が持つ言葉の中で数少なく、且つ最も円滑に紡げる類の言葉、その名前は名を持つ者の指で止められる。巳槌の目はそっと空戦に向けられた。その視線の先で、空戦は規則正しい寝息を立てている。久之はそれ以上声を発するわけにはもう行かなくなった。

 ひんやりとした指は、掌は、そのまま久之の両の頬を包み込み、言葉を失った唇へと唇が重なる。いつものことだ、重なるだけだ、それでも跳ねた鼓動を拾い上げたように巳槌は微笑みを一層濃いものとして、

 大好き、

 と耳元に息で語る。

 どうしてだ。夕べ、しただろう。お前が強請るから。僕が昼のうちにまたしたくならないように空っぽになるぐらいまで愛するのがお前たちの義務だと言って。久之と円駆の身体で以って、いっぱいに満たされたのではなかったのか。

 巳槌が立ち上がる。少年の身体をした神なる身が少女めいて細い腰を突き出したところには久之の顔があり鼻があり、自らの締めた六尺の前袋を其処へ押し付ける格好となる。久之はすぐに其の奥にある熱を感じてしまったし、少年の形をした其処には不似合いな、いやらしい薫りを篭らせていることにも気付けてしまう。其れが何の匂いかということを知らなければ押し返すことも出来ようものを、詳しく判り切っている。そもそもその表情の意味からして、もう。

 しろ、と言うのだ。声に出さずとも。

 久之がそう理解したのを読み取って、巳槌は頷く。久之を助けるために、自らの手を後ろに回し、六尺の結び目を解く、……少年の身体をした巳槌のふしだらさをそのまま表現するかのごとく、白布は垂れ下がった。

 幼き形の表現としては鋭過ぎる。あるいは、其処の元の形を認識しているが故にそう見えるのだろうか。……久之には判らない。ただこの男はこの場所がこういう、恐らくは不似合いな表現方法を選ぶ時にはいつだって処女のように戸惑い、頬を赤らめずには居られないのだ。

 何故か、とは思う。いい加減、慣れたってよかろうよと、僕は(僕らは)お前のことが好きで、お前を喜ばせたいと思うからお前に此処を見せるんだ。お前だって僕らの此処を見るのが嫌いな訳ではないだろうよ。

 嫌いな訳ではない、どころか「好き」と思っていることを否定出来ない。其れは自らの身の穢らわしきことの証明にさえなりうる。

 しかし、神と交わるとき、……こと神に望まれた身として交わろうと決めたとき、未だ心の大半は「人間」で居る久之の感じる抵抗など、寧ろ捨てた方が円滑に事が運ぶ。

 その上この優しく弱い男は、外から帰って来たばかりの、洗ってもいない巳槌の陰茎を前にして、躊躇いを覚えることもまた罪だと判っていた。お世辞にも「清潔」とは言えぬはずだ、朝起きてすぐ風呂に浸かったとはいえ、巳槌がこの時間まで一度たりともこの六尺を外す必要に駆られなかったとは思わない。……其れを証明するように独特な臭いは確かに存在する。

 それでもこの男が巳槌の其処を口に収めるために、息を止める必要は全くなかった。潮の味は恐らく、この形をした生き物全てが共通して持つ要素であるはずで、とやかく文句を付けるような類のものではない。舌に絡みつくような粘り気もまた同じで、……仮令どんなに困らされることがあったとしても、巳槌の情動に伴う結果としての「表現」であるのだとすれば久之に異議申し立てが出来るものではない。

 久之は一つひとつ納得して、巳槌に施すことに決める。

 清らかにしか見えない顔形をして、実際何よりも清純な存在である応龍はいとおしいような震えを久之に伝える。……久之自身、其のやり方について明るいわけではない……、ただの人間として生きる間には覚えたとしても実践の機会が訪れるはずもなかったような行為である。それでも、こんな俺でも、とは思う。こんな俺でも幸せに出来ると言うならば、一体俺が何を拒むだろう? と。

 そもそも。

 ……人の(いや、人でなくとも)排泄器官をこんな風に手や口で愛撫することで作るものを「幸せ」と、「喜び」とする……、無論羞恥心と無縁ではいられない訳だ、裸を見せ、情動の何処より如実に現れる場所、こんな風に人目に晒すという……。

 巳槌はそうまでして、巳槌自身のというよりは共に生きる者たちの幸せを作り出そうと努める。「ふしだら」という言葉が人間の中でのみ通用するものだとすれば、……いやしかし、「この淫乱蛇!」と円駆は面罵する、が。

 ともあれ久之はと言えば、口の中の巳槌の陰茎を、其処から分泌される液体も含めて、「不味い」と思うどころか無意識のうちに柔らかな包皮の隙間に次第で舌先を差し入れ、いつでも飄然とした態度を崩さない巳槌の膝を震わせる。真っ白な頬を紅潮させ双眸を潤ませ、浴衣の袖を口元に当てて声を堪える。どこかしおらしさすら感じさせるその顔を目の当たりにして、ますます平常心を喪うのは久之と円駆の共通項である。

 平常心。

 いや、常々弱気で生きる様が本来の形なのか、それともこうして巳槌を「幸せ」にすることに躍起になるのが本当なのか、……あるいは記憶には残らないが酒を呑んで乱れたときこそ本性と呼ぶべきなのかはわからない。今は今なりに、久之はどう考えても本気でいるのだ。口中に広がる潮の味、まだ息の白いような季節にあっても薄く感じる汗の匂い……、巳槌の身体と、そこから漂う全てに向き合うとき、真摯な心持ちで居ることは間違いない。

 言葉を、巳槌は最後まで堪えていた。くん、と細い首に音が詰まった、……その唇から溢れる時には震えた溜め息に変換された。久之の口の中には薄くさらりとした精液が、普段よりも少なめに零されている。其れを呑み込み、口を外して顔を上げると、巳槌は静かに微笑んで、

 いい子だ、

 とでも言うように、久之の髪を撫ぜた。

 どうしてだ、別にきっと、そんなに、……したかった訳じゃないんだろう……?

 我慢しようと思えば出来たはず、というのが久之の思うところだ。

 今更のように、空戦に目を向ける。空戦はさっき見たときと同じように、布団から右足だけを出してすやすやと寝ている。……あんな無垢な子の寝る部屋で淫らな真似をしてしまったことに、深い罪悪感を覚えざるを得ない。またぞろ「人間」が顔を出す。

 満足しただろう。

 巳槌を見上げて視線で問う。あくまでも、この期に及んでも、声は立てまいという腹積もりだ。巳槌が声を出さなかったのだから、久之としても喋るわけには行かない。

 しかし、……心を読む力を備える応龍は首を傾げて見せる。

 そして、まだ笑っている。

 ……白い蛇は吉兆であるとされる。事実として巳槌の存在ゆえに久之は幸福と肌を重ね慣れ親しむに至っている。それでも、これほど不吉な笑みがあるだろうか。

 その身に篭る熱を吹き消したつもりで、新鮮な酸素を送り込む結果であったことを久之は知る。巳槌の欲の炎はますます燃え上がっている。久之の目と鼻の先でその性器は全く強張りを解こうとはしないのだ。

 ならばもう一度、片付けるために。そう思った久之を感じ取るように、巳槌はすとんと腰を下ろし、久之の胡座の中心に手を乗せる。其処が先刻から熱を持て余していることを巳槌は気付いていないはずがなかった。言うなれば、延焼。

 待って。

 久之の声を出せないことをいいことに、巳槌は久之の帯を解き、下着の中から赤熱を帯びた肉茎を取り出す。先端に滲んだ露を指先に当て、糸を伸ばし、ほの紅い唇に塗り付けて舐める。そのまま指に唾液と共に絡めつけ、自分の足の間へと、運ぶ。

 久之の性器は早くも巳槌の口の中。

 止めることなど出来はしない。

 初めからこれほどの技巧を持っていただろうか。いまはもう思い出せない。どうしても力技に頼りがちになる円駆に比べると、巳槌の舌は優しく、そして器用だ。自分の指で自分の暗所を拓きながらも、久之の確かな反応を伺う余裕が巳槌にはあった。……時折、目が合う。心底から嬉しそうな目と、まっすぐに視線がぶつかる。

 巳槌が意地の悪さを発揮して、このまま俺を射精させはしないつもりなのだということはすぐに判った。先端から口を外し、茎の乾いたところをなくすように全体へと舌を巡らせている。僅かにくすぐったいような愛撫はしかし、久之の理性を着実にとろかせていく。舐めて、舐めて、舐めて。

 仕上げのように久之の先端に再び滲んだ露を舌先で弾くように掬い取り、顔を上げた。

華奢な両肩を全て、そして雪のような背中、露わにした巳槌がいつからか、自分の足の間から指を外していることに久之は気付く。

 いとおしむ口づけの音を立てて久之の肉芯から顔を背け、浴衣を裸身に絡めたまま、巳槌は久之の胡座の前に両手を前足として尻を向け、膝を作る。しっとりと濡れてはいるが、其れで大丈夫だと言うつもりなのだとしたら……、久之は其れを許さない。

 ひょっとしたら、珍しく久之は巳槌の裏を掻いたかもしれない。すくみ上がらせた陰嚢の、縫い目から繋がる会陰の至る場所、熱を待ち侘びて震える巳槌の孔へ、舌を立てる。

 想定していたよりは柔らかいことは事実であった。しかし、だからどうした。巳槌が顔を伏せて堪えることには同情しない、……お前が誘ったのだろう。

 退屈だったのか。

 それとも、足りなかったのか。

 久之には判じかねる。いずれにせよ、空戦が小屋で暮らすようになって以来、昼間は空戦に、つまり、より無垢な生き物に巳槌も巳槌なりに気を遣って過ごしている。以前のようにのべつまくなしに久之の身体を求めることは出来なくなった。

 いや、その分、……空戦が小屋を開ける夜の間は巳槌のみならず円駆までもが遠慮を忘れて久之を求めるほどになるのだが。

 ひょっとしたら。

 納得行くほど巳槌を慣らして、自分の熱の矛先を後ろから押し当てる、獣のような所作の半ばで久之は思う。

 俺も、……か?

 俺も、なのか。

 健気に声を抑え、自分を受け容れる「恋神」を見下ろして。

 ……何と欲深いことか。罪深いことか。

 そういう、巳槌に読まれれば「無駄なことを」と言われるかもしれない考えは、結局のところ久之が巳槌の中に収まり切ったところで中絶する。同じ男の身体の、しかも排泄器官であることなど到底信じられないほど心地よい空間にあって「無駄な」考えが四散し、ただ本能のままに愛することしか出来なくなるのはいつもの通り。

 ……そんな久之に、巳槌が身体を悦びに震わせるのもまた、いつもの通り。

 それでもいつもと違う。巳槌は久之が到達し、その内部に欲を叩きつけ、その衝撃に乗じて達するまで声を出さなかった。ただ、久之がその身体を抱き起こしたとき、ぎゅうと抱き付いて、

「ありがとう、大好きだぞ。僕はお前が大好きだぞ」

 と囁くことまでは、どうやらこの白い龍は堪えきれなかったようである。

 

 

 

 

 尻の中に精液を出される。

 簡単なことだと嘯きはするものの、やはり小さな身体に何の無理もなくそうするわけではない。まして巳槌の身体は、……いや、巳槌のみならず円駆もそうだが、身体に久之の吐き出した体液を留め置くことの出来る構造ではないから、

「……大丈夫、か?」

「決まっているだろう、いつもしていることだ」

 強気に言っても、やはり少々情けないことになるのは避けられない。風呂釜の残り湯で尻を洗われながら、僕の身体はどうしてこう不便なのだ、もっとこう……、子を宿せるようにとは言わないけれども、なんかこう、あるだろう。

「……何してんだお前らは」

 既に太陽は山の頂を超えている。その陽射に紅い髪を眩く煌めかせ、しかし表情はやや冬っぽく強張らせた円駆が立っていた。

「何って、決まっているだろう、お前が時々してもらっていることだよ」

「ンなこたぁ見りゃ判ンだよ! そうじゃなくって、……まさか空戦のいる側で……」

 巳槌は肩を竦め、「もういいぞ」と久之から手拭いと六尺を受け取る。

「羨ましいか、けだもの。久之が僕を愛してくれたんだ。声を出さないようにしなければならないのは文字通り閉口だが、それはそれで新鮮味のある愉しさがあった。……何をしているかと訊いたな、答えてやろう」

「要らん!」

「遠慮するな。久之が濃いぃのを僕のお尻の中にたっぷり注ぎ込んでくれたからな。残念なことに、本当に残念なことに此処は久之の精液を保持してはいられないから」

「要らねっつってんだろ! あとさっきドサクサに紛れてけだものとか言ったな!」

「けだものなのは事実だろうよ」

「うるせえ糞蛇!」

 空戦が起きてしまう、と久之が気にしたのを、円駆も感じ取っただろう。麒麟は口を噤み、はぁっ、忌々しげな溜め息を吐き出す。

「……久之がそんなこと自分からするはずねぇや。どうせテメェがぬたぬた誘ったに決まってんだ」

「いや、あの……」

 誘いに乗ってしまった自分にこそ責任があって、本当なら途中で巳槌を外に連れ出すべきだったのだ、……そんな殊勝なことを久之が思う。巳槌も溜め息を吐いて、

「仕方ないだろう、僕はしたかった。一度したいと思ったら止められるものではないことぐらい、お前だって判っているだろうよ」

 円駆は答えなかった。それが答えになっていると巳槌は断じる。

 六尺を締めて、

「思ったよりも慣れない」

 巳槌は言った。

 空戦という、「無垢」なる身が側にいるということ。……もう少し容易いものだと目論んでいた。何よりこの山の力の均衡を此方に大きく傾けることで争いごとの発生を回避出来るということに価値があって、伴って生じる問題など瑣末なものに過ぎないと思っていた。

然るに、この身体と来たら。「夜まで久之の身体はおあずけだ」と思ったときにはもう、恋しくて恋しくて仕方がなくなってしまった。

 久之が思った通り、外で、ならば。

 しかし、それは山の天気との相談事だ。巳槌はいつでも霧や雨を降らせることは出来るものの、雨を止ませることまでは出来ない。

 自分が思っていたよりも随分と我慢弱いこの身体が少々情けなくはある。ただ、渾身の愛情は容易に塞げるものでもないのである。

「……二つに一つだな」

 独語に、二人が顔を向けたのを感じた。

 さて、口にすべきかどうか。二人とも僕より真面目だからな、いい子だからな、何と言われるか判らない、……いや、よく判っている。

 けれど、

「僕らが今後も我慢を続けるか、それとも空戦を僕らに巻き込んでしまうか」

「だめだよ」

「駄目に決まってんだろ!」

 ほれ見ろ。

「……そうは言うが、ならば問おうか。円駆、昨晩お前は僕の口におしっこちびるぐらい気持ちよくなっていたな。しょっぱかったぞ」

「う、う、うるせえ! テメェがやめろっつったのにしつこくするからっ」

「それでもそのまま僕の口で二度目の痙攣をしていたのだから文句は言わせない。それから久之、お前だってさっき、僕の中にたっぷりと注いでくれたろう、……確かに僕が誘ったことには違いないが、お前自身の欲の証明はついさっきまで僕の中にあった」

 久之は何も言わず、純情に頬を赤らめる。

「結論を急ぐわけではないが、……僕らの現状はまだまだ改善の余地があるものだということは間違いないと思う。つまり、『空戦』という名前の力と平和を二つながらに手にしようとしたなら、僕らが差し出さねばならないのは昼の間の布団という物体だけではなかったということだ。……これ以上、言う必要はないだろうよ」

 巳槌がそう言ったところで、二人はぱたりと黙り込んでしまった。円駆が何を考えているかは、神同士であるから読み取ることはできない。しかし手に取るように判る久之と同じ考えを抱いているのは明白である。

「なあ、甘えんぼ円駆」

「誰が甘えんぼだ!」

「お前だ。ついでに言うならば僕だって甘えんぼだし、お前に『甘えんぼ巳槌』と呼ばれたって腹を立てたりはしないぞ」

 何を開き直ってやがんだ……、円駆が唇を尖らせるが、悪口にならないと判ってしまったからには「甘えんぼ巳槌」とは言えない麒麟である。

「僕は思うのだが、……お前が空戦に向ける気持ちというのは、とてもとても清らかなものだ。僕と久之の間にあるもの、そしてお前と久之の、僕とお前の間にあるものとは質が違う、……といって、物の大きさや貴さを比べようというのではない。丁度ちんちんが一人に一本ずつあって大きさで価値が決まるものでもないように。まあ僕の方が円駆よりも大きいが」

「さらっと嘘つくな! っつーか何の話だよ!」

「一々でかい声を出すな。……僕はこう考えるのだ。円駆が空戦と交尾しない理由を探すのは難しい、と」

 久之も円駆もはっきりとした抵抗感をその表情に浮かべた。独善的、と捉えられることは承知している。そして節操のない考え方だ、とも。

 しかし、巳槌は自分の考えに自信があった。別に昼の愛情行為がおあずけになることが我慢ならないという訳ではない、決して。

「交尾、と言ったが、別にそこまでのことをしろという訳ではない。そうではなくて、円駆が空戦を大事に思う気持ちを、例えば僕が久之に口づけをするような形で表現することに、何ら問題は伴わないだろうということだ。……そもそもの話として空戦のちんちんにそういう機能が備わっているかどうかわからないし、それを確かめる必要はないと思う。ただ僕らがどういう形の思いをお互いに、そして久之に抱いているということを隠したままで、自分たちの得になるからという理由であの男を側に置く……、この状況に僕は潔くなさを感じる」

 舵禮から喧嘩を売られることもなくなる。長い平穏を手に入れる。

 自分たちが何を得るか。それに対して、空戦が何を得るか。今のところはまだ、浴衣と布団、食事と風呂。

 それでいいのか。空戦は曲がりなりにも自分が一番年下という自覚でいる様子であり、これまでのところ贅沢は何も言わない。円駆のみならず巳槌の言うことも素直に聞く。ただ欲を表明しないことが欲の不在を証明する訳ではあるまい。

 今朝あの通り布団に這入って身を重ねることに躊躇いがなかったことから察するに、久之のことも好きだろう。それを表現する方法を、巳槌や円駆と同じように空戦が幸せに感じないことは考えづらい。

「……どうしてテメェっていう生き物は、いつもそうなんだろうな」

 円駆が吐き捨てるように言った。

「そう、とは?」

「そのまんまだ。水は低いところ低いところ選んで流れる。どんどん低俗な方へ……」

 傷つきはしない。ただ「ふん」と鼻を鳴らし、久之の手を両手で取る。

「僕という生き物が斯く在ることで幸せを生み出せることを知っていてそんなことを問うのか?」

「俺は空戦に、……テメェが俺や久之にするようなことはしねえぞ、絶対に」

「そうだろうな、お前にそんな度胸があるとは思っていない」

 円駆は巳槌が何を言っているのか判らないような表情を浮かべる。「無論、久之だってそうだ。いや、もっとそうだ」この優しい男がそんなこと出来るはずもない。

「……僕が泥をかぶってやろうと言っているんだ。もっとも『泥』と言っても、ずいぶん甘美なものかも知れないが」

「え」

 久之がびっくりする。巳槌はあくまで無表情のまま、淡々とした面持ちを変えない。まずはっきりさせておかなければならないのは、巳槌自身空戦に向かう欲は今のところ持ち合わせてはいないということ。そして今にしろ真面目そのもので物を言っているのだということ。

 この表情の乏しさは生まれつきだということ。

 いや、何よりもまず、……僕はお前たちの幸せを願っているのだ、お前たちがより楽しく穏やかに日々を過ごせるように……、そんなもん自分で言うんじゃねえやと円駆に言われるのは明白だが、しかし事実である。

 いずれ、巳槌が幸福をもたらす対象に空戦も含まれるようになるだろう。あののんびりやの蝙蝠は、とりあえず「いい子」である。久之のことを好きでいて、自分や円駆に迷惑をかけない以上、巳槌としても彼を最大限尊重してやることには積極性を発揮する。

「お前たちが空戦のことを心配していることは判っている。……どうやら信用がないようだからきちんと言葉にしておくが、とりあえず今夜いきなりあいつを裸にひん剥いて射精の能力があるか判らないちんちんの上に跨って腰を振るようなことはしないから安心するがいいよ」

 ……其処まで言わなくては判ってもらえないという事実は、巳槌自身少々情けなくも思えるのだが。

 とはいえ、僕は幸せを招く。僕の存在そのものが、満ちる悦びの兆し、何故って僕は、白い蛇だからだ。

「今夜、あいつが出掛けるときに時間を貰おう。その間久之はたっぷり円駆を可愛がって布団を温めておくがいいよ」

 円駆が怒声を上げる前に「昼飯にしよう」と言い放って話題を終える。巳槌には一つの考えがあった。清いかどうかは判らない。ただ結果的には今より全員が幸せになれるはずの考えである。

 

 

 

 

「……俺をあいつと一緒にすんなよ。俺はあんなやつとは違うんだからな、おい、聴いてんのか久之」

「うん……」

 久之を困らせることに関しては、円駆も巳槌には負けていない。そんなことないだろう俺はあいつよりももっと久之に迷惑かけないで生きてるぞ、この麒麟はそう胸を張って見せるが、その割りにどちらといても久之の表情に大差がないのはなぜか。

 昼飯の後、巳槌が「昼寝をする」と言った。何処でと問えば「小屋で」と指差す。

「……別に空戦の寝込みを襲おうなどとは思っていないよ。ただ夜に起きているために少しの間寝ていようと思っているだけだ」

 円駆も久之も猜疑心を塞ぎ込むことは難しかったが、久之に促される形で円駆も小屋を出て戸を閉めた。しばらく戸に耳を当てて中を伺っていたが、物音一つしない。空戦の寝息も整ったままだった。

 そんな次第で、円駆は久之と共に里に降り、久之の仕事に付き合ってから山に戻って、今度は麒麟の姿で久之を背に乗せかつての塒までやって来て今に至る。麒麟態になるということはすなわち浴衣を脱ぐということであり、久之にとってはただの少年ではなくなるということだ。

 いや、久之はこう思っている。「浴衣を着ていたって、ただの子供だと思ったことは一度もない」と。

 とにかく、結局は巳槌が言っていた通りの状況となった。塒にかつての空戦の同胞である蝙蝠たちが眠っているのは判っていたから、すぐそばの寒林の中。久之の胡座の中に向かい合わせで収まる円駆は、六尺もまだ締めていないのに寒さを感じない。久之はそれほどに温かい。

 しようぜ、と自分から言い出すことはしない。そのくせ甘えたい欲は巳槌同様持っている。何せ円駆にとってももちろん久之は、生まれて初めて出会った、自分を抱き締める腕を持った存在なのだ。こうして引っ付いているだけでも幸せなのに、この先にあるものを円駆は知っている。……全く、と円駆は苦々しいふりをして思うのだ、……この俺はそんなにたやすい生き物だったか。

 しかし、嬉しい。久之の頬を捉えて唇を重ねる。こんなこと、こんだけのことが、どうしてこんなに嬉しいんだ……。

「……どうせ……、する気もねえんだろ」

 なのに素直さのかけらもないようなことを、唇が離れるなり円駆は言う。

「あいつと散々やった後だ。でもってどうせ、今夜もするんだ、……俺は、こんだけでいい」

 そんなことを。……これは強がりでも何でもないという自覚で言うのだが。

「だから」

 とっとと帰るぞ、帰ってから何をする予定もないのにそう言いかけた身体が、また強く抱き締められた。唇が奪われると同時に、薄く開けられた円駆の口の中へ久之の舌が這入る。

 不意を衝かれたことは認めたくはないが、目を丸くして円駆は自分の腹部に当てられる久之の掌を感じる。

「……ごめん……、嫌だった……?」

申し訳なさそうに言った男の顔は、本当に優しいばかり、不器用そのもの。既に小便をするためだけの場所ではないと知って久しい場所を包まれて、円駆は当人鏡に映して見れば真っ赤になるような清らかな顔で、久之を見つめるばかりだ。

「……べ、別に、嫌じゃねえよ、ちょっとびっくりしただけだ! だ、だいたいっ、俺は嫌だったらこんなことさせねえし、お前の……、したいようにすりゃいいじゃねえか」

 体温さえ伝わるほどの距離、目の前の男の考えることがじわじわと伝わってくる。目を背けようもない。

「うん……、わかった……。じゃあ、その……、俺の、あの、したいように、するよ……」

 久之は判っている、憎たらしいことに、円駆自身も意識していなかったほどの欲を手に取るように。それでいて、円駆に言葉を探させるための手間を省いて自ら泥をかぶるつもりでいる。それがこの男自身、自分に発揮できる「優しさ」であると思い込んで。

「俺は、あの……、俺はさ、円駆が好き、だから……」

 巳槌が言ったから、ではないと信じたい。少なくとも円駆が覗き見ることができる範囲には、久之の中に巳槌の言葉はさほど重たくないようだ。……彼自身、夕べは二人、午前には巳槌と愛し合って、それほど性欲の高まる因子を持ち合わせているはずもない、理屈は円駆にも判然としない。

 それでも、「好き」という言葉は円駆だって好きだから、彼の着物上に横たえられたときに抗うための力は一切湧いては来ないのだった。

 無防備な心と身体である。こんな俺がいることを長い生の時間で考えたことなど一度もなかった。気高い神獣としての自分以外、存在するなどと。

 しかし、

「って……、何で、してえ、ン、だよっ……」

「恋神」がいる。一人ならず二人。久之と巳槌。同じ雄の身体をしていて、愛し合いの行為には少なからずの無理が伴う。それでも、それでも、それでも、どうしてこんなに嬉しい。責めるために掴んだ久之の、よれよれの下着の内側で確かに熱が息衝いていることに、抗いの手立ての一切ない喜びが湧いてきてしまう。

 同じ反応をしている身体を持て余してしまう。

「……その……、判らない。けど、……お前の、裸は綺麗だし、……でも俺だって、判らない。巳槌にさっき、その……、『夜まで出来ない』って言われて、……それが、俺も、少し、我慢するのが難しいように、思えたのかも……、しれない」

 それが本音であることは判った。もちろんこの男が自分を求めてくれることが嬉しいのも事実である。

「馬鹿……、馬鹿じゃねえのか、しょんべん我慢できねーガキじゃあるまいし……っ」

 毒づきながらも唇が重なったときには久之のために自分のために唇の鍵を開け、舌を絡ませるときには微かな鼻声を溢れさせる。久之はこんなに素直なのに。何処と無く、巳槌のように開けっぴろげにすることが沽券に関わるように思えてならない円駆である。

本当は、そんなはずもない。ただ素直に何もかも表現出来れば、それに越したことはない……。

「……好きだから、だと思う。巳槌にさっき、求められて、……空戦が起きたら、どうしようって、困ったけど、でも、やっぱり嬉しかったから。好きな相手に、あんな風に求められたら、嬉しいって、判るから」

 久之は紅い顔、いつものように言葉を必死に探して、それでもはぐれそうになりながら、紡ぐ。

「俺は……、お前がどう、考えてるか、判らない、けど俺は……、あの、円駆は、可愛い、すごく可愛い子って、思ってる。だから、そんな子と、こういうこと、出来るのが、幸せでないはずがない……」

 判った、判った、判っている。言葉の洪水はどうしてこんなに拙いのにこれほど破壊力を持つのか。麒麟の名が聞いて呆れる。

「円駆……?」

「……っせえよ……、馬鹿……!」

 口付けと言葉だけだ。なのに鋭く反応する身体を、久之が笑わないだろうということを、円駆は知っていた。自分と久之の発するあらゆる反応が見事なまでに二つ重なっていることを意識したときにはもう、愛しさが溢れそうになっている。

 久之の唇が耳に首に肩に胸に、順に降り、一つひとつの接触で円駆を熱する。腹を吸われたときにはもう、烈しい性の欲の昂りは久之の手の中にあった。不器用なくせに優しさだけは並の人間にも神獣にもとても敵わない指が、幼い輪郭の性器を護る包皮を剥き下ろしたときにはもう、其処が濡れていることまで久之に見られてしまう。最後に風呂に入ったのは朝だ。

「あ……ぅあ……!」

 不味いはずだ、小便臭くって。

 同じことを巳槌に思いはしない、「くせえ」と文句を言って、だからどうしたと言われて……、それだけの遣り取りである。

 だからまあ、……それはいいとしてもだ。「可愛い」という思いが次から次へと押し寄せることには、本当に困らされる。久之の悪気のなさと円駆自身の意地の強さは真っ向からぶつかる。あくまで歳上だからその言葉を受け止めてやるのであって、……別に嬉しいなどとは思わない、断じて、断じて。

「んなのっ、んなんっ、いいっいいからっ……!」

 粘膜が弱いことは、同じ特徴の場所を持つ以上、巳槌と円駆の共通項である。それなのに「お前は本当にちんちんの先が弱いな、偉そうにしているくせに」などと巳槌が言ったから、どちらがより我慢強いか勝負を試みたことがある、皮を剥き下ろした状態で、重ねて擦り合わせて。

 二人揃って相手の小便を身体に浴びることとなったのは、久之には内緒のことだ。

とにかく、その場所は弱い。軽く舐められているだけなのに、背骨が溶けそうになる。

「……見たいのは……、駄目、だろうか……」

「見たいって……っ、なにをっ……」

「いや、……その」

 久之はとてもこんな行為に似つかわしいとは言えない表情を浮かべて、「円駆が……、俺で……、その、俺が円駆を、ちゃんと、幸せにして、あげられてる、……だからつまり、お前が、出すところ、を」

 何言ってやがる。

「んなもんっ、いっつも見てんじゃねえかよ……!」

 久之は、小さく苦笑を浮かべる。

「……俺は、お前たちほど、眼がよくないから……。暗いところだと、どうしてもその、あんまり……」

 陽射は春のそれ。青い空の下で円駆は感じ切った裸を久之の目に晒している。

「……暗いとこで本なんか読んでやがるからだろ……」

 人の趣味にけちを付けつつも、一定の納得には至ってしまう。……角灯の乏しい光しかない部屋でのみ愛し合うこのところにあって、こうして白日のもとに晒される自分の裸に対して久之が特別な欲を抱くことに対して。

「だいたい……、だいたい、俺の、そんなの見たって……」

 巳槌の方が「可愛い」だろうがよ。

「……お前のを、その……、お前の、幸せになるところを、見たいって思うのは、いけないか?」

 少なくとも「今」は、久之を否定出来ない。そもそもの話として身体がもう抗いの術を失っている。

「……勝手に……、しろよ……! お前のっ、好きにすりゃいいだろ変態!」

 愛想のかけらもなく、思いっきり憎たらしい顔で言葉をぶつけてやったつもりなのに、久之は笑顔になって頷いた。無精髭の生えたみすぼらしい男の微笑みが嬉しいなどと。思考の矢印の歪みを以って「変態」と称するのならば、俺だって変わんねえじゃねーか、……俺だけじゃねえ、巳槌だって……、あいつの方が……。

「ひあっ……」

 久之の口の中へ収められ、舌が絡みつく。言葉を発するのは苦手なくせに、こんなことばかり、やたら器用なのは本当に憎たらしい。

 巳槌のせいだ。円駆の困惑事項の大半は、だいたい、巳槌のせいにしておけばいい。巳槌自身は素知らぬ顔をして受け流せばいいのだし、円駆もそれで気が済むのだから。

久之がこんな風に変態なのも、

「ぃ……くっ……、久之、久之っ……!」

「恋神」の名前を繰り返し呼びながら射精するような、いきものになってしまったことも、全部巳槌のせいだ。本当に腹を下せばいい漆にかぶれればいい。

 ずるずると座りこんだ身体を、それでもまだ、どこか危なっかしいような腕で抱き締める久之のことは嫌いになれない。どころか、益々好きになる。「この、変態……」と憎まれ口を叩いても、抱き締める腕に返答してしまうのだから甲斐もない。久之が広げて敷いた外套の上に横たえられ、彼の愛した証を胸に腹に受ける度、心も身体も素直すぎるほどに震えてしまう。

 ここで最後までする気なのか、こいつは。

 それが無意味な問いになることは瞭然としていたから、口に載せる前に飲み込んだ。円駆だって、身体を洗うための清らかな水がすぐそこを流れていることは認識している。

ここで最後までする気なのは、俺も同じだ。

「んなとこ、っ、何度も、舐めんな馬鹿……!」

火を司る神獣のくせに、火に巻かれたかのごときありさま。乳首を舐められて声を震わせるなんて、雌のいきもののような反応を堪えきれずに催して、一方で久之に包まれた下半身では赤熱を持て余して。……どれほど器用な身体だろう。

「円駆は……、これを、されるの、嫌いか……?」

 舌が転がす粒状の突起、円駆自身も何のためにあるのか判らない場所に意味を与えながら久之は訊く。

「……巳槌が、……ここ、を、されるのが、すごく好きって、言っていたから、……お前も、……お前のことを、俺が幸せにしたいって思ったときに、少しでも、……してあげられたらいいって思う、から……」

「何でもかんでも訊くなっ……、訊きゃ答えると思ったら大間違いだ!」

 乳首が何のためにあるのか判らないし、その言葉だって何の意味があるのか判らない。ただ久之の掌の中で欲をのたうたせる以上は、判らなくとも意味が存在することは円駆だって認めなければならない。

「俺は……、お前たちが、本当に、可愛い」

 久之は愛した証を円駆の首筋に刻みながら言う。

「多分、……円駆も、巳槌や、空戦が、可愛く見える……」

 色々な意味で聞き捨てならない言葉だが、そういう類の反応は出来なかった。

「巳槌が、何をしようとしてるのか、俺には判らない……、判らないし、きっと、……判ろうとすることが、……それじたいが、間違ってることだと思う……、から、だから、それでいいんだと、思うんだ」

 いつものように、たどたどしい言葉である。しかし円駆がそれを塞ぐことが出来ないのは、久之の唇が舌がほんのわずかでも肌に触れるだけで、抗うことを考えられなくなってしまうから。

 腰を高く抱えられ、足を大きく広げられ……、自ら望んでは絶対することのないような体勢、久之に覗かれている自分の下半身を見上げつつ、その場所にまで舌を這わせる合間合間に久之は言う。

「俺は……、動機、というか、理由は、判らない、けど、巳槌を信用していい……、と思う。あの子は、……円駆もいつも言ってるように、……その、人を困らせるぐらいに淫らなところが、あるけど……、でもね、でも、優しい子だから。空戦のことを悲しませたり……、その結果として、お前に辛い思いをさせることなんて、望んではいない……、はずだから」

 ずるいやり方だ。何処の誰がそういう方法を教えたのか。もちろん巳槌に決まっているのだ。

 久之の言う通り、巳槌のことを信用するしかないというのは確かだ。今更「余計なことはするな」と言ったところであの蛇は耳を貸さないだろう。だから、信用出来ないままでいたとしても願って待つしかない。

 ただ、「違うぞ」とは、言いたい。俺は、……そうだ、確かに空戦のことを可愛いとは思っている。あいつの幸せを願い、それが叶うことがそのまま円駆自身の幸福と繋がっていた時間が、確かにあったのだ……。

「色々な……、考え方がある、と思う。巳槌が何を考えているか、俺には、判らない、から。でも……、でもね、あの子が何をしたとしても、何とか、俺は……、うん、否定出来るような立場じゃない、けど、それを、差し引いても、認めるつもりでいるよ……」

 久之の舌先と指は、ごく順調に円駆を拓いていた。腰が下ろされたとき、……本当だったら一発ぐらい蹴ってやらなければ収まらないのだが、それももう忘れている。

「お前の、顔を、見ながら……」

 久之は言った。

「こんな、こと、するとき……、お前が、お前の思ってる何倍もきれいな顔をしていて、俺の目に、本当に可愛く映るっていうことを、お前に、どうしたら伝えられるだろう……」

 光の下で久之の膝の上で、ただしがみ付きながら、円駆は久之の声を聴いた。

とうの昔に伝わっている、だからこそ手に負えないほどのいとおしさを、俺はお前に抱いてしまう。強く凛々しい雄々しい神獣だったはずなのに、こんな風に、……身体を牝扱いされて、淫らな喜悦の声を漏らして、涙を零して甘えて抱きつくような身体に俺をしたのは、お前だ。

 円駆が少し惑うのは、……空戦のこと、こいつはどうするんだろう……、そう考えた選択肢の中に、彼が空戦のこともまた、自分のように扱うことになったとしたら、はたして自分がどのような気持ちになるのか全く判らないということについて。

 かつて巳槌と久之と対立していたときの円駆の胸中に、巳槌と結ばれた久之を憎らしく思う気持ちがあったことは認めざるを得ない。円駆はそれだけ巳槌が好きだったから、のこのこ山に入って来た久之が、彼にあっけなく靡いた巳槌ともども憎らしかった。

 空戦は?

 ……好きか嫌いかの二極論なら、それはもちろん、好きなのだけど。

 永く生き、この山のいきものの概ね誰からも信頼される麒麟にも、判らないことはある。特に久之とこういう仲になってからは随分増えた。このところとりわけよく判らないのは、

「ん、っあ……! あっ、やっ、やだっ、出るッ、せーしっ、せぇし出る、ちんちんっいくっ……いくッ……!」

 舐められて、なら判る、触れられて、扱かれて、ならば。

久之に抱かれるとき、このところしばしば触られてもいないのに達してしまうという現象が起こるようになっている。この理屈が判らない。まさか本当に牝になりつつあるんではないのか。

 恥を忍んで巳槌に訊いたら、あの蛇は珍しくはっきりと気分を害したことをその目と頬で表現して、

「糞麒麟め、幸せ自慢か」

 ひどく辛辣な言葉で罵られた上に、「何なら僕で再現して見せるがいいよ」と俄かに笑われ、その後のことはあまり思い出したくない。久之と交われば誰だってそうなるのだということを教えてはくれたのだが、得た情報の量を考えれば、随分高い買い物をさせられた気がしている。


back