DEEP SKY

 巳槌が不穏な考えを抱いている。

 これでも自意識としては聡明なつもりの円駆はいち早くそれに気付いた。基本的且つ一貫した姿勢として、巳槌の考えはどれもこれも無茶なものであるという判断を円駆は下す。山の秩序を護る立場としての物の考え方が身に染み付いて久しいから、保守的と言われようと、まずは現状維持こそ第一選択となる。

 そもそも当時人間である久之を山に入れることにだって強く反対していた円駆である。だからこそ、空戦という危険な力を持つ男を味方に付けることさえ選んだのだ。

 もっともその騒乱にあって、空戦は何の役にも立たなかった。ただずっと眠っているだけだったのだから。彼に協力を依頼した円駆でさえ、その存在を忘却の彼方に追いやってしまうほど存在感を発揮することなく、無害なる者として空戦は居眠りを続けていた。

 ……山に、もう何度目だか数えるのも馬鹿らしくなるほどの雪が降ったその日、いつもの見回りを済ませて帰って来た円駆はいつも通り夜が近付く時間になって久之に風呂をねだる巳槌にけしかけられて薪に火を点け、寒い寒いと震えながら自分の灯した火に掌を翳しているところ、

「なあ」

「ギャアつめたい!」

「考えが纏ったぞ。やはり僕は空戦とも仲良くするべきだろうという結論に至った」

 変温動物の氷のような手を背中に当てられて、危うく頭から火の中に突っ込みそうになった。

「死ね! お前はもう、死ね!」

 涙目で最上級の罵声を浴びせても巳槌は素知らぬ顔で、「寒いな」と白い手を火にかざし、

「あまり騒ぐんじゃない。こんな話、久之に聴かせたくはない」

 と声の音量を落として言う。

 見慣れた、無愛想で無表情で透明で、そのくせ何を考えているのか判らないような横顔である。僅かに色付いた唇から薄く白い息を吐き出すさまを見ていれば、それでも今の巳槌は一応、真面目に話をするつもりなのだということぐらいまでは察せる。

「僕はな、円駆。時々自分が判らなくなるときがある」

 お前のことなんて一瞬たりとも判ったことなんてねえし、判りたいとも思わんな。円駆はそういうことは言わないで黙っていた。

「久之にとって僕とは何なのだろう、僕にとって久之とは何なのだろうと思うのだ」

 唇から零れる白い息は規則正しく一定量ごとに繰り返される。ただ、どんなに酷い悪口を言うときでもこの男の呼吸は乱れないのが常だ。

 だからこそ何を考えているか判らないのだ。

「人間には『恋人』という言葉がある。しかし僕も、そして今はもう久之も『人』ではないからな。『恋神』とでも呼ぶべきなのだろうか。語呂が悪いな」

「何を言ってんだ」

「僕はお前のことをずっと『友達』だと思っていた」

 無表情のまま、その色素の薄い顔を火に向けている。深い水の色の瞳に、焔を映じて紅く揺れている。

「だけど、今もお前が『友達』なのかと言われると、それはどうも違うような気がする。……覚えているよな、僕がお前を久之の元へ招くためにどうしたか」

 円駆は渋々ながら頷く。

 巳槌はそうするために、円駆を犯したのだ。円駆が泣こうが喚こうが、持ち前の応龍の力で以って蹂躙した。

 苦い記憶である。この身をあのように扱われることを、この気位の高い麒麟がすんなり納得出来たはずもない。

 然るに、現在となっては久之に同じやり方でされることを「愛されている」と自ら翻訳する円駆である。あれが悦びを産む行為であることについても一応以上の納得をしている。三日も間を置かれると何だか寂しくなって、この際巳槌が相手でもいいかなどと消極的にではあれ、思い始めてしまう。

「……まさかお前空戦とそういう」

 素ッ気無い顔で、

「うん、そう考えている」

 巳槌は認めた。

「お前と僕は『友達』だった。だけどあの行為を介して、いつからかもう、『友達』ではなくなった。もっとずっといいものになったと思っている。……だから僕はお前が久之と同じくらい大好きだよ」

 円駆は慌てて同輩から目を反らす。火に視線を当てて、巳槌の顔を見ないようにした。笑いでもされていては、この蛇神はますます厄介な存在となる。だって「恋神」という語呂の悪い相手でさえあるのだ。

「……俺たちが、特殊な例だとは思わねえのか、お前は。たまたま上手く行ってるだけだ」

 そもそもあの行為はもっと特別なものではないのか。

 そんな円駆の物思いにまるで目を向けず、

「お前は空戦のこと、嫌いか」

 筋の通らないことを平気で訊く。こういう巳槌に一々律儀に応えてしまうのが、この円駆という神の不器用な所である。

「……嫌いじゃねーけど、それ以上のことなんて考えたことねえや」

「じゃあ、僕のことは好きなのだな。僕と出来ることを空戦と出来ないと言うのなら……」

 頷くことなど出来るか、この状況で。

「っつーかお前は、ついこの間言ってたじゃねえか! あの人間の女のガキが……」

 学校の教諭と駐在に性的虐待を受けているという事実を悟ったとき、巳槌はこう言ったのだ。「好まざる相手との行為がどれほど苦痛か」と。

「空戦だけじゃねえ、久之にとってどうなんだよ。久之は空戦とまだ何度かしか会ってねえ!」

 巳槌は思い出したように「……ああそうか」とぽつり呟く。

「久之の気持ちを訊いてみないことには、それは確かめようがないな」

「それに、……空戦はまだ子供だ」

 同じく子供の容をした円駆がそれを言う滑稽さを、少なくとも彼自身は思わない。当人ははっきり大人の自覚で居る。事実として、円駆と巳槌はこの山の神たちの中でもとりわけ古株である。正確を期すならば、円駆の方が少しばかり年上で、だから人間態をとるときにも円駆の方が一回り身体が大きい。巳槌はほんの少し小さく、そして空戦はより小さい。

「あいつには、まだ早い」

 のみならずの問題は幾らだって伴おう。

「そうか……、そう言われればお前の方が正しい気もする。僕は空戦の所へ行って、手ッ取り早く僕の手で悦びを教えてやれば、そしてお前や久之は僕以上に『お前に幸せを与えてやれるぞ』と告げてやれば、あいつはあっさりこちらへ靡くものだと思ったのだけどな」

 やはりそういうことを考えていた。安直で、短絡的で、いっそ不潔と言っていいような考え方である。加えて言うならば幼い考え方である。

 頭がいいくせに、どうしてそういうことを考えるためにその脳味噌を稼動させるのか。

「でも、空戦が自由に飛びまわっているのは僕にとってもあまり心地のいいものではない」

 大鍋に湯気が揺れ始めた。立ち上がって背伸びをして鍋の中に手を入れ、どうやらもういい塩梅なのだろう。

「確かに、空戦は僕の『恋神』ではない。久之にとっても違う。お前や久之と、空戦は違う。……しかしな、争うぐらいならば形はどうあれ仲良しでいる方がいいとはお前も思うだろう」

 それについてのみ、円駆は頷く。ただそれは巳槌の考えの上澄みに過ぎず、根底にあるものはとても不味くて飲めたものではない。

「久之を呼んで来る。三人で温まろう」

 浴衣を引っ掛けて自分で付けた雪の中の足跡をなぞって小屋へ向かう朋輩の細い背中を眺めながら、円駆は複雑な気持ちを抱かざるを得ない。

 巳槌が言わなかった、けれどきっと抱いているはずの思いを覗く。それが自分に出来ることかは判らないなりに。

「恋神」

 などという語呂の悪い言葉を思いついたように口にしていたが、巳槌がその単語をことのほか大切に思っているらしいことは判った。

 久之と巳槌は結ばれていた一組の。

 其処へ、俺もやって来た。巳槌に、そして多分久之に望まれる形で。

 そのことを、巳槌は何とも思わなかったのか。疑問が浮上する。既得権益の重大損失、単純計算で久之から享ける悦びは半減するはずだ。

 然るに巳槌は何とも思っていないような顔で居る。どころか円駆の身体を玩ぶときにだって楽しげだし、或いは円駆が久之によって玩ばれるとき、彼は自分の唯一無二の『恋神』であるはずの久之を上機嫌に眺めている。

 あれを、心の広さと表現することは間違っている気がする。何だか無関心に無節操に、歪な形に世界を広げているだけのようにさえ思える。

 一方で円駆は空戦が小屋にやってくることに抵抗を抱く。理由はごく簡単で、既得権益を損ねることになる、と思うからだ。

 心の狭さと断じられることには抗いたい。本来、そういうものだろう。……然るに、ならば、なぜ俺は久之と一緒に居られるのだ。巳槌と一緒に居られるのだ。

「あんな人間のどこがいいんだ」

 とは、かつて山に這入り込んだ久之を匿おうとした巳槌に向けて円駆自身が放った言葉である。

 言葉の裏側に在ったのは、「俺が居るだろう」という切ない思い。

 敵対することを選んだ心を今なら説明出来る。ごく単純で、稚拙な、……嫉妬だ。人間の子供のように狭い心に基づく、情けなくも強い思いだ。

 いまや円駆は巳槌のみならず久之からも愛される。この日々が幸福に満ち溢れていることを、素直ではないにせよ認めるつもりでいる。そうして心はますます狭くなる。

 久之の右側、その向こう側に巳槌、三人で這入れば狭いほどの布団を分け合って暮らす安らかな眠りの時間を、少しだって削りたくはない。

 しかし、巳槌はそうは考えないのか。

 ……判れるはずもない、という結論を出すのは尚早か。ただ幾百年の時間、「判らない」ままで過ごしてきたのだ。この期に及んでどうすれば、あの不可思議な水蛇の神のことを自分が判れるというのだろう。それは全く覚束ないのだ。

 巳槌が久之を引っ張って戻ってきた。

 冬至を過ぎて、日は少しずつでも夜を短くする。人間たちが区切った一つひとつの時節よりも具に円駆は其れを感じる。

 まだ人間の抜け切らない久之が人間の習慣に基づいて、例えば雑煮や薬草を刻んだ粥を拵えてくれることには億劫さを感じない。ただ物珍しさだけでそれが続いている。次は何になるだろう。

 例えば春の神が目覚めを告げる日に、空戦はどこに居るだろう。

 俺はどこに居るだろう。

 風呂から上がり、夕飯を終える頃にはすっかり日は暮れ落ち、雪に閉ざされた山は音をなくした。基本として太陽の巡りに倣った生活時間の三人にとって起きて過ごす夜の時間は少ししかない。もう巳槌は布団に潜り込んだ。久之は角灯の乏しい光に頼りながら本を読み、時折火鉢に手をかざす。

 円駆は部屋の隅の暗がりで黙って自分の酒を手酌で飲んでいる。寒いから布団に這入ったっていいのだが、巳槌と二人でくっつき合うのは何だか居心地が悪いし、久之が眠るときに邪魔になってしまう。久之がそういう円駆のことを判って早く本を切り上げてしまおうという気持ちを先回りして「いいよ、ゆっくり読んでろよ」と言ったから、久之はますます困っている様子だ。

「円駆」

 布団から顔だけ出した巳槌が呼んだ。

「一人では寒い。お前も一緒に収まれ。どうせ久之ももう読み終える」

 足の指先の冷たさが痛みになりつつあった頃合だ。円駆は頷いて、しかしすぐには潜り込まず、空気そのものが凍りついたかのような表に出て、顔を顰めながら雪を踏み分けて便所の囲いまで行き、用を足す。六尺を腕に巻き付けて戻った時には、角灯は消え、巳槌の隣に久之が収まり、円駆のための空白を用意している。

 が、久之は円駆が戻るなり起き上がろうとする。

「いいよ」

 と巳槌が其れを止めた。締めてもらうつもりでいた右腕の六尺がぎこちなく揺れる。

「後は寝るだけだ。そのままでいいから入れ」

 どのみち、一人では締められないのだ。円駆は唇を尖らせて、ほんのりと温かい久之の身体に寄り添う。氷のような足の指先が久之のふくらはぎに触れたとき、彼がはっきり判るほど身体を強張らせたから「ごめん」と小さな声で謝った。

「久之。今日の夕方に風呂を沸かすとき、円駆と話したんだ」

 半身を起こして――そのせいで布団がめくれ上がる――巳槌は唐突に切り出した。

「寒い!」

「寒いよ……」

 円駆と久之が同時に咎めたから、巳槌はぱたんと枕に頭を起こし、もぞもぞと、久之に身体を絡めつける気配がある。

「空戦のことだ。あの男をどうするか……、このまま放って置いてもいいような気もする一方で、あいつが恐ろしいほどの力を秘めていることは久之、お前にも話したな」

 うん、と久之が顔を上に向けたまま応じる。まだ半分は人間の久之も、空戦が手に負えないほどの力を持ち、それゆえに巳槌も円駆も持て余し気味であることを察している。先日久之は空戦の力の片鱗を目の当たりにしたし、小屋に連れて寝かせているのを見た巳槌と円駆が表情を強張らせたことからも察しているだろう。

「あいつは、この山全体の秩序を乱しかねない。ただ眠っているだけならいいのだけどな。でも、あいつはもう、お前という半神半人がこの山に住んでいることを知っている。……あれから何度、あいつはここへ来た?」

 二回は、円駆も知っている。

「四回、かな……。二人が、留守にしているときにも、来ている」

「やはりな。あいつはまだ子供だから、珍しいものが好きだ。僕らがお前と交わって居なければ人間に近付こうとも思わなかっただろうが、お前が僕らに、つまり山の神に対して優しい男だということを知ったからお前に興味を持ったのだろう」

 ごそごそ、また何やら巳槌が蠢く。掛け布団がずれた、と思ったら、久之が少し苦しげに呻いた。久之の身体の上に乗ったのだ。

「……うん、あったかい」

 それでもまだ無表情でいるようだ。

「率直な気持ちとして、お前は空戦のこと、どう思う?」

 久之の顔を覗き込みながら言うのだろう、巳槌のささやきは久之と並んで仰向けの円駆の左耳にもよく届いた。

「どう、……どう?」

「あいつは危険な存在だ。しかしお前はあいつを友達と思えるだろうか。それを知りたい」

「……とも、だち?」

「そんなに訝ることもあるまいよ」

 無表情だからそういう言葉には軽蔑の響きさえ帯びる。当神はそんなつもりはないはずなのだが。

「実はな、久之。僕は円駆をこの部屋に引きずり込んだのと同じやり方を空戦にも試そうと思っていたんだ」

 数秒、その言葉の意味を吟味するように久之は黙った。

「駄目だよ」

 久之にしては珍しいくらい、はっきりとした意思表示だった。

「そんな、ことをしては、駄目だよ」

 右側にくっついている円駆としては、俺にはいいのに空戦には駄目なのかよと少々へその曲がるような気がする。

「円駆は、……その、お前の、ことが、好きだった。大切に思っていた、だから、……お前がああいう、ことをしたのは、決していいことじゃない、けれど、まだ許された……」

「別に俺は!」

 思わず布団を捲って飛び起きかけたが、踏み止まった。

「うん、円駆にも同じことを言われたよ。だから考え直すことにした。……僕自身、空戦のことを好きか嫌いかと問われても、正直よく判らない。あいつはまだ子供だから、ああいったことをしたってお前たちとするように楽しく感じられるかどうかはまったく覚束ないしな」

 自分の上と右に居る神なる身だって子供の形をしている。久之に理解が追い付くか円駆には疑問だったが、何となく、彼は承知したように頷いた。

「……本当は、俺が、お前たち二人と、……つまり……、実際の年齢は置いといて、子供の形をした相手と、こんな風に一緒に寝ることだって、問題が伴う……」

 だからこそ尾野辺を始めとする人里の大人たちは久之にいい目を向けない。ただそれについての議論は尽くされきった。先日の一件以降、彼女はこれまで同様月に一度はこの小屋にやって来るが、以前ほど鬱陶しいことは言わなくなった。それだけで十分な前進であると判断すべきなのだろう。

「しかし、あいつを野放しにしておくことには、僕も円駆も躊躇いを覚える」

「ちょっと……、待って」

 久之は巳槌に圧し掛かられることへの文句は言わない。巳槌に何をされても基本的に無限受容の体勢で居る。だから巳槌は何かにつけて調子に乗るのだ。要は久之という男は、とても甘いのだ。

「あの、……あの子は、具体的、に、どう、危険なんだ。……すごい力を、持っている……、それは判った。けど、……基本的には、……俺が見てる限りだと、……寝てるばっかりで……」

「あいつ自身がそんなに危ないって訳じゃねえよ」

 円駆は枕を左頬を当てて久之に言った。

「ただ、あいつは空を飛ぶ。この山で空を飛べる神は、そこのそいつを含めて数えるほどしかない」

「つまり、鳥を司る神と僕と、空戦。基本的にはこの三人だ。まあ、僕が一番強いわけだが」

「余計なこと言わなくてもいい。……そもそもこいつだって間近に空戦に吠えられたら無事じゃ居られない。……もちろん、それは俺も同じだ」

 久之は首だけ円駆に向けて、「でも……、そんな、乱暴なことをするようには、見えないけれど」と声を潜める。

「あいつ自身がそうすることを選ぶことは、僕もないとは思う。ただ、他者の意思が絡むとどうなるか。例えばそこのけだものがお前を匿おうとしたとき、……僕らがまだ敵対していたとき、刺客の一人が空戦だったかもしれないんだ。まあ、あの寝ぼすけは結局起きて来なかったがな。もし覚醒した空戦が相手だったら、応龍としての力を置き忘れていた僕がお前を護れていたかどうかは覚束ない」

 久之は口を噤んだ。

 他者の意思によって空戦が動く可能性がある、ということが一番の問題なのだということは理解したようだ。そしてこの山の中にはまだ、久之のような存在が根を張り生きることに対して好感を持たない排他的な神の群れが居るということを思い、俄かにその表情を曇らせる。

「僕は強い。そして円駆もまあ、強い。応龍と麒麟だからな、この山の空と水と大地を制して此処に居る。しかし飛翔可能な身体を持つあの子供が他者の意思に基づいてこちらを攻撃することになっては厄介だと、そういうことを僕らは悩んでいるんだ。……元々僕のことが嫌いな連中もいるし、円駆が此方に付いたことを変節と恨む者もいる、そもそも人間を嫌う者もまだ多い」

「そういう連中も、空戦が起きたことにはもう気付いてる。ひょっとしたらもう、空戦を自分の側に付かせようと働き掛けてるかも知れねえし」

「だから僕たちは空戦を此方に付けたいと思っている。空戦を巡って僕らと他の連中が睨み合っているなど、お前には耐えられまいよ」

 巳槌の言葉に、久之は素直に頷いた。優しい男、そして弱い男。争いごとが嫌いな久之が、自らの存在こそ争乱の核であると思うことには尋常ならざる痛みが伴うに決まっている。

「もっとも、そういう状況の中でお前が空戦とそれなりに仲良く出来ているというのは大きかろうな」

 巳槌はそう言って、よいしょ、と起き上がる。

「寒いっつってんだろこの馬鹿!」

「だらしないな。久之は寒いか?」

 遠慮勝ちに久之が頷くのが暗がりに見える。

「でももう少し我慢しろ」

「何勝手なこと抜かしてやがる!」

 身を重ねていた二人は温かいかもしれないが、円駆は布団の中で久之の着物の袖を掴んでいただけだ。

「すぐ温めてやるから文句を言うな。……うん、僕はやはり空戦を味方に付けたい。お前たちとの生活は安定しているものであってこそ幸せだ。常にどこかの誰かに嫌われていると思うのは、嫌われ者の蛇に生まれてきた僕としても嫌なものだからな。空戦を此方に招き入れて、消極的であろうと何だろうと、あいつが居る以上手を出しがたいという状況を作り出してしまうのが一番だ。そのための仕事は……」

「だから寒いっつってんだろ!」

「円駆、お前にしてもらおう」

 布団が、やっと掛けられた。のみならず、巳槌に圧し掛かられた。

「……アア?」

「僕よりお前の方が空戦とは親しい。何せ僕を追い出すための力を借りに行くほどだからな。僕が単独であの子供の所へ行くよりはお前に任せてしまうのが一番手っ取り早い。頼んだぞ」

 何を勝手に言い出すのだ。

 顔を引き攣らせて、暗がりに久之を見る。目を凝らすまでもなく、彼が憂鬱そうな顔をしているのは判った。

「お前が頑張って、どうにか空戦と話をつけて、僕らの『友達』にしてしまえ。空戦はお前の弟みたいなものだろう……さっきはいっそもう『恋神』にしてしまうことも考えたが」

「誰が弟だ!」

「こい……、がみ?」

「そう、僕らのように」

 久之はまだ神なる身としての自覚が希薄だ。だから巳槌の選んだ言葉を理解したかどうかは判然としない。

「ただ、円駆はそれには反対らしいからな。もとより僕がしゃしゃり出るよりは空戦の『友達』である円駆が動くべきだ。人の意見に異を唱えるということは代案があるということだろうしな」

 巳槌は間違いなく勝手なことを言っているのだが、代案も無しに不平ばかりを口にしていると言われれば、何だか自分までも勝手なことを並べたような気がしてくる。もちろん巳槌が、円駆がそういうことを思うということまで判って言っていることは間違いないのだが。

 そんな面倒なこと、俺は嫌だぞ。

 そう跳ね除けてやるためには、円駆にはもう少し強さが必要だ。少なくとも久之が悩む姿を見たくないなどと、人間めいたことを思ってしまう以上は、……腹立たしくも巳槌ほどは鋭く回らない頭を叱咤して、どうにかして策を練らなければならないのである。

「まあ、すぐにとは言わないさ。お前の考えるように、お前の時間の流れに任せてするがいいよ」

 巳槌は偉そうにそう言って、やっと布団を被った。ただ、

「おいこら! 重てえよ!」

 円駆の上に身を重ねる。

「久之より後に入ったのに、久之と同じぐらいあったかいな。やはりお前は焔の獣なのだ」

 その声に、くすくすと、笑みが混じったのを恐らく久之も耳にしただろう。たちまち彼の身体が緊張するのを円駆は左手の甲で感じる。

「退け! 寝んじゃねーのかよ!」

「寝るよ、……寝るともさ。夜は三人でくっつき合って寝るための時間だ。こうやって肌を重ねて温め合っていい夢を見るための時間だ」

 こんな状態でどうやっていい夢など見られるものか。

 しかし蛇の四肢は彼より一回り大きい円駆の身体を外側からきっちりと押さえ込み、ちょっとやそっとではびくともしない。

 真面目な話をしていたばかりである。一体どの辺りに、この淫らな蛇の心を盛らせる要素があったというのか、円駆には全く判らない。

 巳槌は、

「難しい話をするのは、僕だってあまり好きじゃないよ」

 円駆が密やかに抱えた疑問に応えるように囁いた。

「悩むのなんて大嫌いだ。本当はいつだってへらへら笑ってお前たちと裸で絡み合って居たい。ただ、生き物である以上そう自堕落にしても居られないからな。だから悩んで苦しんで、でもその合間には、お前たちからのご褒美が欲しいんだ」

 ご褒美も何も、解決の全てを円駆に丸投げしてしまっただけではないか。

 久之が戸惑いながらそう考えているのは伝わってくる。

「もちろん、僕の身体はそのままお前たちへのご褒美にもなる。そういう訳なので、円駆、とりあえずお前を頂こう。久之も僕らが睦み合っているところをこんなに側に見ていれば、お前の身体から漂ういやらしい匂いにあてられて同じように求めてくれるはずだから」

 反論の余地はあった。

 それを巳槌の唇で塞がれなければ。

「んん……、美味しいな。酒の味だ」

 円駆に比べれば遥かに冷たく、何より柔らかい舌は円駆の口中を存分に這い回る。どんなに憎たらしく思えても大切な相手であり、そういう男の舌を噛もうとは思いつけない。円駆は要するに、巳槌よりもとても優しい。上顎を舌先に擽られ、目の奥がむず痒く感じられるようになってはもういけない。

「んむぅ……ッ、ン……んはっ……」

 気付けば浴衣は見事に肌蹴られ、布団を被っていなくとも寒さを感じない。

 どうして俺の身体はこういう造りになっているのだろうと嘆きたくもなる。もっと大人びた身体だったなら、これぐらいの誘惑なら撥ね退けられるはずだ。反応の一つひとつ、実際の現象として起きてしまう前から芽を摘んで行くことだって出来るはずなのに。

 この形の身体のままこの先も何百年という時を過ごしていかなければならないことは、いっそ悲劇だ。……だが、巳槌がそういう身体の形をしていることに関してはその限りではない、きっと、久之にとっても。

 自分の好きな男たちのことを罵らなければならない理由なんて、きっと何処にもない。彼らが彼らのまま居てくれることに責任を擦り付けて、ちゃっかりと幸せに触れてしまう自分の在り様の方が余ッ程鼻持ちならないものかも知れないとさえ思う。しかし恥ずかしいものは恥ずかしい、そういう風に出来ている。

「隠すなよ。お前の可愛いところ全部見せろ。そうしたら僕も僕の可愛いかどうか判らないがお前が可愛いと思ってしまうようなところを見せてやる」

 隠すための腕も拘束され、真ッ赤に染まった顔は暗がりでも明らかだろうか。

「なあ久之」

「……なに?」

「僕はいつも不思議なんだ。こいつにしろ僕にしろお前にしろ、身体の匂いというのは概ね普遍的なものだ。まあ、夏に風呂に入る前など少々臭かったりもするがそれは致し方ない話だが。……それなのにどうしてか、こうやってちんちんが大きくなってぴくぴくしてるときは、この何の変哲もない男の身体がとてもいやらしい匂いを発する。それはどうしてだろう?」

 自分では意識しないものを分析されるのは嫌なものだ。だから、

「……わからない」

 久之がそう総括してくれたことは、円駆にはありがたかった。巳槌の性格の悪さについては何百年と思い知らされることになっている円駆のみならず、もう何年も一緒に過ごしている久之にも周知のことだろうから。

 かといって、巳槌が決して嫌な男だとは思っていない。それどころか「優しく聡明な」などと評してやることに、そうためらいが在るわけでもない。そんな事実が寧ろ、円駆にとってはことさら厄介に思えるのではあるが。

「俺は……」

 ただ確かなのは、巳槌の笑顔に釣り込まれるように久之もまたこの夜の時間の一画を、巳槌の思うような形で過ごすことに賛同するのだということ。

「……その、……お前たちの身体の、……身体からさせている匂い、を、臭いと思ったことは、これまでのところはないし……」

「おや。でも僕だってしょっちゅう臭くなっているはずだぞ。基本的には屋外で風呂にも入らず生きていたからな。その癖が抜けなくて平気で土の上で転がるし」

「一時的な、ことだろう……」

 巳槌に両手首を掴まれても、せめて胴を捻ることで抗いを示す円駆の腹部に、久之の掌が乗せられた。

「俺は……、一人だったから、……一人が楽で、だから、一人で生きてきたから」

 たいして力もない、ただそっと乗せられただけの掌は温かい。そしてそれは全く性的なものでもない。少しかさつく指がくすぐったくもある。

 温かいことだけは確かだ。円駆の、もう冷めようのない身体に、それでも風邪をひかせるものかという決意が篭もっているかのように、確固たる熱を帯びて在る。

「その、つまり……、寝るのだって、独りで、何も足りないことはないって。……だけど、お前たちが一緒に寝て、……こんな言い方は、誤解、をされるかも知れないけど、……一人の方が楽かも、しれない。でも、それでも、こんな俺が、……お前たちと一緒に寝ることを、選ぶなら、……それは本当に、そうしたいって思うから、そうするんだと思う、……お前たちの匂い、好きだから、そうするんだと思う」

 いつもの通り不器用な言葉ではあるが。

「僕らにしたってそれは同じだ。元々一人で何の不足も感じたことはない。ただ一人で居るよりお前を挟んで眠る方が温かくて幸せだし、こういう時間も含めて愉しいと思うから選んだ」

 巳槌に手首を解放されても円駆はもう反抗しなかった。巳槌は浴衣を細い肩に滑らせるように脱ぎ捨てて、自分で六尺を外し円駆に身を沿わせて横たわる。

「円駆。嬉しいな、僕たちは」

「……あ?」

「久之に選んでもらって、一緒に寝るんだ」

 甘ったるい微笑みに、案外温かい指、頬に触れ、巳槌の方を向かせ、

「僕ら二人で久之の悦びとなり、僕ら二人が久之の幸せとなる。お前は人間が嫌いかも知れないし、僕も先日の一件以来少し評価を下げているが、それでも久之のことはお前だって好きだろう。一緒に久之を幸せにしてあげることに何の抵抗もあるまいよ」

 暗闇の中ではっきり巳槌の銀髪を見えるということは、巳槌も円駆の顔色を把握していると言うことであり、恐らくは久之も。

「円駆の心の準備が整ったようだぞ。さあ、久之、始めよう」

「ちょっと、待て、待てっ、てっ」

 久之のことだ。決して乱暴な真似はしない。そんな要素を欠片だって持っていたなら驚きだ。だから二人を片腕ずつに抱き起こされ、抱き締められ。それだけのことにも円駆は声を上げる。久之は、どうせ不器用な言葉になってしまうのならば余計なことは何も言わないと決めているように大きな掌で円駆と巳槌の背中を撫ぜ、二人の幼い身体から漂う匂いを大事に吸い込み、胸を満たしているようだ。その体温がいつもより熱く感じられるからには、久之の「心の準備」が円駆よりも早く整いきっていたらしいことは判る。

「久之、僕より円駆を先にしてやれよ。心はどうあれ身体はずっと待っていたんだぞ。ついでに言うなら、僕は円駆がお前に愛されるところが見たくて待っていたんだぞ」

 恐らく久之は「やめろ」と円駆が言えばやめる。「やれ」と巳槌が言うからするのであって。

 布団の上、再び横たえられた円駆は、何やら申し訳なさそうな顔をした久之に顔を覗かれる。唇が重なる瞬間、自分から腕を回して、主導権を握ることなど敵わなくとも、あくまで自分の自由意志に基づいてしたのだと言い張ることぐらいはしてやらなくては。

「円駆は可愛いよな、久之」

「お……っ」

 円駆の首や肩を愛撫する久之の背中に乗って巳槌が言う。肘を付いて身を支えて円駆を潰さずに済んだ――もちろん、巳槌だって久之がそれぐらい出来ると見越して無茶をするに決まっていた――久之は、

「うん……」

 とやや窮屈そうに首肯した。

「まさか『重たい』などとは言わないだろうな?」

「……いや……」

 実際、背中が痛くなるに決まっているし、少し前の冬には腰を傷めた久之だ。巳槌は「ふん」と降りて、あべこべに円駆の顔を覗き込んで、「可愛いよ。お前は本当に可愛いんだ。そんな風に子供みたいにほっぺた真ッ赤にして目を潤ませて。……酷いことをしてやりたくなるぐらい可愛いんだ」と嫌なことを言う。

「同時に、同じことをお前が思ってくれたらいいと思う。僕の顔を、姿を見て、酷いことをしたいと思ってくれれば。……例えば僕の身体なんて、お前が使いたいように使ってくれていいとさえ思っている。ただお前は優しいから、どこを押しても酷いことなんて思いつかないみたいだけれど」

 暗闇に視界を塞がれているから、ほとんど気配で判断を下す。其れが正しかったとするならば、……巳槌は円駆の顔に跨っている。

 久之は下半身へと矛先を移している。いま、先ほどから間断なく緩慢な痙攣を繰り返す円駆の腹筋に唇が当たった。

「ほら」

 頬に巳槌の体温が感じられるぐらい、近い。つまりは匂いを感じる。彼が円駆の身体から漂うそれを「いやらしい」と形容したならば、同じように言ったって許されるだろう。問題なのはそれに呼応して久之の鼻先に同じ匂いを揺らしてしまうのを止められないことである。

 汗臭いだけじゃねえか。

 心の中でそう毒づく。汗臭いだけならば顔を近付けそっと匂いを確かめただけで震えることなどないはずだ。悦びの気配を感じ、嬉しくなることもないはずだ。冷たくさえ感じられる双臀に掌を当てて引き寄せ、割り開き、其処に舌先を当てれば、……物を言うときには何もかも偉そうな唇から漏れる声は、急にか細く弱々しいものとなる。

「ふ……ぅ……」

 しかし、

「んぅ」

 円駆自身の声も、久之に芯の先を捉えられたときには耳を塞ぎたくなるような代物へと堕してしまう。

「円駆……、もっと」

 媚びを含んだ声で、

「もっと、舐めて」

 尻を揺らして巳槌が強請る。愛撫を再開してやるとき、声を必死に堪えていることは息の震えで伝わってしまうはずで、それを尚隠そうとするならばとにかく巳槌を同じだけの快楽の深みに填めてしまうことだ。

 久之はそれを判っているように円駆への愛撫はまだ、緩やかなものに留めている。一番弱い先端を刺激したのは最初だけ。あとは避けるように茎を降り、袋を掌で撫ぜながら、太腿の内側へと唇を落としている、……いっそもどかしいぐらい。けれど此処まで来たならばせめて、自分の声で久之の愛撫を求めるようなことはするまいと心に決める。巳槌の尻を抱き寄せて、

「ッン!」

 無理矢理に、舌を捩じ込む。

「やあぁっ……、円駆っ、そ、ンっ、なっ奥っ、奥っ、したらっ……!」

 うるせえ。やらしい声で何言われたって聴くもんか。右手を太腿の向こうに回し、こんなのが嬉しいのかよ、言う代わりに引ッ掴む。指がぬるりと滑った。……円駆にとっても嬉しい。

「んぉ、お前はっ、普段っ……、普段からそうやっていればいいんだ……、素直に、いやらしい自分を、隠さずに……いればいいんだっ」

 巳槌が最後の意地を振り絞るように、久之の手に根元を押さえられた円駆の幼茎を掴んだ。

「そしたら……、そうしたら、僕だって、久之だってもっと幸せなんだ。嫌なこと全部忘れられる……、こういう時間を、もっとたくさん設けられる……。僕はお前のちんちんだって、もっと幸せにしてやりたいんだぞ……」

「ふあ……!」

「こんな、美味しい、いい匂いさせているくせに……」

 巳槌の意地の悪い言葉はそれで店仕舞いだ。それは同時に円駆を追い詰める口腔粘膜と舌を総動員した愛撫の始まりを意味する。円駆の右手は焦りを帯びて巳槌の陰茎を扱き舌の付け根が痛くなるほど深々と隘路の奥へと差し込まれる。鼻に抜ける声を互いに封じつつも零しながら、神獣としてはあるまじき痴態を、まだ神にはなりきれぬ久之に見せ付ける。ただそんなことは今は忘れて、一対の身体、自分の相手のつまりは互いの快楽に向けてのみ動く。

「っン! ンぅ、んんンっ……」

「っぷぁ! あはぁ……ッ……、円駆……、円駆の……っ」

 円駆は胸を、巳槌は顔を、お互いの体液で汚すとき、そうしたことへの後悔もそうされたことへの嫌悪も浮かばない。つまり自分の身体が濡れたのは、自分が相手を幸せにしたという証拠であり、……自分にそれだけの力があるということ、間違いなくお前のことが愛しいということ。

「全く……、せっかく僕が口で気持ちよくしてやっていたのに、顔にぶちまけなくったっていいだろうに」

 迷惑そうな口ぶりで言う巳槌に、

「……うー」

 身体へ零されたもので布団を濡らさないように身を起こさないまま、円駆は恨めしげに唸る。巳槌は円駆の頭の傍らにぺたりと座り、顔を指で拭っている気配である。

「こんなにたくさんこんなに濃いものをあんなにあっさり出すぐらいならお前はもっと自分から『したい』と言うがいいよ。寛大な僕や久之が其れを拒むと思うのか」

 拭った指をどうするかと言えば、それは巳槌自身の口に持っていく。自分たちの身体が、自分たちの出したものによって、一際強く青い匂いを発していることを、

「……るせえ」

 円駆は恥じるし、巳槌は何とも思わないで居る様子だ。

「お前は僕のを飲みたくないか。僕のを不味いと思うのか。……妙だな、尻の穴のあんなに奥の方まで舌を突っ込んでいたくせに」

「……うるせえうるせえ!」

 飲みゃいいんだろ! 身を起こし掌で拭い取って、……てめえだって濃いじゃねえか! 粘度の高い液体を啜る。巳槌の言った通り、尻の穴を舐める精神力の半分も要らない。けれど、理性が駆け戻ってきてしまう以上恥ずかしい。

「そう。いい子だ」

 嬉しそうに巳槌が「笑った」から、ああ、だったらそのまま羞恥心なんて忘れられる時間が欲しいと、円駆でさえ思う。

「なあ、久之。円駆はいい子だし、僕もいい子だよな?」

 途中から巳槌が円駆の幼物を奪い取ってしゃぶっていたから、久之は敷布団の隅に所在無く座っている。彼は「うん……、いや……、うん」と応じた。

「歯切れの悪い言い方だな?」

「……その……、うん」

 久之の思うところを少し覗けば、円駆も巳槌も判るのだ。この男は円駆と巳槌を「いい子」だということについては何ら疑っていない。ただ彼の心に半分残る「人間」が、人間ではない円駆と巳槌の身体の形を以ってすんなりとした首肯の妨げになっている。

「もう少し勝手な解釈を出来るようになればいいな」

 巳槌は立ち上がって久之の髪に手を置き、くしゃくしゃと掻き混ぜるように撫ぜた。

 たまに思い出したように里で切ってくるが、それ以外は伸ばしっぱなし。最後に切ったのは初雪より前だから、もう伸び切って昼間は括っているし、この時間は顔の半分ほどを髪に覆われている。「人間」としてははたしてどうだろう。しかし同じ神なる身として見てみれば、……悪いものではない、と円駆は思う。

「ほら、お前も来い」

 手招きをしているようだ。導かれるままに、円駆も立ち上がり、布団の隅の久之の前、巳槌と並んで立つ。

「すまなかったな、僕たちだけで遊んでしまった。でも、お前がぼんやりしているのもよくないぞ。ああいうときは僕と一緒に円駆を可愛がるのが本当だ」

「……ああ……、うん」

「判ったなら、今からでも遅くはない、触れ」

 円駆の許可は必要ないと言うように独尊的な物言いで、巳槌は久之に促す。今更一々咎め立てるのも段々馬鹿らしい気がしてくるし、その直感もあながち間違いではない。然るに、明日の朝目を醒ました時にはまた、細かなことで律儀に腹を立てることになるのだ。

「……わかった」

 久之がやや困惑気味に、右手に円駆、左手に巳槌、それぞれの陰嚢に手を当てる。触れられて初めて、其処が湿っぽくべた付いていることに気付かされる。恐らく巳槌も同じだろう。まだ力を取り戻すには至っていないその場所に、愛欲の余韻が判りやすい形で残っていたことを思い知らされて円駆は再び自分の頬が熱くなるのを感じる。

「……二人とも、寒く、ないのか。そんな……、裸、で……」

「全く寒くない」

 久之の懸念を巳槌が一瞬で払拭する。

「それとも、お前は寒いか? 円駆」

 張り合う必要も抗う必要もない。

「……別に」

 と唇を尖らせて言うだけだ。久之の手は遠慮がちに円駆の小さな陰嚢を包み、どう扱えばいいのか思案するようにただ其処を静かに揉みしだいているだけだ。この形の身体に於いて急所でしかない場所を久之の掌に委ね触れられているだけで、円駆はどんどん寒さから縁遠い場所へ導かれて行くようだ。

「面白いのか?」

 巳槌が挑発するような笑みを含めた声で問う。

「面白い……」

 自問するように呟いて、

「……多分、面白い、んだと思う」

 久之は結局認めた。巳槌は「そうか、お前が面白いのならよかった」とまた久之の髪をくしゅくしゅと撫ぜて、「でも、僕らの面白いのは其処だけじゃないぞ」

「……うん、……知ってる」

 知ってんのかよ、思わず問いを投げかけた円駆の湿っぽい陰茎を指が摘む。其処が半ばまで熱を集めていたことなど、円駆自身さえ意識していなかったのに。

「……言って置くが、久之、僕らが面白い場所じゃないぞ。お前にとって面白くなる場所が、僕らの身体にはたくさん」

「……知ってる。……でも、此処だって、……俺には、多分、すごく、面白い……、んだと思う。お前たちの、……すごく、大事な場所だし、……だから……、……好きな相手のそういう、こういう場所を、見たり、……こうやって触ったりするの、は、面白い……」

 久之にしては――この言葉に対して臆病で、そうなるのも無理からぬほど不器用な男にしては――大いに正直な発言であったということは、円駆も評価する。少し前までなら口篭って何も言えなくなっていたはずのところだ。

「円駆」

 不意に彼の言葉の矛先を向けられた。

「……は、面白いか? ……俺と、こういう……、俺にこういう、ことをされて……、お前は……」

 巳槌が「面白いに決まっているだろう」と代わりに答えてくれるのを待ったが、十数えても二十数えても性悪な白蛇は口を開かなかった。ただ何となく、にやにやと笑っている気配ばかりは空気の振動で伝わってくる。

「……面白く……、なかったら……、んなこと、させるかよ……」

 搾り出した声が自分の耳でもはっきり判るほど無愛想なものになっていて、少しの焦りを感じる。しかし久之は微かに笑った気がする。

「お前たちは……、お前たちそのものが、……そのままで、いるだけで、俺には、……すごく可愛いし、面白い……、興味が尽きることは、これから……、何年、どれだけ、長い時間過ごして……、過ごしたとしても、ないんだと思う……」

 ……おいで、と陰嚢から手を離して久之が言う。巳槌は嬉しそうに久之の左の膝に跨り、円駆もそれに倣って右腿を挟んで座った。一本ずつの腕で、丁寧な掌で、抱き締める力は限りなく繊細だ。これだけやって壊れない、のに、久之は今夜自分たちを壊してしまうことを怖れる。最早趣味の領域だ。

「……巳槌は、……こういう、いやらしいことをしようって、思うと、笑うね」

「嬉しいから笑うんだ。うきうきしたら笑うに決まっているだろう」

 笑顔で巳槌は答える。

「逆に……、円駆は、普段はときどき笑うのに、……こういうときには、絶対に、……笑わないね?」

 恥ずかしいからだ、んなもん、決まってんだろ。

「俺は、……お前たちが、本当に、……本当に、嬉しくて、……愛しい。こんな……、俺には、……俺みたいな男には、勿体無いような時間を、少しも、惜しまずに、くれるお前たち二人が、嬉しい」

 久之が嬉しいのならば。

 一応、この男の「恋神」であるらしい円駆の気分の悪かろうはずもない。久之の膝の上は温かくて落ち着くし、巳槌と二人で座ったってさほど窮屈ではない。

 つん、と巳槌が肘で円駆を小突いた。

「……んだよ」

「言えよ。久之は珍しいくらいに喋ったぞ。僕もさっき散々言った。だから最後はお前が言うんだ。出来る限り具体的に何が欲しいかどうして欲しいか久之に求める言葉を口にすれば、僕らの『恋神』は間違いなく其れを与えてくれる」

「し、知るかよ! ンなん、お前が言やいいだろ!」

「判らない奴だな。僕が求めるのは日常茶飯事だ。言おうと思えば幾らだって言える、なあ久之、お前のちんちんを僕に寄越せ。……だけどこういうとき無愛想なお前が言った方が何倍も効力があるものだし、久之をより嬉しがらせることだって出来るのだ。それともお前は久之を嬉しがらせるのは嫌か? 嫌なら僕一人で久之に可愛がって貰うから、お前はとっとと寝てしまうがいいよ」

 久之のことを笑えないくらい、円駆だって言葉については不器用なのかも知れない。

 もうはっきりと顔の輪郭も表情も把握できる巳槌をぎっと睨んでも、全く動じない。気心の知れた関係というのは時に困惑へと誘う。

 とはいえ、言わないまま、本当に一人で寝ることになるのは嫌だ。恥ずかしさと寂しさという両天秤の選択で、今はもう、恥ずかしさを犠牲に寂しさを回避するという判断を円駆は下せる。

 もつれそうな舌を叱咤して、

「……お、前が、……欲しい」

 言ったのに、

「お前は僕の言葉を聴いていなかったのか、それとも難しすぎて理解出来なかったのか。出来る限り具体的にと言っただろう。腹の足しにならない誇りなどとっとと捨てて素直にそして的確に言うがいいよ」

 巳槌は悪口の才能を発揮する。状況が状況でなければ取っ組み合いの喧嘩が始まってもおかしくないところだが、久之の膝の上という最大限に平和でなければならない場所を掻き乱したくないと円駆だって思う。

 せめて、久之の着物に爪を立てた。

「……お前のっ……、ちんちんでッ、俺の、尻、ほじくって、欲しいッ……、でもって、お前に気持ちよく、……なって欲しい……! したらっ、お前も、俺も……、同じに嬉しくなるからっ……、……どうだ! 言ったぞ! 文句あるかこの糞蛇!」

「あるものか、お利口なけだもの」

「ひ」

 蛇の舌に頬をべろりと舐められた。巳槌は続けて久之と口付ける。舌の絡まり合う音と巳槌の鼻声が少し響き、……しかし妬ましさを覚える前に其れは止んだ。巳槌が自ら久之の膝から降りたのだ。

「ただ、……素直に久之を求められたことは評価してあげる。だけどお前は久之だけが欲しいか? 僕は欲しくないか? 僕のお尻はお前だって自由に出入りしていい場所だ」

 尻を向けられた。獣同士の交尾の格好だ。

「僕はお前と久之の前でなら幾らだって雌になってやっていいとさえ思っている。もっとも、大して美しくもない生き物だ。お前たちは不満かもしれないけれど」

 言えと、言うのか、この俺に……。

「……ッ糞がぁ……」

 とは言え、

「……っれ、させろよ! お前の、……ッに、俺のっ、ちんちんっ」

「そうか。でもどうしよう。……入れたいのか?」

 性格が悪い、意地が悪い。それで居て顔は綺麗だし本質は悪い男ではない。だから一層、性質が悪い。欲してしまう。お前なんか居なくたって生きていけるんだなどと、全てを払い除けるように言うことが出来たならば、……長い長い生を孤独のまま生きていけるだけの強さが円駆にあったなら。

「入れた……、いっ、にっ、決まってんだろこのッ、……糞蛇!」

 しかし、なくたっていいそんなもの。在ったところで邪魔にしかならない余計なものだ。

「変態だな、円駆は。僕なんかのお尻が欲しいんだってさ。でも、いいよ。僕は優しいからお前のちんちんの一本や二本、好きなだけ入れさせてあげる。でもって僕はお前が幸せになるところを見るのが好きだから、久之に愛されているお前を見るのもすごく好き」

 いつもと同じだ、……驚くに値しないことがもう驚くぐらいに、平常運転の日常だ。はて、俺は何か懸案を抱えていたのではなかったか……、思いはすれど、それが何だったか考える余裕は円駆にはもうない。

 久之によって拓かれ、繋がった身体を支えられ、……巳槌の、彼自身の指によって緩んだ場所へと導かれる。ほとんど全て自動的に行われることであり、円駆はただ二人に委ねているだけで幸せになる。人間態になれる神なる身としておそらく最上の悦びを、これまでの長い長い生の大部分、知らないままで生きてきたことが今となっては信じがたい。円駆は久之と巳槌が好きだった。自分を幸せにしてくれる二人が好きだった。

 能う限りこの幸せを減らしたくない、と思いながら巳槌の中に欲を叩きつけるのと同時に、円駆は自分の悩みを思い出した。そして更に、同時に、彼が思うのは、巳槌が自分の悩む隙を与えぬように笑ったのかもしれないということ。

 事実として、円駆は汚れた身体を拭うことも忘れて眠りに落ちていた。それでいて、起きたときにはそれなりに行儀の良い格好でいつもの通り、久之の右腕に寄り添っていた。

 

 

 

 

 空戦の塒は依然として、以前円駆の過ごしていた洞穴の奥であった。通いなれた道を辿って行くと、天井からぶら下がる蝙蝠の群れが一斉に目を醒まし、無数の赤い粒々が見下ろして、……やや遅れて一際大きく輝く紅い光が、はっきりと麒麟の姿を捉えた。

「ああ……、えん……」

 円駆、と言い掛けた声が途中で止まり、大きな欠伸に掻き消される。

「寝ぼすけが。どんだけ寝てんだテメェは」

 牙口を歪めて声を打ち上げても、堪えた様子もなく、

「……僕は、寝るのが好き」

 蝙蝠の群れの中でも一際大きなそれは洞穴の天井にぶら下がったままのんびりとした声で答えるのみだ。

「それに僕は、君が寝ているときに起きていることだってあるんだよ。……この間までずっとずうっと……、ふあぁあ、寝ていたから、このところはちょくちょく起きるようにはしている……。でも、こんな時間に起きるのはあまりないけれど……、ね」

 天井から降ってきた存在が小さくなり、裸足の裏が足元を捉える音がした。空戦は人間態をとり、

「……でも、きっと、僕に用があって来たんだ」

 目を擦って、言う。

「そうだ。用がなきゃこんなとこまで来るもんか」

「こんなとこって言うけど、元は君の家じゃないか。……あふ。外に出よう、円駆。此処だと、みんな起きてしまうから……」

 麒麟を前にすると空戦の身体はますます小さく見えてならない。痩せているし、背は小さい。まだ本当に「子供」なのだ。円駆は舌を打ち、自らも人間態に戻る。麒麟の姿のとき尻尾に引っ掛けていた浴衣を纏うと、

「それ、あたたかい?」

 目ざとく――目は見えないに等しいくせに――子供は訊く。

「君と巳槌が着ている、その、おそろいの着物」

「……おそろいとか言うな。久之が同じ生地でこしらえるから同じになってるだけだ」

「そういうの、おそろいって言うんじゃないのかな。僕はどちらでもいいのだけど」

 裸足の少年はそう言いながら洞穴の外へと出て、

「今日も、この山はとても静かだね」

 と満足そうに呟いて、少し微笑んだ。ささやかな流れにそっと指先を浸して、「もうすぐ春」と事実を確かめるような言い方で口にし、そのまま顔を洗う。白い裸を円駆は岩に尻を乗せて黙って見ていた。

 さて、どうするか……、と考えている。

 昨夜、巳槌が言った。「空戦はお前の弟のようなものだろう」……、咄嗟に否定はしたけれど、円駆自身も判っているとおり、それはある種の事実だ。御し易い相手では決してないが、一定以上自分が「目上」であるという意識が円駆にはある。其れは空戦が初めてこの山に現れたときから始まっている。

 ……空戦は、円駆を含めた他の神なる身がそうであるように、不意にこの山に出現した。神なる身は生まれがそもそも特別なものなのではなく、数年から数百年の期間ごとに、新しく山に生まれた命の中に山の霊力をことさら強く享けた者が偶発・自然発生的に成るものだ。だから円駆も元は狼の一種の子供であったし、巳槌も単に白いだけの蛇だった、そして空戦も、蝙蝠の群れの中の一匹に過ぎなかった。

 神なる身の宿す力。其れは、自然風物を操縦し、吸収し、自らの力へと換えるものである。円駆ならば大地から熱を吸い上げ、焔に換えて操る力を持つ。不完全態だった頃の巳槌はあの泉から、そして観全態となったいまならば山の大気から水を集めて霧や雨に換えて操る。

 円駆は初めてこの子供を見たときのことを覚えていた。

 夜、山の頂、あれはもう、ずっとずっと昔のこと。

「……おい! おい! テメェ、何やってんだ!」

 夜の山に騒音が降り注いでいた。麒麟という、獣の姿を持った円駆にとっては頭の割れそうなほどの大音声。それでも顔を顰め吼えあげるのだが、はたしてどの程度の甲斐があったのかは今もって定かではない。

 夜空を、子供が浮遊している。闇より深い黒い羽を広げて、真っ白い子供が浮遊している。紅い目が怪しく光った。

 ……神獣、か?

「何をしている、とっとと打ち落とせ」

 円駆の足元で白い蛇が糸のように目を細めて、掠れた声で言った。

「ああ、何と迷惑な声だろう……、身体がぶちぶち千切れて行くようだ、呪わしい。おいけだもの、お前のその牙は役立たずか、その焔は飾り物か」

 言うまでもなくその蛇は巳槌である。まだ単なる白蛇の容を取り、応龍になることなど夢のまた夢、しかし皮肉の才能は今とまるで変わらない往時の巳槌である。

「テメェはテメェでやかましいや!」

 麒麟の力を以ってすれば、……打ち落とすことは、不可能ではない。

 しかし、同じ神獣を打ち落としてもいいものか。……其れが、円駆にはまだ判らない。

「阿呆か。このままでは山の生き物すべてが命を落とすぞ。……大方偶発的に生まれたはいいが力を持て余して我を失っているのだ。あのうるさいのと山全体の命とどちらを優先すべきかも判らないのか」

 いっそテメェなんかブツ切れになっちまえ! そういう言葉を飲み込んで、

「ああ糞がぁ……!」

 代わりに汚い言葉を吐き捨てて、麒麟は大きく息を吸い込む。腹の中で息を、熱く、熱く熱く、滾らせ、いちどきに吐き上げるとき、牙と牙を擦って火炎の息を放つ。闇夜を赤々と照らし出す強い火力に巳槌が身を竦めた。

 裸の子供に、火炎の息は直撃した。悲痛な叫びが最後の痛みとして山に音の雨となって降り注ぐ。紅い目から光が消え、飛び回っていた少年は力を喪い、頭を下にゆっくりと落下を始めた。

「ああ、うるさかった……、全く、お前がもっと早くに片付けていれば……、おい! 何処へ行く!」

 殺しては居ない。恐らくは気を失っただけだ。ただあの高さから落下すれば、首の骨を折って死ぬ。迷惑な声ではあるが、山の同胞かも知れぬ物をやすやすと見殺しには出来ない。……権勢の盛衰はあれど、今も昔も円駆はこの山の生き物たちの精神における支柱であることに代わりはない。崖を飛び降り夜の森を駆けて駆けて、ぎりぎりのところで少年の身体を広い背中で受け止める。

「……糞が……、手間、取らせやがって……」

 麒麟の姿から人間態へと代わり、円駆は背中から子供を下ろす。……まだほんの幼子だ。背中の羽も消えている。

 ただ、人間態への変身は解けていない。

 何者だ。何処の誰だ。しばらく円駆は考え込むが皆目見当が付かない。どれぐらいの時間そうやって思案していたか判らないが、

「……この山にある洞穴の数を、お前は知っているか」

 いつの間にやら円駆に追い付いた巳槌は、いつからか人間の姿になっていた。

「……何の話だ」

「地震や雨風で、新しく生まれたり埋まったり、僕も把握はしていないし、数えようと思ったこともない。……だから其処にどんな住民が居ようと、それはお前の管理の埒外だ。加えて言えば、時間という意味でも。……この子供は蝙蝠だろう。お前の知らぬどこかの穴に巣食っていたのが、力を得た。……あれは、音と、あと風だろうか」

 無表情に僅かに険を覗かせ、小指で耳を穿る。

「まだ目覚めてそう間もないようだな。力を疎んじられ、群れから逸れ、混乱に陥ったのだろう、そのせいで暴走したに違いない」

 昔から、巳槌の言うことの底にはどんなときでも聡明さが流れている。その点については――この男がいかに憎たらしいことを言おうとも――信頼を置いてもいいように思っている円駆である。

 だから、

「どうする」

 と意見を求めるのは当然の流れだと思っている。そしてその意見は一定以上尊重してやるつもりで――

「知るか」

 いつもの通り無愛想な声で巳槌は言った。未だ笑うところを見せたことのない当時の巳槌である。

「お前が自分で考えてどうにかするがいいよ。お前は一応この山の主を気取っているのだろう、……空も飛べないけだものの類のくせにな。そういうお前がこの蝙蝠の命を奪うことを選ぶなら誰も止めまいよ。逆に生かしておくと言うのなら、お前が責任を取るのが筋だろう」

「……幾つか余計なことを抜かしたな」

「余計かどうかも含めてお前が決めることだ。……僕は帰るぞ、安眠妨害もいいところだ。もし生かしておくならその蝙蝠には第一に迷惑な時間に喚かないよう言い聞かせてやるがいいよ」

 巳槌が去って行く背中に今更のように「てめぇだって空なんて飛べねえじゃねえか!」と言い返してやることを思いついたが、もう遅い。反射神経はまだ、研ぎ澄まされていなかった。舌打ち一つで済まして、改めて子供を見下ろす。

 痩せッぽっちで、背も低い。首など人間態の円駆でも気軽に折れてしまいそうである。肌は雪のように真っ白だが、髪は夜を集めたように黒い。涙袋から頬に掛けて、血の涙が伝ったような跡が浮かび上がっているがそれもまた黒く、身体全体を墨で描いたような印象がある。

 生かすも殺すも俺次第。

 巳槌ほどは鋭く回らない頭で円駆は考えたのだ。

 ……あの迷惑な、そして強力な「音」は危険極まりない。山の生き物のどれほどがどのほどの負担を味わったかは精査の必要があるが、今後も繰り返しあの「音」を発するようであれば、其れは間違いなくこの山の平穏を動揺させるものとなる。この山で嫌われ者と言えば間違いなく自分の知性をひけらかし他者の悪口ばかり言う蛇の巳槌だが、この蝙蝠もまた同じく嫌われ者となる懸念がある。巳槌だけでも厄介なのにこんなのまで面倒見切れねえぞ……、というところまで、円駆は考えた。半ば以上、殺してしまうことに傾いていたことは認める。

 然るに、これもまた命、と思うのだ。自分と変わらぬ命。この命在ることによって迷惑を被る他の命とも何ら変わりない……。これまで山の安寧を妨げんとする分子に対しては裁きの鉄槌――具体的には焔――を浴びせてきた。戦いの末に殺した者も居る。しかし円駆自身、争いごとを好んでするわけではない。あくまで必要に駆られ、大義が立ち、後の平和の為には避けがたいと思った時にだけ闘うことを選ぶのだ。

 まだ生まれたばかりなのだとすれば、更生の余地は残されている。そう考えた末に、結局その子供を担いで塒に連れて行くところを見て、きっと巳槌は笑うだろう。

「んー、すっきりした。そして寒い」

 顔を洗い口を濯いで振り返った空戦の緩い微笑みに、円駆は思い出す。そうだ、あのときも俺はこの子供のことを巳槌に委ねられた。

 いまこのときまで生きているからには、円駆は結局空戦を殺さなかった。もちろん何もかもが円滑であったわけではない。最初の夜のあの「大声」で被害を受けた者たちからは強く異を唱えられたし、とりわけ当時空を独り占めしていた鳥からの文句は強かった。ただ空戦は謙虚に、黙って円駆の言う通りにした。適当な塒を見つけ、出来る限りそこから出ないことを受け容れたし、幾度か争いごとが起こり、戦いを避けられなくなったときには円駆の要請に応じてあの「音」を発した。だから円駆は巳槌と関係が悪化し、戦いにまで発展しかけた際にも切り札として声を掛けていた。

 空戦、という名を与えたのも、実は円駆だ。巳槌の名前を付けてやったのも円駆だ。この気の短い麒麟は一応斯様に山では尊敬を集めてしかるべき存在なのである。

「空戦、お前」

 円駆は岩に腰掛けたまま、裸の子供に向けて訊いた。

「寒いのは嫌いか」

 空戦は腕を組み、「……そう……、だね」少し上を向いて考える。

「蝙蝠の姿で居る間は、君と同じく僕の身体には毛皮がある。それに、いまは群れの中に居させてもらっているから、それほど厳しさは感じない。でも寒いよりは温かい方が好きだよ。暑過ぎるのは、嫌いだけど」

 何も見ていない視線を下ろす。ただ彼は、恐ろしく発達した聴覚と音の波動の反射によってあらゆる事象を目で見るよりも精確に掴み取る。もちろん、円駆の視線の位置や目元の表情までも、彼は把握しているはずだ。

「でも、あたたかそうな着物は少し、羨ましい」

 依然として緩やかな笑みだけを空戦は浮かべている。……巳槌の微笑みは非常に性質が悪く手に負えないものだが、空戦のそれは違った意味で円駆の手に余る。

 喜怒哀楽がはっきり出てしまう円駆には、彼らの表情筋の采配は理解を超えていた。

 今だって、この蝙蝠が何を考えているかはまるで判らない。自分よりずっと年下のはず、巳槌の言葉を借りるなら「弟のようなもの」なのに、円駆は呆気ないほど持て余しているのだ。

 現実問題として、円駆はそもそも見下していた人間の久之でさえ、御せているとは言い難い。久之の譲歩の上に成り立っている自分であるような気さえする。

 空戦は、

「久之って言ったっけ。あの人間の小屋は、あたたかくて居心地がいいね」

 和やかと言っていいような笑みを浮かべて、少し首を傾げた。反射的に表情を強張らせたことを、空戦は気取ったに違いない。

「……舵禮がね」

 鳥の神の名を、空戦は口にした。円駆の苦手な男だ。そもそも地を駆けるしか術の無い円駆が山を支配下に置くことにいつまで経っても納得しなかった相手である。今では応龍である巳槌が勝手気ままに空を舞い雨や霧を降らせることに苦々しさでいっぱいのはずだが、麒麟でさえ太刀打ちできない力を持つ応龍に少々強いと言っても一羽の鳥が牙を剥けるはずもなく―そもそも牙もない―鬱々たる日々を過ごしているはずだ。もう長く会っていないし、会いたいとも思わない。

 だから、というか、なお、というか。久之を排除しようとしたとき、円駆はこの神なる身・舵禮に声は掛けていない。彼が、円駆はどうあれ巳槌に勝つ瞬間がこれまでに在ったとしたら、あのときを於いて他になかったはずだ。ただの白蛇が応龍の力を得てしまったいまとなっては、舵禮が巳槌を出し抜く時間は永遠に来ないだろう。

「この間、僕が、飛んでいるときに、……声を掛けてきたんだ。もちろん、夜にね」

「舵禮が、夜に?」

「何も見えないだろうにね。……僕の鼻歌が聴こえたのかも知れない。彼はこう言ったんだ」

 ――私と組まないか。

「……舵禮が」

「巳槌に歯向かえる者は、この山にはいないね。舵禮も強いけど、彼はこれまでだって何度も君に負けている。強い君がもっと強い巳槌と」

「ちょっと待て、俺は巳槌より弱かねえぞ」

「……それでもいいけど、……僕にとっては二人とも見上げるほど強いからね。とにかく、君たち二人が組んでいることが、舵禮には気に食わないんだ」

 組んだつもりはない、と言っても、さすがに其れは否定されそうだ。

「でも、……僕の声は、円駆、巳槌、君たちにとっても脅威になると舵禮は思っているようだよ。そして多分、……それは正しいのだろうね。確かに、……舵禮の手伝いをしたら、君たちと渡り合うことは出来るかもしれない」

 どうだろうな、円駆はさほどの危機感もなく考える。応龍の力が在れば――と、巳槌頼みの考えが念頭にあるのは我ながら不愉快だが――舵禮と空戦が組んでもどうにかなろう。

 しかし、争いごとは嫌なものだ。巳槌が言った通り、空戦があちらに付けば力の均衡が生じる。拮抗する対立軸は、当然、戦いを産む。

「……それで、お前は何て答えた」

「うーんと」

 前髪を少し弄くって、

「考えておくって言った。だけど、それ以降舵禮とは会っていないし、答えの催促もない。それに、元々僕と彼とは違う時間を生きているから。僕は舵禮の顔をこの目で見たことはないし、舵禮も僕の顔を見たことがないぐらいだと思う」

 それは、そうだろう、……舵禮は鳥だから。

「……そんな相手に、いきなり組まないかと言われても……」

 幼い顔に真面目な表情を浮かべ、其れを困惑で少し曇らせる。巳槌と違って、こうして感情が素直に表に出てきてくれる事だけは救いだと言えよう。

 そして何より救いだと思えるのは、

「だから、まだ考えているけれど、……後ろ向きにね。僕は前に、……君に、巳槌をやっつける手伝いを頼まれたときにも言ったけど、争いごとは好きじゃない。……それに僕の力は、誰彼構わず迷惑になってしまう。山のみんなを傷つけたくはないし、まだ神になりきれていない彼なんて、死んでしまうかも知れないし」

 空戦が、勝手気ままに害を為す迷惑ものではないということだ。この点については、多少なりとも円駆自身、自分の教育がよかったからだと思っている。巳槌に育てさせていたなら一体どれほど迷惑な存在になっていたか。……少なくともいまの何倍も胃酸を分泌させるような男になってしまっていたはずだ。

「俺も、争いごとは嫌いだ」

「知っているよ。そして君があの彼のために、一層争いごとを避けようと思っていることも、僕は判っている」

 円駆の唇がやや尖るのを「見」逃さないで空戦は少し笑った。

「舵禮よりも嫌いと言っていた人間の側に居ることを選んでいるんだもの」

「勘違いするな! 俺が側に居るんじゃない、俺の側にあいつを置いてやっているだけのことだ」

「そう? ……そうだね、巳槌が一緒に居ることを選んでどうしたって引き剥がせないと判ったから仕方なく君も一緒に居るんだ」

 そう言って、小さく「ごめんね」と付け足す辺り、巳槌より遥かに性格としては整っていると評価していい。比較対象が悪すぎるとも言えるかもしれないが。

「僕も、あの人間は好きだな」

 円駆の腰掛ける岩の下に程よく丸い石を「見」付けて、其処に小さな尻をちょこんと落とす。冷たかったのだろう、「おお……」と震える。

「僕は元々君と違って、人間に対しての敵意を抱いたことはない。一方で巳槌のようにことさら人間が好きと思ったこともない。だから公平な『目』で彼を見ていると思う。……そもそも彼が初めてだ、人間と喋ったことじたいが。そういう僕の評価だから、君にはきちんと聴いて貰えると思う」

 円駆は黙って続きを促した。

「彼は、寝ぼけている僕の言葉に対してすごく寛容だった。きっと君だったら、まず手が出ている。それだけで僕は彼のこと、悪くないと思った」

 それは久之自身も言葉が上手く出てこない方だからではなかろうかとは思う。ただ、実際この男の寝起きの悪さは特筆すべきものがあって、気の短い円駆は幾度となく彼の頭を叩いたものだ。一度寝たら何ヶ月も目を醒まさないことさえあるし、その分だけ、寝起きの悪さは酷化する。

 ただ、このところは規則正しい生活をしているようだ。

 円駆は溜め息を飲み込む気配さえ空戦に把握されていると自覚しながら、

「……久之は、お前に感謝していた。あいつは心配性だからな、……ちょっとやそっとじゃ俺も巳槌もくたばりゃしねえのに、ましてや人間相手に負けることなんてありえねえのに、俺たちがかすり傷一つでも負うことを怖れる」

「優しいんだね」

「臆病なだけだ。……あの布団がたいそう気に入ったみてえだな」

 素直に、「うん」空戦は頷いた。

「あたたかくて、やわらかくて、幸せだね、人間の布団というものは。……君たちはいつもあそこで寝ているの?」

 今更其れを否定できないから、認めざるを得ない。円駆は久之を真ん中に置いて、左に巳槌右に自分が横たわり、ぎゅうぎゅう詰めになって眠っていることを告白した。

 無論、その布団の中でどういうことをしているかについては説明する必要はない。

 巳槌のような過激な考え方を、円駆はしない。あの男は空戦を巻き込んで、悦びに浸してしまえば「此方」から離れなくなると思っているようだが、……そういうことはしたくない。空戦はまだ子供であるという考えを円駆は持っていたし、久之を専有する割合を減らしたくないという、巳槌に言わせれば「尻の穴の小さい」思いも確かにある。

 ただどこかで、自分の「弟」と空戦を定義するならば……、そういう空戦をこちらの事情で穢すのはどうなのだとも思うのだ。

「きっと、それはもっとあたたかい」

 空戦はそう総括して、「僕にも君たちみたいにあたたかな布団で眠る時間があってもいいなと思うけど、それは贅沢だと思う。洞窟の天井にぶら下がって寝るのが、蝙蝠だしね」と惜しさも感じないように言う。

 円駆は岩から降りて、

「あの群れは、お前無しでは居られないか」

 洞穴を振り返って訊いた。

「ううん。彼らはすこぶる自由だ。僕は寧ろ彼らに間借りしているようなものだよ」

 ならば、空戦が洞穴に居ても居なくても変わらないということか。

「お前が寝るのは、今もこの時間だな」

「うん。だからいまも眠い」

 思い出したように空戦は欠伸を噛み殺す。

「君たちにとっての朝は、僕にとっては寝る時間。君たちがそろそろ寝ようかって思う時間が僕にとっては朝。……昔はそういう習慣のせいで君によく文句を言われたね」

 こっちがさあ寝ようとしている時間に起き出してばさばさ羽音を立てたりするし、寝ている耳元で食餌をしたりする。文句を言う権利は確かに在ったはずだと円駆は信じている。

「率直に言う。お前に舵禮の側へ付かれては、俺たちにとって厄介な状況になる。お前にとって何の義理もない舵禮ではなく、俺たちの側に付け。もしお前が俺の申し出に従うならば、……昼の間、あの布団をお前に貸してやろう」

 ぽかん、と空戦の口が開いた。それからしばらく彼は黙り、

「……そもそも、舵禮に対して僕は何の義理もないしねえ……」

 幼さが一番色濃く現れる頬に掌を当てて独り言のように呟く。

「それに、僕は円駆のことが好きだよ。巳槌も、みんなが、……特に君が悪く言うほど嫌いじゃない。それにあの人間のことも」

 でも、と空戦は言葉を継ぐ。

「争いごとの力関係のために動くのは、僕はあまり好きじゃない。僕は自分の力が迷惑な物だということを、少しも嬉しいと思っていないんだ。……この間みたいに、誰かの役に立つならいいのだけど、そればかりではないようだし。だから僕が君の言ったことに応じるのは、舵禮を退けるためではないよ。それは判って欲しい」

「……ああ、判ってるよ」

「僕にとってはひとえに、あの布団がとても幸せなもので、それだけ魅力的なものだということが大事なんだ。だから君がそう言ってくれるのなら、喜んで従いたい」

 よかった。

 円駆は、一先ず望んでいた言葉を空戦の口から導き出すことが出来て、安堵する。巳槌に「役に立たない奴」などと言われる懸念もなくなったし、舵禮の馬鹿は放置しておくに限る。

「でも、久之はそれでいいのかい?」

「これまでお前があの布団で寝たときに、久之は文句を言ったか?」

「文句を言うということが出来ないように見えたけど、言われていないね」

「お前にあの布団を貸すことであいつが得るものは大きい。お前がどう考えようと、お前があの小屋で寝るということは、俺たちにとってもあいつにとっても重要なんだ。でもって其れをお前が考える必要はない」

 空戦はまだ少し考えて、

「わかった」

 頷いた。それから、少しはにかんだように微笑んで、「僕は、もう一つ求める権利を持っているだろうか」上「目」遣いに円駆を見上げた。

「……物によってはな。何だ」

「君と巳槌が着ている、その、着物。僕も貰えたら嬉しい。まるで人間みたいで少しおかしいけれど、僕も着てみたいんだ」

 少しおかしい……。

「……久之に訊いておいてやる」

 円駆は答えた。

 

 

 

 

 麒麟の背に跨った眠そうな子供の姿を見たとき、蛇の姿をとって樹上で日向ぼっこをしているところだったらしく、

「ギャ」

 円駆の鼻面目掛けて白い紐状の身体で落下してきた。いかな気の大きな麒麟とは言えいきなり蛇が降ってくれば当然いい気持ちはしない。巳槌はそういうことを判ってする。だから円駆は性格が悪いと責める。

「やあ……、巳槌」

「うん。……眠そうな声だな」

 人の姿に戻って、「よく連れてきたな。おりこうさんだ」麒麟の鼻面を撫ぜようとする。円駆は低い声で唸るだけにして、

「久之はどうした」

 訊いた。

「部屋で本を読んでいる」

 巳槌は小屋に向けて歩き出す。円駆は空戦を乗せたまま、その歩調に合わせて歩みを進める。

「これから昼の間はこいつに布団を貸す。こいつはそれを条件に、小屋に居ると言った」

「うん、当面はそれでいいだろう。それ以上のことはその先考えればいい。久之がどう望むか、……望まないのならばただそれだけでいい」

 円駆にはそう言う巳槌の考えは全く理解出来ない。この男は自分の愛している相手に於ける自分の占める割合が低くなることを、少しも嫌とは思わないのだろうか。

 神同士心の読み合いは出来ない、が、

「僕は多分、久之が嬉しい形ならば何だって構わないのだと思う」

 巳槌は独語する。

「そうでなければお前を受け入れもしなかった。……いや違う、僕はお前のことだって好きだった。だから何の抵抗もなくああすることが出来た」

「だったら」

 空戦はどうなんだ。お前は空戦のことが好きとでも言うのか。

「お前は空戦のことが好きだろう。大事だろう」

 その問いには答えない。空戦が背中で船を漕いでいる。自分のことが話題になっているということには気付いているはずだが、もう眠くて眠くてそれどころではないらしい。

「僕は初めて空戦が現れたとき、お前に生殺の判断を委ねた。それぐらい、僕にとってはどうでも良かった。ただお前が生かすことと育てることを選んで、いまこうして久之の小屋へ連れてくることを選んだのだとすれば、お前がその蝙蝠に対して一定の愛情を抱いていることは否定出来ないはずだし、僕はお前にとってのそういう男が久之の側に居て、久之の安寧に役立つのであれば一切問題ないと思っている。それに、……空戦」

「ふぁ」

 背中で傾いでいた裸体を支えて、巳槌は言う。

「僕は円駆と久之が好きだから、円駆と久之がお前のことを好きだと言ったなら、僕も同じようにお前が好きだと思うよ」

 背中から瞬きの音が聴こえる。大きな欠伸の音も。

「ふぁう……、ん、僕も巳槌のことを嫌いと思ったことは、これまでのところ一度もないよ。だから喧嘩をしなければいいと思うし……」

「もう喧嘩はとうに終わった」

「そう……、ああ、そうだ、喧嘩は終わったんだ……。何だっけ」

「僕は円駆が好きで、円駆が好きなお前も好きだと言った」

「そう……、そうだった。僕も……、うん、円駆のことが好きだから……、円駆のことを好きな君が好きだよ」

「つまり僕たちはおそろいだな」

「……そう、かな?」

「そういうことにしておけ。それと、暖かいからと言ってまだ寝るのは早い。もう小屋まですぐだぞ、布団の方がずっと暖かくて寝心地がいいし、振り落とされる心配もない」

 振り落としたりなんかするもんかよ。舌打ちを堪えて、巳槌を追い越して小屋への急な下り、小刻みに足を運んで、揺らさぬように庭まで降りた。薄暗い小屋の中で本を読んでいた久之は顔を上げ、麒麟の背中の空戦を見とめ、立ち上がる。

「……どうしたの……」

「この子供を小屋で寝かせてやる」

 円駆に追い付いて、追い越して、巳槌が言う。

「空戦を……?」

「そう。空戦は夜行性だからな、昼の間は僕らも布団は使わないし、日が沈めば目を醒ましてどこかへ遊びに行き、朝になって僕らが目覚める頃に帰ってくる。だから問題はないと思ったんだが、いけないか」

「いや……、いけなくは、ないけど……、その、空戦は……」

 空戦は完全に寝入ってしまった。円駆の鬣に頬を当てて、規則正しい寝息を立てている。巳槌は小屋に上がり、隅に畳まれた布団を広げる。「寝かせてやれ。もう寝ちまった、何言ったって届きゃしねえよ」円駆が低い声で言うと、久之は困惑しながら小さな身体を麒麟の背中から抱き上げ、巳槌の開いた布団へとそっと寝かせる。

「ああ糞重かった」

「嘘をつけ。僕より軽いぐらいだろう」

「テメェは自分が軽いとでも思ってんのかよ」

 重さより、落とさないほうに気を遣って疲れたのだ。

 久之は少し困惑したような顔で空戦の枕元に突っ立って居たが、やがて思い出したように魔法瓶の湯の量を確かめてから急須に入れ、いつもの薬草茶を淹れた。円駆が自分で摘んで来た薬草で作る茶ではあるが、実は円駆自身ちっとも美味いとは思わない。それでも三つの湯呑みに分けて注がれると、漂う湯気はそれだけで魅力的なものだ。ずっと脱いだままでいた浴衣を羽織り、胡坐をかいたところで久之が留める。久之に六尺を締めてもらったところで、「僕も」と巳槌が甘えたことを言い、久之の手を煩わせる。

「食べ物のことはさほど心配は要らない。空戦は、狩りが得意だ」

 茶を啜り、湯気を漂わせつつ巳槌は言う。

「生活する時間も夜に限られている。僕らが寝る頃には外へ遊びに行く。だから僕らが生活の在り方を変える必要はない。ただ昼間に、……空戦が此処で寝ているときに、久之、お前に抱かれることは出来なくなった。少し残念なことではあるが、まあそれは慣れていくより仕方がない」

 久之は何か言い掛けてやめる。

「空戦が此処で寝ているだけで、舵禮、……人間嫌いで狭量なそれで居てそこのけだものより頭の悪い愚か者の鳥の神だが」

「おい」

「舵禮は一層僕らに手を出すことは出来なくなった。力関係で僕らが圧倒的に優位に立ったということだ。……もちろん、色々な考え方がある。力が拮抗していた方が争いは起き難いという考えもある。しかし其れは同時に互いの首に刃を突きつけているようなものだとも言える。とりわけ僕らの生活の安定ということに重きを置くなら、空戦がこの小屋に寝ていることの意味は大きい」

 久之はまだ黙っている。戸惑ったような表情を浮かべている。

 巳槌はもう一口茶を啜って、

「勝手なことをしたとは思う。すべて僕の判断だ、空戦を連れて来いと円駆に命じたのも僕だ。ただな、久之。争いごとを避けたいとお前が思うのならば、其れはガマンしなければならないことだってあるということだ」

「空戦は……、でも、……この子は、それでいいんだろうか」

 久之は困った顔で言う。言わなくたって伝わることを、それでも彼が言葉を探すならば、そのための時間を、神なる身の二人は待つ。

「……この子は、此処に居て、いいのだろうか。その、……こっちの都合で……、連れて来てしまって……」

 その問いに対しての答えは、……巳槌が円駆を見る。円駆は茶碗の底に残った茶を飲み干して、

「空戦が、此処に来たいと言った」

 多少の省略で誤魔化しつつ言った。

「この子供も、争いごとは嫌いだ。基本的には落ち着いて寝てさえ居れば文句はない、……昔からな。でもって、……こいつも我が侭を抱く。それは何だと思う?」

 逆に問いを投げてみたら、久之は言葉を失う。意地悪をするなと言うように、日頃円駆より余程意地の悪いことを久之にだって言う巳槌がじろりと睨む。

「俺らの着てる……、お前がこしらえたこの着物を、こいつは欲しいと言ってた。だから布団と着物を一揃い、こいつの為に作ってやればお前は十分に自分の責任を果たしたことになる」

「浴衣一つ作るぐらい、お前には造作もないことだろう?」

 こっくり、久之は二人の大人に言われたように頷いた。

 既に夢の中に居る空戦を、久之はただぼんやりと眺めていた。

 

 

 

 

 事実として久之はその日の太陽が暮れる前には新しい浴衣と六尺を拵えた。彼が夕餉の仕度をしている間、円駆と巳槌は風呂を沸かし、空戦はずっと寝ていた。三つの神なる身が平穏なる日常を謳歌し、夕餉で腹を満たし、巳槌が少しの酒を呑んだところで空戦の包まった布団がむぐむぐ動き、呑気な欠伸の音がして、

「……おはよう」

 彼は起きた。返答を、巳槌も久之もしなかった。惑っている。夜行性の者が目覚めた時にその言葉を使うことは、一見正しいようで、一方でぎこちない。

 久之は浴衣を広げて、

「空戦の……、分を、作ったから、あげるよ」

 不慣れな相手に話をするとき、久之の言葉は一層たどたどしいものとなる。空戦は眠そうな目を両手で擦って、「ありがとう……」とまだぼんやりとした声でむなむなと答える。

「窮屈な……、ところは、ない? 大丈夫か……?」

「ん……、というか、服を……、人間の服を、着るのは初めてだ」

 円駆からすれば非常にまだるっこしいやりとりをしている自覚もなく、久之は巳槌よりももう一回り小さな空戦に六尺と浴衣を纏わせる。それから、

「……久之。これは、おしっこをしたいときには、どうしたらいいのかな」

 浴衣の裾を捲って白布に締められた自分の下半身をじいっと見詰める。

「それは……、浴衣の帯を、解いて、……それは、少し緩めに巻いてある。気にならなければ、その、横の隙間から出してすればいいし……、あるいは、外して……。外し方は、……自分で出来る、か?」

「……こう? ……ちょっと待って」

 頭をふらふらと揺らして、壁まで至ったところで、唐突に逆立ちをする。浴衣の裾が大きく捲れ上がり、……久之も巳槌も呆気に取られて数秒、

「よいしょ」

 と元の通りに戻って、空戦はにっこり微笑む。

「目が醒めたよ。……いつも頭を下にして寝ているからね、人間の姿で寝たときには、こうしないと調子が出ないんだ」

 円駆はその癖を知っている。……調子が出たところで暢気者のくせに、とは思うが黙っていた。

 空戦は浴衣の帯を解き、尻に手を入れてごそごそとやって案外すんなりと六尺を外す。

「起きたばかりだからおしっこがしたい。……そういう匂いがしないから、ここでしてはいけないんだよね?」

 久之が慌てるより先に空戦は言葉を継いで、空戦を便所に連れて行く。

「久之はお前並みに面倒見がいいな」

 巳槌がほのかに赤らんだ顔で呟く。円駆は「フン」と鼻を鳴らしただけで黙っていた。

 久之と空戦が戻ってくる。

「六尺を、……上手く、締められなければ、そのまま持って、帰って来て、くれれば俺が……、俺か巳槌が、締めなおす……」

「円駆は締められないの?」

「……るせぇな」

「巳槌が呑んでいるのは何? 水、……ではないね?」

「子供にはまだ早いものだ」

「ふぅん……。ねえ久之、僕も大人になったらあれを呑んでもいい?」

 大人子供の尺度を前に久之が困惑する。子供が呑んではいけないものならば、巳槌だって呑むべきではないと思って。

「そのうちな」

 円駆が立ち上がり、後ろから空戦の黒髪をぐしゃっと撫でる。

「それより、俺たちはもうすぐ寝る。お前は出ろ」

 空戦は「うん」とごく素直に頷いて、小屋の戸の外に下りる。久之が、「草履は、明日か、遅くてもあさってには、作るから」と申し訳なさそうに言うと、振り返ってにっこり微笑んで、「ありがとう」と頷く。無害にしか見えない、が、実際は危険な「声」を持つ空戦である。だからこそ厄介、だからこそ。

「じゃあ、また朝に。……君たちが寝ていたら起こさない方がいいのかな」

「どうせ陽が昇りゃ嫌でも目は醒める」

 そう言った円駆に、

「ああそうだ」

 巳槌が湯呑を置いて立ち上がる。

「いいか空戦、此処を出たら、遅くとも月が頂に至るまでは戻ってきてはいけないぞ」

「うん、それはいいけど、……どうして?」

「どうしてもだ。僕の言い付けを守れたら、明日の朝はお前も一緒に風呂に入れてやる」

「解かった。布団も暖かいから好きだけど、僕はお湯も好きだ」

「そうか、僕も好きだ」

 なるほど、と円駆は思って、少しだけ苦い気持ちになる。少なくとも空戦が小屋で寝ている間、巳槌は久之を誘うことはないだろう、……円駆自身ももちろんそうだ。だからその代わり、夜は自分たちのための時間を確保しようという魂胆らしい。

「じゃあ、行って来るね」

 両手を広げる空戦の背中で、作ったばかりの浴衣が音を立てて破けた。

「あ……」

「ああ……」

 細い背中から生える黒い翼が、呆気なく薄布を裂いて広がる。

「あの……、明日、直すし、あと、次からはそこに穴を開けて、作る、から」

「うん、……ごめんね」

 申し訳なさそうに赤眼の子供は頭を下げて、夜空へと舞い上がって行った。久之は月と戯れるように天高く舞い上がった子供の姿を、口を開けてしばらく見上げて居たが、円駆が寒いと言う前に戸を閉めて、ぺたんと座ると、「すごいね……」と呟いた。

「何がすごい?」

 酒瓶をしまった巳槌が彼の胡坐に尻を乗せて訊く。

「……うん、俺、は……、神獣、というのは、……まだ判らないけれど、……その、お前たちの、……龍、や、麒麟の、……つまり、今とは違う、人間じゃない形の、……姿になって、すごい速さで、飛んだり、走ったりする……」

 久之の言いたい所は、円駆にも何となく判った。確かに巳槌は応龍に、円駆は麒麟になることで初めて神獣として万全の力を得る。人間態での力は神獣態の半分にも遠く及ばない。

 一方で、空戦はあの通り人間の姿のまま神獣の力を纏う。逆に言えば、空戦はまだ完全なる神獣ではないとも言える。

 それが何よりも、彼を危険たらしめている。舵禮もそうしたように、彼を危険視し、側に置こうとする理由だ。

「空戦の力は、いまでさえ僕らの脅威になりかねないほど強いものだ。……先日のように、山に侵入した警官たちをいちどきに気絶させることが出来る。円駆、お前にあんな真似が出来るか?」

 円駆は黙っていた。

「僕だって、杜若を呑んで応龍になって霧を降らせてはじめて可能になる。そしてまだ空戦は、本当の力の半分も手元に揃えた訳ではないんだ。この先、……何百年か、あるいは千年を超えるかも知れないが、育ってより恐ろしい力を持つようになるかもしれない」

 今だって十分過ぎるほどおぞましい者が、今後どうなるか。それは一応彼を無害な蝙蝠の神へと育てた円駆の想像をも超えている。

「だからこそ、僕らの側に置いておくことには大いなる価値がある」

 巳槌は久之の両腕を自分の腹に回させて、言った。

「円駆は空戦が時と場合を選ばず騒音をばら撒くような迷惑なことをしないようにきちんと教育した。今後は久之、お前も、……それから僕ももちろん協力しよう。この山の平和の為に空戦がいい子に育つよう力を尽くさなければならない」

 久之の横顔が少し緊張した。

「……つっても、何もするようなことはねーや」

 円駆はまだ空戦の体温が残る布団に収まって耳をほじりながらぶっきらぼうに言い放った。

「いまのまま、あのまんまで時間だけ過ぎてきゃそれでいいんだ。あいつだって争いごとは嫌いだ。舵禮とか他の連中とかが敢えて煽ったりしなきゃずっと無害に決まってる」

「僕もそう思う。此処に居れば権力を得ることなど馬鹿らしいと思うに決まっている」

 巳槌は珍しく円駆の意見に同意した。久之はまだ少し考えていたが、やがて納得したように頷いた。

「俺は……、お前たちにするよう、に、ご飯を食べさせたり、風呂を沸かしたり……、そういう、風にしていればいい、のか?」

「ついでに、僕らのことをこれまで同様、しっかりと愛するがいいよ。酒と同じで、あの子供がいまよりもう少し大人になったらそのときにはあいつを交えてもいい。もっとも、あいつが望むのなら、だけど」

「あいつがンなこと望む訳がねーや」

「逆に言えば、望むのならば今だって交ぜてやっていいと僕は思うけどな」

 久之はどちらにせよ困ったような顔でいる。この純情なる男は自分が空戦に対してそうすることを想像さえ出来ないらしいし、そうすることの罪深さを痛みと感じるらしい。円駆と巳槌に「好き」と言い、「愛している」と言う男にとっては、その特別な言葉をまだ出会って間もなく心も通い合っていない空戦に向けて使う日が来ることなど、考えられないようだ。

「変わらないさ、僕たちは何も。お前が其れを望まないのにしろとは言わないし、空戦のことはまだお前たちほど好きじゃないが、よく判らん奴だと思っているよりは、愉しく一緒に過ごす時間が増えた方がいいとお前だって思うだろう?」

 ふしだらな考え方だ、とは思う。しかし巳槌がそういう考え方に基づいて行動していなかったらこの日々だって有り得ない。其れは久之だって判っているから、……彼は困惑気味に、小さく頷いた。

 それを見届けた所で、巳槌が微笑みを浮かべる。

「では、寝よう。もちろん僕らに相応しいやり方でな。昼の間はほとんどお前たちの身体に触っていない。逆もまた然り。お前たちの匂いも忘れてしまいそうだ」

 大方予想していたことだ。久之は困ったような顔で円駆を見遣り、円駆は布団に潜り込む。

「テメェの小便くせえ褌の臭い忘れられんならそれに越したことはねえ……」

「そうか。久之、円駆は僕のおしっこ臭い褌の匂いを嗅ぐと興奮するらしいぞ、とんだ変態だな。しかもけだものだし」

「うるせえ!」

 既に浴衣を脱ぎ、外した六尺を顔に投げ付けられて、……別にそこまで酷く責めるほど臭いとも思いはしない。それでも、何と無礼な男だろう。これはもう、初めて巳槌と会ったときからずっとずっと思ってきたことだ。塞がれた視界を開いたときには、巳槌は久之の顔の高さに自分の性器を突き出して、

「なあ、僕は臭いか。そんなに臭いかな」

 久之を困らせている。ただ久之が困るのは、目の前に巳槌が「臭い」かもしれない物を突きつけているからではなく単に寒い部屋の中で何の躊躇いもなく裸になってしまう蛇神の、風邪をひいてしまうのではないかと懸念するからだ。

「僕が臭くてもいいなら、一緒に布団に入って遊ぼう」

 久之の性格上「臭い」と思ったってそう言えるはずもない。そしてまた、巳槌に誘われて無碍に断れば巳槌が泣くことも久之は知っている。何より愛しい恋神だ。

 結局は巳槌に手を引かれ、布団に収まる。円駆は寝た振りさえも許されない。

 ただ、円駆の髪には久之の掌が乗った。巳槌の手に着物を剥がれながら、

「……ありがとう……」

 と小さな声で彼は言う。

 あまり多くを語らなくとも――実際、そんな技術もないわけだ――久之の思うところは、心を覗こうと努めなくとも円駆には判った。

 思いが伝わったと判れば、円駆だって嬉しい。素直に其れを表現出来なくとも、この神なる身に宿る心を擽られたように感じる。

「別に……、大したことしたわけじゃねーし」

 敢えて不機嫌を装うが、その指が頬を撫ぜるのを許すのだ。

「もっと褒めてやれ」

 久之の下着から彼の陰茎を引っ張り出して巳槌は言う。欲の赴くまま早くも其処に顔を寄せて、

「お前の此れで、円駆にたくさんご褒美をあげるがいいよ。そのための準備をしてやるぐらい、僕には造作もないことだからな」

 あくまで品無く、言う。巳槌も嬉しいのだと思う。然るに、それについては同じほど嬉しい気持ちになれない円駆である。

 

 


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