DARKNESS STAYS ARROUND THE SUN

 馬鹿ではないのか、巳槌は思った。

 いつもは三人で分け合う布団を独り占めして、円駆は仰向けに横たわっている。

「ほら……、巳槌、お前は、離れて……」

 円駆の額に濡れた布を乗せて、自身も少しく咳に掠れた声で久之は言う。

 円駆は風呂上りみたいにほんのり紅い顔のくせに、雨戸を開けると寒いとほざくのだ。久之が危うく小屋を全焼させかけながら灯した火鉢の炭が、時折囁きながら、じれったく熱を揺らしている。

 今年も冬は来た。終われば春が来て、夏が来て、また秋になり、冬になる。当たり前のことであり、自然の摂理そのものの側に近い巳槌であり円駆であるのだから、……まだ人間の色の濃い久之は置くとして、円駆が熱を出し鼻を垂らし満足に起きることも出来なくなった様には。

 馬鹿なのではないだろうか。

 という感想が浮かんでしまう巳槌なのである。

 人間態のときには巳槌より一回り大きな身体に、備わる力強さによって、取っ組み合いでは不利な相手である。然るにいまの円駆は何とも容易い生き物か。普段は「余計な世話を焼くな!」といちいち尖った声で強がることを己に課しているくせに、今はどうだ。

「食べたい、ものは、ないか? ……お粥とか、うどんとか……」

 潤んだ目を向けて、微かに「ない」と言ったのが聴こえる。あれは強がりではない。何と弱々しい声だろうか。しかし軽口を叩いてやれば、久之を困らせることになるのは判っていた。だから巳槌は唇を尖らせて其処に言葉を隠したまま、黙っているのだった。

閉め切った部屋の中は、案外に明るい。角灯を点けているからというのもあるが、障子張りの高窓からも光が差し込んでいる。夕べまで雪を降らせた雲が去り、陽が差しているのだ。外は眩しいほどだろうと思われるが、円駆も久之もあの通りの体調であるから、窓は開けられない。

 そういえば今朝はまだ風呂にも入っていない。元々野生の領域に身を置いて永らく生きてきた巳槌であるから少々の汚れはまるで気にならないが、単純に、心地よい温度に温めた湯に浸かるのは好きだ。けれど久之は、風邪をひいているときに風呂に入るのはよくないと言って沸かさなかった。

 僕は風邪などひいていないのに。

 久之と円駆が風邪をひくと、僕は娯楽のない時間を過ごすことを強いられるのだ、そう、少年の身体をしたこの神なる身は知る。

「僕一人で風呂を沸かしてはいけないか。燐寸ぐらい使えるし、水はもちろん自分で入れる」

 久之は少し思案して頷いた。巳槌には彼の脳裏に巳槌が火傷を負う処さえ浮かんでいたが、……馬鹿ではないのだから僕がそんなことになるものか。巳槌は黙って立ち上がり、行李から替えの褌と手拭いを引っ張り出し、わざわざ円駆の布団を跨いで部屋を出た。円駆が何だか深いそうな視線を向けていたように思えたが、もちろん頓着しなかった巳槌である。

 外はこんなにも白く、何もかもが塞がれて居るようだ。小屋の屋根から滑り落ちたか、 庭にはとりわけうず高く積もって居る。円駆が居れば右手一本で掻き溶かして動線を確保するのだが、仕方が無い。巳槌は奥歯を鳴らしながら背丈ほどある雪を乗り越え、草履で雪を踏み分け、みっしりと雪が詰まった鍋の前まで辿り着く。大いに面倒臭い気がしたが、シャベルを持って来て外へ掻き出し代わりに自分の力の水で満たし、ついでに足元の雪も退けてから、乾いた薪を両手いっぱいに抱えて運び、湿った土に白い膝を汚しながら鍋の底に配する。

 冷え切っていた身体だが、いつしか巳槌は薄っすら汗さえかきはじめていた。波のある銀の髪が額に頬に張り付くのが鬱陶しい。その上雪の照り返しが目を刺すものだから、巳槌の顔はいきおい険悪なものになった。

 水が温まるまで待っていると、また身体が冷えてしまいそうだ。巳槌は竹筒で火を煽りつつ、合間合間にまたシャベルを振り回して雪を退ける。雪は重く、硬い。すぐにまた、ぽっぽと熱を帯び始めた。が、疲れる。いっそ応龍に変じて全部掃いてやろうかと思ったが、やめる。これにしたって、円駆が働ける身体だったらいいだけの話なのであり、僕が体力を消耗する必要はない、と。

 一汗かいたところで湯がいい塩梅になった。さあ入ろう、そしてゆったりと疲れを癒そう。そう思って、火の勢いを弱め、浴衣を脱ぎ褌を解き、甘美にさえ見える大鍋にいざ入らんとしたところで、はた、巳槌は気付く。

「……うん、届かないのか、僕一人では」

 そうなのだ。いつも風呂の出入りは久之の手を借りて居る。何せ巨大な鍋である。久之だって勢いを付けなければ浸かれない。

 こんな馬鹿な話があるか。せっかく沸いた風呂に入れないなど。ただ巳槌の小さな身体ではどんなに頑張っても鍋の中に浸かることは出来ないし、縦しんば飛び込むことは出来たにせよ、今度は出ることが出来なくなってしまうだろう。

 だが何も、人間のまま浸からなくとも良いわけだ。巳槌は口に手拭いを咥えて、どろどろと身体を応龍に変じさせながら中に登る。まだ身体が、龍とはとても呼び難い飛蛇ほどの状態でくるりと宙返りし、ぽちゃん、鍋の中に落ちる。

 ぷは、と水面に顔を上げたときには、もう元通り人間の姿だ。

 我ながらのことではあるが、

「僕は頭がいいな」

 と巳槌はひとり呟き、ほんのりといい心持ちになって、そう広くもないはずなのに今日は足の伸ばせる鍋の湯槽に浸かってのびのびと身体を緩める。腹に空気を溜めて浮かせると、湯面から小さな子供の陰茎が顔を出す。

 僕のちんちんを見ても、いまのあいつらは少しも心を乱されはしないのだろうな。

 何の気なしにそう思うと、またぞろ不意に心がすっと寒くなった。全く以て馬鹿どもめ、などと湯の中に身を浸して心の中で呟くとき、巳槌の唇は半ば無意識のうちに尖っていたようだ。

 愛、という言葉を巳槌は知っている。いつの頃からか人間たちが使いこなすようになった、心の動きをそれ一つで包含してしまえるように錯覚出来る言葉だ。

 しかし、もとより僕らの中にあったものだろう。

 巳槌は、そう考える。

 久之に出会う以前に円駆と出会った。いがみあうかに見せながら、巳槌は円駆がどれほど自分を思ってくれていたかを知っていたし、その逆もまた然りである。

 互いにあの通りの不器用ものであるし、素直なところなど全くない。だからして、いがみあうかに見せているつもりが、本当にいがみあってしまったりもして、馬鹿らしいような思いになったことも数知れない。だけど、人との交わりが途絶え、次第に生命力を失いゆく状態にあった脆弱な白蛇のことを円駆が焦れて腹を立て苛立つほどに思ってくれていたことを、巳槌は知っている。思いの先に居る誰かが病むことに胸を痛める道理を、円駆はその身を以て知っているはずなのだ。

 それなのに、風邪をひいた。恐らく久之も、その理についてはとうに知っているだろうから、あいつも馬鹿である、と巳槌の唇はまた尖った。

息を吸い込み、腰を浮かせて、また自分の陰茎を見る。相変わらず小さく、弛緩していると巳槌自身の指のごとき甘ったるさだ。このようなものに価値を見出している二人が、それに目もくれず寝てばかりいるのは自分に対しての不義理ではなかろうか、……そんなことまで、巳槌が考えてむっつりとしていたところ、微かに雪を踏み分ける音が耳に届いた。息を弾ませ、不平不満をたらたら零しながら近づいて来る二つの足音がある。

 耳を澄ませて聴き分ければ「こんな、山の、奥に」「変人奴、迷惑極まりない」などと、聴き覚えのある声が二つ重なって登って来るのである。

 巳槌は「フン、そうだったか」と慌てず騒がず、今日が人間の暦で何月何日かということを意識する。月に一度、「変人」の廬を当人たちは全く真っ当なつもりの連中が訪れるのが、気が付けば当たり前になっている。別に来ずとも良いと思うのだが、そして来たくて来ているのだろうとも思うのだが、彼奴らはいつでも不満を垂らしながら登って来るのが常である。

 麓の村の、小学校教諭二人である。片方は養護教諭と言っていたかも知れない。五十がらみの肩幅の広い男と、ばっさり髪を切った若い女の二人。最初にやって来たときには巳槌と円駆が痛快に追い返してやった上に二人の記憶を奪ってやったのだが、それ以後も月に一度日を決めてやって来る。「俺は、不審者だから、ね」久之は少し痛そうに笑って言ったものだ。

「それで、申し訳が立って、あの先生方も気が、済むのなら、それでいい……」

 と。

「お足元の悪い中ようこそ」

 二つの頭が見えたから、鍋の中から巳槌は声を投げた。この人間たちに対しては、久之のために教育のゆきとどいた人間のような言葉を選ぶのが常だ。こういったことは、実際に教育のゆきとどいていない円駆には出来ない。

 ただ、

「家人二人は現在、少々風邪をこじらせて寝んでおります。ご足労頂いたところ恐縮ですが、今日のところはお引き取り願います」

 一連の言葉はいつもの通り愛想のかけらなど少しもない無表情から発されるのだ。「教育」などというもの、巳槌だって受けた覚えは一度もない。

「そういう訳には行かんのだ」

 年嵩の男性教諭が鍋に浸かる巳槌と、そもそも風呂がわりに浸かっている鍋を胡散臭げに見比べつつ、傲慢な響きの声で行った。

「そうです。私たちは村の駐在さんからも、是非にと言われて来ているのよ。定期的にあなたたちの様子を見て来るようにと」

「私たちのどういった辺りに駐在氏に監視の必要を感じさせあなたがた二人に雪道辿って此処まで来させるだけの理由があるのか伺いたいものです大方そんなもんなくてお前たちの低俗な覗き趣味に違いないが」

 巳槌はこの二人の人間が嫌いだ。

 人間が好きで、仲良くしたいと願って、自らの命さえ危険に晒した神なる身ではあるものの、そもそも僕が人間を好きと思うのはあいつらが可愛らしく敬意を表すに足る存在だと思うからで、……この二人には可愛げなんてものは少しもない。ただ悪趣味に久之と僕らの幸せを害そうとするばかりではないか。

 人間が好き、と言っても例外はある。好ましい意味でのただの人間ではないのが久之ならば、この二人は全く逆に、悪い例外ということになる。

「あなたたちが、私たちの里に降りない限りは……」

 女の方が腰に手を当てて言った。偉そうに。

「私たちは、あなたたちから目を離すわけにはいかないの。……こんな山中で、人目から逃げるようにして暮らすというのはどう考えても不便でしょう? 村なら便利に、より安全に生活することができるし、私たちも協力出来るわ」

 巳槌には驚きを禁じ得ないことなのだが……。

 この女教諭は、久之を胡散臭く思い、享楽的に呵責してやりたいと欲を募らせる一方で、右のごとき言葉を本気で言うのである。言うなれば、「善意」で。

 人間にそういうところがあることを、巳槌は知っているつもりだ。文化的な生活を、自分たちがしているという傲岸不遜な自覚がある。そういう基盤の上に立ち、例えば久之のように其処から一旦は排斥した人間のことを同情し、手を差し伸べることに無上の愉楽を得るのである。……尤もこの二人が久之の隠遁生活のきっかけを作ったわけではなかろう。然るに「変人奴」と思っているらしいことは、巳槌には手に取るように判るのだ。

 こういうとき、豪快な自己矛盾が巳槌の中に生じる。

 僕は人間が好きだ。

 然るに、久之の方が人間より好きだ。

 ……僕はただ、久之だけが好きな生き物なのかも知れない。しかしそうだったとして、幾百年人間を求めて生きて来たことが、どう報われるというのか。

「風邪がうつってもいいと言うならば」

 勢いを付けて、巳槌は裸のまま鍋から躍り出た。冷たい雪に埋れた草履を引っ掛け、みるみるうちに冷める濡れた身体を大急ぎで拭い、とにかく褌を締める。大事な場所がしもやけになっては切ない。

「どうぞ。顔を見るくらいなら構わないでしょう」

 熾火を消し、二人を先導して、小屋の入口でそっと中を覗き込む。相変わらず円駆は額に手拭いを乗せて寝ている。久之はその隣、頭が痛むのか、布団に膝だけいれて俯き、眉間に皺を寄せていた。

「久之」

 巳槌が声を投げると、その辛そうな表情のまま顔を向けた。

「迷惑な先生方がいらしたぞ」

 久之の顔が一層辛そうに歪むのを見て、巳槌はほとんどもう反射的に応龍へと変じて二人の襟首を掴んで山から追い出してやりたいような気持ちに駆られる。

 久之は憂鬱げに頷いて、膝に手を置いて立つ。綿入れを羽織って、……それから、ほんのわずかではあるが、微笑みを巳槌に向けた。

「……まだ、髪が濡れている」

 元々澄んで通る質の声ではないが、それが尚更掠れて、聴いている巳槌の喉まで痛みがうつるように感じられるほどだ。

 久之は老人めいた動きで行李から手拭いを取り出し、優しい力で巳槌の銀の髪を拭った。それから自分の綿入れを肩に羽織らせようとさえするものだから、「いい、さっさと出て、用を済まさせて追い返してやるがいいよ」と戸口に待つ人間たちへ、久之の背中を押した。

「……ご足労、頂きまして、恐れ入ります」

 ぺたん、と久之は膝を付き、

「その、……この中は、風邪が舞っております、ので、お寒いでしょうが、……ああ、巳槌」

 お茶を、と言おうとするより先に、巳槌は欠け茶碗と急須を用意していた。慌てたように、

「いいえ」

「お構いなく」

 二人が首を振る。円駆が山で摘んで来た薬草の類を乾して作る茶は、臭いも凄ければ味も凄い。そのくせ、唇を歪めながら日々飲んでいる二人はきっちり風邪をひくのだから、薬効については怪しいものだ。毒草が入っていないだけまだまともなものであると言うことは出来るかも知れないが。

「変わりはないかね」

 突っ立ったまま、男の方が言った。

「お陰様で……」

「あんた、いつまでこんなとこで暮らすつもりなんだ。いい加減降りたらどうだ、下の方がずっといいだろうが」

 久之は困って黙ってしまう。常時よりあまり円滑に回る方ではない舌が、風邪で一層錆び付いているのだ。

「子供たちにも、きちんと学校に通わすべきだってことぐらい、あんたも判ってるんだろう、ええ?」

 久之は小さくなっている。二人の言葉への反論はその胸の裡に幾つも幾つも湧き出しているのだが、それを表現することは彼には非常に難しい。何より、常なる人間に其れが理解されないことを、元はと言えば同じく単なる人間に過ぎなかった久之は判りすぎるぐらい判っている。

 だから、何も言えない。

「何度言えば判るのでしょうか、よくそんな頭が悪くて教師などという仕事が勤まるものだ」

 巳槌は低い声でぶっつりと言う。久之が益々困るのが判る。……僕だって困っている。人間と仲良くするのがこんなに難儀なことだと、この瞬間も、判りたくないのに判ってしまうのだ。

 お前だけが特別なのだろうか。

 きっと、そうなのだ。そしてそれで、何も問題はないのだ……。

「私たちは子供ではないと、少なくとも久之の子供では決してないということを、私はあなたがたが鬱陶しくも此処に来るたびに毎度毎度面倒臭いのに一々律儀に説明して来たことでしょう。猿だって同じことで三度叩かれれば物覚えするものを、貴様らは猿以下かこの鳥頭ども」

 ううん、と巳槌の暴言に円駆が魘される。似たような言葉をついこの間円駆の顔面にぶつけたから、声が悪夢の呼び水になったらしい。

「社会ではね、そんなこと言っても通用せんのだよ」

 呆れ返ったように男は言う。

「お前さんが、仮にだ、本当に子供だとしよう。しかしな、それを証明する材料がないのなら、何と言われたって私らは放っておくわけにはいかんのだ。ほれ、そうやって熱を出して寝込んでる子供をだ、こんな寒くて狭っ苦しい小屋に寝かせておかなきゃならん。本当だったらな、……お前さんの、その男がだ、ちゃんと良識のある大人だったなら、きちんと病院に連れて行くのが筋ってもんなんだよ。それを、ちゃんとせんといかんことをせんから、私らがこうして来てだな、お前さんたちのことを一緒になって見守ってあげようじゃないかと、そういう善意でやっていることを、そんな風に言うもんじゃあないよ」

 善意。……都合のいい言葉であることだ。ケホッと円駆が咳をした。善意が個人の趣味であってなるものか。

「潮時とは思わんかね、あんたも」

 久之に男が目を向けたところで、「うう……」と唸って円駆が身を起こした。汗をたっぷりかいている。頬に一筋貼りつかせているが、その汗のおかげか、顔色はほんのりと上気している程度であり、回復への曲線に至っていることを見る者に伝えた。四人の視線を集めていることを意識している様子もなく、「うー」と鼻水を啜り、なぜ急須が其処にあるのか首を捻りながら魔法瓶の湯を淹れ、急須を揺すり始める。

 その、周囲の状況何一つ見えていない振る舞いは、さながら野生児であり、実際に野生児である。男は言うべきことが何だったか、一瞬忘れたようにポカンとしていた。

「寒ィんだよ」

 彼を睨みつけて、円駆が鼻詰まりの酷い声で怒鳴った。

「お前、阿呆か、考えなしに、糞が」

 びたびたと茶を注ぎながら、……巳槌以上に遠慮のない、はっきりとした悪態である。もとより不器用な男である。風邪ひきで熱も下がっていないから、毒が口から一気に吹き出したらしい。

 円駆はぐいいと薬草茶を呷る。唇の端から零れたものを、手の甲でぐいと拭いつつ、胡乱な目を男に向ける。

「いや、しかしな」

「うるせえ」

 急須に湯をもう一杯注ぎ、苛立たしげに揺らして、……どれほど抽出できたものか怪しいが、すぐさま湯飲みに注ぎ入れる。それをまたかぱりと飲み下す。熱で汗をかいたのだから、喉が乾いているのも仕方があるまい。

 立て続けに二杯も不味い薬草茶を飲み下したからだろう、げふぅ、と豪快にげっぷを放って、

「てめぇらの並べる御託に価値のねえことは、風邪ひいてしんどい思いしてるとこにドカドカ乗り込んで来やがった上に戸口を開けたまんまで糞長ッ尻しくさる時点で明らかじゃねえか、てめぇらはてめぇらの道楽で此処に来てんのを偉そうな理屈ばっか捏ねて誰かに褒めてもらおうなんざ臍が茶を沸かす」

 悪口の才能、という言葉があるのかないのか巳槌は判じかねるが、このときの円駆はさながら才能の塊のようであった。普段は巳槌に口で勝てることなどありはしないのに、二人の人間を向こうにして自らの悪態の乱射で完全に封じ込めてしまっている。巳槌はしばし、聴き惚れていた。内心でいいぞもっとやれと応援しながら。

「生意気にも善意だ何だと抜かしやがるなら、こっちは風邪ひきだ。無能者どもが。誰かに褒めてもらいてえなら薬の一つでも持って来やがるのが本当じゃねえのか糞が。大体、まだわからねえのかこの愚鈍ども、其処開けっ放しにすると風が入ってくるっていうことにも考えが至らねえのか。てめぇらのほざいた『社会』に俺たちに対してどんな責任があんのか知らねえが、風邪拗らせて死んだらその責任まで取ってくれんのか、アア?」

 二人の教諭はいまや、紅い顔した少年に完全に気圧されているのだった。円駆は魔法瓶の中が空になったことに忌々しげに舌を打ち、巳槌の肩に在る久之の綿入れを引っ張り自分が羽織り、「退け、邪魔だ」と魔法瓶をぶら下げながら出て行く。便所に行くのだろう。そしてついでに泉で水を汲み、あつあつにして魔法瓶を満たして来るのだろう。

 久之は円駆の悪口に、まだぼうっとしていた。

「失礼を致しました」

 巳槌は頭をこくりとも下げずに謝罪を口に乗せた。乗せただけだ。

「今日のところはどうぞお引き取りください。円駆はあのように申しましたが、薬などお持ち頂かなくても結構。薬草の茶をこまめに飲めば早晩この者たちの風邪は完治致しましょう。だから余計な心配なんぞしてないでとっとと失せろ馬鹿ども」

 教師二人は顔を真っ赤にしていた。円駆の言葉が彼らの心の真ん中を下品なほど正々堂々射抜いていたからに違いない。……同じ「人間」同士ならば遠慮して出てこない類の言葉であろうが、あいにく円駆は人間なんて糞食らえと思うような男であるから、一切手加減をしなかった。まして風邪で苛立っていればこそ、手加減など出来ようはずもないのだった。

 男の方は音が立つぐらいに顔を顰めていた、女の方は酷い辱めを受けたかのように真っ赤になっている。

 人の善意を蔑ろにするものは……。

「お前たちのしていることは、善意でも何でもあるまいよ」

 巳槌は言い切った。

「お前たちは『社会』なるものの毒に犯されているだけのことだ。大きな意味での自己満足に耽っているに過ぎない。お前たちがそういう趣味を愉しむなら、同じ感覚を共有出来る仲間内だけでするがいいよ。そして本当の意味の『善意』ならば、真に其れを求むる者たちのために尽力するがいいよ。……お前たちが仮に十年二十年あの村に住まっていたとして、此処にいる久之を、……僕と円駆の大事な大事な久之を、困惑から救ってやることなどはたして出来ただろうかな。投げ打って放って置いていまになって善意ならぬ迷惑を振りかざそうと言うのならば、僕たちはお前たちが属する『社会』なるもの全体に対して、久之が抱いた怨みを晴らさなければならなくなる。其れが僕と円駆が久之に向ける『善意』だからな」

「何だてめぇら、まだ居たのかよ」

 円駆が舌打ちをして、草履を脱いで小屋に上がる。小便をして来たのだ。六尺は、もちろん彼の手に長く下がっている。久之の手を煩わせることもない。巳槌がその六尺を締め直してやるのに、円駆は嫌がらなかった。

「すみません」

 と久之が頭を下げる。

「……来ていただいたのに、ご無礼を、致しました……」

 そんなこと言わずともいい、と巳槌も円駆も思うのだが、其れが久之の思うなりに人間らしいありようだとするならば、言うに任せる。

 考えてみれば、これほど皮肉なこともないだろう……。人間が好きな巳槌は人間が嫌いな円駆と共に人間に捨てられた久之と一緒にいる。そしてこうして、三人が三人とも矛盾を孕んだ状態で、人間の「社会」なるものと真っ向から向かい合っているのだ。

 しかし全ての人間がこうではないことを、久之も知っているはずだ。彼はかつて彼を排斥した村の老人たちと、もう和解している。彼らの孫の子供たちのために、竹蜻蛉を削って喜ばれている。その子供らが通うのは目の前の教師たちが勤める小学校であり、久之を悪の権化のごとき文言で定義する「教育」をせっせと施しているのだ。

 毒は巡る。時に其れは浄化され、薬と変わる。しかしあくまで毒のまま巡ることもまた、当然のように起こり得る。二人の教師にとっては巳槌と円駆が久之と重ねて育てて来た純真無垢なる愛情にしたって毒と定義されるものなのだ。

 構うものか。ならば、僕らは毒を愛している。

「このままで、済ますわけにはいかんぞ」

 男の声はわなないていた。こんな年端もいかぬ、……野蛮な、碌な教育も受けていないような子供らにこうまでこてんぱんに言い負かされたことに、激しい屈辱を味わっているのだ。憎悪の言葉は蝿の羽音の方がずうっとましだと思えるぐらい、延々と二人の神なる身の耳元で鳴っていた。

「どんなことでもすればよろしいと思いますよ。もっとも、何をしたって貴様らが揺らがせることなど出来はしないが」

 巳槌は彼らを前にしている限りは、永遠に無表情を保つことが出来そうな気がした。

「私たちはこの山に根を成し、張り巡る生命として生きています。あなたがたに何の迷惑にもなりはしない」恵みにさえ、なるかもしれない「し、久之はこの山の衛人です。私たちはこの生活の……、善良さの満ち溢れた日常の、異物であるところのあなたたちを」

 排除しようと思えば出来るのだ。

 然るに、其処まで言わずに置いたのは、久之が居るからだ。

 そして、養護教諭の方が「……先生、今日は、持ち帰りましょう……」と同僚を諌めたからだ。

 底の浅い奴らめ、と巳槌は腹の底でせせら笑った。せいぜい踊るがいいよ、そして疲弊するがいい。僕と久之と円駆の日々は仮令何が有ろうとも揺らぐものではないのだから。

 永遠に。

「……物騒なことを考えていやがるようだな」

 二人の教師が帰って行った後、また布団に横たわった円駆がぶっつりと呟く。薬草茶を啜りながら、

「……僕が、か?」

 訊き返した巳槌に、「てめぇの考えることが物騒じゃなかったためしがあるかよ。あの人間どもに決まってんだろうがよ」と円駆は答えた。彼の肩にはもうずっと久之の綿入れが引っかかっている。

 膝にだけ布団を被せている久之は、黙ったまま不安げに視線を彷徨わせている。全く、この男は何一つ悪いことなどしていないのに、どうして人間たちは久之のことをこんなにも困らせるのだろう?

 ただでさえ弱っている心に、更なる負担となるようなことを告げたくはないが、……円駆が巳槌を見ていた。俺どうせ喋んの下手だから、と、気重な説明を巳槌に委ねてしまおうという魂胆らしい。

「奴らは、近いうちに駐在その他数人を連れて来る気で居るようだぞ」

 巳槌は溜息交じりに言った。

 久之の頬が明らかに緊張する。

「お前から僕らを『保護』する積もりらしいな。……無理矢理にでも僕らとお前を引き剥がそうという魂胆なんだ」

 巳槌は、現在の人間たちの社会なるものの仕組みについては、明るくない。

 ただ、駐在が居て、彼は隧道の向こうの街の「警察」の人間であり、「警察」が要するに罪人をひっ捉える仕事をしているものなのだ、ということは、判っている。

 残念ながらどう足掻いても「子供」である巳槌と円駆を、こうして小屋に置き、まともな教育も受けさせず、貧しい生活を強いている。……あるいは、虐待している、という嫌疑をあの教師二人は善良な人間らしい言葉を使って訴え出る気でいるのだろう。

 しかし、其れがどうした、という気で巳槌は居る。

「舐められたものだな」

 と、呆れた嘆息がどうしても唇から漏れた。

「元々人間嫌いが多いこの山にわらわらと大挙して人が入ろうなどと。怪我をするのが落ちだ」

「あまり、その、……物騒な、ことは」

 巳槌は久之にも少々呆れた。嫌われているという自覚が在るのに、そんな優しいことを言う。然るにその甘さは、巳槌の舌にも甘く蕩けるものだった。

「判っている。……そこのけだものはどうか知らないが少なくとも僕は馬鹿ではないぞ。ただお前と過ごす日々は誰にも乱されたくない。永遠でなければならないと思っている。だから、そのためにするべきことと定めたら、何だってするという、それだけのことだ」

「どさくさに紛れててめぇは!」

「そうやってすぐ声を荒げるのがけだものの証拠だ」

「何だと! この糞蛇!」

 円駆の声に、高くまで飛び抜けるような甲高さと力感が戻ってきた。どうやら麒麟の風邪は峠を越したようだ。全く神獣のくせに風邪ひいて鼻詰まして熱出してうんうん唸って久之に甘えるなど何て情けない。

「全部丸聴こえだ馬鹿野郎!」

「円駆……、巳槌も……」

 いつものように困惑する久之の反射神経も良くなっているようだ。

 良きことである。早く二人が快復してくれないと、巳槌は大いにつまらない思いをする。……贅沢なことを思っているよな、という自覚はあるのだ。だって一人ぼっちで泉の中を漂って居た頃には、本当に依る辺のない孤独を味わっていた。其れを知っている僕なのに、どうして一日や二日、二人が相手をしてくれないだけで機嫌が悪くなったりするのだろう……。

 しかし、考えるのはもうやめた。

「お前、浴衣を替えろ。臭いぞ。獣の脂の臭いがぷんぷん漂っている」

「そんなに殴られたいのかてめぇは……」

 鋭く立ち上がりかけた円駆はしかし、不吉なものを見て動きを止める。

「何なら僕が着替えさせてやってもいいんだ。さっき六尺を締めてやるときは珍しく大人しくしていたよな。だから今度も大人しく僕に脱がされるがいいよ。……久之、何ならお前も僕が脱がせてやろう」

 巳槌は嬉しかった。愛しい二人が二人とも、自分の言葉で行動で表情を変えるという事実が。二人が、こんな自分と過ごす時間を、ろくでもないものかも知れなくとも、同じように愛してくれて居るという事実が、……たまらなく。

 愛しき者たちのための生だ、全ての時間だ。其れをどうして、何も判らぬ者どもに害されることが耐えられよう。

 

 

 

 

 雪が眩く煌めく森合の広場に、狐の親子がてんてんと足跡を記していく。母の方が、ずっと歩幅の狭く、埋もれてしまいそうな子狐をこまめに振り返りながら。

 熊が眠っているのはなかなかに厄介だぞ、円駆は親子の狐を木の上から見下ろしつつ、そう考えていた。何故って、あいつが居ればまず人間が好きこのんで山に侵入してくることは考えづらい。元々この山に住む熊は、もちろん獰猛な羆ではなく「気は優しくて力持ち」なる形容がしっくり来るようなものたちばかりだが、それでも一番身体の大きなものであれば、人間たちにとって大いなる脅威となるであろう。

 そういう思考を、もちろん口に出しては居なかったのだが、

「浅はかな考えを抱くのは止すがいいよ」

 と、隣の枝から巳槌は全て見透かしたように言った。円駆は人間態だが、巳槌は白蛇で居る。この季節には貴重な太陽のぬくもりを全身で余すところなく浴びようと思ったなら、そちらのほうがいいらしい。

「……何だと?」

「お前のことだ、どうせ熊や蜂やあるいは漆に力を借りてどうにかしようと思っているのだろう」

 図星である。要は奴らを山に入らせなければいいのであり、それはかつて久之を排除しようとしたときと同じやり方が、簡便であり、安全でもあろうと円駆は考えたのだ。

「『警察』は銃を持っているぞ。村の人間だって猟銃を持っている。……多少の傷なら僕が治してやれるが、命まで奪われてしまっては元も子もない。そもそもお前は同じ山の同胞に血を流せと言えるのか」

 う、と円駆は言葉に詰まる。実際問題、円駆や巳槌なら鉛玉など幾ら身に浴びようと平ちゃらだが、熊は神なる身ではない。

「……じゃあ、どうすんだ。またいつかみてえにお前が霧を降らすのか」

 杜若と酒を胃の腑で混ぜ、応龍となって巳槌の降らせる大量の霧には催眠作用がある。円駆が久之を害そうとしたとき、あっさりと返り討ちに遭ったのはまさしくあの霧の力ゆえである。

「もちろん、それも考えてはいた」

 偉そうに、不安定な枝の上に細長い身体を沿わせた白蛇は気持ち良さげに目を細めているが、その目には何とも剣呑な、紅い色の光が宿っているかに思える。小さくとも弱くとも、蛇ほど厄介な生き物がないことを円駆は知っている。縄みたいな身体の形のくせに、一筋縄では絶対に行かない。

「ただな。……僕らはこれまで、少々呑気に過ぎたのではないかという気がする。この山にいて、三人一緒に暮らしていて……、足らぬものが何もないのでな、ついつい考えも緩めてしまいがちになる。その間に、どうだ、人間は新しい学校を作り、駐在を無能な働き者に替え、いまや僕らの空間に迷惑を掛けようという。ついこの間まであらゆる人間と仲良くできると信じていた僕でさえ、価値観の転換を迫られているんだ」

 蛇であるというのみならず、巳槌である。倍量厄介な生き物が居る。必要以上に頭が良く、口が悪い。

ただ、彼の気持ちが真摯なものであるということには、円駆としても容認することにためらいはない。敵としては何より鬱陶しいが、味方だと思えばこれほど頼もしい男もいないだろう。

「僕は、攻撃というものをしてみようと思うぞ」

 目を、小刀の切り口ほどにまで細めて巳槌が口にした言葉に、思わず円駆は耳を疑った。そしてほとんど反射的に、

「無茶を言うなよ」

 という言葉が出ている。

「無茶?」

「ああ、そうだよ。……お前が人間を攻撃出来るはずがない」

 そもそも、応龍は強大な体躯と爪と牙を持ち、天の機嫌をいかようにも変えるが、それで人間たちを攻撃するとなれば、其れはもう、天変地異とも呼ぶべきものだ。村一つ水の底に変えるようなことを、どうして巳槌に出来るだろう。

「勘違いするな。……僕は人間に失望していない。老人たちはもう久之を悪い男だとは思っていないし、子供たちだって可愛いものだ。問題は、あの教師二人をはじめとする、久之に対して要らぬ警戒心を抱く連中だけだ」

「そうだ。だから攻撃するって言ったって……」

「考えなしに出来るわけがない。其れはもちろん、判っている」

 巳槌は幹の根元に這い降りて、「僕は久之に頼んで、一緒に下へ降りる。……お前も手伝え。先に小屋へ行って、魔法瓶に泉の水を汲むんだ」

 神使いが荒いのはいつものことだ。それや一々声を荒げて返してしまいがちだが、それをやると大変な時間の浪費となる。だからぶつくさと文句を垂れながらも、円駆は空の魔法瓶に泉の湧き水を詰め、ついでに一口呑む。巳槌のことを褒めたりなんてするものかと決めている円駆であるが、彼の力の拠り所であるこの水の味ぐらいは褒めてやってもいいか、という気持ちが少しある。

 再び小屋に戻ったとき、「遅かったな」なんて言うから、やっぱり心の中でも褒めるのではなかったという気になってしまったが。

「下に、行くの?」

 普段そうするときよりも憂鬱そうな顔の久之である。

「何を、しに?」

「だから言っただろ、いいことだ。お前に無意味な棘を向ける連中からこの山を護るために、ひいては僕らの平穏な日常を護るために必要なのだ」

 具体的なことは何一つ言わない辺りが巳槌の傲慢さである。が、久之はこの小さな神なる身に対しては全く何の疑いも抱かないと決めているので、結局やや渋りつつではあったが、身支度を整える。先ほど小便をするために六尺を外していた円駆も、下へ行く格好となる。綿入れは要らないと言ったのに、其れもきっちり羽織らされて、前を紐で結ばれて。

「では行こう。……今日は学校が休みの日だろう、そうだな?」

 三人の、人間たちの「社会」から隔別された小屋には人間の暦はない。だから久之は少し考えを巡らせて、「……うん」とやっと頷いた。

「好都合だ。多くの子供が家にいるわけだな。……円駆、魔法瓶を忘れるなよ」

 巳槌が何を考えているのかは、まだ判らない。円駆に判らないのだから、久之にはなおのこと、彼が何を考えているのか想像も付かないだろう。

 ただ円駆は、巳槌が確かな、そして恐らくは聡明な知性に基づく意図を内に秘めて、下山を決意したのだということだけは判る。単索軌道の箱の中に収まる彼の横顔は、氷のように透明に澄み渡っているのだ。

 巳槌を先頭に、二人で追う形になる。巳槌は村の広場で子供らが遊んでいるのを確かめてから、

「久之、まとまった額の金はあるか」

 と振り返る。

「金……? 一応、ある、けど……」

 久之が壺や皿を売って稼ぐ金は、人間の社会に組み込まれて生きるには心細いほどのものだが、米と酒と着るものを除けばほぼ自給自足で事足りることを考えれば、無駄なほどにあるという言い方も出来る。

「久之、僕らに服を買え」

 人の財布の使い途を、巳槌は唐突に、そして気軽に、定めた。久之がぽかんと口を開けるのも当然だ。

「服……、って、いうのは、あの、新しい浴衣が欲しい、のか?」

「いいや。浴衣はこれがまだ当分もつだろう。そうではなくてな……、さっき広場にいた子供たちのような、今の人間の子供に似合うような服が欲しい。僕と円駆の分、一揃いずつだ」

 素っ頓狂なことを言い出すのはいつものことではあるし、この蛇の自己中心的言動については円駆はもちろん、久之だってもう慣れているはずだ。

 然るに、二人揃って言葉を失った。

「僕らの浴衣の生地を扱っている服屋に行けば、子供の服ぐらい売っているだろう」

「……ああ……、まあ、あったと思う、けど」

「何始める気なんだよ」

 訝る円駆に、巳槌はまるで平然と、

「何度も言わせるな。山と生活を護るために必要なことだ」

 いつもの通り、無愛想な顔で言い放つ。

「長い長い僕らの生だ。たまにはいつもと違う格好をしてみたって良かろうよ。もっとも僕らの場合、神獣と人間の姿を日々着替えているようなものかも知れないが」

 店を出たところでそう総括した巳槌であるが、その傍で円駆はむっつりとむくれている。別に何を着せられたって平気なつもりで居たのだが、ズボン、なるものを穿かされるとき、いつもは浴衣の内側にあって何の疑いも抱かずに締めている六尺を、結び目が邪魔になるという理由で解かれてしまったのだ。代わりに当てがわれたのは、白いという点においてのみ、六尺褌と共通している面妖な下着である。

「落ち着かない」

 とはっきり苦情を申し立てた円駆であるが、久之は困ったような顔になって、「俺の、穿いてるみたいなもの……、だと、もっと落ち着かないと、思う」と言った。ついこの間まで巳槌言うところの「ちんちくりん」を丸裸でぶら下げて何の疑問も抱かなかったくせに、何とも収まりが悪いように感じられる。その一方でいつも半分露出しているような尻はぴったりとその下着に覆われているのが気になって、先ほどから円駆は盛んに、太腿までの丈の「スボン」なるものの上から尻をまさぐっているのだった。

「似合っているぞ。神獣にはとても見えない。何処にでもいる子供のようだ、誰だお前は」

「うるせえな……」

 二人揃って「襟付きのシャツ」に「セーター」に「半ズボン」という出で立ちで、靴も草履ではなく、「より人間らしく」という巳槌の要望に基づき、白い「靴下」と「運動靴」を履かされる羽目になっている。この靴というものも、これまでの長い生をずっと裸足で生きてきた円駆には、何度も邪魔臭くて仕方が無い。身体で一番汚れる足を、どうしてわざわざ二重に包む必要があるのかと思う。汚れを蓄えるためとしか思えない。

二人が服をきちんと着ている一方で、久之はいつものぼろぼろの着物を着ている。こうなると、久之は不審である。二人分の浴衣と六尺を抱えているから、余計に。

「では行こう。……久之、お前はそうだな、僕の祠の前にでも座って待っていろ。少し時間がかかるかも知れないが、ちゃんと待っているんだぞ」

 久之は不安げに頷いて、とぼとぼと祠の方へ歩いて行く。巳槌はくるりと背中を向けて、大股で歩き始めた。

何を始めようというのだ。円駆はまた訊来かけた。しかしどうせ巳槌は答えないだろう。黙って、何とも嫌なこの格好で歩く。足にぴったりと吸い付いて拘束するような「運動靴」の底を、腹癒せのように強く踏みならしながら。

 巳槌は広場へと至った。その広場は、例の小学校と接している。つまりは「校庭」と呼ばれるものだ。

「あ」

 頭ほどの大きさのボールを搗いて遊んで居た幼児の集団が、二人に気付いた。男が二人に女が一人、皆だるまのように丸くなるほど着込んでいるのに、鼻を垂らしているという点で共通して居た。

「みづちだ」

「みづちー」

 幼子たちに呼び捨てにされても「みづち」は表情を変えない。

「変なカッコ。ちんちん出すのやめたの?」

 恐れも知らずそんなことを訊く男児の顔に見覚えがあった。首元に巻いている襟巻きにも。

 確か、前の冬に姉と一緒にそれを祀ろうとしていた子供ではないか。

「そういつもいつもちんちん出したりはしないぞ」

 巳槌は男児の頭を撫でながら、相変わらず無表情で言う。その様子を見て居た円駆の顔に、いつの間にか女児が手を伸ばし、あろうことか勝手に顔に触れようとする。

「んな、な、なんだよっ、やめろよっ」

「それ、シール? とれないの?」

 円駆の左眼の下にある、稲妻色の隈が女児の興味を惹いたらしい。大きなお世話だ! 取れてたまるか! そう怒鳴りかけたけれど、「子供相手にむきになるな。大人気ない」と巳槌が囁くから、舌を打つだけに止めておく。

「……触んな。ビリっとするぞ」

そうだ、それでいい、と言うように巳槌が視界の端で頷いたのが見えた。

「ビリっとするのー? さわってみたい!」

「阿呆か、火傷すんぞ」

 身体にひっつく女児に辟易している円駆の隣で、

「お前の、姉はどうした。今日は一緒じゃないのか」

 男児に、巳槌は訊ねている。

「ねーちゃん、家。寒いからって出てこない」

「そうか。……子供はお前たちのように外で遊ばなければならないものだ。どれ、一緒にお前のねーちゃんを呼びに行こう。……円駆、行くぞ」

 どうして子供らとかように仲がいいのだ。円駆は子供に限らず人間全体が苦手であるから、幼児らと手を繋いで歩く巳槌が不思議でならない。

「ねー、赤いおにいちゃん、おんぶ!」

 そう強請られて背中を貸してやるが、自分の姿の滑稽に違いないという苦々しい思いばかり浮かんで来た。久之の背中のように居心地のいい場所ではあるまいに、幼女はきゃっきゃと笑い声を立てている。

「今日はとんぼのおじさんいないのか?」

 男児、襟巻きの姉の妹ではないほうが手を引く巳槌を見上げて訊く。

「おじさんではなくて久之は」

 概ね無精髭を生やし、人間ならばもう三十を超えた久之のためにそう訂正して、「今日は留守番だ。お前のねーちゃんと、子供同士でしかできない話をするんだ、あいつが居ては、いろいろやりづらい」と、後半は円駆にも聴かせるように答える。

 久之にも秘密の話を、人間の娘とする?

 円駆は髪を掴まれる不快に耐えながら、首を傾げた。

 男児とその姉の家は村の中心部に程近い、小さな家だった。この決して豊かとは言えない寒村を象徴するように、古ぼけて黒ずんだ木造の家の玄関を開けるなり、

「ねーちゃーん、みづちー」

 と村中に響き渡るのではないかと思われるような声を上げた。

 姉は、びっくりした顔で間も無く玄関口まで現れた。が、厄介なことに姉弟の両親も、祖父母も一緒になって顔を覗かせた。

 円駆は四人の顔の見事な対比に舌を巻く。

 まだ中年にも差し掛かっていない夫婦は、巳槌と円駆を見るなりあからさまに顔を顰めて、胡散臭い胡散臭い胡散臭いという素直な感情ががりがりと嫌な音を立てて円駆の心に響いてくる。その一方で祖父母は、何やら神々しいものでも見るように円駆たちを見詰めている、……老婆のほうは手を合わせさえしている。演技でもないわい、と円駆は其れから目を逸らした。

「お構いなく」

 と、巳槌は丁寧な言葉で頭を下げる。

「茜、少し時間を取れるか」

 どうしてあの娘の名前を知っているのか。しかし巳槌が子供たちと徐々に深める交流は、円駆には到底想像できないし、真似もできないものだ。

 宿題、という単語が少女の中に湧いたのを、円駆が感じると同時に、

「森原先生のことで、お前に話がある」

 巳槌は静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。

 彼女は途端に張り詰めた表情になると、厚着をして玄関に駆けてきた。森原、というのが、あの二人の教師の男のほうの名前だということは、円駆も知っている。

 なぜその教師の名前を出しただけで、茜という少女が母の制止も聴かずに自分たちの後ろを随いて来ることを選んだのか、……円駆は頑張って覗こうとするのだが、もやがかかっているように見えない。神なる身は人の心を読み取る能力を誰もが持っているが、心を持つ当人自身もはっきり認識できていない感情は、斯様にぼやけて読み取れないのである。

 茜の妹たちが遊ぶ輪から離れて、校庭の片隅にある金属の建造物(体育倉庫、という単語を、茜が後で教えてくれた)の陰に至ったところで巳槌は止まった。

 茜の緊張し切った表情には、仄かな罪悪感も浮かんでいた。親に逆らって巳槌について来たことを思って憂鬱なのだろうか。

「急に呼び付けてすまなかったな。こちらも急ぎの用なんだ。悪く思わないでくれ」

 白い顔の頬と鼻の赤味が目立つ。茜は黙りこくっていた。

 巳槌が円駆に手を伸ばす。何だよ、問い掛けたところ、ずっと握っていた魔法瓶に思い至って、其れを巳槌に手渡した。

「寒い中に冷たいものを飲ませて悪いが、……気が落ち着くぞ」

 と言って、蓋に一口、其れを汲む。茜は少し躊躇ったが、巳槌が重ねてすすめるまでもなく意を決したように飲み干した。

「あの先生は、怖いか」

 巳槌はじっと茜の目を見据えて問う。

 ……茜が、こっくりと頷いた。

「そうか。……でも、親にも弟にも、そのことは言えないんだな」

 茜の目に涙が浮かんだのを見て、円駆は驚く。巳槌が口にした言葉の、何が少女の心に響いたのか全くわからなかった。ただ彼女の心の奥で、靄そのものがぶるりと震えたように思われた。

 この少女は、あの男を恐れている。……何故?

 円駆にはそれ以上のことは何一つ読み取ることは出来なかった。ただ、巳槌がどうやら全て判った上で少女にものを言うのだということばかり理解出来て、それがたまらなく、歯がゆい。

「お前が怖い思いをした場所に、僕らを案内しろ。……あの建物の中か?」

 茜が、潤んだ目をぎゅっと擦って頷いた。彼女ははっきりとした意思をこめて、靴底に砂を噛ませながら歩き出す。平べったくのっぽな建物に寄り添うように、こちらは図体ばかりでかく空虚な印象の、石を加工して作った建物の裏手に回り、其処に接するようにある母屋に比して遥かに小さい建物の前まで来て、立ち止まった。それ以上一歩も進みたくないように、膝を硬く震わせている。

「この中か」

 目に浮かべた涙が零れてしまうことを恐れるように、彼女はもう頷かなかった。

 小箱のような、と言っても久之の小屋よりもう一回りほどは大きいが、その何やら湿っぽい空間からは、仄かに悪臭が漂った。一つの建物に二つ入口が開いたその建造物が、人間の便所であることを円駆はやっと察した。大小の排泄は小屋の脇の囲いで済ませるし、それ以前なら森の中で問題なかった。人間はたかだか用を足すのにこんな大仰なものを拵えるのか、と円駆は少々呆れ返る。家の中に家があり、いちいち隠して用を足すのだろうか……、ご苦労、という言葉さえ円駆の中には浮かんで来た。

 巳槌は建物の中に入り、きょろきょろと見回してから、

「茜、ここか」

 と、奥の囲いを指差して、巳槌が訊く。茜がこくこくと頷く。分厚い板を薄青色に塗った戸は、内側から鍵がかかる仕組みになっている。戸や隣の個室との仕切りは円駆よりも久之よりもずっと背が高く、正方形の石畳が敷き詰められた中央に、冷たく白い陶器が設えられている。これがつまり便器と呼ばれるものらしい、と円駆は学ぶ。

 巳槌が魔法瓶の口を再び開く。彼はおもむろにそれを、少量の水が溜まった便器の中に半量ほど注ぎ、残りを壁や床へと散らばせた。巳槌が何をしているのかは、想像することも難しい。

「茜、……もう少しの辛抱だぞ。もう少しすればお前は、怖い思いをしなくても済むようになる」

 巳槌が言っていることの意味は、円駆には最後まで何一つ理解することが出来なかった。ただ巳槌は彼女の髪をぽんと撫ぜて、「わざわざ嫌なところへ案内させてすまなかったな。さあ、もう行け。あまり僕らと一緒に居てはいけないのだろう」

 彼女の背を押した。茜は校門の辺りまで度々振り返っていたが、やがて走って家に戻って行った。

「何を、したんだ?」

 巳槌はその問いには答えなかった。その代わり、「此処が何の場所か判るか?」と、質問に質問で返す。

「……人間の便所だろ。人間はこういうところでしょんべんやうんこするんだ」

「うん、その通りだ。ただ少し付け加えるなら、こっちはうんこをするための場所で、おしっこはそっちの器で済ませる。……ほら、お前だってうんこのときはしゃがむし、おしっこは立ったままするだろ」

「まあ、そりゃそうだ」

「ついでに言うなら、此処は男のほうの便所だ。女がどうやっておしっこするか、お前は知らないだろうが」

「知っとるわい! 女はしょんべんも座ってすんだろ」

「その通りだ。だから女のほうには立っておしっこする、そこに在るようなものはない、全部こういう仕切りがあってしゃがんでする形ばかりだ。……さて」

 巳槌は水浸しにした仕切りの中から出た。

「女である茜は、何故こちらの便所に入る羽目になったのだろう?」

 巳槌の問いかけへ、円駆は答えを用意出来ない。巳槌はもとよりそれを承知の上で質問を投げたに違いなく、其れがこの男の性格の問題をよく示しているように円駆は思うばかりだ。

「……茜の心の中には、あの森原という男への強い恐怖がある。ただ、詳しいことは僕にさえ覗けない。あの娘自身が必死に隠して、忘れようと努めているせいだろうな」

「忘れよう……、と、努めている?」

「お前は、あの男の心に深く踏み入ってはいないな?」

 円駆は首肯した。さして興味も抱いていない、ただ憎たらしいと思っているばかりだ。

「……茜の心に、靄のかかった恐怖が芽生え出したのは、この夏からだ。それまであの娘はもっと活発だった。少々臆病なところもあったようだが、明るくて、外で遊ぶのが好きな娘だったらしい。それが、森原への恐怖心が芽生えて以来、表に出ることにも抵抗があるような様子になってしまった。……僕は多分、その理由を知っていると思った」

 妙な言い回しだ。しかし円駆は黙って巳槌の続きを待った。

「昔……、人間からすれば途方もない昔のことだが、同じような心の靄を生やした子供を僕は何人も知っている。血を分けた兄弟や自分を産んでくれた親たちにも告げることの出来ない恐怖を、一人で抱えて、呑み込もうとするのだ。……長らく僕はその心の箱の中をわからないでいたが、……最近になってようやく、知ることが出来た」

「最近になって……?」

 結局、何もわからず終いだった。「行くぞ、久之が待っている」と巳槌に促されて人間の便所を出たが、前を行く巳槌の背中が怒っているように見えるのがどうにも引っ掛かる。単に、久之との日々を害そうとする者どもへの憤りのみにしては、それはもっと根の暗いものに円駆には見えた。

 それが予期せぬ形で噴き出した瞬間には、円駆も同じように破裂していて、もう巳槌をよく観察することは出来なくなっていた。

 

 

 

 

 弱い、そして、脆い。

 久之はただ唇を震わせていた。途方もない量の悲しみが身を満たし、僅かに、確かに、あるはずの怒りが何処にも見当たらない。

「どういうつもりなんですかね」

 駐在は、穏当な態度で居た。しかし其れは紺の制服がどれほどの威力を持つものか、知った上でのことであるというのは明らかだった。

「私は一応ね、段取りを踏んでお願いしてるつもりなんですよ。……私は此処に配属されてまだ日は浅いけれども、あなたの話は色々と耳に入って来て居ます。ご存知かどうか知らないが」

 目の前の男が穏やかな笑みを浮かべて、祠脇の石くれに尻を任せる自分を見下ろしているという状況がひたすらに、久之には耐え難かった。

 怪しがられるだけの理由を自分が持っていることへの自覚はあった。……不格好な壺や皿を焼くことしか能のない、役立たずもの。それが住まう小屋に、何処からどう見ても十代の半ばにも到底達しない子供が(それも、あからさまに異様な容姿をして)同居しているという事実が人間の「社会」にあって問題の伴うことは、久之にも判っている。

 だから、と言って謝って済ませられることではない。社会的にも、……久之の立場においても、それは同じことだ。

 巳槌と円駆が「社会」の枠内には収まらぬ存在である、そもそもそんな矮小なものを見下ろす処に住んで居るのは当然のこととして、久之自身もまた、この社会から爪弾きされた男である。誰にも迷惑をかけず、ただ山の中で乾いた土になることを選んだ末に出会った巳槌と円駆との日々は、人間としての生と引き換えにやっと辿り着いた平穏である。

 何故其処に、今また再び人間の社会が浸食してくるのか。

 その事実は、久之を悲しみで包み込む。

「お聞かせ願えませんかね。あの子たちとはどういうご関係にあるんでしょうか。……あなたにはきちんとそれを説明する義務があると思います。私もね、要らないことは言いたくないし、したいとも思わないのでね」

 駐在に答える言葉を、久之は何一つ用意出来ない。

 説明するための材料を持っていない。……久之以外誰も信じはしないだろう。あの二人が山に存在する神なのだということ、……応龍と麒麟なのだということ。もとより自分の言葉が極めて無力なものだという認識を、久之は経験上嫌という程思い知って居る。だから貝のように口を閉ざして誰とも交わらず生きて来たのだ。

「困りましたね」

 駐在はあくまで穏やかな口調を崩そうとはしないつもりらしい。しかしそれが痛みを感じさせるほど、久之にとって脅威となることまで、駐在には判っているらしかった。答えを求める言葉を口にする一方で、久之が何を言おうと其れを否定する準備があることを、久之は理解して居た。

「ちょっと、一緒に来ていただきましょうかね。こんな道端では何ですしね。……もちろんご判断はあなたにお任せするところなんですが、一応ね、ご存知かと思いますけども、トンネルの向こうの本署で、ちゃんとお話を聴かせていただけるとありがたいんですよね」

 冗談ではない。全身が総毛立つような心持ちに、久之はなった。元は人間でありながら人間嫌いのこの男に、人間に取り囲まれてねちねちと突き回されることなど耐えられるとは思えなかった。ガタガタと震え、見上げた処で駐在の顔には憐憫の情さえ浮かんでいた。

「ね? 来られるよね? あんた、本当はちゃんと話出来るんでしょ? あの小屋で何やってんだか知らないけれど、俺に付いて来ないとますます疑われるよ? っていうか、俺はもうあんたのことを疑っているわけだけども」

 ぐい、と無理な力が久之の腕を掴んで引き上げた。

「さあ、……一緒に行こうね。言ってる意味はわかるでしょ? あんまり煩わ」

 言葉が、唐突に止まった。久之の腕を掴んでいた力が引き千切られるように外れ、低い苦痛の声と共に駐在は地面に転がった。

「貴様、何をしている……」

 息を乱して、頬を紅潮させた巳槌が唸っていた。円駆も稲妻の隈取りを鮮やかに光らせて、足元の駐在を睨みつけて居る。

 駐在は、自分がこの子供に飛び蹴りを食らったのだと気付いて、目をかっと燃やした。

「何を……」

「僕の久之に何をしていると訊いている!」

 山を震わせるような叫びで、巳槌は駐在の言葉を遮った。円駆の固めた拳が、熱く、熱くなるのを久之は覚えた。

 いけない、と首を振る。言葉は喉に固まって出て来ない。いけない。

「……消えろ」

 円駆が唾と言葉を地面に吐き捨てた。

「とっとと消えろ。……二度と久之に近寄るな」

 駐在は、倒れた時にしたたかに打ち付けたらしい右肘を抑えて憎々しげに二人を睨む。しかし、久之に向けた顔には、笑顔を取り戻していた。

「……ただで済むと思ってないだろうね?」

 久之の心を硬く凍り付かせるような、恐ろしい笑みだ。

「この子供たちは判っていないんだろうけど、大人のあんたはわかるでしょ、こんなことをして、ただで済むはずがないことぐらいね?」

 駐在は踵を返し、肘を抑えながら集落の方へと歩いて行く。

「おい、……あのまま行かせていいのか」

 円駆が呟く。巳槌は答えない。ただ少年は、顔を悲しみに歪めて久之の腕に頬を寄せた。

「……久之」

 続く言葉が、巳槌の唇からは出て来ない。

 巳槌は背伸びをして、両腕で久之のことを抱き締めた。冷たい身体だった。それでも巳槌が、小さな身体で自分を抱き締めようとしている、……傷を癒そうとしてくれていることだけは、久之にも伝わっていた。

 大丈夫だよ、という言葉が出て来ない。

 何も言葉が出て来ない。

「何も言わなくていい。……僕たちには、お前の言いたいことは、……ちゃんと、聴こえているから」

 巳槌は震えた声で言う。

 大丈夫、という声が、どう努めても久之の口からは出て来なかった。

 小屋に戻るなり洋服を脱ぎ、いつもの浴衣に六尺という姿に戻った巳槌は、

「あとは、待つことだ」

 と同じく浴衣に戻った円駆と、ぽつんと脱力して座り込む久之に向けて言った。

「待つ?」

 焦れたように円駆が声を尖らせる。「あの野郎、仲間を呼ぶつもりだぞ。んなことぐらいお前にだって判ってんだろうがよ」

「ああ、だから、それを待っているんだ」

「……纏めて眠らすつもりかよ」

「最悪の事態になったら、それも辞さない。しかし、……恐らくその必要はない」

「何を根拠に……」

「既に準備はしてある。……ただ、残酷なやり方かもしれない、まるで人間みたいなことを僕は自分の力を使ってしようとしている」

 巳槌と円駆のやり取りは、久之の耳にもきちんと届いている。しかし、何を訊こうという気にもならなかった。何故、という問いばかり、久之の脳裡には繰り返し浮かんでは消える。問いは何処にも放たれる事なく、自分の元へと戻って来るかのようだ。

 俺が悪いのだ。

 そういう結論を見出すのは、至極簡単なことだった。

 俺が、おかしいのだ。人間としての出来損ない。人と人との間で生きることの出来ない、馬鹿な俺が悪いのだ。

「お前は何も悪くない。そのことを僕ら二人が解っているだけでは不十分か?」

 気付いたときには、巳槌が目の前に居た。

「お前にはお前の居場所がある。……其れがあの者たちの側である必要が何処にある?」

 巳槌はいつもの通り無表情で、ただ手を伸ばし、久之の強張った頬を撫ぜていた。冷たい手が、こんなにも温かい。久之は震えた。

「……声が出ないか。仕方ない。あれだけ嫌な思いをしたのだからな。でも、……すぐ終わる。お前のような者が、……清らかで可愛らしい命が苦しまなくてはならない世界など、在ってはいけないのだ」

 巳槌が信じるように囁く。久之の声は、まだつかえたように出て来ない。

 

 

 

 

 厄介なのは、人間の多さではない。人間の中に在る心も、本来的には愛すべきものであろうと巳槌は思っている。

 夜になり、暗闇に包まれた山の足元には隧道の向こうからやってきた警官がうろついていた。五人ほどしかいない。それは巳槌が張り巡らせた霧の結界で幾らでもやり過ごすことが出来るだろう。

久之という、知能指数の極端に低い男が、子供二人に虐待を加えている疑いがある。

 森原と、あの駐在が作り出した物語はおおよそそういう筋書きであるようだ。事実として、隧道の向こうからああして警官がやって来るのだから其れは人間の社会なるものにとって一定以上に魅力的なものであったと言えるのだろう。巳槌には馬鹿らしいとしか思えないものであっても、その点だけは認めざるを得ないようだ。

久之は声もなく、じっと小屋の中に息を潜めている。いま恐ろしいのは、煮えるような思いを胸に秘めている円駆が暴走することだけだ。元々人間に信頼をおいていない円駆だから、傷付けることにも躊躇いはないはずで、そうなれば久之は益々苦しみの中に立つことになるだろう。だから円駆には何度も「久之から目を離すな」と言い付けておいた。

 巳槌は、暗闇の中をまたあの着心地の悪い服の一揃いに身を包み、山路を辿っていた。予定よりもあちらの動きが早かったことは認めざるを得ないが、かと言って後手を踏むわけにも行かない。すべきことをする、……しかし、準備は整い切っている。

 ひとけの無い集落を静かに走り抜けた先、川辺からその家の裏に回って、僅かに灯りを漏らす窓辺に寄った。

 茜、僕だ。窓を開けろ。

 と、口に出して言ったわけではない。ただ思案顔の茜の手によって内側の幕が開かれ、彼女は其処に巳槌の顔が浮かび上がっているのを見て、悲鳴を上げかけた。し、と口元に指を当てて、其れを制する。

「具合はどうだ? ……此処が開いていては寒かろうし、お前の家族に知られるのはお前にとっても不都合だろうから手短に済まそう。……お前に一つ、頼まれて欲しいのだ」

 茜は緊迫感のある顔で、巳槌を見つめていた。

「僕と円駆と久之は、村の大人たちによって厄介な立場にある。僕らが本気を出せばどうとでも片付くことだが、……一計を案じている。そのためにはお前の協力が必要なのだ。そして、……僕の考えが正しければ、僕らはお前を護ることも出来るだろう」

 少女は、もう察したろう。

 巳槌がただの子供ではないこと。

 ……祖母に「山の子供には親切にしてあげなくてはいけない」と教えられて育った彼女は、目の前の銀色の髪をした男子が、常識にかからぬ存在であることをたおやかな心で理解している。

 大人たちが言うように、あの髪の長い、ひげの男の人やこの子たちが悪者であるとは思い難い。……思いたくない。

 茜が、白い顔で頷いた。

「ありがとう。……お前はいい子だ。お前は誰にも傷付けられてはいけない」

 茜の目は潤んでいた。

 ……違うよ、僕は、そんな神々しいものではない。「神獣」と呼ばれては居るけれど、ただ人と仲良くしたいなどという甘ったるい理想を、未だ実現出来ないでいるただの白蛇だ。

 しかし、信じてくれる者のことは護りたい。護る力のあるいまならば。

 うん、と頷いて、巳槌は言った。

「お前のいま穿いて居る下穿きを一枚、僕に貸して欲しい」

 彼女は、きょとんとして、頷いた。足音を潜めて廊下に出て行って、……その手には靴を持って居る。何故靴を持って来たのだ、と巳槌は訝ったが、

「ああ……、其れも確かに『下履き』と呼ぶな。だがそうではない、ほらあの、ええ、何と呼ぶのだろうなお前は」

 流石に知らない言葉ぐらい、巳槌にもある。その辞書を牽くためにわざわざ茜の頭の中まで潜るのも面倒で、窓に足をかけて攀じ登って、

「これだ、これのことだ。いまお前が穿いて居る……、こら、何で突き落とすんだ」

 自分の白い下着を見せた格好で、巳槌はひっくり返っていた。

「誤解をするのも無理はないかもしれない」

 そもそも誤解以外どんな反応があるのか、巳槌は知らない。ただ、茜は真っ赤になっていた。

「ただ、……僕は出来る限り、力に訴えることはしたくない。そっちの方がずっと簡単だということは判っているし、僕もそっちの方が楽だ。しかしな、其れでは救われぬ者も居るのだ。だから、判ってくれ。僕が後頭部に作ったたんこぶに免じて。もっともこれぐらい僕の泉の水に浸せばすぐに治るが」

 茜は、真っ赤になってまだじろじろと巳槌を見ていた。何処となく、猜疑心めいたものが見え隠れする。彼女は怒ったように部屋を出て行ってしまった。やれやれと溜め息を吐いた巳槌ではあったが、何か別のやり方を考えるべきかと思い始めるより先に、再び扉が開いた。相変わらず、小屋の畠に出来る夏のトマトみたいな顔であるが、彼女の手にはくしゃくしゃに丸められて体温の残る、少女の下穿きが握られ、手の中からはみ出ていた。

「恩に着る。そしてこれは、事が済んだら必ず返そう」

 彼女は怒った顔で頷いた。そんな彼女に、

「最後に、もう一つだけ頼みがある」

 人差し指を立てて、性懲りも無く巳槌は言った。

「明日の昼、僕らの山にたくさんの人間が入って来る。それを見届けたら、お前にはあの、小学校の便所に行って欲しい。お前も知っているだろう、あの紅い髪が、お前を迎えに来る。……お前が怖い思いをした場所だ。そしてお前はまた少しばかり怖い思いをすることになる。……しかし、僕らは必ずお前を守る、お前が傷つく前に、そして、もう二度とお前が傷つかないように、……必ずだ」

 茜は、少し怯えた顔になった。彼女には、絶対に近づきたくない場所であるはずだ。

 しかし、茜は巳槌を信じた。大人たちの誰もが信じていないこの蛇神のことを、彼女は確かに凡百の人間が持たざるものを持つ者であると信じたらしかった。

「では、僕は行く。……風邪をひくなよ」

 そう言い残して、巳槌は走って小屋から離れた。

 警邏する光から逃れつつ、家と家の間を駆け抜けて巳槌が向かった先は、小学校を左手遠方に見て橋を渡った場所にある、小ぶりな集合住宅である。随分若い建物で、それもそのはず、これはあの小学校が再開すると同時に建てられた、教諭たちの住まいである。

 此処に全部で十の世帯が収まるようだが、いずれも埋まり、生活感のある光が窓から溢れて居るのが見える。

教諭の幾人かは隧道向こうから毎朝、小さな路線バスで通勤しているらしい。此処に住んでいるのは独身者ばかりである。

 住民の中に、あの森原が居ることは既にわかっている。探るまでもなく、二階の南向きの部屋に住んでいることは判然とした。巳槌は建物の影に服を脱ぎ捨て、先程茜から借り受けた下穿きを咥えると白蛇に転じ、音もなく階段を這い上がる。鍵のかかった扉の中に入る方法は一つしかない。扉の腹に空いた、人間たちが使う郵便受けの間から身をねじ込むのだ。

 白蛇には、下穿きを咥えたままでも其れは容易い。首尾よく森原の部屋に忍び込んだところで、巳槌は珍客の在ることに気付いた。僅かに、泥のような酒の臭いがしてくる。

 強過ぎるかに思われる暖気が漏れ出て来る襖の隙間に、そっと耳を澄ませて、……中から森原と、いま一人の声を聴き分ける。

「まあ、もう、時間の問題でしょう」

 軽薄に響く声が、笑みを纏っている。「あの男は、明日の朝にでもあげられるでしょうね」

「大丈夫なんだろうな?」

 森原は慎重な声だった。

「俺は随分あんたに協力したつもりだぞ。もし事が露見するようなことがあったら、俺は人生そのものを失う。……いや、どころかだ、あんたのお仲間に、あの男じゃなくてこの俺が酷い目に遭わされることになるかもしれない」

「だったら最初からあんなことをするもんじゃあないですよ、森原先生」

 森原が、自分より随分と若い相手の舐めた言葉に僅かに気色ばんだ。

「でも、私がこの田舎に来たのは、あなたにとっても私にとっても僥倖とでも呼ぶべきものでね。正直、最初は随分上を恨んだものですよ。ただ、此処には街の方より御しやすい子供ばかりだ。……あなたもあの小学校に配属されたときにはそう思ったんじゃあないんですか?」

 森原が僅かに言葉に詰まり、頷いた気配が在る。

「もっとも、我々が少々やり過ぎてしまったことも事実ですが。それでもね、あの山の浮浪者のおかげで助かる。あの女の子を始末してしまうのは少しばかり勿体無い気がするけれど、我々にも生活があるし、あの男がしたことにしてしまえば大義名分も立つ、いや待ってくださいよ、其れを見付けるのは私ということにさせてください、そうすれば随分と褒賞が出るはずだ……、また別の処へ行けるかも知れないな。……ああ、大丈夫、その金も山分けしましょうよ。なぁに、事が露顕することはない。あの男が娑婆の空気を吸うときには、私もあなたもきっと、全然別のところにいるんでしょうよ。願わくは、その別天地が此処同様楽天地であらんことを」

「……あの男は、上手く我々の思うままになるだろうか」

「おやおや。今更臆病風に吹かれたんですか」

「あの……、得体の知れない子供ら。どうもな。私は何度も彼処へ足を運んだが、何とも気色悪い。紅い方は知性の欠片もなく粗暴なくせに、妙に筋の通ったことを言いやがるし、白い方は……、何というか、表情が一個もなくて、何を考えているのかまるでわからん」

 貴様に見せるような「表情」など一個も持ち合わせていないわ。巳槌は尻尾を振った。

「それにな。……訳のわからんことを言うのは、あの子供らばかりじゃない。あんたも知っとるだろうが」

「ははあ」

 若い男が、わざとらしく驚いたような声を上げる。「あなたあんな半ボケたちの言うことを真に受けていらっしゃるんだ。教師ともあろうあなたが! これは驚きましたねえ」

 からかいを、森原は無視した。若い男は言葉を続ける。

「ねえ。恐ろしい話ですよねえ。この村には白蛇の神様が居て? いつでも人間の子供たちと面白おかしく遊んで居て? 村が水に困らないのはその神様のおかげで? ……しかも、しかもね、……くく、その蛇神さまの、おかげで、雨の害にも遭わない、子供は健やかに育つ……、くくく、だからあのぼろっちい、あの、祠に、酒を絶やしては、いけないんでしたっけ?」

 男はほとんど笑い転げている様子だ。そして、やや高い声で「迷信ですよそんなのは! いやあ、そんな真面目な顔で。やめてくださいよ、腹がよじれそうだ」

 愉快そうに若い男が笑えば笑うほど、森原は仏頂面になっていくようだ。

 そういうことか、という合点が思わぬ客のおかげで、巳槌の中にすとんと落ち着いた。透明な水面に石を落としたように波紋が広がり、其れが収まったときには全てを説明出来るかのように、凛と冴え渡る。

 想定外の収穫だった。巳槌は二人の男が酒を酌み交わす部屋に入ることを諦め、冷たい床を這い、湿っぽく更に冷たい小部屋へと至る、白い陶器の流しに辿り着く。其処で一度人間に戻り、暗がりに目を凝らして、高いところの戸棚を背伸びして開ける。其処へ、茜の下着を放り込んだ。

 今更のことではあるし、相手が女児であることだから敢えての述懐は差し控えるつもりの巳槌ではあるけれど、少女がついさっきまで、つまり一日ずっと穿いて居た下穿きには、少女の体臭がくっきりと染み付いて居た。其れがどれほど重要なことであるかは、想像出来る巳槌である。

 これで用は済んだ。足音を潜めて内側から堂々と集合住宅の内廊下に出てからは、走って外へと飛び出す。が、慌てて止まったのは、塵袋を手にしたあの養護教諭の姿が目に止まったからだ。

 昼間の白衣とは比べものにならない、みすぼらしい綿入れを羽織って、彼女は塵の詰まった袋を玄関先の集積所に置いているところだった。

 どうするか。考えを巡らせたせいで、蛇に戻るより先に彼女が振り向いた。仕方が無い。

「こんばんは」

 裸のまま、巳槌は丁寧に人間のお辞儀をする。目にしたものがあまりにもおかしな取り合わせであったからだろう。彼女は驚愕しては居たけれど、大声を上げるようなことはしなかった。無理が通れば人間の当たり前の反応も引っ込むものらしい。

「このような格好で申し訳ありません。夜の散歩をしていたところ、此方に足が向いたのですが、勝手に入ってはいけない場所のようですね。すぐに出ます」

 女の思うところはすぐに判った。

「小屋からずっと裸で来たわけではありません。……家の者が買い与えてくれた服はこの建物の裏手に脱ぎました。きちんと畳んで。だからいつまでもぼっと突っ立ってないで何処かへ行け」

 彼女は何やら大いなる誤解をしているらしかった。何だか巳槌の中に酷く卑猥なものが詰まっていて、それはつまり、久之によって植え付けられたものであり、要するにその卑猥な趣味を満たすために、久之が巳槌に裸で外を歩くことを命じたのではないか、と。事実、彼女はきょろきょろと暗がりに目をやり、久之の姿を探している様子である。

「僕一人です。つまり、……ええ、何と言えば伝わるか。度胸試しというか、鍛錬というか、この寒中で服を脱ぐことで肌を鍛えているのです。だから僕は風邪を、……風邪を」

 くちん、と控え目にくしゃみをして鼻水を啜った。冗談ではなく、本当に風邪をひいてしまいかねない。

「……とにかく、あなたが想像しているような猥褻なことをしていたのではありません。判ったらとっとと行け女」

 巳槌は彼女を押し退けて、急いで建物の裏手に置いた服を着る。服はすっかり冷えていて、震えが走るほどだ。

 女は、まだ居た。訝しげに巳槌を見ている。……鬱陶しいな、と思いかけたところで、巳槌の頭に一計が浮かんだ。

 あの女が何故、僕らの生活を侵害しようとするのか、その真意を確かめることは無価値ではない。

 森原の考えるところは、もう判った。然るに彼女は一切の利害も持たず、「善意」なるもののみで行動している。

 其処に楔を打つことには、十分過ぎる効果を期待できる。……巳槌はそう考えたのだ。

「あなたは、子供たちを護る仕事に就いている。……僕は『教師』というのはそういう仕事だと、僕は認識していますが」

 はじめ、この女が森原と一緒にやって来たときには、久之が僕に円駆にいかがわしいことをしていると、……まさしくそういう誤解が前提にあるのだという認識を、巳槌はした。

 だが待て。僕らは里に幾度も姿を表していた、……それ以前より、そうだ。小学校が再開されてからも、壺を皿を売りに行く久之について何度も降りたものだ。

 森原たちにとって、久之が恰好の身代わり人形になっていることはもう判った。だからあの者たちの意図するところに、この女は巻き込まれているばかりなのではないか、と……。

「尾野部先生は、僕と円駆が久之に、何か口に出すのも憚られるようなことをされて居ると、ずっとお考えなのですね?」

 尾野部は、はて、あたしはいつこの子に名乗ったことがあったかしらんと内心訝るが、ほとんど反射的に頷いてしまっていた。

「つまり、尾野部先生の護らなければならない小学校の子供たちと同じように、僕と円駆を捉えて居る」

 尾野部は意を決したように、「そうよ」と頷いた。

「あなたたちぐらいの子供が、親のそばではなく、あんな、……貧しい山小屋で、ろくな教育も受けないで暮らして居ることを放置しておくわけには、私たちはいかないの。だから」

「僕と円駆は子供ではありません。と、何度も申し上げても先生には判って頂けないのでしょうね?」

「当たり前です」

「そうですか。判りました。……確かに僕らはこういう姿形をしていて、どこからどうみても子供だ、ちんちんも毛が生えてない。しかし、……子供ではないのだ、断じて」

 巳槌は、ふう、と白い息を吐いて、足元の雪を掌に掬いとり、尾野部に注目を促す。

 掌に乗せた雪の塊が、ぴしり、ぴしり、ひび割れるような音を俄かに立て始めた。

「こういうことを出来る子供が、あなたの小学校の子供たちの中には当たり前のように居るのでしょうか」

 雪の塊は見る見るうちに、細かな雪の粒となる。闇夜に棲息する僅かばかりの光を集め、それはきらきら、きらきら、霧状の粒子となって周囲を漂い始めた。

 巳槌が指を鳴らすと、その霧は一瞬で水と化す。元の雪の上にぱらぱらと散らばった。

 女は、ぼんやりと巳槌の顔を見つめて居る。

「あなたは、最初に僕たちの処へやって来たときのことを覚えていますか? ……久之が腰を傷めて、あなたに薬を分けていただいたときのこと」

 尾野部は、すぐに「覚えているわよ。……あのとき」

「どうやって帰ったのか、思い出せないのではないですか?」

 思いがまっすぐ其処に至ったように、彼女は思い至る。彼女と森原は、自分たちが管理する小学校の保健室で目を覚ましたのだ。何だか、道端で眠りこけて居る処を児童に見つけられて。……あの後、ひどい風邪をひいてしまったことまで、彼女の記憶は蘇る。

 巳槌は闇に銀の瞳を光らせて、尾野部の両目を見据える。

「あっ」

 と彼女は小さく身を硬くして、……その唇が悲鳴の形を作ったから、其処から声が溢れる前に、親指大の氷塊を彼女の口に放り込む。

 彼女は思い出しただろう。

 紅い麒麟が人の言葉を喋ったことや、箱から投げ出されて、巨大な白い龍の塒の中に落ちたこと。

 そして、恐ろしい牙の並んだあぎとと、間近に直面したことまで。

「……僕はお前たちに何かを期待しているわけではない」

 溜息交じりに、巳槌は言い放った。

「ただ、僕らはお前たちに迷惑をかけたりしない。お前たちによって久之が苦しむ様を見たくないだけのことだ」

 腰を抜かした尾野部を見下ろしながら、巳槌は無表情に、淡々と。

「お前の思い出したものは、きっと誰にも信じてはもらえまい。せいぜい僕らが散々信じてもらえなかったのと同じ思いを噛み締めるがいいよ。……ただ一つ、子供を護りたいと思う純粋な気持ちがお前にあることばかりは、僕は認めてやってもいい……」

 去り際、巳槌は振り返る。

「森原はお前を僕らの小屋に誘った。そうだな?」

 尾野部は、わななきながら頷いた。

「人の心にあるものが常に善意であるなどと思わないことだな。子供を害する者は、お前の、思いもよらぬほど近くに居る。……心底から護りたいと思って居るのなら、僕らに要らぬ興味を持つ暇に、本当に助けを求める子供の声に耳を傾けるがいい」

 考えるがいい、と巳槌は言い残し、其の場を後にした。考えれば考えるほど、護るべきものを護るにはどうしたらいいか、より深い処へ理解が至るはずだから、と。

 

 

 

 

 巳槌が帰って来た。久之は、先程眠りに就いたところだ。円駆は同じ布団で久之の身体に寄り添い温めてやりながら、顔だけ布団の外に出して「遅かったな」と不機嫌な声で言った。

巳槌は其れには答えず、

「明日の朝には、霧を晴らす」

 と言った。

「ああ……? んなことしたらお前……」

「うん、人間たちが大挙して山に入ってくることになるな。……しかし僕が何の準備もなくそうすることを選ぶと思うか? 僕の頭のいいことぐらいは認めてくれたっていいだろうよ」

 それは、まあ、そうだ。この男は気持ちが悪いぐらい、頭がいい。性格の悪さもその辺りに裏打ちされて在るように思う。

「ちょっと来い。久之は寝て居るのだろう」

 巳槌は浴衣に着替えて、しんと冷える戸外に円駆を招いた。何を考えているか判らない、けれど知りたいと思ったから、円駆は綿入れを羽織って渋々、後を追った。

「……僕は、人間たちの誰とでも仲良くなりたいと思っていたんだ。そして僕は、そう無茶なことを願っているわけでもないと思っていた」

 いつもの通り、淡白な声で巳槌は言う。そういう顔だから、考えは余計読めない。ただ僅かにその声が、悔やむような、悲しむような、痛みを帯びて伝わってくることだけは円駆にも感じられた。

「……人間の中にも、許し難い輩は居る。具体的には、子供を酷い目に合わせて甘い汁をすすろうという者どもだ」

「……俺は久之のことをいじめる奴らが許せないと思うけどな」

「お前は、其れでいい。事実、久之をいじめる連中はそのまま、子供をいじめる者と重なる」

「意味がよくわかんねえ。判るように言えよ」

 巳槌は、円駆を馬鹿にすることなく頷いた。

「……あの、男のほうの教諭と、昼間久之に至極不愉快な思いをさせた駐在は、共通の利害を持っている。そして奴らの視線の交わるところには、茜がいる。あの、昼間僕らを案内してくれた女児だ」

 円駆には、巳槌が並べた幾つかの要素を結ぶ線が見えて来なかった。あの子供は確かに森原のことを恐ろしく思っているようではあったが。

「……僕はな、久之と、実際に自分の身体を使って交わって見て、……心に宿る欲を重ね合うことは何と素晴らしいのかと、学んだ。しかし同時に学ばなければいけないことがあった。……片方だけが欲を抱き、もう片方が其れを拒むとき、あの行為は恐ろしく穢れたものになるのだということだ」

「てめぇは最初にこの俺にしたときには何も学ばなかったのかよ……」

 円駆は唸ってじろりと巳槌を睨んだ。巳槌は何でもないような顔で肩を竦めて、「あれが嫌だったのなら謝ろうか。僕はお前が僕を好いてくれていることを知っていたからああしたのだけどな」と、事実であるがゆえに憎たらしいことを言う。

「謝ったほうがいいのか?」

「……もういいわ。それより、何が判ったってんだよ」

 巳槌は眉に憂鬱な色を描いた。無表情で居ても情動は自然と顔に現れる。

「……茜のことだ。あの女児は、まさしくの、望まぬ形での応対を強いられている」

 円駆は、まだ判らないで居た。……久之に、巳槌に、普段されていること……、ゆっくり頭の中へ転がして、

「……あの女のガキが?」

 人間の社会に疎くとも、巳槌の言葉が意味することと、其処に伴う問題の重さは理解出来るつもりだ。円駆自身、男の子供の身体をして居ながら巳槌と久之と、自分の身体を女のように扱う形の「愛し合い」には慣れて居る。ただ其れが無理の在ることだという点については主に尻に感じる抵抗で理解している。……好きでもない相手とこんなことは出来ない。要するに円駆は巳槌と久之を愛していた。

 然るに、……あんな小さな女児が。

 好きでもない相手と。

「……昼間、言ったな。あの女児が抱えるような、靄の掛かった秘密を同じように抱える子供を、僕は昔に人間たちと交わっていた頃、時折見かけたと。……しかし僕はその靄の中身までは見抜けなかったのだ。久之と出会って、自分の身体を用いてとくと知って、やっと理解出来た。あの子供たちは恐らく例外なく、大人から望まぬにああいう目に遭わされていたのだ。……多くは女児だったが、中には男の子供も居た」

 巳槌は乱暴に首をうち振るった。銀の髪がぶわっと、揺れる、怒りに、哀しみに。

「何が神だ! 何が人間と仲良くしたいだ! ……馬鹿らしい。僕は悩み苦しむ子供たちを側に置いて居たのに、あいつらを救ってやることはおろか、その苦しみを知ってやることも出来なかった……」

 巳槌は、人間を、子供たちを、愛して居た。そのことを円駆は、判りたくないほど判っている。人間は皆「善良」な生き物で、優しく在って、……悪意など、物の数ではないと思って居たに違いない。いや、事実として彼がかつて交わった人間たちのほとんどは、彼が好きになるほどにいとおしく思えるような者たちだったのだろう。

 然るに、久之と出会い、ああいった形で人間たちの嫌な部分と直面することを強いられて居る。其れがこの男にとってどれほど胸の捩れることか、円駆にも想像することが出来た。

「……だから、お前はそういう連中から久之を護んだろうがよ」

 円駆が拙くとも搾り出した言葉に、彼ははっと顔を上げる。

「久之を護ることが、あの、茜っていうガキを助けてやることにも繋がる。同じように苦しむガキを作らなくていいようにする。……そういうことなんだろ」

 巳槌は二度、強く頷いた。

「ああ……、そうだ、その通りだ。珍しく聡明なことを言ったな、褒めてやる」

 せっかく珍しいほどに優しい言葉を掛けてやったのに、……しかし、こういうことを平気で言って、

「僕はお前が大好き」

 などと抱きついてくるような男が、円駆のよく知る巳槌である。

「お前には明日、大働きをしてもらわなければいけない。忙しくなるぞ」

「大働き……?」

「まず、……朝一番で久之を背中に乗せて、お前の元の棲家へ連れて行ってやるんだ。万が一にでも久之が怪我をするようなことがあっては困るからな。彼処ならば人間は到底見つけられまいよ」

 山の奥、頂へ至る道からはずいぶん出外れた場所にあるから、確かにそうだろう。

「人間たちは場合によっては久之に危害を加えるかも知れないからな。出来るだけ、連中から遠ざけておくべきだ」

 そう言われれば円駆だって、久之を背に乗せて山を走ることくらい何でもない。

「しかるのち、お前は山を降り……、ちゃんとあの着心地の悪い服を着るんだぞ。人間たちに見つからないようにな。そして、茜を背中に乗せて、昼間の、小学校の便所の中に隠れろ。ああ、茜とは別々の囲いの中に入るんだ」

 ……まあよかろう。

「それでもって」

「おいちょっと待ててめぇどんだけ俺を……」

「ああそうだ、人間の便所の床は汚いから裸足では上がるなよ。麒麟になるときにはあいつに靴を持ってもらえ」

「無視かよ!」

「そう、その後はあの森原という男を僕が運んで行く。森原が茜の居る方の囲いに入ったら、様子を注意深く観察して、茜の身に危険が生じるようなことがあれば、……怪我をさせなければ何をしても構わない。好きなように暴れて散々に驚かせてやればいい」

 勝手ばっかり言ってやがる、円駆は唇を尖らせるが、まあ、最後の一節に僅かばかりの配慮が見えなくもないので許してやることにしようか。

「……んで? お前はどうすんだよ」

「僕は今言ったように森原を彼処へ運んで行くんだ、……もっとも、それだけじゃないが。既に準備は万端整っている。後はまあ、仮にもそんなことがあるとは思えないが、微調整が必要な部分が生じたら対応する」

巳槌はいかにも重々しいことのように、「僕の考えがうまく行くかどうかはお前にかかっている。……頼りにして居るぞ」

 などと言ったが、よくよく考えれば考えるほど、円駆は自分が損な立ち回りを任されたような気になる。

しかし、繰り返しになるが、自分より頭のいいことは間違いない巳槌の言うことである。一々文句を付けて、その度に理路整然たる反論をされて気分を害することになるよりは、納得顔で頷いておいた方がいい……、ということぐらいは、この麒麟も学習している。

 だから翌朝、不安に顔色を悪くしている久之に、「乗れ」と言って、麒麟に変じた。

「知っての通り、道は険しい。急ぐから飛ばすぞ、しっかり掴まってろ」

 久之が息を切らせるほど急な小屋から泉までの坂を、一足飛びで越えて、木々の中を駆け抜ける。山はどんよりと雲に覆われて寒々しいが、久之が寒さを感じることはほとんどないはずだ。かつての寝床にはすぐ着いた。

 円駆は麒麟のままで、

「奥の方は少しあったかい。風邪をぶり返させんなよ」

 久之に向けて言う。彼は昨日からずっと言葉を失ったままでいたが、

「円駆……」

 麒麟の名を、弱々しい声で読んだ。手をおずおずと伸ばし、彼のたてがみに手をくぐらせる。

 やっと喋りやがったか。

「……ごめんね、……こんな、ことに、なるなんて……」

「お前に謝られても嬉しくねえな」

 円駆はあえてぶっきらぼうな言葉を選んだ。

「……お前は何も悪くねえ。ただ風邪ひかねえように、人間たちに見つからんように、ここでじっとしてろ。……いいな」

 久之が、申し訳なさそうに頷く。

 ……俺は、護るのだ。という思いが円駆の中でちりちりと音を立てて燃える。

この、誰よりも「善良」で、……それこそ、「善意」だけで出来ているような「人間」のことを護るのだ、と。

巳槌に指示されたいろいろを、面倒と思う気持ちはもう捨てて居た。俺はこの男と過ごす時間のために、やるべきことをする。全てする。それで巳槌も笑うならば、何が足りぬものか。

 久之が洞穴の奥で腰を下ろすのを見届けてから、巳槌は大きく一つ吼えた。山の獣たちに人間の襲来を教え、身を隠すように命じたのだ。

 

 

 

 

 洞窟の奥、光の届かない暗闇の底でじっとしていた久之が、生き物の存在に気付いたのはいつからか。暗闇全体が脈動するかのように気配が蠢動したと思った次には、

「円駆……、ではないね」

 闇から滲み出るように、声が響いた。

「……誰かな。……この匂いは……、巳槌かい?」

 一瞬で、……一斉に、紅い光が瞬いた。洞穴の暗い天井に、びっしりと紅い光点がぽつぽつ、ぽつぽつ、覆い尽くさんばかりに。

「人間……? どうして人間から円駆と巳槌の匂いがするのだろう……。不思議なこともあるものだ……」

 少年の、訝るような声は続く。

「ええと……、ええと……、考えが纏まらないな、……つまり、こういうことか……、君は……、人間で、巳槌と円駆の友達か……? うん? おかしいな……、巳槌と円駆は仲が悪い……、水と油みたいに……、ん? 違う……、そうだ、そう、二人は和解したんだったね……。ふぁああ」

 最後のは、のんびりとした欠伸だった、……巳槌のように無愛想ではなく、円駆のように尖ってもいない。そのせいか、きっと同じ世代の身体つきをしているはずのその声は、何だか二人のものより幼く耳に響く。

久之は、鼓動を抑えることに成功していた。相手は巳槌たちと同じ、神なる身である。

「僕の声を聴いても驚かないんだね、……天井のこの景色、人間にはきっとおぞましい……、いや、だから、そうか、君は円駆たちの……、友達だったか。……ううん、いけないな、まだ寝ぼけている……、ふわあぁ……あ、と」

 ぴたん、ぴたん、水滴の跳ねるような音が背後から近づいてくる。

 久之は真っ赤な光のつぶつぶに見下ろされながら、じっとしていた。

 巳槌と円駆以外にも、たくさんの、……あるいは八百万の神が生きる山である。その中で、当初とりわけ強い力を持って権勢をふるっていたのが円駆、いま応龍として空から統べるだけの力を得ているのが巳槌である。

まだ久之は二人以外の神をほとんど知らない。多くはかつての円駆同様、人間を憎んでいるはずだが、……何年か前に初めて見て、以降、毎年その時期になるといつも見に行く春呼びの神のように、争いとは無縁のところに居る者もあるようだ。

「へえ、……本当に人間だ……、そして、……巳槌と円駆の、音が匂う」

 気付けば傍に黒い子供が座っていた。

 人間の姿を持つ神獣であるから、裸である。

 黒く見えるのは其処が暗闇の底だからだろうか。ひんやりとした存在感を纏い、紅い目を光らせて、子供は居た。

「人間、君の名前は?」

 心を読めば判るだろうに、少年はのんびりとした声で訊いた。

「……久之」

「久之……、そうか、君の声は聴いたことがある。巳槌と円駆の笑い声と一緒に……、そうか、君だったんだな」

 一瞬、紅い目の光が消え、また光った。よく観察していれば、其れは繰り返される。その神なる身が瞬きをしているに違いない。

「僕は、くうせん、というんだ。蝙蝠だよ」

くうせん、「そらのたたかいと書くんだよ」と彼は教えた。何とものんびりと、ゆっくりと喋る少年である。

「そうか、僕は……、円駆が此処を留守にして、ずいぶん長いこと帰らないみたいだったから、此処を自分の寝床にして……、どれぐらい経ったのかな。……寒い、いまは、冬かい?」

 久之は頷いただけだが、暗闇で空戦はそれだけで見抜いたらしい。いや、見抜いたのではないだろう。恐らく彼は、久之の首肯の音を感じ取ったのだ。

「そうだ、思い出したよ……、やっと目が覚めてきた。人間が……、君がこの山に入ってきたとき、ひと騒動あったんだったね。それで僕は、君を追い出すために協力するように、円駆に頼まれたんだ。……でも僕は、面倒ごとに関わりたくなかったから、うんと言って何もしなかった。……君からあの二人の匂いがするということは、平和的に事が済んだということらしい……、いや、それは僕も知っていたはずだけど、……うん? いや、そのときにはまた寝ていたのかな、上手く思い出せないけれど、多分そういうことなのだろう……」

 また、空戦は大きな欠伸をした。それから紅い目をぱちぱちとさせて、

「君は半分だけ、僕らとおなじになっているんだね?」

 また、のんびりとした一人語りを再開する。

「そうか。君は……、なるほどね、巳槌と円駆と、そうだ、あの二人と仲良しの人間だったんだ。だから、ええと……、ごめんね、まだるっこしいだろう。でも僕は、寝起きが悪くてね。しかも目がほとんど見えないものだから……、よく円駆に叱られたものだ。いや、そんなことはどうでもいいか。……あれ? おかしいな、人間の気配がたくさんある。こんなこと、これまでなかったのにな……。君が入って来ただけで大騒動になるような山だよ。それなのに、不思議だな。円駆は君をここに置いて何処へ行ったんだろう? 悪いけれど、どういうことになっているか、教えてくれないか? ……何せ寝てばかりいるものだから、外のことには疎くってね」

 久之の説明下手は、言うまでもない。のんびりとした蝙蝠の神と、半神半人の久之の会話は、ずいぶんと長く続くものとなった。

「ふむ、なるほどね、……そういうことになっていたのか。ならば君から二人の匂いがするのは納得だ。……では、たくさんの人間がいまこの山に入り込んで来ているのはどういうこと?」

「それは……」

 相変わらず、空戦は久之の心を読むということはしないようだった。

「……俺が、巳槌と円駆を……、この山に閉じ込めて、……ひどいことを、していると、思われているから……。だから、村の、警察……、つまり、悪人を取り締まる人たちが、俺を、捕まえようとしている……」

「妙な話だな。君から聴く限り、君はあの二人を仲直りさせて、幸せにさせこそすれ、酷い目になど遭わせていないように思えるけど」

「……それは……」

 ふぁあ、また空戦は欠伸をした。それから彼はゆっくりと、

「僕は円駆と仲がいい。彼がどう思っているかは知らないけどね、……まあ彼のことだ、僕が仲良しだなどと言ったら大急ぎで否定するだろう、昔からそういう男だから。……でもって、喧嘩はあまり好きじゃないし得意じゃない。だから、巳槌のことだって元々そんな嫌ってはいないよ。まぁ、彼は性格が悪いけれど」

 言いながら、洞穴の入り口に向かってゆるゆると歩き始める。

 暗闇に慣れてしまった久之には、空戦の背中が黒く浮かび上がり、光の塊に押しつぶされそうに見える。

 其れを差し引いても、小さな身体だ。円駆よりはもちろん、巳槌よりももう一回り小さく見える。痩せていて、……髪は二人よりも短いのだということも久之には見て取れた。

「君があの二人にとって大切な友達か、あるいはそれ以上の何かだということは判った。それなのに、人間にとってのみ都合のいい理屈で山を荒らそうというのは感心しないね。……君も、どうやら半分は僕と同じようだ。君も僕の友達ということだ」

 空戦を追って、久之は慌てて洞穴の入り口に向かって走った。

「うぅん……、ほとんど見えないけど、眩しいな。そして騒がしい」

 昼の光のもとで見る空戦は、黒髪の小さな少年だった。

 ほっそりとした身体は、幼さを捨て切れていない印象だ。手足も、巳槌よりも更に華奢で細い。真っ黒な髪は耳に少しかかるほどの長さで、細い両の眉が出ている。

 白い顔の、右目から涙の伝った跡のように、黒く細い線が頬まで続いている。

 空戦の瞳は真っ赤だ。赤水晶を埋め込んだように僅かに顰められたその目はしかし何も見ていない。

 血色のよくない唇を、彼は微笑ませた。

「せっかく出来た新しい友達だ。……君は何か力を使えるのかい?」

「力……」

「ずっと二人と一緒に居たんだろう? ならば、元が人間であったとしても少しぐらいは使えていいと思うんだけど」

 久之は、……両手を掲げる。片方に焔を、もう片方に冷気を、ほんの少し集めてすぐ消した。冬山で不用意に使っては何をしでかすかわからない、まだ不慣れな力である。

「へえ。二人から半分ずつ受け継いでいるんだね……、すごいや」

 くくっ、と空戦は笑う。子供の形をしていながら、それは巳槌よりもずっと大人びた笑みであるように久之には思える。

「……では、久之。耳を塞いで。……僕の力はちょっとばかりうるさいから。半分は僕らと同じになった君も、間近ではなかなか堪えるだろう」

 言葉の意味も不分明なまま、久之はとにかく耳を塞いだ。空戦はそれを確かめるように目を瞑ってから。

 

 

 

 

「うるさいなあ」

 巳槌は顔を顰める。山の頂きの杉の木の天辺、その杉の太い幹さえ揺らすほどの、空戦の声に。

「しかし、そうか。空戦が起きたのか。……まあ、却って都合がいいと言うべきか、後片付けが面倒になったと言うべきか」

 巳槌の見下ろす山のあちこちで、警官が泡を吹いて倒れている。この寒山であれらを放置すれば凍死しかねないから、後でまとめて麓に返してやらなければならない。もっとも、それは円駆にも手伝わせるからいいのだが。

 その円駆は、概ね巳槌の言った通りに動いている。麓をあの着心地の悪い服ではなく、浴衣に六尺で走り抜けて行くのは気に食わない。何故あれを着て行けと僕が言ったのか判らないからけだものなのだと思うが、それも別に、巳槌が困ることではない。久之は、ちょっと困るかも知れないけれど。

ただ、朋輩はもう茜の家に着いたようだ。其処で「どっから入れってんだよ」とぶつくさ言っている声が、巳槌には感じることが出来る。

「裏手からだ。茜が窓から顔を出しているぞ」

 言葉の通り、茜は何らかの気配を感じている。……昨日の昼に彼女が飲み込んだ巳槌の泉の水は、まだ彼女の身体の中に残っているらしい。其処に自分の分身とでも呼ぶべき水があれば、いつでも巳槌の声は人間を動かす。巳槌は彼女に直接声で命じなくとも、彼女を探す者が間も無く窓の外に現れることを教えることが出来た。

 巳槌以上に馴染みのない紅髪の少年に戸惑っている茜の前で、円駆は「いいからとっとと俺の背中に乗んだよ!」と焦れて声を上げつつ、浴衣を、そして六尺を脱ぎ捨てる。慌てて茜が目を閉じたときにはもう、彼女のあまり大きくはない家の裏手に、焔を纏った麒麟は立っていて、

「……ああクソ面倒臭ぇ」

 窓から首を突っ込み、茜の襟首を牙口で掴まえてひょいと自分の背中に載せる。茜の口からは驚きの叫びも出てこない。

「いいか、しっかり掴まってろよ」

 乱暴に言い放つと、円駆は一気に屋根の上へ飛び上がり、茜の二親が騒がしさに気付いて扉を開けるのを、すんでのところで回避する。

「では」

 久之はあの洞穴の入り口で、やや得意げな空戦に素直に感心している。空戦の目覚めと久之との交流は、何もかも好ましいことではないかも知れないが、山に這入り込んだ警官たちの動きをいちどきに止められたのだから文句はない。そして円駆はあの通り、しっかりと仕事をこなしている。

「僕も行こう」

 巳槌はひょいと浴衣を脱ぎ捨てて、杉の木から身を踊らせる、……みるみるうちに巨大な天翔る龍となる瞬間を見た者は誰も居ない。

 さて、何処に居る。

 雲の上から探すまでもなく、すぐに判った。駐在は空戦の一声で警官が一掃されたことに気づくはずもなく、山の麓でほくそ笑んでいる。森原はあの建物の中に居て、時折窓から山の方を不安げな顔で伺っている。

 そして尾野部も同じ建物の中に居るらしい。

 巳槌の考えはこうだ。

 森原はこれから、昨晩あの駐在と決めた手はず通り、茜を「始末」しに行く。あるいは、あの駐在も一緒に来るだろうか。人間同士繋がり庇い合う言葉のあった方が、連中にとっては都合もいいだろうから。

 人間の大人二人ぐらい、多少武器を持って居たとしても円駆には恐るるまでもない。寧ろそのことは、円駆の煮えたぎる鬱憤を晴らすためのいい材料になる。

 巳槌は尾野部の処へ、人間となって現れ、彼女にあの男の家を捜させる。そして昨夜巳槌が置いて行った、茜への虐待の証拠たる物件を彼女に見付けさせる。

 その頃にはもう、円駆の方は片付いていることだろう。

 あとは、洞穴に久之を迎えに行って、……空戦にも一応、挨拶をして。面倒だが警官たちを山から追い出してやらねばなるまい。

 これで平穏が戻る、……かどうかまでの確信を持つわけではない。ただ少なくとも、居るべき処に当たり前に居るだけの久之が、いわれのない嫌疑をかけられ、悲しみ、傷む必要はどこにもない。それを証明するためだけの一仕事だ。

 面倒だが、嫌だとは思わない。愛する者のために動くとき、生きている実感が巳槌の中に湧いた。

 ……容易いまでの自己満足とも言える。久之を、愛しているから護りたいという、別に久之から求められたわけでもないことを、自ら進んでやりたいままにやって、気持ちがいいと言う。しかし、久之が喜ぶのならそれでいいだろう。誰かが苦しむのならばそんなことするべきではないが、きっちり幸せにしてやるつもりで巳槌は動くのである。

 それが、この神獣にとっては愛情だった。求められるより先に注いで満たして愛しき者の心を潤す、それが巳槌の愛情だった。

 森原の部屋の上で浮遊し、彼がその日幾度目か、窓を開いた瞬間に応龍は大きく息を吸い込む。このようなもの不味いに決まって居るから、急速で空に駆け上り、学校の裏手に吐き出す。その、余り品のいいとは言えぬ音は円駆も聴いたろう。間も無く出て来て、巳槌の胃液にまみれた森原の倒れているのを目撃するが、納得顔で彼はまた便所の囲いに戻った。

 森原は、すぐには目を覚ますまい。あとは駐在だ。

 あのいけすかない男は少々驚かせてやりたく思っている。空中で人の姿に戻り、落ちながら服を着ようとして、結局白い下着を何とか足に通したところで着地した。久之の小屋へ登る単索軌道の起点には多くの警官が居て、その中にあの駐在がにやにやと陰気な笑みを浮かべながら混じっている。連中は単索軌道を外しに掛かっているらしい。

 服をきちんと着て、髪の色と表情を除けば、其処らの村の子供と大差ない、つまりは相変わらず巳槌のままで、彼はつかつかと歩み寄って、

「僕の家の物を勝手に壊さないで頂きたい」

 と声を張った。

 駐在がぎょっとした顔で振り返るが、すぐにその顔に、真面目くさった笑みを取り戻して見せる。

「この子供です」

 厳めしい顔の、隧道向こうからやって来た指揮官と見える年嵩の男に向けて言う。

「もう一人、いるはずじゃないのか」

「はい。恐らくはこの山の中に。しかし、早晩見つかるはずです」

「当たり前だ、三十人体制だぞ。それにしては報告が遅れているようだが」

「久之はこの山の中にはもう居りません」

 巳槌は静かに言い放つ。

「探すだけ無駄だと思いますよ。それより、三十人と仰ったお仲間が遭難しないことを考えた方が賢明だと思いますが」

「嘘でしょうな」

 駐在が小馬鹿にしたように笑った。「昨晩からあの男が山を降りたということはあり得ない。……課長、この通り、この子供はあの男に懐柔され切っているのです。もう一人、紅い髪の子供もいます。あるいは他にも何人も居るのかも知れませんが」

 ふん、と年嵩の男はじろりと巳槌を見て、……当たり前のことを訊こうとしたようだ。答えるのも馬鹿らしい。しゅ、と息を鋭く吐き出しただけで、彼は声をなくし、力を失い、その場に膝をついて寝込んだ。

「課長」

「馬鹿馬鹿しいな……、僕は人間を買いかぶり過ぎて居たのか。久之のように皆が優しければ、傷付く者の出ようはずもないのに」

「何をごちゃごちゃと言っているんだ」

 駐在の顔に鋭く一瞥を投げて、巳槌は山に背を向けて走り出す。駐在がどう動くかは、手に取るように判った。

「待ちなさい! 止まらないか!」

 森原は、間も無く目を覚ます。予定通りに罪を犯すために。

 駐在はそれを発見しなければならない。……簡単な話だ。森原は駐在を仲間だと思っている。茜に乱暴をした自分の協力者であると。事実、駐在は協力はしただろう。森原の犯した罪を隠匿し、自らも茜の幼い身体を貪る。学校には森原が、警察には駐在が、茜には壁となり睨みを効かせている限り、彼らは安全だから。

しかし、駐在は森原を売るつもりだ。茜同様に処分するつもりだ。森原が生きている限り、今は彼の弱味につけ込んで甘い汁をすすることが出来ていても、いつなんどき秘密が噴出するかわかったものではない。駐在はその未来に耐えるつもりもないのだ。

 自らは手を下さず、茜を森原に殺させ、自らは森原を殺害する。……罪を犯した者と、自分が穢した者を、いちどきに駐在は抹殺出来る。久之という、「罪人」が現れたのは駐在にとっては何とも好都合なことであったろう。

 予想していた通り、駐在は途中で巳槌を追うのをやめた。巳槌は速度を落とさず、そのままあの建物の敷地に入り、鉄板の扉を拳で叩いた。

 尾野部がびっくりしたように顔を出し、……扉を叩いたのが巳槌であることを知り、また目を丸くする。

「今すぐ森原の部屋へ行け」

「……はい?」

「部屋に、……奴がお前の護りたい、可愛い子供に酷い目を遭わせた証拠がある。……今すぐにだ、行け! 鍵は開いている!」

 ほとんど寝間着同然の格好、頭には寝癖も付いたままの尾野部は突然現れた巳槌の命令に大いに面食らっている。しかし巳槌に重ねて声を荒げさせることはなかった。

 つっかけの脱げそうになるのに辟易しながら階段を上がって行く彼女の背中を見送ってから小学校の方を伺えば、もう森原は目を覚ましたらしく、自分が何故こんなところにいるのか、正体を失っているさなかだった。其処へ、駐在が走って行く。

 

 

 

 

「巳槌……、あの白いのに聴いた。お前、あの男たちに嫌なことされてんだってな」

 円駆の問いかけに、壁の向こうから返事はなかった。二つの囲いを隔てる敷居はさほど高くなく、天井はつながっている。よいしょ、と円駆はよじ登って、少女を見下ろした。

 茜は紅くなって、目を潤ませている。

 ただ、不意に目を上げて、

「あの子も、あなたも、どうしてそんなしょっちゅう裸になるの」

 と、非難がましい声で言った。

 事実、円駆は現在、およそまともな人間のする格好をしていない。巳槌がどうしてあの着心地の悪い服で行けと言ったのかがやっと理解出来た。六尺を自分で締められない円駆であり、自分で結ぶと浴衣の帯もだらしなくなってしまいがちだから、現在胸から下半身まですーすーと寒くて仕方がないのである。

 しかし、円駆は笑った。

「面白ぇこと言う奴だな。麒麟見ても腰抜かさねえなんてな」

「おばあちゃんが、山の子供は神様だって……、だから、どんなでも、驚いちゃいけないって、言った……」

「なのに、男のちんちん見て驚いて真っ赤になってんのかよ」

 茜はますます紅くなる。

 この少女が、かよわき命が、同じ人間の男たちに遭わされた目を思うと、円駆も胸が痛むのを覚える。

 そして彼女は、いまも怯えている。

 他愛もない話で少しでもその心を和ませてやれればいい。それは久之のように傷付いてはいけない命であろうから。

「お前は男のちんちんが嫌いか?」

 茜は困ったような顔になって、やがて頷いた。

「そうか、そりゃあいい。その嫌いって思うのをそのまんまぶつけてやりゃあいい……、そしたら俺が手ぇ下すまでもねえや」

 無論、先程巳槌が吐き出して行った森原が目を覚ましたらこの手で懲らしめてやるつもりだ。「怪我をさせなければ」と巳槌には言われていたが、はたしてどうかな。

 便所の外には、森原と、あの駐在の声がしている。どうやら森原が目を覚ましたらしい。

「あなた、ちゃんとあの子を連れてきてるんでしょうね」

「ああ……、いや……、わからん。すごい臭いだな」

「あなたが臭ってるんですよ。何ですかその臭いは。肥溜めにでも落ちたみたいだな、酷く臭い」

 円駆は喋るのをやめて囲いの中に降りた。

 大丈夫だからな。

 言葉にはせず、茜に伝えることができるだろうか。わからない。けれど、今ぐらいは巳槌の真似をして、子供を大事に思う神になってやるのも悪くない……。

「足跡……、あの子のでしょうかね。何だ、森原先生ちゃんと連れて来てるんじゃないか」

 駐在が独り言のように呟いて、便所の中に入って来た。……茜が震えているのが、壁一枚隔てた円駆にも伝わってくる。森原の靴音も続けて鳴った。

「やあ、こんにちは、茜ちゃん。……寒いのに上着もなしにどうしたの?」

 円駆に気付かず奥の囲いに至った駐在が人懐こい声で笑いかける。茜は何も言わない。森原も円駆には気付かなかった。

 駐在が言う。

「どうでしょう、『最後』にこの子と遊んであげるってのは……、森原先生?」

 森原は何も言わない。「いいじゃないですか。……あんたのせいになるわけじゃないんだし」と駐在が囁くと同時に、森原が動いた気配がする。

 茜が小さく悲鳴を上げた。駐在が少女を羽交い締めにして拘束し、無防備な身体を森原に差し出す格好となっている。

「ほら、茜ちゃん。先生が可愛がってくれるってさ。……怖くないよね? だって先生は優しいもんね?」

 駐在の声と森原の背中に、隠しようもない害意と殺意が入り混じって滲み出ているのを円駆は感じ取る。善意の怒りが激しい憤りとなり、円駆の手から迸りかけた、ほとんどその瞬間だった。

「ずぐぅ」

 茜の穿いた、何と呼ぶのか円駆にはまだわからない下半身の着物に手を掛けた森原が、低い声で唸って身を強張らせる。

 茜の細い膝が、力一杯に森原の股間を蹴り上げて居たのだった。

「この……!」

 痛快さに笑いながら、円駆は茜に振り上げ掛けた森原の腕をやすやすと掴み、そのまま捻じり上げる。

「臭ぇな……」

 駐在が驚愕を目に浮かべながら腰から黒光りする金属の武器を取り出す。あれは、火を吹くやつだ、火を吹いて弾が飛び出して来るやつだ。……麒麟の身体ならば何発喰らおうと痛痒もないが、人間の身体では痛い。

 円駆はほとんど反射的に、うずくまって白い陶器の器に足を落とした森原の肩を踏み付けて低く跳躍する。……短筒の先が上を向いたときか、あるいはそれを待たなかったか。片方のいましめの解かれた茜が、自由を取り戻した掌を、思い切り、駐在の股間にぶつける。

 くぐもった声とともに、短筒を握る手を当てた駐在の顔に、その金属もろとも、円駆は膝を食わせる。

「すげえな、お前」

 森原の上に着地した円駆は思わず股間に手を当てて、……素直に感心する。

「度胸あんじゃねえか」

 茜は涙目でぶるぶると首を横に振った。なるほど、勇気を振り絞った分、必要のないものまで溢れ出て彼女の太腿を濡らしていた。

 けれど、大したものだ。

「したら、行くぞ。走れるか……、無理そうだな」

 こいつらが目を覚ます前に、安全なところへ……、洞穴だ。久之のそばに置いてやれば安心だろう……。

背負って、便所から飛び出したところだったか。

「ご苦労。無事なようだな」

 巳槌が、ぜえぜえと息を切らせながら、そのくせ冷静ぶって立っていた。傍には、森原と一緒に何度も山に侵入して来たあの女が、真っ白な顔の頬だけ紅くして、立っている。

「茜ちゃん!」

「せんせえ」

 背中から茜が呼び返す。円駆が下ろしてやると一目散に駆けて行ってしがみつき、えんえんと泣き出した。

「おい、いいのかよあんなの連れて来て」

「お前こそ、何て格好だだらしのない。そんなにそのちんちくりんを人に見せびらかすのが楽しいか。僕はあの服を着て行けと言ったはずだろうが」

 一言言えば三倍返しだ。

 巳槌は少女を抱き締める女に視線をやり、

「これで全て解決する。……森原とあの駐在は、人間が適当に裁いてくれるはずだ。久之を捜している連中は空戦の子守唄で夢の中だ」

 円駆は思わず顔をしかめた。

「あいつ、あの穴に居たのかよ!」

「結果論だが、有難い話として今は捉えておこう。空戦と、森原と駐在の馬鹿のお陰で久之のことは有耶無耶になるだろうな。それに」

 茜と女にまた目をやって、巳槌は言う。

「久之が害なす者ではないということは、この村の老人と子供と、そしてあの女がきちんと証明するはずだ。……寒かろうよ、そんな格好では」

 巳槌は円駆が腕に巻き付けた六尺を解き、その股間に当てがう。それぐらいお前がして当然だと、円駆は腕を組んで巳槌に任せた。

「尾野部」

 巳槌は円駆の褌を結び終えるなり、立ち上がって言った。

「その娘を家に連れて行け。道すがらで警官に会うだろう、ここへ招き寄せるよう言うんだ。……早く行け、銃を持っているんだぞ!」

「あなた、たちは……」

 言いかけた言葉を、尾野辺は飲み込む。しっかりと頷き、茜の手を引いて走り出した。

 警官と森原の醜い顔が覗いた瞬間だったろうか。巳槌が手を掲げる。周囲の冷気をその一点に集中させ、便所の入り口に向けて一気に放射する。

 みるみるうちに空気は凍り付き、氷の檻の出来上がりだ。透明度の高く、それゆえに堅牢な氷の壁の向こうで警官が何やら騒いでいるが、それはもはや誰にも届かぬ呪詛である。

 

 

 

 

 森原とあの警官の身柄が確保される頃、久之はぼんやりとした顔で小屋の中央に敷いた布団に眠る子供を見下ろしていた。

 おぞましい声の波動を放ち終えた空戦は大あくびをして、

「眠いなぁ」

 涙目で訴えたのだ。

 その上「寒いなぁ……」とも彼は言った。

「君の小屋はここより暖かい?」

 そう言われれば、「おいで」と言うほか思い付かない久之である。丸裸の空戦の小さな身体を負ぶって小屋に戻り、普段三人でぎゅうぎゅう詰めになって眠る布団を独り占めさせている。そして久之は、困りながら巳槌と円駆の帰りを待っているのだった。

「ああ、やはり連れて来てしまったか」

 火鉢に手をかざしているうちにうたたねをしてしまったらしい。久之は巳槌の声で目を覚ました。円駆も一緒だ。外はもう暗くなり始めていた。

「空戦の眠らせた警官たちを山の外に置いて来るのにずいぶん手間取ったんだ。……ただいま」

「おかえり……」

 巳槌も円駆も、ぎゅうと久之に抱き着く。運動をした後だからか二人の身体はぽかぽかと温かく心地よい。

「僕らはお前を護ったぞ。いい子だろう」

 いつも通りの無表情で、それでも得意げに言う巳槌と、仏頂面で何も言わないながらもしっかり抱き着く円駆。愛を満たして在るがごとき子供の身体を、久之はたっぷり時間をかけて抱き締めて、

「……ありがとう」

 震える声で言った。

「……うーん」

 布団の中で空戦が唸った。円駆は慌てて久之から離れ、巳槌は我関せずとそのままで居る。布団がむぐむぐと動いて、やがて空戦の大あくびが聴こえ、緩慢な動きで起き上がった。ぼんやりとした目を久之たちに向けて、

「やあ……、二人とも、久し振り。元気そうだね」

 にこり、微笑む。

「人間の布団というのは寝心地がいいものなんだね。……あまり長い時間寝たつもりもないが、随分とすっきりした」

「何人んちでのんびりくつろいでやがんだてめぇは」

 円駆はぶっつりと唇を尖らせる。空戦は首を傾げて、

「だって、……久之がおいでと言ってくれたんだ。僕が寒くて眠いと言ったから」

「だからってな。てめぇには遠慮ってもんがねえのかよ蝙蝠」

「円駆、落ち着け」

 巳槌が肩に手を置いて円駆を諌める。巳槌はのんびりとした蝙蝠の神に顔を向けて、

「相変わらず自分中心に生きて居るな。先に人の塒に居座っていたのはお前の方ではないか」

 言った。

「だって、円駆は戻らないつもりらしかったから」

「だからと言って、勝手に上がり込んで群れごと居座っていいはずがなかろうよ」

 空戦の前では巳槌までもが随分と常識的なことを口にするらしい。それは久之にとっては驚くべきことである。

 あの、山中の警官たちを一声で眠らせた「声」がいかに危険なものなのかは、久之にも判る。空を制した応龍でさえ、一種の警戒心を彼に対して抱くのは無理からぬことかもしれない。

「じゃあ、僕は帰った方がいいのかな。……もうしばらくは円駆、君の家に居させてもらうことにはなるけどそれでいいなら」

 円駆は顔をしかめて「勝手にしろよ」とぶっきらぼうに呟く。

「……その、空戦は、俺たちの……」

 ことを、助けてくれたんだ。そればかりは伝えなくてはと、久之は言いかけて、

「知っている。空戦の声は聴こえたよ。……その点については確かに僕たちは感謝しなければならないが、温かな布団で寝かせてやったのだから、……空戦、お前はそれでは足りないか?」

 ううん、と空戦は首を振る。

「十分だよ。貴重な体験をさせてもらった、……半神とはいえ人間と話したのも初めてだし、……久之、君は優しいのだね」

 幼い顔に穏やかで大人びた微笑みを浮かべて空戦は言う。

「人間が皆、君のように優しい心を持つ者ばかりなら、僕も巳槌みたいに人間と仲良くする方法を探してみてもいいかもしれない」

「生憎だな、こんな人間は希少価値が高いんだ。でなきゃてめぇが声を上げる必要だってなかったろうがよ」

 円駆の言葉に、残念そうに空戦は頷く。

「そのようだね。でも、そんな人間たちの中で久之に会えて良かった。本当に貴重な体験だったよ」

 あくまでのんびり、空戦は布団から立ち上がり、「んー」と伸びをする。痩せた身体は実際とても軽く、ときに巳槌と円駆を二人同時に抱え上げる久之には羽毛のようにさえ感じられた。

「では、帰れ」

「うん、お邪魔したね」

 ぺこり、頭を下げて、小屋を出ようとしたときだっただろうか。

 ぐうぅ、という音が、空戦の痩せた腹から響いたのは。

 久之に聴こえたのだから、巳槌にも円駆にもはっきり聴き取れただろう。円駆が舌を打ち、巳槌を見る。

 巳槌は面倒臭そうに溜め息を吐いた。

「……腹が減っているのか」

「ああ……、そうだね。何ヶ月も寝ていたからね」

 巳槌が久之に視線を送る。久之はこっくりと頷いて、四人分の飯を作ることになる。但し茶碗は三人分しかない。箸は急遽円駆が削り出して拵えたが、今から皿を焼く時間的余裕などあるはずもなく、仕方なしに久之は皿で飯を食う羽目になった。

 巳槌も円駆も、何くれとなく空戦の世話を焼いた。とはいえそれが、空戦への優しさばかりで為されるものではないようだということは久之にも何となく判る。二人ははっきりと、空戦を警戒しているようだった。

 とんでもないものを招き寄せてしまったのかもしれない……。そんな予感を久之は抱いた。

 

 

 

 

 しっかり風呂まで入って、空戦は塒へと帰って行った。空戦は終始朗らかに笑って心地よさそうな顔をしていた。然るに、巳槌は久之の思う通り、空戦のことを警戒している。無論、今回の変事を楽に片付ける役には立ってくれた、それについては感謝もしている。

 が、危険な男が目を覚ましたという事実に変わりはない。……いや、ただ起きたということは問題ではない。だってこれまでだって空戦は何度も目覚め、特に何も起こすことなくまた眠りに就いている。

 今回、久之と知り合ってしまったということが巳槌に困惑を抱かしめるのだ。

 空戦はまだ幼い神だ。

 久之と比べれば遥かに長い時間を生きているが、巳槌や円駆と比べればずっと若い。

 それでいながら、彼の持つ力はあの通り、山全体に響き渡る。加えて彼は、応龍と同じく空を翔ける力すら会得している。

 巳槌が久之と交わることでようやく手にした空を、やがて空戦はあっさりと奪い取ってしまうかもしれない。……いや、既得権を握り締めるがゆえにそれを憂うるのではない。まだ幼いがゆえに力の使い方を誤るかもし れないことを、巳槌は懸念するのだ。

 久之は疲れたか、すっかり深く寝入っている。布団を抜け出し、火鉢に手をかざしていたら円駆も起きて来た。

「どうすんだよ」

 訊かれても、昨日のようにはっきりとした答えを巳槌は用意出来ない。

「……どうしようか。お前はどうするのがいいと思う。お前の友達だろう」

「……別に、友達だと思ったことなんてねえや。ただ、知り合いだってだけでな」

「しばらくは、捨て置いてもいいだろう。しかし今回のことで空戦は久之との交流を望むようになるかもしれないな。もっとも、暴れられては困るから今日はああするしかなかったが」

 山の同胞。しかしそれぞれに立場は異なる。未だ久之と巳槌や円駆が交わることに不服を抱く者も残っている。

 そちらにあの蝙蝠が与しては困るから、今日はああして接待してやるほかなかった。少なくとも現段階で空戦が久之を嫌うことはなかろう。しかし今後はどうするか。一定期間ごとにあのように飯でも食わせてやれば、こちらに靡かせることも可能だろうか。

 一番いいのは、こちらに居ることを空戦が心地よいと思い知ることだ。そうすれば、久之が何を望み望まぬかを、空戦は自ずと知るだろう。

 久之の側に争いごとはいらない。とはいえその理想世界を築き上げるためには、今回人間を相手に不本意な戦いを強いられたように力を惜しむわけにはいかない。

 もしも再び戦いの必要が生じた時、空戦がこちら側に居てくれるとすれば。

「……考えようによっては、好機と言うことが出来るかもしれないぞ」

 そう独語した巳槌に、円駆は何処か不吉そうな視線を送る。

 巳槌はいつもの通り静かな表情で居ながら、骨を折って収めた動揺をまた自らの生活に引き寄せるための決断を下す。何のために……、問うまでもなかろうよ。

 全ては久之のために。


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