ANOTHER DAY GOING DOWN TO THE SMALL WORLD

 世界がぴたりと呼吸を止めた。最後に残ったのは微かな低い呻き声、カ行の音。

 自らを、中途半端な神なる身、人間の出来損ない、そう定義して在りつつも、自分を愛する者二人と共に暮らす以上、この身体は常に愛しい二人のためになければならないということを、久之は寝るときだって忘れない。いつだって、仰向けに横たわる彼の右腕には円駆が左腕には巳槌が実って居る。尊大なる彼らは久之の腕を枕にして眠りに就くのである。

 冷え込みのきついこのところ、変温動物の巳槌の身体は氷のように冷たくなりがちだ。一方で焔を纏った麒麟である円駆は夜中でもぽかぽかと温かく子供らしい。どうしても久之としては温かいものが恋しく思える季節ではあるが、かといって片方に身を寄せればもう片方に苦情を言われるのは明白なので、この男は毎年この季節、身体の右半分の温もりと左半分の冷たさの中、眠りに落ちる。其れに、もう慣れて居る。いつも二人が起きる前に、二人を起こさぬようにそうっと布団から抜け出し、雪に閉じ込められた小屋の戸を開け、指先と鼻の頭を紅くしながら風呂と朝餉の支度をするのが日課である。

 その朝、巳槌と円駆が目を覚ましたとき、自分たちの頭がまだ、久之の腕の上に在ることをまず意識した。いつもなら、久之が居なくなって間もなく巳槌が寒がって円駆の体温を求めて布団の中で擦り寄り、冷たさに目を覚ました円駆が鈍い舌打ちの音を籠らせ、其れでも巳槌の雪のような身体を抱いて震えながらの二度寝をするのであるが。

「……久之、どうした」

 巳槌はまだまるでまともに回らぬ思考で、円駆の困惑したような声を聴く。普段、この朋輩にそういう声を出させるのは巳槌ばかりである。

「なあ、……久之、なあ」

 彼の声が真面目な硬さを伴っているのを感じれば、血圧の著しく低い巳槌としてもそれ以上眠りに執着するような怠惰は許されない。薄く目を開けて、久之の頬に触れ、その顔を覗き込む円駆の双眸に弱ったような色を見付けて、

「……なんだ……、どうした」

 と掠れた声で訊く。

 久之は目を瞠って居た。

 そっと心を覗き込んだ途端、巳槌の眠気は吹き飛んだ。久之の思考は「痛い」という、ただその一色で塗り潰されて居た。同じものを、円駆も見たのだろう。

「どうした、何処が痛い。頭が腹か其れとも」

 凍りついたように固まる久之が、唇をわななかせて、言う、……其れは声ではなくて「息」であったが、「腰」と。

「腰?」

「腰が、痛いのか?」

 身を起こした巳槌と相変わらず顔を覗き込む円駆が口々に尋ねても、久之は首肯一つ満足には出来ぬ。巳槌と円駆は顔を見合わせて黙りこくった。年幼い身体の二人には、久之を襲った現象に共感するのは難儀なことなのだ。

 起き抜きである。巳槌は小便がしたい。其れは円駆も同じだろうし、何より久之がそうだろう。しかしながら巳槌には、石のように固まった久之の身体をおいそれと動かしてしまうことには少なからずの問題が伴うように思えてならない。

「立てないよな?」

 巳槌が訊くと、久之はやっとのことで「うう」と応える。巳槌は円駆に「桶を持って来い」と素早く命じる。いつもならそんな態度に黙って従う円駆ではないが、今ばかりは寝乱れた浴衣をかき合わせて真っ白な表に飛び出して行き、すぐに木桶を手に戻って来た。
久之の、大人の身体を痛がらせないように横へ向けるのは子供の二人にとっては大変な苦労が要った。久之は巳槌が浴衣の帯を解き、下着から痛みに萎縮した性根を引っ張り出すと何か言いかけたが、観念したように目を瞑る。

 桶の中身を外に捨てて、

「困ったことになった」

 巳槌は珍しく心底から真面目な声で言った。もっとも、彼は交合の支度を整えるときを除けば、いつだって真面目くさった声で酷く適当なことを言うのだが。

 久之は枕に青白い頬を当てたまま、言葉もない。

 どうして彼の身体がこんな具合になっているのかということを考えてみるに、……理由はいくつも思い当たるが、主だったものとしては彼の不自由な寝相であろう。両側の二人に気を使い、体を硬直させたまま眠るということが久之の身体に負担にならないはずがなかった。

「どうしよう」

 巳槌は真顔で円駆に意見を求めた。思考を丸投げしているのではない。一人の手には余るのである。

「どうしようったって……、どうすんだよ」

 感覚を同じくする円駆にも良案は浮かばないようだ。黙りこくった二人に、久之が「いいよ」と酷く痛ましい声を発して、無理に起き上がろうとする。しかし彼の勇敢さは二秒ともたなかった。引き攣ったような短い叫びを残して、二人が支えるのを待たず布団に沈没する。

 これまでこの男は風邪一つひいたことがなかった。それが細身ながら元々丈夫な体質だったからか、それとも二人と日々に接して過ごし、神の体質となりつつあるからか、判然としない。とにかくそういう、頑丈で、二人が共に生きる日々が当たり前となったこの男なくては、

「風呂にも入れない、飯も食えない」

 のである。

 元はと言えばそれぞれ、白蛇と麒麟。巳槌は冬の間何も食わずにあの泉の中で浮いたり沈んだりしていただけだし、円駆も冬眠はしないものの塒で一日の大半をじっと過ごして居た身である。食料などその気になればこの山の中でどうにでも工面出来るし、風呂にだって入らなくとも良いのだが、……未だ「人間」としての時間を過ごす久之と共に在るうちに、それらは生きて行く上で必需なものとなっている。

「温めたらいいんじゃねえのか?」

 円駆が久之の痛みの、どうやら焦点となっているらしい腰に掌を当てる。

「どうだろうな。炎症が起きているなら冷やした方がいいものだ」

 巳槌もその側に冷たい手を乗せた。

 何にせよ、久之が快復しなければ風呂にも入れない、飯も食えない。

 いや、自分たちのことは一旦棚に上げよう。久之の飯をどうするか、それが一番の問題なのだ。巳槌も円駆も、この庵で暮らすようになる以前から、食べ物と言えば山に転がって落ちているものばかり。久之が乏しい環境で当たり前のようにこなして見せる「調理」の心得は一切ないのである。

「……里に下りなければならないか」

 あまり気は進まないが、仕方がない。「何らかの飯を売ってくれる店屋ぐらいあるだろう、多分だけど」

 幸い、金なら床下で腐る程ある。

「それなら、飯を買いに行くだけじゃなくて医者を読んで来いよ」

 久之が声を上げかけた。だが円駆がそれを制して言う。「一人でしょんべんも行けないような奴は黙って寝てろ。別に俺らが居たって、怪しがられるようなことは何もしてねえだろ、俺も巳槌も、お前よりも里の連中よりもずっとずっと歳上だ」

 円駆が再び久之の腰に掌を掲げた。その熱によって久之の表情がほんの僅かに緩み、ほんの少しだけ頷いた。

「いざとなれば、杜若を使えばいい」

 巳槌は行李から前の年に摘んで、かさかさに乾いた杜若の枯れ花を取り出す。応龍としての力の一片、杜若の持つ毒を身体に取り込み、霧に変え、吸った者を眩惑せしめる。「まあ、其処までする必要があるとは思えないが」久之が怖れるような顔になったから、巳槌はすぐに仕舞った。且つてあの里に、「山の意志」或いは「害なすもの」として降りたった麒麟から久之と人間たちを護るために用いて以来、その力を発揮する機会は訪れていない。永遠に来なくともいいとは思うが、こうして毎年新しいものを摘んで来ては行李に備えているのは、この生活を護るための手段はいくつあっても困らないと思うからだ。

「風呂は、帰ってきてからだな」

 巳槌は浴衣の皺を伸ばして、帯を結び直す。円駆が落ち着かない顔で「俺、便所行きたい」と言うから、先に行かせて、戻って来た彼の六尺を久之の代わりに締め直してやる。円駆も今日に限っては巳槌の手を煩わせるときにも黙っていた。

 巳槌も用を済ませる。里の道端でしたっていいだろうと二人の神なる身は思うのだが、それでは久之が困るらしいので。

「では、行ってくるぞ。朝飯と、あと医者を手土産に持って来てやる」
身支度を整えた巳槌を見る久之の目は何とも不安そうである。子供ゆえに、そして非常識な高齢ゆえに、何をしでかすか判らない……、という久之の懸念がじんわりと巳槌の胸には伝わって来る。

「案ずるなよ。僕はこれまでだって何度も下に一人で降りて居るんだ」

 胸を張って、「そんなことよりお前は自分の身体をよくすることだけ考えているがいいよ」と言い残し、雪に閉ざされた戸外へ、雪を抉じ開けるように大きな歩幅で踊り出る。里の外れへと繋がる単索軌道の箱の中の雪を掻き出すのに閉口して、早速円駆を呼びに戻ったけれど。

 

 

 

 

「何か出来ることはないのか」

 寝る久之の背中側に胡座をかいて温めた掌を当ててやりながら、巳槌の帰りを待っていたが、あいつが里を駆け回っている間に自分は座っているだけというのはどうにもいけない気がして、円駆は訊いた。「お前が普段こなしてる仕事のうちで、俺にも出来ることは幾つもあるだろ」

 炊事洗濯、そして掃除に、一日に二度は風呂に入りたがる二人の神なる身のための湯沸かし、更に焼物と、久之は時間のゆるりと流れる山の生活の中でも日々あれこれと仕事をこなしている。円駆たちが同居するようになって彼の仕事は間違いなく増えたはずだ。それでも久之は弱音の一つも吐かない。

 彼が忙しく動き回っている間に二人の神なる身が何をしているかと言えば、……別に何もしていないのである。昼寝をしたり、山を散歩したり。連れ立って下に降りて人間たちをぼんやりと観察して過ごすこともあるが、それだって単なる暇潰しに過ぎない。思えば二人は、人間の性情を持つ久之のそばに在りながら、人間としての仕事はほとんど総て久之に依存しているのである。

 久之は文句なくそういう日々を乗りこなしている。謙虚なこの男が、自らも徐々にそういう性質を持つようになりつつ在るという自覚を持ちながらも、あくまで自身を二人より下に置いて物事を考え行動するという状況は今後もそうは変わらないだろう。

 久之が辛そうに身を捩り、「洗濯を、しなければ、いけない」と言った。確かに、部屋の隅に置いた籐籠にはここ三日分ほどの汚れ物が溜まっている。

「いいよ、言わなくても判る」

 円駆は久之の心配が、気遣いが、手に取るように判った。冷たい水で洗濯をする苦労を、円駆に味わわせたくないという優しさから、「きっと上手には洗えまい」という諦念までも。

「馬鹿にするな、洗濯ぐらい俺にだって出来らあ」

 立ち上がって、円駆は籠を抱え上げる。三人の三日分とはいえ、三人のうち二人は厳冬のこの時期にもほとんど浴衣と六尺に綿入れを羽織るだけで過ごすし、その綿入れはいま円駆の肩にある。浴衣が二枚と六尺が六枚、それから久之の下着と靴下、ものの量ではない。

「任せておけ。ちゃんと綺麗にして、干すとこまで俺がやってやる」

 円駆は勇ましく空気と凍る外へ出た。巳槌の泉から生じ、庵の側を流れる小川に脇に震えながら屈んだところで、桶だの石鹸だの洗濯板だの、必要なものの場所を知らないことを思い出して、久之に訊きに戻った。

 

 

 

 

 巳槌は最近時計の読み方を久之に教えてもらった。役場の駐車場に佇立する時計は八時を示して居た。腹が減ったなと思う。太陽と一緒に生活する彼らはこの時期、概ね午前七時前に床から抜ける。普段ならばそろそろ久之の作る朝飯を食べている頃である。

 何か食えるものはないかと川沿いを歩いて居たら老魚が緩慢な動きで水に漂っているのが見えた。

「お前を食べてもいいか」

 そう巳槌が訊けば、好きにしろ、老いさらばえた身は今宵にでも浮かんで何処かへ流れるばかりだ、そう草臥れた声が帰って来た。

「感謝する」

 巳槌は草履を脱ぎ、浴衣の裾を捲り上げて川の中に入った。冷たい水がつんとしみるように思われたのは一瞬だけで、流れ続ける小川の水の温度の方が息も凍えそうな空気よりも温かいのは経験上、知っている。やすやすと老魚を掬い取り、巳槌はその頭を打って殺してから、河原の石で鱗をこそげ取ると、頭からひと飲みにして、くしゃみをした。日向の舗道に戻り、折角捲ったのに少しだけ濡れてしまった浴衣を、氷で出来ているのかと思われるほど冷たいガードレールに六尺の尻を乗せ、はためかせて乾かす。

 そんな巳槌の様子を、黄色い帽子の子供らが足を止めて不思議そうに眺めている。男児は滑稽なものを見るように、女児は巳槌の股間から強いて目を逸らすように。

「見世物じゃないぞ」

 巳槌はぶっつりと言う。「とっとと行け。学校に遅刻するぞ」

 身体が冷えたからか、尿意を催した。庵まで戻るのは時間がもったいない、巳槌は子供らに背を向けて六尺を解き、小川に向けて放尿を始めた。女児が小さく悲鳴を上げて駆け逃げて行ったが、どうせ子供である。巳槌は気にも留めない。

 

 

 

 

 洗って濯ぐから「洗濯」と言うのだということぐらい、これまでの永々たる性で初めて其れを行う円駆だって判っている。人間たちは「洗濯機」なる面妖な機械を用いて楽々とやりこなすのだと久之は言って居た。「俺だって、こんな風に、手で洗うなんてことは此処に来るまで、一度だってしたことがなかった」と。人間たちが自分で出来ないことを自然や時ではなく、自ら生み出した「機械」でやってのけることには苦さばかり感じてしまう円駆で在るがこの季節指先を割くように冷たい流れに晒して汚れ物を洗う久之を見て「お前もそういうの使えばいいだろ」と言ったことがある。久之は苦笑して、まず「電気がない」と答えた。加えて、「汚れた水を山に吸わせることになってしまう」とも言った。

 久之が普段の洗濯に用いる石鹸は、山の水を極力汚さないものなのだそうだ。

 それにしても、力が要る。はじめのうちは震えながら押し洗いして居たはずなのに、円駆はいつしか褌一つの身軽な姿になり、額に汗さえ滲ませて居る。

 洗い物の大半が、自分と巳槌の締める褌である。

 たいして汚れては居ないだろうと高を括って居たが、豈図らんや、自分たちの陰部を隠す部分は何れも大なり小なりの汚れが染み付いていることに気付かされる。どちらがどれほどと論ずることは無意味であろう。細かなことでももう少し気を遣って居なければならない。恐る恐る自分がいま締めているものを外してその場所を覗き込んで見れば、やはり少なからずの汚れがある。これも洗ってしまうことにする。結局円駆は雪の中に裸になって、ごしごしと力を込めて六尺褌を押し洗いすることになった。

「っし、終わった。……でも泡だらけだな」

「洗って濯ぐ」から「洗濯」なのだと改めて思う。流れに手を浸しているうちに身体はみるみるうちに冷え、腕にはぷつぷつと鳥肌が立った。円駆は慌てて浴衣を着、綿入れを羽織る。「寒い、畜生、糞寒い」と震えながら再び屈み込んだとき、手元が狂う。

「あっ……」

 と声をあげたときには、洗い物の入った木桶がかろんという響きと共に流れへと引っくり返っている。大慌てで久之の着物その他を掴んで引き戻すけれど、細長い幾条もの白布、苦労して汚れを消した円駆と巳槌の褌が流れて行ってしまう。

「わあ、わあっ、ちょっと待てっ、待てこら!」

 喚いたって、褌はまるで白蛇のように円駆の声を無視する。大急ぎで流れを蹴立てて追い駆けるが、まもなく在るのは里に注ぐ短い滝である。

 ぬめりを纏った石に草履の裏を滑らせて、円駆の身体はようやく捕まえた六尺の幾つかと共に滝壺へ吸い込まれた。

 

 

 

 

 飯はどうにか手に入れた。久之が壺や皿を売りに行く土産物屋の店主に事情を話したところ、もうすっかり久之に気を許している老人は気の毒そうな顔で、妻に粥を作らせ、其れを肩から掛ける水筒に居れて持たせてくれたのだ。何やら金属を内に仕組んだ其れは、粥を当分冷まさずに居てくれるのだそうだ。まるで魔法の瓶である。

 しかし、この村に医者が居ないとは思わなかった。傷病人が出たときにはどうするのかと問えば、「隣の村まで車で運んで行く」のだと言う。老人の多い村がそういう状況にあることの問題は、巳槌にも理解出来る。

 ともかく、これでは久之の腰を治せない。さてどうしたものか。巳槌は困惑して、自分を祀ったものであることももう覚えていない小川沿いの小さな祠の石段に腰を下ろして居た。

 其処から見える村役場の時計はもう十時を回っている。久之は腹を空かせているはずだ。ひとまず一度戻って粥を食わせてやってから出直すべきかも知れない……、そう思い決めてふと小川に目を遣ると、ひらひらと白布が流れてくる。妙なこともあるものだと上流に目を向ければ、浴衣と綿入れと幾筋もの六尺を身体に絡めた円駆が不器用に、半ば溺れかけながら騒がしく流れて来るのが見える。妙なこともあるものだ。

「ぶ、ぐ、ぼ、……はぁッ」

 巳槌の足元で六尺を掴んで、麒麟と言うよりは濡れ鼠の円駆が這々の体で岸に上がる。そして巳槌の顔に向けて渾身のくしゃみをして、「……白くて細長いものなんて大嫌いだ……」と呻く。彼の人生は当にそういうもので不要な損の繰り返しだ。其れなしでは生きられないのが尚更憐れを誘う。

「何をしているのだお前は」

 顔に散らされた唾を浴衣の袖で拭って巳槌は訊ねる。「久之の側についていたんじゃなかったのか」

 無論、巳槌には円駆が何をしていたかということぐらい想像出来た。久之をゆっくり休ませるために、この男が洗濯は洗濯をしていたのだろう。しかし自らが洗濯物のような有様になるとはどういう趣向なのかという問いへの答えは、聡明な応龍の知能を以ってしても想像の埒外に在った。

 答えようとして言葉にするりと逃げられ、替わりにまた大きなくしゃみをする円駆を、学校の始業式を終えて道を辿る黄色い帽子の子供らが唖然として見ていた。其れに気付いた円駆が振り返り、思い切り鼻を啜って「おいこら餓鬼ども、何見てやがる、見世物じゃねえぞとっとと散れ!」と怒鳴り散らす。主に女児が悲鳴を上げて散会したのは円駆の声に迫力があったからではなかったかも知れない。

「帯を締めろ、そんなちんちくりんのものを晒すな、お前はみっともなくだらしなく恥ずかしいぞ」

 円駆は凄い目をして睨み付けてくるが、巳槌には怖くも何ともない。暖簾を力一杯押すのも馬鹿らしいはずだし、何よりまだ零度在るかないかの空気の中でびしょ濡れ、裸同然というのは身体に応えるのだろう。苛立ちを舌打ち一つで片付けた彼はもう人間の姿が見えないことを巳槌を上回るくせに今ひとつ先を見通す力の足りない両眼で確かめて浴衣を脱ぎ捨てると、「うー……」と寒そうに蹲る。その身体が急激に発熱するのが巳槌には判るから、傍に同じく屈み込み、一応は「友達」なので、彼が濡らした浴衣を広げてやる。円駆の身体から円駆の身体からは強烈な熱と重たい空気の波が生じ、巳槌が広げているだけの湿った浴衣からはしゅうしゅうと湯気が立ち、……あと一瞬離れるのが遅れていたら焦げ穴を作ってしまっていた。

 円駆は人心地ついたような溜め息と共に立ち上がる。

「そんなでかい力を、人里で使うな」

 巳槌が咎めても、其の手から浴衣を掴み取った円駆は唇を尖らせて「寒かったんだからしょうがねえだろ」と悪びれもせずに言う。このところ、力が強くなってきたなと巳槌は思うが、警戒することはない。巳槌が久之と交わることで応龍の力を手にしたように、円駆がより強大な存在感を発揮したとしても何ら不思議はないし、自分と互角以上の力を得てこの山の空を支配しようとしたところでこの朋輩と喧嘩をするつもりはなかった。無愛想で口が悪く嫌われ者の水蛇の、敢えて側に居る麒麟が巳槌は好きだったし、久之という最強の鎹が在る。

「……で、てめぇは何をしてんだ。久之の飯はどうした。医者は」

 巳槌なら火傷してしまうほど熱い浴衣を纏い帯をぎゅっと締めた円駆に問われて、巳槌は水筒を掲げて見せる。「飯はこの中だ、熱い粥が入っている」

「別に冷めてようが俺が温められらあ。……医者は」
溜め息を吐き出す。悔しいが、己の感情よりも問題の解決の方が今は重い。

「この村には医者が居ない」

「ああ? 居ないって、どうすんだよ、あいつの身体は」

 鋭く反応した円駆の言葉を止めるために、

「一先ず、お前は帰ってとっとと洗濯物を干して、久之の腰でも摩ってやれ。それから、上に行くなら此れも持って行って、久之に食わせろ。判っているとは思うが、ちゃんと一口ずつ匙に取ってふうふうしてやってからだぞ。あとの事は僕がどうにかする」

 早口で。

 自分の仕事を半分しかこなせなかった悔しさから、つい大きな事を言ってしまった。しかしもう遅い。円駆は少し気分を害したような顔で居たが、ぷいと視線を逸らすと、

「俺たちで世話してどうにかすることだって出来んだろうがよ」

 と言い残し、六尺を落とさぬよう腕に巻き付け、大股で急坂を上がっていく。その後姿を見送りながら、……どうにかしないと。巳槌は腕組みをして考える。しかし、どうすればいい? 妙案は浮かばない。

 

 

 

 

 どうにか洗濯物を干し、巳槌の持ってきた粥を、彼の言った通り匙でふうふうして食わせてやる。久之は手を貸すとどうにか起き上がれた。とはいえ、未だかなり痛そうである。粥を時間を掛けて食べ終えた彼は庵の庭に揺れる衣類に目をやって、「洗ってくれたんだね……、ありがとう」朝よりも通る声で言った。

「別に、大したことじゃねえよ」

 洗濯の最中に滝壷へ落下するという異常事態を、敢えて久之に知らせる必要はあるまい。そもそも久之には知られたくもない。ただ今後洗濯をするときには気を付けようと思い決めればいいだけのこと、そして、久之の負担を減らすために、褌の前袋を汚すのはやめよう、と。

「巳槌は……」

「あいつなら、まだ下だ。医者を探してる」

 久之は少し考えて、「この村にはいま、医者、居ないんじゃなかったか、……違うかな」と独り言のように呟く。そう、だから、巳槌がどうする気なのか、円駆には判らなかった。

 久之はよろめきながら立ち上がる。「何処行くんだ」と問えば、少し気まずそうに「その、……小便がしたい、から」と呟く。

「んなん、今朝みたいに桶ン中にしちまえばいいだろ」

 久之は首を横に振り、慎重に草履を足に引っ掛ける。危なっかしいので、円駆は手を添えて其れを手伝う。便所の囲いまで連れて行き、彼の細長い背中に回って身を支えてやることも、円駆はきっちりと出来た。

「ごめん」

 と久之はしょげきった声で言った。

「謝るようなことかよ」

 円駆は素直に言う。

「……でも」

「でももだってもねえよ。お前が普段一人でやってることを、俺らがたまに代わりにやるのがそんなにおかしいかよ」

 体勢を崩さぬようにしながら自分よりもずっと長身の久之を支え、小屋に上げる。久之は小さな声で「ありがとう」と言う。そうっと彼の身体を布団に寝かせ、腰に手を当ててやる。

 休めよ。

 円駆はこの男に思いを伝えるためには言葉を用いてやらねばならないことを判った上で、唇を結び、強張った場所にだけ届けば良いと思う。俺たちに出来ないことをあれだけの量代わりにやって、それでも微笑んでいるお前のために、俺たちが動くことは、本当に、何でもないことなのだ。

 感謝している。

 其れを言葉にする術を円駆は持っている。久之よりも遥かによく回る舌を持っている。

 けれど、言わない。

「……とっとと良くなれ」

 ぶっつりとそう言ってやるだけだ。久之が目を閉じ、優しい熱を帯びた円駆の掌に身を委ねる。休め。今は。

 そうしていい時間だ。

 人間としては小さな円駆も、一度麒麟態になれば――応龍の巳槌ほどではないが――久之を背中に乗せてこの山の急斜面を駆けるぐらい何ともなくなる。小さな身体、小さな命、はかないもの、傷を負えば中々治らぬもの。

 麒麟態ならば猟銃の弾を受けても円駆は四肢を強張らせもしないし、試したことはないが生身の身体に負っても心臓を撃ち抜かれない限りまず大丈夫だろう、

 それなのに、この男ときたら、……自分を殺すつもりで居た円駆を背に庇い、猟銃の口を向ける村人の前に立ちはだかった。あのとき巳槌が応龍の力に目覚めていなければ、まず間違いなくこの男は此処には居ないし、こういう時間は訪れなかった。

 優しいばかりの、馬鹿な人間。しかし、円駆がもう、愛さずには居られない人間。お前の傍で生きるために、お前の弱ったときに働くことが、俺たちにどうして負担になるだろう? ……そういう思いは巳槌もきっと同じだ。だからきっと、あいつは「医者」を連れてくる。愛情に基づく智慧を絞って、きっと、久之を助けるために。

 円駆がそう考えているうちに、庵の外から、あの単索軌道の軋む音が聴こえて来た。

 

 

 

 

 円駆を見送って、じっと考え込んでいたって仕方がないと巳槌は再び集落へと向かっていた。空気はほんの少し緩んだが、相変わらず吐く息は盛大に白いし、裸足に草履を引っ掛けたままの足先は、変温動物の其れであるからほとんど感覚もないくらいに冷たく悴んでいる。しかし久之のためには何とあっても「医者」か、その代わりになるものを連れて帰らなくてはならない。

「ちょっと、君」

 考えを回しながら歩く巳槌が人間の女に声を掛けられたのは、小学校の前に至ったときだった。髪は短く、その歳の女の割には化粧が薄い。久之よりも少し年上か。見上げた巳槌を、怒ったような顔で見下ろしている。丈の長い外套の前を締め切って、腕を組んで、「なんて格好で歩いて居るの」と巳槌を難詰する。

 女の隣には白髪交じりで四十がらみの男が、溜め息を白く吐き上げながら、「あの、山の上の壷焼き男の所の子供ですよ」と言った。胡散臭げな顔である。多くの住民たちはもう久之の存在を認めていたが、まだ一部の人間はこうして久之を悪いものとして捉えることを辞めない。それは久之自身の在りようがどうこうと言うより、巳槌と円駆という、就学していて然るべき「子供」が二人、その庵で同居しているからだろう。二人が人間ではない、神なる身であることを知っているのは無論久之だけだから、少年たちが思い赴くままに、先程のように真冬に川に飛び込んだり立ち小便をしたりということをすれば、尚のこと訝しげな目で見られることは避けられない。

 このときも巳槌は、自分たちがしたことが人間たちにそう不自然なものとして捉えられるとは思っていなかった。けれど二人の人間の自分に向ける視線の中には、多分に久之への非難が篭められていることにはすぐに気付ける。

「医者を探している」

 巳槌は足を止め、二人に向き直って言った。「でも、医者が居ないことはもう知っている。お前たち、何か代わりにそういう仕事が出来そうな人間を知っていたら教えろ」

 女と男が、この小学校の教師だと言うことはすぐに判った。もちろん学校に通ったことのない巳槌では在るが、その施設の果たす役割については知っている。

 教師二人は目を丸くして顔を見合わせる。それから女の方が身を屈めて、「君、何年生」と訊く。

「なに?」

「初めて会う人に、そんな口の聴き方をするの?」

 面倒臭いな、巳槌は不愉快を隠しもせず舌を打った。円駆だったら騒ぎを大きくしていることだろうが、聡明な僕はそんな真似はしないのだ。巳槌は内心の苛立ちを収めるように密やかに深呼吸を一つして、

「家の者が、身体を壊して動けなくなって、困っています」

 平板な声で、人間らしい言葉遣いを選ぶ。「なお、私はとうの昔に此処へ来るべき時間を修えています。私は貴方がたの目に映るよりも、ずっとずっと年上なのです」いつもの通り、無愛想の無表情である。男は急に改まった口調の巳槌に面食らったような顔をし、女は興味を抱いたように顔を寄せる。

「年上って、どういうことかしら。どう見たってあなた、五年生ぐらいにしか見えないわ」

 失礼な女め。今の僕の姿は人間になおせば十三か四ほどだ。

「生まれてから、もっとずっと長い時間が経過しています」

「あなた、本当は幾つなの? お名前は?」

「ええい面倒臭い」

 思わず口を衝いて出てしまった。女が鼻白んだのを見て、慌てて、「そんなことはどうでもいい。私は困って居るのです。その問いの答えは、私の抱える問題が解決してからでも遅くはないでしょう」巳槌は急激に畏まって言った。

「家の者っていうと、あの、小屋の男が病気でもしたのかね」

 男に「はい」と巳槌は頷く。

「腰を傷めて、朝からずっと寝たきりです。本人は寝ていれば治ると言いましたが、黙って放って置くことも心苦しく、こうして山を降り、助けを借りに来たのです」

 二人の教師はひそひそ声で語り交わすが、生憎、巳槌の耳には全て聴き通せる。「腰を傷めたって? 本当でしょうかね」「そんなことよりも、こんな子供を家に囲っていることは大問題ではないでしょうか」「確かに、見たところやはり五年生がせいぜいだ」失礼な連中、ちゃんと僕は射精できる、つまり大人だぞ。「さっきから裸でうろついている子供がもう一人いるという話でしたな」「保護者からもいくつか通報がありました。女子児童に裸を見せびらかしていると」僕は見せびらかしたりなどするものか、それは円駆だ。そもそもあんなちんちくりんを見たところで何になる。「あの男、ひょっとしてこの子供たちに妙な真似をしているのかもしれませんよ、ほら、あの子、褌なんて締めて」其れは確かに事実だが僕らがしろと頼んでしてもらっているのだ。

「あのう」

 焦れて巳槌は、溜め息を強く足元に吐き棄てた。「私は困って居るのです。この村の人たちのことをかつて彼は自らの身を盾にして掬ったことが在ります。その彼が困っている時に救いの手を差し伸べることがそんなに難しいことなのでしょうか。それとも貴方がたは、山で孤居する彼のことを差別するのですか。そういうお考えをお持ちなのですか。そういうお考えをお持ちで子供たちの前で教鞭を振るって折られるのですかとっとと医術の心得の在る者を連れてこないかこの馬鹿者どもめ」

 おほん、と巳槌は咳払いをする。二人の教師は顔を見合わせて、また一往復の囁き合いがある。「どうでしょうか、この機会にその男に話を訊いてみるというのは」「ふむ、それしかないでしょうな」

 女教師は巳槌に向き直り、巳槌がしたような咳払いを一つ。

「私はこの学校の養護担当です。私で良ければ、あなたの家族の所へ行って診て差し上げるわ」

 胡散臭い女だ。久之のことを相変わらず不審がって居る。人間であれ神であれ、あんなにいい男は居ないぞ。お前みたいなのが嫁の貰い手なくて嘆くことになるのだ。巳槌はずいぶんと酷いことを、しかし「酷い」などとはひとかけらも意識せず思い、頷いて「ありがとうございます」と礼まで言った。

 養護教諭が保健室に役に立ちそうな湿布や塗り薬の類を取りに行く間、白髪交じりの男は巳槌への怪しむ視線を隠しもしない。巳槌が睨み返すと、

「君の家の人というのは、いつも君にそんな格好をさせているのか」

 と嫌味な声で訊いた。

「何か問題でも。私が着たいから着て居るのです。人の趣味に口出しするのか」

「いや、そういう訳ではないが、……寒くないのかね、そんな薄着で、しかも裸足で」

 フンと巳槌は片足を上げて足を見せる。「だから最近の子供たちは柔弱なのです」と、久之がいつだったか教えてくれたことを、ずいぶん歪曲して、其処まで行ったらもう捏造で、だからこれは僕自身の言葉だと決め付けて言う。

「私が子供の頃には私も回りも平気で、椛の葉が浮かぶ川で魚取りをする者だっていたぐらいです。甘やかしすぎなのだ、だから柔弱者ばかりになるのだ」

 久之は、巳槌が秋の半ばからもこもこの外套やらマフラーやらを着せられて歩く子供を見て「まだちっとも寒くないのに」と言ったのに対して、「親御さんが、心配するんだろう。風邪をひいたりしないように」と答えただけだ。そして巳槌が「子供の頃」と偽称した時代は、この国の人間の歴史呼称に基づいて言うならば江戸時代の中期である。

 高く足を上げたせいで乱れた浴衣を、帯を一旦解いて直す。

「その下着は」

「いちいちうるさいなお前は」

 帯を締め直して、「家の者に作ってもらったのです。私はこれが好きなのです。何か文句が在るのかお前が締めてるわけじゃないんだから放っとけ」

「お待たせしました」養護教諭が戻ってきた。「参りましょう」

 いかな人間たちとの交流を大切に生きて来た巳槌とて、こういう人間たちと会話をするのは草臥れる。自分の種別、或いは性質を知らない相手だから無理からぬことと納得しようとはするのだが、人間たちはこの百年余りでずいぶん変わった、……恐らくは、悪いほうへ変わった。久之が教えてくれた所に拠れば、人間たちはいまやこの村に居ながら遥か彼方の相手と顔を見て会話をする手段さえ手に入れているのだということだが、恐らく人間たちは其れを上手く使いこなせていないのであろう。却って閉鎖的にすらなっている印象がある。

「乗ってください」

 いい加減敬語にも辟易して、単索軌道に跨る箱を見て戸惑う教師二人を「歩きたければ勝手に歩け。僕は疲れたから乗るぞ」と言い放つ。普段は久之と巳槌と円駆、つまり痩せた大人と子供二人を乗せて、それでもぜいぜい息を切らせ今にも停まりそうになりながら登る単索軌道の発動機は、大人二人に子供一人という感じたことのない重量に、いつ脱線して三人もろとも斜面に箱を転がり落ちても不思議のないような危なっかしい軋みで、教師たちを恐れさせた。

「こんなのが怖いのか、臆病者」

 巳槌はほんの少し溜飲の下がった思いで言う。人間は、嫌いじゃない。けれど久之の優しさを少しも知ろうとしないで否定するような狭量は、人間であっても大嫌いだ。巳槌は先程から久之がどれだけ素晴らしい男か、自分のことをどれだけ「愛して」くれるかということを得々と説明してやろうかと余ッ程思っていたが、何となく、それをすると久之が困ることになりそうな気がして、やめておいた。

 

 

 

 

 久之より大分年上で、短く刈り込んだ四角い頭を灰でも被ったかのような白髪に覆わせた男と、彼より背が高く、幼年の男児のようにさっぱり前髪を切り揃えた若い女と、……綿入れに浴衣に草履、純白に近い銀の癖髪を靡かせた巳槌を先頭に此方へ向かって歩いてくる処だった。大層危なっかしい揺れを繰り返したであろう単索軌道に寄ったか、後ろを歩く二人の足取りは何とも覚束ず滑稽だが、小屋縁から顔を覗かせた円駆が何より興味を惹かれたのは、どうせいつもと同じ無表情ではあるが、それでも不機嫌であることが一目瞭然の口元をして居ることだ。

「巳槌が帰って来たぞ。人間を二人連れて来た」

 布団の上の久之は瞳に怯えたような光を宿した。「つまらん心配すんな。俺たちが付いてんだろ」と、得意になって円駆は言う。

「こんなところにこんな小屋を……」

 人間たちは驚いたような、呆れたような、そして侮るような目をして見回していた。普段三人が入浴する大鍋を見て、「何でこんなものがあるんでしょう」「廃校になる前、ウチの小学校で使っていたものじゃないか」などと言い交わす。里の小学校は長らく途絶えていたが、一昨年に一年生が二人、昨年に三人、今年また二人と新入生があったため再開されたのだと聴く。会話の流れからすると、巳槌は小学校の教員を連れて来たらしい。

「そっちに踏み込まないでください」

 巳槌が菜園に靴跡を付けかけた男の方に叱声を飛ばす。「冬の間は土を眠らせているのです、そんなことも判らないのか愚か者め。此方を歩いて下さい」

 巳槌は変な言葉遣いをしている。起き上がろうとした久之を押しとどめたところで、巳槌の連れた二人が姿を現した。「睨むな」と巳槌に窘められて、不快をぐっと押し留める。彼のような言葉遣いを、円駆は逆立ちしたって真似出来ないので、じっと黙っていることに決める。

「履き物を脱いで上がってください」

 外とさほど温度の変わらない庵に裸足で上がるなり、「少し温めておけば良いのに、気の回らない」と円駆に文句を言い捨て、久之の枕頭に膝を落とす。

「大丈夫か? 役に立つかどうかは知らないが、一応連れて来たからな」

 物凄い物言いにいかにも寒そうな二人の教師は憤慨したように顔を見合わせた。

「すみません……」

 久之は顔を強張らせ、硬い声で言う。「こんな、ところへ、わざわざ……」

「ああ、いや……」

 男の方が、大きなくしゃみをした。庵全体が震えるような盛大なもので、余韻に屋根がずずずと唸る。遅れて、どぉん、と谷側の屋根から雪が滑落する音が立った。

 巳槌が掛布団を捲り、女の方が慎重な手付きで久之の腰を確かめるように圧す。途端「ぐあ!」と普段滅多なことでは声を荒げない久之が、大きな声を上げる。

 円駆も、巳槌も、この二人が真心からやってきたわけではないことを既に見抜いている。「茶ぐらい沸かせ」と円駆に言うとき、巳槌の目は押し入れに向いた。神なる身同士では心の読み合いは出来ないが、言わんとして居ることは判る。円駆は薬缶を持ち出し、上の泉まで行きかけて、いいや、大した相手じゃないとすぐ其処の蛇口から出る普段は洗い物にしか使わない水を注ぎ、薬缶に指先を当てた。しゅん、と鼻から湯気を出す其れを部屋に持ち帰り、普段呑む焙じ茶ではなく、巳槌が山で摘んで来た野草を円駆が煎じて作った薬草茶。淹れる。実際のところ身体にいいかどうかは円駆にも巳槌にも判らないが、不味いことだけは確かだ。日々二人が使う不恰好な茶碗に並々注いで置くと、巳槌が「どうぞ」と促す。教師二人はただならぬ臭気に閉口するが、「どうぞ」と重ねて巳槌に言われて、観念したように唇を当てる。瞬間、その唇そのものが痺れたように思えただろう。目を白黒させて、辛うじて噴き出さずに済んだ二人から背を向けて、円駆は笑いを堪えつつ、押し入れの中にしまった巳槌の行李から、酒瓶と杜若の枯れ花を取り出し、彼の背中にそっと置いた。

「久之の具合はどうなのですか」

 本業の医者ではない、ちっとも判っていないくせに、もっともらしく手を当てている女教諭に巳槌は訊く。按摩の真似事のような手付きをしているが、久之がちっとも気持ち良くなって居ないのは、その表情を見ても明らかである。自分の不快というものをまず表出させることのない男が、眉間に深い皺を刻んでいる。

「そう……、あまり良くないわ」

 女教諭は久之から手を離して言うが、そんなことは先刻承知なのである。だからお前が呼ばれたのだろう役立たずめ。円駆は黙って、久之に布団を掛け直し、せめて俺が居ることで少しでも和らげば良いと願いながらその髪を撫ぜてやる。

「もっと人を呼んで、この人を下に運びましょう。誰かに車を出してもらって」

「ああ、そりゃ、私がやりましょう」

 女の言葉を受けて男の方が声を上げた。「棚谷病院まで、車ならまあ、十分もあれば着きますわ」

「あなたたちも一緒にいらっしゃい。……こんなところで、そんな格好で過ごしているのはおかしいわ」

 久之はじっと黙っている。不快と、不安と、……感じてもこの男はいま動けないし、腰が無事だったとしてもきっと何も言えず俯いているだろうと思う。

「下になんか、誰が降りるか」

 ぶちり、と、久之の思いを代弁するつもりで円駆は呟いた。女は円駆に鋭い目を向ける。

「あなたたちも、ちゃんと学校に通いなさい。大体ね、お父さんとお母さんはどこに居るの」

「先程答えたでしょう、私たちはとうに成人していて、学校に行く必要などないのだと。もう忘れたのか馬鹿者、漆にかぶれろ」

「そりゃあ、ちょっと無理があるんじゃないかねえ」

 男の方がニヤニヤと嫌味な笑いを浮かべて言う。彼は久之に視線を向けて、「なあ、あんた、この子らをどうしたんだい。どういうつもりで、こんな年端も行かない子供を二人も、こんなとこで、こんな格好で。おかしいわ、どう考えてもさ」

 久之は黙っていた。悲しんでいた。これだから人間は、と尚早な思いが円駆の中には過ったし、人間が好きな巳槌なら余計に腹を立てただろう。

「久之を動かすのは、今は無理です」

 巳槌が努めて静かな声で言うのが、声を荒げかけた円駆の耳に届いた。

「貴方がたの仰る通り、明日には病院へ連れて行きましょう。しかし今夜一晩はこうして安静にさせて置くべきです。……私たちはこの男の側から離れません」

 巳槌はこう付け加えた。「今夜、この男の身体が少しで良いので楽になる薬を分けてもらえたら有難いのですが」

 二人の教師は目配せし合う。「どうせこの男はしばらく動けまい。子供二人ついていたところで匿うことも出来ないだろう。明日には病院へ連行して。この二人は久之を、円駆と巳槌に不埒な真似をする無法者であると断じているようだった。円駆はしかし、黙っていた。巳槌だって同じものを読み取り、平然としているはずがないのだから。

「わかりました」

 女の方が、持ってきた鞄から薬と貼り薬を取り出す。それが毒ではなく、「痛み止めと湿布です」という言葉が本当だということは二人には判る。

「明日の昼に迎えに来ます。病院には予約をしておきますから、それまでお大事に」

 二人の教師は黙ったままこくりと頷いた久之を置いて立ち上がる。円駆は先に表に出た。「ありがとうございました」とそっぽを向いて言いながら、むしゃむしゃと枯れ杜若を食べる巳槌の声が聴こえて来た。

 円駆に聴かれていることも知らずに二人の教師は「下へ行ったら駐在さんに来てもらいましょうか」「それがいいでしょうな。放って置くわけにはいかんでしょう」などと言い交わしている。円駆は二人を先導して歩きながら浴衣の帯を解く。六尺は、洗濯のときに解いたままだ。

 単索軌道の箱に背を向けたまま、円駆は二人が乗り込むのを待つ。発動機のリードを引っ張る音がしたところで、

「お前たち」

 身体に集めた熱を破裂させて浴衣を脱ぎ捨て細い少年の身体を、焔纏う麒麟の姿へと変じさせた。

「あまり俺たちの久之を軽々に扱うなよ?」

 言葉を切って、一つの空白。紅蓮に燃ゆる焔は冬の空間を揺らめかせ、遥かな季節を招き寄せたかのような熱波を箱の中でけたたましい悲鳴を上げて抱き合う二人の顔に浴びせ付ける。……もっとも、舐めてもらっては困る。本気の半分もまだ力を出して居ないのだ。

「誰に向かってものを言っていたのか、よく考えてみろ。お前たちは神々に向けて口を開いていたんだぞ」

 円駆の言葉は二人の悲鳴に掻き消される。円駆は鋭く黒い爪を備えた巨大な脚を振り上げ、箱に向けて無慈悲に振り下ろす。

ぐらり、箱が揺れて。

 がくん、という危うい震えと共に、急加速、細い単軌の上を、風のような速さで転がり始めた。円駆は其れを追い、斜面を駆け下りる。いつも久之が放り出される、最後の急坂で二人は団子のように宙を待った。その落ちる先には、この季節雪が深々と降り積もる窪が在る。事実として、二人の身体はひとかたまりになって白いものの上に落ちた。「ひ、ひっ」「ひいい」哀れな声を漏らしつつ、二人は雪にしては妙にぬるぬるして、しかし雪と同じほど冷たい場所で藻掻く。

「……僕は人間が好きだ」

 彼らの耳元で、しゅるしゅるという奇妙な音ともに、巳槌の声が膨らんで弾ける。

 彼らの落ちた場所は、焔の麒麟よりも更に巨体、長大なる、応龍の蜷局の央部である。

「けれど、どうやら僕は人間で在っても久之を困らせるやつは好きになれないらしい。あいつはお前たちが言葉で括って片付けて良いような者ではない」

 二人は、人一人丸呑みするぐらい容易い龍の顎から発される巳槌の声に、最早言葉さえ出てこない。ただわなわなと震え、互いに、相手の身体を盾に自らを庇おうと必死である。

 ずらりと牙の並ぶ顎から長い舌を垂らし、果てなき闇へと繋がる喉の奥から、白い霧が滲み出している。

 男女の教師は、たちまちのうちに眠りに落ちた。目が覚めたときには、何一つ覚えていない。げふぅ、と酒臭く甘ったるいげっぷをひとつした応龍の身体が縮まって、裸の少年の姿を取り戻すところさえ、二人は見なかった。

「……寒いな」

 ぶるると震えた全裸の巳槌は自分の身を抱えて円駆の背に乗る。其れを乱暴に振り落とし、円駆も人に戻り、箱の中に収まった。寒い。

「何だ、乗っけて行ってくれるんじゃないのか。お前だって寒かろうに」

「うるせえ。お前だって自力で上がりゃいいだろ」

 そんな程度の低い言い争いをする二人のことを、眺めている姿の在る事に気付いた。

 麒麟と応龍の姿は見られていなかったはずだ。

「何だ、何見てんだ」

 邪険な声を放った円駆に、相手はぴくんと身を小さくする。少女と、その弟かと思われる少年が、手を繋いで身を寄せ合っている。

「先生、どうしたの?」

 少年の方が長閑な声で訊く。巳槌は平然と「さあな。昼寝でもしているのだろう。僕たちは知らない」と嘘をついて、

「お前たち、用がないならこいつらを連れて帰れ、……と言ってもお前たちだけでは無理だな。里から誰か大人を呼んで来い、こんな処で昼寝をして、風邪でもひかれたら迷惑だからな」

 自分が眠らせた二人に対してずいぶんと雑な取り扱いをする。

姉弟はしかし、立ち去ろうとはしない。姉の方は気まずそうに俯いているが、弟の方はしげしげと円駆と巳槌の足の間にぶら下がるものを眺めている。

「……用があるならとっとと言えよ、面倒臭ぇな」

 円駆が舌を打って言ってやれば、少女が勇を鼓して一歩踏み出し、足元の雪を踏みしめて背中に持っていた布鞄を差し出す。

「おおおおばあちゃんが、あなたたちにって!」

 大々婆ちゃん? 訊き返した二人に、少女は「おばあちゃん、がっ、お山の子は、大事にしてあげなきゃなんないってッ、言うからッ」

「お山の子……?」

 黙れ、と巳槌が制する。彼は少女から鞄を受け取り、中を確かめる。白と赤の毛糸で編まれた、「襟巻きか。……なるほど、温かそうだな。だが僕らには必要ない」

 少女は弾かれたように顔を上げ、すぐ目の前に立つ巳槌の股間にある少年の証を直視して、小さな悲鳴を上げて慌てて顔を背けた。勝手に見て置いて悲鳴を上げるとは、何と勝手な奴だろうと円駆は思う。

「僕らにはちゃんと温かいものを与えてくれる者が側に居る。だから心配することはないと伝えてやれ。そしてこの襟巻きはお前たちが巻けばいい。……見ろ、お前の弟、洟を垂らして居る」

 巳槌の言葉の通り、弟が、んずーと鼻を鳴らした。

 円駆は箱の中に収まり、朋輩ながらまるで違う生き方をして来た巳槌が子供二人に言い聞かせ、大人を呼び教師二人を引き取らせるのを見ている。どうせ無表情に決まっているが、背中を丸め、自分より背の低い姉の方に、子供でも理解できるようゆっくりと普段よりも優しい声で彼は言う。

「では、頼んだぞ。……おい弟、そんなに僕のちんちんが珍しいか」

 巳槌の問いに、弟は「だって!」と高い声で言う。

「外なのにちんちん丸出しにしてんの、変なの!」

 幼子は素直である。姉が泣きそうな顔で叱るが、巳槌はたいして気にした素振りも見せず、

「昔はお前ぐらいの子供は平気でちんちん丸出しにして外遊びをしていたものだぞ。娘、お前もそんな頑なに目を逸らさずともいい。どうせお前の弟に付いて居るものと大差あるまい、見たけりゃ見るがいいよ」

 ごく勝手なことを言って、巳槌は二人に背を向ける。「では行こうか」と箱の中に収まって、円駆に発動機の電源を引くよう促した。

 

 

 

 

 久之は不安そうな顔で二人の帰りを待っていた。浴衣と六尺を抱えた二人が戻ってくると、早速「あの二人は……?」と訊ねる。

「心配するな、何も覚えてはいまいよ」

 巳槌は身を起こした久之の前に座り、彼の髪を撫ぜた。まだ、痛みはあるらしいが、薬の包みがくず入れの外に、恐らく投げ入れようとして失敗したのだろう、転がっていた。円駆が其れを拾い上げて捨てる。

「俺は、……やっぱり」

 久之の言わんとして居ることは判る。円駆が巳槌の背中から、「判らん奴は放っとけ」と無愛想な声で言った。散々脅かして少しは溜飲を下げはしたものの、やはりあの態度は気に食わなかったらしい。もとより自分より人間嫌いの男である。

 久之はしょんぼりと項垂れている。

「いろんなことを、考えてしまう……」

 巳槌も、円駆も、久之の心が読めるとは言え、彼の心の中で掻き混ざった卵のように混沌とした感情をひと掬いして精確なところを当てるのは難しい。久之の中には何かとても厄介で、整理しづらいものがとっちらかっていた。悩み落ち込んだときの彼特有の心理状況である。その中には巳槌と円駆を責める言葉も僅かばかり混じっているように思われた。

「俺は、……人間にはなれないまま、お前たちと同じ身体になるのかな……?」

 痛みを覚えたように笑って、彼は呟いた。

「お前には麒麟や蛇の生き方は出来ねえだろ」

 と円駆が言った。「俺に蛇の生き方をしろったってそんなん無理な相談だ。命の在り方には向き不向きがあって、お前は人間に生まれては来たけど、其れが向いてなかった、ただ其れだけのことだ」

 そういうことだろうか、いや、そういうことであってもいい。

 しかし、久之は淡く微笑んだまま、緩く首を振る。

「人間として、俺が、……まともじゃないってことは、確かなんだ。あの、先生たちが、はっきりと口にはしなかったけど、俺の在り方を、非難しようとしていることは、……判った」

「だから其れは」と円駆は言いかけて、巳槌が止めるまでとなく飲み込む。早口で捲し立てて丸め込むことは巳槌にだって可能だけれど、久之の不器用な言葉を粗雑に扱う訳には行かなかった。

「……俺は、お前たちが居てくれることが、……こんな俺の側に居てくれることが、本当に、涙が出るくらい嬉しい、幸せなことだと、思っている。……だけど、ああいう目で人に見られるのは、やっぱりまだ、慣れない」

 かつて人間として人間の中に在ったとき、言葉の扱いの下手な久之は散々に嫌な思いを味わってきた。今でこそ、あの土産物屋の主人のように久之の価値を認め敬意を払う者も在るようになったが、あの教師たちのように、人間の輪から外れて生きる他ない久之を蔑視する者が居なくならないのもまた事実である。

 久之自身の命を賭した尽力によって、そして円駆の譲歩によって、山と人里との距離はかつてよりずっと縮まってはいるはずだが。

 争いごとの根底にある、対立や差別の意識を久之は持たない。だから、そういう人間の攻撃に対して、この男は無力である。納得がいかなければ無理矢理にでも自分の責められるべき理由を探してまで、相手を責めることを避けようとする。そういう頑なさが、久之には在った。

「……だけど、お前が僕たちのことを愛さない訳にはいかないだろう。僕たちがお前を愛さないでは生きて行けないように」

 久之は子供のようにこっくりと頷く。

 人間ではなくなろうとしている身体が、未だ人間に認められんとし、同時に人間には到底認められない在り方を辞められない。しかし彼にそう在ることを求めるのが、神なる身の二人である。

 要は……、と巳槌は考える。要は僕らが僕らがこういう身体をしているからややこしいのだ。久之と同じほどの身体で居たなら、今の暮らしを人間にとやかく言われることなどない。しかし巳槌と円駆が久之と同じような肉体を得るまで、一体あとどれだけの時間を重ねなければならないのかは果てしない問いだし、先程の様に里で裸を晒すようなことになったときには、まだこの小さな少年の身体でいた方が幾分ましである。

 いささか乱暴か、という気はしないでもないが。

「事あるごとに訪れるかも知れないこういう日に問題の起きることは避けられない。けれど其れを一つ残らず片付ける力を僕と円駆は持っている。僕たちは何の苦労もなく此処に至った訳ではないだろう、僕はお前を喪うかも知れなかった。……其れに比べれば瑣末な事だ、少なくとも人間は、其処のそいつよりもずっと扱い易い」

 我ながら余計なことを言ったかという気がしないでもないが、いつものことである。

 久之は何となくしょんぼりとして、こくん、と叱られた子供のように頷いた。

「早く治せよ」

 久之はまた、こくんと頷くと、巳槌が重ねて促すより先に円駆の手を借りて布団に横たわる。ほとんど動いて居ない身体にも、精神の負担に纏わる披露が蓄積するのだろう、さほど待つことなく、規則正しい寝息を立て始めた。

「巳槌」

 円駆が顎で外を示す。黙って頷いて、外に出た。久之は寝かさなければならない、が、二人はまだのんびりと休むわけにはいかない。夜の飯を支度しなければいけない。

 昼の粥はもう無い。

 竈の前でしゃがみ込んでの検討ということになる。

「食料そのものはあるのだから、調理さえ出来ればいい訳だ」

 普段、久之が飯を作るところを細かく観察しているわけでもないが、しかしそう難しいことをしているとも思えない。久之は「習ったわけじゃなくて、……覚えなきゃいけなかったから、自然と慣れた」と言っていたから、経験という点の不足を「久之のために」という情熱に基づく必要性で補うことは十分可能であるように思える。

「米は、煮ればいいんだろ」

 円駆が知ったような口を聞くので、

「煮る前に研がなければいけない。そうしないと煮込んでもちっとも旨くならないのだ」

 巳槌は久之から教えてもらった知識を偉そうに披瀝する。円駆は面白くなさそうに「じゃあ、それはお前がやれよ」と唇を尖らせる。巳槌もそのつもりであった。この雑な男に米を研がせたりしたらきっと米粒をぼろぼろにしてしまうだろうから。

「俺は魚でも取ってくる」

 麒麟に容を変えて円駆は言う。「枝切れに刺して塩振って焼くだけで済むだろ」

「うん。そっちはお前に任せた。ついでに食後の甘味を熊の寝床からかっぱらって来るが良いよ」

 誰がそんなことするかよ、と言い残して麒麟が斜面を駆け上がって行くのを見送って、「さて、米を研がなくてはいけないな」と独語し鍋を抱え、揚々と小屋の外の箱の蓋を開けて、はたと止まる。いつも久之はどれくらいの量を炊いていたっけ?

 思案の末、竈の脇に伏せてある大小の茶碗を持ってくる。大抵は、久之が大きい茶碗で一膳、巳槌が小さい茶碗で一膳、そして円駆が二膳食べる。ならばと巳槌は、大きい茶碗にひとすくい、それから小さい茶碗で三つすくって、鍋に入れる。なかなかの量に見えるが、きっと火を入れると肉のように縮むのであろう。

 ずっしりとした鍋と笊を抱えて、里から繋がる水道の蛇口を捻る。鍋の中で満ちる水はほんの少しかき混ぜただけであっという間に白濁する。笊を駆使して何度も濾し、その度細い指先に力を籠めて研ぐ。笊を持って来たのは正解だった。久之は当然のように掌だけで米を一粒も漏らさずに護って濁った水を濾していたが、巳槌には到底真似できそうにない。

 冷たい水に指先がかじかむのを堪えながら何度も繰り返し研いでいるうちに、少しずつ水が透明になり、米粒も美しく輝くようになってきた。米を洗うのは水道の水で良いが、炊くときにはいつも、泉の水を使っている久之の姿を思い出して、巳槌は木桶を持ち出して泉への坂を登る。

 

 

 

 

 久之の趣味が絵であることは、当然巳槌も知っているはずだ。とは言えその絵はいつ見てもあまりうまくない。普段は木や花や石など黙っているものばかりを描いている。動かぬものを描き写すだけのことが、どうしてそんなに難しいものかと円駆は思う。もちろん円駆は筆を握ったこともない。ただ一度だけ、小屋縁に座る円駆と巳槌を描いたことが彼にはあって、そのときの走り描きは、案外ものになっていたように記憶している。とは言え久之は二人を描くことに気後れを覚えるらしくて、あれぎり一度も彼に描かれたことはなかったが。

 焔の麒麟は清冽な流れに四肢の半ばまで浸かり、三人分の川魚をその巨きな手で水面から川岸へ跳ね飛ばす。

 魚たちも山の一員であるが、当時に貴重な動物性蛋白質である。こうして命を貰い受けるときには厳かな気持ちで、出来るだけ苦しめずに奪うのが寛容だ。まだ大半が人間である久之の目には残酷に映るかも知れないが、爪で素早く一匹ずつ意識を奪い取る。ただ、殺してから時間が経つと味が落ちてしまうので、人の姿に戻り、手頃な枝に魚の目を刺して繋げ、枯れた蔓で括ったものを再び麒麟態となり口に咥え、川の流れに濯がせながら小屋まで戻る。

「糞寒い」

 呟いて、毛皮をぶるぶる震わせて水気を払う。竈の側では巳槌がしゃがんでいた。

「丁度いい処に戻ってきたな。火を点けろ」

 偉そうな言葉に一々ささくれだっていてはいつまで経っても飯は出来ない。陽は既に山陰に隠れた。円駆は朝から貯蔵してあった木の実幾つかと、久之の食べた粥の残りを啜っただけで大いに空腹している。

 また少年態に戻り、薪に向けて掌から火焔球を発する。すぐにぱちぱちと爆ぜる音がする。

「おい、……火加減はどれぐらいだ」

「判らん」

「判らんじゃ困る、ちゃんとしたものが出来るんだろうな」

「じゃあお前はその『ちゃんとしたもの』の作り方を知っているのか?」

 全く、口だけは達者だ。だから嫌われるのだ。

「此処は僕に任せて、お前は風呂の支度をして来い。水はもう張ってある。風呂の火加減ぐらいは知っているのだろう」

 円駆は顔を歪め思い切り舌を打ち、寒さに震えながら大鍋の元へ走る。自分で灯した炎に掌を当てて、束の間、暖を取る。しかし背中は寒いままだ。浴衣を焦がしでもしたらまた巳槌に何を言われるか判ったものではないから、我慢するけれど。

 人間を軽蔑している、とは言わないが、自分たちとは住む世界が違う生き物だと思っている。が、人間の生活というのは、きっと便利なものだ。揺らめく火を見ながら、円駆は思う。

 久之だって何年か前まではそういう便利な暮らしの中に居たのだ。其れを、死ぬためにという理由を持って居たにしても、わざわざこんな「不便」な山奥に這入るとは、酔狂なものだ。巳槌が今しているように、飯を炊くのにも、ずっとそばについて居なければならない。

店屋に行けば幾らでも食糧は手に入る、風呂も機械で沸かす、そもそも、部屋の空気自体を暖めるのだと言う。焔の麒麟にも其処まで器用な真似は出来ない、小屋を暖めようとしたなら山火事を起こすに違いない。

 神なる身で長らくの時を生きては来たが、人間の生活も楽なものなのではないか、という気がする。

 然るに久之は二人との接続を解いて再び里で暮らすことなど思い付きもしないようだ。円駆と巳槌がこの山にしかいない以上は、不便さなど甘んじて受け入れる。其れは彼が人間に受け入れられるよう努めるよりもずっと楽なことらしい。

 

 

 

「おお……、おお……。……お?」

 米を、茹でているのか煮ているのか、巳槌には判然としない。ただ、これは「炊く」という言葉とはにつかわしくないきがするし、そうであってはいけないのに「焼く」ような趣さえ在る。

 久之が目を覚ましたらしい。

「巳槌」

 と、声がする。その先は言わなくても判る。

「大丈夫だ心配するな。起きて来るな、横になって待って居るがいいよ」

 掌から水を注げば、しゅううと勢いよく湯気が上がる。何だか焦げ臭い、雲行きが怪しい。

 これは後日に久之が飯を炊く処を観察した結果、巳槌が学ぶことであるが、飯を炊くときには鍋に蓋をするのだ。赤子泣いても蓋取るなという厳しい格言を忠実に守った者にのみ、舌に甘みさえ齎す飯が炊き上がる。その蓋を、延々開けっ放しにして、時折自己判断でかき混ぜたりしつつ、米の量がなかなか減らない(水を吸った米の嵩が減るはずもないのだが)と業を煮やしているうちにあっという間に水気が飛び、煮るを通り越して焦げるに至る。杓文字ですくって一口食べて見たが、まだぼそぼそと芯が残り、生米のようである。

 巳槌が焦らなかったと言えば嘘になる。だがはたから見れば彼はいつもと変わらぬ無表情で冷静に黙々と、……しかし何をやっているのか今ひとつ判らないだろう。当の本人にもよく判って居ないのだから当然である。

 こういうところを見られたくないのに、

「風呂沸いたぞ……、って、何やってるんだてめぇは!」

 一番見られたくないやって来て男が声を上げた。

「黙れ」

 もぐ、とその口に杓文字を突っ込む。円駆の首を掴んで手足をばたつかせる彼の耳元に「騒ぐな。久之の手を煩わせたいのかと独善的に言い放つ。だが焔の麒麟は巳槌にとって最も扱いやすい類の心を持っている。ぐっと黙り込んで恨めしげに見上げた彼の口から杓文字を抜いて、「さて」と尊大に腕を組んで巳槌は言う。

「どうすればいい。ちっともやらかくならないし、量も減らない」

「……どうして量が減ると思ったんだ」

「縮むと思ったんだ」

「縮むわけねえだろ、生の米の大きさと、普段てめえか食ってる飯粒の大きさ比べてみろよ」

 そう言われてみればそうである。水を吸って飯粒は膨らむのだ。してみると、米の量は多すぎたし、水の量は少なすぎたのかもしれない。

 円駆はそっと杓文字に一口乗せて、恐る恐る口に含む。眉間に皺を寄せて烏天狗のように口を尖らせて、もそもそと食んでいる。「まじい……」

「文句を言う前に、現状を打開する方法を考えるがいいよ」

「何でそう悉く偉そうなんだろうなてめぇは」

「偉いからに決まっているだろう」

 円駆だって腹は減っているはずなのだ。口喧嘩をして夕餉が遅くなるのは望ましくないことぐらい彼も判っているようで、しばらくの間鍋の中の恐るべき飯を睨んでいたが、不意に思い立ったように、大皿を持ってくる。湯呑や皿など、この庵で使われる器は全て久之の焼き損じで売り物にならないものである。

 巳槌が見ていると、円駆は杓文字に一掬いずつ、薄く潰した握り飯のような形状に飯を取り、皿に乗せていく。大皿に、全部でその不味い米粒の塊が六つ乗った。

 塊の大きさや厚さを指で測って、人差し指を立てる。慎重に息を整えて、ふー、とゆっくりと彼が唇から息を吐き出すのと同時に、厚手の大皿の上で、香ばしい匂いが立ち始めた。表面はべしゃべしゃ、そのくせ芯のある米粒は、ぴりぴりと小さな音を立てて膨らみ、僅かに黄金色に変じた。香ばしい湯気が漂う。

「……何だこれは」

 そっと触って見ると、ずいぶん熱く、硬くなっている。歪な形の潰れ握り飯はぱりぱりに乾いていて、巳槌が指で摘みあげるとずいぶん軽い。

 胡散臭い代物であるが、匂いは悪くない。

 意を決して歯を立ててみれば、少しの抵抗が在って、……それからばりん、と音を立てて割れた。味は、ないに等しい。ただ粒状の米が巳槌の知らないものに変じたことによって生じる食感は不思議と好ましい。微かだが、米特有の甘さもあるようだ。

「どうだ、美味いか」

 円駆はやや得意げに言う、小憎らしい気はするが、自分の失策を補って余りある結果を出して見せられた以上、巳槌は黙ってこくんと頷く。もちろん、「味がない」と文句を一つ付けることは忘れなかったが。

「そんなもん、醤油でも味噌でも付けてやりゃいいんだ。昼がゆるゆるの粥だったからな、今度はこういうもんにしたって久之は文句言わねえだろ」

 円駆の言葉に反論の余地はない。巳槌は無表情で「そうか」と頷くばかりだ。

 この男の方が器用なのだろうか、という気がして、正直に言えばあまり面白くない。実際、このよく判らない乾き飯は醤油や味噌などで塩気を加えれば一層美味くなるように思う。

「……お前が獲って来た魚はどうする」

「だから、そっちは串に刺してそのまんま焼けばいいだろ。お前はとっとと小屋から醤油とか持って来い。魚につける塩もだぞ」

 人使い――神だが――の荒さは巳槌の領分だが、円駆は此処を先途と思うわけでもあるまいが、てきぱきと巳槌に命じる。面白くない、全く以って面白くないが、いまは何を言っても一層面白くない気持ちになる結果しか招かないだろうから、黙って言われた通りに従う。部屋では久之が布団の上に座って、不安そうに巳槌の顔を見る。

「大丈夫か……?」

 僕一人なら大丈夫じゃなかった。けれど、「大丈夫だ、問題ない」と巳槌は答える。調味料の入った籠ごと持ち上げて、「円駆が良く判らないがちゃんとしたものを作っている」と、いつもの通り無愛想の、いつも以上に尖って硬い声で言った。

「巳槌」

 久之が言うから、小屋縁で草履を履くところで振り返った。久之は布団から手足を使って人間というよりは四足の獣の形で、畳の上を這って居た。

「何だ。……起きてこなくて良いと言ったろ。お前は早く腰を治すことだけ考えているがいいよ」

 巳槌は草履を蹴り捨てて、振り返る。久之はぎこちなく笑って座り直すと、おずおずと掌を巳槌の髪に当てる。

「ありがとうね」

 そのまま、彼がたいした力を入れなくとも巳槌は久之の頬に頬を当てる。

「大したことはしていない。下に言って粥を貰って、あの人間たちを連れて来ただけだろう」

「でも、大変だった……、だろう」

 お前の腰の痛みに比べれば、そんなもの。

 巳槌が微笑む前に久之は身を引いた。

「少し、だけど、動けるようになって来た。だから、……あとで、三人一緒にお風呂に、入ろう。……な?」

 唇をむっと尖らせて、巳槌は頷いた。そして、久之の唇に唇を当てる。小屋の外から「おい、とっとと持って来いよ!」と円駆の呼ぶ声がする。

「あいつにも伝えておこう。……それとも、お前が自分で言うか?」

 久之が頷いた。巳槌は醤油味噌塩、全部入った籠を抱え直して、円駆が催促するのに胸を張って持って行く。我ながら単純であるな、とは思うが、無力な水蛇だった巳槌の力を蘇らせた男の言葉には、それだけの力が在っていいのだと、巳槌は決め付けている。

 

 

 

 

 こういう料理を煎餅、というのだ。久之から教わって、円駆は一つ賢くなった。ただ久之が、口にはしなかったけれど思いとして抱いた、「これはお菓子だ」ということも、円駆は同時に学ぶこととなった。つまりまんじゅうや果物といった甘味と同じく扱うべき物だということだ。

 けれど、一先ずは腹が膨らんだのだからいいだろう。醤油や味噌の味の「煎餅」と焼いた魚は、あまり合わないようだったけれど。

 久之は、二人の手を借りながらではあったが、鍋まで自分の足で歩いた。あの人間が持ってきた薬が効いたのだろうとは思う。貼り薬は、ツンと薄荷の刺激臭があって、円駆は苦手だ。風呂上りには同じ場所に、円駆が貼った。掌で温めてから貼ったのだが、それでも久之の背中は冷たさに強張った。

「こんなもん貼らなくて済むように、早く良くなれよ」

 円駆が言ったら、久之は厳かな表情で頷いていた。

 陽は風呂に入っているうちにもう暮れ落ちていて、山小屋の一日は間もなく終わりを告げる。久之がどうして腰を傷めるに至ったのかという理由については、円駆も巳槌も概ね答えに辿り着いている。律儀な男、優しい男がどうすれば気兼ねせずに寝付いてくれるかを、恐らく巳槌も考えたはずだ、円駆が考えたように。

 布団の真ん中に横たわった久之の左隣、つまりいつもの位置に、円駆は巳槌を寝かせた。

「お前は何処で寝るんだ」

 久之は、当然右腕に円駆が実るものと思っている。

「俺は外でいい。塒で寝て、夜明けには戻ってくる」

 え、と久之が上げた声を塞いで、「楽な姿勢で寝ればいい。……お前の腰が治ったら、戻ってきてまた一緒に寝てやるよ」と格好を付けて言う。けれど「強がりを」と巳槌が言ったから、あまり上手に装えては居なかったらしい。

「だからお前は頭が悪いと言うのだ」

 巳槌は冷たい目で言い放つ。「お前が居なければ、布団が寒くなるだろう。それぐらいの価値はお前のちんちくりんの身体にも在るんだ。そんなことも知らないでこの小屋で生活しているのか。馬鹿者め。布団が冷えれば益々久之の腰は悪化するぞ。僕はいくらでもこの男の身体を冷やしてしまうことだって出来るのだぞ」

 そんなことを、偉そうに巳槌は言う。円駆の梯子を乱暴に蹴って何処かへ遣ってしまう。

 しばらく巳槌と睨み合いをしていた。

 久之が空白へと腕を広げた。

「円駆」

 控え目に微笑んで彼は言う。

「おいで。……お前だって、寒いだろ。……一緒なら、あったかい」

 下り階段を、久之が優しく設置する。「お前が、一緒の方が、俺も、早く良くなれるような気がする……」根拠も何もないくせにそんなことを言って、未だ神に至らぬ男はその不器用な言葉で以って、円駆をもう、温かくしている。

 唇をむっつりと尖らせて、いつもの通り布団に収まった円駆に、「時間の無駄が好きな男だ」と巳槌が言う。

「……俺たちには、時間がいっぱい、あるから」

 久之は穏やかに言う。

「俺には、お前たちが居て、それがすごく、幸せだから」

 それは本当のことだと、左右の二人は同時に思う。

 いつもと同じ夜。

 けれどいつもと違うのは、巳槌が笑わないという点だ。そういう気持ちの欠片を巳槌が持っていないはずはない――其れは円駆にしても同じことだ――が、今宵ぐらいはいいだろうということを、巳槌はきちんと判っているようだった。これでも尚笑うのだと彼が言うのなら、円駆が身を呈して久之を庇う。……なるほどその為なら、円駆が隣久之の隣に寝そべることには確かな意味が在る。

「おやすみ」

 と久之が言った。「おやすみ」と巳槌が返し、円駆は久之の腕をそっと抱いて、「ん」とその腕に言う。本当に、とっとと良くなれよ。巳槌が、俺が、そしてお前が、何の気兼ねもなく愛し合えるように。

 とは言え、あらゆる一日を幸せに帰る準備は、円駆の中でとうに整いきっている。この小さな神なる身がふたつ、人里に降りて、奇異の目に晒されつつも愛情に基づいて行う一挙手一投足、かつて巳槌が「裸の蛇神様」なる面妖な存在として村に受け容れられたことを紐解くまでもなく――円駆は其れが人間の妙に賢い所だとは思うが――何となくの日常に埋もれていくことだろう。其れは、すぐに訪れるわけではなくて、月の満ち欠けや太陽の浮き沈み、星辰の巡りによって描かれるものであるから相応の時間を要する。

 さっき久之が言った通り、俺たちには時間がいっぱいあるから。

 円駆は考えを止めて目を閉じた。久之の匂いがする、その向こうから巳槌の匂いがする、布団の中は温かい、考えるための時間だって、俺たちには余り在る。

 すっかり怠惰になったものだ、とは思う。しかし今日は、少しく疲れた身体の、焔の麒麟である。

 


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