THEIR ORDINARY DAYS

 応龍にしろ白蛇にしろ、変温動物である。人間態であっても巳槌はいつでも何となく冷んやりとした肌をしているし、血圧は低い。何事にも動じない、超然の無表情は彼が神なる身であると同時に、肉体の性質の為せる技でもある。その証拠に神獣態でも哺乳類の円駆は、人間の姿をしているときでも概ね激しやすい性情である。

 人間である久之はもとより、同じ神なる身の円駆も知らないことだが、そういう性質を備えた身体で人間の暮らしを送るためには幾つかの工夫が要る。取り立てて二人に話すようなことではないと巳槌は思うから言いはしないが、朝は少々辛い。それでもこの、電気の届かない小さな庵で愛しい者たちと暮らす以上は耐えなければならないことであるとは思っているから、文句を言ったりはしない。

 夢うつつのうちに、久之が目を覚まして動き出している。

 円駆が「ううん」と無垢な声を漏らした。

 久之が二人の神なる身に先んじて布団を抜け出すのは、いつも巳槌が「朝風呂に入りたい」と我儘を言うから。それに乗じて円駆も朝風呂が好きになった。久之が朝寝坊をする機会は失われて久しい。本当はそんなこと、少し我慢すればいいのだが、朝風呂に入るのと入らないのとでは、その後の身体の動き方が全く違うのだ。いまはまだ「冷んやり」程度で済む朝の空気の中を久之は大鍋に水を貯め、せっせと薪を運び、火を点ける。それから米を土鍋に入れ、笊と一緒に携えて泉への道を上ってゆく。それぎりしばらく、久之の生活音は途絶える。気付けば巳槌の頭は円駆に抱かれていて、彼の心音と覚醒時とは裏腹に穏やかな呼吸の音を間近に聴いている。再び目が覚めたのは、米を研いで戻ってきた久之が縁側に腰掛けて、何時の間にか居れたらしい茶を啜っているらしい気配に気付いたからだ。

「う……、ん……」

 これぐらいの時期に、いつも円駆が目を覚ます。んぐぐぐという力が身体に篭って巳槌を放すと、寝ぼけ眼を擦りながら布団の上に起き上がる。

「あふ……」

 あくびをして、裸のまま起き上がり、ぺたぺたと裸足の音を立てて縁側に出る。「……おはよう」と言った久之に「んん」とまだ眠そうな声で応じた円駆は、草履を履いて便所に行って帰って来て久之に六尺を締めて貰う頃には「朝飯は何だ」と明瞭な声を掴んで居る。

 巳槌も、極めて緩慢な動きで身を起こす。肩に引っ掛けて寝たはずの着物はどこへ行ったか、とうに布団の外にあぶれている。小便がしたいから、これ以上横になって居るわけにも行かないのだが、どうにも身体が重たいし、朝晩は冷え込むようになって、足先は凍って居る。それでも巳槌は神の理性で以て起き上がり、半分ほどしか開かない目の朧な視界のまま、……歩くのは面倒だな……、ぶつりと呟き、蛇の姿に転じる。「……巳槌、も、おはよう」と久之の声が振ったが返答するだけの元気もなく、そのまま身をくねらせて縁側から土の上に降り、便所の前まで行って、人間態に戻った。我ながら横着なことであるとは思う。便所は野土に穴を掘り、三方を板囲いしただけの簡素なもの、屋根もない。大小の差なくその穴の中にする。此処に至ってぼやぼやとしていると、ついさっき円駆が小便を注ぎ込んだばかりの穴に転げ落ちてしまいかねない。壁に手を付いて「うう」と小さく唸り、どうにか意識を取り繋ぐ。毎朝、こんな塩梅である。身体に芯が通わない、天翔ける龍の類とは思えぬほどのだらしなさ。

 そのくせ、此処はこんな風だ。

 壁に凭れて、要は身体を斜めに傾がせたまま、申し訳程度に摘まんだ幼い輪郭の秘茎の先から吹き出した体温水は、足元の穴を呆気なく通り越して向かいの壁に当たって散る。

「……ああ……」

 恐らくこれは円駆も同じであろう。ただ彼は巳槌ほど朝に弱くもないから、その場所がそういった表情を浮かべて居たならば、例えば一歩半下がるとか、可能ならば落ち着くまで待つとか、工夫してやり果せる。

 大あくびをするほどまだだるい身体なのに、なぜ此処ばかり斯様に元気なのか解せない。まさか起き抜けに性欲を抱いて居るわけでもあるまいが、久之と暮らすようになる以前の自分がどうであったか、巳槌にはもう思い出せない。その頃は蛇で居る時間が長かったから気にも留めなかったのか。

 今朝も、壁に大きな汚れを作ってしまった。しかし、解放感という点では抜群の排尿を終えて、性器の昂りも少し収まった巳槌は特に気にした様子もなく壁に向けて掌を掲げる。温水で濡らしたままでは虫が湧く。凍温の水鉄砲の矛先を其処にぶつけ、洗浄する。当然元在ったものより大きな濡れ模様が其処には生じる。

 久之は其れを見て、巳槌なのか円駆なのか判らないが随分豪快なやり方で小便をするものだなあと的外れなことを考える一方で、其れを指摘はするまいと心に決めて居るらしい。違うぞ、あれは僕が洗ってやってるんだ、というようなことをわざわざ巳槌は言わない。

 泉で顔を洗い、口を濯ぎ、無理矢理にでも意識をしゃっきりとさせて庵に戻る。ぱちぱちと爆ぜる裸竈の上で土鍋がしゅんしゅんと盛んに白く湯気を上げている。久之は昨日円駆が摘んできた山菜を刻んで、味噌汁の支度をして居る。まだ身体の大半を人間の体質で生きる久之は眠そうだし寒そうだ、しかし指先に集中している横顔はいい。

 久之はどんな神獣になるだろうか、と考える。

 水蛇であり、応龍である巳槌と。

 麒麟の円駆。

 元はか弱き人間である久之は、二人とも交わることでやがて神なる身となる。

 巳槌にしろ、円駆にしろ、獣である。人間がどのように神なる身へと変じるのかということには、特段の興味を抱く。

 ともあれ其れは、ずっとずっと先のことだ。

 六尺を自分で締めて、着物の帯を締める。そのまま、既に良い塩梅の大鍋の下を覗き込んで居る円駆の隣に一緒になって屈み込み、「歯は磨いたのか」と訊く。

「まだだ」

「道理で、臭い口をしている」

「お前だってまだだろうが!」

 いつもの通りにいがみあい、飯炊き鍋を見守る久之を悲しそうな顔にする。歯ブラシなるものが、この庵には在って、其れは部屋の壁に久之が付けた棚の上に三本、竹を割って作った筒に立ち並んでいる。

「磨きにいくぞ」

 と巳槌は告げて立ち上がり、しばし唇を尖らせて見上げていた円駆も其れに倣う。別にお前が言ったから磨きに行くわけではないと思っていることは、心の読めない者同士であっても判り過ぎるくらいによく判る。

 顔を洗い、歯を磨き、口を濯ぐのはいつでも巳槌の棲んでいた泉である。彼らの生活は自然の中、山と神々の恵みによって成り立っている。あくまでまだ「間借り人」の自覚で居る久之は、確かにこの山に対して直接的に何らかの恩恵を成す者ではないかもしれない。しかし、やがてこの庵を含め、彼が此処で生きて居ること其れじたいが自然となる。恐らくは、巳槌でさえ成し遂げることが出来なかった自然と人間の共存が選ばれて完成したときには、久之という男の存在そのものがこの山にとっても人間たちにとっても恵みとなりうるはずだと巳槌は思う。

 円駆が濡れた口元を拭って「戻るぞ」と横柄な物言いをした。きっと、そういう態度をこの男は選んでして居る。尖った光の眼は、いかにも気の強い輪郭と雄々しい眉を併せ持って居て、人間に直したときの歳で考えたなら要らぬほど迫力があることは巳槌も認める。

「うん」

 と応じる巳槌は霧のような無表情であり、誰が見たって何を考えて居るのかは判らない。
「臭いか?」

 口を開けて、巳槌は問うた。

「……別に」

 と円駆が答える。

「そうか。ならばお前に唇を重ねたって何の問題もなかろうな」

 もう、答えは待たなかった。相変わらずにこりとも微笑まないまま、頭を捕らえ、宣言通りに唇を重ねる。強い眼と真ッ向からぶつかった。円駆は不本意そうな表情を隠さず視線を逃さないし、もちろん巳槌も動じない。もっと可愛く在ればいいのに。そうしたら、僕はお前のことをもっともっと可愛がってやるのに。それなのに、そんな風だから、僕はお前のことを可愛がりたくなってしまうのだ。

「風呂が湧いてる。飯も炊けた」

 顔が離れるなり、円駆は言う。「腹は減ってないのか」

「それほどは」

 血圧が、低いから。けれども小用に始まり、一連の朝の作法を終えればもう頭は冴えている。これで風呂に入れば完璧だ。

 このところは久之の手を煩わせることなく、二人で三人分の支度をする。飯釜を火元から離して立ち上がった久之が振り返るのを待って、「風呂入るぞ」と円駆が言い、微かに笑みを浮かべて久之が頷く顔は、山際から少し寝坊した太陽の光に照らされて橙色に光っている。まだこの季節ならばいい。あと、其れほども待たぬうちに、太陽の睡眠時間はもっと増える。伴って、三人で布団を温め合う時間も長引くようになる。久之は辛かろう、焔を司る円駆は大丈夫かと思いきや、彼だって人間態のときには、寒いものは寒い。そしてとりわけ、巳槌は起きるという行為に相当の努力を必要とされるようになる。もちろん巳槌はそんな自分の弱さを意地でも二人に見せはするまいと思っていた。瞼が鉄扉のように重たいのなら、神の力を総動員して抉じ開けてやろう。

 しかし反比例するように、冬の朝の風呂は格別であるとも思う。夏の水遊びも楽しいものだが。季節というか、自然の下位に属して生きる以上、「彼ら」の作り出す曲線が少々いびつであっても其れに身を委ねるしかない。

「……暑くなくなったね」

 いつもの通り、久之の右肩は巳槌のものだ、左肩は円駆のものだ。彼に比して強大過ぎる力を小さな身体に隠し持つ二人は、久之の弟のようにも見える。そう見えればいいと巳槌は思っているし、きっと円駆も願っている。

「夏はもう終わったんだ。……今年の夏はクソ暑かったから、終わってくれてよかった」

 片手で髪をかき上げて、円駆は唇を尖らせる。人間態にも堪える暑さは、麒麟態の焔の毛皮を被れば一層耐え難いものになるはずだ。

「そうか? 僕は其れほど苦でもなかった」

「それは……」

「当たり前じゃねえか!」

 嘯いた巳槌に反応したのは、円駆だけではない。久之は反射的に口を開いてしまった自分を、なぜだか恥じるように俯いたが、何を思っているかは判る。

「あんな涼しいとこに毎日のように行ってりゃ、そりゃあ地上の暑さなんて辛くもねえに決まってら」

 空を、指差して円駆は顔を顰める。宇宙の入り口がすぐ其処に見える場所は、「涼しい」どころか極寒の地である。久之を背に乗せて連れて行ったことがあったが、その際には凍死せぬように結界を纏った。久之は其れが巳槌の気遣いだと思ったらしいが、何の事はない、結界なしでは巳槌自身が凍えてしまうのである。

「雨を降らしてやったんだ、お前たちだって生活には潤いが在った方がいいだろう。いつでもからからに乾いていては枯れて死んでしまう。感謝するがいいよ」

 もっともらしい理由を付けた巳槌に、

「一人で涼んでただけじゃねえか」

 先刻承知と言うように円駆はぶっつりと言う。久之も完全同意らしかった。長湯をして、血の巡りがもっと良くなれば円駆を言い負かすことなど容易いはずだが、どうも午前中は互角である。それに長湯をすれば揃って逆上せて、せっかく久之が拵えた朝餉が駄目になってしまう。

 何より、諍うところを見せない方が、久之は嬉しい。

「そろそろ……、出ようか……?」

久之の言葉に、揃って従った。

 

 

 

 

 円駆と巳槌の生活は、自由気儘のばらばらである。久之が二人の行動を制約することはない。あくまで神なる身の前で無力な人間と自分を定義している。だから日中にそれぞれが何処に居ようと気にすることはない。荒天の日にわざわざ出て行くことはしないし、其れでも強いて出て行こうとするなら、相応の理由が在るのだと諒解している。ただ、昼と夜の飯は三人分支度する。其れを知っているから、二人もその頃には必ず庵に戻ってくる。
秋風によって夏の名残が急速に掻き消されつつあるようだ。無論、暦が変わった瞬間から木々の葉が色付く訳もなく、眼に映る景色のあらましは変わらない。其れでも肌に当たる風は優しく円駆の懐から袖へと抜けた。

 相変わらず、一人で六尺を締められない。だから庵を出る前に用を足した後に久之が締めてくれた六尺は朝から昼へと時間の呼び名が変わろうとする頃にはもう解かれて、腕に引っ掛けて風にたなびかせる。歩幅が広いから、上り坂でぐいと踏み出したときには、当然のように下半身の其れが露わになるが、本来服を着る習慣もないものだから、別に気にも留めない。なお円駆の足は別段、長くもない。

 この山に於ける彼の役割は、山の治安の保持、並びに大地の浄化である。食べ物や縄張で争いが起きたときには力で以て仲裁を行い、彼が歩き回れば其れだけで山の土には活力が与えられる。土踏まずが理想的な弧を描く少年の足、或いは鋭く黒い爪を持つ麒麟の足には、そういう働きが在った。

 とは言え、其れらは毎日必須の仕事ではない。山が平和で、相応に元気であることが判れば、わざわざ山林に分け入って世話を焼く必要もない。

 そういう日、円駆は気に入りの場所でぼうっとするのが好きだ。久之が土を捏ねて居るのを見ていてもいいし、木漏れ陽の広場で昼寝をするのも悪くない。しなければならないことがないなら、何もしなくていいのだ。

 彼の生活に「退屈」という言葉はない。途方もない時間を生きたが故にか、そういうことへの感覚が鈍化しているのかもしれない。と言って、時間の経過について言えば、其れが加速して居る気配もない。

 木に登って、太い枝にほとんど剥き出しになった下半身で跨り、非常に穏やかな気持ちで先ほど捥いで懐にいれて居た無花果を割って噛り付く。もう大分熟れ過ぎであり、甘味が強すぎる。其れでも円駆は文句も思い浮かばず、無心であっという間に食べ終えた。

 久之が持っているほとんど唯一の文明の利器であるところの時計が、もうすぐ十一時を指すであろうことは承知して居る。山の住民たちは太陽の位置を見ればおおよその時間は把握出来るが、久之に其れを求めるのはまだ早い。しかし彼だって「時計」なるものが必要な生活を送って居るわけではない。

 さて、自堕落になろうとは思わないのだろうかと円駆は思ったりする。

 まだ久之の庵で暮らすようになる以前にどんな暮らしをして居たかと言えば、今より朝は遅かったし、夜も遅かった。より気儘に寝たり起きたりをしていたように思う。

 いや、この生活に文句を付けて居る訳じゃないんだ。

 ただ、久之がそうすると言うなら従うばかりだ。円駆にとってあの男が、……不器用極まりないあの男が、もう生の愉悦に必要不可欠であることは認めざるを得ないし、巳槌が同じように思うなら尚更だ。ただ、どうしてだろうと考えるだけのこと。

 円駆は想像して至るのは、「あいつは俺たちを畏怖しすぎて居る」ということだ。

 山に間借りして居るという謙虚な思いを相変わらず抱いている。その上、円駆と巳槌、二人の神なる身を側に置く以上、山の時間で生活しなければならないと信じて居るのだ。だから多くの山の住民がそうであるように、人間としての生活習慣ではなく太陽と月の追いかけっこに生活の物差しを合わせて居る。何百年か前ならいざ知らず、今の人間には辛さも伴うはずと思うのだが、今朝もああして一番に目を覚まし布団から起き出して、惰眠を貪る神なる身二つのために働くのを知っていれば、不器用なばかりに見えてあの男は案外順応性が高いのかもしれないとも思われてくる。

 久之の生活は巳槌が、そして円駆が、傍に生じたことで劇変したはずである。この山に、死にに入ってきた男は今や、この山に住まう神なる身の群れの中、欠かすべからざる存在の一つとなり得る。「とっとと死ねば肥料になる」などと円駆が思っていたのも今は昔、同じ時間を飽かず延々過ごして行くことに、もう決めている。人間など憎たらしいはずだったのに。

 変われば変わるものなのだ。

 変わらぬことの方が少ない。

 ただこの幸福だけは、……そう、紅い麒麟はこの日々の幸福なることを認めた上で、能う限り続いてくれることを願う。

 身に纏う焰の如き激烈な男であったはずが、何と情けないことか、永の生でとうとう心が鈍ったか、甘ったれたことを考えている、……いま庵に戻ったら、久之を独り占め出来るかもしれないぞ、あいつが土を捏ねたり筆を走らせたりするのの邪魔にはなりたくないが、でも。こんなことを考えるようないきものでは、断じてなかったはずなのに。

 俺ばっかりが変わったんじゃない、そう言い張ることで円駆は僅かばかり、自分の沽券が保たれたように感じるので、積極的に巳槌を引き合いに出す。

 あいつはあんな風な男じゃなかった。あんな風に淫らにへらへら笑うような男では、決してなかった。氷のように冷たくて、雪のように穢れなく、何より非情な男だった。其の心さえ、何処にあるのかないのか判然としないほどに。

 あいつの笑顔を最初に見たのが俺ではなかった。其れはもう、いまとなっては、どうでもいいことだ。

 本当に、些細なこと。

 円駆が聡明なる神としては迂闊なことに忘れて居るのは、不変なるものとして、相も変わらずこの男は、自分の手で六尺を締められない。学ぶつもりもない、久之に締めてもらえばいいと思っているばかり。変えるつもりがないから変わらない。だから円駆が心の底で願う通り、彼らの日々は季節が巡り、夏も冬も春も超えて、飽きても続く。

 

 

 

 

 元を正せば久之がこの山に這入って、粗末な小屋を立て、電気も電波もない中に自給自足の生活を開始したのは、遠からぬ未来にくたばり果せることまで予定に入れてのことだった。そう長続きはしないだろうなと思う一方で、此処を出たらいよいよ行く先は何処にもないと理解もしていた。終の住処という言葉は其の頃の久之にとって、絶望的に生温かい響きに聴こえたものだ。あらゆる生の前に、死のみが平等であることを理解したときには、微かに安堵さえ覚え、久方振りの微笑みを浮かべさえした。

 そんな時間と感覚と共に在ったはずなのに、いまはどうだ。久之は、巳槌と円駆から言われたことを思い出す。 土を捏ねている間というのは、大概頭の半分は空っぽになっていて、其処では記憶が勝手に周っている。舞台のように映像が幾らだって蘇ってくるのだ。

「お前はもう、人間の時間から出外れて居る」

 と口火を切ったのは円駆だった。「大方こいつはお前にそういうことを一切言わなかったのだろう」

 その夜二人はまだ酒に手を付けていなかった。呑めば話にならなくなることを二人とも理解していたはずだし、久之は「其処に座れ」と命じられた段階で何やら不穏なる話をされることを察していた。

「だって、言う必要がないだろう」

 ふん、と胡座の巳槌は悪びれもせず言い放つ。円駆がなにごとか言い返すより先に、

「久之、お前はこの山に篭って今日でどれほどの長さの時間を過ごしたか覚えているか?大方ほとんど意識などしていないだろう」

 問われてみれば確かに久之は巳槌に素早く応えることはできないことに久之は気付く。十秒ほど考えれば四年が経とうとしているのだが、季節の移り変わり以上に意識を向けていなかった自分だと理解する。

「其れでも!」

 円駆が声を張り上げた。彼の声は甲高く、鋭く、夜を劈く。「其れでも、説明責任があるに決まってんだろ!」

「ほう、なるほど、偉そうなことを言うのだな。其の割に、今日の今日まで僕に其れを指摘しなかったのは何故だ?」

 痛いところを突かれたらしい円駆が「其れは……」と口篭り、視線を揺らす。

「お前だってろくすっぽ考えて来なかったのだろう、急に今日思いついたに過ぎないことを何をそんな大上段に構えて偉そうに。そういうことをするからお前はちんちんの皮が余ってるんだ」

「余ってんのはお前だって同じだろうが!」

 巳槌の口の悪さを一番知っているのは円駆であるはずだし、其れにいちいち応じていては時間が幾ら在っても足りなかろう。しかるに久之が見ている限り、円駆は巳槌の暴言に対して律儀とでも言うべき反応の鋭さを見せ、時間並びに体力を浪費して居る。言うなれば其れは神々の遊びか。余計なことを言う巳槌が悪いのか、捨て置けない円駆が悪いのか、……俺が判断していいことではないと久之は勝手に思い込んでいる。

 取っ組み合いの喧嘩が終わって、二人が再び並んで座ったときにもそんなことを考えていたぐらいだから、円駆がさも重要なことのように切り出した話にも、取り立てて感慨を抱いてもいないのだ。四畳半程の狭い庵に、少年二人のぼんやりした汗の匂いと弾む息の音が漂った。

「つまり、お前はもう、歳を取れない」

 息を整えながら、円駆は言った。

「説明をするのなら」巳槌は汗ばんだ前髪を書き上げて、「精確を期せ。永遠に歳を取れない訳ではないのだ」

「うるせえな、人間にとったら同じことだ!」

「ようするに……」

 また喧嘩が始まっては堪らないから口を挟んで、「俺、の……、身体が、お前たちと、似て、来てるってことか? 性質が……」

 驚きはさほどなかった。ただ、僅かに畏れ多いような気になったばかりだ。だって俺は何もしていない、何も変わっていない、ただ生きているだけで蔑まれて邪魔者扱いされるようなでぐのぼうなのだ。どうしてそんな俺が。

 いや、振り返って見れば巳槌にしろ円駆にしろ、極限まで受動的で居た久之の前に降って湧いたのである。付け加えればあの頃と今も、相変わらずこの男の言葉は拙いし、臆病な心根も成長していない。

「そう……」

 其れが、二人の説明に対して久之がしたほとんど唯一の反応であった。

「ほら見ろ」

 と巳槌は偉そうに言い放つ。「久之がろくにそんなことを考えていないことぐらい、僕はとっくの昔に判っていたぞ。僕は常日頃から久之のことをちゃんと観察しているからな」

「……人間でなくなるってことだぞ?」

 円駆は、巳槌を無視する。鋭い眼をじっと見つめて問う。

「俺には、……だって、人間かどうかも判らない」

 人間の中に居たって、……「人の間」という言葉さえ曖昧になるような生き方をして来たわけでは無い。人付き合いが「苦手」どころか、そもそもその能力がもとより備わっていないかのごとき言葉の拙さである。今更巳槌と円駆の前を離れて人間の社会に戻れるなどとは思わないし、今後どうして行くかは、風の流れるままに過ごして行くだけだろう。明確な行く末は何一つ判らない。

 そんな話をして以降、……何も変わらない。相変わらず三人で暮らしている。昼の間二人が何をしているかは判らず、久之はただ人間としての生を送っているばかりだ。

 変わるも変わらぬもない。となれば変わらないのか。それでも時間は流れて行く。久之は自らの身がこれから先どのような変質を遂げて行くのかということよりも、一先ずこの後手を洗い、帰って来た二人の昼飯をどうしようかということばかり。

 変わりたければ変わるが良いよと、巳槌のよくする言い回しを真似て嘯けば、其れで片付くように思える。円駆が、恐らく責任を感じてのことであろうが、不安がる必要もないことだ。だって、生きている。

 こうして巳槌と円駆と、願ったこともなかった賑やかな生活を送っている。荒涼とした死の野原に、二人が水に土に活力を与えた。一人きりで歩いて来た道に、右と左、手を取り同じ速度に合わせて歩いてくれる。

 手を止めて顔を上げる。茂みを掻き分ける音がして、円駆が顔を出した。「飯はまだか」と、まだ太陽が南中していないのにせびる。まだ米も研いでいない。

「……お腹が空いたの?」

「口寂しい」

「ちょっと、待って」

 水道の水で手を洗い清め、茄子を一つ摘み取り、パンと皮の張って艶を帯びた其れは洗うと二人の少年の肌のように水滴が珠を成す。何度も何度も研いで随分小さくなった包丁でへたを取り、菜箸をぶすりと差す。

「焼くのか?」

「うん、……味噌でも、付けて食べれば、……腹も膨らむ、少しは」

「つまり俺は火を起こせばいいわけだな?」

「うん……、そうしてくれると……」

 大雑把な焼き茄子である。然るに其れが美味いのは、第一に土がいいから、第二に水がいいから。第一と第二の順はどうでも良かろうが。久之の焼く壺が当人の陶芸の腕とは無関係に評価されるのもまた自然の奇跡である。

 黒土に茄子を差し立てて、円駆は左手から柔らかい火を掲げながら、右手では酒と砂糖で溶いた味噌を匙で塗り付ける。香ばしい匂いに久之も食欲を覚える。乾かした釜に米を入れて抱え泉まで上がり、降りてみれば巳槌が円駆の焼き茄子を欲しがっている。久之が慌てて茄子をもう一本摘み取り、菜箸を突き刺して、「円駆、巳槌の分も、焼いてあげて」と頼めば、面倒臭そうな顔をして手を掲げる。

「味噌たっぷり付けろよ」

「うるせえな……」

 飯釜の火は燐寸で点けた。小屋脇の壺には円駆が捕らえた川魚を塩蔵してある、巳槌が何処かから拾い集めて来た木の実もある。「氷壺」と呼ぶのが定着している小屋裏の壺は巳槌が作った言うなれば氷室で、其処には里で買い入れた菜物や、稀に肉も入る。

 はじめは先程茄子を摘んだ、猫の額程の菜園しかなかったことから考えれば一躍の進歩である。

 これだけ環境が整えば、おいそれと死ぬわけにもいかない。

「巳槌、円駆、……ご飯を、見ておいて」

 用事を与えれば喧嘩はしないで居てくれるらしい。壷から塩漬けの鱒を一尾取り出し、薄く切り分けて焼くことにした。少々塩分が多いか。しかし一尾の鱒を三人で分けるのである。

「庖丁がぼろぼろだな」

 火が落ち着いたのだろう、茄子も食べ終えて暇になったらしい円駆が久之の手元を覗き込んで言った。

「切れない庖丁の方が危ないんだ。指を切り落としても僕らでは治してやれないぞ」

 巳槌も反対側に寄って言う。「後で里に降りて新しいのを買おう。それぐらいの金はあるだろう?」

「ある、けど……」

「畳の下で腐らすよりはマシだろ」

 巳槌に、円駆に、口々に言われて久之の午後の予定は決まった。まずよく育った茄子を漬け込んだら、下へ行く。ついでに色々の買い物も済ませてしまうことになる。里に降りるのは久之にとっては未だに少し疲れることなので、帰ったら恐らく昼寝をするだろう。目が醒めたら、また風呂を沸かそう。そして三人でゆっくり浸かったら、もう夕食の支度に取り掛かるべき頃合だ。

 飯釜の下で緩んだ火に、串刺しにした枡を翳して焼きながら待つ、秋の始まりの日の昼前。全く以って、死ぬには勿体無い時間である。


back