SMILES WITH EASE

 神の住処であるこの山は人間たちの名付けた所に拠れば「雨降山」なのだそうだが、その名称が恐らくいまから遡ることおよそ二百年から三百年ほど前、史上は江戸中期から末期にかけての時期に「裸の蛇神様」が里に降りていた頃に付けられたものなのだろうという円駆の推測は正しい。とはいえ其れは久之が先日里で買い入れてきた地図には載っていない名称であって、いまでは忘れ去られた名前である。一方で、これもまた久之が壷や皿を卸す土産物屋の主人から贈られたというこの近辺の口承伝承の編まれた本の中には、この山には神々が住み、かつて山の神々と里の人間は当然のことのように交流していたのだと記されていた。さながら有史以前の出来事のように書かれているが、ものの三百年前のごく最近の出来事である。

 興味深いのは人間たちが案外にこの山の地理を理解しているということであり、地図帳に記された川や峰の曲線は円駆の把握しているそれにほぼ等しい。久之が「俺にも、よくは判らないけれど」と前置きした上で教えてくれたことに拠れば、「いまは、衛星、……宇宙、空の上のほうを飛んでいるものがあって、其れが地形を計測して、地図を作る技術というのがあって、……だからわざわざ山の中に這入らなくても、正確に測って、こうやって図面にすることが出来る、のだと思う」ということだ。円駆は空を飛べない。現状この山の空を支配しているのは応龍の巳槌である。その巳槌さえも及ばぬ遥か上方を人間の技術の結晶とでも言うべき正体不明の物体が浮遊しているという事実は、支配者然と雨を降らせる巳槌を知っている円駆にとっては痛快な事実であるような、何となく妬ましいような、不思議な気持ちになるのだった。

 恐らく、その「衛星」なるものによって把握されているものの方が、円駆や巳槌が知り尽くしている山の形状よりも正確である。人間なんて愚かな生き物だと馬鹿にしている円駆にしたって、人間が恐ろしいほどの技術力を持っていることは知っているからその点は認めざるを得ない。しかし人間の見る地図はどれほど精緻なものであっても、例えばあの平坦で木漏れ日の和やかな森の余白までの道筋を上手に辿ることは出来ないだろうし、円駆がかつて塒にしていた洞穴まで迷わず歩くのに役には立たないはずだ。既に三年をこの山に篭もって過ごし、こと山歩きに関しては玄人の久之にしても、用もなく山の奥に踏み入るのは怖くて出来ないと言う。人間たちが把握しているよりもこの山はずっと深遠なるものなのだと、円駆はやや的外れを自覚しながら思っている。

 地図上に点を記していくならば、「ここが、この、小屋だ」と久之が指差した場所はほとんど里に近接していて、こんなに浅い場所かという気がする。確かに便所の囲いからひょいと顔を上げれば里はすぐ其処に見下ろせる。里の外れの道から少し林に入ったところに例の単索軌道があって、そこからあの箱がぜいぜい言いながら昇った先にこの庵は在る。そして巳槌の泉も、この庵からは急坂ながら歩いてすぐの距離にある。森の余白はそこから深い森の中を、久之だって目印なければ迷ってしまうような曲折を経た先だ。円駆の塒は、その更に奥、里に注ぐ川の源流沿いにあり、少し下流に行ったところにはこの春に三人で春の到来の瞬間を見た場所がある。川は其処から里へ注ぐまでに一度小さな滝を落ち、その滝までは里からも川に沿って比較的容易く辿り着くことが出来るが、其処から奥へは滝が壁のような役割を果たして追い返す。もっとも、いま里に住む人間たちが其処より先に入る理由はないだろうが。

 円駆は数日に一度、昼中を使って山の中を見回る仕事を自分に課していた。塒の洞穴から山頂は近くて、かつては必ず一日に一度は急峻な崖を駆け上がって其処へ至り、山に異状のない事を確かめていたが、久之たちと庵に住むようになって以来、頻度は激減している。それでも山の獣たちの頂点に立つ麒麟であるから、一定の責任感を帯びていまも其れを行うのだ。

 焔を纏った麒麟が、山頂で一声吼える。

 山の隅々まで、其れは血のように行き渡り、庵で書を読む久之の、湯呑茶碗の中の白湯を揺らす。

 里の人間たちは風が唸っている音だと思うのだろう。

 遅れてちらほらと返答する獣たちの声に、山の平和を円駆は知る。かつて久之がこの山に這入ったばかりの頃は、毎日のように異状を報せる声が返って来たものだ。異物の侵入、巳槌の裏切り、山はささくれ立っていた。

 この山には円駆と巳槌の他にも、彼ら同様人の姿に変じることの出来る様々な神が居る。円駆が土を、巳槌が水を司るなら、風を、木々を、そして遍く命のめぐりを司る者が居る、あの春を呼んだ者もまたそれらの一つだ。巳槌が応龍の力を取り戻す以前は、円駆が最も強い力を持つものとしてこの山の文字通り頂点に君臨していた。いま嘆いたって仕方のないことだが、巳槌がこの山の空を手にしたことによって円駆は最強の座を追われたのである。もちろん円駆は子供ではないし、それに一々腹を立てるような真似はもうしないが、それでも久之を山に住まわせるに当たって不満を抱く他の神なる身との折衝に当たったのは紛れもなく事実である。あの人間はこの山に害を為すものではない、何か在ったら俺が責任を取ってこの首を差し出すとまで言って、許しを請うた。

 雪が近い。

 山の上空は白雲に覆われている。雪と冬と、競い合うようにしてこの山にやって来る。今年は雪が先だろうか。

 冬近い山頂の冷たい空気の中で、しゅうしゅうと熱い湯気を身体から発しながら麒麟はしばらく空を見上げながら、山からの声に耳を澄ましていたが、物を言う声は聴こえなくなった。

 では、戻ろう。

 そう、崖から身を躍らせかけたところに、あらぬところからの声に思わず身を強張らせた。

「殊勝なことだな」

 声のしたほうを見れば、自然と彼のあぎとは上を向いた。分厚い白雲の一点が膨れ上がり、やがて弾けた。中から姿を現したのは、純白の鱗に虹の彩を帯び、円駆をひと呑みに出来るほど巨大な口に恐ろしいほど鋭い二本の毒の牙を供えた応龍である。濡れて光る鱗を煌かせながら彼は山頂に自らの身を下ろし、呆れるほど長い時間をかけて雲から全容を現す。長大なる彼の体躯はさほど広くない山頂を、あっという間に覆ってしまう。麒麟はすっかり取り囲まれていた。

「もう、しなくていいだろう」

 応龍は龍の一種だろうが、角や髭はない。霧を纏った鱗から肢は生えておらず、何処までも巨大な白い蛇である。

 冷たい左目を麒麟に向けて、「そうは思わないか」と応龍は訊いた。

「……大きなお世話だ。必要だからしている」

「必要……、とは?」

「俺には、久之が此処に居ることを最終的に決定したのが俺である以上、これまで同様にこの世界が平和であるという事実を護り続けるという責任がある」

「だから僕が、代わりに空から見守っているんじゃないか」

「関係ない。これは俺が決めて、自分でしていることだ」

 無表情な蛇である。それでも嘲笑ったような気配がした。

「ご苦労様」

「大きなお世話だ」

「その『大きなお世話』をお前はしているんだろう、この山に」

 円駆が気色ばんだところで、応龍の身体が縮小を始めた。自分の周囲に張り巡らされていた巨大な体躯が見る見る内に縮み、円駆の前に残るのは、今度は円駆の爪で踏み付けただけで真ッ二つに出来てしまうような小さな白蛇と、何処に隠し持っていたのか、ずぶ濡れの浴衣と六尺、それから草履である。

 応龍が、人の姿に戻る。戻って、途端にぷしゅんとくしゃみをした。

「……寒いな」

 裸の身体を包み込んで、自分で作り出した雲を恨めしげに見上げて巳槌は言う。浴衣も六尺も、もちろん冷たくなっていて、着られるはずもない。持ち上げて、広げて、どうするのかと思っていたら、

「お、おい! こら! ちょっと!」

 抱えたまま、ひょいと円駆の背中に跨って、ぴったりと身を寄せて、「うん、温かいな。夏場は暑苦しいばかりだが」と満足そうに言う。

「降りろ!」

「いやだ。僕は寒い」

「てめえ! 勝手なこと抜かすんじゃねえ!」

 ああ、うるさい、と円駆の双角を掴んで巳槌は独善的に言い放つ。「どうせお前だって山を降りるんだろ、一緒に連れて行け。僕一人ぐらい乗せたところでお前には何の苦労もないだろう」

 肉体的な苦労ではなくて、精神の負担になるのだ。

 言ったところで、巳槌は降りはしないだろう。思いっきり崖から跳躍して、少しでも怖がってくれたなら少しは溜飲が下がるのだけれど、つい先程まで空の上に居た巳槌は声一つ上げなかった。川縁まで降りたところで、真ッ直ぐ庵に向かおうとした円駆の右角を「そっちじゃない」と、ぐい、巳槌が引っ張った。思わず円駆は後ろ足で立つ。そうすれば、益々巳槌はしっかりと角を掴むのだ。

「暴れ馬かお前は。馬銜でも噛ませてやれば落ち着くか」

「やかましい!」

「聞け。こんなびしょ濡れの浴衣で戻ってみろ、また久之の手を煩わせることになる。あいつを困らせたくはないだろう」

 久之を慮っているようなふりをして、勝手な言いぐさである。「此処からお前の塒まではすぐだろう、そっちへ向かえ」

 とはいえ、円駆だって久之の困った顔を見るのは好きではない。落ち着きを取り戻して、かつての塒の前まで辿り着いたら巳槌は下り、「待っていろ」と偉そうに言い放つと、裸のまま森の中に這入って行って、枯れ枝を抱えて戻って来た。円駆はもう乗せてなるものかと、とうに人の姿に戻っているが、人の姿にこの寒さは堪え、身体を抱えてしゃがみ込んでいた。

「お前、浴衣はどうした」

「脱いで来たに決まってるだろう、小屋からずっと麒麟の姿のままだ」

「そうか。だったら寒いだろう、火をつけろ」

 偉そうに言う巳槌の肌だってぷつぷつと粟立って居るのだ。馬鹿らしいことこの上ないが、円駆だって寒いのは苦手だ、掌に気を集中させると、枯れ木はいとも簡単に焚き火となった。巳槌が浴衣を広げて、掲げる。

「そもそもお前まで人の姿になることはないだろう。麒麟のままなら、お前の身体にかけておくだけで乾いたのに」

「うるさい。燃やすなよ」

「燃やすものか。お前も手伝え」

 どうして俺が巳槌の褌を乾かす手伝いをしなければいけないのかと憮然としながらも、彼はそうする。火の勢いは強く、少々熱く感じられるほどだ。円駆は人間の身体で居てもその火の中に横たわることぐらい平気で出来るが、巳槌には無理だろう。巳槌は顔を浴衣で隠すように、ときおりはたはたと浴衣を翻して乾くのを早めているようだった。

「僕は水の扱いなら手馴れているが、火は使えないからな。お前みたいな友達が居てよかった」

 無愛想な声で巳槌は言う。ふん、と円駆は都合よく使われているだけのような気がして、鼻を鳴らす。

 「友達」と巳槌は言った。

 多分、そうなのだろうと円駆も思っている。そして其れは、近頃急に始まったことではない。ずっとずっと昔から、俺たちは「友達」だったはずだ。他の神なる身の中に在っても、円駆は人間との交流に力を依存し徐々に弱っていく巳槌を誰より一番気に掛けていたし、どれほど悪辣な言葉を向けられようと離れたりはしなかった。

 誰もが認めるとおり、巳槌は口が悪い。その上、この通り無表情で、この世には何の痛痒もなく面白いことなど何一つないとでも言いたげな顔をしている。

 言ってしまえば、巳槌は他の神たちからは嫌われている。あいつは何を考えているか判らない、ひねくれものの醜い蛇だと思われている。いま応龍の力を手にして空を掛ける巳槌を、快く思わぬ者だって居る。ただ、円駆は巳槌の側に居ることを選んだ。

 巳槌が決して愛想のないひねくれものではないことを知っている。醜い蛇ではないことも知っている。白状すれば、円駆は巳槌の姿を、白蛇であれ応龍であれ人間であれ美しいと思っている。冴え渡る氷のようで、穢れを知らないと。触れることさえ憚られて、ただ眺めていることしか出来ないけれど、……きれいだ、と。

 だからこそ、人間と、……久之と、交わる巳槌が憎らしく思えたのではなかったか。俺はずっとお前の友達で居たのに、と。力を手にするために穢れに身を躍らせるようにさえ思えて、腹が立ったのではなかったか。

 口を開けば嫌なことばかり言う、けれど、本当は悪いやつじゃない。

「粗方乾いたか」

 巳槌は自分の浴衣を確かめて、納得したように頷いた。「そっちも大丈夫だろう」と円駆の手から六尺を受け取って、確かめる。火は丁度良い強さになっていて、しかし円駆の肌はまだ冷たく、じっとしているのが耐えられないほど芯まで悴んでいた。

「縮こまっているな、ちんちくりん」

 と足の間を指差して、巳槌は平坦な声で言う。

「うるせえ! お前だってちんちくりんじゃねえか!」

 言葉の通りだ。巳槌は「寒いのだから仕方ないだろう」などと嘯き、器用に一人で六尺を締めて行く。そして、依然として一人では締めることの出来ない円駆である。

「乾いたんなら、火ィ消してとっとと戻るぞ」

「まだ十分に火が強い。小屋に戻ったところで寒いのは同じだ。ならば此処でもっと温まっていった方がいいだろう」

「お前には浴衣があるからいいかも知れないけどな、俺は小屋に置いてきたって言っただろ」

 言った円駆の肩に、ふわり、温かい巳槌の浴衣が掛けられた。

「裸では寒いだろう」

「お……、お前だって……」

「僕はこれを締めた。それに、僕の方がお前より寒さには強い」

 変温動物が何を言う、と言い掛けたが、火の熱を浴びた浴衣に口を噤む。巳槌はすぐ隣に寄り添って焚き火に手を掲げて、「くっつくともっと温かいぞ」などと言う。痩せた裸の肩が、いかにも冷たそうな白い肌だ。

 散々迷った末に、ぴったりと肌を重ねると、巳槌はそのまま頭を円駆の肩に持たせた。まだ湿っぽい髪、やはり冷たい。「お前の方が温かいな」と、巳槌が呟いた。そうか、よかったな、と円駆は言わなかった。人である久之の心は容易く読み取れるが、神同士では判らない。だから円駆は巳槌が考えていることが読めないし、其れはお互い様だ。

 無愛想なのはいつものことと諦めきったなら、その静かな表情の僅かな変化にだって気を配って、その思考を探る術をそろそろ見つけられたっていい。ただ平時からすぐにぷりぷり怒って己の手の内を曝け出してしまう円駆はこの点においてやや不利であると感じる。閑寂とした巳槌の相貌の中にどのような思考があるのか、例えばいまなら、一体何を考えているのか、全く計り知ることが出来ない。

 笑うということをしない男である。

 そのくせ、笑顔になったときには本当に人懐っこいように見える。どこまでも美しく、素晴らしいほど甘やかで、巳槌の笑顔に久之が円駆が困惑するのは当然と言えた。その笑顔は呆気ないほど彼らの心を蕩かせる。そして其れは貴重なものだ。仮令巳槌がどこまでも淫らで二人を欲しがらずには居られないという事実が在っても、冴え渡る無表情を知って居ればこそ、やはり「見たい」と思う気持ちを止められないような代物だ。

 いま、隣にある体温、自分と一緒に膨らませようとしている、人の肌。人間の体温が不思議だということは変温動物の巳槌にだって判っているはずだ。どれ程寒い夜でもくっついているだけで穏やかな速度で高まって行くことを知るから、いま、遠慮がちに身体を寄せている。二人の肌の重なる所では、他の場所が極端に冷たく感じられるほどの熱が、無尽蔵に生まれるようだ。普段は何処に触れたって、冷たくすら感じられるような巳槌なのに。

 先程より少し、もたれかかる力が強くなったか。そっと横顔を伺えば、巳槌は目を伏せている。薄く開いた唇と相俟って、幼子の寝顔のように見える。

「寝るなよ」

 長い睫毛がぱちりと開いた。「寝ないよ」零れかけた涎を手の甲で拭って、「こんな所で寝るものか。風邪をひく」と、膝を抱えて座りなおし、焚き火に掌を掲げた。

「そんな格好じゃ、俺より寒いに決まってる」

「大事な部分が寒くなければ大丈夫だ。寧ろお前の方が大丈夫か」

「それは……」

 縮み上がって居るのだけれど。

 考えてみれば、巳槌が円駆に弱音を吐くはずがないのだ。

 冬近い曇天を見上げて、辛うじて、あの辺りに太陽があるのか、そんなことが把握出来る。久之も今頃は布団に足の先を突ッ込んで本を読んでいることと思われる。もう巳槌の浴衣は乾いた。さっさと戻って三人一緒に潜り込めば、たちまち幸せに包まれるのだろうということは円駆にも想像が出来た。温かくて温かくて、こんな午後に薄ッすら汗ばむくらいの。

 三人でこの時間に布団に入るという行為が、そのままそちらの方面へ繋がってしまう可能性は否めない。いや、巳槌にとっては望む所でさえあるだろうか。しかし、其れを選ばないでまだこの場所で凍えながらくっついていることに固執する意味を把握できる場所に、残念ながら円駆は居る。円駆だって久之同様に巳槌を可愛いと思っているし、その思いの根拠は久之よりも深いぐらいのつもりで居る。考えを読み取れない顔ではあるけれど、それでも想像が正答に近しい場所に在る事ぐらいは期待したっていい。

「お前、こっちに来いよ」

 不器用に唇を尖らせて、円駆はやっと言う。「そんな格好で居られると、見てるこっちが寒くなる」

「ん……?」

 巳槌はまた閉じていた目を片方だけ開けて、円駆の指の先、開いた両足の間を見る。

 一度、何かを言いかけるように唇を開いて、閉じられたときに、微笑みの形を為している。

「うん、そうする」

 巳槌は嬉しそうに円駆の足の間に六尺の食い込んだ尻を落とす。そうされることを予期していたのだろう、冷たい身体を円駆が包んでやると、腹に回された手に手を重ねて、「確かに、こちらの方が温かいな」と和んだ声で言った。

「冷たい身体しやがって」

 毒っぽく呟きながらも、円駆はその背中にぴったりと胸を当てた。それだけで、不思議なくらいに其処に体温が生まれ、育ってゆくのを感じられる。

「やはりお前の方が温かいのだな。人の身体のときはちっとも毛深くなどないのに」

 つるつるなのはお前だって一緒だろうが。円駆は冷え切った巳槌の、滑らかな手触りの胸を腹を撫ぜて体温を移してやるうちに、自分の手の触れたところが一々熱を帯びていくのを感じる。「お前は案外頭がいい」と巳槌がくすくす笑いながら言った。「温まる方法を思いついたか」

「思いついたんじゃない、知ってる。合理的な方法を」

「ならば、聞こうか」

「いますぐ小屋に戻って布団に潜り込めばいい、いっそ久之も混ぜて三人で。いや、布団に入る前に風呂の支度をしておけば尚更温かい。或いは、不本意だけど俺が麒麟になってお前が俺の背中に跨ればいい」

「それは嫌なんじゃなかったのか?」

「嫌だから、合理的であろうと其れはしない。でも、俺だって寒いし、風邪をひくのはいやだ」

「僕らが風邪をひくとは思えないけどな」

「試したことがないし、試そうとも思わない」

「同感だな。そして非合理的であっても僕はお前の思いついたやり方で温まるのを試したい」

 と言っても、結論はもう出ていると言いたげに巳槌は笑っている。

 こいつの笑顔は本当に厄介だ。

 恐らく久之も思っていることを、円駆は改めて思う。こいつが笑うだけで、肺の中でくすぐったい羽虫が飛び回り始めたような心持になって、何だか、病気が伝染したみたいに笑いたくなってしまう。其れを堪えて不器用に振る舞っているうちに、気付けばその笑顔に取り込まれて、何だかとても恥ずかしいことになっている……。

 よくよく考えてみれば、巳槌以上に笑わないのが円駆自身なのだ。

「お前も、剥けていないけど剥き出しのところが寒いんじゃないのか」

 巳槌が手を後ろに回して問う。「剥けてないけど剥き出しって何だ」と心外な思いを声に出して、円駆は巳槌の前袋に手を当てる。

「そのままの意味だ」

「剥けてないのはお前だって一緒だろうが」

「うん。だからお前の感覚は判るよ」

 布の上から、或いは直接、互いのまだ柔らかいままの性器を摘んだ。似た形、慣れた感触、しかし自分のものではないという一点の事実だけで指はぎこちなさを帯びる。

「やらかいな」

「うん、やらかい。でも、僕はこんな風なのも好きだぞ。とても僕らの身体に似合っているように思う」

 それは互いの裸を見慣れているからだろうと円駆は想像する。伝承の中にはこう書かれて居た。「裸の蛇神さまがいつでも寒そうにおいでなので、村人たちは浴衣を拵えて蛇神さまに捧げました。蛇神さまは嬉しそうに袖を通し、それからはいつでも」やがて円駆の知らない所で、巳槌は六尺までも手にする。まるで人間のような顔をして彼は人間と交流していたが、それ以前には巳槌も人間の姿の時にはいつでも裸だった。その股間に指ほどの小さな陰茎がぶら下がっていることなど、全く気にも留めなかったのだが。

 巳槌がいつか言っていたことを思い出す。

 服など着るから此処が特別になってしまったのだ、

 それはちょっと違うだろ、という気が円駆はする。かつて人間も幼子たちは田圃の隅のほうで裸で遊んでいたという。彼らには恥という概念が備わって居ないうえに、自分の陰茎が泌尿器以上の意味を持つとは思っていないのだ。服を着て隠すからというのではない、其処の持つ意味が恥ずかしいと思うのだ。現に、一定以上の歳の子供はもう褌を外しはしなかったのだろうが。

 二人のその場所はもはや泌尿器ではない。もちろん日に何度も小便はするが、それ以上の意味を持って久しい。久之が此処を見て「ただではいられなくなる」と困る理由も判っている。

 そして隠されると見たくなるものだ。そういう道理になっているのだから仕方がないと思う。巳槌の前袋を緩めて、中からまだ大人しいままの其れを取り出して眼にした瞬間に、円駆の心臓は跳ねる。形状が泌尿器であろうがなかろうが、其れは最早巳槌にとって隠匿すべきもの、こうして易々と己の眼に晒し触れることさえ許されているという事実は、確かに円駆の呼吸数心拍数ともに高めるだけの威力を持つのだ。「ちんちくりん」のくせに。

 くすくす、笑いながら巳槌が呟く。「あったかくなってきた」と、円駆の腕の中でくるりと身を回し、足の間に肘を付いてその場所に顔を近付けて、

「懐かしいような匂いがするな」

 と言った。

「……懐かしい?」

「うん、……ああ、そうか、僕の浴衣をお前が着ているからか」

 呟きながら、巳槌は指で皮を摘んで、上へ引っ張る。

「やめろよ、伸びるだろ」

「伸びたところで誰も困らないだろう」

「俺が困る」

「でも僕は困らない、久之も多分『可愛い』と言うんじゃないか」

 あいつがそんな馬鹿な事を言うものか。しかし巳槌は言う、「あいつも変態だからな。僕らは子供の形をしているのに、僕らに欲情するような変態だ」

「……お前が最初に誘ったりしたからだろう」

「誘いに乗るということは、それだけの素養があったと言うことさ」

 もっとも、と蛇神は付け加える。「僕もお前の身体が好きだ、とりわけこの『ちんちくりん』が好きだ。すごく、可愛い」笑顔で、巳槌は其れを口に含む。円駆が抗いの声を上げる機会は失われた。

 屹立する性器を、巳槌はいつも美味しそうに舐める。久之のものを舐めているときの横顔は本当に淫靡だと円駆は思う。大抵の場合誘われて一緒になって舐めることになるのだが、間近で声を漏らしながら性器を愛撫している巳槌の顔を見ていると、俺の顔なんてない方が久之も嬉しいんじゃないのか、そんな気になって恥ずかしくなる。

 そんな顔が、自分の股間に在って、いとおしげに舐めている。普段は無愛想極まりない白い眼元を紅く染めて、二言目には毒を吐く口元から甘ったるい唾液を垂らしながら、

「おいしい……、円駆の、ちんちん……」

 陶然と、声を漏らす。

「んなん……っ、おいしいわけ、あるか……、馬鹿……っ」

「ん、……でも、僕は……、大好きだぞ、お前の、此処の味」

 もう寒さなど感じていない。きっと巳槌もそうだろう。手を伸ばして、六尺の結び目を解こうとしたことに気付かれた。巳槌は円駆の性器を口に含んだまま、自分で解いて顔を上げる。

「入れたいのか?」

 巳槌は円駆の答えを待たない。にこりと微笑んで、「いいよ。お前は僕が乱れるのを見るのが好きだものな。僕もお前にぐちゃぐちゃにされるの、嫌いじゃない」自ら焚き火の横に四つん這いになって、尻を向けた。無垢な尻の穴が、既に自分を誘っているように思えた。火の放つ光で巳槌の細い身体の半分は焼かれるように紅く滲む。

 辱めるのが好きなのかと問われれば、そうであると答えるほかないような気のする円駆だ。普段は高慢な巳槌であることを知っている。そして途方もなく美しいということを、誰より熟知している。そういった欲を持つようになったのは、二人の神なる身が過ごした長い長い時間に比べればほんのつい最近のことだが、一度その味を覚えれば、もうそう簡単には離れられないと同時に、いまだ慣れない。

 美しい「友達」の肌に触れることに、元々抵抗はなかったのかもしれない。そう考えれば、この関係になるために随分と時間を空費してしまったような気さえする。

「んン……!」

 いまよりずっと昔に、同じ事をしていたら。

 全ては変わっていたような気がする。ただ、久之に出会うことだって出来なかった。いまが幸せならば何か問題があるか? ……ない、そんなものはきっと、少しもない。

「……好きなのかよ、これが」

 巳槌の肌は冷たいが、震える皺の収束点は舌先にじんわりと温かい。雪色の肌の狭間に其処は僅かに淡い色に染まっている。本来「出口」である場所を「入口」として酷使されて居ながら、それでも穢れている印象はない。何より円駆は舌を這わせてから、……こいつ今朝から風呂入ってないんじゃないのか、そんなことを思い出すほどだ。

「……ん、だって……、お前が、してくれてるんだぞ。好きだし、……嬉しくないはずがないだろう」

 巳槌の声は既に甘ったるい震えを伴っていた。円駆も時折久之に、そして自分よりほんの少しとは言え背丈の小さな巳槌に其処を舐められることがあったが、此処まで淫らにはなっていないという自覚がある。気持ちいいことは気持ちいいのだが、やっぱりとても恥ずかしいし、何というか――巳槌の此処に比べれば――自分の場所は汚れているような気になって、素直に受け入れ難い。

「円駆……、すごい……、気持ちいい、よ……」

 巳槌は肘を付いて、綺麗な銀色の髪先を土に掠めながら喘ぐ。この綺麗な友達を狂わせているという物思いは、円駆を大いに興奮させた。応龍態では歯が立たなくとも、この姿の時にはまだ付け入る隙があるのもまた事実で、円駆は巳槌と二人だけで肌を重ねるとき、しばしば巳槌を辱めたく思うのだ。六尺を解かぬまま射精させ失禁させたこともあった、乳首を苛め倒したこともあった。日常の、それほど溜まっているとも思えない鬱憤をそういう形で発散する。とはいえ悔しく思えるのは、そんな風に優位に立てば立つほどに、巳槌が益々悦んでしまうことだ。一体どういう思考の構造をしているのか、円駆には想像しかねることだった。

 その理由を、円駆は知らない。恐らくこれまでと同じほどの長い時間を費やしても、答えに届くことはないだろう。

「指、入れるぞ」

 結局の所、円駆は優しいのだ。そしてそもそも巳槌が好きなのだ。生意気で無礼であっても、ずっとずっと昔から可愛いと思っていた相手に、円駆自身、自分が思うよりも遥かに優しく接してしまうことには明確な理由がある。

「ん、ンっ……っはぅ……」

 その細い穴に指を入れるとき、緊張してしまうくらいなのだから。

 そればかりか、

「もっと……、もっと、奥っ……」

 まだ足りないと言われて、身を強張らせながら更に奥へと進めるとき、右手で自分の性器を握らないようにするために努力が要る。代わりに巳槌の陰茎を握る手さえも優しいし、唾液を注ぎ足すに至っては、久之以上に甘ったるいかも知れない。ただ、多少は自覚がないわけではない、そして、悔しいと思う気持ちだってあるので。

「んにゃっ……!」

 少しばかりの悪戯は、する。「ば、馬鹿者っ、そんな……っ、皮を、引っ張るなっ……!」

「うるさい。さっきのお返しだ」

「や、やだ、やだ……っ、そんなにしたらぁっ……」

 伸びて、剥けなくなってしまう。「なら、こうしてやろうか」円駆は彼の出せる精一杯に凶悪な声で囁いて、巳槌の皮を根元へ向けて引っ張る。とはいえ久之とは違い、同じ痛覚を共有出来るから、円駆は程ほどのところで止めて、先端に浮かんだ露をそっと亀頭に塗り広げるだけにしてやる。

「ひ、あっ……先っぽ、っ、そんっ、な、ぬるぬる、するなぁ……っ」

 それでも一定の効果があればいい。円駆にとっても、巳槌にとっても。

「乳首といい尻の穴といい此処といい、……お前は本当にあちこち弱点だらけだな。淫らな奴だ」

 巳槌は既に尻を揺らめかせて円駆の性器を求め始めていた。それは甘い、甘い、甘い動きだ。もちろん円駆だって巳槌を求めている。指に付着した巳槌の「ぬるぬる」を自分の性器の先に塗り付けて、唾液を纏って濡れ、薄く開いた蕾へと押し当てる。きっと、焔のように熱いものと触れ合って、巳槌が喉を逸らした。

 見下ろす背中は腰は、困るくらい細い。こういう角度で見ることには未だ慣れたとは言い難いが、元々巳槌がどういう身体付きでいるかは知っていたし、その肌が真珠のように美しいことも知っていた。巳槌が寝ているときに、久之も見て居なければ、その瑞々しいながらも乾いた感触の背中や尻に頬擦りしてみたいような気になる。

「く……ああ……」

 自分の肉茎で巳槌の――閉じられていて然るべき――其処を押し広げて行くとき、円駆はいつも胃の中でみかんが暴れたように甘酸っぱい気持ちになる。これは円駆が久之と重ねた経験上知っていることだが、窮屈なのは入口だけ、其処を抜けた奥には案外に余裕のある空間がある。余裕といっても、挿入した円駆の露出に慣れていない亀頭を擦るぐらいのことは平気でするし、当の円駆に余裕など少しもないのであるが。

 円駆の指は自然と巳槌の尻に乗せられていた。

 六尺を締めているときには、その小振りな尻はとても精悍に映る。

 しかし実際に触れてみるとそうではないということが判る。指を当てれば愛らしく窪む。痩せていて小さい尻なのに、案外に肉付きがよく、円駆が巳槌の置くまで入り切り、性器に伝わる三次元の快感と同時に覚えるのは、腰骨に当たる尻の感触だ。

 きっと久之も巳槌を抱く度に思っているであろうことを、円駆もやはり思った。きつく根元を引き絞る括約筋とは裏腹な柔らかさが其処には在った。

 つい、その愛らしい感触を味わうことを優先してしまう。ほんの少しだけ引いて、また奥を突く。小刻みに尻に腰骨を当てるたびに、巳槌が甘い声を上げるのが嬉しい。

「お、まえ……」

 幾度目かで巳槌がようやく気付いた。「遊んで……ッ、いるだろう///…!」

「こういう……、ことを、する、自体が、遊びだろう……」

 円駆は珍しく巳槌の反論を封じた。砂の上に置いた自分の手に額を当てて、「馬鹿者……!」と悔しげに言う。震えた声を聴いたところで円駆の「遊び」はもう本気の行為に移行せざるを得なくなった。

「うあ……あっ……あ!」

 腰を引き、巳槌の括約筋を使って自分の性器を扱くことに夢中になる。その動きが独善的であることを、円駆は否定しない。しかしせめて、巳槌の尻が後で痛くならなければいいとは思うし、ついでに出来れば巳槌も気持ちよくなれればいいとも願っている。

 だって好きなんだからしょうがねえだろう。

 徐々に空回り始める思考で繰り返し繰り返し円駆はそんなことを思う。

 お前のことが可愛くって仕方がねえんだから、しょうがねえだろう。どんだけ憎たらしい言葉をお前が吐こうとも、俺はずっとずっと昔からお前が好きで好きで好きでどうしようもない、だから。

 そういう言葉を、円駆はなかなか口に出すことが出来ない。羞恥心が先に立ってしまう。ならばこういうときこそ好機であろうとは思うのだが、それでも出来ないのだから、これは彼自身、今後の重要な課題となる。

「んっ……うぅ……!」

 激しい収縮があって、円駆は巳槌の中に誇りを手放す。言葉に出来ない分だけ多くなる自分の精液が、巳槌に伝わる材料にでもなればそれは望外の幸運である。「あ……はぁ……!」巳槌は甘ったるい声を息に混ぜながら、ひくひくと背中を震わせる。一頻り快感の余韻を愉しんだ様子で、ゆっくりと肩越しに振り返ると、「……気持ちよかったか……?」と薄い笑みを浮かべて訊く。

 芯まで冷え切っていたはずなのに、二人とも汗をかいていた。巳槌の長く波のある銀髪は紅潮したその頬に幾筋か張り付いている。

 ぞくり、と首筋に鳥肌が立ったような心持になった。ただ、円駆はどうにか己を飼い慣らし、巳槌からゆっくりと自分を抜き去る。雪が降り始めていた。

「はあ」

 巳槌がゆっくりと身を起こし、自分の下腹部に手を当てて、「此処でもいいか」と、許可を求めるというよりは単純な確認のために言った。円駆は尻を川原の石に乗せて、頷く。自分が吐き出したものは巳槌の中にほとんど吸収されることなく、砂の上に零れた。しかし円駆は巳槌とこういうことをするようになってからも一度たりとも、巳槌が女であったらいいのにと思ったことはない。

 二人して冷たい流れに身を浸して洗い、震えながら戻って来た巳槌は許可もなく氷のような身体を円駆に預ける。円駆は一言「おい」と低い声で怒ったが、それだけに止めた。抱き締めてやれば、自然と温かくなる。

「うん、……やっぱり、お前の匂いか」

 巳槌が耳元で囁く。「何が」

「この匂い。僕の浴衣の匂いだろうと思ったが、違うな、これはお前の匂いだ」

 すんすんと音を立てて、耳に掛かる髪を巳槌が嗅ぐ。毎朝毎夜、三人で風呂に入るし、臭くはないはずだとは思う一方、一連の行為で多少汗をかいたのも事実で、白状すれば気恥ずかしい。

「懐かしくて当然だな」

 巳槌は身を離して、座り直す。自分の正面に、美しい顔があることに、年甲斐もなくどぎまぎして円駆は視線を焔に向けた。顔が紅く見えるとしたらそのせいである。

「身体が乾いたら、とっとと帰るぞ」

 うん、と素直に巳槌は頷く。

 それから、身体が乾くまでは身を離していた。

 身体が乾いたら、巳槌は六尺と浴衣を着直して火を消し、麒麟に変じた円駆は彼を背中に乗せる。実は、精神的な負担にだってほとんどならない、軽いけれど重たい巳槌の身体である。背中で巳槌があくびをした気配がある――応龍にしろ麒麟にしろ、変身してその力を発揮した後、脆弱な人間の身体に戻れば相応の負担がかかるのは当然である――から、円駆は静かな足つきで森の中を巡った。万が一にも巳槌が眠りに落ちても、振り落とすことはないように。

「暖かいな、お前は」

 巳槌が円駆の角ではなく、首に掴まって言う。その胸はしっかりと、円駆の項に当てて。

「僕はお前が大好きだぞ」

 あまりにあっさりと齎された言葉に、円駆は何となく面白くない気がする。ひょっとしたら、巳槌は微笑を浮かべて言ったのかもしれない。そうでなかったとしても、巳槌と比較されたときあまりに言葉が下手な自分を円駆は意識しないわけにはいかない。ひょっとして久之と同じように俺も不器用者なのかもしれない。

 白い溜め息を吐いて、円駆はそれまでと同じ歩調で急な崖を、巳槌を支えながら降りた。薄く雪を被った庵の屋根が見えてきた。鼻の頭を紅くしながら、久之が心配そうに見上げているのも間もなく視界に入る。


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