GRACEFUL DAYS

 神なる身二人との生活である。多少のことで驚いていては身が持たないのは百も承知だが、それほど心の太い久之ではないので、驚かされることはしばしばだ。いい加減慣れたっていいようなものの、何せ巳槌は天かける応龍であり、円駆は焔を纏った麒麟である。その二人が平時には久之よりずっと小さな少年の姿に相応の振る舞いをしていながら、不意に人智を超えたことをやってのけるのだから、心臓に毛の生えない限りは無理だろう。

 盛夏の庵の中央に、西瓜が転がっていた。風通しを確保するために窓も扉も全て開け放たれた四畳半ほどの空間の中央に鎮座した夏の季語は、少しく歪な球形で蔕を斜めに傾がせて、無言のまま久之と向き合っている。

 久之が持って来たものではない。泉まで水を汲みに戻ってきたら此処に在ったのだ。巳槌と円駆の姿は半刻ほど前から見えないから、どちらかが里に降りてこの西瓜を、何らかの――願わくば合法的な――手段によって持ち帰ったに違いない。育ちすぎて大きな西瓜は所々小さな傷があって、恐らく巳槌若しくは円駆が持ってくる過程で付けたものだろう。久之は試みに其れを抱え上げてみる。もちろん大人の男には容易いが、少年の腕には大仕事だったろう。畳の上に降ろして掌で叩いてみると、どうも、あまり美味くなさそうな音がする。

 山間の里である。畑はなく、水田ばかりだ。よって、この西瓜は八百屋の軒先に並んでいたものか。だがこれでは売値が付かないだろう。さて、どうしてこんなものが此処に在るのだろうか。久之は改めて西瓜を撫ぜて、しばらく思案していたが答えは出ない。結局彼がすることといえば、行李から紙と筆を取り出して、汲んで来た水で絵具を溶き、寝転んで西瓜を写生するばかりである。木や石や、この季節庭先に張り詰めた実を付ける茄子や小瓜といった自然の風物を、久之は日々に流れる時の間に間に紙に描き続ける。自分の絵のまずいことは自覚していたが、誰に見せるためのものでもなく、ただ描きたいように描くばかりの児戯にも似ていて、書きあがった物は行李一杯になると纏めて火にくべる。恐らく紙の無駄遣いだが、大鍋で沸かす風呂の湯を「少し熱めがいい」と言う巳槌の希望を叶えるぐらいには役に立つ。筆を走らせながら、やはり俺は絵が下手だ、と失望もなく久之は思い、その唇に薄い微笑を浮かべた。楽しいのである。

 そうして小一時間、久之は西瓜と向き合っていた。完成した絵を日向に置き、道具を片付けているうちに少々眠気を覚える。電気の届かぬこの庵では太陽とともに生活するのが慣わしとなっていたが、この季節は矢鱈と早い時間に目を覚まし、夜もなかなか暗くならない。よって、どこかで昼寝を挟むのもまた習慣となっていた。巳槌と円駆も、きっと山の中のどこかで昼寝をしているのだろう。久之は畳の上にごろんと横になり、目を閉じた。外では蝉が盛んに泣き声を競っている。赤子の泣き相撲のようだと思っているうちに、夏の眠りは久之を膝に乗せ、風であやすように髪を撫ぜている。

 だが、静かな眠りは間もなく妨げられた。元々久之が木を拾い集めて一人で建てた庵であるから、床も壁も薄い。その上少年の無遠慮な足音が在れば、建物全体が大きく震動する。久之は片目を開けて、

「おう……、起きたか」

 頭の脇に立って見下ろす円駆を見止めた。出掛けて帰って来る円駆はいつも、浴衣の帯は片結び、その帯に六尺を挟んで、久之の視界に入る下半身には何も身に付けていないという状態になっている。

「……うん」

 起きたのではない、起こされたのだが、久之は文句も言わずに身を起こす。

「それ、何だ」

 円駆は立ったまま、部屋の中央に相変わらず鎮座した西瓜を指差して訊く。久之は一つ遠慮がちにあくびをして、「西瓜」と答える。

「西瓜くらい俺だって知ってるぞ。くだものだろ」

「うん……。円駆が、持ってきたものじゃ、ないのか」

「違う。……でもこの西瓜が里の八百屋の店先に並んでたのを昨日見たぞ。どうしてこんなところにあるんだ?」

 それを知りたくて訊いたのに、円駆は久之に問う。何だか申し訳ない気になりながらも、少なくともこれを運んできた「犯人」は明らかになった。

「昼飯の後に、あいつが里に降りてくのは見た。いまそこのケーブルカー見たら、上に来てたから……」

 屈み込んでぺちんと西瓜を叩いて、「……でかいな」と円駆が呟く。

「それで、これを描いたのか」

 すっかり乾いた久之の絵を拾い上げて見比べる。二度、三度、視線を往復されているうちに、久之は居た堪れないような気持ちになる。

 いつも写生をしているつもりの久之なのだが、出来上がる絵は「写生」という言葉が心外だと憤りかねないようなものだ。もちろん久之は庵に安置された不恰好な西瓜を二つの眼できっちりと捉え、見たままに描こうと努力している。

 その結果が、次のような円駆の言葉である。

「不思議だな。西の瓜だと『すいか』って読むのに、南の瓜だと『かぼちゃ』になるんだ」

 どうやら円駆の目には久之の描いた絵が南瓜に見えたようだ。せめて冬瓜に見えてくれたならよかった。ずいぶんと悄然とした内心を隠すように、

「巳槌が、帰ってきたら切って、食べよう」

 久之は言って、西瓜を抱え上げる。「冷やした方が、きっと美味しい、から……、泉に浸けておこう」

「帰ってくるの待たないで、いま食べればいいじゃないか」

 円駆はそんなことを言う。もちろん冗談に決まっているが、巳槌が聴けばただでは置かないだろうし、久之もその言葉を聴けば「そんなことを言ってはいけない」と言わずには居られない。もっとも、こういう悪癖は巳槌も持っている。二人揃って神の悪癖であるから、人間である久之が諭したところでさほどの効もないのが本当のところ、しかしながら二人の神は揃ってこの人間が大好きなので、言われたときには一応素直に聞くのだ。翌日或いは半刻もしないうちに忘れてしまうのが常ではあったけれど。

「庭に水は遣ったのか」

「……ああ、うん、いや、まだ」

「喉を乾かしてるぞ」

 久之は庵の外に出て、空を見上げる。昨日はそろそろ物騒な雲が空の端に見えた時間帯だが、今日は夕立の気配はない。巳槌は日照りが続かない限りは応龍にはならないと決めているらしく、今日の空には全面的に信頼を置いて良さそうだ。電気も瓦斯も届かない庵ではあるが、水道だけは一応ある。口にする水は殆どが巳槌のかつての棲家である泉に頼っていたが、米を洗ったり風呂釜を満たしたり、庭の食用植物たちに与えるための水はこの水道である。この山に居を構えてからしばらくは米を研ぐためにわざわざ山道を歩いて泉まで行ったりもしたが、面倒でやめてしまった経緯がある。

 別に見ていなくてもいいし、手伝わなくてもいいのに、着崩した浴衣のまま円駆は庭に降りて、草履で水栓まで駆けて束ねてある青いホースを持って戻って来て、すぐさままた水栓に戻り蛇口を捻るという一連の運動を苦もなく遣って退ける。そして「暑いな」と早くも額に滲んだ汗を拭うのだ。

 夏の午後に、こうして庭の植物達にホースで水を遣るという行為には豊かさが伴うように久之には思われた。円駆は食欲で形作ったような笑みを浮かべて、「いっぱい飲んで、美味く育てよ」と声を掛ける。傍らにこうして居る少年の存在が、自分にそう思わしめるのだということを、久之はもちろん理解していた。かつて自分を殺そうとした相手が、今は害意の欠片も無く、のどかで平凡な久之の一日を形作る。

 久之が水を止めて戻ってきても、円駆は屈んだまま興味深そうに土が水を飲み込んでいく音に耳を傾けていた。

「……円駆」

「うん?」

 久之は視線を、青々と掌を広げた葉に向けたまま、言った。「……捲れて、見えてる」

「うあ」

 慌てて立ち上がった円駆だが、片結びの帯のまま、大いに乱れた浴衣は完全に前が開いている状態だ。無理矢理にかき合わせて、自分の身を抱くようにして隠して、数秒後に「……暑い」と漏らす。

「褌を、巻いてあげるから……」

 円駆は諦めたように手を離して、首を振った。「もういい、このままで」

「でも……」

 手を離すと、まただらしなく胸も腹も露わになる。

「考えてみたらおかしな話だろ。だって、お前は俺の何処も彼処も見て知ってるのに、今更恥ずかしがるなんてさ」

 道理はそうかもしれない。私的な空間に在って羞恥心が無用の長物だということは、巳槌の影響か、円駆も久之も徐々に知りつつある。とはいえ、私的であると同時に此処は生活空間であり、屋外であり、陽は高いところにある。

「……俺は……、その……」

 久之は目を逸らしたまま、口篭る。心を読める神であっても、円駆は巳槌に倣って先回りせずに久之の不器用な言葉を待った。

「お前の……、お前たちの、裸は、……見慣れる、ようなものじゃないし、……その、やっぱり、そう易々と見せてはいけない、場所だと思う、……仮令相手が俺であっても」

 何故これほど慎重になる必要があるのかと、自問したところで答えは出ないだろう。巳槌にしろ円駆にしろ、同じ男だ。確かに尋常ならざるいきもので、そのせいか、その裸身もまた人智を凌駕した美しさを持っていることも事実である。とはいえ、同じ男の、しかもひ若い少年の裸身に一々感情を昂ぶらせるような自分は、どこかおかしいのではないか。

「……ひょっとして、風呂に入るときもそんなこと考えてるのか、お前は」

「……風呂のときは、その、……裸になるのが当然だし、……だから、お前たちが裸で居ても、それは、……必要だからだろう。努めなくても、変なことは考えない。……けど」

「……つまりお前はいま、変なことを考えたのか? 俺を見て? 俺の、……ちんちんを見て?」

 ずけずけと直接的な物言いに、久之は黙りこくって小さく頷く。

 この青年は長身であり、床屋になど行かないから髪は伸び放題で其れを括っている。むさ苦しいのは良しとしない殊勝な心掛けで髭は定期的に剃っているが、それでも顎の下に少しの陰がある。そういう男が、少年を前に言葉を失う様が奇妙だということは、人ならぬ身の円駆だって思うのだ。

「……難儀だな、お前は」

「……そう、……思う……、けど……」

「けど?」

「多分、……お前たちが、俺は……、……俺は……、お前たちが、……すごく、その……、好きだから……、しょうがない……」

 感情が篭もると、久之の言葉は一層拙くなる。慣れているとはいえ、円駆は少々呆れたように溜め息を吐いた。

「俺だってお前が好きだぞ。……昔は殺してやりたいくらい嫌いだったけど、今は好きだ。だからお前と一緒に暮らしてる」

 円駆の視線と言葉は真ッ直ぐだった。巳槌にしても同じように、極端なほどに素直な物の言い方をする。

「……ありがとう」

 身に余る大きさの光に戸惑ったように、久之はやっとのことで言う。太陽を抱きかかえれば焼け死ぬのが本当だ。しかし久之もまた、既に人ならぬ身である。神の寵愛を受けても、受けても、受けても、無事で居られる。いや、神の寵愛を受けて易々と死なれるようでは、神々としても困るのだ。

「お……」

 久之の着物の袖を、円駆がくいと引っ張った。

「巳槌は、どうする?」

「どう……?」

「あいつは、きっと上手にお前のことを誘うんだろ。でもって、笑うんだろ」

「……それは……」

 汗を少しはかいている、成人した男の汗だ、久之の着物には、そういうものの匂いが染み付いていて何の不思議もないのに、円駆はその匂いに、水を吸った土の匂いよりも好きな振りをして顔を寄せる。

「だいたい判ってるけどな。あいつは笑って、俺の褌に触って、口付けをして、……どうしてあんなことがあんな風に出来んだか、俺には判んねえけど、……きっとお前みたいな奴が側に居るからだ」

 何と答えたらいいか判らなくて、久之は言葉から逸れきった。円駆は皮肉めいた笑みを幼い顔に浮かべて、「真似出来たら楽だろうよ、俺も。……けど、……うん、やっぱ出来ねーや。恥ずかしくて出来ねえんだ」

 真似しなくていいし、恐らくしないほうがいいのだろうと久之は思った。あんなことが出来る者が、巳槌をおいて他に居るはずがないし、居られては困る。もちろん巳槌を悪く言うのではない、ただ、巳槌は少々特別過ぎる。

「あいつや、お前を見てると、……俺だって色んなことを考えるんだよ。……この形の身体で居る時間が昔よりずっと増えたからだろうな、これまでは考えたこともなかったような、ことを」

 つい先程「暑い」と言ったくせに、円駆は顔を久之の脇腹に突っ込んでしばらくそのまま居た。何だか、居た堪れないような気持ちにさせられる。巳槌のようには決してなれない二人だった。

「……あいつは、楽だな」

 顔を上げて、円駆は言った。「こっちがそういうことをしたいって思った瞬間には、もうあいつがそうなってる。そうなったら、こっちがどんなに怒ったって嫌がったって止めやしない。迷惑そうな面してるうちに、あいつが幸せに連れて行く。……こんな楽なことはない」

 連れて行く、というよりは「拉致」と言った方が的確かもしれない。ただ、事実は円駆の言うとおりだ。

「あいつは、お前を甘やかしているように俺は思う」

「……俺、を?」

「ああ。俺は、お前がもっと上手に言葉を使えるようになるためには、もっと積極的に言葉を発する必要があるように思ってる。もちろん、俺らは今のままのお前でもちっとも困んねーけど、でもお前が、もっと上手に喋れるようになりたいって思うんだったら、何かしたいってお前が思ったとき、ちゃんと言えるようにしなきゃダメなんだ。それなのにあいつは、お前が『したい』って思うより先に欲しがっちまうだろ。でもって、へらへら笑ってぬたぬた甘えてお前の上に跨るんだ。それじゃあ意味がない」

 久之は、耳まで真ッ赤になる。円駆は依然としてぴったりと久之の身体に引っ付いて離れない。幼い甘さを伴う力が、久之には強く響いた。

 久之は元々誰かに性欲をぶつけようと積極的に思うような男ではなかった。自分のような者は誰からも愛されることなく死んでゆくのだと決め付けて疑いもしないで生きてきた。それがどうだ、今は「死んでゆく」ことさえままならぬ永い永い永い生を、常時二人の神なる身を傍らに置いて、身に余るほどの愛情を享けて生きているのである。円駆の言うとおり呻吟する必要こそない一方で、努力の要請さえもないのだ。よってこの一年ほどの間、久之の言語能力は相変わらず酷く拙い、つかえつかえ不器用のままなのだ。

「お前は、今、俺としたくないのか? 俺のちんちん見て、ちょっと心臓がおかしくなってるんだろう」

 円駆の心を読むことなど出来ないが、久之にも判るのだ。……お前は今、俺としたいのか? 訊き返せば、きっと何も言えなくなるのだろう。

「う……、あの、……それは……」

「素直に言えばいいじゃねえか、俺はお前が素直に言いさえすれば、お前の好きなようにさせてやる」

 言葉のなかなか出てこない久之も久之だが、尊大なる責任転嫁を企図する円駆も大いに問題だろう。しかし見た目上は久之の方がずっと大人である。円駆はほんの小さな少年に過ぎない。

 譲歩するべきは。……いや、弁解は久之にだって出来る。神に強いられるようなものだ、これは。

「……、見たい……、見せて」

「どうしてだ?」

「どう……、俺は……、きっと円駆の、ことを、多分、上手にか判んないけど……、楽しく、してあげられるような気がする。だから……、その、俺は、お前が、可愛いから、お前を、気持ち良くしたり、したいし……、……それは、俺にとっても楽しい」

 ふふん、と何に勝ったわけでもないだろうに、円駆が笑った。

「お前は、やらしいな。巳槌と一緒にいるせいで病気が伝染したんだ」

 敗者でもないのに、久之は円駆に背中を屈めて、抱きすくめる。双方とも望んだ形になるのだから、少しの痛みもない引き分けである。

 縁側に腰掛けてしどけなく膝を立てる。

 焔色の中に稲妻が走った髪は当人の気の強さを示すように巳槌より硬い。いや、巳槌だって気は大いに強いけれど、印象から其れが直接的に伝わるのは円駆のほうだ。太い眉にやや吊り上がった眼元からの視線は金色の瞳と左眼下の隈取も相俟って、ときに手に負えなくなるほど強い。身体付きも巳槌に比べれば少しだけ大人びており、薄い筋肉を纏った身体は凛々しさを漂わせる。

「久之」

 左膝を立てたまま、右手を久之に向けて伸ばした。

「言えよ。もっと、お前の言葉を俺に聴かせろ。……男だろ、てめぇの思いくらいてめぇの口で言って聴かせろよ」

 久之は立ち尽くしたまま、またしばらく言葉と逸れていた。しかし、一度口を開け閉てして、……意を決したように、綴り始めた。

「俺は……、恵まれすぎているように思う。……こんな、何も能のない、やくたたずの、俺の側に、お前たちが、居る、……という、事実は、……俺には大きすぎるし、なんだか、もったいないように思えるときも、ある。……だけど」

 円駆は黙ったまま、久之の言葉を待っていた。どういう言葉がもたらされるかということについては、とうの昔に見当が付いているのだが。

「俺は……、お前たちを幸せにしなきゃいけない。俺を、お前たちが、幸せにしてくれる以上は、……それ以上に、もっと、幸せにしてあげなきゃいけない。そうでなければ、生きてる理由がない……、誰かを側において、生きている理由がない。俺が、……お前たちみたいに、すごく、すごく、長く、生きることになったのは、多分、……俺が、不器用だから……、もっと上手に色んな事を出来るようになるためだ。巳槌の言葉を信じる、なら、俺が、……楽しいと思う……、巳槌が、楽しいと思えるようにして、くれたことは、お前たちのことも、楽しくする、って。だったら、俺は、頑張る……、頑張りたい……」

「そうか」

 円駆は髪をざっくりとかき上げて、ぶるんと一度頭を振る。「なら、頑張れ。応援はしねえけど、待ってるぐらいならしてやる」言葉の途中から久之の顔が真ッ赤に染まっている事を指摘することはなかった。

 久之は、ときどき巳槌に言われることを思い出していた。

 「ときには僕以上に円駆のことを可愛がってやれ」と、巳槌は二人きりのときに言うのだ。「あいつは寂しい男だからな。獣を除けば、僕以外に友達だっていないような男だ。言ってみればお前と同じだよ。でもって、お前以上に素直じゃない。たまには僕はあいつのために、しばらくどこかで昼寝をする。そんなときを見計らって、あいつを抱いてやればいい。お前はあいつのことが好きだろう? 僕は邪魔しないでおいてやるから」

 好きだよ。

 四文字の簡単な言葉だって、久之にはつかえず言える自信がなかった。そしてその言葉を引き出すために、巳槌よりも羞恥心の箍が強い円駆が、小さな譲歩をしたのだと気付く。

 円駆の頬に、指を当てて、幾度か撫ぜる。それから髪を、小さな耳を、再び頬へと戻って、両手で抱き締めた。意地の強いはずの麒麟はそうされている間少しも嫌がらず、目を伏せて久之の匂いを嗅いでいるのだ。

「好き、だよ」

 その言葉を差し込んだ一瞬だけ、恐らく堪えていたのであろう身体が、ぴくりと小さく揺れた気がする。巳槌がどれぐらいの時間昼寝をするかは久之の想像の範疇ではないが、起きていたとして、わざわざ降りてきたりはしないだろうとも思うのだ。

「円駆」

「……いいのか?」

「え……?」

「見たかったんだろ、触りたかったんだろ、俺のちんちん。自由にしていいんだぞ」

 巳槌のようなことを、円駆が必死に選んで言ったのだろうと、心の読めぬ久之にも何故だか判った。「聴きたい」と、素直な心臓に額を当てて請う。「お前が、……何て答えてくれるのか、……俺も、聴きたい」

 久之は目を閉じた。円駆がどういう顔をして言うのか、興味がない訳ではない。それでも耳を済ませていた。蝉時雨を、葉擦れの、太陽の音を掻き分けて、円駆の言葉に。

 一度、二度と、躊躇う気配に遅れて、

「好きだ。お前は案外性格が悪いな」

 円駆は自分の言葉を掻き消すように悪態をついた。「ありがとう」と少な目の躊躇いにとどめて久之は言い、円駆の胸から顔を上げた。円駆は唇をへの字に曲げて、思いも寄らぬ反撃を受けたことに不満を抱いているようだった。しかしその顔は、何だかとても円駆らしいと久之には思える。

 少年の身体には甘酸っぱい果実のような匂いの汗が粒となって浮かぶ。久之も汗をかいていた。しかし此処で離れるのは嘘だと久之には判る。円駆の手が帯を解き、久之の胸に舌を伸ばす。「……なんでこんな汗かいてんだ、暑苦しい」という悪口は、円駆自身も汗をかいている以上、久之の耳には安らかに収まった。言葉を介した感情の伝達方法を、久之は円駆から、巳槌から、知らず知らずの内に一つずつ学んで行く。

 少年の汗の匂いを嗅ぎながら、互い、動きのぎこちないことに気付き、同じように不慣れな身体なのだ久之はつくづく思う。だったら大人の俺が導くべきなのか、しかし年齢で言えば円駆の方が見上げるほどに重ねていて、自分を「年上」と定義するのは何だか覚束ない。円駆の方が偉いように思う。

「俺、……見たい、から」

 急きこんでも、まだのろま。そういう言葉に、「勝手にしろよ」返すのは、不器用に尖った声。縁側の上に寝かせかけて、背中が痛いかと気付いて抱き上げて、畳の上まで運ぶ。再び横たえて、改めて見下ろしたときに久之は円駆の陰茎が仄かな力を集めているのを見る。円駆は掌で其処を隠して、「お前のは」と訊いた。

「俺、の……」

「同じように興味を持ったら駄目なのかよ」

 怒っているような責めるような言葉でも、手を繋いでいる。お互い巳槌のようには決して出来ない、恐らくする必要もない、素朴な心と身体の形をしている。

「……見たいのか?」

「だから、見たいと思っちゃ駄目なのかよ」

「いや……、そんなことは、ないけど、……俺のなんか、見たって」

「うるせえ。お前だって俺のなんか見たってしょうがねえだろ」

 乱暴な手で、円駆が帯を解く。円駆が再結束するときにはいつだって片結びだが、大人の久之はきちんと一箇所引けば解けるように結ぶ。浴衣の下に穿いているのはごく普通の大人の下着であり、其処から目的のものを円駆が引き出すのには、殆ど何の苦労も要らないのだ。

「また……!」

 いつかのように、この期に及んでもまだ柔らかい久之の性器を掴んで、円駆が癇癪を起こしたように何か言いかける。ただ、永い刻を生きる神なる身がそんなことで一々腹を立てるのは格好が悪いと少年自身気付いたのだろう、ぐっと言葉を飲み込んで、「お前もだ」と命じるように言う。

「触れ。……俺ばっかすんのかよ、お前もすれば、お相子だろ」

 久之は、円駆と巳槌が二人のときにどういう行為をしているか、具に観察してことがあるわけではないが、いつだって円駆は巳槌に振り回されて、すぐに甘い声を漏らし出す。そんな少年が自分に対しては強気で居るのは、やはりそれだけ俺に力がないからかという気がする。いずれにせよ、円駆の愉楽に繋がるのならば久之は構わないのだったが。

「判った……、触る、よ。その……、そもそも、俺が、触りたいとか、思ったのが先だから……」

 言うまでもなく、形はまるで違う。未だ性毛の一本さえ生えてこない円駆と、すっかり大人の形の久之である。その性器の形状に比して幼い円駆の手が触れれば罪深く、久之お大人の手が華奢な円駆に触れれば業が深い。二人して口を開けて相手のものを見詰めるとき、徐々に理性の割れて欠け始める音を聴く。

 堪え性のないのは円駆の方で、久之も円駆の案外に柔らかい手の中で勃ち上がらせていたが、円駆の性器からは久之が慎重に動かすたびに、不器用な小鳥の囀りに似た水音が立ち始めている。興味に負けて、そっと皮を剥き下ろす。巳槌と同じように、其れは途中で行き詰まる。それでもいかにも幼げだった輪郭は薄く脆弱な粘膜を晒すと、ほんの少し大人びたように見える。熱を帯びているはずでいながら冷たい色をして、触れるのも憚られるような場所の、先端、滲んだ露をまで含めて、其れは美しい印象さえある。男として生を享けた身体の美しさを端的に示していると言ってもいいように思う。

 もっとも、円駆がその形状を保持出来るのは十数える間だけだったから久之が素描する暇もないし、如何な美しいものでも其れを描くのは憚られた。どうせ画力のない久之である、実物の美しさ愛らしさを表現し切れないなら、しないほうがいいのである。

 そのままでいい、何かに写し描いたりしなくても、永遠に美しいままの場所だ。よく陽に愛された顔や肩と比べて生白いのもまた愛らしい。茎の根元から垂れ下がる嚢の触り心地もまた。

「……お前……、遊んでるだろう……」

 紅い顔で円駆が咎めた。

「あそ……、んで、いるわけじゃ……、ないよ。ただ、その、……可愛いから」

「お前のは、ちっとも可愛くない。この点においてだけは、巳槌のは可愛いと言ってやってもいい……、あいつのは俺のよりずいぶん小さいからな」

 嘘だ。久之の眼にも、二人の性器の大きさは殆ど差がなく、並べてよく観察したときにほんの四半周りほど円駆の方が大きいというだけのことだ。身長というか、体格の差も同じほど円駆の方が大きいのだから、端的な場所にその差が現れたって何の不思議もないのだ。

「でも、お前が遊ぶなら、俺も遊ぶ。……お前も好きに遊んでればいい……」

 円駆はころんと横たわり、久之の太腿に頬を乗せ、既に大人の男としての荒々しさを具現化したような輪郭の性器に顔を寄せる。

「面白いな」

 と繕ったように尖った笑みを口元に浮かべる。「俺のと、全然形が違う……。同じなのに、……不思議だ。お前の方が、俺のより、いやらしい」

 言葉の尻を捕まえてお前だって同じだよと言う代わりに、手の届くところにある円駆の性器の先端に余った皮を引っ張った。円駆は一瞬咎めるように睨んだが、反撃のつもりか、久之の茎に舌を伸ばす。

「面白がって、くれるなら、いいよ」

 久之は左手で円駆の髪に、右手でその性器に触れながら、微かに声を震わせた。

「お前が……、お前たちが、『面白い』って思ってくれるんなら、……こんなものでも、あっていいような気がする」

 四つ前の季節までは無為なる肉腫だった。別の形をしていたって何ら困ることなどないような。巳槌に出会って意味が初めて生まれ、円駆と出会って価値が生まれ、今では二人の為だけにでも、なくては困るものになったようだ。

 円駆は不貞腐れたような顔で久之の茎を舐める。時折、久之の指にぴくりと反応して、眉間に皺が寄る。強気な眼元がその度に全く違う印象に変わる。

 円駆と巳槌を二人並べたら、一般的には巳槌の方が中性的な美しい顔をしていると評されるだろう。円駆の顔には鋭い剣が眠っているように見えるかもしれない。しかし薄皮一枚剥いたところには、円駆だって決して劣らぬ。儚い美しさを醸す。元が強そうな顔をしているものだから、却って胸が苦しくなるほどだ。意地が強くて、堅牢な防禦を備えた身体の脆い部分を自分にだけ、自分にだからこそ、晒されたときに久之を煽る衝動は巳槌の其れ以上の威力があるように感じられる。

「……久之……」

 円駆が、口を離した。「どっちか、……その……、このままだと……」

 気付いていたことだが、円駆の方が巳槌よりか細い声をしている。濡れたときには今にも声の底を失いそうな不安定感を伴い、弱々しい。

「……ん?」

 全能に近い力を持つ神のはずなのに、声はどこか心細げですらある。

「……どっちかが、一人になる、だろ。だったら……」

 繋ぐ手が欲しいと請うかのようだ、例えて言うなら迷子だろうか。

「……俺、で、……お前が」

 拙い言葉は久之が伝染したかのようだ。真ッ赤になって、「その、一つになって、……繋がって、れば、一緒に、……一人には、なんないだろ」

 不器用に紡がれた言葉を掌に掬って意味も意図も拾い上げる。不器用者の久之ではあるが――こと言葉を操ると言うことに関しては全く能がない彼ではあるが――誤ることはなかった。

「そうだね」

 久之は、子供のようにこっくりと頷く。幾百年生きた円駆の前では久之など本当にまだ赤子同然だが、「お前の、言うとおり、だと思う」実際この長身の男はその言語能力は赤子とは言わぬまでも全く拙いのである。

「布団を、敷く?」

「……いい。どうせ、汗でびちょびちょになるんだ」

「……じゃあ、……後で、風呂を沸かす、よ?」

「それでいい……。その頃を見計らって、あいつもきっと、降りてくるだろうから」

 いい、自分で出来る、自分でする、ほんの少しの抗いを、押しとどめるための笑顔を久之は持っていた。伸び放題の髪に無精髭の不健康そうな面を下げて、それでも優しい笑顔を思い人のために浮かべられるくらいには俺だって器用だと、珍しくも久之はそんな強気なことを思う。要するに、お前たちは二人して待っているのだろう、その肌が太陽に黒く焦がされたり雪に白く凍りついたりの季節を何回も何回も繰り返してその先にある曖昧でも理想的な未来を気長に。

 そんなに待たせたりしてはいけない。

 そんなに待たせやしない。

 するものか。

「久之……」

 強気の匂いを嗅ぎ取ったか、円駆がほんの少し笑った。久之に手を貸すように右足の腿を自分で抱えて、「こういう、景色、お前は好きか」と訊いた。風に吹かれた火のように久之の表情は揺れて、紅くなって、それでも意を篭めて頷くときの顔を見て円駆が吹き出さなかったから、きっと悪くないのだろう、そう自分を騙すことにする。

「俺は……、すげえ、恥ずかしいぞ」

 言って、円駆は付け加える。「……観察の結果判ったことだけど」

 円駆の前に伏して、彼の晒した部分を唾液で濡らしながら、見上げて訊く。「なに……?」

「あの蛇は……、淫乱めいた真似を平気で、するだろう。酷い下品なことを言ったりとか……」

「……うん、こっちが、恥ずかしくなって、何も言えなくなるような、ことを」

「あれは……、そういうことを何の羞恥心もなく言ってる……、ように見えて、実際、きっと、そうじゃない、すごく……っ、恥ずかしがってる……。……あいつは、あいつが、……そういうこと、すると俺たちが、嬉しがると思って、やってんだ。お前がもし、気付いてなかったなら、教えてやる……、たまには、あいつの顔が真ッ赤になるのを、見るのも、きっと楽しいだろう?」

 恥ずかしいと思っていることを晒すのが恥ずかしいのか、円駆はよく喋った。いいよ、無理なんかしないでも、俺は頑張るから。久之は指を差し入れたまま眼前で震える円駆の性器を咥えた。

「ひゃン!」

 たちまち、毒っぽい言葉の代わりにそんな声を上げる。射精まで追い詰めてしまったら彼の意地を傷つけることになりそうだ。久之は舌の上に潮の味を乗せて愛でるだけに止めて、「……ときどき、意地悪をするの?」訊いた。

「……しょうがないだろ……、だって、あいつが意地悪だ。……っていうか、……お前、俺を黙らすためにちんちん咥えンにゃっ」

 一々敏感に反応してしまう身体をその部分を、円駆は恨めげに睨む。

「……心配の、必要も、なかった。お前は立派に変態だ……、酒でも呑んでるんじゃないのか……」

「……こんな、昼間から、呑んだりしないよ……」

「聴いたぞ、巳槌に……。お前は酒を呑むと大層変態になるらしいじゃねえか……」

「……覚えていないよ、そんなの……、それに……」

 紅くなって、久之はぶつぶつと呟く。「いまだって……、大して、胸を、張って、……まともだなんて、言えない、だろ」

 円駆は何も言わなかった。どうやら同じ事を思っているようだ。「もう、いい……」円駆が腰を逃した拍子に指が抜けた。足を抱えていた手を離して、彼は仰向けのまま幾度か深呼吸をする。汗塗れの一対の身体がへたった部屋に風が通り抜けて、ついでに西瓜を撫ぜて行く。

「もう、いいから……」

 ぐいと起き上がって、ぺたんと座った久之の前に立ち上がる。横になれ、足を伸ばせ、命令口調を選ぶ円駆に従ってそうすれば、円駆は久之の身体を跨ぎ、屹立する男根に手を添えて、そろそろと其処に腰を下ろして行く。未だ腕に引ッ掛かったままの、汗で湿っぽい浴衣が何故だか少年を高貴に見せた。身体を遮るものはない。陽に焼けた身体の下半身の白さが久之の目を惹きつけて離さないのは自然なことと言えたが、

「んな……、とこ、ばっか、見んな……、変態」

 円駆は隠す余裕のない代わりに毒を吐く。半身を起こして久之が掌の中に其処を包み隠したら、「ほんとに、……馬鹿だ、お前は。言葉使うの下手なくせに……!」首に縋り付いて、髪を噛まれた。お返しにというよりは返礼のつもりで、久之は円駆の額に唇を当てた。

「お前も巳槌と同じくらい憎たらしい、嫌な奴だ、俺を困らせる、変態だ。愛しく思う気持ちさえなければ、いつだって、いまだって、お前のことを殺してやったっていいのに」

 再び仰向けになった久之にしっかりとしがみ付きながら腰を動かす。その動きは不器用だが、直腸を使って久之の性器に快楽を与えつつ、その摩擦熱で自らも慾を満たしてゆくのだから其れは器用な所作とも言える。

 且つ、久之が思うのは、……本当か嘘かは判らないまでも、殺意を今も胸の奥に隠し持っている、或いは隠し持っている振りをしながら至上の愉楽を分け合おうと言うのだから、円駆は抜群に器用だということだ。羞恥心を奥歯で潰して笑いながら淫れ狂って見せる巳槌と同じほどに。

 同じか。

「何でも……、俺は……、お前が、……大好きだよ」

 残念ながら答えは貰えなかった。ただ、久之が言い切った途端に強い力が首を絞め、円駆が射精するのを性器の先で感じ、久之も臆することなく円駆の胎内へと精液を零す。円駆の腕は既に緩んでいたが、久之は却って強い力で抱き締め返していた。

「……暑いな」

 久之が繋がったままちょうど百数えてから、円駆が言った。多分、もう離れても言葉が嘘にならないと思ったのだろう。

「……うん、……風呂を、沸かす……、よりも先に、水浴びでも、したいくらい……」

 慎重に円駆が腰を浮かせて、久之を身体から追い出す。広がりきった孔をすぐに閉じるが、たちまち太腿を一滴伝った。久之が其れを見たのに気付いて、「み、見るな、馬鹿……!」と責めるが、一人で立つことも難しいようだ。見かねて、自分の身体を拭うより先に久之は円駆を抱え上げて、庵の脇にある便所――と言うには少々貧相な囲い――に下ろした。

「……巳槌も、……『不便』って、言ってた……」

 緩やかに水を零すホースを持ってきて、屈んで突き出された円駆の其処を丁寧に洗ってやりながら久之は言った。

「女の身体だったら、よかったのに、って。……でも、女の身体、だったら、……多分、こんな風には、なってない」

「寒い」

 すっかり縮み上がった陰茎を晒したまま、円駆は立ち上がる。まだ汚れたままの久之の裸身を見て、「俺もお前が男で居て良かったって思うぞ。味わわせようと思えば同じ痛みをお前にくれてやれるんだからな」

「……痛、かった?」

「ああ。でも、痛みが痛みでしかなかったなら、一度目に巳槌がしようとした時点で殴ってる、というか、あんときは殴らなかったけど、叩いた」

 蒔きを二人で抱えて、満々と水を湛えた風呂代わりの大鍋の下に入れる。燐寸で火をつける久之の横に円駆が屈んで、「今日は特別に早焚きをしてやろうか」と言った。彼は少し機嫌が良いような顔で、「離れて居ろ」と久之を退かせると翳した掌に力を集める。ふわりとその硬い髪が浮かび、額が露わになるほどの力感が伴って、一瞬の閃光、薪は盛大に燃え上がり、少し焦げ臭さが伴う。しばらくそうやって掌を翳していたが、円駆は頃合を見計らってそっと掌を閉じる。火の勢いはたちまち収まり、鍋の中には湯が満ちていた。恐る恐る手桶で掬い取った久之が指を入れると、何ともいい塩梅である。少しぬるめで、円駆の好みの湯温になっている。久之は手早く自らの身体を洗い流した。

「……いろんなことが、出来るね、円駆は……」

「便利だろう」

 少しく得意げに少年は言う。巳槌は応龍になれば霧を操り雨を降らせ空に虹をかけて見せるが、恐らく円駆に其処までの妖力はない。ただ、巳槌はその力を少々持て余している様子である一方で、円駆は勝手知ったる焔の力を持つ。出し惜しむように、そして出して見せたときにはこうして久之が感心するのを楽しむように、上機嫌のときにしか晒さない。

「そうだ」

 風呂に入りかけたところで、円駆がぴたりと止まる。「先に入ってろ」と偉そうに言い置くと、庵の方へ裸足で駆けて行く。何を思いついたのかと久之が言われた通り鍋の中に浸かってみていると、彼はあの不恰好な西瓜を抱えて山道を登っていく。久之の鼻に薄ッすら汗が滲むまでの時間をかけてから、戻って来た。

「風呂上りに冷えた西瓜を食おう」

 巳槌の泉に浸けて来たらしい。「大して美味くもないかも知れないが、冷えていればそれだけで食えるだろ」

 円駆の言葉に頷くと、彼は其れが当然の権利だと言うように足で久之の足を開かせ、其処を自分の居場所と定めた。巳槌が一緒なら、大抵は巳槌が久之の右肩、円駆は久之の左肩に凭れて寛ぐのが常だったが。

 いずれにせよ、久之の行動は制限されることとなる。

 もっとも、自由を手にしたとして、其れをどう使おうかということには全く発想力のない男ではあったけれど。

 円駆は心地良さげに目を閉じて、うたたねを始める。意地悪巳槌が側に居れば、こんな風に油断すれば頃合を見計らって足を引っ張って、円駆を湯の中に沈没させてしまうのだが、今は。

 しかし久之は上空に俄かに雲が育ち始めたのを見る。巳槌が昼寝から醒めたに違いない。太陽を隠し、空を伸びやかに泳ぐ応龍の長大な姿は里の人間たちには霧に隠されて見えないが、久之ははっきりと視認出来た。

 その美しい龍の頭部が雲の隙間から覗く。巨大な頤から鋭い牙を覗かせて、笑うように霧を吐き出すと、それ以上雲を広げるのは止めて、……ゆっくりと、ゆっくりと、身体をくねらせながら姿を現し、やがて天と地を繋ぐ一本の架け橋となる。ぬらぬらと濡れて光る白銀の鱗が自然に存在するあらゆる色を集め、結果的に虹の彩りを為すのは、罪深いほど美しいと久之はいつでも思う。

 徐々に、……やがて急激に、その身を小さな白蛇に変じ、巳槌が降ってくる、……降ってくる。過程で、その蛇の身体から光と水滴が弾け、銀髪の少年に姿を転じる。上下反転した二つの視線がぶつかったわずかばかりの瞬間に、巳槌がいつもの無愛想な顔で「見ていたぞ」と呟く、「聴いていたぞ」と。

 弾ける水の音に、「わう!」虚を突かれた円駆が声を上げる。盛大に上がった水飛沫、鼻に湯が飛び込んで、彼は一頻り噎せる。

「ずるいぞ、お前たちは」

 湯から顔を上げて巳槌が無表情のまま言う。「僕の知らないところで湯を沸かして、風呂上りに僕の持ってきた西瓜を食べる気だろう」

 せっかく寛いでいたのに叩き起こされた円駆は、「て、てめぇ、風呂入るときにはもっと上品にしやがれ!」怒鳴る。巳槌は平然と、「尻の穴の管理も出来ないようなけだものに言われたくない。もっとも尻の穴の管理が甘いのは僕もだ。目くそ鼻くそを笑うと言う奴だな。もちろん鼻くそはお前だが」と言い放ち、定位置の久之の右肩に凭れる。こうなると、円駆は久之の左肩に自分の身を委ねるほかなくなって、「誰が鼻くそだ」とぶつぶつ言いながら不機嫌そうに膝を抱えるのである。

「……あの西瓜は、どうしたの」

 巳槌の立てた飛沫に濡れた顔を掌で拭って、久之は訊いた。

「下の八百屋で貰ってきた」

「貰って……、まさか」

「誤解するな。僕はそのけだものじゃあるまいし、泥棒なんかしないぞ」

「だっ……、てめぇの方が泥棒だろうが! 俺の酒ときどき盗み呑んでるだろ!」

「さあ。何のことかな」

 巳槌は肩を竦めて、「あまりに不恰好で不味そうだったからな。まるでどこかの誰かのようで、同情してずっと眺めていたら八百屋の主人がくれたんだ」

 巳槌は高貴なる生き物ではあるが、少年態のときには痩せて貧相な身形をしている。この少年が久之の庵で暮らしていることは八百屋の主人も知っているだろう。同情して分け与えたのであろうということは、残念ながら久之にも想像出来た。

「どうせ誰にも買われないのなら、僕が持って帰って、お前の絵の題材にでもすればそれだけの役には立つ。身も、まあどうせ誰かの頭の中のようにスカスカで甘くも何ともないだろうが食おうと思えば食えるものだろうし、皮は刻んで漬物にでもすれば良いだろう。……絵は描いたのか」

 言葉の端々にいちいち毒を篭める巳槌と、それに律儀に反応する円駆と。二人の側に居て丁寧に観察していけば俺の言語能力も少しは磨かれるかもしれないと久之は何となく思う。「……描いたよ。……その、もちろん、あまり上手には、描けていないけど」

「当然、お前が上手く描けるとは思っていないよ。どうせ西と南を間違えたような代物を描いたのだろう」

「それは……、うん」

「それでいい。変に小器用なよりは迷って惑って収拾が付かなくなっているぐらいの方が、お前らしくて僕は好きだ」

 濡れた銀髪が肩に貼り付く。巳槌は「ぬるいな」という言葉を最後に黙って久之に体を委ねる。円駆は憮然と巳槌を見て、何か言いたげにしていたがやがて同じようにする。久之は密やかに溜め息を吐いた。

 言葉も不器用なら絵も上手くない男だけれど、二人の神なる身に貸せるくらいの肩は持っている。円駆が再び静かな寝息を立て始めた頃に、巳槌が目を開ける。悪い事をしてはいけないと目を向けたが、彼は肩を竦めて、「……たくさん、可愛がったのだろう」と久之の耳に囁く。

「たくさん、喜ばせたのだろう」

 判らない、久之は頷くことも首を振ることも出来なかった。

「きっと、それぐらいで丁度いい。お前はまだ自分の存在の大きさに気付いていない。そのもどかしさは、きっと円駆にとっても居心地のいいものだろう。……何だって強請るのは簡単だ、……簡単に手に入らないからこそ、もっと欲しくなる。慾はいつでも中から生まれてくるんだ」

 謎めいた言葉を紡いで、巳槌は元の通りの場所に収まる。「僕らは愛し愛されの環を作って生きている」という巳槌の総括は、久之にとっては少々大きすぎる。この鍋の中に三人揃って浸かって、自分が二人の枕になって居られる以上、きっと本当のことだと辛うじて信じることは出来たけれど。

 上せる前に円駆を起こして、三人揃って鍋から出た。二人の身体を順に拭いてやってから、自らも拭いて着物を纏うが少年たちはまだ浴衣を着たがらなかった。円駆に言った通りいつでも二人の裸身が危険物であるわけではないが、久之は新しい褌を締めさせる。草履を引っ掛けた円駆が、あの不恰好な西瓜を持って戻って来た。

「さて」

 縁側に置かれた果実は尻の落ちつかなように傾いている。

「この小屋には此れを切れるだけの大きな庖丁がない」

 巳槌が叩くと、ぺちんといかにも甘くなさそうな音が申し訳程度に響くだけだ。

「だったら、割るか」

「馬鹿かけだもの。割れてぐしゃぐしゃになった西瓜など、タダでさえ美味くないのに益々以って食えたものではない」

「じゃあ、どうしろってんだよ。大体何の考えも無しにこんなでかいの持って来てんじゃねえや!」

「あさはかな奴。僕が何の考えもなく持ってきたと思っているのか。頭の中に鬆が入っているんじゃないのか」

 円駆が怒声を上げる前に、「何か、する、つもりがあるのか」久之は言葉を差し挟んだ。巳槌は依然として無表情だが、その目に僅かばかり、得意げな色の差したように見える。縁側に傾いた西瓜を両手で探るように撫ぜ回して、「ここか」と一人呟く。

「円駆、反対側に触れ」

「……反対側?」

「その縞の途切れている辺りだ。……僕とお前の掌で結んだ線が、この西瓜の丁度正中線だ」

「……こう、か?」

「そう。……少し、力を入れろ」

 ぽくん、と小さく西瓜の中で音が鳴ったのが久之には聴こえたばかりだ。驚いたように円駆が手を離して「冷てぇ……」と、手をぶんぶん振る。ぱっくりと八つに割れた西瓜の断面からは、見事に紅い果肉が露わになっていた。

「僕の冷気と円駆の焔を西瓜の中でぶつけた。僕だけでは西瓜を氷漬けにしてしまうし、円駆だけなら丸焦げだ。……熱い」

 巳槌も手を振る。「内部で氷と焔がぶつかれば、中に詰まった水分が小さな爆発を起こす。其れが丁度中心で起きればこの通り、……まあ、真ん中からは少しずれていたらしいな、切り口は見苦しいが、それなりに綺麗に割れるわけだ。……うん、案外に美味そうじゃないか」

 歪な三日月が幾つも出来た。巳槌は両手で其れを持ち上げて、噛り付く。無表情のまま咀嚼して、無表情のまま種を吐き出すので、

「どうなんだ……、美味いのか」

 と不安げに円駆が訊いた。

「……判らん。恐らく爆発が大きすぎたのか、いちばん甘いはずのところが見た目以上にぐずぐずになっていて、食感が良くない。西瓜と思わなければ」

 次の一口への躊躇いがないから、久之も手に取る。確かに舌には西瓜特有のざらついた甘味ではなくて、何だかふにゃふにゃと舌の上に柔らかく手応えのない果肉が生ぬるく広がる。美味いのか不味いのか、判然としない。元の西瓜がやはりさほど甘くないものだったのも事実かもしれない。

 しかし、円駆も何も言わずに口を付ける。彼は巳槌の銀髪の先が赤くなったと指を差して笑ったが、その頬には西瓜の汁がべっとりと付いている。三人並んで縁側に座って、種を吐き出す。放っておけば芽を出す。そのうち、この菜園を支配する、大して甘くなく不恰好な西瓜が嫌と言うほど獲れるようになるかもしれない。

 西瓜の種が芽吹いて実を結ぶまでどのくらいの時間が要るものなのか、久之には判らなかったが、それも悪くないかとも思う。六尺だけを身に付けた二人の少年が手や顔や胸の汚れることも気にせず大して美味くない西瓜に夢中になって齧り付いている景色を見られる未来は、それだけで素晴らしいものと思える。

 ふと、久之は立ち上がる。なぜ自分が立ち上がったのか、足に任せて行李の前まで歩んだところで気付く。巳槌と円駆が不思議そうな顔で振り向くが、久之が紙と絵筆を取り出して、すぐに前を向いた。

「初めてじゃないか」

 巳槌が極めて冷静な声で言う。「お前が、木や石や、植物以外のものを描こうとするなんて」

「……うん」

 久之は数秒の間、ひとり分を空けて並ぶ二人の背中を観察した。やはりほんの少しだが、円駆の方が身体つきはしっかりしている。六尺の食い込む尻も、巳槌の方が小さい。いや、円駆だって小さい。少々の罪深さを覚えながら、早くも久之は思いのまま筆を走らせ始めた。とうに西瓜を食べ終えたはずの円駆も巳槌も、黙ったまま待っている。

 久之の絵は完全な我流である。誰かに師事したこともないし、まだ人間らしい生活を送っていた少年期にその絵で褒められたことだってない。そもそも何故俺は絵を描くのだろう、時折久之は考える。今では生活の中に組み込まれ、当たり前に繰り返される行為ではあるけれど、……そして妙なことに、久之は愉しんでいるような気がする一方、決して其れを心底から愉しんではいない自分を知っている。まるで上達しない、いつ描いたって不味い絵だと、少しく斜に構えて己自身を観察している目に気付く。西瓜を描いたって南瓜と間違えられるような絵しか描けないで、いったいこの行為にどんな価値が在るのだろう。或いは言葉の扱いに未だ慣れぬ俺は、絵を何か言葉の一種のように勘違いしているのではないだろうか。

「……もう、動いて、構わない」

 しかし、「愉しいか」と問われて、……躊躇いがちに久之は頷く。

 相変わらず筆を走らせながら気付く。神なる身を写し描く、……罪深いことのように思える。

 興味深そうに二人が側に寄って、既に其処には居ない姿を描く久之の手元を覗きこんで、顔を見合わせる。見られると集中力が削がれるなどと贅沢を言うつもりはないが、どんなに不味く描いても文句の一つも言わぬ木や石とは違って、あまり口の良くない二人である。久之は思いつきのままに描く自分を恥じ、宙に腰掛ける二人を書き終えた時点で筆を止めた。

「もう終わりか?」

 円駆が、不満げに呟く。

「どうせなら、最後まで描けばいいんだ」

「いや……、その……、これ以上描いたって、別に、これ以上、良くなる訳じゃない、から」

 久之が筆を洗いに立っても、二人の少年はじっと絵を見詰めていた。何やら小声で話しているようだが、その声は久之の耳には届かない。阿呆なことをしたなと少々後悔しながら筆を洗って戻り、庖丁を取り出すと二人の食い散らかした西瓜の皮を刻み始めた。それを見て、巳槌が壷を持って来いと円駆に命じ、自分は石と塩を用意する。不器用者の久之ではあるが、壷は水を漏らさない程度には上手に焼くし、漬物も飯のおかず及び晩酌の肴になる程度には漬けて見せる。一先ずはそれで十分だと、二人揃って言ってくれることを願う庵に、また一際強い陽射が差し込み、甘い汁の匂いで満ちた部屋を照らす。そろそろ畳を新しくした方が良いかもしれない。既に居ることが当然となった神二人との同居、今日はそんなことを久之は考えた。


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