MISTYDRAGON PRAYS

 その歳の人間、また乏しい人生経験しか重ねていないものとしては久之は博識な方である。他者との交流を嫌い、無聊を読書で埋め続けた結果であって、それはちっとも褒められたことではなかったが、久之の頭のいいことは事実である。

 もっともそれはいまのところ人間の有限の知識である。二人の神なる身は、生きた時間も違えば感覚もまた違う。彼らは、どちらもさほど頭が良さそうに見えるわけではないのだが、人智を超えた知識を持っている。特に自然現象においては、それを司る存在でもあるだけに知らぬことなどないし、別段誇るようなことでもないと思っている。

 巳槌が降らせた雨上がりに虹が掛かった。久之は草履を濡らしながらしばらく口を開けたまま眺めて、やがて庵の中に仕舞っていた薪を外の棚に戻しに行った。円駆は最近急に蒸し暑くなってきた六月の、強い雨による涼気を味わうべく、浴衣の前を大きく開いて畳の上に寝そべったまま動かない。割合、自分の見た目に無頓着な円駆である。

 巳槌が応龍として起動して以来、この山と里には頻繁に強い雨が降るようになった。応龍の強大な力を持て余す巳槌はその性欲同様、時折それを解放しないではいられない。温かくなって増えた豪雨に、人間たちはおいそれと「異常気象」という言葉を使ったが、人間好きの巳槌としては地盤が緩まぬ程度の雨を時間を区切って降らせているだけで、洗濯物の迷惑にならぬよう時機も計ってやっている。安心しろと、人間たちにわざわざ言いに行くようなことを巳槌はしないけれど、心配を掛けているならば此方としてもそれなりの対応はしたいと彼は思う。

 だから虹を描いている。

 久之は知らなかった。巳槌は霧を纏い雨を降らせ雷を打ち鳴らす、およそ空を掻き曇らせることに関して出来ないことはないと知ってはいたが、虹をかける術まで持っているとは、人間の想像の埒外である。

 古くより、「虹」が生物であるという考え方があったようだ。

 応龍態の巳槌はその髪や膚の色同様に純白の鱗を纏っている。しかし彼の白く濡れた鱗は光を分解し、雨上がりの陽光の色を刻むのだ。五つにも七つにも色を割って湿気た空気の中に散りばめて、巳槌は長大な身体そのものを虹とする。やがて彼は口元から霧を吐き出し、幻のように雲の中へ消えてしまうが。

 一部始終はよく観察していたって判別が難しいほど、些細な出来事だ。ただ人間たちはその虹を目にして、少しは巳槌の趣味を咎める気も失せるだろう。そんなことを、久之は考えた。

 程なくしてずぶ濡れの身体の巳槌が山の上から降りてきた。彼が応龍になるときには、多くの場合高く聳える杉の木を伝って天への階を登っていく。もちろんこの小屋からだって龍に変ずることは出来るのだが、一度それをやって危うく小さな菜園を水没させかけたことがあって以来、一番身近な人間に迷惑を掛けるわけにはいかないと離れたところで変身するようになったのである。

「おかえり」

 ただいま、と言うより先に、巳槌は大きなくしゃみをした。浴衣は庵に置いて行って、今は六尺一つ身に纏っているのみだ。久之は慌てて彼の髪や肩を拭った。人間の姿をしているときには、尋常ならざる銀の髪を除けば小さな子供のように見えて、だとすればびしょびしょに濡れたまま裸で居ていいはずがない。

 ただ巳槌は、

「ただいま」

「ちょっとっ……」

 濡れた身体のまま久之にぎゅうと抱きついた。冷え切った体はそもそもが変温動物であるから問題視する必要もないと判ってはいても、ひとたびその冷たさを感じてしまえば、久之は着物の濡れることも厭わずに抱き締めて体温を分け与えてやるしかない。人間が神を温めるなど、それ自体とても傲慢なように思えて憚られたが、久之は巳槌や円駆を崇拝している訳ではなくただ好きなだけだ。元々体温の極端に低い子供である巳槌は「お前は温かいな」と目を閉じ、気持ち良さそうに呟いた。着物など、干せば乾くものなのだ。……いいか、と久之は思う。

「……お前も、陽に……、焼けたね、巳槌」

 秋から春までは余すところなく純白の膚で居た巳槌は、まだ夏には少し間があるというのに既に浅く焦がれていた。白いさらしで作った六尺は、その焼けた膚によく似合うようだった。これは前の季節にも久之が思っていたことだ。久之にとって最も寿ぐべきは、その焼けた膚がひりついて痛いということが巳槌にはないらしいという点で、もし痛がっているのなら、こんな風に抱き着いてきたりもしないだろうと思う。

「……お前は僕に抱き着かれるのが嬉しいか?」

 思いを読み取って、巳槌は訊いた。久之は少し戸惑って、「……うん」と、それでも素直に答える。巳槌と円駆、心を読む術を持つ二人の神なる身の前で嘘は何の意味も持たない。

「そうか。僕もお前に抱き着くのは嬉しいぞ。お前は僕が抱き着けば、いつも必ず抱き締めてくれるからな」

 存在そのものの大きさで言えば、逆の方が円滑なくらいで、久之は応龍や麒麟の前における人間と言うものの存在のあまりに小さくはかないことを知っている。それで居て、こうして巳槌が喜んでくれるのだという事実は久之にとって限りなく重い。胸の中が未熟な李の汁の中に浸かったように酸っぱく熱くなる。つい、細い身体を抱き締める腕に力が篭もる。もちろん彼はそれが淫らな龍にとって起動の合図になることを、知らないわけではない。しかしいまこの瞬間には忘れていて、巳槌が唇に笑みを湛える段になってようやく思い出すのである。

「温かくなってきたぞ」

 巳槌は久之の肩に額を当てて言った。

「そう、……なら、よかった」

「もっとも、少々寒かろうが僕が風邪をひくなどということは全く有り得ない話なのだが。僕らの身体はお前の何十倍も丈夫に出来て居るのだからな」

 まだ湿っぽい銀の髪を撫ぜながら、久之は言う。「仮に……」いつものように不器用に、「俺の、……お前が俺の、何百倍も丈夫だったとしたって」言葉はつっかえる、時折、はぐれる。「それが……、俺の、お前を、……温めない理由には、多分、ならないだろうと思う」

 久之の言葉が、そして社会性が不器用で在ることを、巳槌にしろ円駆にしろ少しも問題とは思っていない。彼らの場合は人間の心を精確に読み取ることが出来るが、仮にその技能がなかったとしても構わないつもりでいた。久之は確かに喋るのは得意ではないが、それは優しすぎる心根によるものだから、余計なことを言うよりも却っていいくらいだ。常に毒を吐きあって喧嘩ばかりしている僕と円駆よりも余ッ程ましだと巳槌は思っている。

 そして、不器用だからこそ愛しい。彼が精一杯紡いだ言葉は、きっと他の誰が口にするよりももっと、純粋な気持ちが詰まっているはずだと巳槌は思うのだ。僕はこの男が本当に愛しい、困ってしまうくらいに愛しい。傍目には逆の方が相応しいと思われるかも知れなくても僕は思う、僕は、この男が心底可愛い。

 顔を上げた巳槌を見て、久之の腰が一瞬、逃げた。神なる身の少年の微笑には、それだけの威力が伴うのだった。

「……どうして」

 どうしても、なにも。巳槌は温まった身体で居るわりに冷んやりと冷たい掌を久之の頬に当てて、「お前が温かかったからだ」と当然のように答える。久之がしばらく言葉の尻尾を掴み損ねている間、巳槌はいつも我慢強く待つ。

「そんなことを、言ったら……、俺は、お前を温めてやることだって、出来なくなる……」

「ならば僕は命じるよ。いつでも僕の身体が冷えないようにお前が温め続けるようにと」

「でも、そんなこと、言われたら、……俺たちには眠る時間だってなくなってしまうじゃないか……」

 まさか巳槌の発言の何もかもが本気であろうとは久之だって思わない。ただ、巳槌は何を言うときも本気のような顔をしていたし、軽く指で弾いた程度の冗談でさえも本当に変えてしまうぐらいの力を持っていた。

 もちろん久之を困惑させることは巳槌の本意ではない。能う限り困らせることなくその心和やかなままに居させてやりたいと思っている。「冗談」を冗談のまま蛇の身の中に冷蔵しておくことだって可能なつもりで居る。

 しかし、困ったものだ。久之はその身体が其処にあり、困惑しながらもしっかりと抱き締めて離さない。

 結局全て「本当」になってしまう。

「では、どうするか。……うるさいのが起きると、うるさいな」

 言葉の用法として間違っているし「うるさいの」などという言い方は、そう形容された本人は大いに心外であろうが、久之も気持ち良さそうに寝息を立てている円駆の眠りを妨げたいとは思わない。……どうしよう、と検討を始めてしまった段階で、もう久之は巳槌の願いを叶えるつもりで居るのだ。

「……そうだな、僕は風呂に入りたい」

「……風呂……?」

「この通り、濡れてしまった後だし、褌もびしょ濡れだ。昼寝から起きたときに風呂が沸いているのを見れば、あのうるさいのもうるさいことを言うことはないだろうと思うが」

 ううん、と円駆が寝返りを打った。「寝ているときは静かでいいな」などと、巳槌はそういうことを平気で言ってまた久之を困らせる。

「……判った、沸かすよ」

「うん、そうしろ。鍋の中には僕の降らせた雨が溜まっているはずだろう、それをそのまま使えばいい」

「でも……、そんなすぐには、沸かないよ。時間はかかる」

「構わない。お前と僕が満足するまでにかかる時間とどちらが長いかな」

 巳槌は久之の腕の中からするりと抜け出て、猫の額ほどの庭に草履で下りて振り返る。少し焦げた顔に、悪戯っぽい微笑を浮かべている。久之は困りきったような顔をして少年の立ち姿を見ていた。同じ命ではないということをどれほど理解していたって、真ッ当な人間の感覚として見る限り、巳槌は美しすぎた。僅かに波を孕んだ銀の髪、薄い眉ながら眼元はとても凛々しく、睫毛は長い。清澄なる泉に宿る命であり、存在そのものが清純なはずが、愛されることに貪欲なあまり極端なほど淫靡な姿をしている。

 神なる身に性欲を抱く俺はとても汚らわしいか。

 僕だってそんなにご大層な命ではないよと、巳槌は言う。人間であるお前以上の性欲を持て余して生きている。お前に触れられたくて舐められたくて、いっそ襲われるぐらいのやり方で抱かれたってまだ足りない。抱き壊されてやっと少し満足できるくらいだ。

 優しいお前にそんなことを強いるのが残酷と知っているから、僕は僕らに用意された無限の時間、可能な限り愛し合って過ごしたいと思って居るんだ。

 巳槌の言ったとおり、風呂代わりの大鍋には澄んだ水が満々と湛えられていた。はかったように丁度いい水量である。はかったに違いなかった。天候を司る応龍には大鍋に一杯の量の水を其処に注ぐくらいのことは、何も難しくはないのだろう。雨水から避難させていたとはいえ、緩んだ泥の上に並べた薪にはなかなか火が点かなかった。こういうとき、円駆ならば右手を閃かせるだけで着火して見せるのだが、いまは抜け駆けをしているのだから仕方がない。巳槌は一緒に鍋の下を覗き込んでいたが、もちろん彼に出来ることは何もない。

 久之がようやく点火に成功した。着火に失敗した燐寸も鍋の下に放って、火が安定感を持って揺らめくのを確かめてから立ち上がった久之に、巳槌が抱き着く。久之は立ったまま楽に少年を抱き留めた。ひょろりと細長い久之だが、巳槌のことくらいは平気に抱き留めることが出来る。見た目以上に内側に骨肉のしっかりと入った身体が、巳槌は嬉しかった。この男が此処へ来たばかりの頃、初めて出会ったときには、死ぬ準備ならいつでも出来ているしそのために覚悟など必要ないと言うような、不健康な顔をしていた。いまは山の生命力をそのまま身に宿したように、膚艶もいい。

「久之、僕のこと、好きか?」

 背伸びをして、巳槌は訊いた。久之は純情に頬を赤らめながらも、目を逸らすことはしなかった。「好きだよ」と、僅かに掠れた声できちんと答える。

「どれくらい好きなのだろう」

 謎をかけるような目で、巳槌は重ねて問う。その僅かに青味がかったような瞳は、彼の元々棲んでいた泉のように深く透き通っていて、掻き分けて色を探していけば、最終的には血の赤に辿り着くのだ。

「どれくらい……」

「僕は、そうだな……。お前のことを考えているだけで胸が苦しくなって自分の性欲を吐き出さないでは居られなくなる。だからそうするべきではないときには、出来るだけお前のことを考えないで済ませられるようにしている。しかし、それはとても寂しくて難しいことだ。結論から言えばそれが上手く行ったことはこれまでただの一度もない。それでも最近の僕はようやくその寂しさを幸せなものだと思えるようになった。お前と出会わなければ抱くことのない感情だったろうからな。つまり」

 巳槌はにこりと微笑む。毒のない、何処までも透き通って無垢な、姿の意図するところよりももっと幼く見える笑顔だ。「寂しさを含んで、それでも僕の帰る家にはお前が居ると信じられるからこそ乗り越えられる苦しさを伴うくらいに、お前が好きだよ」

 平時は笑わない。見る者に表情筋の機能が全くないのではないかと思わせるくらいに無表情でいる少年が、真ッ直ぐに見上げて見せる微笑は、当人が思っているよりも遥かに強大な威力を持つ。本当に俺に向けられている微笑なのかと、久之が疑いたくなるほどにその微笑みは美しいのだ。

「そして僕は祈る」

 巳槌は久之の言葉を待つ間に、自ら声を重ねた。

「お前の、永劫の幸せを。僕と一緒に居る以上、お前には絶対に幸せになってもらわなければならない。いや、僕がお前を、不必要なくらいに幸せにしてやらなくてはならない。突き詰めて考えたとき、……出来ることは色々在るかもしれないが、結局のところ、それは祈ること、……それぎり、僕は何も思いつかない。僕の、お前を幸せにしたいと思ってすることが、何かの間違いでお前の迷惑になることがないように、……僕の願うとおりに、お前が幸せになれるようにと」

「お前は……」

 久之は、やっと言葉を発した。

「俺の、心が、読めるんだろ。……だったら、何で、そんな風に、……そんな風に、臆病に、考えるんだ?」

「読めてしまうからさ」

 少年はしっかりと恋人に抱き着く。その身体に纏った、匂いが、体温が、奥底から響く鼓動も含めて、拾い上げて感じていくたびに胸が震える。「読めてしまうから、……余計に恐れる。気付けないくらい鈍感な方が、きっと楽なのだろうな。それでも僕はお前の心を読めるようになったことを後悔しては居ないぞ。苦しさも寂しさも含めてお前から受け取る大切な贈り物だと思っている」

 久之は今一度――これまで幾度となく繰り返してきた――問いを自分に掛ける。……どうして俺はこんなに幸せなのだ。こんなに幸せで居て良いような人間ではないはずなのに。誰からも軽んじられて、誰からも疎まれて、ただ一人で生きていくことを予め宿命付けられていたような俺なのに。

 心を読む巳槌は何も言わなかった。

 お前でなくても良かったのかも知れない。時機が重なっただけだったのかもしれない。もしそうだったとして、……誰が困る? 少なくとも僕とお前が困らなければそれでいいだろう。そしてお前がそういう風な男だからこそ、僕らだけではなく円駆まで幸せになれたのだ。お前を幸せにしてやりたいと、円駆だって思うのだ。

 久之自身に其処までの価値を与え、結果的に幸福の正三角形を作り出すに至った原因が自分に在る事を棚に上げて巳槌はそう思い決める。

「さあ、そろそろ答えを貰おうか」

 巳槌の掌が、久之の着物の前に当てられた。「ちょっと」誰かに触れられることに、この男は相変わらず慣れない。ぴくりと身を強張らせて、妖しく微笑む巳槌に困惑する。

「こういう類の、……性的な快楽を求めることを愚か者は悪く言うかもしれないな。しかしこれだって本当にお前を愛しているから欲するのだ。お前は、どうだ? 僕を欲しいとは思ってくれないのか?」

 巳槌は少しずるい。

 元が蛇であるから、狡猾であることは当然かもしれない。

「……俺、は……」

 着物と下着、二枚の布の上から、巳槌は優しい手付きで久之を撫ぜていた。安易に反応しないようにと努めることさえ虚しくなるような景色だ。巳槌は幼い双眸を淫らな色に潤わせて見上げている。その上、この心を全て覗き切っている上で訊いているのだ。

 久之は無力だった。

「……俺、も、お前のことが、好きだし、……それは、……やっぱり、それは、男だから、……お前の、ことを、欲しく、思う」

「僕も男だぞ?」

「……そう、かもしれない、……そう、だけど。でも、お前が欲しがってくれるって、いうことは、すごく、やっぱり、嬉しいし、……お前が男だから、……俺が、男だから、みたいな、理屈を抜きにして、……正直に、……正直に言って、俺は、お前が欲しい」

「僕が欲しいか。……僕にどんなことをしたい? 僕にどんなことをされたい? そういえばいつも僕の思うままにしてしまうし、円駆のときにはお前も随分繊細に気を使っているようだからな。たまにはお前の思うように僕で遊べばいい。……たまにはでなくて、いつも好きにしてくれて構わないと思っているんだぞ」

「ええ……」

 久之の唇から心底から困惑したような声が出た。

 もちろん、巳槌を好きにして良いと言われて、彼が脳裏に浮かべる行為はいくつか存在する。しかし、其れを口に出せるような男なら、そもそも人間同士の関係が上手く行かないという悩みを抱えることもなかっただろう。社会において一定以上円滑に事を成そうとするのなら、ある種の傲慢さ、自己主張というものも要請される。相手を尊重した上でなければ単なる自己中心主義に堕するが、声を大にして我事を発しても問題のない状況も少なくない。

「そうか」

 巳槌は久之の着物の帯を解いた。

「咥えられたいか」

「ちょっと、……ちょっと、待って、そんなこと、俺は」

「言わない分、僕が読み取ってやっただけのことだ。ついでに教えてやると、僕はお前を咥えるのが好きだ。直接的にお前が快くなってくれたと判って、僕まで幸せになれるからな」

 巳槌が言うとおり、確かにそう思いはした。そんな程度の事だって、久之には罪の意識無しでは思えない。そもそも巳槌と円駆以外の誰とも膚を重ねたことのない久之であり、元々そういう方面の知識もあまり持ち合わせては居ない。したいと思うことなど、高が知れていた。

 どうして其処まで淫らで居られるのか。巳槌は膝を付いて久之が止める間もなく彼の下着から性器を取り出すと、「なんだ、まだ大人しいじゃないか」と右手で掴んで見上げる。美しい顔で、細い指先で、そういうことをする。

「待って」

 久之は慌てて止めた。下半身を任せた上で今更止めて、その後の自分の格好のみっともなさまで意識している余裕もなかった。

「何だ」

 もう口を開けていた巳槌が、訝るように見上げる。久之は着物の前を掻き合わせて巳槌と視線を合わせる。その、瑞々しい頬に触れて、口付けをした。一瞬、巳槌は驚いたように目を丸くする。ただ、久之にしては積極的な行動に出たことは、もちろん少年を喜ばせた。舌を出せば、きちんとそれに応ずる。優しくて、まだどこかぎこちなく臆病な舌からは、それでも巳槌の好きな味がする。……お前にとっても美味いか? もしそうならば僕は嬉しい。そうであることを心より僕は祈る。

 久之の意図するところを巳槌は判っていた。自分の性器を咥え舐めた口とこうして唇を重ねるというのは、仮令相手が愛しくとも胸の捩れる行為ではあろう。

 繋がって、夢中になって、ついついしてしまわないように気を付けよう。

「……久之? もういいのか?」

 唇を舐めて、巳槌は訊いた。「気持ちいいぞ、すごく」

「……う、ん……」

 強請っていると思ったのだろうか、久之は再び唇を重ねた。舌の絡む音に、久之が耳の下を紅くしていることを巳槌はもちろん把握している。決して上手ではないのだと思う、……久之以外では円駆としたことがあるくらいの巳槌だが、勝手でいてそれほど外れては居ないであろう想像をする。それでも同じように巳槌の耳も熱くなるのだ。

 どうだろう、と思ったから。

「うあ」

 巳槌の指が知らぬ間に着物を掻き分けて性器に絡んだ。思わずそんな声を上げて、唇を離してしまった。

「お前の此処が嬉しそうで良かった」

 立て、と言われたままに、久之は従う。「もっと、……もっと喜ばせてやる。僕の舌で、……存分に幸せになるが良いよ。僕はなんだってしてあげる、お前の幸せを産み出すために、僕はお前の側にこの姿で居るんだ」

 そんな俺に都合の命があっていいのか。「いいんだ、僕は、お前のために生きたいと願う命なんだ」

 そういう表現を、男らしいと言うべきか久之は惑った。惑っているうちに、巳槌が勃ち上がった自分の性器を易々と口の中に収める。よく濡れて柔らかい巳槌の口中は、久之の亀頭から溶かしていくようだ。始めは先端を、やがて深々と奥まで咥え込んだ巳槌の双眸が久之を見上げる。喉を突いてしまいそうで、戸惑う久之と、それさえもいっそ望みどおりだと言って退けるつもりの巳槌の視線が交わったところで、言葉を必要としない感情が遣り取りされた瞬間が挟まれた。

「……み、づち」

「……ん?」

 久之が、次にどんな言葉を発するのか、口の中の性器の震えにばかり気を取られていて、巳槌は拾い損ねていた。

「……俺は……、あんまり、上手いこと、言えないけど。……でも」

「ん……?」

「……嬉しいよ。すごく、嬉しい。お前が、そんな風に、……こんな風な、ことを、してくれる、……俺を、思って、してくれるっていう、ことが、すごく、嬉しい」

 巳槌の浮かべる笑顔と同じだということを、久之は判っていない。

 言葉を紡ぐのが下手な男が発する言葉は、巳槌の小さな耳に、言った当人が意識する以上の力を伴って差し込まれるのだ。

 巳槌が一度、口を離した。俯いて、少しの間、何かを考えているように見える。もちろん久之には巳槌の心など覗けないから、少年がどういうことを考えているのか、全く想像も付かなかったが。

「お」

 巳槌は顔を上げると、何も言わずに愛撫を再開した。久之の掌が銀の髪を潜る。雨上がりの、湿度は高いがどこか冷んやりとした空気の中で、巳槌の口の中はとても温かい。少し熱すぎるくらいだ。熱でもあるのではないかと心配になる。巳槌が無尽蔵に零れだしそうな自らの言葉を封じるために久之の性器で口を塞ぐのだということに、久之は思い至らない。

 普段ならば、陰茎の裏側や陰嚢まで舌で悪戯をするように辿って、合間合間に淫らな言葉を吐いてみせるはずの巳槌が、咥え込んだまま決して離そうとはしないことからも、何かに気付いたっていいようなものだ。それでも久之は――この幸福で鈍感なる男は――土を捏ね壷や皿を焼くくらいしか能がないと思っているその指で巳槌の髪を撫ぜることで、少年に無上の喜びを与えるのだ。

 言葉が挟まらない分だけ単調になってもおかしくない愛撫だが、巳槌は滅私的に久之に施した。息継ぎをいつしているのか、久之が心配するから、これ見よがしに「すう」と息を吸うためだけに一度口を外して、再び頬張る。少年の長い生を振り返ってみても、久之と円駆以外の性器を口にしたことはなかったし、やり方だって我流である。まず、歯を立てないようにしている以外は、心がけている事だって特にないくらいで。

 それでも巳槌自身は、自分が下手ではないと思っている。久之と円駆が自分の口で射精するからではない。これだけ一所懸命にして、何の甲斐もないはずがないではないか。

 比較の対象もない久之にしてみれば、巳槌はどんな高級な商売女だって敵わないほど巧みな口と舌を持っているのだった。小さな口に、遠慮深く在っても傲慢な輪郭に見える性器を咥えられて、……愛されているんだと、どんなに自信がなく謙虚を美徳とする久之をして、はっきりと思わしめるのだ。

 射精の合図はしなくても判るだろうか。髪に触れる指の強張りで、或いはこの心の震えで。

 巳槌が精液を飲み込む。そんなものを呑んではいけないと、……お前はだって、酒の方が好きだろう、甘い団子の方が好きだろう、いつか汁粉を拵えてあげる、お前には甘い物がきっと似合う、久之がそんなことを慌てて思ったところで、巳槌は口元を人差し指の背で拭い、見上げる。「久之」と、すぐに声が出せるような口の状況で居る。

 六尺一丁だけ身に纏った巳槌は立ち上がる。「美味しかった」と、何故だかまた無表情に戻って言う。

 それから、強請るように言った。

「僕も、……お前の口でして欲しくなった」

 これ以上その舌に余計なことを言われては、本当にどうにかなってしまう。……などと口にすれば、久之は今後数年口をきかなくなるだろう。

「射精したばかりで……、そういう気も起こらないかも知れないが、……もう、僕も、我慢出来ない」

 久之は息を整えながらしばらく巳槌を見下ろしていたが、やがてこくんと頷いて、膝を付いた。眼前の前袋の中で、巳槌の性器が苦しいくらいに勃起しているのがはっきりと判った。自分で褌を解いて、また締め直す術くらいきちんと持っているくせに、久之が其処に手をかけるまで動こうとはしなかった。久之は円駆のような、巳槌の失態を観察して愉しむという性癖は――少なくとも素面の時には――持っていないので、巳槌が動かなければ自分で外してやる。

 勃起した性器を晒すとき、巳槌はほんの少し、笑った。

「お前のを咥えるだけで、僕はこんな風になる」

 と、恥じる風もなく言う。

「……咥えれば、いいのか?」

「うん。僕も、お前の口で射精したい」

 震える性器は皮を被っているし、根元に毛も生えていない。巳槌にしろ円駆にしろ、背格好から推すにそろそろ其処にも成長の兆しが見られてもいい頃だが、ぎりぎりのところでまだ其処が幼い輪郭を止めているように久之には思えた。そしてその「ぎりぎり」は今後百年単位の時間に渡って続くのだろう。

「俺は、……多分、その……、お前みたいに、上手には、出来ないと思うけど……」

 巳槌の掌が幾度か久之の黒髪を撫ぜていた。「構わないさ。知っての通り、僕は我慢強いほうではない。……円駆も同じだ。愛しいお前に舐められているだけですぐに射精してしまうに決まっている」そしてその手で、自分の性器の皮を剥いて見せた。「……此処までしか剥けないな。お前のように大人びた形になるまで、一体どれだけ時間が掛かるのだろう……」

 巳槌は応龍態、円駆は麒麟態のときの姿は、人間である久之には既に成体で在るように見える。仮にあの凄まじい生き物が更に成長するとしたら、どんな姿になるのか久之には想像も付かない。

 ただ目の前に在るのは、外気に晒されることにだって慣れていない脆弱な粘膜に包まれた亀頭だ。ささやかな亀裂から腺液を滲ませて、淡い色に上気して震えている。久之がまだぼうっと見ているからか、巳槌は自らの指で其れを弄くって見せた。かすかな液音を立てることで、久之を煽る。

「判った、……精一杯、頑張ってみる」

「頑張らなくてもいい。お前はお前のまま僕に触れてくれるだけで、……それだけで、僕は幸せになれるのだからな」

 久之は、恐る恐る巳槌の性器を口に含んだ。例えば巳槌が大人の身体をしていたとして、此処が自分と似たような形状だったなら、咥えることにもう少し躊躇いがあるのかもしれない。いや、案外いまとさほど変わらない気持ちですることが出来るだろうか?

 結論は出ている。巳槌ならば愛しい。

「……ん……っ……」

 舌先で巳槌の陰茎がひくひくと震える。やはり、先端は弱いようだ。腺液の潮の味は当然として、それ以上に、雨に濡れた歯の匂いがする。強大な龍となって雨を降らせたばかりだから其れも当然かもしれない。性器は小さくて、歯を立てる懸念こそなかったが、加減に気を使う。久之自身嫌になるくらい慎重で臆病な愛撫、それでも巳槌を良くしてやることには成功していると、その息の、声の震えから信じることが僅かに出来るくらいだ。

「久之……、僕は……っ、きっと、贅沢なのだと思う」

 巳槌は言った。感じ切っていればいいと判りながらも、射精まで、そして息が整うまで待つことが巳槌には出来なかった。

「きっと、一回だけでは満足できない、……お前の、を、身体の、奥に貰えなきゃ、終われない、……終わりたくない」

 久之は咥えたまま、巳槌の顔を見上げた。泣きそうな目をしている。慌てて口を離して、

「それは……、きっと、贅沢じゃない……、と思う」

 必死になって言葉を紡ぐ。

「贅沢っていうのは……、きっと、要するに自己満足だろ……。でも、そうじゃなくって、……俺も、お前の……、中に挿れ、たい、と、思うし……、そう、だから……、贅沢じゃない」

 久之の言葉に、巳槌はしばらく開けた口から浅い呼吸を繰り返していた。それから両手を久之の頭に置いて、「もし、そうなら……」濡れた声で。

「……いや、お前が言うなら、きっとそれが一番正しい」

 いつでも何かを言った後、「余計なことを言ってしまったのではないか」と懸念するような久之である。そんな暇を与えないように「続き」と巳槌は強請った。

「一度出した後でも、お前がしてくれるって判ったから、僕も安心してお前の口を愉しむことができるよ」

 再び久之は巳槌の性器を口に収めた。僅かに口の中でとろりと粘る腺液が、また巳槌の性器の先端から湧き出た。味わうたびに自分の中で滲みそうになる罪深さをそれごと一度呑み下した。

「ひさ……ゆき……!」

 我慢強くないと自分で言った巳槌は、それでも随分我慢をしているように思えた。一度の射精を勿体無がる必要などない。久之は性行為に対して巳槌ほど積極的には考えられなかったが、それでも巳槌に望まれれば幾らだって抱いてしまうだろう。甘い思いをさせてやりたいと思うのだ。俺の側に居てくれるならば、せめてそれくらいは。

「んぅ……っ……」

 上顎を弾いて、巳槌が射精した。よかった、と思う。巳槌の震える膝を、尻を抱くことで支えてやりながら、……よかった、と心底から思う。俺の居ることで、少なくともこの身体は一つの結論に至るくらいに幸せになれるのだ。この身体の此処に在る事は、決して無駄ではない。

「……久之、呑んだのか……?」

「ん……」

 巳槌が、無表情に戻って屈み、その顔をじっと覗き込む。「僕のは、大して美味くないだろう。お前や円駆のと違って……」

「……判らない、俺は、お前と円駆のしか、知らないし……、こういう味なんだろ……? きっと……」

「でも……」

「多分……、俺の、その、……味だって、同じようなものなんだろうと思うし、……お前も円駆も、呑んでくれるし、……俺は、……その」

 ここで、一旦久之は躊躇いを覚えた。しかし、結局は言ってしまう。「呑んでもらえると、……なんだか、申し訳ない気がする、けど、嬉しいような気もする。……だから、その、お前が同じように思えたらいいなって……」

 巳槌はいましばらく無表情でその言葉を聴いていたが、やがて泣きそうな顔になってしっかりと久之に抱きついた。「お前は、……困った奴だ。不器用者のくせに、本当に困った奴だ。僕のことを此処まで困らせられるのは、何処を探したってお前以外に居ないぞ。本当に困った奴だ」

 久之を一番困らせるのが誰かと問えば、言うまでもなくそれは巳槌である。巳槌に比べれば円駆はとても控え目だったから。

 久之が気付いたときには、巳槌はもう笑っている。くすくすと笑いながら困って、悦んでいる。

「俺は、お前を困らせているのか」

 久之はある種の滑稽さを纏って声を不安で揺らす。「ぼくを困らせて良いのはお前だけだ」巳槌は久之の着物の前を、彼に止める間も与えず開く。

「もっともっと困らせてみろ、そして僕を存分に抱き壊すがいいよ」

「こ、壊す?」

「お前のために何度だって壊れて元通りになって見せるのが僕だ」

 優しくて臆病な久之にそんな真似が出来るはずはないと判っていながら、巳槌は意地悪く言う。お前の着物は汚しても構わないかと訊いたら、どうせ風呂上りには着替えるからいいと頷く。巳槌は久之の身体から着物を剥ぎ取り、まだ濡れた下土の上に敷いた。何か言い掛けた久之を先回りして、「僕の水で洗えば大抵の汚れは落ちる」と草履を脱ぎ捨てその上に膝を乗せた。六尺の日焼け跡がくっきりと付いた身体の中心部、足を広げて其処に久之の視線を導いて、指を舐めた。

「ずっと」

 巳槌は其処に指を這わせるとき、ほんの少しだけ震えた。

「お前に触って欲しくて、年中疼いているような場所だ。冬はお前に温めて欲しくて仕方がないし、これからの季節なら焦げるくらいでもまだ足りない」

 巳槌は端正な顔で、本気としか聞こえないようなことを言う。恐らく本気なのだろうとしか久之には思えない。

 柔らかく無害なものだけ触れていればいいような巳槌の細い指先が、その場所に呑まれる。細い指であっても一体どれ程の圧迫があるものか、久之は想像するだけで何だか申し訳ない気になるのが常だった。その上、指とは比べ物にならぬほど乱暴な物が納まる、収まるばかりではなく激しく往復するのだ。

 しかし始まりは指だ。入口を少し広げてから一度指を抜いて、舌から唾液を伝わせる。その唾液の透き通って妖しく光る様に、久之は自分そのものを持て余し始めていた。

「ん……」

 今度は、先程よりも少し奥へ。

 久之自身の肉体にとっては未知の領域である。入口だけならば一度だけ、巳槌に悪戯のように舐められたことがあるが、深い場所となると、一体何がどうなっているのか。もちろん久之が指で巳槌や円駆を開いてやった事は何度もあるが、どうしても痛そうで、辛そうで、二人がどんなに「平気だ」と言ったところで強がりにしか聞こえない。せめて、俺も二人のように小さな体で今も居たなら、この行為だってもっとスムーズだったろう。その点、巳槌が自分で開いて見せてくれるとき、彼の身に走っているのは快感だけのように見える。時折ぴくりと身を震わせて指を動かす、その目と目が合った。

「……もっと、楽しむがいいよ。僕の、淫らな姿を見て」

 お前は誰より側で見て居ていいのだから、と巳槌は言った。

 「淫乱」という言葉を久之は知っている。誰かの目に巳槌はそう評されたって仕方のないくらいの在りように映ることを否定しない。

 だが巳槌が性欲の対象とするのは、久之と円駆、ただ二人に過ぎない。それ以外の誰かがおいそれと彼の身体に触れたところで、「何か付いているか?」と無表情のまま首を傾げるだけだろう。仮に相手が性欲を持っていることに気付いたら、少し困ったように「悪いが、僕はお前とそういうことをする気はないし、お前には僕よりもいい相手が居る。そういう相手を早く見つけるがいいよ」と言うに決まっている。

 巳槌の笑顔を見るということは、即ちその性欲を受け容れ、真ッ向から相対するということと同義だ。

「……久之、お前の、指が欲しい」

 巳槌が自らの指を抜き去った場所は、丁度その指二本分だけ広がって暗闇を作り出している。巳槌自身の唾液で濡れているとはいえ、久之という優しい男が何の抵抗もなくそこに入れるはずもない。

 いや、どうだろう。久之自身は「自分」なるものを掴み損ねる。単に、そうしてみたかっただけ、巳槌がどういう反応を示すか見てみたかっただけ、かもしれない。巳槌に其処まで覗かれていたって仕方ないと、この男にしては珍しく開き直ったようにそんなことを考えた。

「ひ」

 巳槌は、尻を抱えられてそんな声を上げた。久之の眼には総身浅く焼けた巳槌の膚にあって、六尺の中ばかり白いその場所、特にその部分は絶対的に光の届く量が少なくて、無垢に思える。これほど頻繁に自分や円駆と繋がっていて尚、汚れない場所のように見える。色味はほとんどくすんでおらず、刺激に僅かに紅らんでいるのが少しだけ痛々しくも見えた。

「……どうして、そんな無理を、させるんだ、自分の身体に」

 久之は眉間に皺を寄せて、少年の身体の大きさである以上少年程度の耐久力しかないはずの其処に舌を伸ばした。開いたままの孔の入口は、久之の舌先が這入りこむと竦んだように僅かに入口を閉じかけたが、構わず久之は舌を伸ばす。

「や……ッ、久之、中っ……!」

 久之は巳槌と円駆に対してのみ、ほんの少しだけ強気になれる自分に気付く。絶対的な強さでは二人には到底敵わない。しかし自分の意志を通すためなら――巳槌と円駆の為を思ったときに限って――久之は強くなれるのだ。

 内心に在るのは、仮令二人が自分の何十倍も長生きをして今に至ると知っていても、男として、自分の恋人に対して抱くのが当然ともいえる責任感だ。巳槌が円駆がどんなに「大丈夫」と言ったとしても、この俺が其れを信じられなければ決して「大丈夫」などではない。いつでも二人のことを信じているが、時に疑ってみせることも恋人である以上きっと必要なのだ。

「ひ……ン、んっ……、そん、なっ、奥、まで、入れるな……ッ、汚い……!」

 久之は耳を貸さなかった。たっぷりの唾液を注ぎ込んでから舌を外した。巳槌が今更のように恥ずかしがって其処を閉じたとき、自分の唾液が其処に泡立って浮かぶ。窪んだ場所はほんの小さな水溜りで、これぐらい濡らしてやれば大丈夫だろうと、久之は其処に指を差し込んだ。少なくともいまの久之に臆病な物思いは必要ない。彼の目の前には、再び指を差し込まれるのを待つこともなく、巳槌の性器が細い腹に反り返って涎を垂らして震えているのが見える。どうも巳槌は俺より腺液の分泌量が多いらしいと久之は巳槌の顔と性器と肛門とを一緒くたに見下ろしながら思った。子供の形をしているからだろうか、それとも水を司る神だからだろうか。陰茎の先が下腹部に擦れ、其処に蜜の跡を記して居る。其処に久之の視線があると気付いたとき、普段ならば皮を捲って性質の悪い誘い文句の一つや二つ平気で吐いてみせるはずの巳槌は腕で顔を覆って、

「何でっ……」

 泣きそうな声を上げる。「……今日の、お前はッ……、いじわるだ……!」

「……ごめん」

 お前がそうしていいと言ったから。

「……違うッ」

「え?」

「……僕は……、僕は、お前が、いじわるなのを、責めているんじゃない……、決してないっ」

 巳槌は腕を退かして、涙に濡れた目で見上げる。子供の泣き顔なら痛々しい気がして然るべきもののはずだが、久之の内奥に浮かんだのはどういう訳か、強烈な食欲だった。

 巳槌はぎゅううと強く強く久之の指を締め上げた。

「したいようにしていいと言ったのは僕だ。だけど僕は、お前は多分、……また僕の身体を心配して、あまりしてくれないだろうと、思ったんだ。……だけど、お前はしてくれる。お前の思うように僕を、めちゃくちゃにしてくれる……、そしてお前が悦んでいる、……こんな嬉しいことが他に在るか」

 舌を出せ、と巳槌が言った。言われたとおりにすると、巳槌は右手の親指と人差し指で舌を摘んで、一度だけ親指を右から左へ滑らせる。

「口付けを、何度だってするんだ、……それなのにその前に汚いところを舐めたら駄目だろう……」

 舌を離されても、まだ巳槌の指の甘い潮の味が久之の舌には残っていた。

「もう、指はいい、……大いに満足した。お前も、早く僕に入れて、同じくらい、同じ以上、幸せになるがいいよ」

「こんな、……狭い場所に、いつもよく入るって……」

「でも、お前は知っているだろう……、僕の中がお前にとってどれ程幸せな場所か。そして僕にとってもお前の其れがどれ程幸せなものか。二人で仲良く幸せになれるんだ、……何の遠慮も要らない」

 言うなれば幸福の共同作業か。

 誰かには「無愛想」「冷たい」と評されるかもしれない巳槌の相貌も、久之の眼には堪らなく愛らしく見える。同じように巳槌も久之のさほど特徴的ではない顔も内向的で臆病な性格も「いとおしい」と思っている。

 二人がかり、あるいは円駆を加えて三人がかりで一つの要素を幾らにでも反転させて、其処に在る物が紛うことなき幸せであると信じ合う。信じ合えたなら其処から更に膨らましていく、育てていく。

 久之は押し込んだ性器に、指で感じていた以上の圧迫を覚えない。巳槌が器用に力を抜いて自分を受け容れやすいようにしてくれているのだ。それでいて、巳槌は何の無理もないと言うように久之の首に腕を回して声混じりの息を震わせている。

「巳槌……」

 その身体の奥まで辿り着いて、久之は動きを止めた。抱き締める腕と同じ優しい力で巳槌は久之を包み込んでいる。それはいっそとても甘いものだ。内部は久之の陰茎の温度よりも低く、少し冷んやりとしているように感じられた。巳槌の控え目な収縮が直接的に快感に繋がってしまう。腰を動かさず止めておくことが難儀に思えるほどの快感に、我を失いそうになる。

「気持ちいいか……? 久之」

 腕を緩め、久之の頬に手を当てて、巳槌が見上げる。

「うん……、気持ちいい……」

「そうか……、嬉しいぞ、僕も、すごく気持ちいい。お前のちんちんんが僕の中で、すごく、すごく、熱くって、火傷しそうだ」

「……お前は……、痛くないのか……? こんな、……その、太い、の、入って」

 くすりと巳槌が笑う。「確かにお前のは太いな、……僕の身体に入ると尚更そう感じられる。だけど、……不思議だな、指が這入っているときよりもずっと楽だ」

 巳槌は甘えるように久之の耳元に「動いて」と囁いた。

「僕を、壊すくらいに。大丈夫……、壊れたって、何度だって元通りになってみせるから、お前の側に、僕はこの形でずっと一緒にいるから……」

 もちろん、本当に壊されてしまっては元の通りに戻れる保証など巳槌自身にもなかった。それでもこれぐらい言わないと久之は遠慮してしまうし、本人が無我夢中になって腰を振ったところで、彼が優しさの全てを投げ捨てられるはずもない。

 多分、それぐらいで丁度いいのだ。

「努力は、する」

 久之は真摯に頷いて、一度しっかりと両腕で巳槌を抱き締めてしばらくそのまま身を止めた。自分の抱く身体はこんなに小さくてこんなに愛しいと自分の大人の身体に教えてからでないと、本当に勝手な動きをしてしまいそうに彼は思えた。

 乱暴さの欠片もない動きでも、巳槌は翻弄される。

「う、あ……っ、久之っ、すごい……!」

 しっかりと手を繋ぎ、身体の中心でも繋がっている。「離れはしない」と絶対的な意志表示、青臭いほどに互いに結び合う。

「ん……、すごい……、巳槌、の、中ッ……、気持ちい……」

 巳槌は久之の陰茎が内壁を引き摺って外へ捲り上げるほどに熱く擦るのに、これほど幸せで良いのかと慄く。久之の熱の暴走は、彼自身の性欲を発揮する方向ではなく全て巳槌への愛情行為へと振られるようだ。額に頬に唇に口付けをされ、そのたび巳槌は到達しそうになった。たまらずその身体に再びしがみ付き、強い意志を握り直す。

 ……久之と一緒がいい。

 久之と一緒にいきたい。

 そうでなければ、きっと嘘だ。

 強大な力を持つ神なる身で居ながら脆弱な少年の身体、その我慢強さだって身体の形相応のものしかないことは判っている。それでも巳槌は必死に堪えていた。声を殺し、今にも弾けそうな性欲を持て余して、それでも割らずに居た。

 苦しくないといえば嘘になる。早く射精したい、楽になりたい、そういう意識は確かに在る。

 それでも堪えることにきっと意義が在ると信じているうちに、巳槌はほとんど到達しながら、全身の震えるような快感に包まれる。

 すぐ其処にある悦びに、ほとんど触れかかって居ながら、其れを独り占めするのではなくて一緒に貪れる瞬間のために、恋人を待っている。一緒でなければ、きっと嘘だ。

「……巳槌っ……」

 久之は巳槌の仮説に最高の答えを与えた。唇に唇が重ねられ、舌が絡んだ。久之の熱い舌に絡め取られた瞬間に、巳槌は望んだ瞬間を迎える。

 胎内で、久之が弾ける。広げきられていた後孔がいま一度、強く押し広げられた。陰茎の根元から繋がる腺が激しく擦られ、巳槌は最後の糸を握る手を緩めた。

 意識が飛びそうになる。いや、事実として、一秒か二秒気を失ったかもしれない。

「ひさ、ゆき……、久之、……」

 久之は蕩けた目で自分の名を呼ぶ巳槌を抱き締めて、もう一度口付けをした。

「愛してる」

 という言葉は、無意識に零れた。巳槌が嬉しそうに微笑んで、

「うん、……愛してる。僕はお前を愛してる」

 幾百年生きた神なる身でもまだその感情の差す眞の意味には辿り着けないで居る。

 しかし、どうやら久之はとうに辿り着いているようだ。

 

 

 

 

 せっかく久之の出してくれたものを、どうしても止め置くことの出来ない身体で居ることを巳槌は恨めしく思う。抜き去られた直後に限って少しの我慢は効くものの、立ち上がるとすぐに漏れ出して来てしまう。

「……女に生まれてきた方が良かったのかもしれないな。こういう仕方を、僕はお前に会うまで思いつきもしなかった」

「それが自然だろう……。俺だって、自分の、その、そういうことの相手が、男だと思ったことは一度もないよ」

「女ならお前も楽だろうな」

 久之は首を振った。「お前は、お前のままで、居てくれれば、俺はそれでいい」

 こういう男と一緒に過ごすなら、この身体の形も悪くないか。どうせ漏らしてしまうものなら、何度だって繰り返し注ぎ込んでもらえばいいだけの話だ。濁った液体を胎内から排出した巳槌の其処を芥紙で拭って、「痛くないか?」と訊く。巳槌は頷いて、「風呂に入ろう。……あのけだものはまだ眠りこけているのか」小屋のほうを見遣った。

「また……、お前は、そう、いう、悪いことを言う……」

「ふん」

 けだものはけだものだ、と巳槌は平然としている。もちろん今は無表情だから、そういう類の言葉はとりわけ悪く聞こえる。全裸に草履だけ引っ掛けた格好で、小屋を覗いたところで、久之を手招きする。久之も、着物を巳槌の背中に敷いてしまった後だから、身に着けているのは下着一枚である。

「なんだよ……」

 巳槌の指先を視線で追いかける。いぎたなく、と言ってやって差し支えないのかもしれない。円駆は足を大きく広げ、二人の立つ戸口から奥に当たる右膝を立て、浴衣はもちろん大いに肌蹴て胸を晒し、口はどうして声を出していないのか不可解なほどぱかっと開いて、涎を垂らしている。

「……寝ているのに、あそこだけは起きているな」

 巳槌の指摘の通り、円駆の六尺の前は膨らんでいる。巳槌よりも少しだけ大きい其れが宿主の熟睡に反して勃起している理由は、同じ男であり自らにも起こりうる現象でありながら巳槌にも久之にも判然としない。

「きっといやらしい夢でも見ているのだろう。仲間はずれにしてやってよかった」

 巳槌はそんなことを言って、草履を脱いで小屋に上がる。まるで気付かない円駆の傍らに胡坐をかき、しばらく観察していた。円駆は麒麟であり、警戒心も強いはずであるが、人間態の今は油断しきっているのだろう。この子が心を緩め切って眠れる環境を作ったのは久之である。

「寝かせといてあげなよ……、風呂は、後で沸かしなおせばいいんだ」

 巳槌は耳を貸さない。無表情でじっと円駆の股間を眺めていたが、久之の止める間もなく其処に顔を近付けて、布越しに咥え込んだ。

「ん、……んん」

 円駆の眉間に皺が寄る。だが、眠りは余ッ程深いのだろう。目を覚ます気配はない。巳槌はちらりと上目遣いに円駆を伺ったが、再び寝息を立て始めた気配に、行為を再開する。唾液でじっとりと前袋を濡らし、布越しに舌を巡らせる。久之は黙って其れを、見ないようにしていた。何だか見ていると、見ているだけで終わらないような気がして、戸口に腰掛けて空を見上げていた。もう巳槌が降らせた雨の名残も無く、寧ろ穢れを洗い流したように透明な空が宇宙まで繋がっているように見える。

 久之は巳槌の背に乗って雲より高いところへ運ばれた事がある。其処は此処から見えるよりももう少し濃い蒼で、眼下には滑らかな質感の雲が広がっていて、しかし其処のあちこちは稲光を帯びて震えていた。腕を頬を刺す強烈な陽射を感じて居ながらも、思わず身が強張るほどに寒い。巳槌が其の身に張る結界が在りながらそれだけ寒いのだから、生身ならば間違いなく死んでいるだろう。酸素も極端に薄く、気圧も地表とはまるで違う。そんな場所を、……険しく、美しい光景を、この両眼で見ることは、恐らく人間には許されない悦びだろうと久之は想像する。そして巳槌や円駆のように人間離れして美しい少年に愛されることもまた、許されざることだ。

 俺はもう既に「人間」の範疇を超えているのかもしれない。

 久之はぼんやりとそんなことを考えた。

 気付けば傍らに巳槌が立っている。「済んだぞ。風呂に入ろう」その陰茎は少しく膨らんでいるようだが、まだ自分で制御出来るようだ。久之とした直後でなければ判らない、そのまま円駆に襲い掛かっていたかもしれない。

 ちら、と久之が振り返ると、薄ら紅い頬をした円駆はひくひく震えながら、まだ眠りから醒めない様子だ。前袋の外側は巳槌の唾液で濡れていたが、内側はもっと熱いもので濡れているに違いない。

「……褌を洗うのは、俺なんだよ、巳槌」

「あいつが出したものなんだから、あいつに洗わればいい。……全くもってはしたないけだものだな、射精してもまだ起きないのだから」

 大体、どうしてそんな悪戯をするんだ、と溜め息を吐きながら下着を脱いだ久之に、

「決まっているだろう、あいつをからかうためだ」

 久之には、巳槌と円駆の間に横たわるものはまだ理解しきれない。湯の中に二人で浸かって、ゆっくりと手足を伸ばしたところで、小屋の方から「あー!」という声が聴こえて来た。巳槌は目を閉じて、気持ち良さそうに久之に頭を任せている。


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