GOING DOWN TO THE SMALL WORLD

 深山暮らしの雪解けを待てずに里に降りる。発動機で駆動する農業用単軌索道の動きは普段以上に鈍いようだった。温そうに見えた木漏れ陽は硝子に閉じ込められたような空間に差し込んで、「ほら御覧、お前たちはまだ冬に閉じ込められて居るんだ」と意地悪く告げて、油断させた人間たちの表情を強張らせるのである。

 だが単軌索道が普段以上にぜいぜいと息を切らせ全身を軋ませ山肌を下っていくのは、今朝に限っては、陽が差し込んでも未だ山を氷点の支配下に治めた冷気によるものばかりではなかったろう。久之一人ではない。巳槌と円駆、この山から連なりこの山を司る、神なる身の二人が小箱に同乗しているからだ。一番身体の大きい久之の膝の間に巳槌が座り、円駆は縁に跨って、尻の下で今にも息絶えそうな音を立てる軌道にやや緊張している。脱線したなら、巳槌と円駆はどうとでも出来ようが、人間の久之は少々の怪我では済まないに決まっていた。当然、二人の神なる身は身を呈して久之を護るつもりもあったからこそ小箱に同乗するのだ。しかしそんな凛々しさを発揮するぐらいなら、どちらかが箱から降りて本来の、麒麟と応龍の姿となって下山すればいいのである。

 ただ、動きの鈍かった小箱は麓の端に着くときに、いつものように久之を投げ捨てることはしなかった。普段は最後の急坂で制動が効かなくなって、久之はどれほど身構えても小箱から放り出されて着物を枯れ葉と泥に汚す。座布団で包んだ売り物の壷が無傷なのは不幸中の幸いであるが、壷が割れる前に久之の身体のどこかしらが壊れてしまうかもしれない。

 自作の壷や皿を売りに里へ降りるのは、凡そ月に一度のことである。三人の住まう小屋の外、便所から見下ろしたときには、掌で包んでしまえそうに見える寒村ではあるが、あくまで「一応」の体を成すために郵便局消防署といった施設があり、それらは身を寄せ合うように固まっている。夜に里を見下せば、唯一その辺りばかり、夕餉を囲む光がちらちら舞う。山祭を催す廃校跡もその辺りだ。心細いような建物群のひとつに土産物屋があり、久之は壷や皿をその店の一隅で売って、それを唯一の現金入手手段としている。

 もっとも、いつ人ひとり居なくなって地図から消えても不思議のない斯様な村に観光客などほとんど訪れはしない。久之の焼き物を消費するのは多くは村人たちである。

 しかし、久之自身も出来が良いとは思っていない壷や皿を土産物屋の片隅に、久之自身と同じく遠慮がちに並べて置くだけで、久之は自分と二人の少年を食わせるぐらいの収入を得ることが出来るようになった。どこぞの誰かが壷を遥か遠く、東京からやって来た目利きに見せたところ、無茶な値段で買い取って帰ったという嘘か真かも知れぬ噂が流れた。久之は巳槌を疑ったが、

「わざわざそんなことをせずとも、僕は腹が減ったらそこらの木の芽でも齧っていればいいんだぞ? お前の壷が売れなかろうが別に困らない」

 と心外そうに言った。

 現金収入が増えたところで、久之が買うものといえば米と酒と燐寸と、あとは少しの本。野菜はささやかながら庭の農園で育てる。動物性蛋白質は時折巳槌と円駆が魚を獲って来てくれる。残る金は生活に不要なものであり、溜めておく意味もない一方で使い道も無い。かといってあまり多く持っているのも物騒だ、「こんな山奥まで盗みになんか来るもんかよ」と円駆は言ったが、無駄なものを手元に置いておくのも窮屈な気がする。人付き合いが極端に苦手でこれまでの人生、人間関係の構築というものを全く怠ってきた久之だから、知り合いに渡す当てもなく、畳と床板の間に挟んでいくばかりだ。いつか腐ってなくなる。

 ただ、今回の下山には幾許かの金を懐に忍ばせている。普段は小屋で留守番をしている、少年の姿をした二人の神が同行していることも、その金と関係があった。

 巳槌と円駆は久之が元々は自分の着物を作るために買い入れた生地で作った浴衣を着て生活している。これは言うまでもなく薄手の夏物であるから、この季節に至っては其れを着て平気で居られるのは正しく彼らが神なる身であることの証左である。もちろん巳槌も円駆も「寒い」という感覚は正常に働くが、それを耐えてしまえるだけの強さを持っている。久之は幾度も「着物を作りに行こう」と誘ったが、二人揃って「要らん」と言うので結局一冬浴衣だけで越してしまった。寒さが厳しくなればそれぞれにやり過ごす術を持っているのである。変温動物である巳槌は蛇のときには塒にしていた泉――当然冬には氷が張る――の中で半覚醒の状態のまま漂っていたし、今ならば風呂と布団でしのぐ。円駆は元が焔を纏った麒麟であるから、その姿へと変じれば寒さなどまるで感じないのだ。

 二人にそう言い張られれば、気の弱い久之にそれ以上言葉を重ねて強いることが出来るはずもなかった。

 ただ、二人が浴衣のままで居たがった理由が、

「だって、これはお前が僕のために作ったものだろう」

 と巳槌が口にした通りの理由でしかなかったことを知るに至っては、久之はもう耐えられなくなった。

「それなら……、また、生地を買って来て、それで、俺が、ちゃんと、お前たちのために着物を……、作ったなら、それは着てくれるのか」

「……そんな労力をお前に払わせんのが嫌だ」

 洗うたびに裸になって、其れすらも耐える円駆は鼻を啜ったのを見て、久之は勇を鼓して言った。

「俺が……、お前たちの、そんな格好を見てるのが、寒い」

 神なる身の二人は何れも少年の姿をしている。またその少年の裸身というものは、手足の細く無駄な肉の付いていないものであって、浴衣の裾から平気でそういう手足を投げ出し、降り積もった雪に草履の裸足を嬲られているのを見ることは、久之にとっては大いなる困惑を呼び込む。

 二人にしたって、久之を困惑させることは当然本意ではないので。

 かくして三人は、揃って里に降り立ったのである。暦の上ではもう春であるが、空気そのものは一月前とも何ら変わらず、それでも里の田畑は春を待ち構えている。人間の影は見えないが、徐々に足音が聴こえてくるような、少なくともそんな兆しは見えるように思える。

「帰りは、俺の背中に乗せてやる」

 小箱から降りて道に下りた円駆が、尻を擦りながらそう言った。巳槌も心細い単軌索道を見上げて、「その方が賢明だな。いくら僕らが軽いとはいえ、三人乗りはやはり無理がある」と珍しく円駆に同意した。

 もっとも、

「お前の背中は暑苦しいが、まあ我慢してやることにしよう」

 そういう言わずもがなのことを口にするのだったが。

 久之はたしなめるように巳槌の銀色の髪をくしゅりと撫ぜ、憤りかけた円駆の背中をぽんと撫ぜ、白い息を流しながら歩き始めた。二人の神は浴衣の裾から伸びる無防備な細い足を平気で晒しながら、草履の裸足を紅くしながらもじゃれあいながら久之の後に従った。

 

 

 

 

 里の人間たちにとって山は恵みばかりを齎すものでは決して無い。例えばこの酷く長い冬がまずそうであるし、常識外れの大雨が降れば時に崖を崩し、これから先雪が緩めば雪崩を起こし、秋の終わりには冬眠前の熊まで寄越す。自然の側に積極的な害意が在るわけでもなければ、人間たちもまたその恵みを享受している自覚も在ればこそ、対立関係では無いが、互恵の隣人という訳でもない。人間たちが毎年夏に、山に酒を捧げるのは、せめてその牙を喉元に突き立てるときには少しでも優しく情けを持ち給えという懇願のためだ。

 供物が食料ではなく、何よりもまず酒であるという点は、かつてこの里に最も身近な神が巳槌であったことに起因する。久之や、いまこの村に住まう者たちが生まれる遥か前、「裸の蛇神様」と村人たちは理想的な関係に在ったと言ってよかった。巳槌は人の姿をして里に降り、自らの司る山の清水で村人たちに恵みを与えた。幼い子供らは巳槌によく懐いていたし、大人たちも巳槌を尊敬した。但し人間と真ッ当に交流していたのは数多い山の神々たちの中でも巳槌ただ一人で、円駆を始めとする他の神々は程度の差こそあれ排他的であった。人間はやがて自分たちに害を成すようになると信じて疑うことはなかった。拙い文明しか持たなくとも人間たちは彼らにとって一方的に聖地を踏み躙り山の恵みを掠奪する存在だったから。

「俺は、留守番してる」

 里に連れて行くと言ったとき、円駆は難色を示した。久之以外の人間に対しては依然として警戒を解けないで居る。いや、久之に対してだってそうだった。当初円駆は巳槌の懐いた久之を山から追い出さんと画策し、麒麟の姿をして里に降りて人間たちを恐怖させた。今ではもちろん、久之は間違いなく清い心を持った人間だと認識し、巳槌と共に彼の側に居ることを選んだが、他の人間たちがどうかとなれば、それは全く別の問題である。

 然るに、久之が神に強く出られないのと同様、円駆も久之の言うことには逆らいかねる。久之だってもちろん、円駆が人間に対して抱く感情の屈託を十分に知っている。

 久之の望みは、山に住む神々と里に住む人間たちが「互恵」とまでは言わずとも程よい関係を築くことだ。そのために自分に出来ることなど、祈ることを除けば何一つ無いと、非力を自認する彼は信じて疑わないが、少なくとも円駆を里まで連れて来られる人間は久之以外に誰も居ないのだった。

「……ん」

 巳槌がぱたりと立ち止まった。道沿いの畑の片隅に、小さな社が立てられており、凍りつきそうな酒瓶が供えられていた。遥か昔、まだ巳槌が当たり前のようにこの里に現れていた頃、人間たちが彼を崇めて建てたものである。田畑の区画分を見れば明らかに邪魔になる場所に建てられた社であるが、さすがに後から来た人間たちも小さいながらに威厳在り、謂れも在る社を無感情に退かすことは出来なかったと見える。ばかりか其処に酒瓶が供えられている以上、未だに巳槌は村人たちの意識の中に住み着いているのかも知れない。いまや巳槌のかつての塒の泉が、生命に活力を与えるがごとき素晴らしい水を無限に湧き立たせる場所であったことを知る人間は久之を除いて居なかったが、いつかまた人間が其処に立ち寄り、その恵みを享受する日は、誰が望もうが望まなかろうが再び来るのかも知れない。

 円駆や、他の神々、つまりは排他的な神の群れを、同じように人間たちが思った時には、違う未来が訪れる可能性もある。久之は神と交わり、もはや人間としての時計の針はほぼ止まりつつある。そのときを、見たいと彼は願っていた。厳しく、辛く、時にどうしてもその牙を剥いてしまうこの山を神の群れを、其処まで含めて人間が容認し、優しい智慧を集めて共存する日。相変わらず人間たちにとって山は恐ろしいもので在り続けるかもしれない。しかし本能を根拠とする感情まで、久之は否定しようとは思っていない。実際彼だって暗闇は恐れるし、山中で見たことも無いほど大きくて足が何十本もある虫の類を見て腰を抜かしそうになることもある。だが、恐れていいのだ。存分に恐れて、それでも認めることが出来るときが来ることを、久之は祈っている。

 だが、巳槌の興味は社には向けられていなかった。彼は道端でおもむろに浴衣の帯を解くと、するすると六尺も解き、邪魔にならぬように腕に巻いた。

「ん……? ああ……、小便がしたくなった。いつも言っているように、お前は僕の小便するところを幾らだって見てもいいんだぞ」

 ぽかんと見ている久之に、巳槌は平然とそう言う。巳槌が支度をしているのを見て、円駆も同様の欲求が喚起されたらしい。同じように浴衣と褌を外して、巳槌の隣に立ち、用水路に向けて細い陰茎を突き出す。

 いろいろな、発さなければいけない言葉がいくつも喉で痞えて形に出来ないうちに、二人揃って足元の細い流れに向けて放尿を始めた。浴衣に掛からぬようにと裾を胸まで持ち上げているものだから、引き締まった小さな臀部まで通りに向けて晒すこととなる。

 救いは、二人が最後に雫を払うまで村人が一人も通らなかったことだ。

「……今は」

 久之は円駆の褌を締めてやりながら、たどたどしく言った。

「……こんな、道端で立ち小便するのは、いけないことなんだ」

 ふん、と巳槌は鼻から白い息を流す。

「昔は人間たちだって何処でも其処でも垂れ流して居たぞ」

「後から来て勝手な決まりを作っただけのことだろう」

 久之を困らせるつもりがある訳では無いだろうが、円駆も言い加えた。

「其れを言えば、お前があの小屋の隣を便所にしていることを、誰か責めたか?」

 久之は答えようもなく、はあ、と溜め息を吐き出した。実際のところ、田圃の水に少年の小便が混じったところでそうそう環境を悪化させるとは思いがたい。例えば米粒を精密に解析したとき、そういう要素を見出すことが出来たとして、だからと言ってその米粒を食むのを嫌と言うのはあまりにも無知な人間のすることだろうと久之だって思う。久之が買い入れてくる米にしたって、何処でどういう過程を踏んでどれだけの不純物が混じっているかは判らないのだし、いま当たり前のように吸っているこの空気さえ、知らぬところでどんな毒を孕んでいるか判らないのだ。無論、久之はそういうことを言いはしないし、ようやく真っ当に話が出来るようになってきた土産物屋の店主などに斯様なことを言えば、また孤立してしまうことは想像に難くない。

 久之の頭の中でぐるぐる回る考えは、巳槌にも円駆にも容易く覗ける。またいつものように小難しくて七面倒臭いことを考えて負担を覚えるのだと悟れば、少し、申し訳ないような気にもなる。

「……次、また此処へ降りてくる機会があったら」

 巳槌が鼻を啜って言った。

「その日には上で済ませてくるようにしよう」

 巳槌の言葉に、円駆も頷いた。それから少し歩いて、ようやく最初の村人と擦れ違う。久之の着物にしたって寒そうだが、明らかに違う季節の格好をした二人の神の姿に、毛糸の帽子で耳まで隠した老人は不審げに見遣る。巳槌も円駆もそんな視線を感じれば、却って寒くなど無いぞと胸を張る。

 言葉を掛けた最初の者は、

「あんたの連れかね」

 土産物屋の主人だった。

「おはようございます」

 もう久之は真ッ当に挨拶ぐらい出来るのだった。「そう、です。……私の」

「銀色の子は以前も居たっけな。紅い髪の子は初めて見るが」

「……その、つまり」

 いかにも酒肴向きの瓶詰めが棚に並んでいる。円駆は巳槌と並んで屈み込み、興味深げに其れを眺めていた。

「以前、あなたがいらした時には、あの子は泉に水を汲みに行っていて、居ませんでした。……今日は、あの子たちの着物を作るための、生地を買いに……、それから、米と、酒を」

 久之に、いつもながら必要よりも随分多い売り上げを渡しながら「見たところまだ子供のようだが」と、咎めるように言う。

「おい久之、これを買え。酒のつまみに最適と書いてある」

 この村で鰹の獲れるはずもないが、巳槌が持ってきたのは鰹の酒盗である。「こっちの方が美味そうだぞ」と円駆が持ってきたのは山菜の漬け物である。

 二人は声を発してから、久之がまた混乱に陥っていることに気付く。

「お前の晩酌に最適だろう」

「そうだ、お前の晩酌に最適だろう」

 揃って同じことを言った。そして巳槌が、

「僕たちは子供に見えるかも知れないが、もう大人だぞ。『学校』などに行くべき歳ではないし、親はもうとうの昔に死んだ。だが久之は僕たちの面倒を責任を持ってしっかりと見ている。だから下らん心配など要らないのだ」

 店主に言う。久之はしどろもどろになりながら受け取った金から二人の欲した酒肴を買い入れて、足早に店を出た。

「心臓に、悪い」

 溜め息は大きく吹き上がり山からの風に乗って流れた。

「放っておけばいい。僕が以前この里に降りていた頃には、僕らぐらいの年格好の子供らは既に大人に交じって働いていたし、女は嫁に貰われる事だって珍しくなどなかったぞ」

 円駆はその頃の里人の暮らしなど知らないから、黙っている。

「いまの、……お前ぐらいの」

 久之は巳槌と円駆を見る。二人とも中学生になるかならないかという外見をしているが、実際には幾百年を生きている。もちろん、そういったことを他の人間が納得してくれるはずがない。

「歳の子供たちは、学校へ行って、親の庇護を受けて、生きている。お前たちがそういう、身体の形をしている以上は、人間の目には、ああいう風に映るのは仕方が無いんだ」

 やっぱり来ないほうが良かったんじゃないのか、円駆が唇を尖らせた。だが巳槌は、

「だから、それだって後から作った規則に過ぎないだろう。僕が此処で子供らと遊んでいた頃など、そもそもそんな大昔のことでは無いぞ、ほんの二百年しか経っていない。そう例えば、……お前はいまだに罪深さを覚えているようだがな、あの頃は子供同士でちんちんの弄り合いをすることなど何も珍しいことではなかったようだぞ」

「二百年も経てば、正負の記号は幾らだって変わってしまうよ……」

 巳槌に久之を困らせる気があるわけではない。あとは黙って、久之の後に従って歩き、かつてとは豹変した里の様子を見ていた。円駆も黙って、改めて人間との共存の、……山とではない、自分と人間の、或いは久之と人間の共存の一筋縄では行かぬことを認識している。

 同様の言葉は着物の生地を買い入れるときにも、店主から貰った。円駆は店の外で待っていて、先ほどと同じく巳槌が店主に物を言うことで久之を庇った。巳槌は巳槌で、山と人間の共存は十分に可能なことだと思っているし、かつて自分は二つを繋ぐ橋のような存在だったのだと思っている。そしていま再び、その役割を果たすことが出来るのだとも。

 そんなことを考えていたものだから、生地の色柄に口出しをすることを忘れていた。久之が買い込んだのは地味な紺の生地で、大人びたと言えばまだ聴こえはいいが、単に渋い紋様が入っている。それと綿入れを二着買い入れて、久之と一緒に店を出た。外で待っているはずの円駆が居ないことに気付く。

「……何を勝手にふらふらしているんだ、あいつは」

 巳槌は舌を打ち、久之は心配そうにきょろきょろと辺りを見回す。稲妻色の触覚にも似た毛束を跳ねさせた紅い髪の頭は、少なくとも二人の視界には入ってこなかった。

「こっちだ」

 と、巳槌は歩き出した。訝る久之に、

「同じ神の身だ、あいつの獣の体臭を辿るくらい容易い」

 毒っぽいことを言って、導く。どのみち久之は彼についていくしか出来ないのだ。

 

 

 

 

 重たい荷物を背負って少し歩くと、途端に身体がぽっぽと熱くなって、ほとんど寒さは感じなくなっていた。鼻の頭は相変わらず紅いのだけれど。

 円駆は老婆の抱える荷物を持って、のろのろと歩く彼女の隣を歩いている。荷物は衣服だったり漬け物だったりするようで、頬被りをしてむくむくに着込んで丸っこい体付きになった老婆は、その荷物を何だか随分遠くに住む息子夫婦に届けに行くのだと言う。孫の顔を見るのが楽しみだとも言った。

 円駆は背負った荷物を担ぎ直す。……着物屋の店先で、草木の生える余地を奪った鋪道を負の感情を抱き眺めていたところに、ふと顔を上げた道の向こう、その身に比して大きすぎる荷物を担いだ老婆が通り過ぎるのを見付けた。放っておこうとも思ったのだが、いかにも危なっかしい。つい腰を上げて、無言のまま老婆の背中を支えたら、一瞬驚いたように身を硬くした彼女はやがて皺深い眼元を微笑ませて「ありがとうございます」と緩やかな声で丁寧に礼を言った。

 円駆は巳槌のように人間に慣れては居ない。円駆にとって久之が唯一交流のある人間であるが、全ての人間が久之のような者ではないということは、身を以って知っている。寧ろ人間というものは須らく勝手なものだと思っていた。

「ほんとうにい、ありがとうございます」

 バスの停留所に着いて、荷物を下ろした。老婆は元々曲がった腰を更に深々と折り曲げて、丁寧すぎるほど礼を言い、円駆の手をしわしわの両手で包んだ。円駆は何も言葉を思いつかず、「うん」とだけ答える。

「ありがたいことでございます……」

 拝み始めた。放っておいたら伏拝を始めてしまいそうに思えて、円駆は慌てて「いい、礼をしてもらうために運んだんじゃない」と彼女をベンチに座らせた。元はもっと鮮やかな青だったのだろうベンチの座面も背凭れも、永の陽光に晒されて色はすっかり褪せ、あちこちひび割れている。

 円駆は時刻表が読めない。いや、文字や数字は読めるが、其処に並んでいる二つの数字が持つ意味が判らない。この深山の里へ、バスは一日二本しかやってこない。そのバスの到着時間までは、まだ三十分以上ある。

「そのような格好では、お寒いでしょうに」

 案ずるように見上げる老婆に、円駆は「ふん」と尊大に言い放つ。人間などに案じられるような存在では無いという自覚がある。

「寒くなんかない。この浴衣一枚あれば十分温かい」

 しかし汗が冷えれば間もなくまた芯まで冷えるだろう。そういった懸念は捨てることにした。

 老婆はしげしげと紅い髪の少年を眺めて、

「むかぁし、むかしのことでございます」

 のったりとした口調で、語り始めた。

「この小さな、小ぃさな村には、あなたと同じくらいのお歳の、小さな水神様がおられたのだそうな。……夏でも冬でもいつも裸で、お山からやってきて、親が相手を出来ない子供たちと遊んで寂しさを慰めたり、年老いたものに力の出る水を配りあるいたりしたのだそうでございます」

 おい待て、と円駆は思わず声を上げかけた。……巳槌のことではないか。

「あるとき、いつでも裸で寒そうな水神様のために、村人たちが浴衣をこさえて、水神様にお贈りしたのですな。……水神様はそれからというもの、いつでもその浴衣を着て里に降りて来ては、長らくこの村を御守りくだすってたと、……わたくしの、ひいばあちゃんから聴いた話でございます、ですから、ほんとうにむかぁし、むかぁしの話でございます」

 老婆はことも在ろうに、

「あなたは、その水神様のようにお優しい」

 と言った。真っ赤になって、円駆は黙りこくる。よりによってあの蛇と一緒に扱われようとは。

 しかし、老婆は尚も続けた。

「お山には、水神様のほかにも、たくさんの神様が住んでおられるということでございます。既にわたくしたちが、名前も忘れてしまったたくさんの神様が。わたくしたちは、いつでもお山にお礼をしていなければならないんですが、最近の若い人たちはなかなか……」

 この老婆の言う「若い」人たちというのは、もう一般的には老人の域に入ろうとしているあの土産物屋の店主も含まれているらしい。この村には、本当に「若い」人間などほとんど居ないのだろう。

 円駆はずっと黙っていた。黙って、徐々にはっきりと身の中に染みてくるような寒さを耐えていた。

 例えば久之と巳槌が居なかったとして、いまでも山に対してこういう感情を抱く人間の居ることを自分が知ることは決してなかっただろうと思うのだ。そして自分がこういう人間を含めて一緒くたに山の恵みを分け与えてなどやるものかという気持ちには、きっとなれなかっただろうということも。

 山の神々の多くは排他的であれ、決して強烈な害意を持って人間たちを排除しようとするものではない。寧ろ、働く力はそのほとんどが自衛のために用いられている。根本的に臆病なのかもしれない。山に住む生き物の領域に分け入られることを嫌い、聖域の平穏を望むからこそ、闖入者に怯えて居るのだ。実際、人間たちは同胞を狩る、水を汚す、空気を。しかしそれが聖域内で循環する流れの中で行われるときには、摂理として誰からも文句は出ないのだ。円駆だって腹が空けば同胞の肉を食らい血を啜る。そういう宿命を帯びた生き物である。

 人間たちは後から来て勝手な規律を作った。その規律に、山へ同意を共用する。それに山が応じないから怯え困惑する。勝手なことではないか。

 しかし、これは山の一員としての円駆の思うところであるが、頑迷であることが良いとも思わない。人間もまた、自然の生み出した動物のひと種類に過ぎない。円駆や巳槌が機に応じて人間の姿に変じるのは、そもそもやがてこの自然との干渉なくしては生きられなくなるであろう人間という肉食獣と折衝する必要があるからではなかったか。確かに人間は厄介な存在であるが、一方的にそう決め付けて交渉をしないまま排除し続けるだけで事態の打開が叶うとも思わない。

 考えの途中で、バスがやって来た。円駆が再び老婆の荷物を担いでやろうとすると、壮年の運転手が前部扉を開けるなり降りてきて、段で老婆に手を貸した。

「君は乗るの?」

 ぶっきらぼうだが、妙に温かみを感じさせるような声で運転手の男は訊いた。円駆が首を振ると「そう、風邪ひかんようにね」と言い残してドアを閉める。老婆が振り返り、もう一度深々と頭を下げた。寒村へ至ったバスが老婆一人だけを乗せて走り去って行くのを見送って、すっかり冷え切ってしまった身体を抱えながら、老婆と辿った道を戻ろうとしたところ、心配そうな久之と、大して心配などしていない顔の巳槌が連れ立って歩いてくるのが見えた。

 さっきまで考えていたことを、いつか巳槌に話してみようか、と思う。ひょっとしたらまた毒のある言葉を吐き散らかされるかもしれない。いや、案外真剣な顔で訊いてくれるのだろうか。巳槌が蛇の執念深さでいまだ人間との共存を諦めていない以上は、円駆に――極めて稀なことだが――益のあることを言うことさえあるかもしれない。ただ、その平板な表情からどんな言葉が出てくるかということは、円駆には全く計り知る事が出来ないのだ。

 

 

 

 

 単索軌道に荷物を乗せて、無人のまま発動機を働かせて登らせる。三人の体重が無い分、小箱はある程度軽やかに登っていくようだった。

 円駆は浴衣を脱ぎ六尺を外し、麒麟へと変ずる。焔を纏って温かい毛皮は、久之のみならず巳槌にも有難いものだった。

 崖のように急な道を臆することなく登っていく。円駆の背中の、前に久之、後ろに円駆が乗る。久之は麒麟の禍々しい双角を握って身を支え、巳槌は振り落とされぬよう久之の腰にしっかりと掴まっているが、もとより円駆の登り方は慎重だった。その気になれば一足飛び出来る崖も迂回して、少しでも揺れの少ない道を選ぶ。

「人間たちは、変わっていないな」

 背中の声に、振り向く余裕は無いが「なに?」と久之は訊き返した。

「今も昔も人間たちは少しも変わっていない。もっとも、それは僕らだって同じことだ。何も変わってはいない」

 巳槌は、円駆に聴こえていることを知っていた。応龍のときには人間の言葉を発することが出来ない巳槌とは異なり、円駆は麒麟のときでも人間の言葉を喋ることが出来る。だが、円駆は何も言わない。

「この獣とお前が一緒に居ることに、何の問題も伴わなかったとは僕も思わない。しかし、現実いまお前は円駆の背中に乗っている。当たり前のように円駆はお前を乗せてこの険しい道を運ぶ。……かといって、僕はお前が特別な男だとは思わないよ。いや、……僕と円駆にとってはもちろんお前は他のどんな人間にも替えられない、愛しい相手だ。しかし、人間であると言うことには、少しだって変わりはない」

 円駆は何も言わずに急坂に爪を立てていた。

 円駆よりも巳槌が何事に対しても楽観的で気を大きく持っていることは、久之には既に判っている。必然的に――久之自身がそうであるように――円駆が振り回されることになるということも。

 俺に出来ることがどれくらいあるだろう、と久之は考えて、すぐにやめる。出来るかもしれないことを数多く並べたって、どうせ身体は一つしかないし、この身体に宿る心はその全てに耐え得るほど強くもない。まだ人と上手く話すことにだって自信がないような自分は、この心を身体を酷く痛めつけて傷を負うことで誰かを困らせるような事態を招くより、まず手の届くところにあることを一つひとつこなしていけばいいはずだ。

 差し当たり、二人のための着物を作る。幸いそれには、さほど長い時間は掛からないはずだった。

 そして、神の時計に合致し始めた身体を持ちながらも、一応は「人間」のはしくれとして、久之と円駆に幸福を与えること。

 今後は、下山のときにまた今日のように、二人を連れて行くことも考えていい。そういうところから始めて行って、段々良くなっていくだろうという考え方は甘いだろうか? 巳槌以上の楽観思考だろうか?

 小屋に着いた。小箱も既に荷物を運び終えて止まっていた。円駆は人間の姿に戻るとくしゃみをし、温かい身体から降りた巳槌も久之も、急激な寒さを感じる。

 久之は二人が何も言う前に、薪を持ってきて、風呂の支度を始めた。火が付くなり、二人の神は鍋の前に屈み込んで手を翳す。

「縮こまっているな。そんな小さいものを晒すくらいならばとっとと褌を締めればいい」

「う、うるせえ、お前のだって縮こまってんだろ!」

「先の皮の余り具合がまるで赤ん坊のようだな」

「うるせえうるせえっ、お前だって皮余ってんだろうが!」

 米と酒を仕舞い、生地を計るのは後回しにする。久之の身体だって冷え切っていて、早く風呂に入りたい。陽はもう高いところに在り、凍り付いていた大気はようやく溶け始めたようだが、それでも辛い。

 自分も火にあたろうと、大鍋の側まで戻ったところで、円駆ばかりではなく巳槌までも褌を外して、

「ほら、僕の方が縮んでない」

「大差ない! っていうかお前はつい今まで褌付けてたんだから縮んでなくて当たり前だ!」

 久之に、白い溜め息を吐かせる。

「おい久之、僕のと円駆のとどっちが大きい」

 常時ならば、円駆の方がほんの僅かな差ではあるが大きいのだ。此処を逆転の好機と踏んだか、巳槌は久之に、結局のところ同じように寒さで縮み上がった陰茎を見せびらかす。

「どっちだっていい……」

「ならば、僕の方が大きいということでいいな」

「なんでそうなるんだよ!」

 久之はぼんやりと、鳥肌を立てながらも騒がしく遣り取りをする二人の側で火に悴んだ手を翳しながら、そもそもこの二人だって対立していたのにいまではこうして仲良く居るではないか、と考えを再び巡らせ始める。

 寒い日は必ず終わるものだ。すると苦しいくらいの暑さの夏が来て、しかしまた冬が来れば、春が待ち遠しくなる。その巡る巡る時間を、神なる身さえ止めることが出来ないのならば、転変することをまず認めるところが始点かもしれないと、久之は思う。間もなく風呂が沸くようだ。

 


back