STRONGER THAN

 秋から冬にかけて、久之が二人の神と暮らす小さな山小屋は徐々に厚着を重ねていた。元々夏前に、巳槌に言わせれば「大した考えも無く」久之一人で建てた小屋であるから隙間だらけであり、雨が降れば天井からは呆気なく水が漏るような体たらく。いまや応龍と麒麟を側に置き、それなりの人力も確保しているのだから、このままでは間もなく朝晩平気な顔で氷点下まで冷え込む山の暮らしに耐えられるはずもない小屋の補強工事は先日より早速始められ、いまや隙間と言う隙間は板切れで埋められ、夜に月が何処に在るか判るような塩梅の天井も綺麗に蓋をされている。もっとも、手先は器用で壷を焼いたり書や絵を描く久之も工作が得意という訳ではないし、巳槌や円駆に至っては玄翁を握ったこともない。丸裸の素肌に直接甲冑を身に付けたような趣の小屋で、三人は同居以来初めての厳冬を迎えることとなった。

 巳槌は応龍であり、白蛇である。つまりは両生類であり、本質的には寒さに弱い。しかし其処は神なる身に宿る力でこれまで幾百年の冬を、さほど深い眠りに就くこともなく過ごしてきた。

「全身を氷付けにされたりしなければそうそう死ぬことなどなかろうよ」

 と言う彼は、かつて塒にしていた泉の中でふわふわと漂い、水面に氷の天井が張れば自らの頭で其れを破り、外に這い出して餌を食い、珍しく陽の照る日には細い身をくねらせて木に登り日光浴などして過ごしていた。雪に包まれた冬の一日において白蛇の体は風景の中に完全に溶け込んでしまい、通りがかった熊に踏ん付けられそうになった経験は一度や二度ではない。

 他方、麒麟であるところの円駆はと言えば、彼は案外に神経質に冬の日々を送っていたようだ。雪に閉ざされていればほんの少し安心して外に出歩くが、そうではない日には出来るだけ洞穴の中でじっと過ごしていた。

「なんかの間違いで山火事なんて起こしたら大変だからな」

 彼の紅の毛皮は、いくつもの火焔球を纏っている。久之はその背に乗ることだって出来るが、彼以外の人間が触れれば忽ち火傷をするほどの高温である。山に住まうものとして、その平和な秩序を乱すわけには行かないと、彼は春の驟雨で空気が潤うまではあまり外出もせず、ほぼ冬眠に近い状態で過ごしていたのだと言う。

 久之は人間なので、当然ながら人間の冬の過ごし方しかしてこなかった。しかしこの冬、自然の中に身を委ねて過ごす極寒の空気に触れて、目にするもの耳にするもの全てが恐ろしくもあり、また美しくもある。

 寒暖計などない部屋だが、早朝の室温が零下であることは疑いもない朝に、着物の襟をかき合わせて恐る恐る表に出る。下水施設など望むべくもない山暮らしだから、自分たちの体から生ずる老廃汚水の類は全て山に飲んでもらうほか無いわけだ。裸足に草履だけの足元が辛く痛むのを堪えながら、「便所」と呼んではいるが実際ただの板囲いに過ぎぬところで久之も巳槌も円駆も用を足している。開放感という点では素晴らしいが、便所に必要なのは寧ろ閉塞感ではなかろうか。だってこんなに寒いもの。久之は用を足しながら、そんなことを思いつつ、自らの視界に違和感を覚える。巳槌と円駆が腰に巻く褌と同じ六尺近い身の丈を持つ久之は、何か普段以上に自分の視界が高く感じられるのである。

 足元を見て気付いた。背高く頑丈に成長した霜柱が、久之の体重を強固に支える足場となっているのだ。これほど立派な霜柱というものを、久之は見たことがない。里に降りればまた少し寒さも緩むのだろうが、久之は白い息を流しながら暫し霜柱に見惚れていた。夏の自然とはまた異質な、静かで、同時に恐ろしいほどの力を秘めたものが山を支配しているように思えた。

 冷え切った身体を縮ませながら小屋へと戻る。ここ数日雪は降っていないが、またいつ唐突に空から真綿色の爆撃が在るか判らない。貧弱な骨格の小屋だから、雪が降ったらすぐに屋根から降ろさないと潰れてしまう恐れさえある。幸い、今朝はよく晴れている。晴れている分だけ、寒さも険しさを増しているが。思いつきで夕べ遣ったままの大鍋風呂の側まで寄って、また久之は息を呑んだ。湯を捨てないでいたのは風呂上りの巳槌が裸のままで平気で小屋へと行ってしまったのを慌てて追い掛けたからで、小屋でそのまま、もちろん円駆も含めて夜遊びをして。一応着物を着せて寝たから自分たちが風邪をひくことはないだろうが、生活に対して真摯に向き合わない結果として、罰を下すように山の冬は久之が幾度か拳で叩いてもびくともしないほど厚い氷を鍋の表面に張らせていた。どうせ起きればすぐに巳槌は「風呂に入る」と言い出すに決まっている。早く布団に入りなおしたいが、久之は悴む手足の指を叱咤して薪を支度すると、燐寸を取りに一旦小屋に戻った。やはり風を塞いだ分、小屋の中は幾分温かい。

 膨らんだ布団を見れば、先ほどまで久之を挟んで寝ていた巳槌と円駆が、今は互いにぴったりと頬を寄せ合ってすやすやと寝息を立てている。

 今すぐ其処に加わりたいと痛烈な本能が喚いたが、久之はもちろん音を立てぬように行李から燐寸を取り出して氷温の外へ舞い戻った。一先ず久之は自分の欲よりも二人の少年の安眠を優先する。そういう人間だからこそ、二人が喜んで側に居たいと思うのは正しく自然の成り行きである。

 

 

 

 

 縦長短幅の列島であり背骨に当たる山脈はそれなりに険しい。久之たちが住む小屋があるのは当にその背骨の一片に当たる。日に二本しかないバスで数十分揺られた先にある小さな駅から電車を乗り継げばこの山脈を穿つトンネルを潜って向こう側へと出られる。夜の底が白い其処が雪国と呼ばれることを学の無いわけではない久之はもちろん知っていたが実際に行ったことは無い。

 一般にトンネルの向こう側は裏日本と呼ばれ、久之の住む場所は即ち表日本である。確かに降雪量においてはだいぶ少ないのだろうし雪崩などの被害とも今のところ無縁で居られる。もう少し南下すればからっと乾いた季節風が吹き降ろす。

 不公平とも感じられるこの気候の差は当に隆起した背骨のごとき山脈によって起こる。裏日本に真綿色の空爆をする雪雲はその鈍重さゆえに山脈を越えることが出来ないのである。しかしながら表日本に属するはずの久之の小屋には、しばしば音も無く空襲がやって来て、爆撃の後には白く毛足の長く、しかしちっとも温かくない絨毯が残されるのである。冬将軍率いる一団が山に敗れ主力部隊はほとんど殲滅しても、難を逃れ駆け上がってきた小隊が主を失い半ばやけくそのようにどかんどかんと白い砲弾を命の限りに投げ付けて来るかのようである。

 やはり巳槌は目を覚ますなり、

「寒い。風呂を沸かせ」

 と白い顔で言った。夏場は見事な小麦色に染まっていた肌だが、この季節はその白蛇の鱗の色そのままのような冷たい肌となる。銀色の髪と相俟って、まるで氷雪の精霊のようですらあるが、実際には水を司る神である。

「大体何故お前は居なくなっているんだ。寒いから仕方なくこんなのとくっついて眠らなくてはならなかったじゃないか」

「こんなのとはなんだ!」

 気色ばんだ円駆の鼻先に、巳槌は無表情で人差し指を突きつける。

「こういうのだ」

 寒い置きぬけの朝から騒がしいことこの上ない。巳槌は日常的にこうして円駆の腹を立てる悪癖が在るし、円駆は円駆で律儀なほどに反応してしまう。二人の間に挟まれる久之は、これを悲劇とは思わないことにしている。投げ合われる言葉の間が案外に居心地良いものだということは、もう身を以って理解しているから。

「風呂、沸いてるから。一緒に入ろう」

 先ほどまで凍りついていた鍋は盛大に湯気を上げて、少年の姿をした神二人を誘っている。二人はすぐさま喧嘩を止めて、それぞれ久之の手を借りて鍋の中に収まる。一つ鍋の中で互いの出汁を吸い取り合って居れば、少々の喧嘩をしたところで致命的な事態にはならないに決まっていた。もちろん久之も入る。少々熱過ぎるぐらいの湯温が身に刺さらなく感じられた頃にはもう、蕩けるような幸福が身に満ちている。

 しかし空を見上げると、先ほどまで晴れ渡っていたはずなのに、何やら薄灰色の雲が生じ急激に勢力を増していくようだ。山の天気が変わりやすいことは三人とも知っている。

「雪か」

 と円駆が顔を顰める。

「別に何処へ出掛ける予定もない」

「雪下ろしが面倒臭い」

「おまえが麒麟になって働けばいい」

「小屋が丸焼けになるって何度も言ってんだろ」

「ああ、そうか。お前は手加減を知らないからな」

 湯の中ではそれ以上の喧嘩にはならなかった。久之は右に巳槌左に円駆、二人の方が冷えないように時折掌で湯を掬ってかけてやりつつ、巳槌が言ったように確かに何の予定も無い今日という一日に雪が降ろうが瑣末な問題に過ぎないと思った。雪に閉ざされてしまっては壷作りも出来ない。風呂から出たら朝飯を作り、その後はまた布団の中に包まって本でも読めば良い。二人の少年はその見目に反して数百年の時を過ごした者であるから退屈に文句を言ったりもしない。言うなれば暢気にごろごろと過ごすことには非常に長けているから、雪に雪隠詰めの目に遭わされても平気なのだ。

 玄米と漬け物の朝食を済ませ、既に振り始めた雪で指先を紅くしながら茶碗を洗って小屋に戻る。その間、巳槌と円駆はそれぞれ一度ずつ用を足しに立った以外は小屋から出ず、相変わらず自分ひとりでは六尺を締められない円駆の隣、円駆の為にそんな手間を割く気もないらしい巳槌は布団の中でごろ寝を決め込んでいる。円駆が褌の締め方を「覚えられない」のではなくて敢えて「覚えない」のだということは巳槌も久之ももう判っているのだが、二人して気付かないふりをする。六尺を締めてやったら、円駆はすぐに布団に潜り込む。

 巳槌と、丁度一人分の間を開けて。

 さほど分厚くもない布団だが、其処は適度に温まっているはずで、久之が入れば益々幸せな空間となることは明白である。先月里に降りたときに買い入れた数冊の古本の山から手付かずの一冊を持って久之は潜り込んだ。すぐに両側の二人が身を寄せる。円駆はとても温かいが、巳槌は氷のように冷たい。その裸足が脹脛に当てられたときには思わず飛び上がりたくなったが、堪えてうつ伏せのまま、頁を捲り始めた。縁の黄ばんだ古書を、一体今日はどれぐらい読むことが出来るだろう? 薄い壁の外からは漠として音も無く、世界そのものが氷漬けにされ眠りに沈んだかのようだが、布団の中は大層温かい。はじめ冷たかった巳槌の足もいまでは触れても苦のないほどだし、風邪でもひいたのかと心配になるくらいぽかぽかと温かい円駆が反対側に居る分、寧ろそのひんやりとした触り心地は好もしくさえある。

 ほどなくして、持て余し慣れた退屈を両手で支えることを放棄した巳槌が、布団の中でもぞもぞと蠢いて背中に乗ってきた。布団の外に出ている分だけ冷たい鼻を背中に擦り付けてくる。

「お前は、……温かいな」

「そう……」

「うん、そして、とても良い匂いだ」

 言葉の尻尾が微笑みで揺れた。あと何回くらい頁を捲ることが出来るだろうか。円駆が物騒なものを見るような目で久之の背中に乗る巳槌を見る。

「羨ましいか、此処が」

「別に、羨ましくなんかねー。俺は寒くなんかねーし」

「そうか、ならば裸で表に出て幼児のような皮余りちんちんの先にせっせと霜焼けを拵えてくるが良いよ」

「お、お前だって皮余ってるだろうが!」

 せっかく温かくて居心地のいい布団の中で喧嘩をするほど愚かなことはない。そして熱を高める方法論は神ならぬ身の久之もまた持っているのだ。栞を取りに布団を出るだけの気力はないくせに、これから先に布団の中で体力を消耗することについての躊躇いは無い。

 布団の中はとても温かい。


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