夜ノナカミマデ

 咲いた花を見て、綺麗だなと、思える気持ちを自然と抱けることに少しも不思議は無いんだろうか。対話は出来なくとも、仮にも命として生まれてきた小さな花を、無理に切ったり踏んだりすること無く、優しく笑って撫でるだけに止めて置けたなら、心の中にそう酷い闇は生まれない。

 一年? もうそんな長い時間が経ったのかと、いささかの驚きを抜きにしては受け止められない。

 恐らく近いうちに彼は、精神の揺籃期とも言うべき、難儀な時代を経験し、悩み、苦しみ、ありとあらゆるものを失ったり、傷つけたりしながら、その世界を再構築し、彼自身特有の尺度を創造し、それに伴って生成される文化を得、世界を変えるだろう。その世界がどういった形状を持ったものになるか、俺たちは想像することも出来ない。しかし、予め俺たちが用意しておくべきものは、その世界への無理矢理な順応ではない。無論、彼固有の世界を拒絶することでもない。俺の世界と異なったり、重なったりするであろうその世界を、どこまで隣りにあるものと感じることが出来るかだ。だが、それ全てを容認することが不可能なことは、もうわかっている。ただ、それでも、彼の世界ではなく、その世界の創造主たる彼のことを、俺が容認することだ。それを愛と換言してもいい。

 今はこうして、スバルやパナシェよりも甘えん坊なイスラのことを、甘い夢として捉えることも許されているだろう。正直に言ってしまえば、スバルたちよりも重たい体を、ずっと膝の上に乗せているというのは、ちょっぴりしんどくもあるのだけど。

「イスラ、……あのさ、ちょっと、先生足が痺れてきちゃったんだけどな」

 ふふっ、とイスラは笑って、けれど、降りない。痩せた臀部の骨が太股に当たって、跡になりそうで、さっきからそれを心配してばかりいるわけではないのだけど、それに、イスラが甘えてくれるのは、もちろん嬉しいのだけど。そんなときに、去来するのが、本当のイスラはこんな風にはきっとしないだろうなという、簡単な想像、あまりにもリアルに、まるで今乗っているのが「本当の」イスラのようで、俺はシャツの胸をべったり濡らされたように、不快な気分を味わった。

 いや、あのイスラが本当なのか? 今のイスラが本当なのか?

「だめだよ、まだ読んでる途中だもん」

 イスラの身の丈は、そんなに高いわけではない。まあ、その肉体年齢から見れば、妥当なところで、だから俺より少し小さい。それに、痩せ型と言ってもいい、のだけれど、やはり、それなりのボリュームはあるのだ。そんなわがままを言われたって、本当に足の先がもうおかしくなりそうで、

「よいしょ」

「わあ!」

 イスラを持ち上げて、ベッドに下ろした。俺は足の先がちゃんと繋がっていることを確認し、ほっと一息。

「ひどいよせんせい、まだ読んでる途中なのに」

「途中なのにって。本当に、足痺れてどうにかなりそうだったんだ、勘弁してくれよ」

 イスラはくすっと笑って「しょうがないなあ」なんて言っている。足首を回して、溜め息を吐く。

 人の足を犠牲にしてまで、イスラが一生懸命読んでいるのは何かと言えば、国語の教科書に載っている童話。しかも「途中なのに」と言いつつ、もう俺の膝の上に乗ってから、三つ目の話。勉強熱心というのなら嬉しいけれど、ただ読んでいるだけ、話の面白さを追っているだけ、読む物が絵本やマンガであっても全く差し支えない。

「せんせいの部屋って、狭いね」

 子供だから、思ったことは思った通りにいう訳だ。俺は苦笑いして、部屋をぐるり見回してみた。

 この島に当分は、いや、永住も視野に入れて、ともあれ滞在するということになれば、家が要る。という訳で、この泉を臨む林の中にささやかな家を建てた。と言って、もちろん俺一人で木を切ってとんとんやって組んで建てた訳じゃなくて、みんなに手伝ってもらったのだけど。

 家が必要なのは、寝る場所が無いからというだけの理由であって、逆に言えば夜露さえしのげて、ある程度の大きなデスクと椅子があって、本棚がひとつあれば、それで十分。食事を一人でとることなんて無いと言い切ってしまって良いような生活だから、俺の家においてそれ以上の設備は必要ないのだ。後は、風呂とトイレと。確かに、改めて見れば、狭いと言って良いだろう。アズリアとイスラの住む家は、それぞれに一部屋ずつあって、二人の食卓、居間まである。彼女たちの生活環境は十分すぎるほど整っている。

 イスラは今日こうして、午後十時、既に食事も入浴も済ませてこの狭い家に泊まりに来ている。それは、アズリアの想い人、いや、……共に想い合っているのだから、もう「恋人」と言っても差し支えは無かろうが、本人はまだ否定する、おそらくそのうちに肯定するようにもなるのだろうが。

 邪魔になる訳ではなかろうが、そのギャレオが休暇を利用して来てくれるというのなら、二人でゆっくり過ごさせてあげたいと俺は思って、イスラをうちで預からせてもらうことにしたのだ。彼女は申し訳なさそうに笑っていたけれど、申し訳ないと思う必要など無い、寧ろ、いい事をしたという爽快で傲慢な思いをさせてもらってるのだから、俺こそありがとう。

 夜更かしをさせるのは良くないことだけれど、イスラはまだ眠たがらないし、俺もこのくらいの時間、一人でイスラの心のことを考えて過ごすのだとしたら憂鬱だけれど、側で笑っていてくれるのなら気にならない。

 イスラの体からは、アズリアが使うのと同じ石鹸の匂いが漂っている。だから、何となくこの狭苦しい部屋の中に小さな花が咲いたみたいだ。

 初めてイスラがあくびをした。

「そろそろ寝ようか」

「うん……んー」

 ぱちりぱちり、二度まばたきをして、イスラはひょいとベッドから降りる。

「まだ寝ない。せっかくせんせいのところ、泊まりに来たんだもの、すぐ寝ちゃうのもったいない」

 イスラは特有の、悪戯っぽい微笑みを浮かべる。大人が、何にも気取らずに微笑んだら、そういう微笑みになるんだろうっていうもので、時折イスラが浮かべるそれに、俺はどきりとする。そのアンバランスさが、やたら鋭い切れ味を持つようだ。そして、俺の皮膚のところどころ柔らかなところを平気で傷つけていく。血が冷たくつうっと流れる。俺は、でも、何とか大人しい苦笑を浮かべて、

「そんなこと言っても、何をするの? 見ての通り狭い部屋で、遊ぶものなんて何も無いんだよ? スバルもパナシェもマルルゥももう寝ちゃってる、起きてるのは君と俺だけだ」

「でも……、そんなこと言っても、せっかく来たのに」

 妙に悲しそうな顔になる。

 子供はもう寝る時間、だけれど、……イスラは……だから、いいか?

「仕方ないな、あと三十分だけ。みんなには内緒だよ」

 イスラに夜更かしをさせたのか!! と、おねえちゃんに怒られるのは、ごめん被りたいから。

 俺は、イスラの手を引いて、湖のほとりを少し歩いた。風が月を溶かして、寒い音を届かせているのが、一番心地良く感じられる大きな一枚岩の上に、二人で並んで座った。

「寒くないかい?」

「うん」

 そう答えたけれど、心配で、俺は上着を脱いで、その肩にかけた。

「俺が夜、眠れないときによく来る場所なんだ。ハッキリしたことは言えないけど、多分マナの流れのいい、心の休まるように出来ている場所なんだと思う。心が昂ぶって、体が火照ったりそういうときに、ここへ来て、しばらくじっとして……、そうすると不思議と気が休まるんだよ」

 ふうん、とイスラは、あまり興味もなさそうに聞いていた。と、思ったら、唐突に、緊張を孕んだ声で、

「せんせいが眠れないときって、どんなとき?」

 と聞いて来た。

 それはやはり、イスラのことを深々と考えたときだ。眠れなくなるのが辛いから、いつもあまり深くなる前に、心の動きを止めて、真っ暗にして眠ってしまうのだけれど、逃げてばかりいられる問題でもないから。

「……君のことをずっと考えているときかな」

 イスラは、じいっと俺の顔を見詰める。

「それは……、昔の僕のことを、考えてるとき? それとも、今の僕のことを?」

 俺は、その視線から逃げるように、湖に目を逸らした。

「多分、その両方だね」

 イスラはじっと黙っていた。

 しばらくして、俺の肩に甘えるように体重をかけた。

「覚えてなくて、ごめんなさい」

「……いいんだよ、誰も悪くなんて無い。俺はイスラのことが大好きだから」

「でも……」

「本当に、大好きだから」

「先生」

「君のことが大好きだから」

 俺は、その黒髪を、出来る限り優しく、撫でたつもりだ。それ以外、どうすることも出来なかった。そんな俺に、イスラは少しの臆病さも無く、言った。

「僕も、せんせいのこと、大好き。本当に、ずっとせんせいと一緒に勉強出来たらいいな」

 どんなにおぞましい結果が待っていようとも、あのイスラが戻ってくるのか、このイスラが永遠にこのままなのか、判らなくとも。俺はただ、祈ることもせず、待ちつづけよう。イスラの隣りで、幾千もの夜、眠れないまま過ごそうとも。

 時にこうして君を隣りに感じて過ごすことのできる夜を見つけることが出来るならこの夜の中身まで埋もれていても構わない。

 


back