僕ハココニイマス。

 大丈夫、ここにいるよ。ずっと、ずうっと、ここにいるから。

 

 

 

 

「ギャレオから?」

 その表情が、春風に触れたようにふと緩むのを、俺は背中から読み取って、訊ねた。

「ああ」

 アズリアは、僅かに笑みを含んだ声で答え、振り返り、俺にぺらりと便箋を垂らして見せた。軍人らしい武骨な、楷書で書かれた字が、読みやすいと感じられるほどその字は俺にも馴染んでいた。

 岩のような体躯をした彼が、その手のひらに収まってしまうほどの真っ白な便箋に、極めて神経を使って丁寧に丁寧に、多少の緊張を含みつつ記した手紙であって、その手紙は、逆に胡散臭さが漂ってしまうほど完璧に整えられた文体で書かれている。でも誰だって、大好きな人に手紙を書こうと思ったら、そんな風になるんじゃないだろうか。ゆっくりと手紙を読みながら、彼の緊張が好もしく伝わってくる。

「たまには、会いに行くのもいいと思うよ」

 俺が言うと彼女はいつも、俯き加減に笑って首を振る。

「でも、こんなに会いたがってるのに」

「心配は要らないさ……、もうすぐ休暇に入る。会いたければあいつの方から来るだろう。それに、イスラのもとを離れる訳にはいかないさ」

 だけど、そういうアズリア自身、彼に会いたいと思っていることを俺は知っている。

「まあ……、そのうちにな」

 いつもそう言って誤魔化してしまうけれど、アズリア、君はいくつだい? 俺と少しも変わらない、弟のことを想っている君は、確かにいつだって素敵だけれど、君にだってもっと幸せになる権利が、俺にはあると思うから。

 なんて、俺が考えていると判ったら、アズリアは怒るんだろう。けれど、イスラだって君の幸せを望んでいるに違いない。

 イスラの為に軍を辞めたということを、もちろんギャレオは知っていて、そうそう自分の気持ちを正直に出すことが出来ないモドカシサが、手紙の端々に現れている。会いたくて仕方がないのに、そんな思いを必死で隠して、飾った言葉で蓋をして。けれど、やっぱり滲み出てくるように、寂しさが伝わってくるのだ。

「……そろそろ夕食の支度をするか。食べていくんだろう?」

「そうさせてもらうよ。……イスラは?」

「また汚れて帰ってくるのだろうな、……悪いが、風呂に入れてやってくれないか?」

 アズリアの言葉の通り、イスラはやはり泥だらけになって帰ってきた。元気一杯遊んでくるのはいいことだけれど、本当のところは、あまりはしゃぎすぎてしまうのも困るものだ、……イスラに限ったことじゃない、パナシェにしてもスバルにしてもマルルゥにしても、元気がいいのは嬉しいけれど、過ぎたるはなんとやらで。

 いつだったかは忘れたけれど――そんな前のことじゃない――四人でハスに乗って遊んでて、……けど、イスラが岩で足滑らせて。それを助けようとしてスバルが飛び込んで、マルルゥが引っ張ったところでどうにかなるようなものではないし、パナシェが半分泣きながらキュウマを呼びに行って、事なきを得たということがあった。

「せんせい、ただいま」

「おかえり、……またずいぶん汚れて帰ってきたなあ。今日はどこで遊んだの?」

「ユクレスのお花畑で、みんなでかくれんぼして遊んだんだよ」

「……だからそんなに花粉塗れなのか、お風呂沸いてるから、すぐ入ろう」

「うん」

 黄色い粉をふわふわ、あまり散らさないようにそうっと歩かせて、浴室まで連れて行き、服を脱がせて、篭に纏めて入れた。花の甘ったるい香りが、ふわりと俺の鼻に届いた。

「せんせいは入らないの?」

「入るよ。一緒に」

 イスラは、にっこりと笑って、嬉しげにこくりと頷いた。この子の笑顔には、何だか心が休むのだ。

 この子の笑顔は、綺麗だと思う。元々、端正な顔立ちをしている。大人になれば誰だって、素直な心で笑うことが難しくなる、その笑顔は徐々に真実味を失う。でもイスラは、純粋な少年の微笑を見せてくれる。それが、俺たちを救うケースが多々ある。疲れているはずのアズリアが、このイスラの微笑みに元気を取り戻すのを、俺はよく見て知っている。

 子供の心が宿った大人のイスラ、罰であり、望まれぬ形であり、しかし、それでもこの子は存在する。価値を持った一個の命として。

「せんせい……、お湯熱いよ」

「うん、でも我慢、な、イスラ」

「……んー……」

 大人二人が一緒の浴槽に入っているようには感じられないだろう。

 真っ黒の、深い目が、くるくると表情を変える。

 あの日から、動き出したイスラの時計は動きつづけ、もうひとつはその内奥で眠りに就いたまま。

 仮にもうひとつの時計が動き出したら、俺たちはどうする? そんな益体もないことをとても深く俺たちは考えるときがある。

 イスラはイスラだ。そんな真理に興味は無いんだ。俺たちに齎される未来がどんな風に変わるんだろう。それが、……怖い。今の、胸が少し縮まったような感覚の生活は、俺たちにささやかだけど、幸せをくれている。イスラが子供たちと遊んで、いろいろなことを学んでいくのを見ていて、俺の頬には自然と微笑みが浮かんでくる。

 今が幸せなのか、それとも、「イスラ」が戻ってきてはじめて幸せになるのか。どっちも本当に幸せなのには間違いはない。だけどきっと俺たちは、今のイスラを見ている間だけ、かつてのイスラを求め、あのイスラを取り戻して、今のイスラに泣くだろう。ものすごい我が侭だと、我ながら思う。

 アズリアがどう考えているのかを、ちゃんと聞いたことは一度も無い。けれど、きっと同じように複雑な想いを抱いているに違いない。時を経て、今のイスラを認め、その良さを知っていけば行くほど、今のイスラを愛するようになる。彼女自身、判っていないのかもしれない、自分の愛しているのが、イスラなのか、何なのか。イスラという体は体、変わらない肉体。だけど、心は二つ存在し、二つながら存在することは出来るまい、どちらかが生きればどちらかは眠りに就く宿命にある。俺たちは、一体、何を求め、何を愛しているというのか。

 どうとも結論の出るものでもない。

 俺の気持ちの行ったり来たりも知らぬげに、

「せんせい、もうあがろうよ、僕もう上せちゃうよ」

 と、幼い口調の声を上げる。うん、そうだねって、浴槽を跨ぎ越して、ところどころ擦り傷のある体を拭く。イスラ、十七歳。こうして改めて見る体は大人としての骨格が出来上がりつつある。徐々に大人へと、進んでいく、だけど心は生まれて数年のスバルと変わらない。あの破壊の剣を振るった腕の細い中にしなやかな力が眠っているのだし、細い長い足の付け根には性毛の生え揃った性器が下がっている、本当ならそれだって使い道が在るだろうに。

「イスラ」

「せんせい、僕、服くらい自分で着れるよ」

「着れる、じゃなくて、着られる」

「……はあい」

 あまりよくない、そう思っているのだけど、やっぱり俺は、今のイスラを可愛い子と思っているのだろう。もちろん、あのイスラが目覚めたとして、それはそれで、やっぱり、嬉しいことには変わらないのだろう。どちらが上とは、絶対に言えないけれど。

「さ、おねえちゃんが待ってる。行こう」

 うん、と、優しげな声でイスラが答える。俺は、生乾きのその髪を、もうひと拭きするべきだったか迷いながら、髪の湿っぽいことなど少しも気にしないで歩いていくイスラの、半歩後ろを歩いていく。

 

 

 

 

 せんせい、泊まってけばいいのに。イスラにそう引き留められたけれど、また明日ね、そう言って辞去して、涼しく濡れたような風が隣同士の葉っぱの縁を擦れ合わせる音に耳を傾けながら、時折足元に落ちた枝を踏ん付けて折ったり割ったりしながら、家へ帰る。湖面に映る月が、風で幾つにも分かれる。一層静かに感じられる家の中で、一番小さな明かりを灯して、クノンから借りているデータを紙にしたものを、もう一度読み返す。

 人の記憶は戻るもの。それは、引出しの鍵が無くなって、空かなくなっているようなもの。鍵さえあれば、中に入っていた記憶は、呆気なく元に戻るだろう。俺は何遍も何遍も読み返して、やがて喉の奥、ちくちく刺さるように思えて、机の上に出したまま、ベッドに仰向けになった。

 イスラを、何が幸せにするんだろう? 俺はイスラと、「笑えるように」と約束をした。そして、現に今のイスラは、純粋な笑顔をいつでも浮かべてくれる。パナシェ、スバル、マルルゥと子供を三人並べた中で、一際大きな体をしているけれど、同じように子供のイスラを教えながら、この美しい日々がずうっと続いたら良いのにと俺は思う。しかし、イスラの目を醒ましてあげたいとも、思うのだ。クノンにあのデータを欲して、読んだくせに、今も何も出来ない俺は、イスラと交わした約束を守っていることになるのだろうか。

 真っ暗な部屋の中で、俺は急激に疲れていく。

 

 

 

 

 俺はだけど、ずっとここにいる、イスラと一緒にいる。イスラと共に生きることが、俺の人生になるのだと言ってしまっていいと思っている。俺は、アズリア以上に、イスラを守らなければならないのだと思っている。いつかイスラが記憶を取り戻す日が来るのか、それともずっとこのままなのか、俺には判らない。けれど、この先どんなことが待ち構えていたとしても、俺はイスラの側にいる。イスラのことを、見守り続ける。

 俺はこれを苦しみだとは思わない、ただ、人間的な感情の為せる業ではないということを、薄々判っている。これは理性でも感情でも理解の出来ない範疇の行動と思う。本能と言ったほうが相応しいのかもしれない。

「……アズリア?」

 今日も、少し疲れた顔の彼女は、元気を装った顔で、振り向く。その顔は、一種の母性すら感じられるもので、俺は胸が詰まる。

「あのさ、今日、子供たち、スバルのところ、ミスミ様の御殿でお泊り会をするんだって。イスラも一緒しても構わないかな?」

「……ああ、別に、私は構わないぞ。ただ、ミスミ様にご迷惑はかからないのか?」

「うん、その点は心配要らないと思う。まあ、あまり夜遅くなったりするようだと問題だから、俺も一応、引率って事で一緒に行くし」

「そうか。……よろしく頼むぞ」

 アズリアはまるでイスラの姉というより母親のように見えるが、その母親という立場への類似ならば、俺もまた同じ事だろう、俺は血も繋がっていないイスラのことを、本当の兄弟のように、或いは、腹を痛めて生んだ子供のように感じてしまうときがある。姿が見えないと、ただそれだけで心配をしてしまえるような。いや、違うか。……もっと、もっと、もっと濃い、ずっと濃い。それはやはり、理屈ではない、感情論でもない。いっそそれが事実なのかもしれないが。

 イスラを、まるで、俺自身のように、俺の体の一部分が独立したもののように、感じるときがある。だから、イスラが嬉しそうに笑っていれば、俺も、何だか快い。イスラの顔が悲しみに歪んでいたら、俺の胸も張り裂けそうになる。どこかで、……あの一対の剣を共に振るっていたから? 俺たちは、元々同じ物だったのが、二つに分たれて在るが故の、共有を果たしているのかもしれない。きっとどうやっても説明出来ないことであると判りながら、どうしようもなく強く、俺はそれを感じるのだ。

「おねえちゃん、いいって?」

「うん、……着替えも持ってきたよ。行こうか」

 途中、すれ違う住民たち一人ひとりに挨拶をして、足取り軽く、イスラは歩く。無限大の未来の可能性を秘めた、子供の足取りで以って。

 俺は君のことを、ずっと見守っているよ。それは、俺自身を見詰めることにも、なるのかもしれない。とても怖い気がするのだけれど、でも、俺は君を幸せにしてあげたい。

「おねえちゃん、あのギャレオってひとのこと、好きなんだよ」

 普段と違う布団で、なかなか眠れないらしいイスラは、うつ伏せで枕を顎の下に抱えて、俺に言う。

「あのひとから手紙来ると、すごく嬉しそうな顔になるんだ。……だけど、読み終えるころにはいつも決まって、すこし寂しそうな顔になるんだ、……なんでだろう」

 姉のことを思うその表情は、ひょっとしたらあのイスラが浮かべるのと、ほんの少しも差は無いのかもしれない。

 そして、夢を見るような顔になって、

「おねえちゃん、あのひと好きなら、ケッコンしたらいいのになあ。そうしたら僕、嬉しいよ」

「……でも、ギャレオと結婚したら、おねえちゃんはきっとこの島から出て行ってしまうよ?」

 イスラは、驚いたような顔をした。

 でも、くすっと笑って、

「わかってるよ、そんなこと。でも僕は寂しくない。だって、この島にはスバルも、パナシェも、マルルゥも、護人のみんなもいる、たくさんのともだちがいる。それに、せんせいがいる。僕は大人になってもずうっとこの島で、みんなと一緒に暮らしたいな」

 アズリア。イスラはこう言っているけれど……。君のしたいようにしたら、俺はいいと思う。

 大丈夫、イスラのことなら、俺が一生、責任を持って守りつづけるから、さ。

「……せんせい?」

「うん……、そろそろ寝よう、ね」

「はい。……おやすみなさい」

 俺は、俺の手の甲に、そっとイスラの手のひらが乗ったのを感じる。そして、そこから俺たちは繋がって、元々ひとつだった命だったことを確信させるように、融け込んでいくんだ。


back