山椒

 餅を、煮る。

 胡麻油で焼き目をつけた鶏肉に、糸三ツ葉を散らし、大根、人参。

 行平鍋の水面が沸き立つ、きらきら、きらきら、胡麻の香が舞い上がる後ろで、足音は裸のまま、白い息の流れる気配が在る。

「何作ってんだ……?」

 覗き込んで、「……雑煮か?」。

「おはようございます」

「……ん」

 あくびを噛み殺して、振り返った顔色はあまり良いとは言えず、元より白い顔の双眸の下を、薄ら青い隈が縁取っている。昨夜も随分と遅くまで格闘していたに違いなく、ソファに膝を揃えて座って居たタナトスを振り返りもせず、「おやすみ」と硬い声で言ったオボロは寝不足の不機嫌をさほど表出することもなく、床に尻を落とすと紙巻煙草に火をつけた。

「もうすぐ出来ますから」

 鍋を上げて言えば、「おー……」、気だるげに顔を傾けて、また一つ、今度は噛み殺すことなく遠慮もなく、大きなあくびをオボロはした。

「出来上がったんですか」

 餅を、食う。

 箸の端に伸ばしながら、ぼんやりとした目で餅を眺めながら、「正月でもねえのに」とオボロは独り呟いてから、「うん」と、気勢の上がらぬ声で言う。

「つまんねーの……、骨折り損の草臥れ儲けっつうか、……なあ」

「また外れを掴まされましたか」

「『また』とか言うなよ」

 すみません、と謝ってそっとオボロの顔を伺うが、大して気にした様子もなく、餅を見飽きたように口の中に入れる。蓄積した精神疲労が挙動の随所に見受けられるが、それでも朝、餅を二つ入れて雑煮を作ったタナトスをオボロは裏切りはしないのだ。交わす言葉も少ないまま、オボロが餅を噛む音ばかり響く朝餉は終わる。

「お雑煮は嫌いでしたか」

 刺すような冷たさの水で碗を洗いながら訊いた。咥え煙草で、疲労を両手の指先から垂れて行かぬことに焦れたような精彩を欠いた表情のオボロは、「や」、と不明瞭な返事をした。並んで立つと頭一つ、オボロの方が高い。その顔の、目の下以外の主に何処に疲労が顕れるかを見て取れるくらいには、タナトスはオボロに詳しい。

「……お風呂、洗ってありますけど」

 ちりちりと痛い指先を包み込みながら、言った。

「沸かしますか?」

「……洗った? いつ?」

「オボロさんが起きてくる前にです」

 ぷあ、とその唇から煙が塊となって浮かぶ。擦り硝子の窓を開けなくとも、訪れた朝が蒼い色をしていることは判っている。気紛れに立ち寄ったかのような冬は露を霜に変える、オボロの視線はタナトスの赤らんだ細い指先に一度触れて、それから逸れた。

「お前、靴下履けよな、見てるこっちが寒ィよ」

 はー、と自分の指に、煙の混じった息を吐きかけながらオボロが言う。「寒ィ……」とソファの前の床に胡坐をかいて煙草を潰し消し、自分の足先を掴んだ彼に相応しい言葉が思い浮かばなくて、抽斗から燐寸を取り、風呂の支度に取り掛かる。浴室でそっと吐いた息はオボロの吐き出す煙のように、はっきりとタナトスの眼に映り、恐る恐る開けた窓の隙間から這い入り込んできた風にあっという間に掻き消された。打たれたように首を竦めて、冷たい敷石が針のように思える足の小指を慰める意味として、風呂の支度をタナトスは始めた。

 

 

 

 

「オボロさんは、寒いのが平気なんですか」

 ソファに膝を抱えて座って、赤毛の旋毛を探しながらタナトスは訊いた。

「そう、だなあ……」

 その長い髪は、闇色のタナトスの髪とはまるで質が違う。奔放に在るように見える。普段は結んだひとふさも今はまだ解かれたままで、何処に枕が当たっていたかも瞭然としていた。まだ、……くあ、とあくびをする、「暑いのよりゃ寒い方がいいわな。……暑いとダレるし、何つうか……、色々鬱陶しいだろ」。

「髪がですか」

「……あん?」

「髪が、鬱陶しいですか?」

「あー……、そう、なー。髪も、……でも、短くしたことねーから判ンねーや」

 自分でも、寝癖がついている自覚はあるらしい、ぐしゃぐしゃ、見ているタナトスが首を竦めて止めたくなるような乱暴さで自分の髪を掻き毟る。

「オボロさん」

 なんだよ、と振り返った顔に、

「お風呂、沸いてますよ」

「……お前ねえ」

 毒っぽい笑いを浮かべて、何か言いかけて、オボロはやめる。タナトスの隣には、一連の会話の流れから取り残されたように、着替え一式が綺麗に畳まれているのだ。

「……あー、判った、入る」

 立ち上がって、ちらり、オボロの視線は、今度はタナトスの足の指に向けられた、「……靴下履けって言わなかったっけ?」。タナトスは隠すように其処を指で包んで、

「お風呂の支度するときには、どうせ裸足じゃなきゃ出来ませんし。……靴下履いたままお風呂入れませんし」

「素直に言うこと聞けよな」

 ぐいと黒髪を、撫ぜると言うよりはもう一段か二段乱暴に押さえられて、タナトスの黒髪も崩れる。オボロは夕陽、タナトスは闇夜、互いの都合で乱れた髪に一瞬視線が絡んで、

「すみません」

 素直に、謝る。

 湯屋の万福に行く日が在るが、大抵其れは召集のときで、二人の住処にも浴室ぐらいある。但し、そう広いとは言いがたく、大人の男が二人で入るには、膝の譲り合いから始めなければならない。オボロはタナトスよりも年嵩で、それゆえに身体の大きさに違いが出るほどにはタナトスもまだ幼く、オボロもまた、まだ若い。タナトスはオボロの背中を洗いながら、その裸の前に自分の身体の小さいことを意識して、羞恥心を刺激される。

「ご苦労。ってか寒ィんだから入ってろよ」

 判っているくせに、オボロは言う。曇り鏡に映らない顔は、唇の端を歪めるように哂っているのだとタナトスに判らしめるような声だ。ざぶんと大胆に湯を自分の背中にかける、顔に飛沫の掛かったタナトスが強く瞑った眼を、恐る恐る開けるのを待ち構えるように彼は既に振り返って居た。

「あう」

 濡れた右の掌で、顔をぐるぐると撫ぜられる。

「入るぞ」

「はい」

 鼻を拭いて、タナトスは素直に頷く。それからくしゃみを一つ、して「ほれ見ろ、風邪ひくぞ」とまるで父親のようにタナトスの手を引いて、浴槽の縁を跨ぐ。

 少し暑めの湯にも、「肩まで浸かれ」とオボロが言うから、膝を抱えて従う。タナトスはオボロの足の間に、いつものように其処を居場所と定めて座り、腰に廻された手に応じるようにほんの少しの体重をオボロにかける。元よりオボロよりずっと体重の軽く、また身体も小さなタナトスである、その上浮力が働けばオボロの腕の中胸の中は動揺の隙の一分もない安定感さえ伴うのだ。

 だんだんと、眠くなる。

 其れを押さえるように、だんだんと熱くなる。オボロが眼を閉じているのかどうかはタナトスには判らないが、差し込む冬のか弱い光の腕に眼を上げれば、まどろみの誘いのようにも見える。

 オボロは熱い湯でも平気で長湯をするが、タナトスは四半刻も入っては居られない。このまま眠られては面倒だな、と思いながら、静かに自分の足首を握る指で、時を数える。

「……暑いか?」

 起きていたのだ、オボロは訊く。

「……暑いです」

「もうちょっと温く入れりゃいいんじゃね?」

「でも、オボロさんは熱いお湯がお好きでしょう」

 まあ、なあ、と、苦笑いの篭った笑みが、なぜかその腕を連れて来た、くしゃくしゃと黒髪を指で遊ばれて、頭を揺すられて、不平の声を上げようとしたところで止まる。再び腹に両手が廻されて、「雑煮美味かったぞ」と。

「でもさ、雑煮ってのは正月に食うもんじゃねーのかな」

「……さあ、どうでしょう。お餅が安かったので。あと、小松菜も……」

「いや、美味かったからいいんだけどさ」

 ふと思い出したように「お前の生れは何処なんだろうね」と、オボロはぽつりと呟いた。雑煮といえば澄んだ汁に角餅に、青菜、豪奢に過ぎるが蒲鉾や鶉など入れても美味いものとタナトスは何となく思っている。

「……白いの、の方がよかったでしょうか、白くて、丸いのの方が」

「んー、……いや」

 美味かったって、もう一度オボロは言って、立ち上がった。腰に手を廻されたままだから、タナトスも一緒に立ち上がる訳だ。ほんの少しの立ちくらみは、オボロの腕が解かれるまでに収まる。

「紅くなってら」

 タナトスの頬を肩を指の背で撫ぜて、オボロは笑う、「マジでさ、次回からもっと温めに入れろよな」、ぎゅ、と眼を閉じて、ゆっくり開く、もう視界はぼやけない、「はい」と、タナトスはしっかりした声で返事をした。

 

 

 

 

 黒い黒い黒い髪は、湿り気を帯びている間は窓越しの緩い陽射を受けて煌くが、やがて乾けばやはり全てを飲み込む闇となる。オボロはくしゃくしゃと大して気配りもせずに解いたままの髪でいつまでも居て、ソファに横たわっている。台所の掃除を終えて戻ってきたら、いつからか、そのまま、静かな寝息を立てているから、丹前をかけた。そのまま、床に尻を落とし、オボロの寝顔を何となく、眺めることで無聊を慰める。

 綺麗な人。

 先程それを「寝息」と称したが、耳を済ませて聞けばカ行の音が混じる。口を開けて寝ているせいで、何処か子供っぽくも見えるし、しばらく黙って見ていれば丹前を握って何事か寝言を紡ぐ。ふと思い立って箪笥から穴の開いてしまったオボロの着物を持ってきて、繕い始める。

 手元に眼を落としてどれくらい立っただろう、

「ふ」

 オボロの口元から笑いが漏れた、夢でも見たのだろうかと顔を上げると、眼は開いていた。

「……何やってんだよ」

 横転した笑顔は、それでもとても綺麗な人。

「穴が開いていたので。オボロさんは『平気だ』っておっしゃってましたけど、僕はあまり『平気』じゃないですから」

 糸の端を丁寧に切って、広げてみせる、「どうですか、これで」。悪くないんじゃね? とオボロは横たわったまま言い、おいで、と手招きをする。

「……何です?」

 んな色々しなくたっていいんだって。オボロに身を重ねると、背に腕を廻される。

「僕がしたいからしているだけですよ。したくなかったらしませんし」

「したいと思ってくれんのは有難いけどさ……」

 タナトスは自分の立場を弁えて、何もしない自分で恬として恥じぬような素振りは見せない。この体重を、こうして支えている人を抱きかかえることがタナトスに出来ない以上、己の在り様の定め方は容易だった。

「オボロさんもなさりたいようにしてください。ただ、おやすみになるなら寝台で」

「……うい」

 己の身体に触れる掌が離れる。触れられるのは余り得意ではない。得意ではないが、触れられている間はあまりそういうことも考えず、齎される体温の量を覚えることに意識が傾く。其処を辿った血が、温かくなって、流れて、この季節なら冷えた四肢に行き渡るのは、悪いものではないと考えることぐらいは出来る。

 立ち上がり、「あーあ」とあくびをして、寝室へ入るオボロが振り返らないまま「夕方になる前に起こして」と言った。

「はい、オボロさん」

 あ、と入りかけた背中に、「僕、あとで買い物に出ると思います」。

「ん。気をつけてな。……おやすみ」

「おやすみなさい」

 朝食から随分時間が経った。一人きりの昼食になる。雑煮の汁がまだ残っている。深い寒さが床を這う部屋の底で裁縫道具を片付けたら、台所に立って餅を焼き始めた。


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