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退屈に任せて考えてみる。

 人間の定義とは何なのか。例えば辞書で「人間」とひいてみると、まず「人の住む所、世間、世の中。じんかん」とある。誰かと共に在る事が人間であるということを、示唆していると見ていい。つづいて「ひと、人類」、「人物、人柄」と続く。

 人間とは、俺が俺なりの考で大雑把に言うなれば、例えば言葉を持った生き物の総称だろうと思う。しかしこれはいわば狭義の定義に過ぎず、動物同士であっても、俺にはわからない言葉のやり取りを行なっている。だから、人間というのは、人間同士で理解しあえる範囲の言葉を持った生き物、と言えるだろう。無論、構造上の問題によって、話し言葉や書き言葉でのコミニュケーションを行なえない場合も含めてだ。だからと言って彼らが言葉を持っていないとは決して言えない。言葉とは気持ちを表すものだから、だから人間というのは、伝達する手段と、「もの」を持った生き物であると考える。

 俺は、小さい頃は多少舌っ足らずのところはあったけれど、耳は聞こえるし、今ではさほど発音が不明瞭だとも思わない。思ったことを舌に乗せて発音し、相手の言葉を聞いて理解するという、一連の会話行動に一切の支障はない。だから俺は、特別に意識していなくとも、いろいろの「言葉」を発したり飲み込んだり、操縦している。それが自然で在る事と思い込みながらそうしている。

 例えば俺のもっとも日常的に使う言葉は何かと考えたら、人称代名詞や固有名詞などの体言は一応除くと、やはり「好き」になると思う。クラウドに対して、ヴィンセントに対して、或いは、食べ物や飲み物、果ては無機物に対してまで、ことあるごとに、その言葉を使っているように思う。推察するに、普段から「あ、俺はこれ、好きだ」と考えることが俺は多いのだ。もちろん、その逆で「俺はこれも嫌いだ」と、「嫌い」を無意識に連発する人もこの世にはいるのかもしれないが、少なくとも俺はそうでなくてよかった。

 人間で在り続ける以上、俺たちは言葉を使って思いをやりとりする方法を取らざるをえない。これは、俺は思うに、自分が人間であることの証明の為にもだ。いつだったかティファが、「思いを伝えられるのは言葉だけじゃない」と言った。だけど、俺はいまはそれが違うと、思う。やっぱり言葉が気持ちを伝えるのだ。屁理屈と採られても構わないが、行動もまた「言語」だと、俺は考えるからだ。言語、もしくは「記号」と言い換えてもいい。と言って、ソシュールにシニフィアン(表現)とシニフィエ(内容)について語るのではない。それほどの知識はない。もっと感情的に、俺の取る行動は、俺の中身の言葉がそうさせるのだという確信がある。だから、俺の行動が誰かに何かの印象を与えるにしても、それは、「言葉」の力なのだと、信じ込んでいるのだ。この考が俺の友達の数を減らしたという事実はないからして、正しくなくとも誰かに迷惑をかける類のものではないと考えている。

 言葉とは、非常に力強いパワーだと俺は思う。「ペンは剣より強し」という俚諺もあるが、俺は仮に、俺が殺そうとしている誰かに「愛している」と言われたら、どうするか解らない。机上の空論で虚しいが、ひょっとしたら剣を取り落としてしまうかもしれない。言葉、とりわけ、口から発話された生の言葉には、恐るべきパワーがあることはいずれにせよ確かだ。「劬」という漢字があって、これで「ちから」と読むのだが、「句」に「力」と書くものだから俺はてっきり「言葉の力」を意味する字なのかと思っていたら、これは背中を丸めて懸命に労働する姿からの会意兼形成文字であり、「句」は「語句」の句ではなく、「まるく小さく屈む」という意味に基づくのだそうだ。「劬」でなくてもいいから、「言葉の力」に値する漢字があれば素敵だろうと思う。存在するのかしないのか、するとしたらどんな字なのか、想像も付かないが。

 作家や詩人やアナウンサーのように、言葉を操る商売は多い。しかし、とりわけ俺は、詩人の言葉にはっとさせられる。これは多くの人が肯いてくれると思う。詩人の記す言葉というのは、喉に抜き身の刃を押し当てるその冷たさと鋭さ、しかし同時に、大好きな優しい人の手のひらで頬を包まれた温かさと滑らかさを、同じ次元で俺たちに印象づける。俺は詩人ではないから、彼らがどんな想いを言葉に対して抱いているのかはわからないが、恐らくそれはちょっと病的で妄執的で、しかしどこかで一歩ひいた冷静さを保ち続けるような、二面性のあるものだと想像する。詩人の言葉は難解だが、読解するに連れ、異様なまでに単純な文字列に過ぎないと気付くときがある。それは、ヴィンセントが難しい科白を並べて、結局言わんとしているところが「愛してる」に収斂するのにも似ている。

 俺のもっとも多く使う言葉、「好き」、もしくは「愛してる」は、考えてみれば英語で言ったら同じものなのだ。無論、英語は俺たちの使う言葉よりもずっと細かなルールがたくさんあって、例えば「これが」「それが」「君が」「クラウドが」、全て違ってきてしまう。俺がクラウドに「好き」と一言言うのだって、英語を使えば「I like you.」になるのだろうし、「愛している」は「I love you.」になる。しかし、俺は「好き」という言葉を言う際に「愛している」を同時に言っているつもりだし、「愛している」の中にはいくらでも「好き」が含まれているから、俺たちの使う言語では、少なくとも、俺にとっての言語の中では、どちらでも一緒ということになる。かの国の言葉には、かの国の言葉なりの細かな利点はいくらでも在ろうが、俺は、俺の気持ちは俺の言葉で考えているのだから、やはり俺の言葉で表した方が、嘘がないように思える。「愛している」は、やっぱり「愛している」なのだ。

 しかし、非常に頻繁に俺が思うのは、俺の言葉の使い方は、三十一年今年で三十二年生きていながら、いまだに未熟であることよと。いい加減、もっと上達したっていいと思うのだが、やはりその為には勉強をしなくてはならないのだろうか。ヴィンセントの言う言葉と俺の言う言葉とでは、雲泥の差があるのだ。どう、と上手く説明できないが、説明できない時点できっと駄目なのだろう、「どこがわからないのかわからない」、難解な算数の問題みたいに。俺は例えば、クラウドへ抱いている気持ちを表すとき、使える言葉が今の所二つしかない。言うまでもなく俺の口癖である「好き」と「愛している」なのだが、これは思うに、俺が言葉で楽をしていることになるのではなかろうか。本当はもっと繊細な気持ちを持っているのに、それをどう言ったらいいか解らない、表現する言葉(=語彙)を持っていない、だから「好き」と「愛している」という言葉に委ねてしまう。きっと、もっと、相応しい言葉があるときでも、「俺はお前が好きだ」と、言ってしまう。突き詰めて考えると、「好き」という言葉の意味の広範さに甘えているのかもしれない。そう考えると、なるほどかの言語は「love」と「like」、俺にとっては同じというか、カヴァーし合っている言葉であっても、二種類の異なる単語として存在する。のみならず、「favorite」なんていうのもある。そもそも「愛」という単語が「love」に対応する字として誕生したということを知るにつけ、俺の気持ちというのは、言葉というのは、希薄で軽率な一面を持っているのではないかという不安に駆られる。だから、確かに「言葉で伝えられない気持ちはある」というのはある意味では、真理なのだ。俺の中の気持ちを「好き」という言葉でしか伝えられない俺の気持ち、結局行動(=言葉)で示しておいて、しかしその言葉の正体を上手く言い表せないから、言葉では「伝えきれない」気持ちがあるという表現は、なるほど、正しい。しかし、そうではない、「思いは言葉によって伝わる」、そう考える所から、やっぱり俺は、始まるんだと思う。始めたいんだと思う。理由は単純、行動の言葉、発話されない言葉は、時に歪むけど、口から出たり、手紙に書かれたりした言葉は、結果的に常に真実であるという安心感がある。いわば、基礎ボルトがしっかりしているのだ。無論、発話された言葉は十全に気持ちを伝えうるものではない。しかし、それを補うべくして、行動の言葉があるのだと思う。俺たちの使う言語はその点では、とても美しい。難解な言語ではあるが、それゆえ、芸術的な美が、そこにはあると思う。

 一方で、未熟な俺の言葉、成熟したヴィンセントの言葉とはまた違い、クラウドの発する言葉というのは、平易ではあるが、だからこその正直さで俺の胸を強く叩く。彼も言葉は持っていない、年齢、学力、経験……、いずれにしろ、俺の持っている言葉の半分も彼が知っているとは思えない。しかし、それでもクラウドは、自分の気持ちを俺やヴィンセントに、適切に伝える術を持っている。一つの言葉に、強い力がある。そして、着目すべきだと思うのは、彼は猫の言葉も使う、という点だ。

「る……にゃあ……」

「にゃん」

「うにゃあ」

「にゃー……」

「にゃうぅ……」

「ふ?」

「にゃあ!」

 挙げたらきりがないが、鈴の鳴るような彼の鳴き声には、きっと人間には為し得ない感情の篭められ方がされているんではないだろうか。俺に解読できるのは、鳴き声に「う」が混じったら不機嫌、すなわち「うにゃあ」「にゃうぅ」のときは大体、その尻尾を振っている時だ、ということくらい。しかし、同じ「う」混じりの声でも「うにゃあ」と「にゃうぅ……」はまた違うのだ。俺の持っている言葉ではどう違うのかは説明しきれないけど、とにかく、違うのだ。そうして、「好きだよ」と彼が俺を見上げて言う時に、鳴る喉笛の音、文字にしたら「ぐるぐる」とか「ごろごろ」とか「くるくる」になるのだろうが、それらもまた、「好き」ではカバーしきれない言葉になっているのではないかと思う。これらを「言葉以外での意思伝達」と思うよりは「行動することによって言語を作成し、それに拠った意思伝達」と正確に理屈っぽく、考えた方が却って潤うと思うのだが、どうだろうか。

 こんな風に、退屈をしているときに考えるのは、頭のちょっとした体操になっていいと思う。

「ザックス、なにしてんの?」

 いつの間にやら、クラウドがドアの所に立って、首を傾げながら俺を見ていた。俺はソファから立ち上がり少し欠伸をしながら、「ちょっと」なんて何の答えにもなっていないことを言った。

「クラウドこそ。どうしたんだ?」

 クラウドはドアを閉めて、俺の座った隣に座る。尻尾が無意識に俺の手の上に乗るのを感じて、あ、やっぱり言葉を介さない意思伝達ってのはあるのかな、なんて軽々しく思ったりする。

「別に。ヴィンは上で本読んでるし、誰からも遊ぼうって電話来ないから、たいくつだなーって」

「そう……」

 暇つぶしにしてくれるなら、光栄なことだ。

「紅茶入れたら飲むか?」

「んーと……、いいや、喉乾いてない」

 だったら、俺も乾いてない。入れる必要はない。

 ぼんやりとクラウドは、壁にかかった絵を眺める。その横顔は、もちろん可愛らしいアウトラインに可愛らしいパーツ、だけど、静かに観察すると、なかなかに格好良くて、また良い所を一つ見つけたようで、嬉しくなる。

「クラウド」

「なに?」

「膝の上、来るか?」

 クラウドは、俺の顔から何かを見つけるようにじーっと見つめてから、納得したように膝の上に乗ってきた。シートベルトのように、彼の臍の上に指を組む。クラウドはそっと寄りかかって、気持ちの良い重みを俺にかけてくれる。こうしているだけ、別に、なにを始めるわけではない。こういう時だってある。ご期待に添えなくて残念だが。こうやって、クラウドの呼吸や体温を感じているだけで、俺は幸せなのだ。のんびりしてくる。

「……きょう」

「ん?」

「きょう、テスト帰ってきたんだ」

「ああ。この間の……、社会科だったっけ」

「そう。……九十点だったんだ」

 俺はきゅっと、シートベルトを少しきつくした。

「良い子だ」

「違うよ、百点取れると思ったのに……」

「でも、俺は良い子だって思う。すごいな、偉いなクラウド」

 シートベルトの位置を、少し上げて、クラウドの項に頬を寄せる。結んだ髪の匂いも、ついでに嗅ぐ。冷たい空気の匂いがした。

「……うん」

 クラウドは、何かを理解したように、肯いた。

「いい子だ。ヴィンセントにも褒められただろ?」

「ん」

「俺、嬉しいよ。頭のいい子の恋人で嬉しいよ」

「……恋人」

「嫌?」

「……いやじゃないけど」

 また、シートベルトを元の位置に。クラウドは、くるくると喉を鳴らしはじめ、俺の肩に頭を乗せ、喉を仰け反らせた。そうして、ゆったりと眠りに入っていく。柔らかな眠りに。

 何だ、せっかく来てくれたのに、また退屈になってしまうのか。

「……おやすみ」

 そう言ってやると、ほんの小さな声で、

「……ん」

 と応える。

 いい夢を見てくれますように。

 しかし、退屈になった所で、もう俺も考えるべき事はない。言葉について考えるなんて、そもそも人間には大それた事なのかもしれない。考えているだけで、ちょっとばかり疲れてきてしまったのだ。

 ただ、わかったのは、俺はわからない、というだけ。「どこがわからないのかわからない」よりかは、だいぶマシだと、そう決め付けて、俺も目を閉じた。

 


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