秋冬物

衣更えの季節である。

と、ベタなことに時節ネタから始めてしまったが、しかし十月といったらやっぱり、衣更え。残暑キビシイ九月も終わり、極彩色の季節が去った後、シックな装いの季節が遅れ馳せながらやってきた、という雰囲気。はしゃぐのはとりあえず終わりにして、テイクアウトのコーヒー片手に並木道を、落ち葉踏みしめながら歩いてみるのもいいんじゃないか? なんて似合わない事を考えてみる。食卓には秋刀魚が並ぶ事が増えて、それが一週間に四回くらいになると今日もサンマかとげんなりして、たまには松茸が食べたいけど、どうせ香り松茸味しめじ、だったらしめじで我慢してクラウドの小さなのでも頬張ってた方がよっぽど香りだって高いしジューシー。
 申し訳ない。話が下の方に流れてしまうのはもうどうしようもないことなのだ。これを直すには一度生き直さないといけない。それにしたって、三十一年やり直すというのは大変な手間。なんとか我慢、してほしい。
 半袖を長袖に更えて、押し入れの中身を入れ替えて、色もなんとなく落ち着いた感じのものに着替えて、涼しい幸せから暖かい幸せへと嗜好も鞍替えする。冷蔵庫の中から麦茶がなくなって、暫く経つのにまた、うっかり麦茶と想ってめんつゆを取り出してそれをグラスに注いで途方に暮れる。半ばになれば慣れるだろう。クラウドの通学帽も、夏は白、冬は紺って決まっているのだけど、衣更えの直後はうっかり白いのをかぶせて学校に行くまで気付かないなんてこともままある。八月から九月への一枚も大きいけれど、九月から十月への一枚も、違った意味で重みがあるものだ。
 夏休みの集結とともに、形式上は退いていたハズの夏が、本当にいなくなるという意味で。押し入れの中に、夏をしまったあとには、暦の上だけじゃない秋が来るのだ。だからなんとなく、ばたばたする。衣更えだって一筋縄では行かなくて。
 そんなどさくさに紛れて、今月の十三日はヴィンセントの誕生日がある。今年で七十歳になるのだ。といって、俺の三十一歳のバースデイもデザートに小さなケーキ一個とさらにそのデザートに小さなクラウド一人で済まされてしまったから、たぶん七十歳になるからといってたいした感慨もないであろう彼の誕生日も、同じようなものになるだろう。これから加速度的に早くなるであろう俺たちの一年の一日を祝いあうことの意義は確かにあるだろうけれど、お互い、毎回感激するというのは億劫でもある。
 ところで、ヴィンセントが誕生日を迎えるに当って、もう一人、こちらは満一歳の誕生日を迎える者がいる。十月十三日未明にこの世に生を受けた、猫耳少年ヴィンセントの事である。一応、ヴィンセントが猫耳ヴィンセントに変身するようになったのはあの日だったから、形の上では彼はまだ一歳、ということ。一歳と七十歳が同じ身体居しているというのも妙な話だが、今更そんなことにこだわる意味はない。ヴィンセントからしたら失礼しちゃう話かもしれないが、生身ヴィンセントの七十回目の誕生日を祝したいとはあまり思わないが、一歳児の誕生日はやっぱり祝ってやりたいというのは人情ではないだろうか。同一人物なのにこの差は一体なんだろう。たぶん、猫耳の時の彼は純粋に俺の事を好きだという「七十歳」の本音をぶつけてくれるのに、生身の彼は「七十歳」の本音をかなり苦いオブラートに包んで叩き付けてくるからだろう。どっちも愛には代り無いけれど、受け止めやすい形の方がいいのは間違いの無い事。
 ただ、どっちも、俺は愛しているんだ。今更誤解を招く事もないだろうけど。心から、愛している。
 生身の彼の前では、彼があまり素直にならないから、俺も素直になりにくいだけで。でも……、雰囲気みたいなものは感じ取ってもらえてるだろう? 俺がいかに彼を愛しているか、彼がどんなに俺をだいじに想っているかを。
 滲み出てしまうものなんだと思う。
 さてウチの「元祖猫耳」は秋から冬に向けてボリュームの増してきた毛皮を整えるのに余念が無い。猫はやっぱり綺麗好き、それが潜在的に現れているんだろう。右の肉球をぺろぺろ舐めて、それで左の手の毛皮を整えている。ああもう、そんなことをしたらお前の毛皮がフェロモンでいっぱいになってしまうじゃないか。しょうがないからおいで。
「う?」
「ブラシかけてやるから」
「にゃんっ」
 クラウドはすばやく俺のあぐらに収まった。
 普段はおいでって呼んでも、何だか疑り深そうに恐る恐る座るのに。コイツも徐々に学習というか、賢くなっては来ているな。俺としてはちょっと寂しい。でも、ブラッシングはやっぱり、猫の部分が悦ぶのか、いつでも来てくれる。クラウドの毛皮専用ブラシもちゃんと買った。
 基本的に俺とくっつくのはいやじゃないから、抱きすくめた後ろから両手の毛皮を整えている間中、クラウドはぐるぐると喉を鳴らして俺に頭を摺り寄せる。よほど機嫌がいいときはそのまま夜に発展してしまうこともあるが、それは俺の性欲が普段よりも強いときでもあって、今日はそうでもないから、学校の話なんかをしたりする。平和だろ?
「今日、算数の時間にさあ」

「うん」
「抜き打ちテストあってさあ……、でも、出来たよ、半分くらいはあってると、思うよ」
「そうか。残り半分は?」
「んー……、残り半分の半分くらいは出来てるかなあ……。残りの半分の半分の半分も、ひょっとしたらあってるかなあ……、残りの半分の半分の半分の半分は、あんまり自信無いなあ……」
「……つまり、何点くらいだと思うんだ?」
「んんーー、そうだなあ……、六十点くらい……、かなあ」
「……ちょっと聞くけど、その算数のテストって、内容は何だったんだ?」
「分数だよ?」
「そうか……なら、六十点くらいかもしれないな……」
 クラウドの毛皮の虎縞模様を綺麗に揃える。今日は夜から雨だと、昼の天気予報でやっていた。だからか、クラウドの毛は湿気を含んで、とてもつやつやしている。秋の、この毛のボリュームに、湿気が入って適度な重さが加わると、猫の毛というのは本当に好ましいものになる。鼻を摺り寄せて、ずっとずっとそのままでいたいくらい、幸福な存在だ。毛の流れに、ずっと指を流していたい。
「足は?」
「んー、足はいいや、手だけでいい」
 クラウドはひょいと立ち上がって、綺麗になった手の毛皮を誇らしげに眺めている。美人猫コンテストに出したって勝てるよ今のお前なら。

「綺麗だぞ」
「んー? んー、へへへ」
 普段は褒められると否定する(こと、ベッドの上では)くせに、にへらと笑う。自分の事を特徴の無い子だと彼は自評するが、やっぱりどこかでその毛皮、大切に思う気持ちがあるのは否めないのだろう。
「でもさあ、やっぱり毛皮だったらヴィンの方が綺麗だと思うな……。俺のは短いでしょ? ヴィンのは長くてふさふさで、飾り毛もついてるし、素敵だなあ」
「でも肉球はお前の方がピンク色じゃないか」
「んー、でもほら、やっぱり毛皮はヴィンの方が綺麗だよ。長毛種はやっぱりいいなあ」
 噂をすれば何とやらで。居間にヴィンセントがやってきた。クラウドと一緒に学校から帰ってきてから、何やら古い日記の整理とかで小一時間、自室に篭っていたのだ。クラウドと俺を見ると、主にクラウドに向けてにっこりと微笑んで、「綺麗だな」と。咄嗟に褒める言葉が出てくるのは、すごいなあ……。
「ヴィンの方が綺麗だよ。ヴィンの毛皮、ふさふさでさ」
 マグカップを流しに置くヴィンセントの腰回りにクラウドが纏わりつく。ヴィンセントはマグを軽く濯ぎながら、
「そんなことはないだろう、お前の毛皮の方が、縞模様がとても美しい」
 と答える。クラウドはヴィンセントの背中に鼻を寄せて、父親代りの匂いを吸い込んだ。俺にはあんまり、してくれないんだけどなそういう、甘えた行為。いや、勿論俺は愛されていないのかなんて思いやしないけど。たぶんどこかで、俺よりもヴィンセントの方が賢いというのを学習したんだろう。ザックスの前で油断してごろごろ言うといっつもえっちなことされるから、みたいな事を考えてしまったのかもしれない……。ううん。ちょっと気を付けようと思った。
「ねーえ、ヴィンセント?」
 マグカップを食器棚にしまいおえたヴィンセントに、クラウドはなおべたべた纏わりつく。嫉妬したくなるくらい、いや実際嫉妬してしまってるんだけど、にこにこ微笑みながら。ヴィンセントは苦笑して、抱き上げて、頬に静かな接吻を一つ。

「ヴィンさあ、猫になってよ。ヴィンの毛皮触わりたいんだ」
 クラウドはキスにキスで応えて、甘えた声を出した。
「お前の方が綺麗に決まっているさ」
「んー? そんなことないよう。ヴィンの、触わりたいんだ。だめ?」
「駄目、ということはないが……。仕方ないな」
 クラウドを下ろす、ヴィンセントは目を閉じて、自分を抱くように腕を回して、ふっと息を吸って吐いた。もう、精神年齢七十、肉体年齢二十七のヴィンセントはいない、そこにいるのは生まれてまだ一年経っていない、小さな仔猫のヴィンセントだ。
「これでいい?」
「うん」
 少年の姿のときは、俺と二人きりのときを覗いては、少年の言葉づかい。少年の声に乗せていつもの口調で喋られるのも、なかなか刺激的で良いのだけど、クリアなソプラノがいい。
「ふさふさで気持ち良いなあ……、ヴィンの手、いいにおい」
「そう、かな……? 僕はクラウドの方がいいにおいだと思うよ?」
「本当にそう思ってくれてるなら……、じゃあ俺たちは、お互いほんとに、すごい好きなんだ」
 俺、そんな幸せな事言ってもらえたことあっただろうか……。あるとは思うんだけど、いまは、思い出せない。
 何にせよ、クラウドの言う通り、猫耳ヴィンセントの毛皮には、クラウドとはまた違った良さが確かに存在する。長毛種だからこその飾り毛や、ふさふさと贅沢な触わりごこちは、残念ながらクラウドにはない要素で、だから俺もヴィンセントの毛皮は、クラウドのそれと同じくらいに好きだ。特にこの時期、冬毛が生えてそのゴージャス感がよりアップした毛皮の触わりごこちは特筆に価するだろう。逆に夏場、浮遊する彼の長い猫毛は鼻に入ったり汗で濡れた肌に付着したりして非常にうざったいものになってしまうのだけど。
「くすぐったいよ、クラウド……」
「ん……、だって、気持ちいんだもん、ヴィンの毛……、ふわふわで……」
 以前にも書いたが、二匹の半猫少年が互いに愛し合ってる姿は、非常に目に優しく、同時に目の毒だ。同じリズムで奏でられるぐるぐるの喉笛も、温かそうに蕩けた表情も、平和を絵に描いたものであり、だけど俺にとっては物騒な一面も持っている。いま、互いに手を取り合って、その手に鼻や頬をすりすりしてる様子からそんな方向へ繋げてしまうのは、我ながらどうかと思うけれど、愛しいというキモチは時と場合を考慮しないものなのである。なのである、って、何を学者気取りに。
 まあ、今は我慢するけどさ。ガツガツしたやつだって思われたくないし。いまさら遅いか? だったら行ってしまったほうが楽か? いや、ここはじっと。 実際、その毛皮をよく味わうには、乱暴なやり方よりも、心拍数を抑えた方がきっと正しい。
「……ヴィンセント」
「……ん?」
「俺も、触わってもいいか? お前の毛皮」
 生身なら絶対触わらせるまい。
「……どうぞ。お好きなように」
 片手をぽんとソファに預ける。俺はそこに跪いて、その毛皮に頬を寄せた。さわりとシルクの様な肌触りに、ちょっと漂う甘い子供の香りに……、これは今はぶかぶかになってしまった服についていたんであろう煙草の匂いがちょっと苦さを加えている。ヴィンセント、猫のヴィンセントなんだなあ……、俺にそう思わせる。
 両手を広げて、右にクラウド、左に俺。同じ格好の美少年美青年に、こうやって慈しまれるのは良い気分に違いあるまい。ヴィンセントは唇を花弁一枚分開いて、目を閉じて喉笛を鳴らしている。
 猫の、猫としての幸福が、凝固したものが肉球だとするならば……、肉球が「凝固」という何だか大仰な単語を用いる必要性があるならば。
 毛皮はただ、猫にとっては当たり前のようにそこに。
 そしてだからこそ、暖かみのある幸せ。俺は匂いを腹いっぱいに嗅いだ。猫の匂いがする。
 獣の匂いって、疎む人が結構いるみたい。俺たちのこの家もひょっとしたら、猫臭いのかもしれない。だけど、よく嗅いでみればそれは、芳香。嗅覚疲労っていうのがって、ずっと同じ匂いか出でると気付かなくなってしまうんだって。だけどこうやっていま、ヴィンセントのを、あるいはしょっちゅうクラウドのを嗅いで、ああ、素敵な香りだなって思えるんなら、この家は猫臭くないってことになる。
 クラウドやヴィンセントのにおいがするんなら、いいおうちだと思うのだが、どうだろう。
「ザックス、寝ちゃ、だめだよぉ?」
「……お前もな……、眠そうな声して。寝たら、ヴィンセントが、重たいんだから……」
「わかってるよぉ……。寝ないもん……」
 ほお擦りをひとつして、自分の顔にもヴィンセントのいい匂いが移りますように。
 こんな風に接触しているとき、俺はとても、猫になりたい。
 傍から見たら、蜂蜜をたらしたホットミルクティーみたいに、優しい甘みのベールに覆われた光景だろう。俺など、幸せすぎて胸がきゅっとなって、口の中がちょっとしょっぱい。
 人に寝るなと言ってたくせに眠ってしまったらしいクラウドの、規則正しく上下する平べったい胸に。
 両腕の自由を完全に奪われながら、つられて眠そうに天井を眺めるヴィンセントの赤い目に。
 物凄く、ものすごく、ふかふかなキモチを覚える。
「……ザックス」
 ぱちりと一つ、確かな意識を持った瞬きをしてからヴィンセントは、クラウドを起こさぬようささやき声で俺に。
「寝て、いいぞ」
「でも……、重たいだろ、子供の身体で腕枕は」
「構わない。……その……正直な気持ちと、しては……、もっとずっと、こうしていたい。腕が痺れても、死ぬ訳ではない。なら、死ぬほど幸せなこの状態を……、続けていたい」
「……しぬほど、幸せ?」
「うん……。お前たちに囲まれてな、こんなふうに、呆然と、していられる、安らかな眠りの存在を間近に感じる……。本当に、幸せだ……」
 俺でそう想って貰えるのは……、死ぬほど、よりももっと最上級な言葉はないものか。でも、言葉を捜して捜して、薄っぺらな俺の辞書を回らぬ頭で不器用な指でばらばら捲って、見つからないというのが答えか。何も言わない、ただ俺は、ヴィンセントの艶やかな毛皮に頬を委ね、右手の甲でクラウドの手の甲を味わい、目を閉じた。
 ……こんなとき、ほんとうに、おもうのだ。俺はとても……猫になりたい。
 こんなふうに、俺に、かんたんで、やさしいキモチを持たす事のできる、シンプルなかたちのいきもの。
 ……が、一番すばらしい、んではないかと。
 難しいことばや、長い時間を、使うことに苦しむことなく、たったひとつのことで、たとえば右の毛皮だけで、いっそその呼吸、ひとつだけで、俺を幸せな眠りに、誘うことが出来る……猫という、……とても、とても、羨ましい。
 そんなこと、仮に目が覚めた時、口やら鼻やらが毛だらけになっていても、心から思ってしまうのである。


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