裏切者

 道というものはなきに等しい。相変わらず歩きにくい「枯れ枝」の上を俺たちは歩いた。山歩きよりもずっと辛くって、ふくらはぎ、すぐダルくなってしまう。およそ三十分ごとに休憩を取る。

「もうちょっと……、真ん中にワープって出来ないのか?」

 地獄の、本当に入口、に俺たちを転送したルビカンテに不平の一つも唱えたくなるというものだ。

「ど真ん中にいきなり行ったって不慣れなあんたら、囲まれて一発で終わりだっての。頭わりーな」

「貴様またそのような口を!」

 此方へ来てから三時間経つが、ずうっと飽きもせずスカルミリョーネとルビカンテはこんな感じで。ルビカンテの性格の問題、スカルミリョーネの神経の問題。これが本当の意味で「相性が悪い」というやつなのだろう。

「ザックス、あのさ……」

「ん? ああ。……なあ、適当な場所でおしっこしちゃっていい?」

「う、うにゃ……」

「ああ、はい、大丈夫ですよ、問題ないです」

「……言うなよ……バカザックス……」

 敵地に乗り込んでいる割にはこの平常心を保っていられるのは、やはり強さと経験の生む自信だ。クラウドも、俺たちがそんなに緊張感を漲らせたりしていないから、普通にしている。血気盛んになりがちな年頃、だけど肉体構造ゆえおしっこも一人じゃ出来ない。だからこそ俺たちは幸せだったりもする。いや、その、おしっこをさせてあげるのが幸せなんじゃなくて、そうじゃなくてだな。

「全部出た?」

「……ん」

 いや、「幸せ」と言えば、イエァ、もちろん幸せだけれど。……いやそういうことはわざわざ書かなくていいな。書けば書くほど俺たちカッコよくなくなる。

「で……、あとどれ程歩けばいい?」

 ヴィンセントの問いに、ルビカンテが目を細めて行く先を見る。

「……んー」

 少し、考えに沈む。その時はじめてルビカンテが普通の……要するに、挑発的にヘラヘラ笑ったりしていない表情を浮かべているのを、俺は見た。黙っていればいい男なのにという好例であろう。そしてそれは誰より俺たちが最高の例なのだろうが。

 ルビカンテはその表情のまま溜め息を吐いた。

「もうすぐだよ」

「……もうすぐ?」

 俺はちらりと携帯電話を取り出し時計を見た(当然ながら圏外である)。現地時間でどうかは知らないが、地球時間、それも、ニブルヘイム時間では、現在午前十一時二十分。そろそろ小腹も空いて来る頃。

「じゃあ、昼飯ここで……」

 言いかけて、俺は気付く。

「昼飯。弁当なんて持って来てないぞ!」

 永遠に成長期ゆえ食いしん坊のクラウドが哀しげな顔になる。俺だって空腹という不幸は嫌いだ。しかしこの骨と血と炎の荒野、ファミリーレストランもコンビニエンスストアもありはしない。

 ナイ、となると急に腹がきゅううと寂しい声で鳴く。渋滞となるとトイレに行きたくなるようなものだ。クラウドに、それが伝播する。ヴィンセントの腹は鳴らない。この人の腹が鳴る音は聴いたことがない。……どうでもいいがこの人は屁もこかないんじゃないかと思うときがたまにある。トイレも行かないんじゃないか。いや、トイレは、行ってる。失礼。

「余計な心配してんじゃねェよ」

 ルビカンテは軽く笑った。

「飯なら食わせてやるさ」

「……まさか死肉とか言わないだろうな」

「あー。それもアリかぁ。スカル、テメェの肉食わしてやれば?」

 スカルミリョーネがまた青ざめて紅くなる。いちいちそういうコミュニケーションを拾う余裕はない。空腹時の苛立ちも相俟って、そう思った。

「とりあえず、そうだなぁ、……ネコミミちゃん、何食いたい? 好物なんだ?」

 ピン、とクラウドの耳が立つ。

「カレーライス! やきにく!! かつおぶし!!!」

 かつおぶしじゃ腹は膨れないが、ともあれ猫だけあってかつおぶし大好きなクラウドである。そればっかり食べて何になるモノでもないが、時折あげれば大喜び。

「そっか。何でも好きなもの食わせてやるぜ。寿司でもステーキでも……」

 ピン、ピン、と耳が動く。目がご飯の色に染まる。ああ、いいなあ、ステーキ……、いや、でも今は俺は、焼肉丼をかっこみたい。口の中にヨダレが浮かぶ。

 だから、だ。

 ……焼肉丼に俺の頭が支配される。だから、すぐ隣りのクラウドに、手を伸ばせなかった。

「貰い」

 ルビカンテは、邪悪な微笑みを浮かべた。あっと言う間もない。湯気を立てる焼肉丼が頭から消えたとき、俺の隣りからクラウドは消え、ルビカンテの腕の中に攫われていたのだ。

「ちょっ……、クラウドに勝手に!」

「あんたらの許可なんか取らねェよ。……なあ、ネコミミちゃん、飯食わせてやるよ……美味い飯をたらふくな」

「……にゃ……?」

 スカルミリョーネが殺気立つ。ヴィンセントも、もちろん俺もだ。

 クラウドの背後、ルビカンテがその右手に、淡い炎の光を宿らせている――

 俺の血液が沸騰した。

「……貴様……! 貴様……どういうつもりだ……!」

 スカルミリョーネが押し殺した声で問う。ルビカンテは凶悪な表情で、白い歯を見せる。

「決まってんじゃねェか……、ネコミミちゃんに飯をご馳走してやるってんだよ」

 凍りついた場に、背後の状況に気付いていないクラウドだけがきょとんとしている。

「裏切者……!」

 スカルミリョーネがうめいた。

「……カオスに背くことが何を意味するか判っているのか!」

 少しも表情を変えない、ただ悠然と憎たらしい笑いを浮かべたルビカンテは、一秒かからずにクラウドを殺せる。俺は左手が震えて震えて仕方がなくなった。

「頭悪ィなぁ……。だから人質取ってんじゃねェか。カオスの片割れが、んでもってカオス自身が、このネコミミちゃん可愛がってんの知ってんだよ。もちろんテメェのこともな、スカル。

ここは魔界じゃねェ、アイツの領域じゃねェ、だからアイツは手出しが出来ねェ。この意味が判るよな?」

 俺の左の拳の震えは右にも伝染した。

「クラウド」

 ヴィンセントが俺を制止する。

「悪いことは言わねェよ、あんたら、ここから帰れ。チビガキスカル、帰り方判んだろ? 送ってってやれよこいつらを」

 チビガキと呼ばれてもそれ以上に重要なことがあるから、スカルミリョーネの顔色は氷のような白のまま、変わらない。

「貴様……、何故だ! 何故魔界を裏切る!」

 喘ぐような声で言うスカルミリョーネを、ルビカンテは歪んだ笑顔で見つめ、左手の平、自分の目の前で左右にひらひら、振って見せた。

「テメェにゃ見えねェよ。見えねェモンが一杯あるんだよ」

 もう、クラウドは自分がどういう状況にあるか気付いている。自分の背後に在る恐ろしい存在に対して、変身も出来ない。ルビカンテがどれだけ強いか、自分の敵う相手かどうかを、知っているのだ。ルビカンテはそんなクラウドの胴を掴み、ふわりと浮き上がった。

「判ったらとっとと行け! このガキの命が惜しいならな……。……なァに、心配すんな。テメェらがここから出てったら、明日の朝には返してやるさ!」

 辛うじて――本当にぎりぎり――涙を流さないで住んでいる俺は、全身を戦慄かせながら、クラウドを見ている。クラウドは、怖くない、大丈夫、そういう目を俺に見せるやり方を、必死に思い出そうとしている。そういう男らしい強さを持った子だ。

 けれど今は、ただ、俺に、大きく見開いた目で、「怖い」、その感情を訴えることしか出来ていない。

 信じられるものか、あんな男の言うことなど。クラウドが殺されてしまう、クラウドが殺されてしまう、いなくなってしまう、それが早いか遅いかだけの話ならば、それが本当に一縷でもいい、俺は、護れる可能性に――

 俺の腕を、ヴィンセントが掴んだ。

「どうして!?」

「行くぞ」

「どうしてだ! 何でッ……、嫌だ!」

「本当にクラウドを喪いたくないのならば言うことを聞け」

 冷静に状況判断が出来るヴィンセントを憎らしく思った。それくらい、パニックだった。そしてそれも認められよう。クラウドがいなくなってしまうかも知れないのだ。

「言うことを聞け」

 俺の身体を抱えて、ヴィンセントは飛び退いた。

「ルビカンテ……貴様……」

 一歩、二歩と後ずさりながら、スカルミリョーネが言う、そこに存在する怒りに、同調した俺の心から発される言葉は、クラウドには聞かせたくないたぐいのもので、もし明日の朝、本当にクラウドが帰ってきてくれるのであれば……、これから先も一緒に、側に、いて、生きて、いてくれるのだとしたら……、そう思って、俺は全て飲み込んだ。言わなければ、ひょっとしたらつながるかも。言ってしまったら、もう終わりかも。何もかもが錯覚でも、それに縋りつかなければいられない。クラウドが離れていく、どんどん小さくなっていく。俺の身体が引き裂かれる。

 腹の底から脳天まで一直線に湧きあがり、俺の中枢を怒りと憎しみが支配する。しかし、怒りや憎しみで勝てるような相手ではないらしいことも判っているから、俺は震えながら、歩いた。

 歩きづらい骨の道の上、もちろん、ヴィンセントも俺も無口だった。スカルミリョーネも。何も話せることなど無かった。ただ、あの男の言うことを信じるほか無いのだ、その無力感に腹の底の怒りは、底からストンと抜けて落ちて、絶望へ、簡単に転化する。頭ではどこかで、明日の朝ちゃんとクラウドが俺の膝の上に載っている様を想像し、しかし多くの可能性を拾い上げてそれを否定する。自分の意志ではどうにもならないことに遭遇するたびに誰もがするように、例えば何か一つでもいいことをしたら、うまい結果が拾えるんじゃないか、そんなことを考える。

 歩いた距離と比して明らかに疲れきっていることに、何の感慨も抱かぬまま、気付いたら俺は自宅のソファに座っていて、視界でヴィンセントとスカルミリョーネが何かを話していた。ふくらはぎがすごくだるくて、とてもねむい。

「お前に謝られるだけストレスだ」

「……申し訳ございません」

 何を話しているかは、知らない。ただ、多少、俺は朦朧としていた。このまま眠ってしまおうか。眠ってしまえば、起きるのはひょっとしたら明日の朝、クラウドが隣りにいてくれるかもしれないし、もう悲劇は全て済んだ後かもしれない。悲しみが、理性の覚醒していないときに起きてくれれば、少しは傷つかないで済む。後は……知らない。

「いい加減にしろ」

 クラウドがいなかったら、本当に終わりなんだな、俺は。そんなことに気付かされる、頭が、きぃんと痛くなった。それくらい強く愛した証拠かもしれない。

「おい」

「……え?」

 髪の毛を引っ張られていた。ヴィンセントが、俺の前髪を引っ張りあげている。気付けば、声を上げそうな痛みを感じていた。

「な……んだよ」

「こういうとき腹の立つ男だなお前は」

 ヴィンセントは忌々しげにそう言って、手を離した。何本か抜けたんじゃないのか。ずいぶんと痛くて、目が潤んだ。

「どうすればそう自己中心的に考えられるのか教えてもらいたいものだ。いや教えてもらわなくともいい、そんな悪影響は被りたくない」

 支離滅裂なことを彼は言う。スカルミリョーネが暗い顔でお茶を持って来た。「いいよ、飲みたくない」、そう言ったら、ヴィンセントは凄い目で俺を睨みつけて、俺の膝を蹴っ飛ばした。

「貴様にはクラウドを愛す権利もない」

 そう吐き棄てるように言う。

「愛してるさ。愛してるからこんなに悲しいんだ、辛いんだ」

 俺の言葉を聞いて、汚らわしいといった顔をする。

「お前はクラウドのことを愛してるんじゃない、お前自身を可愛がっているだけだ」

「何だよ」

「違うか? クラウドが死んで一番困るのは誰だ? お前でも私でもない、クラウド自身だ。それなのに何故お前はそうまで自分の恐怖を最優先する。ルビカンテが『返す』と言った、その条件を私たちは満たした。どんなに不安でも後は待つだけだ」

 いつもよりずっと怖い声のヴィンセントだ。

「明日の朝、クラウドが帰ってきて、お前がそういう不貞腐れた顔で待っていたことを知ったらどう思うだろうな。クラウドが生きているのを自分の為だと思っていることを知ったら」

 そしていつもよりずっと饒舌なヴィンセントだ。

「間違いなく失望するだろう。いっそ帰ってこなければ良かったと思うのかもしれないな」

「わかった、わかったよ」

「何が判った」

「……悪かったよ」

 俺はがっくり項垂れて、腹の底に力を溜めて言った。

「待つ。俺は……、待つ。そうだな……、今考えなきゃいけないのは、俺がクラウドどうこうって話じゃないな、クラウドそのもの、クラウドのことだけだ」

 そう考えるには、少なくとも俺みたいな人間は傲慢だから、努力が必要である。ヴィンセントのようにニュートラル・ギアでそう考えられれば一番いい。理想はそこだ。

 言いながら、俺は顔を上げた。理想に近付きたければ、そして、クラウドにもっと愛されたいなら。

 うん。俺はクラウドちゃんと帰ってきたら、愛されたい。

「馬鹿が」

 ヴィンセントは舌打ちをする。

「言われなくても気付け」

 クラウドの前では絶対にしないような表情で、煙草を咥えて、火を点けた。

「クラウドは帰ってくる。必ず帰ってくる。どういう目的が在ったかは知らんが、あの無礼な男、頭は悪くない。少なくともカオスのことは怖いだろうさ。裏切りと取れる行動を起こした、この上クラウドに危害を与えたらどうなるかくらいのことは判っているだろう」

 魔界四天王最強のルビカンテ、本気を出されたら俺やヴィンセントが戦って勝てる相手ではない。恐らくは、スカルミリョーネだって。しかし、それを更に凌ぐ、遥かに凌ぐ、カオス。こちらについている。

「……どう、なるかな」

 相性は、どうも、すごくすごく悪いらしい相手、とは言え、同僚である。スカルミリョーネは少し耐えるような顔になった。

「何らかの罰が、……恐らくは下ることは、間違いないでしょう」

 ルビカンテはかつてカオスに逆らって、地獄に幽閉されたことがあるという。今回も同じような罰が下るのか、それとも。

「……クラウド様を誘拐することで、我々の足を止めようとした……、そう考えるならば、あの男は地獄の側についたということになります。大昔に、あの男が八百年の間地獄に送還されていた際に、地獄の者どもと結託して魔界の転覆を謀り、今回こういった形で行動に出たとするならば……」

 スカルミリョーネは顔を上げずに、言った。

「死以外の罰は、考えにくい」

 ヴィンセントは煙を吐き出した。

「ただ、この戦いはそれで終わりだ。カオスの手が下って、それで終わりだ」

「つまり、初めから敵は魔界にいたってことか。……カオスがそれに気づいていなかったという、ただそれだけのことか」

 スカルミリョーネは項垂れたまま、「申し訳ございません」、か細い声で言った。

「……待てよ、死を覚悟の上でクラウド攫ったなら……!」

「その可能性も、もちろん否定出来ないな」

 多分、甲高い声を上げかけた。俺を制するように、ヴィンセントはまた長い足で俺の膝を蹴った。

「だが、言っただろう、私たちは現在無力だ、余りにもな。ルビカンテが此方にクラウドを返してくれるのを待つほか無い。クラウドを殺すことによってルビカンテにとってプラスになることなど何一つ無い。すぐに返さないにしろ、生かして側に置いておく方が、我々を、……スカルミリョーネやカオスを自由に操作できるという点では重要と言えるだろうな」

 ヴィンセントはそう言い、煙草を消した。まだ、午後二時を少し回ったところで、結論が出るまでは夜を一つ超えなければならない。平常心で超えられるのかどうか、俺にはあまり、自信が無かった。


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