Turtle Walk

後ろから君が見た時に、僕の背中だと分かるように。
 と、いう歌い出しの槇原さんの一曲「Turtle Walk」が最近の俺のお気に入りで、何となく口にしているのはいつもそのメロディだ。「うしろからー、きーぃみがぁ、みぃたとぉきに、ぼーくのっせーなかだとわーかるよぉにー」、我ながら音楽的なセンスのあまり無いことは認める所だ。だけど音楽というのは今更ながらに良いもので、何となく口ずさむそれだけで気分が良くなる。
 武者小路実篤が好きというと「へええ」って言われるのは何でだろうな。しかし最近妙にこの自由作家に傾倒していて、あまり好きではない活字本も読む。どんなメッセージが篭められているのか俺には、深読みするほどの読解能力もないけど、この人の言っていることは、俺には要は「生活の尊重」であると勝手に解釈する。まさに今の俺たちにぴったりだ。
 毎朝七時にタイマーのセットがされているステレオから、「後ろから〜き〜みがぁ、見〜たと〜きにぃ」と爽やかで優しい歌声が響く。俺たちはそれで目を覚ます。クラウドの眠そうに目を擦る様子を見て、生活の続く幸せを、俺は感じている。
「おはよう」
「うにぃああ……あぉう」
 飲み込まれそうな欠伸をして、クラウドは目をぱちくり。頭をぐりぐり撫でて、まだ覚醒前の顔に、おはようのキス。優しい気持ちの朝を送っていることはこの上ない贅沢だ。実際、この子と共に迎える朝が、苛立ちを孕んだものであるはずも無い。
 青少年の身体であるからして、朝となれば俺の下半身は元気だが、昨日の夜だってしたんだし、そうしょっちゅうやるほどドランカーでもないから、気にせず新しいトランクスを穿く。ついでにクラウドにもパンツを穿かせてやるが、こちらはいつも通り、可愛らしくへたっている。撫でてやりたくなったし、舐めてやりたくもなったけど、ここは落ち着いてズボンも穿かせる。まだ何だかぼんやりした目で、俺を見ている。
 そうして、通学かばんにしてるリュックサックを背負わせてやると、どこからともなくトーストの焼ける匂いが届く。朝なのに、ちゃんと食欲がある。クラウドと連れ立って螺旋階段を上がり、更に降りると、既に冬の柔らかい日差しの差し込む食卓には、レタスとトマトの簡単なサラダと、ベーコンエッグが並んでいる。ちょうどヴィンセントがスープボウルに湯気を立てるコンソメスープを持ってきていたところだ。ボウルをクロスの上に置いて、
「おはよう」
 クラウドにキスをする、そうして俺にもキスをする。
 トーストにはバターを塗って食べる。バターでベタベタになった指をクラウドの前に出すと、クラウドはそうするのが当たり前だと言うように、ペロペロと舐めてくれる。そうしてその指を俺も舐めて、それからティッシュで拭く。
 そんな朝食を終えると、そこそこの時間になっていて、俺は鼻歌を流しながら髪の毛を整える。ヴィンセントはクラウドをトイレに行かせている。ふんふん言いながら、頭の中では「あの時から僕は、もうこれ以上誰とも、競い合うことはやめようと、心に決めたんだ」と。
 八時十分、頃合いの時間に、全ての支度が完了する。クラウドの首にマフラーを巻く。
「じゃあ、行ってきます」
「いってきます」
「行ってらっしゃい」
 ちゃんと数えてみると、最低一日に「おはよう」「いってらっしゃい」「おかえり」「おやすみ」の四回はキスをしている俺たちなのだ。無論、それは「必要最低限」であって、物事は「必要最低限」である必要はないのであって、平らにしたなら一日で八回以上は必ずしている計算になる事と思う。クラウドと一緒に、まだまだ春は先に違いない戸外を歩く。
 日陰には霜柱が立っていて、わざわざ二人してそれを踏む。
「おはようクラウド」
 小学校四年生、実際、五年生はもう目の前の男の子というのは発育が良くって、既にジャミルの身長は十四歳のクラウドと遜色がない。いっぱい食べていっぱい走っていっぱい寝ていっぱい遊べば、健康な子供はこんな風に育つのだといういい見本だ。ジャミルは乳歯の抜けた跡に芽吹いた永久歯を覗かせながら、クラウドに挨拶した。クラウドもにっこり笑って、こちらは一応全て永久歯の歯で、「おはよう」と帰す。
「なあなあクラウド、あのさ、算数の宿題やってある?」
「やったよ」
「まじで? あのさ、よかったらさ、3番の問題だけ写さしてくんない?」
「んー、……」
 ちら、と俺の顔を見る。俺は何も言わない。
「いいよ」
 リュックから俺にノートを出させて、該当の頁を広げてやる。
「はい、3番、これ」
「サンキュ。助かる」
 そうして慌ただしく自分のノートを出して、せっせと写し取っていく。
「ああ、よかった。おれ多分今日、当たるから」
「なんで?」
「今日、17日だろ? おれ出席番号7番だから。タカハシ先生いっつも番号の一の位で当てるじゃん」
「ああ、そっか……。じゃあ俺は今日当たらないや。15番だから」
「なのにちゃんとやってあるんだもんなあ……、偉いよなクラウド。でも助かった、ありがとね」
「どういたしまして」
 そうして、自分の席に着く。まもなく、チャイムが鳴った。
「なあ、なんでジャミルは俺の顔見たんだろ」
 クラウドに聞くと、「ああ」と言って、
「さきおととい、ヴィンと朝来たときにね、『そういうのは自分でやらないと駄目だ、今回だけだからな』ってお説教したから」
「はあ……、なるほどな。じゃあ見せない方が良かったかな」
「そういう訳にもいかないよ。だって誰だって、ヴィンだって先生に怒られるの嫌だろうし」
「なるほど」
 一時間目は算数、二時間目は国語で、三時間目は音楽、笛を使えないクラウドは歌ばかり唄う、そして四時間目は理科である。二時間目と三時間目の間には二十分の「中休み」があって、子供たちは一斉に校庭で遊ぶ。クラウドももちろん、サッカーボールを蹴っ飛ばして駆け回る。時間ごとには一応、トイレに行く。他の子たちは一人で出来るのに、自分はやっぱりザックスの手をわずらわせてしまうのだと、クラウドはちょっぴり、恥ずかしそうだ。
 給食はパンとシチューと漬物と牛乳だ。給食というのは何でこう、栄養バランス偏重で食い合わせとかを考えないんだろう。大体ごはんのときに牛乳ってなんだよ、と、小さい頃牛乳が苦手だった俺はよく思ったものだった。クラウドはあまり好き嫌いもなく、何でも出されたものは喜んで食べる。両手でコッペパンを持って端から噛り付いていくのは、何だか想像してしまう。
 昼休みにはまた、サッカーをしに校庭に行く。
 子供は風の子とはよく言ったもので、寒いのに大半の子供たちは半ズボンかハーフパンツだ。都会の方では子供たちが家に閉じこもって外で遊ばないから、カイワレやモヤシみたいな子が増えていると聞くが、ニブルヘイムはそう考えるとやっぱり田舎なのだ。しかし、そっちの方が健全に決まっている。テレビゲームは普及しても、やっぱり外で遊ぶ楽しさには格別の物がある。
 お腹もふくれて、たっぷり遊んだあとの五時間目は、眠いに決まっている。その上に、とりわけ退屈な社会科だから、五年一組の教室のあちらこちらで船を漕ぐ子供がいる。クラウドも例外ではないが、必死に目を開けて黒板を見ようとしている顔は、何だかちょっと怖い。かくいう俺もすごく眠くって、昼寝したい気分にさせられるけど、クラウドの為のノートを取らないといけないから、太股をつねって目を覚ます。
 月曜日の学校は、こんな具合に五時間で終わる。あとは帰りの会があって、お終いだ。ところで、「帰りの会」という呼称がどの程度広く使われているものなのかは分からないが、その響きを最初に聞いたとき、俺は不意の懐かしさを感じてしまったものだ。これが多分、中学校にあがれば「学級活動」すなわち「学活」になり、高校になれば「ホームルーム」になり、大学になればそんなのなくなるんだろうが、「帰りの会」で今日一日の注意や反省やお褒めの言葉が先生の口から出て、明日の連絡があって、「それじゃあ今日はここまでにしましょう」と先生が言うと号令の係の子が「きりーつ、れい、さようならー」って締める形式は昔と何も変わる所などなくて、何だかノスタルジィに浸りそうになる。すぐにクラウドが、
「広場行くの、サッカーするの」
 と言うから、引きずり出されてしまうのだが。
 広場、というのは、村の門の外、広い野原の事だ。子供たちはちゃんとルールを作っていて、あまり遠くには行かないとか、他の学年のグループが遊んでいる所には入らないとか、そういった決まりごとを決して破らない。かつてこのあたりを闊歩していた野性の狼たちも、もう現れることはないし、危険はない。俺は広場の端っこの方で隠れて煙草を吸いながら、クラウドたちがきゃっきゃ言いながらボールを蹴っ飛ばすのを見ているのだ。動いていないと寒いのだが、子供たちに混じって三十一歳のおじさんがきゃっきゃ言ってボールを蹴飛ばすのは憚られる。震えながら、クラウドたちを見守っているだけだ。
 五時になると鐘が鳴る。メロディは「夕焼け小焼け」だ。そうして村会の担当者が「五時になりました。良い子はおうちに帰りましょう」とアナウンスを流す。素直な子供たちは「また明日ねー」と手を振り合って、おのおの家路に就く。こういう光景は、俺の頃と何ら代わっていない。そして俺のしていることも。煙草こそ吸っちゃいなかったけど、あの頃の俺もこうやって、当時は村の中にあった遊び場の端っこでしゃがみ込んで、楽しそうに遊んでいる同い年の子供たちを眺めていた。
 少し泥で汚れたクラウドと、ニブル山からの北風がぴゅうぴゅう吹き降りてくる街を帰る。子供たちが家に引っ込んでしまうと、街は温かい光を家々から滲ませるけれど、活気は喪われる。五時を過ぎたらもう、殆ど人通りがなくなってしまうのがこの田舎の村なのだ。
 クラウドから今日のサッカーの試合の結果を聞きながらなら、すぐ家に着いてしまう。そうして、温かな部屋に入る。
「ただいまっ」
「ただいま」
「お帰り。……まただいぶ汚れているな、風呂が沸いているから、夕飯の前に入りなさい」
 そうしてまたキス。
 恐らく俺の書き方が良くないんだろうけど、「風呂の度にやっている」という誤解があるかもしれない。もちろんそんなことはなくって、風呂に入ってやるのは週に一度あるかないか。たいていはこうやって、ちゃんと身体を洗ってから入って、歌を唄う。
「うしろからーきぃみがー、みぃたとーきに」
「ぼーくのーせーなかだとわーかるぅよぉにー」
 風呂の中は、エコーが効いて唄うのが気持ちいい。二人で肌を重ね合って、安らかな気分で歌を唄うのだ。急に歌が上手くなったような錯覚を得る。
「あむごなきーぽーんうぉーきーん、じゃーすらいかたーとー(I'm gonna keep on walkin' just like a turtle)」
「めのまえにつづぅくみちを、ぼくらしくあるきつづけたいぃー」
 身体の隅々までピカピカにして、風呂を出る。あったかくって湯気の立つ身体で冷蔵庫の前で、クラウドは常備してある麦茶を、俺はビールを呷って、「くぅううう」と訳の解らない声を出す。そうしてしばし浸ってから食卓にいくと、既にご飯が並んでいるのだ。
 ちなみに今日のメニューは、書くと嫉妬されそうだが、ご飯にマグロの刺し身、きんぴらゴボウ、納豆、味噌汁は豆腐とワカメ。何とも典型的な「幸せなご飯」ではないか! そう、松茸もキャビアもフォアグラもフカヒレも幸せなんかじゃあない。実際食べたことあるし、またいつでも食える人間が言うのだから、間違いはない。高いから幸せなのとは、まるで違うのだ!
 熱いご飯をふうふう吹いて、一口ずつクラウドに食べさせながら、俺も幸せな気分でご飯を食べる。幸せな晩餐、噛み締めれば、幸せはもっと味を出す。
 食後は甘いカクテルをヴィンセントが作ってくれる。クラウドの大好きなのは極甘のグラスホッパーという、ライトグリーンのカクテルだ。俺もクラウドも酒には弱い、それを、ペロペロ舐めて味わうのだ。ちょっとしたデザートの代わりにはなる。
 クラウドは二杯目を飲みおわると寝てしまうから、一杯で自重する。俺も、一杯半でやめておく。ヴィンセントは一人で、ギブソンを一杯、ブランデーをロックで一杯飲んだ。いつもこんな具合だ。野球が休みのオフシーズンの八時台というのは、ハッキリ言ってしまうが下らない番組しかやっていないので、軽めの音楽を流しながらゆったり過ごす。クラウドの毛皮をブラッシングしてやったり、ヴィンセントの肩を揉んでやったり、宿題をしたりして過ごす。そうこうしているうちに九時になり十時になり、寝る支度に取り掛かる。歯を綺麗に磨いて、パジャマに着替えて。
 俺たちの一日はこんな風に巡る。
 何か忘れてないかって? ああ、まあ、そうだ、触れるな今日はいちいち。そう、一日はこんな風に幕を閉じるけど、それとは別に「夜」は始まったばかりという言い方が出来る。そう、セックスをするのはたいていはこの後で、部屋で二人きりになって、せっかく着替えたパジャマを脱がせて、絡み合うのだが。
 今日は残念ながら、そんなこともしない。
 ひんやりした布団に、二人で滑り込む。クラウドが「寒いッ」って俺にしがみ付く、「俺も寒い」と抱きしめる。お互いの体温が唯一の温もりだ。そうして、その温もりを重ね合って、吐息混じりの静かな話をしているうちに、徐々に眠気に包まれる。俺は心底安らいだ気分で、こんな普通の一日が、きっと宝物なのだと、瞼の重くなるのを、心地よく感じる。


top