つまらない夢

夕立の匂いが好きだとあいつは言う、つまりは森の匂いだろうと勝手に想像していたが実は、ミッドガルの夕立の、ガソリンの匂いだった。俺にはもちろん解んないし、ヴィンセントも「どうせお前には解るまい」といった顔をしていたから、その件はそれっきり。実際深く考察するようなことではないし、ただ簡単に交わした記憶に過ぎないのだけれど、俺には案外印象に残っている。夕立はまだ来ない、窓を濡らす陰鬱な雨を眺めながら、懐かしく思い出した。五年くらいは前だっただろうか?

とんっと音がして視線を足元に落とすと、ねずみの顔が描かれたゴムまりが転がっている。クラウドが跪き、それを両手で拾って、またソファへ横たわって、手の中でころころ転がす。

雨の似合う男が雨の中を、黒い傘を差して帰ってきた。右肩にエコバッグ、入り口から大根の葉が覗いている。彼は玄関に向かって一旦俺の視界から消え、それからワンテンポ……恐らく傘の滴を払っていたのだろう……置いてから、入ってきた。クラウドが毬を置いて足取り軽く、彼の所へ駆ける。

「ただいま、クラウド」

少し濡れたバッグを気にしながら、彼はクラウドの頭を撫でた。ずしりと重いバッグを受け取って台所に持っていきながら、中身を見る、大根、にんじん、じゃがいも、鶏もも肉、米5kg、コーヒー豆、チョコレート、そして冷蔵庫の脱臭剤。それらを全部しまってから、最後に冷蔵庫の脱臭剤が残ったことに気がつき、俺はもう一度野菜と鶏肉を全部出して、脱臭剤を替えて、戻した。要領が良くないなと、思う。

戸棚にチョコレートをしまう。半分だけ残っているクッキーと紅茶を取り出し、俺はお湯を沸かした。

しまった、先にお湯を沸かした方が、待つ時間短くて済んだ。まず台所来てやかんに水入れて火にかけて、それから食べものしまって、クッキー出せばよかったんだ。 効率的じゃないんだ。ヴィンセントはどうして、こう……なんていうんだろう、数学が得意なんだなあいつはやっぱり、自分がしようとしていることを、上手に組み立てる術があるっていうか。見習わなきゃって思うけれど、俺は三十路にして十年前と同じ事をやっている。居間まで行って待とうとも思ったのだが、「ぴーーー」に慌てて駆け出すのが疎ましく思えて、俺はそこで待つことにした。手持ちぶさたで、特に考えることもなくて、目に付いた三角コーナーに今朝食べたキウイの皮だけが溜まっているのを見た。ハーフカットでそのまま食べたら、ちょっと早かった、とても酸っぱかった。

「ぴーーー」が、まだ口笛程度で済むうちに火を止めて、マグカップに入れた紅茶の色を出す。そしてそこで気がついたのは、先にカップを暖めておいた方が美味しい紅茶を飲めたのにと言うことだ。

何だか気が滅入る。俺はクラウドを膝に乗せて通販雑誌に目を通しているヴィンセントの前にカップを置いて、更にクラウド用のミルクと砂糖を忘れたことに気づき、もう溜め息を吐いてしまう。我が家には生憎「スティックシュガー」なんてものは置いてない。「過剰包装の極みだ」とヴィンセントが嫌うから、客人が来た時には角砂糖を買う。その角砂糖も今日はもうない(ヴィンセントに買ってきてくれるよう頼むのを忘れたのだ)から、普通のグラニュー糖をスプーン一杯小皿に盛る。そしてミルクもあの一個一個小さいのなんて無いから、ミルクさしにいれて、持っていく。

「ご苦労」

彼は雑誌を閉じ、クラウドのうなじに特に意味の無いキスをした。くすぐったがって、クラウドは彼の膝から逃げ出した。スプーンで、クラウドのカップの紅茶を掬い、吹いて冷ます。それをこぼさないように、クラウドに飲ませる。

こんなやり方だから、クラウドにお茶一杯飲ませるのには、結構時間が掛かる。お茶がほぼ完全に冷めてしまってからは、もうぐびぐびって飲ませるのだけど。

「クラウド」

「んー?」

「そのやり方では時間が掛かって仕方が無い。喉を潤しているのだか渇かしているのだか解らないだろう」

ヴィンセントはそう言って、クラウドのマグを取り紅茶を口に含む。そして、口移し。クラウドその間、ノーリアクション。それがまるで、普通とでも言わんばかりの態度。俺は差し出したスプーンから紅茶が零れそうになって、仕方なく自分でそれを舐めた。

「旨いか?」

「うん」

「そうか」

ひそやかに嬉しそうに、耳を撫でる。俺はなんとなく気分を害して、自分のカップだけに意識を集中する。舌先が感じる安い味を逃さないよう。目で目の前を見ないように……不毛だ。

「もう飲みおわっちゃった。ほんとに、このほうが早いね」

空っぽになったカップ、ちらりと見て、俺はつまらない気持ちでクラウドを手招き。そして自分の膝の間に入れて、拘束。所有権の主張をするんじゃなくて、実際夜は俺のものだけど、でもなんか、こういう時に生じる幼稚な嫉妬心。ちゃんと「使い分け」「住み分け」を心得ているクラウドの方が、よほど大人だ。暴走しがちな愛情の狭間に生まれてきたゆえか。

ヴィンセントを見る。自分のカップに唇をつけながら、雑誌を再び広げている。クラウドの耳を撫でながら、俺は長い睫毛を見ていた。クラウドがごろごろ言い出して、しまいにうとうとしはじめたころ、彼は顔を上げて窓の外を見て、

「よく、降るな」

と呟いた。

俺はクラウドを横たえた。

「もう南の方では梅雨に入ったらしい。今年は特に早いよ、……異常気象だよな」

ヴィンセントは肯く。放置されていた彼自身のカップを手にする。

「魔晄エネルギーで消費したバランスを星が取り戻すまでにはまだ時間がかかるだろう。十年……いや、二三十年はかかるかも知れんな」

俺たちの住む環境が、少しでもよくなればいい。つまんない悩みのない世界で行きたいと、当然の事ながら願うから。

だから完璧な人のことを心配する俺の無責任さも、説明が付く。

「一人で……」

雑誌に目をやっていたヴィンセントが顔を上げた。

「あんた一人で、眠れる? 最近、怖い夢、見なくなった?」

彼の目線は舌打ちをしているように見えた。

「……顔が少し白いように見えたから」

「元からだ」

「十年一緒にいれば差には気付くよ。……何なら、しばらくクラウドと一緒に寝たらどうだ? 俺なら別に構わないし」

「クラウドには悪いが、無意味なことだな。ぬくもりは事実でも、やはり違うのだ」

「そしたら、どうすればいい」

「どうもしなくてもいい。何とかするから。自分で」

それが一番困るって。ヴィンセントは気付いてないんだろうけど。

「セフィロスの事など、どうだっていいんだ」

ヴィンセントは再び雑誌に目をやりながら呟く。その言い方は、自棄とも取れる言葉の内容とは裏腹に、さりげない。

「あんたの子供なんだろ」

「そうかもしれないな。お前の兄になっていたかもしれん男だ。だが私が殺した。お前を生かし、私が生き延び、幸福を掴むために」

「すごい言い方」

「事実だけを言うならそうなるだろう」

俺は苦笑いを浮かべて肯くしか出来ない。なんか、こう、もうちょっと、あんたらしくスマートな言い方って出来ないんだろうかな。

「結局は今、お前たちと生きているか、セフィロスと生きているかの差だ。どっちがよかったなんて、解らない。だから、どうでもいい、どうだって、いい」

「本心でそう思ってないから顔色悪いんだろ」

「大きなお世話だ」

ヴィンセントは言い放った。

「大丈夫だ、私は……。お前に心配されるまでもない。しんどくなったら言うし、それに……私は一人でも、一人じゃない」

「何?」

つ、と俺は頬に冷たい風が当たったような気がして、そちらを振り向いた。

「恥ずかしがらなくてもいいのに。ヴィンセントは、君が想ってくれてる事、すごく喜んでるんだよ」

起こさないようにそっと、クラウドの頭を優しく撫でている白っぽい身体、俺の複雑な表情に、それはにっこりと笑う。

「……余計なことを」

「君も素直じゃないからね……。久しぶり、ザックス」

「カオス……」

「ごめんね裸で」

そういう問題ではなくて。

「でも、そういう訳で、ヴィンセントには僕がついてる。僕が一応、守ってるから。……大丈夫、もう、棺桶の中に逃げるようなことはさせないから」

ふうん、としか言えない。

「可愛い寝顔……、どんな夢見てるんだろ」

カオスはクラウドの寝顔をいとしげに眺めて、飽くことなくその髪を撫でる。

「ヴィンセント。……セフィロスの事に関してはさ」

彼の掌に、夢の底、クラウドが擦り寄る。

「君だけじゃない、ザックスだって……、昔、とても大切に思ってた。ホントは戦いたくなかった、でも、仕方なかったんだ。いくつかの理由が重なって、ザックスはセフィロスを失うことに決めた。大体さ、生きてくうちに、避けられないことってあるものだと思うよ。特に君たち人間には」

過去の傷を掘り返されて、俺は少し不快な気分になる。そして、喉の奥が詰まらないように、ふっと短く息を、吐く。

「でもさ、人間はそういう宿命にある動物だから、その悲しみを悲しみで終わらせない技術にはすごく長けてると思う。人間は、だから生きる価値があるんじゃないかな」

って、僕は勝手に思うんだけど……。カオスはヴィンセントと同じ顔で、しかしはるかにほのぼのと笑った。

「うらやましいと思うよ」

「ん……にゃ、んん」

「あ……。起こしたらマズイよね。じゃあ……僕もう、帰る。ばいばい」

俺たちの許可なく、クラウドにキスをして、カオスは来た時と同じように、まるで最初からいなかったかのように、消えた。

俺とヴィンセントはなんとなく調子が狂って、お互い、ソファに座り直した。

「どうすればセフィロスを殺さなくて済んだか、考えることがある。あの時、宝条を止めることが出来ていたならば……。セフィロスは生まれてこなかったし、私の手で殺すこともなかった。そしてお前に辛い思いをさせることも」

「でもセフィロス生まれてこなかったら俺、セフィロスに会えてない」

「だが本家本元のザックスが死ぬこともなかった」

「でもそうしたら俺、あんたとも会えないよな」

ヴィンセントは再び雑誌を広げて文字を読みはじめる。それからしばらく口を開くことはなかった。

「……比べるだけ野暮って事か」

二者択一で選んだとしたって、それは選んだ方にも失礼なことだし。『今』と『過去』を天秤にかけるって、それは無理な話だし。俺のとなりには恐らくヴィンセントに撫でられる夢を見る一匹の猫がぐるぐるしていて、それが例えばザックスとセフィロスとルーファウスと、四人で食べたスパゲティより美味しいかどうかは、解らない。

後悔先に立たず。「今日は昨日より後に来ます」、そんな当たり前のルールに則って生きなければならないから、そういったことをウヤムヤにして生きる術だって、きっと必要。

棄てられるものは棄ててしまったほうがいい、その方が、身体も軽い。


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