タイガースは負けない!!

クラウドはあれで結構シブいのが好みであり、初めてウータイに行った時に飲んでから緑茶が好き、それもやや渋めに入れた二番茶が好き。食べ物だけでなく、音楽も同様に、まあこれは俺のが伝染したのだろうが、若いくせに槇原敬之が好きだ、もろゲイだ。
 好みというのは、一事が万事に通用してしまうもので、例えば自分の好きなものを片っ端から上げていけば、それらの大部分には共通点があるものだ。渋いものが好きなクラウドなら、どんなものでも、ド派手なものより、ちょっと陰のある、渋いものが好きになるのである。
 クラウドは阪神ファンである。説明不要だろうが、「阪神」とはプロ野球の「阪神タイガース」のことである。現代のプロ野球において、最弱のレッテルが貼られているこのチームを、なぜクラウドが好きになってしまったのか、原因は、もともと阪神ファンの俺とヴィンセントではなくって、「だって、タイガースって虎でしょ? 俺猫だもん、親戚だから」という、無邪気なものだった。生まれてまもなく、最下位に喘いでいるチームを応援しようとするあたり、やはりシブい好みをしていると思う。応援団は派手であるが、「阪神」という響きや、モノクロのユニフォーム、そして選手たち、どれをとっても地味で、渋いものだと言えるので、ここにもクラウドの好みが反映されているように思う。
 クラウドが生まれてから三年、阪神はその間、一度だって最下位から脱出できたことは無い。シーズン序盤はそこそこに頑張っている、首位に立つ事だってあった。しかし六月に入るころには、信じられないような凡ミスを連発するようになり、七月には大体最下位、八月には二十日間にもわたる「死のロード」と呼ばれる長期ロードがあるが、そのときにはもう既に死んでいる状態で、他のどのチームよりも早く消化試合がやってくる。
 普通の神経のものであれば応援などする気も起こらぬチームだろうが、それでも俺たち三人は応援している。クラウドが生まれてから、試合を何度か観に行ったことがあるが、見事に全敗している。しかし、どんな惨敗を目の当たりにしても、「もう二度と来ないッ」と思うんじゃなくて、「次こそは」とこぶしを固めるのが俺たちの神経なのである。
 そんな阪神の選手たちの中で、クラウドが好きな選手と言えば、何故だか毎年好みの選手が変わるのだけど、例えば三年前には大阪近鉄から移籍してきてショートを守っていたベテランの吉田剛だったし、二年前には代打として一割代の成績を残した根本だったし、去年は主に敗戦処理として活躍した面出だった。……いや、「何故だか毎年変わる」と言ったが、確固たる理由があって、どの選手もクラウドが好きになった翌年には、二軍に落ちてそのまま引退もしくは戦力外通告を食らってしまうのである。そういった好みも、シブいと言えば、シブい。今年はどんな選手を応援するの? クラウドに聞いてみたら、まだ悩んでいるのだという。選手名鑑を開いて見せてくれる。
「いっぱいいるじゃないか、お前の好きそうな地味で渋いのが」
「そういう人ばっかりしかいないんだもん……」
 言うとおり、確かに今年の阪神には、小粒で、何と言うか百四十試合戦ってホームランを十本以上打てそうな選手が一人二人しか見当たらない。クラウド好みの選手ばっかりで、クラウドとしては森の中の木を応援するよりは、都会に生えている枯れ木を応援したい気持ちもあるのだろう。
「……まあ、シーズン始まったら決めるよ」
 そうして名鑑を閉じた。
 プロ野球は二月から張られたキャンプが、三月になりオープン戦が始まると共に畳まれ、いよいよ開幕モードへ突入している。我らが阪神は今年ここまで三試合オープン戦を消化しているが、二敗一分。何と言うか、始まる前から「今年もダメか」と思わせるには十分の戦いッぷりだ。
「オープン戦でいくら勝ったって」
 それでもクラウドは根拠無く余裕の表情を浮かべている。
「シーズン入ってからが本当の勝負だよ」
 四月に入ってから荒れなければいいがな、と思う。
 クラウドは精神的に俺よりずっと大人である反面、かなり情熱的な部分もある。特に阪神が絡むと、結構すごい。燃えるというか、萌えている。例えばだ。一点ビハインドで迎えた九回の裏の阪神の攻撃、二死満塁、打席には代打吉田、ヒットでランナー二人が帰れば逆転サヨナラという場面では、ちょっと近づきがたいくらいの思念波を感じる。そんな時のクラウドに「俺と阪神とどっちが好き?」と聞いたら、すごく無愛想に、邪魔をするなと言わんばかりに「阪神」とだけ答えられるのは目に見えている。
「うにゃーーーーーーーー」
 吉田の打った打球は鋭い当たりでレフトの頭を超える、三塁ランナーは悠々ホームイン、二塁ランナーも万歳しながら帰ってくる。クラウドはテレビの中に頭を突っ込まんばかりに興奮する。そして泣きそうになりながら、時々は鼻水まで垂らして泣きながら、ヒーローインタビューに見入る。
 そうして、中継が終わるとすっくと立ち上がって。
「トイレ!」
 ……まあ、緊張するものな、野球観戦って……。
 とまあ、こんな具合なのである。
 それほどまでに阪神が好きなクラウド。俺とヴィンセントはいつからか、自分の快楽のためではなく、クラウドの快楽のために、阪神の勝利を求めるようになっていた。まあ、内心では、阪神が勝った夜のクラウドは上機嫌で、たいがいのお願いは聞いてもらえる、という邪まな考えも介在しているのだが。
 いや、でも、本当のこと、阪神の優勝をクラウドに見せてあげたいと思うな。これは本当に思う。きっと喜んで目回して倒れちゃうんじゃないかと思う。そう、ヴィンセントに話したら、苦笑いして、その代わりどんな要求でも聞いてくれるだろうと邪まなことを言った。
「しかし、間違いなく喜ぶだろう。クラウドの笑顔のためだけにでも、一度くらい間違いを起こして優勝してくれたって良いものだ。……そこまで贅沢を言わないまでも、せめて最下位脱出くらいは果たしてくれればな」
 新聞のスポーツ欄、戦力分析の項を読みながら、当然のごとくダントツに評価の低い阪神に、ヴィンセントは遠い目をする。
「私の若いころは、強かったんだ。阪神巨人戦は正に、伝統の一戦と呼ぶに相応しかった。村山実にジーン=バッキー、遠井吾郎、カークランドなどというのも居たな、……あのころは良かった」
 いまから何十年も前の話だ。最期の優勝したのだって、いまからもう二十年近く前のことである。……それでも、俺はテレビで「夢ではありません、夢ではありません! 阪神タイガース二十一年ぶりの優勝です!!」とアナウンサーが絶叫するのを、どこか遠い世界の出来事のように、見ていた記憶がある。十歳のときの話だ。
「あんたが、もしいま阪神に入ったら、阪神を最下位から押し上げることは出来る?」
 俺はクラウドが寝そべって、毎週送られてくる「週刊タイガース」を読んでいるのを見ながら聞いた。
「無理だろ」
 ヴィンセントは笑う。
「ブランクが空きすぎている。四十年以上も前の話だぞ? 確かに身体のつくりではそこらの高校球児には負けないが、野球には『勘』というものが欠かせない。もういまの私にはかつてのような『勘』は残っていないよ」
 いまから、正確には四十八年前、すなわち、ヴィンセントがかつての「神羅製作所」総務部に入社した年である。当時、未来の異常膨張を予感させるには十分な成長をはじめていた神羅は、社会人野球一部リーグに所属する「神羅ブラックキャッツ」も強豪で、創部直後から優勝の常連となっていた。入社二年目のヴィンセントは、その身体能力を買われて、その「ブラックキャッツ」のベンチ入りメンバーとして、あの事件が起こる二年前の二十五歳までのおよそ三年間、活躍していたのである。
 ポジションは投手。背番号は二年目まで「64」、三年目は「26」だった。記録もちゃんと残っていて、三年間で五十九試合登板、通算七勝八敗二セーブ、防御率は四・一八という数字を残しているが、三年目に限ってみれば、三十二試合とそれまでの二年間に比べて飛躍的に登板試合数が多く、中継ぎばかりの登板ながら五勝二敗二セーブ、防御率も二・六〇という好成績を残している。「ブラックキャッツ」としては「中継ぎエース・ヴァレンタイン」を以後の投手陣の柱にする心算があったのだが、神羅の兵器開発に拍車がかかるにつれ、彼の本業であるタークスの仕事が忙しくなり、十分な調整が取れなくなったことにより、二十五歳という若さで引退している。
 だから、野球の腕に関して言えば、ヴィンセントはそんじょそこらのアマチュアと比べても全く遜色は無いのである。『勘』については、大いに彼の謙遜であろう。
「実際、あんたがさ、甲子園のマウンドに立って活躍したら、クラウド大喜びだと思うけどな」
「どうかな……。私だったら、例えばお前がテレビの中でプレイしている所など、怖くて見られないがな」
 そんなもんだろうかな。まあ、授業参観も、親は結構緊張するものだし、そういうものかもしれない。
「あのころ、プロからオファーがあったらあんたは行ってた?」
「ああ……、いや、実際三年目のシーズンがまずまずの成績で終わったときには、何球団か、『ドラフトで指名する』と言ってきたところはあったのだ」
「初耳。……どこ?」
「今で言うと、オリックスと西武、それから広島だ。……阪神からオファーがあったら尻尾振って行っていたかも知れないが……、正直、自信が無かったし、全て断った」
「もったいない」
「そうは思っていない。プロ野球選手なんて、ギャンブルみたいなものさ。仮に一年で五億稼いだとしたって、その翌年に怪我をしてしまえばそれでお終い、よほどの成績を残した者でなければコーチや解説者の路はない。……社会人でやっていたとき、何人ものエースやスラッガーがプロに行ったがな、その五年後にもプロ野球選手をやっていた奴など数えるほどだ。ほとんどが企業に再就職していた。そういうものなんだよ、夢を追う代償は大きい」
 ヴィンセントはそう言って、出す所に出したら高値がつきそうな、何十年も前の「ウィークリー野球」を開き、最後のほうにオマケ程度に掲載されているアマチュア野球の頁を開いた。
『三年目の飛躍で連続Vに貢献 ヴィンセント=ヴァレンタイン投手(神羅ブラックキャッツ)』
 と題目があり、白黒だが間違いなくヴィンセントが何処かの球場のマウンドでガッツポーズを決めている写真が掲載されている。いまよりも表情が若々しく、何と言うか、こんな風に躍動的なガッツポーズを決めている彼の姿なんて、ちょっと信じられない。
『野球経験は皆無、しかし潜在能力の高さを買われて入団したヴァレンタインの社会人野球デビューは三年前、結果は散々だった。しかしそこから徐々に力を発揮し始め、オフにはスポンジのように技術を吸収、カーブ、スライダー、シンカーを駆使した投球で、二年目には初勝利・初セーブも記録。一新された背番号は期待の現れ、飛躍の三年目は開幕からセットアッパーとして登板を重ね、チームの二年連続優勝の立役者となった。「今年は開幕から大切な場面で使ってもらえて、投げるのが楽しかった」という強心臓。プロ初セーブを決めた試合の、延長十回無死二三塁のピンチからの登板で後続をピシャリの快投にも「低めに球を集めればどうにかなると思って投げました」とケロリ。出ても百三十キロ代という球速ながら、卓抜したコントロールを持つ右腕はどこまでもクールだ。

優勝を決定付けた一戦では同点の八回から三回を投げきり、延長十一回には自ら打席に立ち、サヨナラのタイムリーツーベースを放った。「あれは偶然。振ったら飛んでいっただけ、だけど自信はありました」と最高の笑顔を見せた』
 俺よりもさらに若いころのヴィンセントだ。何だか、こそばゆい感じがしてしまう。
「野球は、いいな」
 彼はそう呟いた。
「野球はいい。……夢を見せてくれる。どんなに弱い阪神を応援していたって、ここには間違いなく、夢がある。叶えたい夢が……。夢を追いつづける者の目は美しい。私など途中で諦めてしまったからな、こんなに老いてしまった」
 「阪神の優勝」という、途方も無い夢を追う、クラウドの尻尾を、ヴィンセントは何だかちょっと眩しそうに見つめている。
 クラウドの夢を叶えるためなら、どんな事だって俺は出来るだろうと思う。その力は俺にあると思う。そうだね、いつか……、いつか。クラウドの夢を叶えてあげたいと俺は思う。
「タイガースは強いんだ」、クラウドがそう、胸を張って言える日を、俺も夢見ている。


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