「黙っていろと言われたことを話しているのだ、その辺りは心して聴け。もっともあいつだって、私がお前たちには話してしまうだろうということぐらい、先刻承知だったろうが」

 ヴィンセントはまた煙草に火を点けて、そんなことを言う。愁いを帯びた眼には、くっきりと困惑の色が浮かんでいる。もちろん、彼としては珍しすぎることである。

「クラウドの誘拐が、カオスの仕組んだことだった」

 俺は飲みきれなくて口に残ったヴィンセントの言葉を、一度吐き出して並べてみた。それは無秩序に散乱して、非常に硬そうで、また飲み込めば胃のもたれることは必至に思える。クラウドは傍らで呆然とヴィンセントの顔を見詰めている。

「クラウドが無事に帰ってくることは、予め判っていた。ルビカンテはカオスに命じられ、一時的にクラウドの身柄を確保しているだけに過ぎなかったのだからな。偽悪者的に振る舞うのも予定のうちだ」

 ヴィンセントは言いながら、煙草が普段より苦いのを鬱陶しく感じている。それでも消してはすぐまたつける。煙を窓に向かって吐き出す配慮も、今は欠けていた。

「……此れらは後から聞かされたことだ。ただ、合点が行くと言えば行く。誘拐された先でクラウドは人質とは思えぬ厚遇を受け、……カレーライスに鰹節に焼肉に寿司だったか、好きなものをたらふく食い、風呂にもちゃんと入り、トイレにもちゃんと連れて行かれて」

 この辺り、本筋とは関係のないところで俺のつむじが少し曲がる。

「そして誘拐された翌日の昼には五体満足無事な身体で帰ってきた。ルビカンテはクラウドを誘拐したのではない」

 紅い眼が、煙に揺れる。ぎゅっと閉じて、開いたとき少し潤んだように見えた。彼は逡巡を窓辺までの数歩でどうにかかなぐり捨てようと努めて。

 だがそれがうまく行ったのかどうかは、俺には判らない。ヴィンセントは手にした灰皿に煙草をやや乱暴に押し潰して、

「カオスがそれを命じた。あのままクラウドと私たちを地獄に行かせないために……。クラウドが誘拐されれば、私たちは絶対にそれ以上歩を進めるような真似はしないだろう。カオスは私たちに、……いや、クラウド、ザックス、お前たち二人を傷つけぬために、ルビカンテにクラウドを攫わせたんだ」

 俺の視界には、見たくもないものが生じていて、それが目をどっちに逸らしても常に目の端には居る。避けて居たいと思うのに、見ないほうがいいと思うのに、どうしてもピントが合ってしまう、其処に在る物が、見えてしまう。

 クラウドが、微かに尻尾を震わせている。

 こっちから訊きたいと言ったくせに、ヴィンセントがその言葉を発するのを、怖れる勝手な俺が居た。

「ルビカンテではない。……スカルミリョーネこそが、地獄と結託して私たちを始末しようとしていた」、「亡霊をこちらへ繰り返し送り込んで居たのはスカルミリョーネだ。私たちの世界を蹂躙するために」、「最終的には魔界の転覆だ。もっとも、それ以上何が出来るかという点に関して、私は想像も出来ないが」、いい、いい、いい、やめてくれ、「カオスに姦計が筒抜けだということに気付いたスカルミリョーネは、自ら姿を消した。恐らく行き先は地獄だろう。あの街は間もなく亡霊で溢れることになるだろう。そうなれば我々も無事では居られなくなろう。長期の滞留に不安と不満を持ち始めたお前たちを戦闘に巻き込まないように、今朝はあのような乱暴な真似をされた訳だ。クラウドに第三の力を授けたのは今朝の為だった訳だな」。

言い切って、気持ちいいか、すっきりしたか、ええ?

 そんな風に因縁を付けてやりたいような気になった。クラウドの尻尾はまだぷるぷると震えている。ヴィンセントは憂鬱そうな顔で籐椅子に座り、また煙草に火を点けた。やけくそのように何本も何本も何本も続けて吸って、吐き出す煙の中に苦味を混ぜ込むやり方を、しかし六十年生きた彼だって知らないのだ。

 不貞腐れてどうなると自分でも判らないまま、

「それで?」

 俺は不貞腐れて言った。

「……それで、とは」

「俺たちは、どうしたらいいんだ?」

「さあな。早く帰りたいと思うのならば、戦いがとっとと終わることを祈るべきだ。もっとも、戦火が此処まで広がらないとも限らない。そうなれば、また遠くへ移動しなければならなくなるだろうが」

 その場合には其処らで車を手配しよう、そんなどうでもいいことを、ヴィンセントは言った。

「……言っておくがな、私に苛立たれても困るぞ、私だって苛立っているんだから、お前の悪感情を遣り過ごせるかどうかは判らない」

 ヴィンセントは苦しげにそう言う。そんな顔を見せられては、俺の棘は少し寝る。いつもいつも甘えてはいけないということぐらい、三十過ぎの男である訳だ、判っている。

 しかし。

「私たちの身に危害が加えられる懸念は万に一つもないし、土中に埋まった危険な種はカオスが丹念に排除していくはずだ。ただ、今夜は早く寝よう」

 ヴィンセントも俺も、いま怖れているのはただ一つ。クラウドが泣くことだった。

 俺だって泣きたいのを我慢して居る。

 ヴィンセントだってそうだろう。痛みは薄い膜の向こう、あの優しい顔の少年の姿をして居る。

 同じ苦しみを俺たちに味わわせたくなくて、ヴィンセントは黙っていたのだ。到底隠しきれるような質量の秘密ではないのに。

「……スカルミリョーネは、……どう、なるの?」

 クラウドは低く抑えた声で訊いた。ヴィンセントは床を見て少し黙っていたが、やがて真っ直ぐにクラウドを見て、言った。

「悪いことをしたらどうなる? 罪を、償わなければならない。それは私たちの世界も此処も全く同じだ」

 と。

 其処にある種の信頼が在って、また期待も在る。俺でさえその言葉を真正面に受けて、顔を顰めるほどの痛みを感じないわけには行かない。その痛みを、そのままクラウドに預けるような残酷な真似を、この俺に出来るはずも無い。

「もう会えないと思っておいた方がいい。会うことが無い方が幸せだと」

 しかし、ヴィンセントはした。

 それを何と呼ぼう? 俺には絶対持ち得ないものだから、名前なんて知らなくてもいいものなのかもしれない。

 クラウドは数秒、黙っていたが、やがてこっくりと頷く。ヴィンセントはほんの少し救われたような顔になって、クラウドの髪を優しい掌で撫ぜる。その掌を求めているのは、今は寧ろ俺の方かもしれなかった。

 

 

 

 

 眠らなきゃと思うときは須く眠れないときで、ベッドに入って明かりを消しても、実はまだ普段の就寝時間よりもずっと早いのである。朝から歩き詰めでくたくたの身体は、却って妙にぼうっと熱くて、眠りとの距離を開けていく。同じベッドのクラウドは、はじめは俺の腕の中に居たのだけど、やがて窮屈そうに向こうへ行き、またこちらへ戻っていき、「おしっこ」と俺の頭を猫手でぐいと小突き、そして布団に入ってまたごろごろを繰り返している。もちろん肉体的な問題によるものばかりではなく、最も疲弊して居るのはこの心である。

 ヴィンセントはどうしているだろうと隣のベッドを伺う。此方に背を向けて静かに呼吸して居るが、寝ていないなと直感で判る。じいっと眺めていたら、不意に起き上がり、窓辺でまた煙草を吸い始めた。彼も俺とクラウドが眠っていないことなど先刻承知だろう。「早く寝ろ」と一言、背を向けたままで言う。

「……あんたの魔法で眠らせてくれればいいのに」

「あれは薬と同じだ。癖になったら困る」

 煙草を消して、暗い目の彼は「寝ろ」とぶっきらぼうに言い放つ。溜め息を吐いて天井を見上げたクラウドが、ずる、とベッドから抜け出した。布団を被りかけたヴィンセントの隣に行って、「こっちで寝る」、……温かかった布団に、急に隙間風が吹くような気になる。

「……ヴィンと一緒に寝る」

 クラウドは、多分挑むような強い目でヴィンセントを見上げて言う。

 ヴィンセントは少し黙ったまま立ち尽くしていたが、やがて何も言わずにクラウドを布団に招き入れた。


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