今は、邪魔なものは何も要らない。クラウドの目には俺すら背景だったろう。だから、俺は二人だけそっとしておくことにした。確かに、クラウドと「帰ってきたら三人で」という話はしていたけれど、約束よりも必要だと思ったから。でも、俺だってヴィンセントと、キスをした。嬉しすぎて調子に乗りたい。けれど、今は俺よりももっとずっと調子に乗りたがってるクラウドがいる。
スカルミリョーネの鼻が赤い。よしよし、と頭を撫でてあげる、いい子、優しい子。その涙は、間違いなく俺たちのために流されたものだろうし、またわずかばかりの――赦された、という気からの――安堵によるものであったろう。魔界としてはいかんともし難かった、カイナッツォの「不手際」が、今こうして拭い去られ、主君のミスは帳消しとなり、そして俺たちは守られたのだ。
「風呂、入りに行こうか」
こくん、とスカルミリョーネは頷いた。俺はその手を引いて、立ち上がった。俺たちは宿のロビーに居た。さっき部屋に一度戻ったときに、俺は最初から部屋を出るつもりでいたから、二着の浴衣を持っていた。
「お前のそのドロドロのもどうにかしなくちゃいけないな」
「は……、はい」
ところどころ赤黒い染みになってしまって、おまわりさんに見られたら確実に詰問されそうな。
脱衣所で、スカルミリョーネの裸を見た。やっぱり、どこにも傷はついていない。あれほど致命的な負傷をしてもなお、あっという間に死んで生き返る、命としてあってはならない形の体でも、俺は本当に可愛いと思う。有り難いと思う。神様なんていないのだなと、スカルミリョーネを見ていると思う。神様の代替わりの間に生れた、もっと確かな真理を宿した身体だと俺は思った。
温泉からは、俺たちの部屋の窓が見える。もう、暗く消えている。
心から、クラウド、よかったね、そう思える。そして、勿論俺だってこんなに嬉しい。ヴィンセントに、心配かけられてどうのこうのという話は、後ですればいい、それだって五分もあれば済むだろう。
「……カオスは知っていたんだろう、どこにヴィンセントがいるのか」
星のちらちら見える真下で、スカルミリョーネに聞いた。
「……はい。……そして、先ほど、あの時、ヴィンセント様がこの場所に現れることも」
「つまり、俺たちに会わせようとしたってことだね」
「……はい」
俺は、熱いお湯で顔を洗った。
「ヴィンセントは、知っていたのかな。俺たちが、ここに来るって」
「……恐らくは、ご存じなかったと思います。……あの、……実はですね、このところ、ザックス様とクラウド様には、ずっと亡霊が降りて来ている事を、黙っておりました。……その間、三箇所で、亡霊の降臨はあったのですが……」
「……全部、ヴィンセントが片付けてた?」
「……左様です。カオスを経由して、ヴィンセント様に亡霊の降り立つ場所をお伝えして……。しばらくの間、お二人に亡霊の駆除をお願いするのは中止するというのが、カオスの打ち出した方針でした」
クラウドがクールダウンして、自分が素直に悪かったと認められるだけの時間を取ってからなら、ヴィンセントとすんなり和解出来る。カオスも、クラウドが変身する能力以上に、俺たち三人が結束することの方がずっと重要だということを、理解したのだろう。相変わらず騙され続けていることは面白くも無いが、おかげさまでこうして、また無事な姿のあの人に会えた、その再会がすんなり行くために、骨を折ってくれたことには、素直に感謝したいと思う。
得意の嘘をついていた罪悪感に、スカルミリョーネは項垂れる。
なあ。こんな罪の無い子なのに、何で嘘が得意なんだろうね。カオスの命令とは言え、損な役回り。この子がカオスのことを本当に愛していなかったら、やっぱり出来ないだろう。しかしそれ以上に、俺はこの子のことを愛していたなら、この子に嘘をつかせるなんて出来ないだろうなとも思う。その一方で、この不器用な子がどういう形でもいいから尽くしたいと考えたなら、そのやり方をどういった形であれ、与えてあげるのも、また愛なのかもしれない。
「申し訳ございませんでした……」
俺はこの子を愛してあげることは出来ない。可愛いと思うし、もちろん、俺の心はこの子を愛する方向へ向かう。しかし、決定的にこの子のことを愛せないとも思う。この子を抱いているときの俺の心は、間違いなく一色に染まっているのだが、それでもだ。それでも、どこか冷めていることを、否定は出来ないだろう。そして、それはヴィンセントにしても、クラウドにしても。スカルミリョーネの反応も、多分、心底からのモノではないだろうし。
しかし、大切な大切な友だちだと思う。クラウドとヴィンセントに対して抱くものではない、それでも、純粋な友愛の感情を、俺は抱いていた。
スカルミリョーネを抱き寄せて、抱き締めて、キスをした。臆病そうに、一つ震えて、俺が背中に手を回すと、おずおずと、こわごわと、それに答えた。
「……ありがとうな」
濡れた茶髪を撫でると、それに従うように頷いた。
ここで、してもいいんだ。けれど、な。誰が来るかもわからないし――判らなくてもひょっとしたら、クラウドやヴィンセント相手ならするかもしれないけれど――
身を離した。
「さっきは……、すまなかったな」
「……はい?」
「あの、変身をさ、せっかくしてくれたのに、止めちゃって……」
スカルミリョーネは、首を振った。
「とんでもございません。……私こそ、後先を考えずに……」
すぐ自責してしまう。
「いや、あの場面で変身して早く終わらせようとしてくれたことには、感謝してるよ。あれがお前のスタイルなんだし、それを勝手に曲げようとした俺たちが悪いんだ。ごめんね」
醜くとも。
それが愛のなせる業ならどんなことでも否定したくは無い。しかし、俺がクラウドにスカルミリョーネのあの姿を見せたくなかったのも、素直に愛だったろう。後味は、勿論よくないけれど。クラウドへ向けた抜き身の愛、そして、クラウドがあの姿を見たことによって起こすかもしれないスカルミリョーネへの拒絶反応からの回避という意味では、スカルミリョーネに対しても内包された愛。それを、スカルミリョーネに全部飲み込めとは、到底言えない、だから、謝るしかないわけだ。
「……私のあの姿のおぞましい事は、私が一番よく知っておりますから」
スカルミリョーネは、俺に罪悪感を与えないようなやり方で、微笑んだ。いっそ、清々したようなもの。
「それでも、私は構わないのです、この仮そめの姿でも、あの本当の姿でも、同じように私は誰かから愛される、それが本当に、幸せだから」
ファンタジックな愛の在り方を、常人の感性ではきっとそう受け止められない。しかし俺は幸福にも、抱き締めるようにその愛を感じることが出来た。温かく、血に、俺も流されそうになっていた。
人はどうしても、憎しみを感じるアンテナの方が整備されている。そして、それをおぞましいほどスムーズに行動に出すシステムを持っている。それでも、俺は幸福の方が本当だと思いたい。いつでも幸福でいられるはずはないのだけれど、有り得る限りの幸福をこの手のひらに載せるチャンスを逃したくはない。
愛は幸福と共に在る。これは三十何年生きてきてようやく俺が掴みつつある結論で、そう薄っぺらな、きれいごとだけのものでもないと思う。
湯気に被われた空が綺麗だ。
愛があれば幸せかと問われれば、残念ながらそれだけじゃなくて、喜劇王チャップリンの言うように人生に必要なものは、『愛と勇気と少しのお金』。俺には決定的に勇気がないので、完全な幸せには遠いのかもしれないが、それでもこれだけ満悦に浸った日々を送ることが出来るのなら十分だ。
部屋に戻ると、もうクラウドは眠っていて、ヴィンセントは窓際二畳ほどの、何ていうんだアレ、東洋人じゃないから俺判んない、スペースが在るだろ、あそこで、窓を開けて煙草を吸っていた。俺も足音を潜めて、向かいの籐椅子に座って、煙草に火を点けた。
「……すまなかった」
短く、彼は二度目の謝罪をした。
俺は、青白い顔を見た。
「いいよ、もう」
ガラスの灰皿には四本の吸殻が溜まっていた。
「……あんたを責める理由はない。あの子が悪かったんだし、あんたがああいう風に、いなくなって心配かけることで、あの子の罪は消えたわけだし……、何ていうか、俺はいいよ、あの子も、もういいんだし、みんな、それで納得してるんだからいいよ」
嘘じゃなかった。「……それよりも」
俺は、もう在った事を、在った事とだけ見なして、もろもろの感情的なことは水に流してしまっていいと判断した。
「あんたは、一人で亡霊と戦ってたんだってな。スカルミリョーネに聞いたよ」
ヴィンセントは頷かなかったが、その目が少し、安らいだように見えた。
「クラウドが落ち着かないままじゃ、戦いの場に出すのは大問題が付き纏うからって。……カオスがよく言うこと聞いたよな……、いや、カオスも反省したんだろうけど。今日、一定以上の時間を置いてこうして会って、まあすんなり元通りになれたんだから……、あんたもご苦労様、クラウドもご苦労様、カオスもご苦労様、そしてスカルミリョーネはめちゃめちゃご苦労様だ」
「お前にも苦労をかけた」
「俺? 俺は何もしてないさ」
それは、やっぱり多分、嘘だったけれど。
「ここ十年であんたにかけた苦労の一分にも満たない」
これは、間違いないことだったろう。
二人で一本ずつの煙草を、黙ったまま吸い終わった。
立ち上がって、生乾きのタオルを手に取った。
「まだ、入ってないだろ?」
彼が頷くのも見ないで、俺は抜き足で部屋を出た。すぐに出てきた。黙ったまま、階段を降りて、下土を踏む音だけ聞きながら歩いて、脱衣所で服を脱いで。
それまでだった。
ひしりと抱き締め合って、叶うなら俺もクラウドのように泣きたくて、でも少し邪魔をするものがあったから、それを我慢して、ぎゅっ……ぎゅっ、……ぎゅう、苦しいくらいに抱き締め合って――クラウドの匂いがする――俺たちは、流れるように裸になり、共に洗い場まで行ったものの、鏡に映る互いの裸が既に欲情の対象になってしまっていたから。
この時間ならもう誰も来るまい。
そう目線を交わし、そのままはじめた。
愛しているから、愛しているから、ねえ、愛しているよ、だから、……愛しているからさあ。俺は声を泳がせた、水面、ふるえて、跳ねた。ヴィンセントにしっかりと抱かれ、きっとクラウドも思ったであろうことを俺もまた思っている――ほどけなければいい……!
「悪い人だ」
俺は笑った。
「あんたは。悪い人だ……、あれだけやって、まだ、こんなに愛されてる、俺に、クラウドに」
俺を吸うヴィンセントを、笑った。
――同じことさ――
俺もあれだけやって、クラウドだって、あれだけやって、……なお愛されている。感謝しなくちゃならない。
“幸せ者”と、自分の身の程を知る。
その唇でその手のひらで、そしてヴィンセント自身で以って輪郭を辿られていくうちに、俺は俺の輪郭を朧に感ずるようになる。俺なんかの身体を欲しがってくれるのは、畏れ多いこと、長い黒髪を垂らして俺を見下ろす顔はぞっとするほど美しいから、時折不安を抱き焦燥に駆られ「俺痩せなきゃ」とか「今からでも遅くは無い、牛乳を飲もう」とか、考えてしまうわけだ。無論、今だって別に太ってるわけじゃないし、身長がこれから伸びようハズも無いのだが、……「そうだ煙草を止めよう」……、おそろいの煙草を吸えなくなるほうが辛い。
もちろん、俺よりクラウドのほうが小さいから、ヴィンセントはクラウドのことを片腕一本で支えることが出来るし、安定感は優れているだろうに、……これは密かに自慢だ、俺を抱くときのヴィンセントの方が、スマートな動きをしていると思う。普段以上に、よりずっと、しなやかな動きをその腕が体が腰が見せるのは、クラウドと出会ってまだ四年、俺とするようになって十二年という圧倒的な時間量の差の為せる業で、当分この差は埋まらないだろう。クラウドに勝って嬉しがるほど意味のないことは無いのだが、殊対象がヴィンセントであれば話は少し別物になるだろう。
それは、同じ体が、同じ魂が、存在することでしか果たせないこと、このフィットする感じが、そう。
誰より一番俺の中を知っているのはヴィンセントだから、俺のナカはヴィンセントの形に歪んでいるのかもしれない。
死なない体にあぐらをかいて、ゴムも無しに、ダイレクトな体温でヴィンセントを感じる。
「あ……! ァ、ア!!」
遅い時間まで、こうして、二人だけいられる悦びを今、あんたと分かち合う喜び。
もしもあんたがこうして戻ってきてくれなかったら、俺やっぱり多分、泣いちゃうよな。もう、誰か一人でも欠けたら駄目なんだ。そういうところまで来ている俺たちなんだ。
その事を時折風に吹かれた湯気のように忘れてしまう時はあっても、すぐにちゃんと思い出すよ。俺たちは三人いつでも一緒。掛け替えの無いこの状態をいつまでも保つ為に愛を続け、そして、勿論俺だって二人を悲しませないようにしないといけないね。
クラウドが、赤い鼻で脱衣所に立っていた。
「寝てたんじゃなかったのか」
「いないから……スカルミリョーネが、連れてきてくれた」
返答としては、あまり正しいものではなかったろう。
「……一緒がいい。三人一緒がいい……、一緒がいいよお」
しがみ付く身体が震えている。
部屋に戻ろうと誰からともなく言った。部屋に戻って、着たばかりの浴衣を脱いで、俺たちはクラウドを抱いた。散々ヴィンセントに可愛がってもらったんじゃなかったの? でも、クラウドも俺と同じように、三人が共に在るそのことを、かけがえなく思っているのなら。
もうあのようなミスは二度とするまい。俺たちは三人して抱き合いながら、同じようにそう思っていた。