髪を切る日

はさみが通るたびに思い出が落ちてゆく、……人は髪を切る前に一つ何かを片付ける……、少なくとも僕たちはそんな風に別れた……、短く切ってください彼女が嫌いだったスタイルに。槇原さんの楽曲にこういう歌詞があって、なんというか、非常に切ない。なんだか「髪を切る」って行為は、失恋に代表されるように、一つの区切りを体現する形であるように思える。それは理容室の鏡と長時間向き合うことで、自分が新しくなって行く様子を目の当たりにしているうちに、心も刷新されてくように錯覚するからだろう。
 と言って、髪を切ることで責任逃れをしようとする輩もいるらしい。髪を切ったから許してもらえるならみんなそうするさ。
 しかし、髪を切る、そのことが本当に「区切り」になっているのは、お相撲さんだと思う。横綱の断髪式、みんな泣いている。あの涙は本当に、仕事人の身体の一部である大銀杏を切断することで、相撲人生にピリオドを打つという、抉り取られるような痛みと悲しみと孤独を感じての、心からのものなのだろうと俺は思う。また、仏教における出家も同様。あれに涙があるか否かではなくて、あれは俗世からの自己切断。剃髪することで、潤った俗世から脱するのだ。まさに長い友達である髪との別れ、何らかの心の動きがあって然るべきものだ。
 髪を切るというのは、ファッション雑誌に「この春この髪形で勝負」みたいに、見た目でどうこうというものではないように思える。もっと、精神に根ざした行為なのではないかと俺は思ったりもするのだ。それに例えば多くは男性の場合、いじくりたくてもいじれないヒトだっているわけだし。
 俺はここ六年、髪を弄っていない。もちろんうざったい頃には切るけれど、それ以外に意識は働かせていない。朝起きてシャワーを浴びて乾かせば、いつもクラウドとおそろいのボンバーヘッドになるわけで、スーパーハードジェルやポマードをべっとりつけても昼過ぎから夕方にはもう寝かせた毛がまた持ち上がってしまう。髪を弄る楽しみというのは、俺とはまったく無縁のものだ。いいんだクラウドいじってるから。クラウドの髪の毛も可哀想に俺と同様。これからいわゆる「思春期」という奴に入って行くのであろうし、だとしたら髪の毛を弄りたくなってくるのかもしれないけれど。俺も十代になってからは髪をどうにかしたいと常々思っていて、こんな髪に生んだ両親を恨んだりもしたが、結局俺はこのままで在れという天啓なのだと解釈して、いまもそのままで在る。宇宙心理ではないが、俺は今のままでも十分パーフェクトなのだろう。しかしながら、時々にはヴィンセントのさらさらのストレートがうらやましかったりもするのだ。
 彼は割と髪をいじるほう。いじる、と言っても、ドラスティックに髪型を買えたり、何時間も鏡の前にへばりついていたりということは全く無く、その長い髪を気ままに、下ろしてみたり上げてみたり結んでみたり解いてみたり、いろいろやってくれる。ただその色に関しては、クラウドが俺が、キレイだと言うからだろうが、脱色なぞ考えたこともないと言う。真っ黒で飲み込まれそうな闇は、しかし光を浴びて煌いて、眩しいときすらある。
 色で言えば、俺の髪はこれ、地色だ。ブリーチをかけたわけではない。母親が色が薄いから、遺伝だ。こういう髪色の人間というのは基本的に体毛が濃い傾向にあるようだが、俺は、どうなのだろう濃いほうなのだろうか。ヴィンセントと比べても同じくらいだと思う。というか、ヴィンセントの方が体毛の色が黒なのだから、脛とかあのあたりとかは俺よりよっぽど目立つ。でも、クラウドのうなじに黄金色の産毛を見つけたりなどすると、おそろいで良かったなど不意に思う。
 ただ、割と俺は十八の身体をした三十一歳にしては、頭髪に無関心な部類だと思う。寧ろ自分よりもクラウドの頭髪に気を使う。解いたほうが可愛い。これは勝手な意見。でもヴィンセントだって、ベッドではクラウドの服を脱がせる時、一緒に髪留めのゴムを外す。流れる金髪というのはそれだけで官能に障るものなのだ。
 話が横滑ってしまった。ヴィンセントの髪型は、俺たちと出会ったとき、そして今は背中の、両方の肩甲骨を結ぶラインくらいまでの長髪。長髪にありがちな不潔感、若しくは軽薄な感じがまるでない。その当たり、そういう髪型にする以上は気を使っているのだろうと勝手に想像する。それがすっかり馴染んでしまったが、しかしタークス時代、彼が「本当に二十七歳」だった頃には、もちろん企業に属した人間であるゆえ、髪は短く揃えていた。タークスでやっている時の写真というのは当然ながら殆ど残っていないが、彼がノンプロで活躍してた当時のモノクロ写真の彼は、キャップから覗く襟足は短く整えられている。そして、俺の実年齢で言えば二十一歳の後半から、あれはええと、二十六か七くらいまでの間、つまり彼の一人称が「僕」だった時代にも、同じように彼は会社に勤めていたから、そういう髪型だった。その当時の写真は今もたくさん残っている。今よりもちょっと爽やかだ。逆に、長髪のヴィンセントには大人の落ち着きのようなものが感じられる。
 自分を一般とは区別して考えて、一般的に多くの人はどういった時に髪を切るものなのだろう。やっぱり冒頭に書いたような深い考えは無くて、流行の変遷に伴うファッションの衣替え、程度の認識なのかな。まあ、いい。それに迎合するつもりは一切無くて、最終的に一千万年前のファッションでいたっていいくらいの気持ちでいる俺だ。
 さて。GWが過ぎた。さすがに小学生では五月病に罹る気遣いも無く、クラウドは四月と同じペースで学校に行く。最近は日中汗ばむ陽気になる日も増えてきた。GWで「春」が終わり、ここから夏になっていくのだろう。濃緑色の葉が作る陰が優しく感じられる季節だ。毎年恒例の「珍事」である阪神と広島の快進撃も終わり、ファンとしては辛い時期となっていく。阪神の本拠地にほど近い大阪ではGW中に最高気温が30度を越える夏日となったらしい。既に「死のロード」に入ったと見ていいだろう。
 ニブルヘイムは山の裾だから、あまり暑くならないはずだが、それでもこのところは最高気温が二十五度にまで上がる日が続いている。一雨を境に数日肌寒くなっても、長くは続かずまた汗ばむ日が多くなる。三寒四温ならぬ、三涼四暑というやつだ。我が家ではもう夏物を出した。昨日の金曜日のクラウドの服装は、半そでのTシャツ、その上に脱ぎ着出来るようウインドブレーカー、そして半ズボン。猫は暑さに敏感だから、気温に柔軟な対応をしてやらなければならない。クラウドの脱げない服……、これは包皮のことではなく毛皮のことだが、こちらももうフワフワの冬毛からさっぱりの夏毛へと脱皮の真っ最中。家の中にスーツをかけて置こうものなら十五秒で毛が付く、抱っこすれば毛が移る。今朝小便をしようとして見たら、陰毛にクラウドの猫毛が絡み付いていて、なんと言うかすごく申し訳ない気分になってしまった。
 俺も学校に行くときは長袖のTシャツを一枚にジーンズ。ヴィンセントもワイシャツにスラックス。そんな感じ。六月になれば衣替えの季節。みんなが夏になっていく。
 土曜日。昨日は夕焼けがキレイで、だから今日は晴れて、たぶんまた暑くなる。二十五度を超えると「暖かい」ではなく「暑い」になるのだななどと、そんな風なことを、顔を洗って爽やかな朝に考えていた。
「おはよう」
 旧い我が家も洗面所は一般家庭と同じく浴室の脱衣所と兼用。顔を拭いている俺にヴィンセントが入ってきた。
「おはよう」
「うん」
 あんまり良くないことだとは知っているけれど、顔を洗って拭くときに、あまり目を擦ってはいけない。目が赤くなってしまう。しかし、寝起きにギウギウ目を擦ると、やっぱり気持ちいい。指圧された眼球に幾何学模様、これは胎内で見る風景と同じではないかなどと根拠も無いことを考える。
 目を開いて瞬いてしばらくは、その幾何学模様の残滓のせいで世界が白く脱色されて見える。ヴィンセントの黒髪も、同様に。彼はふっと笑って、おはようのキスをしてくれる。一日最低三回はするキスの最初の一つ。
 彼の腕から離されて、ようやく焦点の合った目で見る。
「……おお」
「久しぶり、か?」
「おお……」
 彼の髪は、襟足さっぱりと整えられた、ノンプロ選手時代、サラリーマン時代のそれに変じていた。俺は思わず目を丸くして、笑ってしまった。彼も少し笑う。首のあたり、さっぱりしたから少し寒そうだ。だけど、さっぱり。
「今年の夏は暑くなりそうだから……」
 そう理由を述べて、馬鹿みたいに懐かしい髪型を口を開けて見てる俺を撫でた。
「却って新鮮だろう?」
「ああ。いや、新鮮って言うか、すごい……、かっこいいな」
 同じ笑顔も、どこか若いものに感じられる。髪型一つでこんなに違うものか。不思議な感じがする。
「ありがとう。あの子もそう思ってくれると良いけどな」
 その笑顔は、五年前までのものと、全く同じに見える。スイッチが入ったみたいに、俺はその髪型から、俺だけのヴィンセントを、ヴィンセントだけの俺を思い出して、ちょっと甘酸っぱいようなほろ苦いような気持ちになった。卒業アルバムを開けたら初恋の人の写真を見付けてしまったような。同じ人の髪型が違うだけで、だけどヴィンセントの場合あの時と今とでは性格も変わったから、本当に別人みたいに思えるのだ。
「思うに決まってるさ。……悔しいけどあんたはかっこいい。俺なんかより、ずっともっとずっと」
 外を初夏の小鳥がチュンチュン言っている。海沿いの家に二人で住んでいたことなど、思い出して俺はちょっと朝なのに、感傷的な気持ちになった。ヴィンセントもそれを判ってか、顔を洗うと、そのまま台所にもクラウドを起こしにも行かず、手持ち無沙汰な風情で、洗面台に俺の隣り、寄りかかった。なんだか、本当に昔の恋人と同窓会で逢ってしまったような、言いようも無い気分。同じヴィンセントなのに、どこかそうじゃない。ヴィンセントも、なんだか少し気まずそうに、上目遣いに前髪を摘んだりしている。
「いつ……、切った?」
 小鳥の声がちょっとうるさいので、切り出した。
「昨日の晩に」
「切った髪はどうした?」
「自分で処理した」
「そう……」
 ヴィンセントは俺の横顔をしばらく眺めてから、
「僕の方がいい?」
 別人になったような、昔の口調でそう言った。俺がどぎまぎしていると、フッと微笑んで。
「この喋り方はな、猫の姿のときのものだ。いや、猫の喋り方が、当時のものと言えばいいか。いずれにせよ、私が一番肩肘張らずに楽をして喋ることが出来る口調なのだ」
 ソシュールによる。一人称によって人は自分を定義してしまうというのだ。俺が「俺」という一人称を選択したのはいつだったか忘れたが、その時以来俺は「俺」というい一人称に相応しい行動をとろうという努力を、無意識のうちにしているらしい。そして自分を「私」ではなく「僕」というヴィンセントも、そのときどきによって行動の質が少なからず違ってくるはずなのだ。俺が別人だと評するのは的外れではなかろう。
「別に、あんたが楽に話したいなら何でもいいじゃないか。俺といるときに肩肘張ってくれなくたっていい」
 こんな科白も俺が「僕」だったら、「別に君が楽に話したいなら何でもいいじゃない。僕といるときに肩肘なんて張らないでよ」となるのだろう。
「私がそうしたいんだ。お前たち二人の頼れる存在として在ることは私の喜びだ。肩肘という言い方は不味かったかも知れない、正しくは、……うん、背筋が伸びると言うかな。この口調で喋っている間、私はクラウドの父親として存在している。まあ……、そればかりでは肩が凝るのも事実で、だから時折猫になってガス抜きをするわけだが」
 ちなみに、猫の口調も「僕」の口調も、あのカオスと同じ選択された一人称に基づくものだ。
「……俺はどっちのあんたでも気にしないけどな」
「ああ。お前は変わることなど無い、その必要も無い」
 ヴィンセントは俺にこちらを向かせた。温和な表情。この人はやさしくてあたまがよくておだやかで。俺にとっての理想の男の人で、下の句に「ついでにきれいで、おれのことがすき(字余り)」が付いてくる。ちょっと見とれてしまう、明るい朝日の中の凛々しい目。
「……もう一度、おはようのキスをしようか?」
 昔の口調で。
「うん……」
 ちゅっ、と唇が出会う音がして。
「愛してるよ、大好きだよ、クラウド」
 昔の恋人に自分に、俺たちに、戻ったみたいな錯覚。猫のクラウドはまだ寝てる、何故って昨日の夜はちょっと夜更かしをしたから。だから、心咎めることなく、したって……。
 二人きりで寝ることなんてまずないからな。二人きりですることなんて、本当に少なくなったけれど。
 愛し合っていることに違いない。その短い髪にそんなことを思い出した。
 朝っぱらから、こういうことをするのを間違いだなんて、今の彼は言うけれど昔の彼は言わなかった。朝、仕事に遅刻したっていいよ、ね、クラウド、えっちしよう? 大好きだよ、大好き。だけど今では、クラウドの出席日数をそんなに削りたいのかお前は、早く来て飯を食え、と言いつつ参戦する。……やってることの中身は殆ど差が無いな。成長していないのかな。
 手をついた壁の模様は、昔とは違う。そのことが俺に、俺にはたった一人しかいない「ヴィンセント」と言う恋人が過去も未来も一緒にいるのだという事を教えた。なんだか、それが紛うことのない「本当」だと俺は、とても強く意識していた。
 パジャマ代わりの薄着を全部床に落として、遠慮なく声をあげたりして、本当に、ああ、そうだ昔は近所迷惑ってものをまるで気にしない俺たちだった。そうして、責任を求められるサラリーマンだというのにフレックスをいいことに重役出勤、それでも帰ってくるのが待ち遠しくてオナニーばかりしていた俺。……この辺も今とあまり変わらないな。
「……クラウド、気持ちいい?」
「うん……」
 ローションを纏った指がにちゃにちゃ音を立てながら舐る肛門が、朝だと言うのに敏感で、胃のあたりまでその指が届いているかのように俺の胸は詰まった。腹の中が空っぽで、その分よく響くのだろう。湿っぽい手のひらは朝だから元気なところに。滑らせるような撫で方。そこから伝って太股を生暖かい液体が滴るのは、なんと言うか失禁したみたいで恥ずかしい。しかし、背筋を舐められると、なんだかどうでも良くなる。寧ろ、どんなんでも、良くなる。
 自分でまじまじ見たことは無いけれど多分うらぶれた雰囲気が漂っているであろう俺の下半身をこの上なく愛しげに愛撫してから、拡張した俺のちっとも秘められていない秘蕾、っていうか多分もう花びらだって散ってる、とにかくそこに、ヴィンセントも朝の元気の良いペニスを、押し付ける。
「思い出すね」
「思い出すなよ。今だけでいいんだ。昔はどうでも」
 つ、と肩甲骨に舌が這う。
 変わっちゃいない。ヴィンセントがいて俺がいる。クラウドもいるけれど、それでも俺たち二人は変わっちゃいない。進化も退化もすることなく、なろうと思えばいつでもこうなれるのだ。
 暗記したことはすぐに忘れるけれど、理解したことは二度と忘れない。ヴィンセントの考え方とペニスの感触。奥へと入るに連れて、そこが生き返るみたいに、
「あ……」
 よみがえりの声が溢れる。
 やはり、大きい。一週に一度はこうして、父子ではなく恋人同士になる。けれどそのたびに、懐かしくそして新鮮な触感に胸が痛くなる。あの頃の俺はこんな立派なのを毎日毎日貪っていたんだ。何て贅沢なんだろう。いや、その幸せを重々理解してはいたけれど。それにしたって。
 横隔膜の下から、ぐっと持ち上げられるような気になる。
「動くよ」
 俺は十四の時から述べ十人近くの人とセックスをしてきたわけだが、一度だって「愛の無い」セックスっていうのをしたことがない。無論、したいなどとは思わないが。いや、疑問なのだ。わかりたくも無いが、何故そんなことが出来るのだろうかと。愛があってこそのセックス、幸福ではないかと、思うのだが。
 セックスをすることで、俺はだから、愛に包まれて幸せになれる。同様に俺を抱くヴィンセントが幸せになってくれればいいと思う。こういう心の行ったり来たりが素敵なのだろう。
「すごい……、気持ちいいよ、クラウド」
 昔の口調、昔の髪型、しかし今も変わらない気持ち。俺たちは共に在る、切って捨てた髪の毛でどうにかなってしまう関係では、決して無いから。




 クラウドは基本的に猫なので寝るのが好き。寝る子が猫なのだという誰もが知っている薀蓄を引っ張り出すまでも無い。寝てるときのクラウドの顔は、本当に幸せそうで、時々夢を見て寝言を言っているのを目撃してしまったりすると、俺まで「うにゃあん」などと気持ち悪い声を出しそうになってしまうくらい、可愛らしい。お気に入りのタオルケットの角を鼻に当てて、ガッコが休みの日などは十時過ぎまで寝ていることもある。
 ヴィンセントと愛し合って、その十時に近くなって、さすがにちょっとお腹も減ってきたので遅めの朝食の支度をする。簡単なサラダにソーセージをニ本ずつ焼いて、賞味期限の早い順から玉子を使う。オムレツやたまご焼きがキレイに出来たためしがないので、いつだって目玉焼きだ。そうしてトースターに三枚入れてスイッチを入れる。コーヒーをたてていると、ヴィンセントがクラウドを抱っこして降りてくる。クラウドはあっけにとられた顔のまま、ヴィンセントをじーっと見つめ、言葉を失っている。ドラスティックに髪型を変えた父の姿を起き抜けに見てしまったせいで、まだ夢の続きだと信じているのかもしれない。
「クラウド、おはよう」
 苦笑いのヴィンセントからクラウドをもらって、気付けのキスをする。
「……にゃっ」
 ぱちくり、大きな目を瞬きさせて、キスを返してくれてから、改めてヴィンセントを見る。
「ふにゃー……」
 また、ぽかぁんとしてしまう。クラウドは生まれて三年になるが、まだ短髪のヴィンセントというのは見たことが無いのだ。猫型の時も同じように短髪ではあるが、二十七歳の肉体のヴィンセントの短髪に対しては、全く免疫が無い。
「切っちゃったの?」
 食卓に腰掛けて、ようやく目が醒めたクラウドが、ヴィンセントに尋ねた。
「うん。……まあ、これから暑くなるしな、気分転換を兼ねて……」
 髪を切る理由というのは人それぞれあれど、多分どれもがちょっと気恥ずかしいものなのかもしれない。引退や出家は除くとしても、失恋、贖罪、宿願達成、ファッション。髪の毛をそんな風に弄るのって、胸を張ったっていいようなものを。しかしヴィンセントもなんだか、どこか照れくさそう。
 髪を切れば、見た目だけは新しくなるから、それがどう受け止められるかどうか、多少の不安があるのも解かるが。
「ふうん……」
 遠慮なくその髪型を見て、見て、見て、クラウドは視線を外し、ぱくんとトーストにかじりついた。
「ヴィンの長い髪、きれいだったのにな……」
 ぼそ、とクラウドは、パンをもくもぐ口の中に入れながらお行儀悪く呟いた。
「……」
 ヴィンセントは表情を翳らせて、コーヒーを飲んで、少し考えた。
「……ちょっと、失礼」
 こちらもお行儀悪く、食事中に立ち上がる。どこへ行ったのかと思っていたら、一分もしないで戻ってきた。
「……は?」
「あーあ……」
 俺はあきれて、溜め息を吐いてしまった。
「長いほうがいいなら、こうする」
 彼の髪はまた、長くなっていた。トカゲの尻尾じゃあるまいし。もう、何があったって驚きやしないさ。俺の考える、断髪の感傷なんて、きっとこのヒトには無関係なのだな。まあ、いいや。俺は、どっちだって好きだからな。
 クラウドはさっきみたいに、また目を真ん丸くして固まる。今度はヴィンセントが気付けの口付けをして、目を醒まさせる。
「う、うにゃ……、別に、俺は……、ヴィンのしたい髪型にすればいいじゃないか」
 ヴィンセントは大人の微笑をして、答えない。意図は一つしかなくて、それは瞭然としていた。
「まあ、気が向いたらまた短くして、あの髪型でお前を抱くから。いつもと気分が違っていいかも知れないぞ」
「ふにゃう……」
 短い髪のヴィンセントがしたように、ちょっといやかなりイヤラシイ言葉に、調子に乗って相槌を打って、じゃあ今からすぐにでもしようよと言う俺とは違う、クラウドは違う。しかし、一人より二人が良くてそれよりも三人がいいというのは幸福の法則。そのときそのときによって幸福の形は違えど、感じる喜びは同じ。これはある程度の確信を持って言うが、多分ヴィンセントは俺と二人きりのときにまた、髪を短くすることがあるだろう。そうして、時折二人きり、二人ぼっちだった頃の俺たちを思い出してすることがあるだろう。別に、あれが不幸だったのではなくて、あれもまた幸せだったのだと言う事を、思い出すためにだ。
 二十センチの髪の毛の、あるかないかで人が変わる、記憶が変わる。でも変わらないものがあるということを、俺たちは知ってる、よく知ってる。


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