地獄を這う

 

 いくつかの端的な事実だけ、改めて記しておこうと思う。俺が俺でいられるうちに。俺が俺でなくなる前に。

 俺の命は、俺の愛するものたちのために消費されるべきものである。可愛い可愛い猫耳クラウド、そして誰より強く、賢く、美しいヴィンセント。彼らが俺の生きてることを望んでくれるから俺はまだ生きているのだし、彼らに望まれなくなったら俺の呼吸はぷっつりと耐えてしまうのが当然だ。恥と罪に塗れた人生であるという自覚が俺にはちゃんと在るから、俺は俺のための道はもう歩む気がしないのだ。

 クラウド、ヴィンセント、クラウド、ヴィンセント。

 クラウド、ヴィンセント。

 そこに一人の嘘つきの名前だって、加えてやっていいように思う。

俺だって嘘つきだからね、似たもの同士、嘘をつきたくなる気持ちも判るのだ。クラウドだってヴィンセントだって嘘をつく。一日終わって、心底から本当のことしか言わないで済んだ日なんて、……一生にどのくらいあるんだろうね? 俺たちは、幸か不幸か人より長い生を往かなければならない。だから結果として、人よりたくさんの嘘をついて生きていかなきゃならない。

 だからせめて、つかなくてもいい嘘はつかんようにしたいし、大切な人を傷つけるような嘘は憎まれてしかるべきだと思うし、……この腕で抱き締められるぐらいの距離感でなら、誠実で居たいって思うんだ。

 どのくらいの時間、歩いたか判らない。あれから何日経ったのだろう。俺は俺の身体のあちこちが、少しずつ俺のものではなくなっていくような錯覚にずっと駆られている。一体何人の「亡霊ヴィンセント」を屠り倒して来たことだろう……。

 怖いとか、淋しいとか、思わなくなるまでにそう時間はかからなかった。もうずっと前から空腹で、喉はカラカラで、それでも俺は枯れ枝のような骨の山道を、身体で足を引きずるようにして歩いている。……はじめのうちは、カオスに弱音を吐きあげていたのだけど、応答がないからそれも辞めてしまった。そもそも俺の心の何処かには、「男らしくないぞ」なんて思いが、この期に及んで息衝いているのだ。俺の命がこうして、未だ尽きないのだとすれば、それはクラウドとヴィンセントが願ってくれているからだ。

 俺の帰還を。

 スカルミリョーネを連れての、帰還を。

 何故?

 そう問われたって、俺たちは答えられない、……単なるわがまま、合理的な理由なんて、実は一つもないって判っているんだ。魔界の裏切り者、不幸の差し金、当然の罰わ報いを、受けてしかるべきスカルミリョーネを「許してやりたい」なんて無茶を思うのは、俺たちが単純にあの子を可愛いと思うから、……ただそれだけ。もう「嘘」と証明されても、いまもなお、あの子が俺たちのために浮かべた笑顔を、流した涙を、俺たちだけは信じたいのだという、盛大で、不誠実なわがまま。

 後先はまるで考えない。真実からすら目を背けるのだ。いっそ俺はこう思うんだ。……嘘なら嘘でいいよ、だったらその嘘を貫き通してくれ、永遠に、俺の愛する者たちを騙し通しておくれよ。

「あー……」

 何人の「ヴィンセント」を殺したか、数えるのももうやめてしまった。べたん、と骨山の上に尻を落とし、……臭いな、と思うし、疲れたな、と思うし。これが絶望的な行軍なのだということは分かり切っている。自分で飛び込んだ世界とは言え、辛いです、本当に。しかも俺、何処かでまだ、「誰かが助けに来てくれる」って信じている。カオスが言ったとおり、俺は常に、どういう訳か、自分でもクズだと思ってる俺を奇特なことに愛してくれる男に護られて生きてきた。何度かそういう事態が続いたなら、同じことを期待してしまうんである。

「あー!」

 声を上げて、酷く寝心地の悪い骨のベッドに横たわった。こうやって足を止めるの、ずいぶん久しぶりの気がする。ということに気がついた俺は、そうか、と思い出す。立ち止まってしまったらもう立つ気がしなくなりそうで、だから俺は立ち止まらないようにしていたんだ。あ、やばいぞ、と思ったときにはもう遅くて、身体中がバラバラに砕け割れそうなくらいに痛んでいることに気付いてしまう。さっきあれほど簡単に出せた声が全く出ないことにも俺は気付く、全身は石のように硬直し、……俺は塞がれた地獄の空を見上げながら、徐々に自分の意識が、横たわる身体の背中側に漏れ出していくのを覚える。

 丁度、そう、やたらと頑張ってしまった日の夜、眠りに落ちるときみたいに。

 俺の耳は俺の呼吸が、寝息のように規則正しく自然な腹式呼吸に変わっていくのを聴いていた。微かな鼾が俺の喉と言うか鼻と言うかからぼんやり響く。長いこと眠っていなかった。ひょっとして、こうやって死んでいくのかな。やばいぞ、おい、死ぬのは、まだ早いぞ。……わかってる、だって、クラウドと、ヴィンセントと、そしてスカルミリョーネと、俺はあとまだ数えきれないほど数えるのも馬鹿らしくなるほど、セックスをしなければならないのだ。しかしそんな考えの断片だってもう、深く深く、二度と覚めない眠りの中に落ちるときの夢現のあわいで浮かべるようなものに過ぎないのかもしれない。

 けれど俺はまだ生きている。

 俺の生きることを、願い続けてくれる人が居るからだ、と思う。

 クラウド、ヴィンセント。

 クラウド、ヴィンセント。

 スカルミリョーネ。

 裏切られてもなお、俺は、そして俺たちには、お前が理由になってしまう。

 俺はむくりと起き上がる。半身を起こし、ふーっ、と吐き出した息が苦い。俺が寝ていたのは相変わらず骨のベッドの上で、隣にはクラウドもヴィンセントも居ない。ただ確かなのは、この無情なほど広大な世界の何処かに、スカルミリョーネがいるという、ただ、それだけ。

ゆっくり、慎重に、俺は立ち上がる。

 俺は何も持って居なかった。剣も、マテリアも、何一つ。だから剣はこちらに落ちて間もなく拾った刃こぼれ著しいものを、何本か取り替えつつ使っている。服もカオスの部屋を訪れたときと同じで、だらしない普段着は、もう血肉に汚れ切って、臭いな、やっぱり。後で風呂に入ろう。クラウドのちんちんをふにふにしたりしよう。でもって、ちょっと嫌がられよう。

 それがどれだけ「後」のことかは全くわからないけど、そう思うだけでこの身体は間違いなく元気になる。

 俺には俺の願いの叶うことを心底望む者が居る。

 その心が何処かに在る限り、俺が死ぬことは万に一つもないのだと思うし、……苦しいのが俺で良かった。俺の愛する者が傷むんでなくて、本当に良かった、心の底からそう思える俺は、どの世界を探したってそうはいないような幸せ者だろうと思った。

 其れが、涙ぐみたくなるくらい幸せに思えた。

「よう」

 不意に響いた悪質な声に、

「死んだかと思ったぜ」

 俺は、汚濁しきった顔を向けた。けれど相手は笑わなかった。だって、そうだろう。俺はこれだけどろどろでもなお、愛されている男なのだから。

 醜いはずがないのだ。醜くないはずがないからなおのこと、俺はそれを信じることが出来る。

 今回も助けは現れた。苦虫を噛み潰したような顔で、別に俺を愛しているわけでもない男は、煙草を咥えて、顔を凶悪に顰めて。けれど俺は嬉しいので、全身で感謝を表現したっていい。

「……魔界の長い歴史の中で、魔王カオスに喧嘩を売った男は俺しかいねえ。あの野郎の稚児に手を出し、その忠義を裏切って、……八百年ここに幽閉された」

 彼はそう独語しながら、俺の身体に、もう「着る」っていうより絡みついているだけの服を、いかにもばっちいものを見るような目を向けながら、俺に一瞬の暑さも感じさせないまま焼いて行く。

「その次が、あのガキだ。チビの、……スカルミリョーネ。あのガキは魔界を裏切った。魔界と地獄の、……次元の全く違え二つの世界の境目に拾われたあいつは、とうとう魔界を敵に回した。こんな盛大な喧嘩の売り方、そうはねえよな」

魔界は、じっとりと蒸し暑い。考えてみると、どうせ誰も見てなんか居ないのだし、汚れた服なんてとっとと脱いでしまえば良かった。

「テメェで据えた四天王の二人に喧嘩売られんだ、あの野郎は魔力だけはとんでもなく強いけど、人を見る目は最悪だな」

 彼は可笑しくもなさそうに笑って、やっと、俺の顔に視線を向けた。

「しかも、よりによって喧嘩を売った三人目は……、テメェみてえな虫ケラだよ。無力な人間一人、あの野郎は制御出来ねえ。馬鹿げてやがる。しかもテメェが一番タチが悪い。あんまりにも無力なもんだから、踏み潰すのは気が咎めるし、殺せばそれだけ、あの野郎の手は汚れんだ」

 罪も罰も、テメェにゃ何の意味も持たねえ。

 忌々しげに……、魔界四天王・火のルビカンテは俺の顔面に唾を吐きつけた。

「だって……」

 俺は少し泣いていた。安堵していた。

「だって、俺は、……嫌だったんだ」

 スカルミリョーネがカオスに罰されることで起こりうる、あらゆる影響を俺は拒んだ。

 其処に、底にあるのは、ルビカンテが言うとおり、罪や罰とは別次元のものだ。

 彼が非難がましく言うとおり、魔界という法治世界に置いては爪弾きされても仕方のないような考え方だ。

けれど、俺の大元に在るのがそういう手前勝手に「愛情」と俺自身で名付け、かく在ることを幾人かの男に認められてしまっているだけにたちの悪い考えであることは、今更誰にも歪められはしないし、……カオスだって先刻承知で居なければならないようなものだった。

「カオス、怒ってるのか」

「怒ってる?」

 俺の問いにルビカンテはまた俺に向かって唾を吐いた。「冗談じゃねえ……」

「俺に、あの男を怒らせることなんて無理な話か……」

「ふざけるなよ」

 ルビカンテは、……初めて会ったときからずっと、へらへらと不真面目な表情しか俺に見せてこなかった。スカルミリョーネをいじめるときと、カオスの命に基づいてクラウドを攫うときも、顔つきは変わらなかった。

 けれど、いまは怖い顔をしている。

「あのチビガキが、……スカルミリョーネが裏切ってささくれだってるとこに、テメェは油を注ぎやがった。あの野郎、何もかんも放棄してヘソ曲げやがった!」

 ルビカンテは怒っていた。

 そして、泣きそうなのだと、俺は判った。

「百八人の稚児がいて、そん中の誰でも好きに痛めつけられる、世界丸ごと潰せるぐらいの力を持った『魔王』が、たった一人の稚児に裏切られたって凹みやがった! その上テメェがつまんねえ意地張りやがるから、完全に機嫌損ねやがって、何一つ仕事しやしねえ!」

 俺は顔に散らされたルビカンテの唾を掌で拭って、がっくりとくずおれた彼の顔を覗き込む。ルビカンテはとびきり不快そうに俺の頬を打った。

「カオスが仕事をしないと、どうなるんだ……?」

 ルビカンテは疲れ切った目で俺を、それでも力一杯睨む。

「あいつは何だ? ……単に魔界って一つの世界を治めてる魔王なだけじゃねえ。あいつが魔界を安定させてるから、宇宙全体が調和取れてんだ。四素も星辰の運行も、全部あいつが統治してる……、そういう奴が、毎日の仕事を怠るようになっちまったらどうなる……?」

 俺は、スカルミリョーネがいつか描いてくれた魔界の図を思い出していた。

 ゆっくりと膨張し続ける宇宙という風船の外側に、魔界がある。

 魔界の王であるカオスは、言うなればその風船を統治しているのだ。彼の、尋常ならざる魔力によって。

 風船の膨らみ方も、カオスの仕事の結果によるものなのだ。

「……それって、……すごく、やばい」

「すごく、やばい……?」

 ルビカンテは笑った。俺を殺すぐらいの目をして笑っていた。

「……テメェのせいだぞ。テメェが余計なことしやがるから……!」

 ああ……、あのとき、カオスは怒っていたのだ、悲しんでいたのだ。

俺は何処かで、カオス、親しみ溢れる魔界の王を、全能なる男だと思い込んでいた。其れがあまりに軽率な考えだったことがいまは判る。魔界の人々は、……そう、俺が「人々」って思うくらい、俺たちの世界の人間と変わらなかったじゃないか。悲しむときも、怒るときもある、……スカルミリョーネみたいに、嘘をついたりもするし、困ってしまうことも、弱ってしまうことも当然、ある。

 カオスにしたって例外ではない。

「テメェ……、あの野郎に何て言った」

 え?

 どれぐらい前のことか、思い出せない。けれど、俺は、結果的に嘘にしてしまうその瞬間までは、自分の言ったことには責任を取るつもりで居るから……。

 統合すれば、俺は、「スカルミリョーネを説得して、帰って来てもらう」というような意味のことを言ったんだ。

「それが、どうだ。……テメェはあのガキに会えたのかよ。ええ?」

 俺は首を横に振る。どれぐらい長いこと歩いたのか判らないけれど、……スカルミリョーネがこの――どれぐらい広いか、判らない――地獄の何処に息を潜めて居るのかなんて想像も付かないし、それ以前の問題として俺は一人で何人もの「亡霊ヴィンセント」と戦うだけで困憊しきっていた。

 よって、あれだけの大口を叩いておいて何だけど、成果なんてものは何一つ挙げられていないのである。

「ただ時間を無駄に使っただけじゃねえか、違うかよ」

 うん、そういうことになる。

 そう頷いたところで、「あ」と俺は気付く。この男がどうして降りて来たのか、ということに付いて。

 この男はかつて八百年もの時間、この世界に幽閉されていた経験があるのだ。

「……ひょっとして、お前は、俺を……」

「うるせえ!」

 足元の骨枝を蹴り上げる。バラバラと俺の頭に降った礫が、どろどろの髪に引っ掛かった。

「……カオスに知られたら、マジで氷漬けの檻ン中かも知れねぇンだぞ、……テメェが勝手なことをしやがるから……」

 ルビカンテは言った。

 スカルミリョーネを除く魔界四天王、……ルビカンテ、カイナッツォ、バルバリシアの三人。彼らは、スカルミリョーネの裏切りに心痛し、職掌放棄という荒業に出たカオスに代わって魔界の平和を維持し、地獄からの攻撃から防衛する任を担っている。彼らの力もまた言うまでもなく強大なものではあるが、今後も永久に三人体制で魔界の治安維持に当たるのかと問われれば、其れは難しいと言わざるを得ない。結局の所其れはカオスのするべき仕事であって、あの男が失恋にいつまでもふさぎ込んでいては魔界、ひいては全ての次元の安定が損なわれる結果になりかねない。

 そういう危機的状況の中で、クラウド=ストライフというよりによって糞虫ほども価値を持たない人間の男が、「スカルミリョーネを奪還(この言葉はおかしい。俺はスカルミリョーネ自身からスカルミリョーネという人格というか心を引っ張り出して持ってこようとしているのだろうか)する」などと無鉄砲なことを宣して地獄に乗り込み、全くこれっぽっちも何一つも成果を出せないで居る。

 カオスが今後もサボタージュを続けることは、一応は四天王、責任ある立場にある三人としては、……それが同じく四天王のスカルミリョーネの責任であるということも加味すれば、全く以って捨て置くわけには行かないのである。

 カイナッツォとバルバリシアの二人はかくして、地獄に精通し、四天王のうちで最強の力を持つルビカンテを俺の元へと派遣したのである。「スカルミリョーネの征討、奪還、懐柔、説得……」何でもいいが、とにかくカオスが少しでも機嫌を直してくれるように。

 けれど其れは、四天王としては非常にリスキーな選択であろう。彼らはカオスという主の下す判断に基づいて行動するべき者たちである。形は違えどそれぞれ確固たる忠誠心を抱き、カオスという男の軍門下に在ることを選んでいる。そんな彼ら自身が自己判断に基づいて行動するなどと、在ってはならないことなのだということは、一時期とは言え企業に属したことのある俺にも想像出来た。

 事が露顕するのは時間の問題であろう。カイナッツォが持ち前の狡猾さをフルに発揮したとして、一体どれほど時間を先延ばしにすることが出来るだろうか。

「巨乳ちゃんが」

 下品なるルビカンテはスカルミリョーネの義妹のことをそう呼ぶ。「見てらんねーぐれぇに凹んでんだ。ぺしゃんこだよ。けど、そういうの隠して、真面目な面で仕事してやがる」

 ルビカンテは俺に新しい服を投げ付けて言った。「無理もねえよな。自分の兄貴で、同じ四天王が、カオスに楯突きやがった。そのせいで全部がやばくなってんだからな。テメェもそんぐらい想像付くだろうがよ」

 うん、俺もバルバリシアの気持ちを思えば胸が痛む。敬愛する自分の兄が裏切り者であったなんて、カオスだって辛いが、それ以上に彼女が一番辛いはずだろう。新しい服を着て――と言っても、やっぱりTシャツにジーンズだけど――きちんとした剣を握り、歩き出したルビカンテの後を追いながら、……どうやら事態が、俺が予測していたよりもずっと悪い方向に転がりつつあるのだということを知る。

「……テメェはさ」

 ルビカンテの足はスカルミリョーネの居場所を判っているみたいに、迷いもなく進んでいる。振り返りもしないまま俺に言うのだ。

「前に、あの子猫ちゃんを俺が攫ったことがあっただろう」

「ああ……、うん。カオスの指示で」

 スカルミリョーネの裏切りを看破したカオスが、彼に罪を犯させ、徹底的な対立を表面化させぬようにと、うちのクラウドを、俺の可愛いクラウドをこの地でルビカンテに拉致させた。一晩監禁し、おすし、焼肉などを食べさせ、温かな風呂に入れさせた後、無事な姿で還したときのことだ。

「テメェは、ただの人間だから、どうしようも出来ねえって諦めちまったんだろう」

 そうだ、と俺は頷く。俺はただ、クラウドが死んでしまう、それだけで頭がいっぱいで泣いていた。

「もし……、カオスがあのとき、スカルの思惑に気付いてねーで、テメェらの見てる前であの子猫ちゃんを殺してたとしたら、どうしてたよ」

「え……?」

 圧倒的な事実にも似た、破壊的な想像に俺は胸が捩れるのを思えた。途中で止めることを選んだのは、心がバラバラになりそうだったからだ。

「自分の、大好きで大好きでしょうがねーような相手が、だ。もう二度と手に入らねえところに消えちまう……。けどな、俺は、……人間なら、其れに耐えられると思う」

 ルビカンテは振り返らないままで居たが、俺の顔に反感が浮かんだことはすぐに想像出来たのだろう。でも、俺にもルビカンテの唇が皮肉な具合に歪んだのは想像出来た。

「人間には、力がない。絶対的に、テメェらは弱い。まあ、テメェやあのカオスもどきのおっさんなんかはさ、人間の中でも特別に強ぇのかも知れんけど、それにしたって俺やスカルやカオスの指先だけでくたばっちまうような、虫けらだよ。でもってお前らは、……ああいう星、それこそ、力のないテメェらがちょっと誤ったぐらいでも深い傷を負うような脆い世界に住んでて、テメェら自身も自分らの身体が脆いってことを知ってるから、……その分だけ、俺らには出来ねぇことが出来るんだ」

 足元の、相変わらず酷く歩き辛い道はよりによって緩やかな上り坂へと変わっていた。

「お前たちに、出来ないこと……?」

 ルビカンテは溜め息を吐いて、一度俺を振り返った。

「『忘れる』」

 彼の表情は皮肉っぽく、同時に、悲しいものであるように、俺は思う。

「……忘れる?」

 鸚鵡返しにした俺に、とても希薄な、ひょっとしたらそういう類の表情ではないのかと思うぐらい、ささやかな笑みと共に彼は言う。

「テメェらは弱い生き物だ。あらゆる事実の前に、大概は無力で、時間だってそれほど長ぇもんを持ってるわけじゃねえ。到底その弱い身体じゃ抱えきれねえほどのダメージを背負って生きてくことを予め約束されてる生き物だからだろうな、……テメェらはその感情の動きだけは、俺たち魔族よりも余ッ程長けてやがるんだ」

 あのときクラウドを失ったとして、……俺は其れを忘れることなんてとても出来ないように思う。その痛みを、悲しみを、きっと永遠に抱えて生きていくことになるのだろう。その点俺とヴィンセントは――呪わしい力によって――魔族に近い感覚を帯びているのかもしれない、そう思いかけたところで、待てよ、と立ち止まる。

 俺は昔ほど、ザックス=カーライルを失った悲しみを覚えているだろうか。それはいまもなお、鮮烈なものとして俺の中にあるだろうか。

 ヴィンセントにしたって、ルクレツィアさんを喪った悲しみを、いまだに抱えて続けて、折に触れて己を攻めるようなことをし続けているだろうか?

 どうも、そうではない。俺たちは徐々に忘れつつあるのだ、その、個人的な悲しみや、痛みを。何故って、代わりに心を埋めてくれる存在が俺たちにはあるから。

「テメェらは、テメェらに力のないことを自覚してるから、どんな事態に直面しても、俺らよりもずっと謙虚なんだろうな」

 ルビカンテはそう総括して、再び歩き始める。彼の言葉の意味するところは、俺にはもう、理解出来ていた。

 かつて、……まだクラウドが生まれていなくて、ヴィンセントとの生活も軌道に乗るよりも前。俺は本当に、ぐちゃぐちゃしていた。あの頃の精神状態を「ぐちゃぐちゃ」という言葉以外で説明するのは難しいように思う。憎しみを帯び、悲しみに暮れ、俺だけが不幸だと信じて、誰彼構わず傷つけかねないような、そんな迷惑生物。けれど俺にとって、そしてきっとヴィンセントにとっても幸いだったのは、俺には其れをどんなに望んだとしても、何もかもを壊すことなんて不可能なぐらい、力がなかったということ。

 時間の経過と共に、其れを忘れることだって出来たのだということ。

 魔族は――その総領であるところの、カオスは――それが出来ない。無限に近い力を持ち、何もかもを壊せてしまう。人間ならば屈するほかない悲しみや痛みを前にしても、己の力で其れを突破することが出来る。其れは一見、大いに幸せなことであるように思われるけれど、逆に言えば自分の力でどうにか出来ない問題と直面したことがないということも意味する。

 なるほど、カオスがどれだけ長いこと生きていたかは想像も出来ないけれど、……「失恋」という、人間からすれば、後々思い出して苦笑で片付くような問題にしたって、そう簡単に片付けられるものではないのだということだ。

 ましてや、彼は力を持っている。人間だったら諦め、「忘れる」ことで対応するにしても、その解決に用いるのはやはり彼の場合、その恐ろしいまでの「力」に頼ることとなる。

 魔界に在って、カオスの力を知る者の中に、カオスを裏切ろうなどと思いつく者はこれまで居なかったはずだ。そんな命知らずの者は。

 スカルミリョーネという例外中の例外の存在、……が、誰も裏切ろうなどとは思わなかったカオスに対して、どういう訳の訳柄か知らないが……。

 其処まで考えが至って、俺は今更のようにルビカンテに訊いていた。

「スカルミリョーネはどうしてカオスを裏切ったんだ?」

「んなもん」

 ルビカンテの答えは連れなかった。「判ったら苦労しねえだろうがよ」

 ごもっともだ。恐らくカオスにだって判らない。だからこそ、魔界全体が引っ繰り返りかねない事態を招いて居るのである。納得しかけた俺に、しかしルビカンテは言葉を繋ぐ。

「……俺らに責任がなきゃいいんだけどな」

 と、搾り出すように。

「……責任?」

 ルビカンテはもう喋らない。どういう意味だろう、俺は彼の後ろを歩き従いながら、一人で黙って考える事となった。骨の山はいつまでも尽きない。疲労感というか徒労感というか徒労感と言うか、身体を包むのは何とも言えぬ重苦しい感情ばかりだけど、そういう時って思考回路ってぐるぐる巡るものだ。俺の頭の中では「責任」というルビカンテの言葉が何処かに妙に引っ掛かっている。

 何故だか、俺は自分の幼い頃が頭に浮かんでいた。


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