墓地参道

 俺は、一人っ子じゃない。

 複雑な話だが、今の俺には世間体上の弟がいる、言うまでもなくクラウドだ。だけど大昔、ほんの一時期だけだが、ちゃんと弟がいたことがある。長さで言えば、四日だけ。本当に四日間だけのことだが、俺には弟がいた時期がある。それは俺がまだ二歳かそこらの頃の話で、もちろん物心なんてものはまだついていないときだから、記憶にはない。だけど十歳くらいだったと思うけれど、母さんから話だけは聴いた。あんたには小さな小さな弟がいたんだよって。父親が俺が三つの時に神羅の傭兵として戦場で殉死したという話とともに、本当に小さな弟の話を、してもらったことをはっきり覚えている。俺の弟は、俺が手を握ることも、オムツをかえてやることもしないうちに、俺の事を「お兄ちゃん」と呼ぶ事もないうちに、いなくなってしまった。あんたよりもねえ、ずっと身体の弱い子で。生まれて二日目にそれがわかって、ほんとうにあっという間だったんだよ。だけどその分、きっとあんたは丈夫なんだよクラウド、喧嘩も強いしねえ。大丈夫、あんたはこれから、もっともっと元気で丈夫な子に育つよ。

 だから俺の弟には名前はない。桜が咲いてから生まれて、散る前にいなくなってしまったからだ。もし生きていればいまごろは二十九歳、兄のように歪んだ嗜好をしていなければ、もう子供がいるかもしれない。もちろん兄のようにジェノバが入ることもないだろうから、ちゃんと二十九歳らしい、ある程度の風格の備わった男になっていることだろう。それを悲しむことは俺には不可能だけど、母さんは笑いながら泣いて俺に、あんたは私の宝物だよって言った。その母さんも今はいない。

 クラウドは、公の場でしか俺のことを「お兄ちゃん」と呼んでくれない。別に強要するつもりはないし、俺はやっぱりクラウドの前では「ザックス」でありたいと考えてるから、「ザックス」って呼んでくれてもぜんぜん結構なのだけれど、それでも、タカハシ先生やジャミルに「クラウドくんのお兄さん」て呼ばれ

る時は、とても温かな気持ちになる。クラウドの口から「お兄ちゃん」って言われたときには尚更だ。俺の、一瞬でも「兄」だと、自覚はなくてもそう感じていた幼い頃の記憶が、きっと少し疼くんだろうと思う。クラウドのことを、大切な恋人だと思うと同時に、やはり「守り育てていかなくてはならない」と思う気持ちは、兄としてのそれを否定できない。桜の花よりも短い間で消えてしまった弟の面影を、ひょっとしたら俺はどこかで追っているのかもしれない。

 ユフィは一人っ子だ。アイツが女だてらに正統忍者の継承者であるのは、彼女の両親が子宝に恵まれなかったからである。一人めに生まれたのが女の子、すなわちユフィで、これではイカン跡継ぎをと考えていたのだが、それきりユフィの下には誰も生まれては来なかった。こうなっては早いところユフィに婿を入れたい所のゴドーではあるが、ユフィにその気がなく暖簾に腕押しだ。そんな訳でゴドーは現在全国各地を旅しながら優秀な継承者探しに励んでいる次第である。ユフィは密かにクラウドを忍者に育てたいと想っているらしいが、それはまた別の話だ。

 ティファも一人っ子。彼女は小さい頃、お兄ちゃんが欲しいと言っていたような気がする。彼女が「王子様」を求めていたのは、そのあたりに起因するのかもしれない。現在彼女は「お兄ちゃん」と言うわりには歳の離れすぎ、「王子様」というネーミングは明らかにそぐわない一人っ子(子……?)バレットと

暮らしているが、その生活がそこそこ良いリズムで保てているらしいのを見れば俺も嬉しい。俺は彼女の「王子様」にはなれなかったから。

 エアリスが一人っ子だったのは言うまでもない。

 ルーファウスには血の繋がっていない弟が何人もいたと聞く。父の後を継いで彼が社長の座に就いたプロセスは、俺たち一般市民の想像の範疇を越えた事実が絡んでいるのかもしれない。

 ザックスは一人っ子だった、らしい。いまだにアイツの家族構成はよくわからない。田舎の両親と彼は言っていたが、写真を見せてもらうと親子というよりは祖父母と孫くらいに歳が離れているように見えたし、ちっとも似ていなかった。ひょっとしたら血は繋がっていないのかもしれない。

 ナナキとセフィロスは言うに及ばず。同列に扱うのもどうかと思うが、二人とも一人っ子だ。

 シドには実は姉がいる、妹も二人いる。女性に囲まれていた割には、ロケット技師なんて豪気な職業とあの性格だ。しかも亭主関白。きっと少年期に苦い思いをした経験が、今ああいった形で出ているんだろう。ちなみに彼の両親も姉さんも妹さんも全員勢揃いらしい。俺は会ったことはないが。

 リーブには同じような関西弁を喋る年老いた両親、弟、妹がいる。旧神羅時代は都市開発の責任者だった彼であるが、あの人の良さであの地位まで上り詰める事が出来たのは、ひとえに家族に楽をさせたいという一身だったのだろう。彼の家族はみな、彼を尊敬しているに違いない。今年の年賀状は家族勢揃いの写真入りだった。仕事にかまけて、いつまでも結婚しないリーブだが、家族に囲まれた笑顔は悪くなかった。

 あの旅をした仲間うちで、兄弟がいたのは四人。八人のうちの四人という数が、多いのか少ないのかは判別しかねるが、大体こんなもんではないかと想像する。兄弟が居るからといってさほど性格に差があるとは思えないし、一人っ子がわがままだという噂も当てはまるとは思えない。弟も妹もいないエアリスがあれだけお姉さん的だったり、末っ子でもないユフィがあんなにわがままだったりしていた訳だから、噂を信じちゃいけない。

 で。そう。触れてなかったが、というか、意識的に触れていなかったのだが。

 ヴィンセントにも、兄弟が居るのだ。

 名前はキリコ、キリコ=ヴァレインタインという。

 

 

 

 

 キリコ=ヴァレインタインが十三歳の時に生まれたのが、ヴィンセント=ヴァレインタイン、他でもない俺の生涯の伴侶であり、公的には父である、あのヴィンセントである。彼の容貌を語る上で欠かせないあの艶やかで黒い髪も、抜けるような白い肌も、吸い込まれそうな赤い瞳も、ヴィンセント家の皆が血筋として受け継いでいたものらしい。大昔、歴史分類上では「中世」のころは吸血鬼一族だったのではないかと俺は密かに推測するのだが。だって考えてもご覧よ、あんなに美しい人が黒いマントなんかかけてたりしたら。

 俺から言わせてもらうと人間の匂いがほとんどしないヴィンセントだって、まさか桃から生まれた訳ではない。棺から生まれたというのはちょっと納得しそうになるけれど、残念ながら彼にもちゃんと家族は居たわけだ。彼の父は、家の在った小さな村の役人、そして彼の母はその仕事場の同僚だった。色っぽい話はヴィンセントも興味がないから聞いていないらしいが、きっとヴィンセントのように美しいであろう彼の父に、彼の母が熱を上げたとか、そういう感じなんだろう。たぶん当っていると思う。

 ヴィンセントの両親、……イングラム=ヴァレンタインとその妻ドーラ(名前からして東方の生まれではないだろうか。ヴィンセントの顔に存在する陰影はきっと母親譲りなんだろう)が共に三十の時に、待望の息子が生まれる。キリコ=ヴァレンタインである。キリコは両親の愛情を一身に受けて、賢く優しく

育っていった。小さな農村は、飢饉などの心配のない温暖湿潤な地ではあったが、多くの男たちはその当時、繁栄への道を歩み始めていたミッドガル……当時はまだ「南カーム市」と呼ばれていたところへと出稼ぎに出て行ったが、キリコは生まれ育ったその村から離れるのを惜しんでいた。そして回りの少年たちが村を出る、丁度小学校卒業となる十二の歳に、村に止まる事を決めた。

 キリコの弟・ヴィンセント=ヴァレンタインが生まれるのは、キリコが村の雑貨屋で使い走りをして、僅かな給金を稼ぐことに、慣れはじめたころのことだ。

 新しい家族の誕生に、キリコの胸にあったのは純粋な喜びというよりはきっと、恥ずかしさだったのではないだろうか。だってそうだろう、十三歳と言えば、俺はそうではなかったが多くの少年が性の知識を得始めるころのこと。赤ん坊はコウノトリが運んでくるのでも、キャベツの中から生まれるのでもないと知る頃だ。そんな中で、自分に最も身近なところで、性的な事が行われ、自分の弟が生まれ来たのだと考えることは、微妙な違和感があるに違いない。

 心優しいキリコは、小さな小さな弟を可愛がった。雑貨屋での仕事を終えて帰ってきてからは、積極的に、兄としてヴィンセントに接した。ヴィンセント本人の三才の時の記憶によると、兄はそう多くもない給金で、小さな三毛猫のぬいぐるみを買ってきてくれたのだという。その猫のぬいぐるみを、ヴィンセントはいつも抱いて眠り、食事をするときも一緒だった。七歳の時にいじめっ子に猫の尻尾をもがれたときも、キリコは泣きじゃくるヴィンセントを慰めて、ボロボロになってしまった猫の尻尾を縫ってくれたという。両親もヴィンセントを愛していたが、キリコはそれ以上に、ヴィンセントを愛していた。それは、生まれつき人付き合いが得意ではないヴィンセントが、拠り所として特に自分に懐いてくれたからという理由もあったろう。ヴィンセントは幼い頃、兄の目の届かないところで、村の乱暴ものたちにずいぶんと酷い目にあわされていたらしい。それは勤勉で賢明で、そして優しい兄に比べ、意思伝達が苦手で、どこかいつもひねたように一人でいる事を好んでいたヴィンセントが、薄汚い心を持つ連中の格好の的になったからだったろう。俺も少年期は似たようなものだったが、俺はもっと攻撃的でふざけんなこの野郎って、片っ端から殴って、孤立を深める事で自己防衛を計ったけれど、当時の人を傷付ける事を知らなかった。兄に似て、心根の優しい少年だったのだろう。その当時に覚えた「耐える」精神が、今俺たちを結び付

けていると言っても過言ではないだろう、女になりたいといってあんなに傷つけたのに、こんな俺を捨てないでいてくれたように。

 キリコは二十三のとき、長く働き続けた雑貨屋を辞めて、村に小さな喫茶店を開く。

 雑貨屋では既に、店主から絶大な信頼を得ており、将来的には店の跡継の座も嘱望されていたにも関わらず、キリコがその選択をしたのも、ヴィンセントの存在が大きかった。雑貨屋はその村で一番大きな家に住み、一番大きな発言力を持っており、一番美しい娘がいた。雑貨屋の跡目を継ぎ、その美しい娘を娶ることはすなわち、その村での成功を意味していたろう。しかし権力の裏にはいつだって、嫉妬の存在がつきものだ。自分が幸福を得る事によって、弟が周囲からの嫉妬を一身に受ける可能性を、キリコは恐れた。そんなことになるくらいならばと、彼は村外れにカウンターと椅子席、あわせて十五人も入れば満員の小さな喫茶店を建てた。当然婿入りするものと信じ込んでいた雑貨屋は驚き、そして娘と自分を裏切ったと怒り、ヴァレンタイン家は村での存在が危ういものとなった、が、両親はその事でキリコを咎めたりはしなかったし、キリコの人柄を知る村人たちはキリコを疎んじたりはしなかった。その一方で、一部の愚かな者どもは、ヴィンセント一人を村八分的に扱うことを忘れなかった。キリコの選択は正解とはいえなかった。

 小さな村の外れにある、小さな泉に面した、小さな喫茶店は、ささやかな憩いの場として、決して混む事はなく、しかし長く閑古鳥が鳴く事もなかった。今で言うログハウス風のインテリアに、光と風をたっぷりと採り込んで、森の香りが漂う中、何も特別なところなどないコーヒーが出される。昨今、都心部で蔓延る「カフェ」のメニューにある、「なんとかフラペチーノ」とか「うんたらマッキャート」といった必殺技みたいな名前のものはその存在自体が認知されなかった時代で、キリコが作っていたのは極普通のものとアメリカンコーヒー、エスプレッソ、ダージリンとアールグレイの紅茶と、自分で焼くクッキーだった。今の値段に換算すると、ホットコーヒーが一杯で百二三十ギル程度、もちろん、注文が入ってからちゃんと入れたもので。それで十分商売が成り立っていたというから、のどかな時代だったのである。

 キリコが一人で切り盛りする小さな喫茶店には、いつもヴィンセントがいた。キリコが店を開いたとき、彼の弟は九歳。いつも、出所不明の痣をこさえて帰ってきては、一人で部屋のすみで膝を抱えていた。

 ヴィンセントは一人で風呂に入りたがった。傷を見られるのが嫌だったからだ。兄に身体を洗われながら、ヴィンセントはときどき泣いた。傷が痛むのではない。本当はすごく悔しくて、辛いのに、我慢することしか出来ない自分が嫌で辛くて嫌いでだけど可哀相で泣いていた。

 それでも、ヴィンセントが十二歳になったのを境に、回りから彼に対する虐待は収まった。同じ学年にいた乱暴な連中は、残らず都会へ出て行ったからだ。ヴィンセント以上に、キリコがその事を喜んだ。よかったねと言っても、決して微笑みかえしはしない弟の頭を撫でた。色褪せた三毛猫のぬいぐるみは、まだ部屋の棚に、大切に飾ってある。

 ものがたりはキリコ=ヴァレンタインが二十七歳、そして弟であるヴィンセントが十四歳になったところから始まる。この美しい兄弟の、優しく、幸せで、大切な記憶の物語。ヴィンセントは、クラウドにもこの話をしたことがない。自分の持っている弱さを知られるのが恥ずかしいからだと思う。俺だって、俺が小さい頃あんなだった話はクラウドには言っていない。そういう秘密があったって責められる事はないと思う。

 ヴィンセント、あんたは、あんたの兄貴のこと、今でも好き?

「……? 何だって?」

「……うん。あんたのお兄さんの話。……あんたは、キリコ=ヴァレンタインの事、今でも好き?」

 ヴィンセントは読んでいた雑誌に目を落とす。暫く答えない。この件に関してはやっぱり、本人すごく感傷的になってしまうのかもしれない。もちろん、しかたのないこと。俺にとってのザックスみたいなものだ。

「……いまでも……、そうだな……。今でも、愛している」

「……会ってみたいと思う?」

 彼は少し笑った。

「私が今年で六十八だぞ? 生きていたとしても八十二歳だ……」

 微笑みは、長くは続かなかった。

「……でも……、もし、生きているなら……私が私だと解ってもらえなくとも……」

 

 

 

 

 先に書いたとおり、キリコは人間的に優れた男だった。

 いつも穏やかで、静かで。ヴィンセントを虐げていた少年たちに対しても報復行為など一切とらず、ただヴィンセントを守り続ける事で耐え抜くような男だった。ヴィンセントが若い時分のキリコを思い出すとき、まず頭に浮かぶのは、今の彼がクラウドに対して浮かべるような、優しい笑顔だという。こういった、ヴィンセントが俺にしてくれたキリコの話から推すに、キリコというのは、要するに今のヴィンセントと似たような人間であるのだろう。ヴィンセント本人はきっと否定するだろうが……。俺にとってのヴィンセントが、永遠に追いつきようもない存在であるのと同じように、ヴィンセントにとっての兄も、同じく神聖な存在なのだろう。恐らく俺はクラウドにそんなことを感じてもらってはいないと思うが。

 キリコは朝早く、自分の店へ出掛け、日没と共に店を閉まった。長居する客ばかりで、いわゆる「回転率」はよくないながらも、一人の客が二杯も三杯もコーヒーを飲んでゆくので、キリコはいつもカウンターの中にいた。客がいないときでも、暖かみのある机を磨いたり、ふせられたマグカップを並べ直したり、クッキーの生地を捏ねたりと、彼はせっせと働いた。実入りなど僅かな物だが、将来的に現在の自宅を売り払い、この店を増築して住む予定があったから、キリコの生活は安定していた。時折、もうすぐ六十に手の届く両親が揃って、息子のいれるコーヒーを飲みにやってくる。そういう時、キリコはいつも、何も言わず、カップの横にクッキーを添えて置くのだが、両親も何も言わず、いつだってコーヒーとクッキーの代金を置いて帰っていくのだ。

 店を開いて四年も経てば、店の調度品も徐々に使い込まれ、陰影を帯びてくる。彼が自分で材木を削り作った最初は新しいばかりだった木製の机も椅子も、店の定員分しかないカップもグラスも、銀のスプーンも、いい具合にくたびれ、旧いものばかりの村外れに浮き立った感のあった店構えも、根を生やすように落ち着いていった。その店には、いつだってキリコが、穏やかな笑顔で客をもてなしていた。

 いつだって笑っていたな、ヴィンセントはそう振り返る。あの人は、いつだって笑っていた。

 その店には、そして、ヴィンセントの姿があった。

 客がいないときを見計らってやってくる。来客があれば、すぐにいなくなる。珍しい動物みたいに。キリコはそんな弟がくると、いつも、専用のマグにダブルを入れ、たっぷりとミルクを注いだものを弟の前に置くのが常だった。

 兄の前では、ヴィンセントは、心を溶かす事が出来たという。兄の前でだけは。 

 甘える事を許してくれる兄のことが、ヴィンセントは好きだった。この店は、誰もいないときは、とても居心地が良かった。まるで自分のためにあつらえたかのように座りごこちのいい椅子に座って、自分のためだけに入れてくれるラテを飲む。

「美味しい?」

 グラスを拭き終えたキリコは、ヴィンセントの座るカウンタによりかかって尋ねた。

 ヴィンセントはいつも、無言で頷くばかりだ。

「今日はもうすぐ閉めるから。……終わりまで一緒にいような。片付けたらいっしょに帰ろう」

 ヴィンセントは肯かない。これも、今の彼に言わせれば、「甘えだ」ったのだそう。

「いいだろ? もうすぐ暗くなるし。夜道は一人じゃ危ないよ。僕と一緒に帰ろう。な」

 ヴィンセントは、小さく、小さく肯いた。平板な表情に、ほんの少し、強ばったような、緊張しているような色を漂わせて。

 唯一心を許している兄の前ですら、こんな風に、どこかかたくなな子供だった。今思えば、ずいぶん損をしていたなと、ヴィンセントは笑う。

 キリコは手のひらで、ヴィンセントの黒髪を撫ぜた。その瞬間、首を竦めるように、ヴィンセントはぴくりと震える。キリコは小さく笑った。

「大丈夫だよ。お前の事、ぶったりなんかしないから……」

 そんなこと、解っていても。

 ヴィンセントは兄の赤い瞳を直視できず、カップの中のラテに目を落とした

 本当に、コミニュケーションが苦手な子供だった。後に、徐々にだが、社交の術を身につけていくとは言え。二十七の時に、棺桶に引き篭もって、そのまま三十一年。そのブランクが、一時期のあの、彼の絶望的なまでの暗さを招いていたのだ。行ってみればそれも、天性の暗黒とでも評せそう。

「飲みおわった?」

 ヴィンセントは、空になったマグカップを、差し出した。それを受け取って、洗って、布巾で大事そうに拭いて。洗い物は全て済んだ。あとは店を出るだけだ。

「さ、帰ろう。家に帰ったら、一緒にお風呂に入ろうな」

 また、兄に頭を撫でられる瞬間、ぴくりと震えて。兄に右手を取られたその瞬間には、全身を緊張させて。しかし、それでも。キリコと手を繋いで帰る夜道は、十四歳のヴィンセントにとって、堪らなく幸せなものだった。

 自分に、体温を分けてくれているみたいだった、兄の手は、いつでも私を優しく、導いてくれていた。ヴィンセントはあの頃飲んでいたのと似た味のコーヒーを飲みながら、そう笑う。

「……かけるよ」

 頭から、温い湯。それから、キリコは泡を立てたシャンプーで、自分と同じ黒い髪を洗っていく。決して、痛くしたりなどしないように。指の腹を使って、丁寧に。濯いでやれば、白い頬に艶の髪はぺったりと張り付いて、その様子はとても愛らしい。柔らかいタオルに泡を乗せて、今度は身体を洗う。

 キリコ自身も決して屈強な体つきをしていた訳ではない。今のヴィンセント、現在は百八十四センチに七十八キロ、ほとんど体格は一緒だろう。ヴィンセントだって、決して強そうな体をしていない。

 キリコの目からしたら、ヴィンセントの身体は本当に細くて、壊れてしまいそうで、洗うのだって、気を使っていた。

 俺もたまに、ヴィンセントの身体を洗う。背中は広くて、俺の方が広いはずなのに、それでも広くて。細い腕でも、俺を絞め殺してしまえるに違いない。

 優しく、優しく、キリコはヴィンセントの身体を、洗う。

「う、う……」

「ん? ……ああ」

「うあ……ん」

 俺と、猫のクラウドみたいだ。

 そう、ちょうど、そんな感じで。

「……やあ……あう、あ」

「大きい声、出しちゃだめだよ……。父さんたちに気付かれてしまうから……」

 耳元で、ささやくようにしてキリコは言う。

 ……この辺の事情を、ヴィンセントに聞いてみると。

「出来なかったんだよ」

「……出来なかった?」

「ああ……。私はね、出来ない子供だったんだよ。一人では何も出来ない。……だからこそ、他の少年たちの格好の的になっていたんだろうがな」

「つまり……どういうこと?」

 石鹸の泡を纏ったキリコの手が、ヴィンセントの肌をいとおしげに撫でさする。

「私はあの兄に、心も身体も依存していた。兄がいなければ、私は自分の傷を、誰にも見せる事はなかったろうし、自分を開く事も、なかったろう。身体の、性的なことに関しても一緒だ、クラウドがお前無しでいられないように、私もそうだった」

 キリコは、弟の、舌足らずな喘ぎ声を咎めながら、無心に手のひらを動かした。心臓が動き、ヴィンセントの身体を震わせた。

「や、……あ、はぁ、っ、んっ……んんっっ」

 といって……、キリコにヴィンセントに対しての恋愛感情が在ったかどうかは、今確かめる術はない。

 ヴィンセントの中にかつて、そして今も、キリコを愛する……家族としてではなくて、愛する気持ちがあるのは、確かな事だろう。

「……こんなにたくさん……。って、そうか、昨日、一昨日……してあげていなかったね」

 本当に。俺と猫……みたいだ。

「大丈夫? ……肩が冷えてしまったね。早く入ろう」

 きっと、幸せだったんだろうなって思う。ヴィンセントがこの瞬間を幸せに想っていてくれたのなら、きっとクラウドも幸せに想ってくれているのだと、信じたいものだ。

 ヴィンセントがキリコを顧みると、キリコはいつも笑って、同じ色の髪を撫でたのだ。

「……安心おし、ここにいるよ。……それとも、顔を見ていないと不安?」

 キリコは膝の間のヴィンセントを此方向きに。両足で自分の腰を挟ませる。腹と、腹と、胸と、胸とを、くっつきあわせて。臆病に、しかし、ようやく少し安心したように、すがり付いた。

 断っておくが。これは間違いなくヴィンセントである。キリコに今、擦り寄って、ようやっと安らいだ表情を浮かべている、黒髪のヴィ少年もとい美少年はヴィンセントである。さっきからずっと黙りこくって、口を開いたかと思えば鳴き声ばかりというこの少年は、十四歳のヴィンセント=ヴァレンタインである。俺の旦那様である。

 自分で書いててどうかと思うが。本人、微笑みながら振り返ってる。本当に、同一人物なのだろうか? 疑いたくなるほどに、今とはまるで違う。

 でも、キリコ=ヴァレンタインという人は、やはり、ヴィンセントによく似ている。キリコの方が兄なのだから、似ているのはヴィンセントのほうなんだけど、俺たちはヴィンセントしか知らない訳で、だからキリコの方が似ていると錯覚する。

 ヴィンセントが六十八年生きてきて、似たのだ。やっと、彼の尊敬する兄に、似る事が出来たのだ。幸せな事かは解らない、少なくとも五十四年間、呪縛から解かれていないのだ。

「……にい、……」

「ん?」

「う……あう、……う」

「うん……。大丈夫だよ、僕も、ヴィンセント、お前の事が大好きだよ」

「う……う……」

「ずっと一緒だから。怖がらないでいいから。な?」

キリコの言葉の通り、昼間、彼が店で仕事をしている時間帯を除けば、多くの時間、二人は共に過ごしていた。風呂場で、食事のときも、眠るときも。もともと、ただ兄の後ろについて歩くことしか知らなかったヴィンセントだから、他に何かする事といえば、本を読むくらい。「兄」以外の理由が無ければ、部屋からも出ないほど。ベッドの上で、兄が買ってくれた本を、何度も何度も読み返し、時機を見計らって、店へと向かう。中に誰かがいたなら、裏へ回っていなくなるのを待って。

「ヴィンセント」

 キリコは、そんなヴィンセントに気付いていた。弟が来ると、気配で分かるのだ。誰もいなくなると、扉を開けて中に招じ入れる。そして、いつものラテを、いつものマグで。いつも通り、臆病な表情で、ヴィンセントはそれを飲んだ。

 気付いてもらっていると思うけれど、ヴィンセントは、喋らない子供だった。再三再四書いているが、とにかく、無口で。自分の口は不要なものだと信じていた。幼い頃、酷い目にあわされていた頃、何か物を言えば、拳骨が飛んできた。正論を言って辛い目にあうくらいならば、何も言わないで耐えていた方がよほど楽だと、信じてしまったのだ。

 自分からは開かれぬ口を、キリコは無理に開かせようとはしなかった。陰の多い次男に気を揉む両親のことは知っていたが、キリコ自身はもう、どうする必要も無いと思っていたのだ。願わくは、一緒にずっと、彼が疎ましいと思ってくれるまで、いられればいいと。

 文字の上では、とても綺麗な言葉を話す事は出来ても、唇で言葉を紡ぐ事は、しなかった。

 兄は、それでも構わないと……、ヴィンセントは言う、そんな私でも、何ら問題はないという態度で、接してくれていた。……というより、言葉自体、何の意味も持たなかったのだな。私の口から発される音声が、他の誰にも聞き取れない物であっても、兄だけは……、ちゃんと分かってくれていたのだ。

「……ヴィンセント」

「……!」

「好きだよ」

 二人きり、誰も来ないという事を解っていて、キリコは時折、店でもヴィンセントにキスをした。びっくりして体を強張らせ、臆病な表情を浮かべるヴィンセントの頭を優しく撫でて、抱きしめた。時折、ヴィンセントの若い抑制が効かなくなってしまうほどに、甘く甘く甘いキスの雨を降らした。そうして、ヴィンセントがさらに甘い声を零したら、もう店の扉の鍵を、閉めてしまうのだ。

 つまりヴィンセントも、十四歳のときから「開発」されていた訳だ。俺や、ねこクラウドと同じく。ただその意味は、俺たちのように薄っぺらじゃない。もっと、ずっと、深い物だったのだろう。少なくとも、この美しい兄弟の、守り守られるという関係においては、俺とクラウドのそれよりも、きっともっとずっとすごく、真面目。

「……は、あぁう、うぅ……、ぃ……い、ぁん」

 キリコは、その性格そのままに、ヴィンセントを、とても優しく抱いた。指ではどうしても与えられない、優しい触感を、その舌で与えた。ヴィンセントの柔肌の輪郭を、ほんの少しだけへこませながら、鈍く光る唾液の道を、その身体に記していったのだ。キリコがヴィンセント以外の男と(あるいは女と)性行為をしたことはないだろうと、ヴィンセントは推す。しかし、キリコの舌は、とてもそうとは思えないほど、十四歳の少年を蕩かした。今でこそ俺よりずっと大きいヴィンセントでも、十四歳当時はねこヴァージョンを見ての通り、クラウドとほとんど変わらない、幼い体型の少年だったのだ。その少年の身体は、現在のヴィンセントと恐らく同じ程度のレベルであろうキリコの舌に、翻弄され続けた。

「は、や、っ、うっ、やあ……っ、やああ!」

 執拗に乳首を吸われて、快感に狂ったヴィンセントの幼い陰茎の先から、早くも精液が零れ落ちた。震えながらそれを止められず、ヴィンセントはキリコの腕に爪を立てた。キリコは例の、甘く優しい微笑みを浮かべながらその頭を優しく抱く。

「ん……、ヴィンセント、いい匂いだ……、可愛いよ」

 シャツを、性器を、店の机をべっとりと濡らしてしまったことを気にすることはないと、キリコは指で掬い取って口へ持っていった。

「……うん……、お前のは、美味しいな……」

「うぅ……あ……あ……」

「僕が舐めてあげるからさ。……お前は僕の、舌を身体で、感じてて」

「いぁ……あっ」

 頭を下げて、汚れた太股に、二人だけしか知らない跡を標しながら、桃色に腫れて震える男性器に、横笛を吹くように口付ける。舌先に感じる甘いような辛いような味を、それがヴィンセントのものだというだけの理由で、キリコはいとおしんだ。 舌先で、なぶられるような、……一種のいじめだこれはたぶん

……だけどそれを決してヴィンセントは悲しんだりはしないそれどころか……とても、悦んで……、口淫を受けて、知らず、腰がゆらゆら揺れる。その動きを指摘するように、キリコはヴィンセントを口に含んだまま、紅い目で弟を見た。胸がギリギリ締まる。息が詰まる。ぽろぽろと涙が零れてくる。

「……愛してるよ……、ヴィンセント。さあ、……もっと、僕に飲ませておくれ」

「ふあう! ……あぅ、うぅ、にい……ぁん、うっ、あぅ……ふぅ……う! う!」

 紅い視線に突き刺されて、震える。しかし、幼いながらに備わった、感じやすい心は、そうされることに受ける羞恥に、さらにいきり立つのだ。

 キリコの口が、再びヴィンセントの性器を捉えた。ねっとりと舐られ、

「ひ、ひうぅ、っ、ひい、ぅ、いうっ……」

 数え切れないほど震えて、その口中に、濃厚な汁を流し込んだ。

 立て続けに達して、ヴィンセントは下半身を吸い続ける兄の髪を思わずつかんでしまう。その手をそっと、咎めるように退けられて、腹に散らばった先程の残滓を吸われながら、またその頭を抱きしめてしまう。せっかく、口とそこで繋がっていたのに、紐がほどけてしまったようで、急に何だか、寂しくなってしまったのだ。

 安心させるように、背中へキリコの手が回される。水仕事で、冷たくて、思わず背筋を伸ばした弟のことを、キリコは心底いとおしく思う。そうして、手のひらを背筋に沿って上へと移動させながら、そのシャツを捲っていく。へその窪みを舌先で舐め、脇腹を吸い、乳首を噛んだ。切ないような鳴き声をあげるのを、微笑んで耳に受けながら、桃色の胸飾りを、飽きることなく唇で弄ぶ。キリコの胸の前、ヴィンセントのペニスは三度立ち上がっていた。

「仕上げを、しようか?」

 また、上目遣いでヴィンセントを見る。ヴィンセントは紅い頬をたっぷりの涙で濡らしながら、震えるように肯いた。その表紙に、涙が双眸から散らばった。

「泣かなくてもいいだろう……。ヴィンセント、大好きだよ……。気持ちよくなっておくれよ?」

 少年の身体を抱き上げて、代りに椅子に座る。膝の上に乗せて、少し荒れた指を少年の唇に押し当てれば、飼い慣らされた猫のように口を開き、そこに唾液を這わせる。小さな口にしゃぶられて、キリコの胸は少しく痛んだ。

「うっ……う……んっ……ん……」

「力抜かないと、……イタイよ?」

「ん……くぅ……っ、はっ、……っ」

 同じ痛み、痛みの種類はあろうとも、しかし神経や身体が感じるのは同じ痛みだ。

 これはあくまで俺の考えではあるけれど、でも、俺とよく似た思考回路を持っているはずだ、ヴィンセントだって。だから、愛しい相手がこういうときに、気を使いながら及ぼす痛みっていうのは、決して悲しみや怒りを招くようなものではない。少なくとも愛しさは増幅する種類の物。裂けてしまいそうに痛くたって苦しくたって、それはどこか違うところで起ってる問題。

 腹の中をかき回されることを快感と思うのは、実は……、そう難しいことではないのだ。たぶん。

「ここ、だな?」

 ヴィンセントはぎゅっと目を瞑ってふるふると首を振った。しかし、身体を見れば一目瞭然だ、質問も意味はない。小さな耳を噛んで、耳朶をくすぐるような声音でささやいた。

「……すぐ、入れてあげるから……」

 俺は、初めて猫のクラウドを抱いたとき、俺の中にあったのは、罪悪感と、それには伴わない喜びだった。ああ、嬉しい……みたいな気持ちだったように思ってる。辛かったし。ヴィンセントは側にはいなかったし。慰めて欲しかったし。

 キリコは、ヴィンセントの話を聞いた限りでは、不幸な男には思えない。むしろ、ちゃんと人生をバランスよく歩いている、俺とは真逆の人のように考えられる。そんな人が自分の弟を抱く心理って、どんなものがあるんだろうな。そこにはやっぱり罪悪感とか背徳感とか、自責の念とかあるんだろうか。あるいは、本気で愛しいと想っているという事実がどんとベースになってて、そんなことは気にならないんだろうかな。まあ、俺だってクラウドのことを本気で愛しいと思うようになってからは罪悪感とか抱かなくなったけど。

 ってことは、本当に、キリコはヴィンセントのことを心から愛していたのか。そして泣きながらそれを受け入れるヴィンセントも。

「うあ……」

「……ヴィンセント……」

 ヴィンセントは好きだと言う、今でも好きだと……。耳の奥にその声を描き出すことが出来ると。何だかちょっと、嫉妬深い俺としては、あんまり面白くはないけれど。

 猫の子供の姿になってお前やクラウドに抱かれているとき私はひょっとしたらお前たちをあの兄のように思ってしまっているかもしれない怒られるかもしれないが……本当のことだ……、だってさ。

 何ていうか、それは怒れる訳も無く。俺だっていまだに、ザックスやセフィロスやルーファウスに抱かれてることがある。たまに。セル画みたいに、重ねてしまう。そして困ったことに、みんなすごく似ているのだ。まあ、同じ人間が好きになった相手だからしょうがないんだろうけれど。

 兄の指に絡み付かれ、肉壁は兄に絡み付く。

「僕を、置いていかないでくれよ、ヴィンセント……。一緒に、だよ。ズルイよ、先に一人は……」

「ん……ああ……っ、はぁあ……」

 一緒に、なんて、都合の良い話。でもタイミングさえあわせれば、可能なのだ。我慢して、相手を快感に集中させたりすれば。俺もクラウドとするとき、よく気にする。何だか一緒だと、本当に同じ気持ちなような気になるのだ。それがとても嬉しいのだ。

 はたして、一緒に達した瞬間は、精液と一緒に本当に幸福が込み上げてくるような感じ。俺の場合、俺はクラウドでいき、クラウドは俺でいく、俺たちどっちも、この瞬間には愛しあってなきゃいけなかったんだと思う。

 兄のシャツに爪を立てて、ヴィンセントは短く浅い呼吸。

「……ヴィンセント……」

 そっと手のひらが黒髪に降りて来た。

 ものすごく意識のはっきりした昏睡状態、そんなヴィンセントは、強ばった身体がその手のひらで撫でられることで、元に戻っていくように感じた。

「おに……、ちゃん」

「……うん……。もうちょっと、こうしてようか……」

 本当に、幸せだったんだよ。ヴィンセントはそう振り返る。いけないことだと解ってはいるが……、戻れるなら戻りたいと思う……、あのまま、あの時を続けさせてやりたいと思う。あの時の自分に齎されていた、穏やかな幸せを守ってやれたなら、どんなにいいだろう……。

 いいんだ、それは俺だっていつも思ってる。きっとそれは罪悪じゃないから。どう足掻いたって俺たちは今しか生きられないんだし、しょうがない。

「今でも、愛しているよ……。兄のことは、本当に」

「そんなすまなそうな顔しなくてもいいよ」

 ヴィンセントは、またちょっと悪いように笑った。

「私が……、私が、いま、こうやっているのは、ちゃんと幸せに生きていられるのは、間違いなくあのひとのおかげだ。こんな風に毎年、生きていることを確認出来る日を迎えることが出来るのは。罪を抱えながらも、なんとか、頑張ってゆけそうなのは」

 ヴィンセントはカップを手に取った。中にはエスプレッソをお湯で薄めて、ミルクを入れたものが入っている。

「……会いたいな」

 呟くように言った。

 

 

 

 

 誰も、自分が自分である、というのに足る理由を持って生まれてきた訳じゃない。一人の人間が、ただの人間ではなくて、確固たる存在を持つ為には、言い換えれば不定冠詞ではなく定冠詞を持つ為には、当然自分以外の、特定の「誰か」が必要なんだ。俺が、ヴィンセントと出会ったことで、彼にとって俺がただの人ではなく、特定の、世界に無数存在するかもしれない「クラウド」という名でも、全く違った意味の単語として彼が捉え、俺が「ただの人」ではなく、ヴィンセントの認識する「クラウド」になり、ザックスになった訳だ。クラウドにしたってそう。あの子が、俺の関与しない所で生まれたなら、俺にとってクラウドは「ただの人」、もちろん、彼の生きている環境で彼の自己認識は進むにしろ、俺との関係性はゼロ。俺と出会って俺が彼を見て、彼に対して感情を抱いて認識したことによって、彼は「クラウド」になった。解りやすいことに彼は俺に名前を付けられた。俺の名を譲り受けた。俺の、「クラウド認識」はだから、相当に濃い物であるということが解る。

「僕は、クラウド=ストライフです」

「僕は、ニブルヘイムに生まれました」

「僕は、ヴィンセント=ヴァレンタインという人の恋人です」

「僕は、クラウド=ヴァレンタインという人の恋人です」

「僕は、今、とても幸せです」

 こういった「僕は、……です」系統の自己認識は、俺一人だけでは、一番最初に詰まってしまうことは目に見えている。こうした自己認識が進み、自分と外界との関係性が解っていく過程で、成長し、きっと望ましいのは幸せになることだろう。

 自己認識。解るだろうが、多くの場合、他者に依存する物だ。いちばんはじめは家族に、社会に出れば友人や、教師、上司など、環境によって認識を与えるものは変容する。俺であげるなら、母さん、ティファ、ザックス、セフィロス、ルーファウス、ヴィンセントを仲間たち、クラウド、クラウドの学校の先生生徒及びその父兄、これまで暮らしたことの在る家の近所の人たちや親しくなったスーパーの店員さんなど。俺がどういう人間なのかということを知ることが出来たのは、周囲の、逆に俺にとっても「特定」だった人間のなせる技だ。 まあ、こんなことは俺が無い知恵捻って下手な説明をするよりも、図書館行って探せばいくらだって解りやすく説明されているものがあるはずだし、俺のはどうも専門家から見たら一笑にふされる物っぽい。この辺でやめとく。

 で、だ。

 ヴィンセントは幼年期、「社会」から辛い目に遭わされた。幼年期のトラウマが人格形成に云々というのはよく聞く話だが、今でこそ、極めて常識的な(と書くと語弊がありそうだが)男である彼も、そうなったのは恐らくそう昔のことではなかっただろう。プラスマイナスないまぜになった評価を受けて自己認識を深めていくはずの場において、ののしりの言葉や暴力を受けたのであれば、どうしたって少しずつ、変わってきてしまう物だろう。かく言う俺も、神羅に入ってあの人たちに会うまでは対社会嫌悪というか、接触なんて持ちたくないと考えていたから、自己認識が正しく進んではいなかったと思う。あの人たちに「お前は優しいね」と言われたことがなかったなら、俺はどんなヒドイ大人になっていたかと思い、うすら寒くなる。

 そして、俺にとってのあの人たちが、ヴィンセントにとってはキリコだった訳だ。救いはあるものだ。

「ヴィンセント、お前は僕の宝物だ」

 そんな言葉の一つ一つは、ヴィンセントの冷えた心を掌の体温で暖めた。心が一人で風邪をひいたりしないように。世の中なんて決してイイもんじゃない、多かれ少なかれ、どこにでも問題が存在すると、俺はそう思ってる。そして、俺たちは結構辛い場所でやっていかなきゃいけない動物だと。だけど、だからこそ、俺たちは俺たちのことをプラスに特定認識してくれる人間が必要なんだと思う、どんなときでも。俺は幸運なことに、わりとどんなケースでも俺を好意的に認識してくれる人がいた。そうしてそういう人たちに守られて生きて来た。幸せなことだと、本当に幸せなことだと、涙が出るほど感謝している。

 キリコの言葉はどれも、ヴィンセントを守り、育てていった。頼りなげな瞳は、兄をまっすぐに見据えることが出来るようになった。明瞭ではなかった声が通り明らかになるようになった。

 強くなった。社会への扉を、蹴り開いた。そうして、こわごわとではあったが、覗き込み、安全を確認してしかるのち、飛び込んだ。

 俺が社会に飛び込むことを決めたのは十三の時の話。俺の村ではそれがある程度、平均値みたいなところがあったから。

「……出て、どうするんだ?」

 もちろん不安の方が大きかった。だってまだ、十四歳のほんと小さな子供。乱暴な自尊心だけが頼りみたいな所もあったし、その一ヶ月後にはもう「無理!」って形で恋人が出来て人生観が百八十度変わることになることなんてまだ知らないし、セフィロスはまだ「神羅の英雄」だった。そんな中でのまさに「旅立ち」だった訳だ。

「就職しようと思う……神羅に」

「就職。……して、どうする?」

「……向こうで、頑張ってみようって……思ってる」

 キリコはじっと、二十になった弟の目を見つめた。

 年は違えど、時代は違えど、似たような光景なのだろうと推す。

 キリコは、こうして見つめていても、目線を逸らさなくなったな、と思う。赤くて美しい瞳の色をいつでも、見せてくれるようになった。もちろんキリコの中には、自分が強くしたなどという考えはない。ヴィンセントは強くなった、偉い子だと、そういう感想を抱くのだ。

「……そうか」

 ヴィンセントはヴィンセントで、誰よりも偉大な兄が、自分が都会に出ることを許してくれるかどうか、考えて眠れない夜もあった。もちろん、愛しい兄のもとから離れなければならない辛さも大いに。

「座らないか。コーヒー入れてあげるから」

「……うん」

 こうしてカウンターごしに立った姿も、もう自分とほとんど変わらない。すっと鋭い身体は、本当に自分に似たのだと。美しい俺の弟……、キリコは弟の姿を見るたびに、その美しさを愛で、心底愛しいのだということを知る。ちょうど一時期の俺みたいだ。

「就職って、アテでもあるの?」

 いつものマグカップを、カウンターに座った弟の前に置いて、キリコは問うた。 少し息を止めてから、ヴィンセントは答えた。

「アテは……、ない。けど、……、頑張ってみようと思う。出来るだけ」

 まっすぐな視線をまっすぐ受け止めて、キリコはその言葉を噛み締めた。

生じた沈黙が長く続くのを、弟は困惑して耐えた。

 兄はやがて、莞爾として笑った。

「……寂しくなるな」

 そこではじめて、ヴィンセントは視線を外した。

「休みのたびに、戻ってくるようにするから」

 うん、とキリコは肯く。手を伸ばして、同じ色の髪を撫でた。

「頑張れよ」

「……うん」

 カウンターごしに体を乗り出して口付けた、ヴィンセントはその慣れ親しんだ唇の柔らかさに流されそうになりながら、ふと、扉の外が気になった。

「……どうせもうお終いさ。……鍵を締めた方が安心か?」

「うん……」

 ヴィンセントは立ち上がると、カフェの扉の鍵を内側から施錠した。

「邪魔されたくないんだ」

 そう、呟く弟に、兄はふっと笑う。

 自分の意見をはっきり言うようになった。五年も経てば人間、変わるものだ。外の世界は怖いだけの物じゃないよ、僕と一緒に出てみよう、ちゃんと一緒にいるから……、言い聞かせて、一緒に歩いた日々が、今は懐かしい。

 あの頼りなげな弟が、自ら身を投げ出そうとしているのである。

「……兄さん?」

 背の高さももう、変わらない。自分では解りようも無いが声も同じだろう。

「うん……。大好きだ、ヴィンセント、僕の弟、大切なヴィンセント、頑張れよ……」

「ん……、兄さん……、……、俺、頑張るよ……」

 白い肌も、同じ物。 抱きかえす腕も、指先まで、爪も。

 俺と同じ身体の生物がこの世に存在している。

 破裂しそうな幸福を感じた。

 こんなに綺麗になって……。

 客用のソファに横たえた身体の、シャツをはだけた胸と、中途半端に引き摺り下ろしたズボンから覗く、男のシンボル。請い求める目線が、憎らしいほどに愛らしい。俺はこの美しい生物の兄なのだと、思えば、この子を都会に放すのが不安で仕方なくなる、手足をもがれるような事を考える。

「兄さ」

「……綺麗だ……、ヴィンセント、綺麗だよ」

「……っ……」

 弟の方も、誰より美しいと思う兄の血を引き、弱々しかった自分から多少は強い兄に近づくことが出来たかも知れぬと考えるのは、心が躍ることだった。そして、だからこそ都会に出ることは、寂しく悲しく、恐ろしく、しかし、強さの証として兄に立てたいところであったのだ。 自分をこんな風に愛してくれる人は都会にはきっと一人もいない。

 この先もう二度と出会うことはないかもしれない。

 だけど、いや、だからこそ、自分は一人になるのだ。

「……ん、やあ……っ、兄さん、……っ」

 足の間、潜り込む人が、この人以外にいるだろうか。自分の傷を舐めてくれる人がいるだろうか。自分は、この人の前でだからこそ、こんな風に足を広げることが出来るのだ。

 既にご存知の通り、こうしてヴィンセントは神羅に入り、どういった経緯があったか知らない、が恐らく適性はあったのだろう、タークスの一員として、幹部の護衛や産業スパイなどに活躍し、七年後のニブルヘイムで、もはや詳しくは書かないが、その後の地球の命運を左右する事件に巻き込まれ、神羅屋敷地下で、以後俺たちが叩き起こすまで三十一年の長い眠りに就くことになる。

 最後に彼が兄に会ったのは、彼がニブルヘイムに赴く一つ前の日曜の事だったという。その時にはもちろん、もう会えなくなるなどと考えたりなどはしない、いつものように会って、いっしょに食事をして、コーヒーを飲んで別れただけ。

 悔恨のみが残るとヴィンセントは言う。それは、まあ、もちろんそうだろうと思う。俺にとってもこのニブルヘイムは別れの場所で、セフィロスを喪った。もう二度とルーファウスには会えないんだと自覚した。そう考えればもっと、わがままや甘えを言いたかった、もっと、何か出来ることがあった、そう考える。彼が眠り続けたあの長い三十一年、ヴィンセントは、兄の存在を記憶に埋没させようとした。兄の存在というのは、彼の「眠り」には厄介だったのかもしれない、ありていに言えば邪魔だったのかもしれない。愛しい存在がいて、自分を受け止めてくれるかもしれないと考えれば、そこに甘えが生じる。彼があの暗い部屋で眠りに就いたのは、永遠に自分を虐げ、責め続けるためだったから、誰かに甘える事は許されなかった。

 俺ならきっと出来ないよそんなことはなあ……。無駄な話だけど、俺が、ヴィンセントだったら? もちろん、泣きながら兄さんに縋り継いて、許しを請うだろう。しかも俺の心の中には、この男が自分を許すだろうという酷い甘えが存在していて。ヴィンセントはそれを潔しとはしなかったのだ。

 しかもヴィンセントはこんな事まで言う。

「心配をかけてしまったからな」

 俺たちが行方不明になり、ニブルヘイムが全焼したという事実を、神羅がどう発表したかは知らない。もちろんソルジャー一人と雑兵一人くらい、いなくなったって神羅にはどうにでも出来たろう、恐らく「死亡」とされていたんではないかと察する。同様にヴィンセントが宝条に肉体改造を施され、挙げ句地下に篭ったこと、ヴィンセントの家族には何等かの形で伏せられた上で、捏造された事実が伝わったのだろう。

「死んだにしろ、行方不明にしろ、それを悲しまぬ家族がいるだろうか。私は生きていたのに……、申し訳ない事をしてしまった。ただ、会いに行けばやはり、甘えてしまっていただろうから」

 キリコや、父母はどんなに悲しんだ事だろう、そう思うとヴィンセントはより辛い悪夢に苛まれた、と言う。

 恋しくて恋しくて仕方が無かったろう。ちょっと前の彼が、今の彼が、すごく強い強い愛情で、俺やクラウドを守ってくれるのは、そんな辛い想いを、もう二度としたくない誰かにさせたくない、そういう気持ちによるものかもしれないと、ちょっと思う。俺も、ザックスたちを喪った経験があるから。もう、大好きな人に、どこにも行って欲しくないし、俺もどこにも行きたくないのだ。

 そうして俺は、だからヴィンセントを愛する。

 これからもずっとだ。

 

 

 

 

 海から上がる風が、砂を揺らしながら俺の鼻に辿り着き、心地よい香りを送り込む。クラウドはじっと海岸線を見つめている。

 南方は、やはり温かい。

 ジャケットも手に持って、清潔な白いワイシャツに、濃紺のシルクプリントネクタイ、ピンストライプのズボンという姿のヴィンセントは、髪を後ろで結んでいる。彼はすっと息を吸うと、跪いた。南海にピシっとした彼の格好は、しかしそれはそれで絵にはなるような気がする、モデルがいいから。ってこれはヒイキ目であることは否定しない。

 ニブルヘイムの海はもう寒くて寒くてそれこそこんな平穏な光景を拝む事は絶対無理だ。ここはぽかぽかとあったかくて、心が緩む。温暖な土地で育った人の方が、おおらかな気持ちを持てるような気がする。少なくともはりつめたものがないから、心を抑圧する必要はない訳だし。

 一人の、ヴィンセント以上に清潔な格好の女性が、ヴィンセントに会釈し、続いて俺たちにも頭を下げた。

 ヴィンセントが歩き出す。ゆっくりとした足取りで。

 そうして、車椅子の脇で、立ち止まった。

 細長い影に気付いた、車椅子の主が顔を上げた。白髪の老人はそれまでずっと、海を見ていた。こちらから表情を伺う事は出来ないが、この温暖な土地で、悲しい事を考えるのは不向きだから、彼の機嫌がきっと悪くないであろうことは、察しが付く。

 どんな言葉が、ヴィンセントにはあるんだろうと、ちょっと考えてみる。謝罪だろうか、と。あなたの前から居なくなってしまって、ごめんなさい、と。そうして、今でも変わらない気持ちを、あなたに対して、ぼくは抱いたままでいます。

 恋人の、「神聖」と評してもいいかもしれない光景を、俺は今クラウドといっしょに、見ている。クラウドは、俺が手にするはずもなかった恋人で、ヴィンセントにしたって。……ええとつまり、あれだ、俺たちは、ヴィンセントがいて、とてもとても幸せで、俺たちは、つまり、感謝しなければならない。ヴィンセントを誰よりも強くした、あの人に。

 ヴィンセントが跪く。皺深い手を取った。

 キリコ=ヴァレンタイン、が、生きているというのを知ったのは、四日も前の事だ。学校なんて俺が連れてくからいいって、行ってこいって、散々言ったのに、それだけの時間を要してしまったのだ。なにをカッコつけてか知らないが。いや、分かっているけど、知らないってことに、しておいてやるのだ。まあ、お陰で俺とクラウドもこの場に居合わせる事が出来て、だからそれはすごく幸運な事なのだろうけど。……クラウドにとってヴィンセントは一応の「父親」だから、ほんとうの「おじいちゃん」、一目だけでも、会えて、それはとてもよかった。

 説明がえらく後先になるが、ここはニブルヘイムからヴィンセントのカオスによる車ぶっとばしを使っても半日かかってしまう場所……、俺が「ぐげ」になっていたミディールから東に更に数キロの、海岸である。温暖な土地柄、向いているんだろう、すぐ近くには病院があって、あの時俺を看てくれた医師もいる。

 そこに、ヴィンセントの兄、キリコが、生きていた。

 ヴィンセントの問いひとつひとつに、その兄がどういう反応をしたかは、ここからでは解らない。だが、俺たちの元に戻ってきたヴィンセントは、目を伏せて、開いて、一つ、息を吐いて、それから結んでいた髪を解いた、表情は、割と乾いていた。

「気が済んだよ」

「……話は出来たのか?」

「ああ、もちろん」

「あんたが……、あんたがあの人の弟だって事、あの人は解ったのか?」

 そんな、とヴィンセントは笑った。

「そんなの無理に決まっているだろう」

 それから、がらりと顔つきを変えて、

「……考えてもみろ、八十超えて、四十年も前に死んだはずの弟が、全く同じ姿で現れて」

 ヴィンセントは歩き出した。どんどん先に行ってしまう。

「無理に決まっているだろう、そんなの。逆にビックリして心臓が止まらなくて良かったよ。そっちの方が私は心配だった。だから会いに来たくないと」

 足が長いだけじゃない、速い歩くスピードに、俺たちはついていく。

「言ったんだ。無理な話だよ……、あきらめていたんだ私は。四十年前の思い出が、私にはあればいい。それに私にはお前たちがいるし、私には、今も未来もある。それだけあったら、他にはもう何もいらないよ。十分すっきりした、気が済んだ、もういい」

 もういい、もういい、もういい、もう。

 何かを引き千切るように、そう言い募り、さっさと俺たちに、車に乗れと。

「え、なに、もう、帰るの?」

「用は済んだからな。もうここにいる必要はない。……何ならどこかに寄って帰ってもいいが、私はもう、ここにはいたくない」

 子供みたいだ、俺は感じた。わがままな子供、駄々をこねる。

「ヴィンのうそつき」

 不意にクラウドがそんな言葉を吐いた。ヴィンセントはクラウドを物も言わず睨み付けたが、すぐに視線を逸らした。

「もういい、いいんだ。生きていないと思っていたのだ……、それがたまたま、生きていたというだけ。それが解っただけでも良しとしなければ……。ほんとうに、すっきりしたんだ、もう十分だ」

 クラウドの頭を撫でて、ヴィンセントは車の後部ドアを開いた。

「乗れ」

 クラウドは意地っ張りの目をして、じっとヴィンセントを睨み上げていた。

「うそつき。なんでそんなカッコ付けるの? 言えばいいじゃんっ、解るまで言えばいいのに。自分が弟だって、思い出してもらって、納得してくれるまで話せばいいのにっ」

 脱兎。

 の如く、クラウドが海に向かって走り出した。

 

 

 

 

ぜえぜえはあはあ、息を切らしながら、クラウドは老人の傍らに跪いて、なにか高い声でわめいている。看護婦がぽかんとクラウドを眺め、老人は首を軽くクラウドの方に傾けて、恐らくは看護婦と同じような表情である事だろう。

「思い出してよ、ねえ、思い出して。おじいちゃんの、弟の、ヴィンセントだよ、会いに来たんだよっ」

 そのとき俺が初めて見た、キリコ=ヴァレンタインの顔というのは、俺にとても複雑な印象を与えた。

 ヴィンセントとの類似点を、頭の中で必死にかき回す。確かに、ひとみの色は赤い、それによって、目元は似ているように、見える。けれどそれだけでは、やはりヴィンセントの兄であるとは、俄かには信じられないように思える。歳を取り過ぎていて。ヴィンセントは、必死に兄に縋り付いて、泣きそうになっているクラウドを、形容しがたい表情で見ている、止める事も出来ない。過去と現在が交錯して、全く相容れぬことを自覚して、破裂してしまいそうなってるように、あえて言えば見えなくも無い。ただこの説明も抽象的で。俺に快さを与える顔では、少なくともない。

「ヴィンセント……」

 老人は、クラウドに戸惑ったような微笑みを浮かべたまま、呟いた。

「そうだよっ、ヴィンセント……、おじいちゃん、大切だったんでしょう? ヴィンだってずっと大切に思ってたんだっ」

「……ヴィンセント」

 クラウドは涙をたたえて、老人を見上げている。

 ヴィンセントが、喉に絡みそうな声をあげた。

「クラウド……、もういい、もういいんだ」

「……ヴィンセント、か。……たしかに」

 老人が、しゃがれた声でゆっくりと、話をはじめた。

「たしかに、わたしにはそういう名前の弟が、いたよ。ずっとずっと昔に……」

 クラウドは、何によるものかは、本人でも説明がつかないであろう涙を、零した。

「だが、……四十年も前になるかなあ、弟は、事件に巻き込まれて、どこに行ってしまったのか……、わからなくなってしまったんだよ。……坊や、でもね、さっき、教えてもらったんだ……」

 老人はクラウドを見て、ヴィンセントを見た。温和な微笑みを浮かべて、赤いひとみが確かめるようにヴィンセントを、じっと見つめる。

「弟が、どこかで幸せになってくれていればいいと、ずっと祈っていた。そう祈らない日は一日も、なかった。そうして……、悲しいことだが」

 ふと、視線を足元の真砂に落とす。

「弟はもう、死んでしまったのだそうだ。もう大分前に」

 そしてまた、顔を上げて、水平線のあたりをじっと。

「だが……。よかった。弟は幸せになれたらしい……。それが分かればわたしは、十分だ。孫にも、会うことが出来た。会えてよかったよ……、あの子は、いい父親になれるとわたしは信じていたからね。奇麗なお嫁さんをもらって、幸せになってくれることを、わたしは祈っていた」

 ヴィンセントは、何か堪えるような顔をして、それから唇を噛んで肯いた。

 クラウドは、ヴィンセントとキリコを、交互に、呆然と、見た。

 老人は車椅子の肘に乗せた両手に力をこめて、立ち上がった。その足取りは覚束ない。ヴィンセントの手を取って、きっとヴィンセントの知っている表情で、微笑む。

「さっきは何か、怒らせるようなことを言ってしまったかい」

「……いいえ」

「なら良いのだが。急にいなくなってしまったから心配をしたよ。うん、そうだな、見れば見るほど、君お父さんに、よく似ている……。目の色も、ちゃんと受け継いだのだね。……ほんとうに、良く似ている。君のお父さんの若い頃に。……髪を伸ばしたらきっと、そんな感じになっていただろう」

 注意深く耳を済ましていれば、この老人の声は聞くほどに、ヴィンセントの声と似ていて、なんだかそんな声が知らずに残酷なことを言っていて、俺は辛かった。

 時間をかけて、老人が車椅子に腰を降ろすのを、ヴィンセントは支えた。

「おじいさん……」

 ヴィンセントは、皺深い手を握り締めて、言った。

 切羽詰まってるみたいに見えた。

「……ぼくは、あなたに一目でも会えてよかったです。本当に」

 クラウドは、納得行かないって、そんなことを言いたそうにしていた。抱き上げて、俺はヴィンセントに、クラウドに、何が言えるだろうかと考えていた。

 クラウドは、車に戻る道すがら、ずっとずっと泣いて、車に乗って車が動き出してもまだ、泣き続けていた。

 

 

 

 

 キリコ=ヴァレンタインが亡くなったのはそれから間もなくのことだった。あのとき、住所を渡しておいたから、死亡通知はちゃんと届いた。

 クラウドは明らかにショックを受けた顔をした。と言って、泣くことはなかった。涙を堪えてはいたが。

「そうか」

 ヴィンセントはコーヒーカップを手の中で転がす。

「死んだか。呆気ないものだな」

 ヴィンセントは平板な声音だ。

 まるで何でもないとでも言うように。

「……みんなに葉書出そうか?」

「何の」

「いやその、……何ていうんだっけか、年賀状いらないよって」

「喪中の葉書か。要らんそんなもの。それよりも年賀はがきをさっさと買ってこいお前は。三日前にも言ったはずだろう」

「……わかったよ」

 ぷりぷりと財布持って、クラウドひっぱって、寒い街に出る。空は曇っていて、灰色っぽい。空気も何だか重たい、そろそろ雪かもしれない。

友達の数だけの束を購入する。今年もまだ、デザインを決めていなかったりする。ヴィンセントのことを、キリコのことを、考えると滅入りそうだからいまは、やめておく。

「さ、むぅ……っ」

 クラウドがきゅっと縮こまって、俺の陰に隠れた。マフラーを忘れてきたから、髪を結んだ項がとても寒そうに見える。ジャンパーはもちろん来ているが、それでも膝の出たハーフパンツ。かさかさになってしまった膝が、とても寒そうだ。

 そう思って見ていたら、足元の石ころにけっつまずいて、転んだ。

「にゃう……、いたぁ……」

 むきだしの、白い膝に赤い血が滲み出す。分かる、分かるぞクラウドそれ、すごい痛いんだよな。お風呂に入ると染みる系統の。クラウドは膝をこわごわ抱えて、目に涙をいっぱい溜めてる。

「……だいじょぶか? 痛かったなあ……」

 クラウドは泣きそうな顔して、だけど唇噛んで必死に泣くのを堪えている。大きく息を吸い込んで立ち上がると、男らしく、一歩、二歩と歩き出す。

「……抱っこしてあげようか?」

「いい。いらない」

 だけど、見るからに痛そうだった傷。

 まわりには誰もいない。ひょいと抱き上げて、傷を舐める。砂と、鉄の味がした。

「にゃあ……、やだ、おろして」

「平気だよ。誰も見てない」

「……」

 クラウドは唇をへの字に歪める。

「痛かったんだろ?」

「……」

 頭を撫でてやると、クラウドはぽろりと涙を零して、俺の肩に目を圧し付けた。よしよしと、頭を撫でてやる。まあ、まだ四年生だもんな、痛くって泣いちゃうことも、あるよな。大丈夫、その時は、だいたい俺とかヴィンセントとか側に居るから。

「う、にゃん……う、っ、ふぇ……っ」

 クラウドは家に帰るまで、ずっとひっくひっく泣いて、……多分、痛みだけじゃない、プライドの面での涙もあったろう。門扉の前で、俺の腕から降りた。

 と。

考えるように、じっと俺たちの家を赤い目で見つめる。

「どうした?」

「ヴィン……。ヴィンは、泣かないのにね」

 クラウドは自分の膝小僧を、またちょっと気にするように見た。

「俺は泣いちゃうんだ。ちょっと痛いからって。ヴィンは、悲しいことあっても泣いたりしないのに。大好きなお兄ちゃんが死んでも、全然平気でいるのに」

 この間の、キリコとの最後の別れの時もそうだったように、クラウドは自分の、ヴィンセントの、為に辛く悲しい想いをしているようだった。

 まだ、わからないんだろうな。

ちょっと、そんな事を俺は考えた。この間、どうしてヴィンセントが「もういい帰る」と子供みたいに言ってしまったのか、兄を本当に喪っても、平気なのか。否、平気なのではない、平気な振りをしようとしているのだ。

 それが彼の考える強さなんだろうから。俺も、分かるつもりだ。

「……クラウド転んだら、俺がいるだろ?」

「……うにゃ……? うん」

「俺が転んで痛い想いしたら、ヴィンセントがいるんだ。で、昔はヴィンセントが転んだら、あいつのお兄ちゃんが側にいて、ヴィンセントが泣いたらなぐさめてた」

「うん……」

「でも、もうヴィンセントにお兄ちゃんはいない。……っていうか、もうずっと前から、あいつにはいなかったんだ。それこそ、俺が生まれるよりずっと前から」

「……」

「ヴィンセントは、泣いてはいないかもしれないけど、やっぱりお兄ちゃんが亡くなったのは、すごい悲しんでると思う。たぶんあいつは、泣かないようにしてるんだよ」

「……なんで? 悲しいなら泣けばいいのに……、俺だって、いるし、ヴィンが悲しいなら、俺だって……」

「そう、クラウドは優しいんだな。……うん、あいつにはもう、お兄ちゃんは要らない。お兄ちゃんなしで、頑張っていく力があいつには、あるから。だから失ってしまったことを悲しみはするけれど、嘆きはしないだろう。でも、お前の言うとおり、確かに俺たちにも、あいつの痛みを軽くする力は、きっとある

はずだ」

 クラウドはじっと俺を見た。それから、もう膝の痛みなど気にしていない様子で、両手でノブを捻じって家に入った。俺もその後に続く。

「……お帰り。……どうしたんだクラウド、その膝は」

「なんでもない。へいきだよ」

「年賀状、買ってきたぞ。……デザインはあんたに任す。どうせ俺が創るよりもずっと上手いんだし」

「それはそうだな……。意外と賢いな」

「あんたはやっぱり口が悪いな」

 温かい部屋には、コーヒーの匂いが漂う。

 今は、分かるのだ。頭の悪い俺なりに。

 ヴィンセントにはもう、キリコはいない。それは、ずっとずっと前から、解っていたことだ。そうして、それが事実になっただけ。キリコはヴィンセントのことを、やっぱり解りはしなかったし、ヴィンセントはそれも、ちゃんと解っていたはずだ。傷つかないように、あんな嘘をついたんだと言うことは、俺の目にも瞭然としている。ただそれが「強さ」であるのかどうかはわからない。

 少なくとも、ヴィンセントにはもう、転んだときに泣きつく相手はいなくなってしまったということは言える。だが、傷の痛みを、俺たちが舐めて癒すことは、可能だ。いや、……実質不可能か。彼がそれを望まない。

 だけれども一緒に在る以上やっぱり、彼が泣くときには、彼の涙を拭う役割を担いたいものと思う。クラウドのコーヒーにミルクを垂らす。その表情は、きっと彼の兄よりももっと優しいものだ。俺たちも、あんな風な表情で、ヴィンセントを思いやる時が来たらいい。そうなれるよう、努力を怠らないのは、言うまでもないことだ。

だって俺たちはヴィンセントを愛しているんだ。


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