バックグラウンド・アンダーグラウンド

 お茶を飲み終える頃、扉を開けたのは、期待していたヴィンセントではなく、ベイガンを伴ったカイナッツォだった。俺たちの顔を見るとほんの少し、安心したように溜め息を吐いた。

「戻っておったか……、どこに出歩いていた」

「昼ご飯食べてきただけだ」

 嫌な予感はどうやら的中したようだ。クラウドはまだキョトンとしている。俺は胃に、カフェイン以上に荒れるストレスを覚えつつ、立ち上がる。目配せをして、カイナッツォと一緒に廊下に出る。

「何があったんだ」

 部屋の扉は開けたまま、ベイガンは部屋の中を見て立っている。カイナッツォはすぐには答えず、何か堪えるような顔をして数秒、俯いた。そして出来た言葉は、

「お主らに迷惑はかけん。ただ、もうしばらく魔界にはいてもらうことになる」

 だった。イライラしている、けれどクラウドが側に要る、一つ息を飲んで、

「ヴィンセントはどこだ」

 とりあえずは一番重要なことだけでもハッキリさせておかなくてはならない。まもなくヴィンセントと別かれてから二十時間が経過しようとしている。俺たちは仲の凄くいい家族であって、理由もなく離れ離れになるなんて、異常事態もいいところだ。カイナッツォの答えが出るまで、また少しく時間がかかった。俺は嫌に高鳴る心臓を、何とか落ち着かせるため、浅い息を二つ。

「今は……、バルバリシアと共に行動している。夕刻までには戻って来よう……」

「何でヴィンセントがバルバリシアと一緒に行動する必要があるんだ。……あいつは何をしにいったんだ。昨夜はカオスに呼ばれたって」

 苛立ちに伸ばしかけた手で、自分の服を握った。カイナッツォはそんな俺の手を一つ見つめる。俺の精神にあまり安定感がなく、心の狭いことはカオスやスカルミリョーネを介してよくご存知なのだろうと思う。それもまた不愉快なことではあったが。

「……今は、言えぬ。ただ、ヴィンセント=ヴァレンタインは、もうすぐ戻ってくるはずじゃ、何も心配は要らん」

 大体その言い回しからしておかしいじゃないか、「心配」だって?

「危険なことでもしに行ったみたいな言い方じゃないか……」

 クラウドに聞こえぬよう、腹の底で押し殺した。

「……あんたじゃ話にならない。スカルミリョーネを連れて来い」

カイナッツォは唇を一文字に結んで、舌で湿してから、

「お主らは客人だが、傍若無人に振舞う権利を与えられてはおらぬはず。……とにかく、あの男は戻ってくる。それまではこの部屋で大人しくしておれ」

 有無を言わさぬ、という態度だ。四天王と喧嘩して勝てるはずもない。握った手を、ゆっくりと緩めた。苛立ちを飲み込む術、無い訳ではない。もう大人だ。ただ、ヴィンセントが帰って来たら爆発してしまうかもしれない、……ちゃんと、帰ってきてくれるなら。

 憮然とした俺の顔を見て、クラウドは何を思ったのだろう。俺がベッドに座っても、すぐには近付かないで、距離を置いて表情を伺っている。視界の端、その尻尾が不安げにゆらりと揺れたのを見て、溜め息を吐き、煙草を取り出して火を点けた。胸の奥まで煙で満たし、吐き出すのに五秒。何度も繰り返すうちにヴィンセントも帰ってくるかもしれない。少し微笑んでクラウドを見た。尻尾が止まる。

「ザックス?」

 優しい顔でいられればいい。この子には俺の悩んでる姿なんて見せたくない。カッコ悪くてもいいからある程度の笑顔で、いつでもいられたらいい。

「お茶のお代わり入れるか?」

「んー、いい。紅茶あんまり飲みすぎるとおしっこ近くなる」

「そっか。でも、そういうの気にしなくてもいいんだぞ?お前のことトイレに連れて行くの、俺は楽しいと思ってるから」

「……だから、余計に」

 クラウドと話すと、実際、心は柔かく和む。そのくるくる変わる表情の一つひとつを見逃すまいと、クラウドに集中するからだろうと思う。

「そう言えば……、おしっこの時、ちんちん大丈夫だったか?痛かったりしなかったか?」

「ん?うん」

 あんまりたくさんいくと、やっぱり無理もあるもので。

俺は今日一番最初の排尿の際、少しだが、違和感を感じた。幸い、二度目以降は大丈夫だったが。もう誰にどんな風に頼まれたって、尿道なんて弄らせるものか。

「……あんなの、俺、ヤダな」

 クラウドはちょっと口を尖らせて言った。

「あんなの、……されたらヤダ。カオス、いっつもスカルミリョーネにああいうことしてるのかな」

「ああ……、でも、スカルミリョーネが『いつも普通に』って言ってたの聞いたことある。俺も最初はてっきり、凄くアブノーマルなことしてるのかと思ってたけど……」

「じゃあ、なんであんなことしたんだろ……」

 精度の高い仮説として立てられるのは、俺らがカオスの愛情の対象ではないということだ。完全に玩具扱い出来る存在と判断されたのだろう。別にカオスにそういう目で見られることに、そこまでの苦しみも覚えないけれど、ヴィンセントと同じ顔に扱われたのだと思えば、ちょっと胸が痛い。

「あの男のことを俺たちが判れるとも思えないな」

 テーブルの上の灰皿で煙草を消す。ベッドに座って、クラウドを誘う。一瞬不機嫌に見えた俺が「治った」から、快く隣りに来てくれる。ヴィンセントも俺も吸うから、クラウドは煙草の匂いを嫌がらないで、ピッタリと寄り添う。

 体温が来て、俺はさらに安心する。

「……でも、俺もああいうのは嫌だ。セックスは……、やっぱり愛情がそこにないと辛いよな。特に俺たちの形は、どうしたって痛みや汚れとは切り離せないから」

「……うん……」

「俺は……、生まれてこの方、俺の意識としては、誰かとセックスするときに『愛してる』って思わないでしたこと、ほとんどない。そしてそれは幸せなことだと思ってる」

 俺の恋人が過去にヴィンセント以外にも何人か居たことは、クラウドも知っている。その幸福は、ヴィンセントと俺からの愛情を一身に浴びるクラウドにも理解出来るだろう。

「お前とする時だって、すごく」

 言うと、何気ない顔をして、少し赤くなる。

「それは伝わってるだろ?」

 昨晩カオスと触手にされた、愛を排した辛いセックス。直前までの愛し合いがどんなに「愛し合い」だったかを、クラウド、改めて知ったろう。俺を動かすものの半分は間違いなく愛情。そんな指先だからクラウドは、耳をそっと撫ぜられただけで「くるる」喉が鳴る、目がとろんとなる。盛大に寝坊をしたつもりで、しかしまだ寝足りないのかもしれない。あれだけのことがあった翌朝が日常の顔をして転がるほど、俺たちは丈夫じゃない。

「……昼寝するか?」

 こく、と頷く。カーテンを閉めて、横になる。クラウドがぴったりと寄り添う。その体温が心地良くて、俺はあっさりと眠りに落ちていた。

 

 

 

 

 目を醒ました時間は判らない、ただ、俺が一番最初に感じたのは安堵感だった、きっとクラウドもそうだろうと思う。

「ヴィンセント」

 俺はそう言った、俺の言葉にびっくりして、クラウド、目をぱちくり。そして「にゃあ」。昨夜のように、カオスと間違えるはずもない。何故って、

「悪かったね、長いこと借りちゃって」

 ヴィンセントが二人。となれば、片方はカオスであり、もう片方がヴィンセントであるという結論は当然導き出される。俺はヴィンセントにもカオスにも言ってやりたいことがたくさんありすぎて、でもとりあえず、ヴィンセント、

「心配をかけてすまなかった」

 俺たちのベッドに腰を下ろして、俺もクラウドも一緒に抱き締めてくれたから、全ては飲み込めてしまう。いや、いいよ、無事でいてくれたんならいいよ、お疲れ様、そんな気持ちになって、報われたように思えて。クラウドも、呆気なく喉を鳴らす。

 そして、その安心感満足感を一通り味わってから、

「……ここは?」

 気付くのだ。俺たちがいるのは、昼寝したはずのホテルの一室ではなく、魔王城、カオスの仕事部屋であるということに。ベッドごと、俺たちは移動していた。

「どうして……?」

 「どうして」。カオスと付き合ってもう大分時間が経つし、しばしばヴィンセントがその片鱗を見せるから、クラウドの呟いた問いは「どうやってここへ来たのか、どうして俺たちは場所が移動しているのか」なんていう基本的なものでは、もうない。

 そうではなくて、「どうして、俺たちをここへ呼んだのか」、その理由を問うているのだ。

「とりあえずは、おはよう。昨夜はお疲れ様」

 人の尿道まで入っておいてお疲れも何もないものだ。

「……もう、ああいうことはやめてくれないか」

 事細かに振り返りたくはない。それでも釘は一本でも刺しておくべきだ。カオスは悠然と微笑んで首を傾げ、

「普段、僕の力でいい思いたくさんしてるんだから……、たまには僕だって君らでいい思いしたいって思うよ」

「……俺たちはあんたの稚児じゃない。あんたには稚児が百八人もいるんだろう、よりによって俺たちみたいなの使わなくてもいいじゃないか。……スカルミリョーネだって胃ィ痛くなるだろ」

 俺の不平にも、カオスは苦笑して首を振るばかりだ。

「あまり責めないでやれ。怪我をしたり病気に罹ったりした訳ではないのだから……」

 ヴィンセントは俺の髪を撫ぜて言う。それだけで寝る棘もどうかと思うが、俺はもう、言葉を飲み込んだ。その代わりに、

「……何か用があって呼んだんだろ?」

 本題を引き寄せた。カオスは頷く。

「お願い事がね」

「う」

 クラウドが一瞬、声に出す。そう、「う」、正しくは「うにゃ」。カオスのお願い事、先例を引くまでもなく。クラウドの爪が一つ二つ、立った。

 カオスは自分のオフィスチェアに座り、くるりと一回転。とても憂鬱な気持ちで、クラウドも俺も、その唇が再び開かれるのを待っている。ヴィンセントはもう知っているのか、黙っている。西陽が斜めに差し込むオフィス、気密性がいいのか、外界の音はほとんど入ってこない。だから、カオスが黙りこくると、しぃんと静まり返る。それが少しの緊張感も呼び寄せた。

 だが、カオスはもう口を開かなかった。少し困ったような目を、ヴィンセントに向ける。ヴィンセントもしばらくは黙っていたが、

「……もうしばらく、こちらに残る用事が出来たようだ」

 低い声で言った。カオスは俯いて、唇を空虚に微笑ませる。クラウドの物問いたげな視線を、ヴィンセントは飲み込んで、しかし答えはしない。俺はと言えば、街の妙な雰囲気とカイナッツォのあの態度に、また厄介事が舞い降りたと苦い気持ちになる。それがヴィンセントに絡んだものではないようだということだけ、心は安らいだが。

「何を……、すればいいんだ?」

「何も」

 カオスは短く答える。

「何もしなくていい。ただ、この世界に……、出来ればこの城の中に、しばらくいて欲しい」

「何だそれ」

「……それ以外は、何も君らに迷惑をかけるようなことはしない。クラウドの学校の授業にも差し支えがないようにする。だから、……ただ、しばらく、こっちにいて欲しい」

 断片的な欲求のみを渡されて、判断はつきかねる。ただ、ヴィンセントはカオスの側に立って話をする姿勢だ。ヴィンセントがそうである以上、俺もクラウドも顔を見合わせて、困惑したまま頷くほか、ないのである。

「……しばらくって、どれくらいだよ」

「そう、長くはかからない……、と私は思っている」

 理由も根拠もさっぱり意味の判らぬヴィンセントの言葉だ。ただ、カオスの言葉の歯切れの悪さから、俺にも拾える幾つかのものがある。いつでも悠然、余裕綽々のカオスが、どこか今、妙だということは判る。ひょっとしたら昨夜の乱暴なやり方はストレスの発露だったのではないかと思う。その相手に俺たちを択んだというのは全く解せないというか失礼な話ではあるのだが。

「迷惑は、かけないから。ちゃんと美味しいご飯を用意する、寝心地のいいベッドも。もう昨夜みたいなことはしないよ、大丈夫、約束する。だから」

「どうして?」

 クラウドがごくあっさりと、疑問を呈した。

「何で?俺たち、戦ったりとかしなくていいのに、何でこっち残らなきゃいけないの?」

 カオスがまた、ヴィンセントを見た。ヴィンセントは口を噤み、クラウドの顔を見る。まるでクラウドの顔に答えが書いてあるみたいだ。

「……複雑な……、とても複雑な事情がある。一から十まで話すのは大変だ。ただ言えるのは」

 カオスはずっと、ヴィンセントを見ている。ヴィンセントは意を決したように言った。

「カオスは私たちに迷惑をかけぬと言った。全能の魔王がそう言ったのだから、信じていいのではないか」

 問いを、スウェイバックで交わしたように見える。そう答えてすぐに、ヴィンセントはクラウドから目線を切った。それでは子供、納得しないだろう。ヴィンセントは何かを隠している。それが何かは知らないが、恐らくは相当に重要なことを。

「五時か。風呂の支度が出来ている、入りに行こう」

 そして、ヴィンセントは唐突に話を打ち切った。クラウドを抱き上げて立ち上がる。当然、俺もついていく。オフィスからエレベーター、ヴィンセントは慣れた手付きで一つ下のフロアを択ぶ。エレベーターのドアの隙間からちらり見えたカオスは、唇を噛んで俯いている。ヴィンセントがどんなに悩んだって見せることのないような、苦しげな表情を浮かべていた。

 すぐに着く、一つ下のフロア、ドアが開くとそこが玄関、さっきまで俺たちのいた高級ホテルの一室、よりもさらに豪華な作り。

「普段はカオスが昼寝をしたり稚児を呼んだりするための部屋だ。私たちのために特別に貸してくれた。……ここの風呂は広いぞ、景色もいい」

 ヴィンセントは言いながら、奥へ歩く。十畳ほどはあるリビングには、座り心地のよさそうなソファ。奥にはツインのベッドが見える。例えばここで、或いはあそこで、カオスは稚児に色いろなことをするのだろうか。部屋には、いつのまにか、俺たちの世界に置きっぱなしのはずの数々の生活必需品が揃っている。クラウドの勉強用のノートや教科書、着替え、バスタオル、洗面所の開きには歯ブラシもある。広すぎると言っていいような浴室のシャンプーと石鹸の銘柄も、俺たちが家で普段使っているもので、入浴剤の匂いまで同じだった。

 クラウドは服を脱がすと、さっさと窓にへばり付いて、外の景色に目を丸くしている。地上二十階の展望風呂だ。

「バルバリシアと、一緒に行動してたってカイナッツォが言ってたぞ」

「……、事実だ。一昼夜彼女と共にいた。だが、……別に妙なことをしていたわけではない、仕事だ」

「誰も浮気の心配なんかするもんか。でも、……何をしてたかくらい教えてくれたっていいだろう」

「……じき、判ることだ」

 ヴィンセントはシャツを脱ぐ。見慣れた上体、男の裸、大好きなもの。

「……俺にも言えないのか」

 ヴィンセントは「……すまない」一言低く、ただそれだけ。胸はざわつくが、恋人の隠そうとしているものを穿り返すのがいいこととも思わない。そして、誰より一番信用出来る人が言っているのだ。

「……判ったよ」

 身長と体重のバランスのせいで、俺より少しでも細いように見える。でも、その胸の寝心地は安らぐ。

 俺の頭を撫ぜて、首を屈めてキスをしてくれる。しょうがない、うん、信じるほか、ない。いまはとりあえず、ちゃんと戻ってきてくれて、広い広いバスルームが俺たちには解放されている。

「……怖くないのか?」

 クラウドの傍らに言って、彼も外を見る。俺も寄って見る。脚下に見下ろす街並み、遥か西空には赤々と人造太陽。

「うん。すっごい……、とおおおくの方まで見えるよ」

 魔界は俺たちの住む宇宙の外。その広さがどれくらいか、宇宙の隅々まで生きている内に行くのだって無理なのだから、その数字を知りたいとは思わない。が、途方もなく広々とした空である。と言って、都会のタワーから見る景色とそう差もなかろうと思うけれど。

「とりあえず身体を洗って入ろう。こんな広い風呂はウータイ以来だ」

 広さだけなら大浴場。しかし入る人間なんてせいぜい二人が想定の範囲内、だろうから、鏡と蛇口はワンセットしかない。だから広い中で三人せせこましく集まって身体を洗うことになる。もっとも、普段どおりの入浴スタイルで、悪い気がするはずもない。蛇足ながら、クラウドが小さな尻を載せる丸い腰掛も、決して凹型の面妖なものではなく、変哲のないプラスチック製のものだ。これまた蛇足だが、クラウドの裸の尻がちょこんとそういうものに乗っているさまは、やっぱり可愛い。クラウドの尻というのはヴィンセントと俺の護るべきもの、護らなければならぬものであって、そこにはうにうに動く触手なんて入ってはいけないのだ。

 身体、綺麗に流して、慣れた匂いの湯に浸かる。クラウドは早速すいすいと泳ぎだす。あまりスマートとは言えない。手も足も猫なものだから、水を上手にかくことが出来ないので、実際には「すいすい」というよりは「ばしゃばしゃ」になる。

「しばらく」

 その水音に潜む声で、ヴィンセントは言う。

「……しばらく、こっちの世界に逗留することになる。その『しばらく』の長からんことを、私も、カオスも、望んでいる。……が」

 何があったか教えてもらえない一方で、そういう苦しい情報だけは入ってくるのは、なんとも辛いところだ。

「……少なからずの痛みを伴う形で、……ただあの子の涙だけは、どうにか回避して、戻りたい」

 クラウド、壁に掴まってバタ足、ばしゃばしゃばしゃ。

「長引くようなことなのか。……きついことなのか」

 ヴィンセントは頷かなかった。否定もしなかった。それだけで、何だかもう、十分すぎるような気のしている俺だった。


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