結構派手な物音がして、俺は目を覚ました。本の山が一つ崩れたらしい。
舌打ちをして俺が立ち上がり、スタンドの明かりを点すと、毛布を頭まで被ったクラウドが呻き声と共に目を覚ました。
「ん……んにゃ……?」
「……」
「にゃ……にも……みえ、にゃい……??」
俺はさっさと山を元の形に戻し、毛布の中頭と手をもぞもぞ動かして、俺を探してるクラウドのトコロに戻った。
「……にゃ……の、にゃ……にゃ?」
いつもよりも六割り増しで舌が足りてない。
「何でもない。寝ろ」
「……ん、にゃ」
俺がまた身体を横たえて、頭をそっと包み込んでやると、また素直に眠りに落ちた。
「……めむい……」
昼過ぎ。パジャマ姿でふらふらと書庫にさ迷ってきたクラウドは、いまだとろんとした目で。一番眠りが深い時間帯に、短時間にしろ起こされたのだから無理はない。
「寝てていいよ」
俺の言葉に、こくんと頷いて、またふらふらと微妙な平衡感覚で自分のベッドに戻っていく。危なっかしいので、途中から抱き上げて、毛布に包んでやった。
今朝改めて見た限りでは、崩れた本の山は一つではなく三つ。その他、ずーっと置きっぱなしになっていた宝条の試験管数本が机から落ちて粉々になっていた。目が覚めたのは、本の音ではなく、ガラスの音のせいだったようだ。
クラウドが毛布を頭から被っていてくれたのは幸運だった。もしも試験管が盛大に割れた音を直に耳にしていたら、吃驚して大泣きしていたことだろう。
「……しかし……地震でもあったのかな」
……この地下室も、ちゃんと片付けないといけないかもしれない。俺はともかく、クラウドに何かあったら困る。上から降ってきた本の角に頭をぶつけたり、ガラスの破片でどこかを切ったり。
ふと、何の躊躇いもなくクラウドのことがすぐに頭に浮かんだ自分を誉めてやりたくなる。
自己中でここに来たのに、気付けば自分以外の誰かの方がイトシイ、なんて。愛する人、か。人……猫、か? でも、どちらにしろ。
不精の賜で、ここまでバランスの悪い本の山やら、試験管立ての積み木の城やらが出来てしまっていた。
――もっとも、後者は宝条が片付けていない物だが。
だとすると、かれこれ5年は誰も片付けてはいないことになる、この部屋。
と。
「……誰だ?」
呼び鈴が、鳴っている。
俺はクラウドのネコミミほど耳がいいわけではないが、それでも微かに、一階のエントランスホールに響く呼び鈴の音は耳に届く。
……さては、この間の風呂の時のクラウドの悲鳴を聞きとがめられたか。だとしたら、厄介だ。
「……う、にゃ……?」
薄っすらと目を開けて、こちらを見ているクラウド。
「何でもないよ、寝てろ」
俺はとりあえず、人に会える程度の服に着替え、急いで螺旋階段を上がっていった。
「うるさいな……」
俺がホールに足を踏み入れても、飽かず呼び鈴は鳴り続けている。いっそ居留守を使ってやってもいいのだが、それにしても、神経に障る音、早く留めた方が精神衛生上いい。
「……はい、どなた?」
ガチャリ、と扉を開ける。その戸口から三日ぶりに太陽の光が差し込んだ。逆光に、戸口の人間の黒い輪郭がくっきりと浮かび上がる。
俺がその顔を確認しようと目を細めた瞬間だった。
「……ここで、何を、している」
低い、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
聞き慣れた声――が、一瞬、俺はその声が誰の声だったか、解からなかった。本人が聞いたら、さぞや憤慨するだろう。
「……どれだけ探したと思っているのだ、クラウド」
「……ヴィンセント!?」
その、疲労と苛立ちとを混ぜこぜにしたような……ヴィンセント、ヴィンセント=ヴァレンタインの声に、俺は背筋が凍り付いた。
ばたん、と扉が閉められ、薄暗い中紅い瞳と相対する。
……やばい。
俺は咄嗟に、いくつもの言い訳の言葉を思い付いたが、気が動転して、上手く唇が動かない。ぱくぱく、金魚になったようだ。ヴィンセントは俺の慌ててる様子を見て、不機嫌そうに手を伸ばし俺の顎を掴み、乱暴に唇を重ねてきた。
「んっ、んんんっ」
腕を突っ張って、その胸から逃れようとしたが、ヴィンセントは俺をぐっと抱きしめて、貪るように口付けてくる。滅多なことでは怒らない人が怒ってる、俺の頭は完全パニック状態だ。
まさか、ヴィンセントがここに来るとは思ってなかった
――というより、ヴィンセントの存在自体が俺の頭から欠け落ちていたから。
忘れていたわけではない、決してない。今も変わらず心の底から、求める相手、ヴィンセント、なのに。
「何故、何も言わず出ていった。……書き置きもせずにお前は」
俺は、ヴィンセントの、恋人だった。
いや、過去形ではなく、現在進行形で、恋人だ。
「どれだけ心配したと思っているんだ。……自殺でもしたのではないかと――心配したぞ」
俺はヴィンセントの腕の中から抜け出すと、もう、謝るしかなかった。で、あわよくば、今日のところはここから早いところ帰って頂きたい。
猫クラウドのコトがバレたら……。
やばいどころではないだろう事は明白である。
「……その……調べものに……。……勝手にいなくなったりして、ごめんなさい。悪かった。許してくれ」
「……三ヶ月も、か?」
「……そうなんだ。……その……本がたくさん有り過ぎて、まだ調べがつかないんだ」
「……なら、何故私を呼ばない? そんな事なら、私を呼べばよかったのだ。そうすれば、こんなに心配などしない、誰にも迷惑はかからない。全く、ティファやシドにまで連絡を入れてしまったぞ? 皆、本気で心配していた」
「ごめん……本当に、悪気があってのことじゃないんだ。ただ、俺ひとりで調べたくて……」
半分本当、半分大嘘。
「しょうがない奴だ」
緩く長い溜め息と混じった声。とりあえず、ヴィンセントは許してくれたらしい。
「解決したら、帰るから……ヴィンセント、家で待っててくれないか? それまで……。一週間に一度は、必ず連絡する。だから……勝手だけど、許してくれないか?」
「……」
俺の言葉に、ヴィンセントは目をすっと細めるともう一度抱きしめてきた。
「え? ……って、ヴィン、ちょっと……」
「馬鹿……どれだけ気を揉んだと思っている」
「ヴィンセント……」
ヴィンセントは俺の上着の裾から冷たい手を入れて、腹を、胸を、その手のひらで撫でてくる。
確かめるように。
久し振りの感覚に、俺は思わず微かに震え、甘い声が口から漏れるのを抑えられない。
「ふ……ぅ……」
俺のその声に気をよくしたか、ヴィンセントは耳朶を舌で味わい、首筋にキスをし、手で間断なく乳首を弄って来る。
やばい俺、すごくすごく流されそう。久しぶりの優しい愛しい手、細い指。俺を一番大切に考えてくれる人の、静かな穏やかな指。
「ん……っ……ぅ……ッ」
シャツの前を広げられ、ズボンのベルトは気付けば外されている。立ったままは、膝がガクガク震えて、相当辛いものがある。
ヴィンセントは俺のジッパーを下ろし、トランクスをずり下げると、困ったことに抗えず立ってしまった俺自身に触れる。
「……お前は、もう少し自覚した方がいい。お前が如何に危うい存在であるかをな」
俺は耐え切れず、ヴィンセントにしがみ付いた。ヴィンセントはそっと笑い、俺の唇に自分の指を押し当ててきた。
俺が反射的にそれを舐めて濡らすと、俺の後ろにその指を移す。
「ん、っ……」
長いこと、何者も受け付けることがなかったそこはその刺激に、俺の意志に反してひくひくと戦慄いてヴィンセントの指を拒絶する。
「……痛かったら……やめておくが」
俺はぐんと強く締め付けながら首を横に振った。
ヴィンセントは、そうか、と笑い、ずぶずぶと俺の中に指を差し込んで来る。
「あっ、っく」
痛い。
暫く、入れていなかったから……。
「キツイな……力を抜け、辛いだろうが」
「無理、……はあっ、あ」
痛いけれど、俺自身は思いっきり硬くなっていて。ヴィンセントの首に手を回し、快感を請う。ヴィンセントは苦笑して、自分のを取り出し、指一本でも悲鳴を上げる俺の後ろに挿入した。
「あああっ」
熱いものが突き入れられるその言いようのない良さに、俺は甘い声を上げ、両手両足総動員でヴィンセントにしがみ付いた。重力に圧し掛かられて、俺は奥の奥までヴィンセントを味わう羽目になる。
甘い、喉が痛い、切ない、……嬉しい。
「愛してる。愛してるよ……、クラウド、愛してる」
「んっ……、愛してる、俺もっ、あんたのこと愛してる……」
俺を撫でる指が、嬉しい。
「無事が確認できれば、それでいい」
事を終えるとヴィンセントは、服を着て言った。
もう、窓から差し込む光はオレンジ色に変わっていた。
「……いなくなる時は、必ず私に断ってからいなくなれ。旅先からは、必ず週に一度以上、連絡を寄越せ。……お前の精神バランスの悪さはメテオ以降の一件で証明済みだからな、その辺の事を理解しておけ」
「ああ……ごめん。気を付けるよ」
「……それじゃあ、身体に気を付けろ。なるべく早く帰ってこい……」
「解かった。……どうした?」
「……」
ふっと彼は笑い、もう一度抱きしめてきた。
「……え……?」
「生きていてくれてよかった。お前が生きていてくれて、よかった」
「ん……、俺も、寂しかったよ、ほんとうは」
本当に、嘘じゃない、嘘じゃないってば。
「そうか……」
「ああ。一人は、寂しい」
ヴィンセントは静かに笑い、
「……ほんとうに?」
正直、びくりと身体が震えるのを抑えるのに、どれだけ苦労が要ったことだろう。
努力と根性で、それを抑えると、俺は平静を保って言った。
「ああ、ほんとうに寂しい。あんたに会えてよかったよ」
ヴィンセントはきゅっと俺を抱きしめて、そして離した。
「それじゃあ」
俺が言うと、何か言い足りないような様子で、ヴィンセントもそれじゃあ、と言い、扉から出ていった。
俺は、安堵のあまり、大きく、大きく息をつき、脱力して座り込んだ。
「……遅いー」
クラウドは、俺が帰って来るのをひとり寂しく待っていたらしい。モンスターと鉢合わせられたら怖いので、地下書庫の扉には鍵をかけているのだ。
「ごめんな。待たせて。……いま、ゴハン作ってやるから、少し待ってて」
「んー」
頷く。 素直で、本当にいい子だと思う。
十三歳……にしては、少し、いや、大いにコドモっぽい彼だが、可愛くていい。
これがホンモノの「十三歳バージョンクラウド=ストライフ」だったら、こんなにカワイイなんて思えないだろう。我ながら情けない気もする。それでも可愛がってくれた、ザックスとセフィロスに心から感謝しないわけにはいかない。
俺が、部屋の片隅にあるガスコンロで、水をたっぷり入れた鍋を火にかけ、冷蔵庫の中から適当に食材を選んで、まな板なんて持ち出して、切っていく。
今夜のオカズは何にしようか。
久しぶりにクラウドの好きな魚料理にしてやることは決めたが、魚の何にしよう。煮魚とか焼き魚は骨抜きが面倒くさいから、とすると刺し身か。でも買ってないしな。フライにしようかな。
最近、野菜も不足がちだ。温めの野菜スープ作って、飲ませてやろう。
クラウド、人参嫌いだから、細かく切って解らないようにしないと……。
「クラウド、すぐ出来るから、待ってろよ?」
俺が、エプロンを取りにクラウドのところに戻ったところだ。
「…………何を考えているのだ、お前は」
百種類くらいの感情を全て押し殺して、無表情な目で俺に言い放つヴィンセントが手術台に座り、膝の上に猫の俺を乗せて耳を撫でている現場に遭遇したのは。
「う……ああ……?」
俺はまたグゲるかと思った。 いっそ、グゲってしまった方が楽だ。
……けれど、そうそうグゲってばかりもいられない。
「……一から説明してもらおう」
馬鹿のように立ち尽くす俺に、ヴィンセントは平たい声で訊ねる。
「……これは何だ、お前は何を考えてる?」
ぐるぐると、クラウドはヴィンセントに撫でられて喉を鳴らしている。
「ねぇ、ザックス、このひと、ザックスのお友達?」
「う……ああ……?」
止めの一言。『ザックス』の名に、ヴィンセントはさらに感情を無くしたようになる。
やっぱり、グゲっていた方が楽かもしれない。
「……何とか言ったらどうだ」
沈黙の時間が長い。俺はびくびくと、言い訳を探すが、……思い付くはずも無く。
怒ったことの無いくらい、怒るのが珍しい人だから、本当に怖い。
全てに弁解の余地はない。偶然にしろ、産み出してしまったものは消せないのだから。
「……落ち着いて聴いてくれ」
「努力はしよう」
「……馬鹿者……」
俺の話の間、クラウドはヴィンセントの膝から下りて毛布に包まったり、ちりちりと自分で鈴を鳴らして遊んだり、ボールを引っ張り出して転げまわったり。
どっかに頭でもぶつけるんじゃないかと、気が気でない。
途中から、俺の隣に座らせて、落ち着かせる。
「だから、故意だった訳じゃない。……偶然……なんだ。コイツが、生まれてきてしまったのは……」
真面目な話をしてる真っ最中に、クラウドはうにゅぅと甘え鳴きして、俺の頬っぺたにキスをして来た。
ぴしっとヴィンセントが凍り付く。
「お、落ち着けって、まだ、コドモなんだから」
「……解かっている」
「ねえ……ザックスぅ、……遊んでよう……、いつもみたくしてよぅ……」
「……ばっ、馬鹿、っ、こんな時にっ」
昨日一昨日の夜、ほったらかしにしてしまった俺に、容赦なくクラウドはパジャマの中で自己主張する彼自身を摺り寄せて来る。
「…………」
ヴィンセントは銃を取り出しかねない。クラウドに対して、というより、俺に対して。
「なるほどな」
そう、呟く。
「ねぇ、ザックスぅ……っ、んん〜っ」
キスをして俺の腰に擦り付けて快感を求めて来るクラウドと、俺の異常な浮気に完全にキレかけているヴィンセントと、馬鹿で阿呆で間抜けで変態な俺。
「……助けてくれ」
まず、何から片付ければいいか、それすら解からなかった。
「ええ……その……」
「してやればいいではないか、『ザックス』」
「……!」
無慈悲な一言。けれど、傷ついたり怒ったりできるような立場じゃないことは重々承知している。
「ごめん……すぐ、済むから」
「構わんぞ、別にすぐでなくとも」
「…………!」
くり返し、自分本位なリアクションを出来た立場じゃない。
ヴィンセントはふんと鼻を鳴らして、書庫の奥に行った。
怒ってた、物凄く、怒っていた。目が怖かった。
「ざ、っくす……ねぇ、早く……」
そして、寂しがって、悲しんで、いるように見えた。
クラウドは濡れた目で俺を見上げて、少し上がった息で名を呼んで来る。
はぁあ、と大きく溜め息を吐いて、俺はクラウドのズボンを脱がせ、その下半身に顔を埋めた。
「んっ、んっん……っ」
もう、訳が分からない。ちらり、と書庫の方を見ると――無表情でヴィンセントがこっちを見ていて、くるりと背を向けた。
「はあっ、ん、あっ、やああ……」
俺の彼氏がすぐ側にいることにも気付いていないクラウドは、遠慮無く喘ぎ続ける。
とりあえず、早くいかせてやろう。俺の方が耐えられない、恥ずかしくて、怖い。
「やっ、ああ、っ、もう、出ちゃぅ、っ」
「いいよ……早く、いけ」
「ああん」
相当に悲しい思いで、俺はクラウドのそれに言った。応ずるが如く、クラウドは俺の口に白いのを放った。
ちらり、横目で見ると、物凄く冷たい背中のヴィンセント。
「……さぁ、クラウド、もういいだろ? 服を着て……」
俺が言うと、クラウドは荒く息を吐きながら、首をふるふると振った。
「……や、……っ、……ザックスも、いっしょに、いくの……。俺、ひとりなんて、やだ」
「そんな……駄々こねないでくれよ」
普段だったら、こんな嬉しい台詞はないだろう。
けれど、今日に限って、ヴィンセントがすぐ側にいる訳で。
「やあっ、一緒がいいっ」
…………。
それは、お前自身が後ろに欲しいからじゃないのか?
……どうでもいいこと。俺の精神がそんなに強い方じゃないことを、きっとクラウドは知っててこうい
うことをするのだろう。ある種、自分と同じ構造なわけで、そのあたりは勝手知ったる――。
都合のいい解釈というやつだ。流されやすい自分に対しての言い訳。
頭痛を感じた。クラウドは、俺を受け容れようと、尻をこちらに向け、待っている。蕾が誘うようにひくついている。
「ねぇ……ザックスぅ」
自分の声で脳味噌が蕩ける。 誰に言われるまでもなく、異常なのはよく解る。
「……っんああ、あああ」
気付けば、俺はヴィンセントの存在を認知しつつも、クラウドの中に自分を押し入れていた。
「……それで」
クラウドを手術台に寝かせて、俺たちは書庫の部屋の隅と隅で、再び相対した。
俺の身体は押し潰されそうな程の疲労でいっぱいだ。しかも、都合の悪いことに、遅れて発露する理性――恥ずかしくて恥ずかしくて仕方が無い。
ヴィンセントは、もう全ての色を喪ったかのように平たい表情と声で。
「……体の良いダッチワイフに使っているわけだ」
「な……っ」
「違うか? ……産み出してしまったのは仕方ないとしても、だ。あんな風に、猥褻な事を覚え込ませたのはお前だろう。最初にどんな大義名分があったか大体想像はつくが――違うか? 『ザックス』」
そう言われると、反抗の余地はあっても気力が無くなってしまう。
寧ろ、クラウドの性欲の処理に使われているのは俺の方なのだが、確かにいつそれが逆転するとも限らない。事実、クラウドの声だけで、何気ない仕種だけで、俺の中枢神経は痺れてしまうし、今ではクラウドの『ザックス』で居られることが、幸せだとすら感じられる。
けれどそれは、「クラウドに『ザックス』の存在を与えられる」という故ではなく、自分にとってクラウドが堪らなく心地よい存在であるから故。
……そう考えると、俺は。
「…………」
俺と同じ空間にいる、もうひとりの俺。
それを愛しく思わないなら、産み出してしまったこと自体が罪。
「……なら、どうしろと。……あいつを……殺せと?」
苦しい息で、俺はようやく言った。酷く生々しい言葉、ぞっと、背中が凍り付く。
口に出して、その言葉自体がクラウドの細い首を絞めて殺してしまいそうで、俺は後悔した。
「……」
無言で、ヴィンセントは俺を真っ直ぐに見ている。その白い表情の中、いくつもの、俺にとっては決して有り難くない感情が交叉して、混ざり合って、俺を責めている様子が分かる。
彼は、怒っている。
俺が馬鹿で、裏切ったから。
「馬鹿者」
「……解かってる」
「解かってなどいるものか。お前は何も、何一つとして、解かってなどいない」
「……解かってる。これが――あんたと同じ――俺の罪だ」
「…………」
罪、という言葉に、ヴィンセントが初めて表情を動かした。唇に冷たい微笑が浮かぶ。
「……罪だと言うなら、どう償うつもりだ。……あれを、殺すのか? ……お前がそれで償いになると思うなら、構わん、お前が手を下すまでもない、私が銃弾を射ち込んでやろう」
「…………」
「……それとも、他に償いの方法があるのか?」
「…………」
「何とか言ったらどうだ?」
「…………」
俺が何も言えないでいると、ヴィンセントは銃を取り出して、かつん、と死神のような硬い靴音を立て、手術台へと歩み始めた。俺は慌てて立ち上がり、その身体を止める。
「待って……待ってくれ」
「……償いたいのだろう、お前は」
冷たく言う彼に、俺は首を振った。
「違う、嫌だ、殺すなんて嫌だっ」
「……」
ふう、と小さく息を吐くと銃を仕舞い、ヴィンセントは呆れたように笑った。
「……何も泣くことはないだろう」
「泣いてないっ」
ただ、一瞬涙がじわっと浮かんできたのは否めない。
「……そんなに、あれが愛しいか」
どきどきと高鳴る鼓動。
予想以上に俺の中を、クラウドが占めていたことに気付く。喪われかけた部分が、再び息衝いた。胸が痛い。
「見くびられたものだ、私も」
ヴィンセントは遠い目で俺を見た。
「……お前は馬鹿だ。繰り返すまでもないが、馬鹿者だ。前々から思っていたが、お前の馬鹿は、きっと死んでも治らない――が、お前は死なないから、永遠に馬鹿なままだ」
「……」
「……だから、私がいるのではないか?」
「……」
自嘲的な笑み、口元にたたえて、ヴィンセントは座り込んだ俺を見下ろして。
……その背中に、悪魔の翼が生えているのに気付いたのは、その時だった。
「損な役回りを押し付けられたものだ。これを『償い』と呼べと?」
「ヴィンセント?」
「これだけは否定できない事実。お前よりも、私の方が、あの猫に近い」
ふっと笑う。
「……何の為に、私がいる。考えてもみろ」
「ヴィンセント?」
「全く、シャツを一枚損した。思い付きで変身するな、ということだな」
背中、翼を出したせいで、彼のシャツは二ヵ所大きな穴が開いてしまった。
「誰が、お前の愛しい者を殺したりなどするものか。お前は私に罪を犯させるのがそんなに楽しいのか」
呵責の素振りを一切取り払い、ヴィンセントは、俺を立ち上がらせると、耳元で囁く。
「……嫉妬深いからな、私は」
ついでにキスをされて、俺はひくっと震えた。いった直後のくせに。
「君のことを愛してる。君のことをを愛した分だけ、僕は君を愛してる」
優しく、そして、キス、そして、抱きしめて。
「……」
「……私は、お前を幸せにするために、生きているのだ。お前がお前の分身と居て、幸せだと思えるなら、最高だと思うが。……それが私の幸せにもつながっているわけであるし」
俺も、ヴィンセントを抱きしめ返した。
「……ごめん」
「何故謝る」
「ん……、俺も、愛してるよ、……ヴィンセント」
「……ああ」
「愛してる。愛させて」
「……半分は、あの仔猫に注いでやれ」
最高。
かくして、物語は始まった。