アドニス

「私たちがいつも、『ラムコーク』と言っているあれ。ホワイトラムとコカコーラに、ライムを絞っただけの簡単なカクテルの本当の名前は、『キューバ・リバー』と言うのだ。これはまあ、説明する必要も無い事だな。

キューバ・リバーの『リバー』は河川を意味する『river』ではない。キューバ・リバーは『CUBA LIBRE(クバ・リブレ)』ともいわれ、その名の意味するところは『自由の国キューバ、万歳』というものなのだ。というのも、この酒は今から丁度100年前の西暦1902年に勃発したキューバ独立戦争時に、独立

戦線を支援した米軍兵がラムにコーラを落としたら美味かったという偶然から作られたものだからだ。それゆえに、この甘くふくよかな香りを抱きながらも舌に軽やかな刺激を与えるカクテルは、キューバの自由を謳う名を冠しているのだな。

 ラムコークという呼称は、言ってみれば俗称、即物的な印象を受ける。正式な名前でもない。単に、材料の名前を二つ繋げただけのものだ。 だから、のバーや大衆居酒屋のメニューには『キューバ・リバー』と書かれているのがふつうだ。ラムコークでも意味は伝わる、しかし、正式名称を、形式を、重んじる風潮からか、そう書かれる事が多い。ラムコークをラムコークと書く事に何ら問題はないだろうに。

 これはラムコークだ、簡単なカクテル、シェイカーもいらない、グラスで直接作る事が出来る。若い頃は……タークスにいたころも、よくこれを飲んだ。仲間とこれを飲むとき、私たちは決して『キューバ・リバー』なんて名前は使わなかったな。そう、いつだってこれは『ラムコーク』だ。即物的かもしれない、けれどな。 酒を飲むときに必要なのは、形式なんかよりも、親しい友だと、私は思うのだ」

 ……ヴィンセントはそして、ライムを落としたタンブラーにクリアな氷を三個重ね、ホワイトラムを、そして冷蔵庫で夕方からよく冷やしておいたコーラを注ぎ、俺たちの前に出した。クラウドはもちろんだが、俺のも、ラムの量はかなり抑えてある。酒にはそう強くない体質だ。

「バーで飲み潰れるほど、みっともないことはないからな」

 ヴィンセントは言う、彼はアルコールには強い。

 ストローでちううと吸うクラウドの頬は、すぐにピンク色に染まる。大人の味のコーラを、ちゃんと味わえてはいるだろうか? クラウドの肉体は十二歳から十四歳、だけど酒という、彼自身に次ぐ甘露を永遠に味わえないというのは余りにも可哀相。ちょっとだけ、なら、きっと問題はないはず。二日酔いにならない程度、になら。実際、またたびは彼にとって酒も同然だし、まあ、似たようなものだろう。淫乱になるかならないかの差。

「美味いか?」

「んー、美味しいよ」

「そうか。……まあ、お前には甘いカクテルの方があっているだろうな」

 ヴィンセントは酒に関しては辛党、甘いのも好きだろうけど、やっぱりイメージ的に、彼には辛い酒の方が似合っているような気がする。いくら飲んでも顔に出ない。「なかが、酔うんだよ」、昔の小説にあった科白を引用して、俺をすごく綺麗な目で見たりする。俺はラムコーク一杯で、もう喉が熱い。クラウドはもっと、赤い。

「では、甘いのを拵えてやろう、ザックス、お前には中辛口のを、そして私には辛口のを」

 そう言ってヴィンセントが作りはじめたのは、カクテルの王様とも、最高傑作とも言われるもの、透明があくまでも清冽な、マティーニだ。

「……マティーニは、時代の流れに伴う人々の嗜好の変化を大きく受けたカクテルの一つだ。この、ジンとベルモットだけで作られるカクテルはそのシンプルさゆえに、それぞれの量の差で味が大きく変わる。本来はスイートベルモットを使った中甘口のものが主流だったものが、時代とともにドライベルモットを

用いるようになり、味もドライへドライへと流れていった。……時流に迎合する訳ではないが、私も割に、ドライの方が好みだな。マティーニの中に入れるオリーブをパールオニオンに変えれば『ギブソン』というカクテルになるが、こちらはさらに辛口なレシピが一般的だ。

 辛口マティーニにまつわる有名な逸話をいくつか。

 マティーニは単純構造ゆえに、二百を超える種類のレシピがある、辛口に関しては、エクストラ・ドライ・マティーニ……、ジンの割合を通常の倍にした超辛口のものが最たるものだ。しかし、それではまだ満足できない男もいた、かのチャーチルがそうだ。

 彼のマティーニの飲み方はこうだ。まず、カクテルグラスにジンを注ぎ、そばにベルモットの空き瓶を置き、それを眺めながら……飲むのだ。一滴のベルモットも入っていない、要はただのジンのストレートなのだが……、辛口嗜好もここまで来ると、どこかすさまじい物を感じてしまうな」

 口上を述べて、ヴィンセントは三種類のマティーニを作って見せた。どれも、液色は透明、中に本来入るはずのスタッフドオリーブは省略されている。これは単純に、近くのスーパーで品切れだったというだけのこと。細かい事にこだわる必要はない、王は寛容だ。

「クラウドのグラスは甘口、ザックスのは中甘口、私のは辛口だ。どれも同じ名前のカクテル、中に入っているものも同じなのに、ここまで味を変える事が出来る。……カクテルの中でもとりわけこのマティーニには、なにか不思議な魔力のようなものが備わっているようだな」

 カクテルグラスにストローを差して、クラウドは一口吸って、こくんと飲み込んで、んっと目を閉じた。

「……甘くしたつもりだったが、まだ辛かったかな」

「にゃう……うぅん、でも、……ん、おいしいよ……」

「そうか……。舌が大人なのだな、クラウドは」

 中甘口と言われて渡された俺のは、勿論、十分に辛くて。ヴィンセントが顔色一つ変えずに飲んだグラスは、一体どんな味なのかと思ってしまう。

「チャーチルの逸話のそれほどではないが、現実的にとてつもなく辛く、しかし間違いなく『マティーニ』と呼ぶ事が出来るものもある。まず、ミキシンググラスの中に氷とベルモットのみを入れ……、つまりこの段階では主役であるジンを入れずに……、ステアする。そうしたら中のベルモットを捨て、香りの残るグラスにジンを入れてステアし、グラスに移し替えるのだ。ベルモットをスプレーするというやり方もあるが……、いずれも味の方はかなり刺激的であることに間違いない。狂気の沙汰、と評する口の悪い輩も居るがもっとも、酒というのは人が自ら狂気になるために、飲むためのものなのだから構うまい」

 ヴィンセントが何をやらしても器用なのは今更書く必要もない事だ。

 だけど、このカクテルを作る腕は凄いと思う。コーヒーを美味しく入れるのもすごい上手だし、どこからか取り寄せる紅茶はうっとりするほどいい香りがする。煙草を吸うのも上手……煙草に上手もへたも無いけど、すごく決まるし、カッコイイ。何ていうかこう、彼は、「カッコイイ要素」をその細身に一杯イッパイ詰め込んでいるようにみえるのだ。

 羨ましい。

 だけど妬ましいとは思わないな。だって、だからというわけではなくとも、好きなのだから。

 いま、こんなふうに、ソファで向かい合って座って、彼は普段着で、俺も普段着で、クラウドなんかパジャマなのに、ここはまるで都会の片隅のバーみたいだ。ヴィンセントが淡々と作るカクテルと、その軽やかな舌が、そんな空間を作り出しているのだ。聞こえてこないのに、ジャズが耳元で鳴っている。

「うなあ……ぁん」

 クラウドが、赤ら顔で大きな欠伸をした。目が潤んでぽやんとしている、耳が少し垂れている。

「……眠そうだな」

「にゃ……んんにゃあ」

「では、最後のカクテルにしようか」

 彼は立ち上がり、ドライシェリーとオレンジビターズを手に戻ってくる。

「やや辛口だが、気に入ってもらえると思う。……本日最後のカクテルは、私の愛しい、お前に捧げよう」

 気障にそう言っても、「気障」という字面にあわず、決して気に障らない。羨ましいなと思う。俺がいったら鼻で笑われるか口を歪めて「ヘッ」とか言われてしまうはずだ。

 ミキシンググラスでドライシェリー、スイートベルモット、オレンジビターズを手早くステアし、黄金色のカクテルをグラスに注いだ。

「本来はアペリティフ……、つまり食前酒としての評価が高い酒だが、まあ、ナイトキャップにならん事もなかろう。……アドニス……、美少年、という名の酒だ。色といい名前といい……、クラウド、お前にぴったりだろう?」

「う」

 ちょっと目が覚めたように、クラウドは目をぱちくりさせる。

「俺、びしょうねん、なんかじゃないもん……、そんな、見た目にとりえないし」

 猫耳尻尾は取り柄でなくてなんだろう。

 ヴィンセントは甘く微笑んでカクテルをクラウドの前に置く。

「私にとって、このカクテルの名は、お前でもいいのだ。クラウド、お前という名の酒だ。……私にとって美少年とは、たった一人しかいないのだから」

「……」

 酒とはあまり関係ないだろう、クラウドの頬は紅潮した。謙遜してても、やっぱり褒められると嬉しいというのが人情。誤魔化すように、ストローに吸い付いた。ちょっと苦い、ちょっと辛い、だけどちょっと甘い、味に、少し酒を解りはじめたか、クラウドは目を閉じて、身を委ねているようだ。

 

 

 

 クラウドはベッドに入るとすぐ、すうすうと寝息を立てはじめた。戻ってくるとヴィンセントは、俺のために最後のカクテルを作ってくれている最中だった。

「……アドニス、クラウドに捧げる酒、か。……俺にも同じ事言ったよな、あんた」

「そういうことは、言わぬが華だ。何ならお前にも作ってやってもよかったのだが」

 ヴィンセントは唇の端をちょっと持ち上げるように笑い、「もう美少年という年でもなかろう?」

 ああそうさ、もう三十一さ。

「お蔭様でね」

「顔が赤いぞ。……酒に弱い体質というのは、何とかならないものなのかな」

 ブランデー、ホワイトラム、ホワイトキュラソーを同量ずつあわせ、レモンジュースをティースプーン一杯。手のひらを付けず、指の腹だけで支えるのが、シェーカーの正しい持ち方。それを手早く十五・六回まわして、カクテルグラスに。グラスを支える指が、とても優雅で、俺は意識的にそれに、じっと見惚れた。薄い黄色のカクテルがグラスに満たされた。

「……これ、あれだろ」

「……あれ、とは?」

「……あれだよ、ほら……、何ていったっけな、昔、こんな風に俺を口説いた事がある」

「口説いた? 記憶にないな。お前など、口説く手間もなく愛されてくれるからな」

「……どっちにしろ、言ってたじゃないか、気障ったらしい科白を。そう

「……こんな感じだ、『この酒の名は……』、くそ、名前思い出せないな……『寝酒でもあり、お前のココロの中の、〔夜〕を呼び覚ますものでもある。乱れたシーツの波の中で遠くに引きずられていくような眠りに落ちるとき、無意識に漏らす言葉を、私に聞かせるためのカクテルだ』……とかなんとか……」

「覚えていないな」

 やな予感。どっちにしろ俺は今日、ヴィンセントに夜を支配されるんだろう。クラウドは酔いつぶれて眠ってしまっているし。

 ちぇ。

 そう、昔、彼は俺にアドニスを捧げて、俺がクラクラってなったところに、この酒で落としたんだ。体にアルコールが回ってるはずなのに、俺の身体はものすごくしゃんとしてて、夜遅くまで遊んだ記憶がある。そして翌朝は頭痛に苦しんだ覚えもある。

 ちくしょう。

 いや、決して、嫌な事じゃないんだけどさ。うまくやられたなって……

やっぱこのひとはカッコイイなあって。

「『ビットウィーン・ザ・シーツ』だ」

「ん?」

「このカクテルの名は。ビットウィーン・ザ・シーツ、思い出したか?」

「……ああ……、そうだっけ」

 ヴィンセントはボトルを片付けはじめた。

「クラウドを奪わなかっただけ良いと思うんだな」

 皮肉るように笑ってそう言う。

「んん? んん……、いや……、うん」

 俺はよっぱらい。俯いてクックッと笑う。喉の奥が腫れたような感じ。これじゃあキスの味もちゃんと、わかるかどうか。

「あんたは、俺の事今でも、美少年って思ってくれてるの?」

 ヴィンセントはその問いを無視して、からになった俺のグラスも片付けに消えた。戻ってきたときには、俺はもう船を漕ぎそうなほどに眠くて。だけど彼に抱き上げられて広いベッドまで連れて行かれて、今日飲んだどのカクテルよりも濃く甘い唇の味に、意識を取り戻した。

 ひんやりとした冷たいシーツが、火照った身体に心地よい。

「いい夢を」

「眠れたらな」


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