「キール=セルボルト、俺の友だちだよ。今日こいつ泊めても構わない?」
――同性愛者は如何にして同性を愛するようになるのかという問いは、異性愛者に何故異性を求めるのかと尋ねるのと同じ程ナンセンス。両性愛者は例えば、同じように六度五分の体温がある存在を愛することが出来ないものかと。結局のところ曖昧な根拠に規定されていながらも、どうしてか、その本当っぽさに誰もが胡座をかき、根拠も無いままそれが「当たり前」だと、「普通」だと。確かに一万年の時の流れで、人間の繁栄が細切れにならないで今も生きていられるのが、その普通さにあることは否めない。人間の仕事の一つに生殖があり種の保存があるのかもしれないという仮説にも説得力はある、しかし、それを誰が決めたのか人間はそうまでして永い時をワンポイントリリーフで繋いでいかなければならないのかという問いに、神もいない、宗教家も答えられない、では誰が答えられよ。「だってあの人が言った」「先生が言ってた」「お母さんが言った」「おじいちゃんが私に」、教育の必要性は顧みるまでも無い、ただ、それでも最高に大事なのは自分が誰を愛したいか、どう生きたいか。だから同性愛という考え方を抱くことに毫ほども抵抗はない。
「まあ、何も出来ないけど、それでいいなら。どうぞ」
確固たる自信を抱きながらもマイノリティーの悲しさ。仮に場合が同性愛でなくともいい、あらゆる場合において存在する僅少数の側の者は、不適合の烙印を押されることが何よりも怖い。同性愛の問題に限るならば、彼あるいは彼女にとって、全ての同性が恋愛対象になることなどありえず、異性愛の在り方と少しも違う点はないのに、周囲に毒霧を散らすかのごとき恐怖感と共存することを強いられる。触れればペニスが腐ると恐れられることを望むのではない、ただ一個の変わらぬ人間、そうでなくともそれに似たものとして捉えられたいと願うのは少しもおかしなことではないはずだった。
――そう願い、そう在り、僕は――
孤独が怖いことを知っている、殴られれば痛いことを知っている、恐怖や痛みから逃げて逃げて逃げつづけることで人は自分が求めるものが拠り所であり平たく言えば愛されることであることを知る。その嬉しさを喜びを知るから、感謝の気持ちに満ち溢れ誰かを愛したいと願う。
この子は、きっとその事を知っているはずだ。
彼はそうまで考え、信じ、それでもまだ、口を噤む。尊大な事を考えていながら結局臆病なのは自分も同じと、落胆する。それでも、言わぬ間はこうして側に居てくれるのだと思えば。
それでも、この扉は開かなければならない。
酷く苦しい空気の中で、彼は思う。思いながら、これで何度目だ、自分の手足の無力さを湯に泳がすのは。
再び出会えたのなら、思いを遂げよともうひとりの自分が言う。これは都合よく運命に仕立て上げてしまえ――
すりガラスの向こうで声がした。それだけでビクリと震えて、波を立てる。
「着替え、ここ置いとくからなあ? シャワーの使い方とか解るよなあ。基本的に向こうと同じだし」
「ああ、うん。大丈夫だよ、ありがとう」
「落ち着かないかもしれないけど」
「うん……」
落ち着けない。
「ハヤト」
スリッパの去りかける音を、追いかけて名を呼んだ。
「ん?」
律儀に立ち止まってくれたのが嬉しくて、声が止まる。何を言えばいいのだと、自問している間に、かちゃと音がして浴室の扉は開いた。少年の顔が覗いた。タンクトップにハーフパンツという軽快な格好だった。
「どうした?」
浴槽の中に身を浸していながら、思わず隠れそうになってしまう自分の滑稽さはよく判っているつもりで、笑えるなら笑ってしまいたいと、笑えないからそう思う。辛いほどに真剣な自分がいる。
「いや……」
無力な指先が痺れた。
「……ありがとう。ハヤト、ありがとう」
「ん? うん」
それだけ? 少年はそう聞き、彼が頷くと、
「じゃあ、まあ、ゆっくりな」
扉を閉めた。
少年の下着。彼は全裸のまま、動きを止めた。
少年の下着。まだ湿っぽい髪の先から滴が。
少年の下着。零れ落ちたものが肩から腕へ。
少年の下着。
声にならない声を上げて、彼は立ち尽くす。数秒はそうしていたろう。やがて、絶望に打ちひしがれて、力感の無い腕でタオルを掴み、髪を拭き顔を拭き身体を拭き、そうしているうちに泣きそうになって、タオルを顔に押し当て奥歯噛み締めた。
一揃い畳まれたのは、少年の下着。それから少年のシャツに少年の短パン。
確かに、彼には服が無かった。少年の無自覚なる召喚によって、そして彼自身の願いによって、この異界に転送される際、もちろん彼に何ひとつ準備はなく、着ていた服もボロボロ。この夜に何を着るのかというのは、確かに一大懸案ではあった。
予感のまったく無かったわけではない。ただ、やはりどこかで怖がっていたろう、否定したい気持ちがあったことも否定しがたい。
いつまでも裸で突っ立って居るわけにはいかない。
「キールくん、お風呂出たかしら?」
「っ、は、はい!」
「じゃあ、ご飯出来たから、来るときにハヤトを呼んで来て頂戴」
「は……はい、わかりました」
少年の母親からそう声がかかり、やはり着るしかないのだと、覚悟を決めて、彼は少年の下着に足を通した。心を真っ白にして、シャツも着て。各家固有のクロゼットの匂いがまず鼻を刺激し、その中から無意識に掻き分けて掴んだ少年自身の匂いに、キール=セルボルトは眩暈を感じる。
言われた通り、廊下を進み、少年の部屋をノックする。
「はーい」
「……僕だよ」
内側から扉が開かれた。キールの格好を一目見るなり、ハヤトは笑い出した。
「ああ、ああ! 似合う似合う、っていうか、あはは、似合うなあ、……うん、似合うよ」
複雑な表情で棒立ちのキールのことを、上から下、下から上、よく観察している間もくすくす笑いながら。はあ、と落ち着いて、
「お前、意外と赤似合うのな」
「……お母さんが、ご飯出来たって」
「ああ、そっか。じゃあ行こうぜ。遠慮しないでいいから、いっぱい食えよ」
意気地が無い。
大好きな少年に背中を押されて、暖かく美味しそうな夕餉の並ぶ食卓の、特等席に座らされる。
「さあ、たくさん食べて頂戴ね。お口に合うかどうか判らないけど」
「いえ……、とても美味しそうです」
その身をフラットに置いた最初の夜も、こんな風にぎこちない状態を引き摺って食事をした。ハヤトも、ハヤトの母も、何やかやとキールに世話を焼く。キールは困惑の笑みを顔に張り付けながら、徐々に身につけているものがハヤトのものであることを、忘れていった。
「あ、父さんだ」
ハヤトが耳ざとく玄関の鍵が回される音を聞きつけ、佃煮の汁で唇の端を汚しながら、声を上げた。飯粒がひとつ飛んだ。
「ただいま、っと。……お客さんか?」
長閑な声に連れて現れたのは、仕立てのいい背広をやや草臥れて着た四十代、新堂勇人の父親である。キールの顔を見て、目を丸くして会釈をする、キールも立ち上がり、
「お邪魔しております」
「友だちだよ」
「……キール=セルボルトと申します」
「はあ、びっくりした。外国の方でしたか」
外国? とキールの瞬間の訝りを掻き消すように、ハヤトが早口で捲くし立てた。
「そうなんだキールは東欧の方から来たんだよっていうか父さん早いところ着替えてきたらメシ冷めちまうよ」
「お、おお、そうだなあ」
「ちゃんと手洗ってうがいしてさ」
「うん、そうだな、そうしよう」
座るキールの耳は、呑気なスリッパの去る音の隙間にハヤトのふっという息を聞いた。
「しかし……どうするかなあ、父さん、大丈夫かなあ」
眉を八の字にして、ハヤトが呟く。
「心配すること無いわよ」、大丈夫」
ハヤトの母は断じた。
「ハヤトが部屋半分になっても我慢するって言ったんだから、キール君は心配することないの。だって、ハヤトがお世話になった大切なお友だちなんですもの」
「え……?」
ごめん、とハヤトは笑った。
「母さんには全部話したんだ」
「え……? でも」
「大丈夫さ、俺の母さんだぞ?」
「信じられないわよそりゃ。御伽噺みたいな……、何ていうのかしら、ゲームの……ワタシやったことないからわからないんだけども……、ファンタジーなお話、ねえ」
「はあ……」
母は、力強く微笑んだ。ハヤトの目元は、その母の線を色濃く受け継いでいた。
「でも、実際キール君がいるのは本当なんだし、この子、嘘はつけないし。あんないい生地使った服、ワタシはじめて見たし、ハヤトが見せてくれた、あなたの持ってきたいろいろなモノ、どれひとつ取ったって、ねえ? ……ですから……お父さん、早く座りなさい」
「あ、ああ、うん……何の話だい?」
「今日からこのキール=セルボルト君は新堂家の子になりますから、いいですねそのつもりで」
「は?」
「キール君はおいくつだったかしら?」
「母さん、僕の分のご飯は……」
「いいから、父さんちょっとタンマって」
「え、あの」
「おいくつ?」
「十八です……」
「じゃあ、きっとお酒大丈夫ね!」
「は、はあ、まあ、ええ」
「実家から送ってきた焼酎があるから、それを開けましょう」
ハヤトの父は、ぽかんとしたまま、グラスに注がれた、熱そうな透明なアルコールを持って、困惑するキールを見、虚空に茶碗を持ったまま。見かねたハヤトが乗り出して、父の茶碗に飯を盛った。
「お、おお、すまんな。……ええと、何、どういうことか見えてこないんだが」
「ええ、ですから、今日からキール君、……息子に君づけするのはおかしいわね、キールはハヤトの弟です……って、年はハヤトのほうが下なのね、でも、いいの、この子は新堂キール、いいわね」
「ああ。……、って、いや、ちょっと待ちなさい」
「いいわね?」
「……うん」
母というものを、キールは知らない。勿論、この母のことを、全ての母と同一視することが無謀であるくらいは判った。
勧められるままに、グラスに口をつけた。
布団はこれ、パジャマはシャツとパンツでいいわね、夜更かしするのは構わないけど大きな音は立てないで頂戴、喉渇いたりお腹が空いたりしたら冷蔵庫のものは節度を持って好きなように食べてくれて構わないからね、それからハヤトは明日も学校だから、帰ってくるまではおうちの手伝いをなさいね。じゃあ、おやすみなさい。
「はい、はい……、はい、ありがとうございます、はい、あ、はい、はい、……おやすみなさいませ」
「母さん、礼儀の正しいやつは好きなんだよ。俺も昔はよく煩く言われたなあ。小学校の頃、剣道場通わされたりしてさ」
さすがに疲労して、時刻はまだ九時だと言うのに、やや瞼が重い。アルコールも入っている。
「……本当によかったんだろうか」
サイドボードに置かれたMDプレイヤーという機械から、間断なく音楽が流れている。ハヤトがこういう曲を聴くのだとは、もちろん知らなかったキールだ。フラットで一緒に風呂に入っているときに、そう言えばこんな風な曲の口笛を吹いていたかもしれないと思い出した。
「心配要らないさ」
「しかし、あのように簡単に」
「そういう人なんだからしょうがない、ウチの母さんは。俺も、母さんが信じてくれると思ったから、リィンバウムで在った事を話せたんだ。……俺はさ、多分途中でお前が風呂から上がって出てきて、一緒に『信じて』ってお願いするところまで考えてた。けど、母さんがさ『わかったわ』って、『あの子に着替え持って行ってあげなさい、あんたのシャツで入るかしらね』って」
「……そう、なのか」
「俺が最初に玄関で、お前のことを紹介したろ、あの時点で妙だなって思ったらしいよ。まあ、お前のあの格好じゃあ、怪しまれたって仕方ないよ」
曲が止まった、ハヤトは手を伸ばして、半透明ブルーのMDを入れ替えた。
ひとつ、ハヤトは長く息を吐きだして、
「さて。どうしたもんかな、明日みんなに言い訳しなきゃいけないよなあ……。お前が天井に貼り付いてたって言い訳で上手く誤魔化しきれるかなあ……」
少しの深刻さも無く、ハヤトはキールに聞いた。キールはなんだか胸が詰まって、俯いて、ありがとう。
「感謝されるアレじゃないよ。……俺が呼んだんだ。キールの方こそ、迷惑じゃなかった?」
「迷惑だなんて。……フラットに居ては負担になるし、かと言って、僕にはほかに居場所も無かったから」
「なら、俺はいいよ。お前が来てくれて嬉しい。こうやってまた一緒にいられることが、ホントにすごく嬉しいよ」
土下座から三点倒立へ移行しても追いつかないほどの謝意が、キールの中に弾けた。ハヤトはそんなキールを慮ってか、それとも単なる思い付きでか、「あ、そうだ」と声を上げた。
「なあ……、キール、一緒に月見よう」
「月……?」
「うん。……あっちで見たみたいな綺麗なもんじゃないし、見れるかどうか判らないけど、屋上出てみようよ。ね?」
「う、うん」
ちょっと屋上言ってくるよー、虫に刺されないようにスプレーしていきなさい、まだそんな虫なんていないよー、痒い痒い騒いでも知らないわよ、二往復の会話を玄関先、サンダルを履いて突っ立って聞いた。
始めて身近に感じる、まっとうな家族の会話だった。
ハヤトはスプレーの缶を握って持ってきた。
「手ぇ出して」
「……こう?」
キールの細い腕に、そして露出した脛に、虫除けスプレーを噴き掛けてから、ハヤトは自身の腕と脛にも満遍なく。
「俺はいいけどさ、お前、肌白いから。まあ、バノッサほどでもないけど。蚊に食われたら目立ちそうだからさ」
鉄の扉を開けて、マンションの廊下に出る。地上六階に吹く夜風は、六月にしては爽やかなものだった。
二階分の階段を上がって、また重たい扉を押し開けると、一緒に夜空が開け放たれた。昼間雨を降らせた雲がところどころ切れている。肝心の月はと言えば、その雲の縁を白く光らせるように隠れていた。
「ああ、見えないや。残念。でも風あるから雲流れるかな」
ところどころ割れているプラスチックの青いベンチに、ハヤトは腰掛けた。その隣りに、半人分ほどの距離を置いて、キールも腰掛ける。
涼しい風がそれぞれの、黒と茶色の髪を揺らした。
「キールさ」
ハヤトは笑顔のまま、喋り始めた。
「……お前さ、ホモ、同性愛者なんだよな?」
キールは表情を強張らせた。
最初に言ったのは、フラットでの入浴中だった。
大所帯のフラットだったから、一人ひとりが勝手にのんびり入浴していては後がつかえる。大抵は同性同士一緒に入るのがしきたりということだったから、ハヤトもガゼルやエドスやレイドと共に風呂に入った。時を経れば経るほど所帯は大きくなり、ジンガ、スウォン、エルジンその他とも共に入浴した機会はあったが、結局のところ数えてみればキール相手が抜群に多かった。それはハヤトが望んだのではなく、キールが望んでいたことだ。しかしキールは、自らがそれを望んでいることをおくびにも出さず、風呂の時間が近づくと何となくハヤトの側に座り、「ああ、丁度いいわ。二人とも次お風呂ね」とリプレに命じられるのを待っていたのだ。
――「背中流してやろうか」と、最初に一緒に入浴したとき、ハヤトに「遠慮するなよ」と戸惑い拒否するのも無視されて半ば無理矢理やられてしまって以降、風呂に入ってハヤトに背中を流されるというのは、二人のベーシックになっていた。あるときに、「君の背中も流してあげようか」とキールが、掠れた声で、なけなしの勇気を振り絞って言ったときから、何かは変わったのかもしれない。「いいの?
サンキュ」と安請合した、丁度その時。
キールは俯きながらハヤトの背中を流し始め、……言ったのだ。
「僕は同性愛者だ」
「へ?」と背中をごしごしされながら、ハヤトは間の抜けた声を上げた。
「……君にだけは言うよ。……僕はね、ハヤト、女性ではなくて男性を恋愛対象として捉える性癖を持っているんだ」
ハヤトの顔を、キールはほとんど見ることが出来なかった。縺れそうな舌で、何度も、転びそうになりながら。「君は、嫌いになってしまうだろうね、こんな僕のことを」と、背中を洗っていた手を止めた。「僕は……自分で馬鹿だと思う。君に嫌われてしまっては、もう僕には居場所など何処にも無くなってしまうのに。それなのに、君に嫌われることを恐れないなんて、馬鹿げたリスクを背負って、君に言ったんだ。……そして、君に言うんだ……。……ハヤト……、僕は、君が……好きだよ」
――愛の告白と言ってしまえばただそれまでの話。あれから、キールにとっては一月の時間を経た。
こうして、大好きなハヤトの側に再びいられる喜びは、願いの成就で初めて完全なものとして形を成す。
しかし、キールは喉の当たりを凄まじいスピードで血流が行き来する音を聞き、意識が遠のく。
「……俺は、正直なところさ、まだ何とも答えられない。悪いなって思うんだけど、本当に、まだまとまってない」
ハヤトは、微笑みながら、優しい声でキールにそう言った。キールは、俯いて、黙って、ただその言葉に集中していた。
「まだ、俺……、あの、生まれてこの方、そう言う経験をしたことがないんだ、誰かを好きになるっていう……そういう気持ちになったことがないんだ。だから、……それでイキナリさ、ホモっていうのも、やっぱりちょっと、……考え方自体は全然問題ないって俺も思うけど、イキナリだと、さ、抵抗あるよ。どうしても」
いい、続きは、言わないでくれ。だったら、サスペンスでいい、そのままずうっと、結論なんて出なくていい、僕が冷静になって忘れられるまで。そんな、今すぐなんて言わないで。死んでしまう!
キールは口を開いた、唇が割れたように思えた。
ハヤトはキールが声を出すより先に、言葉を繋げていた。
「だけど、だけどな。これ、本当の気持ちで言う、俺は、お前が教室に降って来たとき、……本当に嬉しかった。お前にまた会えて良かったって、泣きそうになった。俺は、……お前に、会いたかった」
はやと、とキールの唇が紡いだ。
ハヤトは微笑んだまま、
「だからさ」
向けられたキールの困惑した目を見詰めて、
「……もうちょっと、待って欲しい。俺は多分、お前のことが好きなんだろうと思う。こういう気持ちを愛とか恋とか言ってはしゃいでいいんだと思う。思うんだけど……、初めてだから、何にも俺、まだ、わかってないんだ。だから……俺がもう少しだけ、大人になるまで、……ダメかな」
嫌なはずが、あるかー、と声を大にして叫びたいけれど、声が出なかった。キールは、自己認識としてはフラフラと立ち上がり、二歩、三歩歩いて、深々と胸を穿った今の言葉を抜いて、血の滴る刃をよく見詰めて、しばらくそのまま、立ち竦んでいた。
やがて振り返り、
「ねえ、ハヤト」
立ち上がったハヤトと目を合わせて、首がビクビク絞まっていく気がした。
「もう一度だけ」
キールは声を震わせないでそう言った。
「いま……君の口から、聞きたい。……僕は、君のことが好きだ。……ハヤト」
既に、ハヤトは微笑んでいなかった。
再び胸を抉られるのに備え、キールは息を止めた。その息も、苦しくなるほどの間があって。
「……今は、まだ、言わない」
ようやっと、そう答えた。キールは息をふっと吐き出した。
ハヤトは、ゆっくりと、
「でも、……必ず言えるようになる、お前にちゃんと」
言って、笑った。
「普通に考えて……、ホモを嫌と思う奴がホモのすぐ側になんているわけないだろ。一歩進んで、怖いって思う相手の側に進んで寄ろうとか思わないだろ。……俺はここにいるだろ、一緒の部屋で、今日寝るんだろ? ……怖くなんかないさ。寧ろ、嬉しいさ」
いっぱい喋ろう、とハヤトは言った。
「いっぱい喋って、いい夢見よう。な……キール」
ハヤトは階段の扉を、引っ張り開け、振り返る。その拍子に、「あ」、声を上げる。くい、と上を見ろと。