土曜日の朝の空は憂鬱な色を湛えていた。昼前に起きて来た少年はTシャツにトランクスというラフ・スタイルで目を擦りながら「母さんたちは?」と彼に尋ねた。
「お母さんなら、十時ごろに出掛けられたよ。婦人会の集まりがあるんだそうだ。お父さんは、お母さんが出かけたから、パチンコに行くとおっしゃっていた」
「……婦人会とパチンコ……かあ」
「ちなみに、朝ご飯はトーストだったんだけど、君が起きてこないからトースターはもう仕舞ってしまったよ。昼は三食ヤキソバを買ってきてあるから二人で食べて、と」
「ん……、あー」
大きなあくびをして、少年は椅子に座った。
「……ねみいな」
彼は、少年の右目についた目脂を指で拭った。その手を煩そうにしながらも、払い除けるような真似はしなかった。
「最近、休みとなるといつも寝坊をするね、君は」
彼はカップにインスタントのコーヒーをスプーン一杯入れ、少量の砂糖と共に湯で溶いた。それを少年の前に置く。ありがと、とまたあくびを噛み殺しながら言って、テーブルの上に畳まれた新聞を広げ、まずテレビ欄を捲って四コマ漫画から読み始める。
「……誰のせいだと思ってるんだよ」
少年は眠そうな目で漫画を二往復してから、言った。
彼は聞いた、
「僕のせいかい?」
「お前のせいだよ」
瞬発力よく返ってきた。
苦笑いをして、少年と同じ新堂姓を名乗ってまだそう時の経っていない彼、キール=セルボルトは、少年の向かいに座り、不貞腐れたような顔をして目元を染める少年を、いとおしげに見つめる。
「……なんだよ」
目を合わせないようにしつつ、少年は彼に言った。
「いや……」
目を逸らしながら、コーヒーカップに口をつける。そのぎこちない仕草が、どうしても愛らしい。本人は立派に十七歳のつもりなのだろう。少なくとも、自分に対してそう信頼しながら振舞っているのだろう。そこに生じているギャップが、彼の目には、何よりも可愛く見えるのだ。
「……ハヤト」
名を呼んだ。その目が、反応する。目線同士が合わさる。普段ならば何でもないこと。しかしハヤトの奥底には、キールの蒔いた種が確かに息づいていた。
釘付けになったハヤトは、呆気なく頬を染めた。
「君が好きだよ」
ハヤトは真っ赤になって、コーヒーを二口嚥下してから、
「お前はそればっかりだ、何かって言うとそればっかりだ、こっち来てからお前そればっかり言ってるんじゃないのか。全く馬鹿の一つ覚えじゃあるまいし。大体お前はいっつも」
早口に舌を縺れさせながら、ハヤトが言うのを嬉しく思いながら、キールはもう一つ尋ねた。
「君は?」
テーブルに手をついて、身を乗り出して、顔を近づけて。ハヤトの動きが止まる。キールの手のひらはあどけなさを残すラインに触れて、もう一度尋ねる、「……君は?」
ハヤトの目には、そう尋ねるキールの目が、少し寂しげに見えたのかもしれない。
自分の存在を渇望してくれた初めての相手だ、自分のことを常に第一に考えてくれる相手だ。
そして、自分はこの相手をずっと守るのだと決めたのだ。
「俺……」
目を反らす事も出来ない。飲み込まれたように。
「……も……好き……だ……」
舌の中がムズムズした。少年はこの酷くずるい相手が、どうしたら憎く思えるだろうと、詮無い事を思った。
間もなく重なった唇に、すぐ観念したが。
「……お母さんもお父さんも、きっと当分帰ってこないよ?」
何もかも判って言っているのだとすぐ判って、ハヤトは悔しくて悔しくて仕方がない。しかし、抗えるほど自分を強く持てるかと問われれば、仕方がないのだと答えが導き出される。優しく微笑んで、キールが自分の手を取る。ほとんど力の篭められていない手に従って立ち上がる。さっきトイレを経由して通ってきた廊下をそのまま逆に辿り、カーテンもまだ開けていない寝室の、奥のベットは掛け布団が乱れたままで、手前の敷布団群は三つに畳まれ整頓されている。バスケットボールがネットに入っている、机の上には二週間前に開いたままの英単語帳と赤いボールペン、脱ぎっぱなしの制服は椅子に無造作にかけられている。壁にはユニフォームと「猛虎復活」とけばけばしい書体で書かれたペナント。
カーテンの隙間から差し込む昼の光に、細かな埃が舞っている。典型的な男子高校生の部屋であるが、その基準をキールは知らない。それでも、だらしがない、とは思う。片付けろと強要はしないが。
うるさい柄の入ったトランクスを、この子は自分で買ってきたんだろうか? それとも仕方なく穿いているんだろうか?
「まだシャワーだって浴びてないんだぞ、夕べだって寝汗かいたのに……、……キール……、キールのばか」
そのトランクスの上から、硬くなった性器に口を付けられ、ハヤトはそう詰る。その声が震えるせいで、ほとんど役には立たないことを知りつつ。震えるのは自分のせいじゃない、キールがいけないんだ、だから、キールの馬鹿。既に冷静に物事を考えられない自分の状況に気づきつつも、もし本気で抗えばキールの一人や二人や三人や四人くらい逆に組み敷くのだって大丈夫だけどいや俺がキール組み敷くのかそれはちょっと嫌だなでもこれもあんまり。
「嫌かい?」
甘い舌を引っ込めて、キールは眩しげにハヤトを見上げた。
湿っぽい下着が貼り付く厭味な感触に、ハヤトは目に涙を浮かべた。
「嫌じゃない……、やめるなよ、ばか……、キールの馬鹿……!」
可愛い子だなと、キールは心底思う。馬鹿、と詰りながら、しっかりと肩を掴んで離さない。この愛を大切にするのだと、キールは決めていた。
トランクスの前を持ち上げて、ハヤトのペニスは湿った布で輪郭が露になる。湿らせているのはキールの唾液のみではないかも知れなかった。
「馬鹿の一つ覚えでもいい」
キールはハヤトのことを、しっかりと見詰めて、
「僕は、君のことが好きだよ」
と。ハヤトの手に手を重ねて、微笑み、
「君を幸せにしてあげたい」
そうすることに意味があったかどうかは知れない。ただ、ハヤトはこくん、こくんと頷いた。キールは微笑んで、そのトランクスの中から、肌色のハヤトの分身を取り出す。
バスケットボールで身体を鍛えている割に、痩せ型で身長も低いハヤトである。身体を動かすことは得意でないのに、縦に長く育ってしまったキールとは全く逆。以前、「どうしてお前そんなに無駄に大きいんだよ!」と怒られたとき、キールは「僕は君くらいのほうが好きだけどね」と言った。
実際、童顔なハヤトだから、これからも、あまり身体は大きくならないのかもしれない。
ヒクリヒクリと震えるハヤトの砲身に触れたことがあるのは、ハヤト自身を除けば、ただキール一人だけだった。キールはハヤトのこの場所を知ることで、一番簡単にハヤトを掌握していった。根元を薄く性毛が覆っているが、サイズは同世代に比べれば小さい。色も、先述のとおり使い込まれてはいないから肌色を保っており、勃起していても皮は降りていない。指で摘んで引き降ろそうとしても、途中で引っかかって止まる。いわゆる真性包茎である。それだけに、滑らかな色の亀頭は敏感だ。キールの舌で、いつもあっさりと白蜜を零してしまう。ハヤトにとってはコンプレックスの部分だ。キールと出会う一月前に、修学旅行があった。宿舎の浴場でも、腰のタオルを外せなかった。隠匿したいそんな部分を、キールは慈しむように見詰め、口に含む。ハヤトの理解の範疇を、大幅に超えていた。
「あ……あっ!」
ゆるゆると撫でるだけだった指が絡みつき、ハヤトの性器を上下に扱き始めた。キールは優しい目をしてハヤトに手で施し、時折袋に舌を這わせた。
元々、女性と行為をした経験は愚か、キスをしたことの一度すらもないハヤトが、ほんの数ヶ月で、ここまでのことをキールとするようになったのは、偉大なる進化と呼ぶべきか。
「も、イク……っ、キールッ……ぁ、あ!」
それでも、こういった行為への知識は十七歳相応に備わっていたし、自分に存在する性欲の発散方法も勿論知っていた。ただ、それだけで。相手が居なかった。いつか出来るだろうと悠長なことを考えていたら、確かに出来た。相手は、なるほど、男だった。
最後の瞬間にキールが口で包み込んだから、ハヤトの精液は全てその口へと放射された。キールはそれを舐り、残らず飲み込んだ。
「気持ちよかったかい? ハヤト……」
靄のかかったような目で堪らない色を成し、頷く恋人のことを、キールはありがたく思い、また、彼も確かな興奮を感じていた。ジーンズが、苦しく思える。
「良かった」
それでも、落ち着きを保つ術を、キールは身につけていた。
「もし構わなければ……僕のこともしてくれるかい?」
優しく言って、ハヤトは頷いてくれる。キールはジーンズのボタンを外し、ジッパーを降ろした。後は、ハヤトに任せる。浮いたような目で、ハヤトはキールのトランクスの中から、男根を取り出した。
リィンバウムにおいて出会った、キールを始めとする人々が、決してとっつき難く感じられなかったのは、彼らの顔に一つの要因があったのではなかったかと、ハヤトは今想像し返す。要するに、彼らは日本人ではないけれど、さほどはっきりとした洋の隔たりを感じさせる顔つきではなかった。勿論、ラミやスウォンやエルジン、イリアス、そしてバノッサなど、日本人の持たぬ陰影を確かに持っている者も居たのは事実だが、その一方でアカネやシオンはハヤトの知る日本人よりなお日本人的な顔つきをしていたように思う。キールもまた、日本人的な顔をしていただろう、ただし、その顔は日本人離れしている。即ち、日本人であることに疑いはないのだが、日本人を超越した美しい線で象られた顔をしているのだ。
キールのペニスの根元には、黒いヘアが生え揃っている。比較対象は自分のものしかないが、大きさにも確かなものがあるし、風呂に入るときチラチラ見てしまうのだが、常に亀頭は露出している。羨ましいと密かに思っているハヤトである。
……どうして平気なのかな。
ペニスを口にしてから、ふとそう思う。徐々に思考回路が再生しつつあった。
ハヤトは、同性に興味を持ったことなど一度も無かった。同性愛者に転ぶ可能性が、まさか自分にあったとは思えない。
しかし確かなのは、ハヤト自身よく考えてみれば、女性にも興味を持ったことがなかったということ。
自慰行為も、ただ解放感を味わう為にしていた訳で、特定の相手を夢想したことはない。寧ろ、夢想したのは行為の内容であり、そこから齎される快感の方に重きをおいていたろう。
そんな未熟な精神の状況で、本気で好きになってしまったのがたまたま男だった。歯止めが利く可能性は低かったろう。考えてみれば無理がある、この年で一緒に入浴するということも、嫌とは思わなかったし、キールが自分を抱き締めても問題があるとは思わなかった。はじめて「ん?」と思ったのは、キールが自分の頬にキスをしたときで、しかし、その時には既に遅かったに違いない。
キールが、「僕は同性愛者だ」と明かしたとき、ハヤトは少しの嫌悪感も抱かなかった。
それを踏まえて「君が好きだ」と言われて、確かにハヤトは嬉しいと思った。
あの暫しの別れの間、どれだけ寂しい思いを自分はしただろう。自分の隣りに戻ってきてくれたキールに抱かれることに、少しの抵抗も無く、寧ろその行為は幸福へと直結していた。
こうして肉塊を口に咥えながら、少しでもキールが良くなってくれたらいい、そればかり考える。
高いところから手のひらが舞い降りて、髪を本当にいとおしげに撫でるのを、本当に嬉しく思っている自分に、少しの違和感も抱かなくなっている。どころか、苦しくとも、この口を離しはしないと思うのだ。そう決める動機の一つに、確かに自分へまた与えられるであろう快感が念頭にあることを否定はしない。
自然なことではないだろうかとハヤトは思う。そして、リアルなことではないだろうかと。
こう、病気みたいにさ、俺はお前を欲しがってるんだ。
喉が渇いたら水が欲しい、お腹が減ったらご飯が欲しい。きっと後から思えば十七歳という時期にお前と出会ったのは最高のチャンスを活かしたのだと俺は思うだろう。
「ハヤト」
キールが名を呼ぶ、掠れた声が狂おしいまでに悦ばしい。魂がフラフラどこかへ飛んでいってしまいそうだ。
一つバウンドしてハヤトの舌にキールの精液が零される。
それが使命であるように、ハヤトはそれを吸い飲む。欲しかったんだ、喉が渇いてたんだ、お腹が減ってたんだ、俺は――
お前の齎す全てのことが――
喉は嫌とは言わずキールを飲み干した。
自分のようにはしたなく声を上げることは愚か、息を大きく乱すことも無く、幾度かの呼吸で落ち着いてしまうキールが、ハヤトは少しく恨めしい。
「ありがとう」
礼を言われるようなことはしていない、そう青臭い口の中だけで呟く。
ハヤトの口と自分の性器を拭き清めて、キールは当たり前のように自分の性器を仕舞おうとするので、ハヤトは瞬間、焦った。
「……も、もうしないのか?」
一瞬きょとんとした表情をしたキールは、すぐに「ああ……」と声を出す。
「ごめんね、満足できていなかったんだね」
「……!」
真っ赤になって抗弁しようとするハヤトの口を塞いでから、キールはにこりと微笑む。笑顔の時こそ卑怯な男だと、ハヤトは一番判っているつもりが、その笑顔にいつも騙される。逆にいえば、判っている分、毒されている訳だ。
「……じゃあ……、お風呂に行こうか? さっき気にしていたよね。僕も……君にしてもらっておいてこう言うのもなんだけど、ちょっと、自分の体臭を気にはしていたんだ。君が優しくしてくれたから、忘れられたけど」
君のはいい匂いだけど、僕のはきっとそうじゃないと思うし。キールはそう付け加えた。半裸のハヤトは、ついさっき自分で言ったことを無責任にも忘れて、思い出しても否定して、今すぐにでもしてしまいたい気がある。ハヤトにとっては、自分の汗臭いのは我慢できなくてもキールのはまるで構わない。
棚からハヤトの服と下着を選び、バスタオルを二枚用意して、
「行こう」
ハヤトは誘われるまま。
洗面所兼の脱衣所で、シャツも脱がされて、キールがまだ一枚も脱ぐ前なのに、自分だけ裸、後から抱き締められて、堪らない心持になる。キールが嬉しげに溜め息を吐く。それが肩から胸を伝い、乳首で一つくるりと廻って薄毛の性器の周囲で吸い込まれていく。
「こんなことを言われたって嬉しくないだろうというのは判っているけれど」
けれど、言うよとキールはハヤトを抱き締めながら言う。
「……ハヤトは可愛い」
抱き締める腕に少しだけ力が篭った。
ハヤトは黙って俯いた。それ以外にどういったリアクションを取れただろう。……ああそうですか、嬉しいですよ、ああ、……嬉しいさ! 男だけど、男なのに、お前になら可愛いって言われて有頂天になるんだよ……!
「ごめんね。でも言いたかった。言葉にすることで君のことが本当に可愛いということを確認したかった」
沈黙を否定と取ったらしいキールはそう謝った。
ハヤトはそれが悔しかったが、ただ不貞腐れて、
「……お前も脱げよ、何で俺だけ裸なんだよ、おかしいだろ、続きするんだろ、風呂入るんだろ」
そう矢継ぎ早に言葉を吐くことで誤魔化すのが精一杯だった。
ふっ、とキールが少し笑った。
身を解放されて自由より窮屈を感じた。
キールが服を脱ぐ様を、見ないようにする。自分の為に存在しようとする裸がそこにあるだけで欲情しつつあるのに、見てしまっては言い訳の効かぬ状況を晒してしまうのは火を見るより明らかだった。
「入ろうか」
しかし、キールの声に、思わず振り向いてしまった。真っ向から見てしまった。
はじめて一緒に風呂に入ったのは、出会ったその日の夜だった。どうにも得体の知れない相手ではあったが、悪い印象を持っては居なかった。まだ頑ななキールで、到底打ち解けそうには見えなかったが、一緒に裸になって風呂に入ったなら、多少は解れるかと思ったのだ。あまり成果は無かったが、ただその裸の綺麗なことに驚いたことを良く覚えている。キールはやや恥ずかしげに自分の身体を隠したがった。ハヤトも隠したい点があるのは一緒だったから、二人して腰にタオルを巻いたまま浴槽に浸かった、きっとリプレには怒られるのだろうと思いながら。その後、キール以上に、いっそ尋常でないほどに美しいスウォンの裸を見て仰天して「いや、やっぱり一緒に風呂はまずいんじゃ……」と戸惑うまで、「世の中にはいろんな奴がいるものだ」と思っていた。
大所帯のフラットだったから、一人ひとりが勝手にのんびり入浴していては後がつかえる。大抵は同性同士一緒に入るのがしきたりということだったから、ハヤトもガゼルやエドスやレイドと共に風呂に入った。時を経れば経るほど所帯は大きくなり、ジンガ、スウォン、エルジンその他とも共に入浴した機会はあったが、結局のところ数えてみればキール相手が抜群に多かった。それはハヤトが望んだのではなく、どうもキールが望んでいたようなのだ。しかしキールは、自らがそれを望んでいることをおくびにも出さず、風呂の時間が近づくと何となくハヤトの側に座り、
「ああ、丁度いいわ。二人とも次お風呂ね」
とリプレに命じられるのを待っていたのだ。
あの時点で既にキールがハヤトに恋心を抱いていたのだとしたら、要するに狙われていたのだ。しかし、もういい加減打ち解けていたし、ハヤトもキールのことを大切に思っていたから、今思えば重要であり、しかしどうでもいい問題だと言える。
白い身体を、結局見詰めてしまってから、目を逸らした。半勃ち状態の自分が、酷く醜く思える。
シャワーの湯音を手馴れた手つきで調整してから、ハヤトの足からかけてゆく。「熱くないかい?」と聞く配慮も勿論忘れない。石鹸を泡立てて、ハヤトの身体を丁寧に洗っていく。
「背中流してやろうか」と、最初に一緒に入浴したとき、ハヤトが言って、「遠慮するなよ」と戸惑うキールを無視して半ば無理矢理やってしまって以降、風呂に入ってキールの背中を流すというのは、二人のベーシックになっていた。あるときに、「君の背中も流してあげようか」とキールが、掠れた声で言ったときから、何かは変わったのかもしれない。「いいの? サンキュ」と安請合して、……そうだ、そのときに、キールは鏡越し、俯きながらハヤトの背中を流し始めた、丁度その時に、
「僕は同性愛者だ」
と言ったのだ。
「へ?」と背中をごしごしされながら、ハヤトは間の抜けた声を上げた。
「……君にだけは言うよ。……僕はね、ハヤト、女性ではなくて男性を恋愛対象として捉える性癖を持っているんだ」
スムーズにそれを認め、否定もしなかったのは、或いは自分にそういう嗜好の欠片が確かにあったからではないだろうかとハヤトは思う。それは少しも不愉快なことではなかった。キールを理解できることは少しも苦しみではなかった。「そ、そうなんだ」鏡越しに受け止めた。キールは鏡の向こうの目を寂しげに揺らめかせて、
「君は、嫌いになってしまうだろうね、こんな僕のことを」
と、背中を洗っていた手を止めた。
「僕は……自分で馬鹿だと思う。君に嫌われてしまっては、もう僕に居場所など何処にも無いのに。それなのに、君に嫌われることを恐れないなんて、馬鹿げたリスクを背負って、君に言ったんだ。……そして、君に言うんだ……。……ハヤト……、僕は、君が……好きだよ」
その際に、明確な返答はしなかった。しかし、今はこうして、同じような場所で、裸をつき合わせて、今は腰にタオルも巻かずに、隠匿したかった場所を寧ろ晒して、互い愛で合うそんな神経。
キールは微笑んで、洗い流しながらハヤトの身体のあちこちにキスをした。
「嫌いって言われるのが何より怖いくせに言ってしまうんだ。君のことが可愛いと思うから、ハヤトは可愛いねって、綺麗だねって。……大好きだよ、愛してるよ、本当だよ、ハヤト」
或いはこの男は誰よりも、もちろん俺なんかよりもずっと、勇敢な男なのかもしれない……、そう、ハヤトは思った。足の指の間まで指を入れられて、くすぐったいのだけど笑えない状況。膝を突いたキールは、ハヤトのことを下から見上げて、
「キスしよう」
ハヤトは既に息が上がるほど興奮していたが、うん、と頷く。キールの手に導かれ立ち上がり、背伸びをして味わう唇は、優しい。
ここで続きをしてもいいけど、と、キールは繋いだままのハヤトの手を引いて浴室から出て、身体を大雑把に拭いた。持ってきたのはタオルと着替えだけかと思っていたら、二枚のタオルの間から、魔法のようにゴム膜の小袋を取り出してみせる。それに思わず顔を赤らめてしまいながらも、ハヤトは全てをキールに委ねていた。扉に背中を預け、キールの舌に口の中をもう一度、それから耳と乳首とを味わわれてから、言葉に従って洗面台に手をついて背を向け、尻を突き出す。
「力を抜いて……」
あのタオルの中は四次元ポケットか。
ローションがたっぷりと零されて、冷たいと窄まったところをあやすように指が撫でる。頃合いに、つぷりと侵入してきた指は、細く形がいい。
「あ……」
小刻みなリズムで、ハヤトはキールを噛んだ。広げられる痛みと喜びが完全に半々なものだから、ハヤトは反応の仕方に戸惑い、すぐに感情の器から零してしまう。
「あ……あ、……っ、ん! はぁっ、……んん!」
そして純粋感情の声がこれなのだ。
「……大丈夫?」
「ん、……気持ちいいよぉ……、キール……っ、気持ちいい……!」
「うん……。……指を増やすよ」
これは普通、刹那的な行為なのかもしれない、同性愛というのは形の残らない愛なのかもしれない。ハヤトは朧にそう思いながらも、「普通」なんてものはありはしないと決め付ける。
何が普通か、あんたにとっての普通なんだろ? 俺たちにとってはそうじゃない――俺たちが五年後十年後、繋がったままで、それでも刹那と呼べるかと、その事実を突きつけてやるから――、そうでない未来を創っていくために、青臭いといわれようとも、構わない、愛を。
そして入ってきたキールにハヤトは紛れも無い悦びの声を上げる。
「大好きだ……、本当に君が、大好きだ」
キールの陽物が奥まで入りきって、中身全体がじりじり熱い。
「……自分、だけと、思うなよ……」
ハヤトは苦しげに息を詰まらせた。
「俺だって……、愛してるんだ……!」
こんな恋、こんな愛、成立する。快感は単純な計算から生れ出ずるのだ。
「キール……っ、キール! ……もっと……突いてよっ、……気持ちよくなってよぉ」
「うん……、気持ちいい、凄いくらいに……。だからハヤトも、気持ちよくなって……ね?」
「ばか……っ」
俺は、声は一つ空ろへ飲み込まれて、
「……出、る……っ」
どんな形であれ、愛されることと、その喜びを求めていることは、誰にも否定は出来ないだろう。しかし、愛されたいと思ったならば、なりふりなど構ってはいられない。カッコつけよりも素直な気持ちのほうが、愛を呼び込みやすいのだ。愛するという行為が既にヤケッパチな素直さから出るものだから、全て受け止め飲み込む覚悟でいれば、相当量の快楽を手にすることは容易だ。
「好きだよ」
キールはその科白を言い飽きないし、ハヤトも聞き飽きない。解いて、洗面所の床で身を重ねあって、キスを断続的に繰り返しながら、馬鹿の一つ覚え。しかし、気持ちを伝えるのに「好き」或いは「愛してる」以上の力を持つ言葉を、二人は持っていなかったから。
「愛してる……」
ハヤトも、キールも、同じように言い合うのだ。
「キール……、お前のことを、愛してる、愛してる」
今のハト時計が長々と鳴いているのが聞こえてきて、反射的にハヤトの腹がぐうと鳴った。キールは最後に一つ、息の続く限りのキスをしてから、
「ヤキソバ、作ろうか」
「……ん」
立ち上がって、ハヤトも立ち上がらせて、服を着る。
「ご飯食べ終わる頃にはお父さんも帰ってくるだろう。……出掛けようか?」
「天気、あんまりよくないだろ」
「構わないよ」
そして、馬鹿のように。
「だって、君が好きだから」
天気が多少悪くても、問題にはならないよ、君の隣を歩くならば。
だから「うん」。