ヴァレンタインデーキッス


 例えば、の話。

「じ、ジタン、あの……コレ」

「え……、これ……、ビビあの、これ、って……」

「……僕の……、気持ち、だから……、その、……えっと、……受け取って、くれ、る?」

「……ビビ……」

「あ、あの、あの、嫌ならいいんだ、ほんとに、嫌だったら、全然……きぁっ」

「嬉しいよ、ビビ、すごい、すごい嬉しい……、超嬉しい……」

 というような関係こそがバレンタインデーに繰り広げられるに相応しい情景であり、十中八九それが理想のみに終わるとしても、理想には挙げられるものだろう。

 然るに、

「ああ?」

「俺の気持ちだから!」

「……何言ってんだお前……?」

「受け取れッ、俺の、心からの気持ちだ、即ち、愛だ!」

「……なんだと……?」

「一欠けら残さず食べろ! ちなみに言うと俺の手作りだ! 嬉しかったら今この場で泣いても構わないんだぜ!」

「……何?」

「とにかく、受け取れ、ダーク、我が愛しの弟よ!!」

 と言う具合に、カーグの突き出したハート型のチョコレートを受け取るや否や真後ろにある屑篭にポイするダークの姿というのは、言ってみれば、理想の――少なくともカーグの想像していた――バレンタインの情景とは、著しく異なるものである。

「ああっ、何て事をするんだダーク、酷いじゃないか……。ほら、埃払ったから、食べろ、遠慮することはないぞ」

「……キサマ本気で言ってるのかそれは……、だったらすごいな」

 カーグは自信に満ち溢れた目をキラキラと輝かせる。何かに似ていると、ダークは思った。そうだ、あのポーレットという女が、カーグに何かを言うときにこういう目をしていたな。こいつは即ち、馬鹿な人間の女と同類項であるという結論が導き出される。

「食わんぞ俺は、お前の作ったものなど、口に出来るか。……大体、いつからここにいたんだキサマ、どこからどうやって入ってきた!」

「何も驚くことは無いぞダーク。弟のいるところに兄貴がいるのは、何ら不自然ではないことだからな!」

「全ての窓に鍵がかかっていたんだぞ」

「合鍵を作っておいたのさ」

「……っ、……この……、鍵を寄越せ!」

「鍵にはチョコレートがついてくるように出来ているのさ。さあ、齧り付いて良いんだぞダーク、俺の愛に、お兄ちゃんの愛にむしゃぶりついてごらんよ!」

「やかましい、今すぐ黙れ。クローゼットの中から自分の服を全て撤収させろ」

「あれは俺の服じゃない、半分はお前の服なんだ。この季節そんな薄着じゃ風邪ひいちゃうぜ」

「大きなお世話だ、キサマの服など着れるか!」

 云々。

 彼らは斯様なやりとりを一週間一度を上回るペースで行なっているが、今日はいつにも増してカーグが譲らない。

「とにかく食え、ダーク、美味いぞ、美味いに決まってる、何故なら俺が愛を篭めて作ったんだから!」

「一度ゴミ箱に入れたものなど食えるか!」

「ゴミ箱に棄てたのはそもそもお前だがまあお兄ちゃんそれは譲ろう、では俺が一旦口の中で清めてやるからそれを食え」

「ますますもって食えるか!」

「恥ずかしがることは全くないんだぞ、寧ろ悦びを爆発させたって誰も困らないんだ」

「誰より俺が困るわ!!」

「照れ屋さんだなあダークは。お前のような奥床しくて可愛い弟がいてお兄ちゃんは嬉しいぞ!」

「触れるな! 今すぐ死ね!!」

 それは今日が二月十四日即ちセント・ヴァレンタインデーであるからに他ならず、そこにカーグのある強固な意志が影響していることは説明不要であろう。

 繰り広げられるこの兄弟の行為、兄は愛情の交し合いだと思っているし、弟は単に憎悪を掻き立てられるものとしか思っていない。しかし心の上っ面でそう思い在っているだけで、兄は単純な愛情と、弟が憎悪と、思う以上のモノがあるかもしれないということを、二人は気付いていない。無論、単純、一直線的な感情しか持ちえていないこの兄に愛情以外の何物もないであろうことは恐らく事実であろうが、素直ではない弟の中身がどうであるかは、誰も及び知らぬところである。

 カーグがダークの隠れ処である山中の小屋にしばしば闖入し、ダークを困惑させるのはここ数ヶ月続いていることである。この魔族の王は現在療養中――ダーク自身はもっと別の、格好のつく言い方をするだろう――であり、正直なところ誰にも邪魔をされたくない気持ちが大いにあるのだが、恋ゆえに盲目の兄はそんな事などお構いなしで、ただ弟の側にいたい。

「いいかダーク、俺がこうしてお前をいとおしく思うのは、純粋な兄弟愛なのだ」

 とカーグは言うが、それが事実か否かの判断は難しい。少なくともダークには判らない。そうであると信じたい気持ちがあるばかりだ。それ以外の何物でもないと信じたいばかりだ。そして、全ての兄弟がこうであることを望まずにおれない。

つまりはダーク、もう判っているのだ。この兄のしていることが、「兄弟愛」の常軌を大きく逸脱したものであることを。

「まあ、……しょうがないなあ、どうせあと一時間もしたら夕食だもんな! そしたら食後に食べればいい、俺が美味しいコーヒーを入れてあげるから。お前は夕飯の支度の間、お風呂に入っていなさい」

「……いつ俺が風呂に入ろうと俺の勝手だ」

「そう言うわけにもいかないんだなあ。もう沸いてるし」

「……ッ、どうしてキサマはそう自分の都合で俺の生活を操作する!!」

「決まってるだろう、俺はお前のお兄ちゃんだからな!」

 信じたいのだ、カーグの行為の全てが、純然たる十全たる「兄弟愛」ゆえの行為であると。

 例えば、脱衣篭の中に、タオルと下着と、替えの服が揃っているという状況が。

 服は、カーグのいつか着ていたセーターであったということが。

 脱ぎかけたところに、「ちゃんと下着穿かなきゃ駄目だぞう」と一々指摘に来ることが。

 ……全て、ダークには判っているのだ、これを兄弟愛などとは呼ばぬことを。そうして、その事をいつも思い返しては、辛くて仕方がなくなる、悲しくて仕方がなくなる。浴槽、恐らくは丁度四十一・六度、湯上りのダークの動きを見て、カーグが研究した一番いい湯音になっていることを知りながら、カーグは身を沈め、そして、辛そうに顔を歪め、泣きたいような気分になる。

「なあ、やっぱり似合うよなあその服はやっぱり俺よりもお前が着たほうが。服だってお前に着てもらって悦んでるに違いないぞ!」

 湯上りのダークに、冷水の入ったグラスを渡す。そして、湿っぽい頭、気付いて、

「ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃうぞ」

 優しく微笑んで言う。

「……俺が風邪をひこうがひくまいが、お前には関係のないことだ」

 と言い放ち、水を飲み干し、空のグラスをテーブルに置いた。カーグは微笑んだまま、ダークの肩にかけられたタオルをするりと抜いて、光を吸い込む黒い髪を、ごしごしと拭いてやった。ダークは何も言わず、不愉快も愉快もないまま、髪の毛の乾燥していくのを意識した。

「なあ? お前の髪は綺麗な黒なんだから……、大切にしてあげないともったいないよ」

 なぜ褒める?

「さ、じゃあ、ご飯食べよう。今夜はお前の大好きなポークソテーだ!」

 なぜ?

 ダークは一度も「俺はポークソテーが好きだ」などと口にした覚えはない。

 ただ、初めてカーグの作ったものを残さず食べたのが、ポークソテーだったというだけで。カーグはそう信じ込んでいるだけだ。そして、ただ只管に覚えているだけだ、都合よく解釈しているだけだ。

 嬉しかったから。

 嬉しかったのか、俺が、たったそれだけのことを、しただけで。

 ダークは、椅子に座り、カーグがどこからか持ってきた白い皿に盛られた豚肉料理と、一応添えられた緑の野菜と、いつの間に煮込んでいたのか、飴色のスープ。

 どうして?

 ダークはそれに手をつける。残さずに食べる。それを兄が望んでいることを知っていようといなくとも、単純に腹が減っていたという理由だけでダークはポークソテーを食べる。知らないほうが楽だ。実際に、味は十分良いのだから。一々、美味しいか? 野菜もちゃんと食べるんだよ、カーグはダークに言う。ダークはその一つひとつに、二倍以上の言葉の量で悪態を突く、そして、残さずに食べていく。

 ダークは判っていた。この兄の感情を知っていた。その感情の名前を、その感情の在るべき形を。

 そして自分のことをよく判っているつもりだった。

「……さ、じゃあ、食後のデザートだ」

 コーヒーを本当にちゃんと入れて――ダークが好きな濃い目に入れて――チョコレートの包みを剥がす。ほこり塗れになったはずが、リボンの繊維一つ解れていない。

「大好きだぜダーク、お兄ちゃんはホントにお前が大好きだ」

 カーグは優しく微笑んでそう言う。ダークは表情を歪めて、何か言いかけてやめた、どうせこの男に、この馬鹿な男に、何を言っても無駄だと思った。

 そして、無造作にそのハートを掴んで齧り、コーヒーで流し込んだ。

「……甘いものは嫌いだ」

 立ち上がり、鍵のかかる自分の部屋へと大股で向かう。

「そうかー、じゃあ来年はビターチョコで作ってあげような」

 そうじゃない。

 ダークは無視して、部屋に閉じこもる。

 カーグ。

 カーグの馬鹿。カーグの……。

 ベッドの上で大の字に寝そべって、ダークは頭がカーグという文字で支配されるのを非常に非常に鬱陶しく思う。頭を抱えて、何か別の頭と交換したいと思った。追い詰められたような気分で、そうしたいと思う。払っても払っても付き纏う悪い虫なんだあれは、殺してしまったって……、そうだ、もう何の利害も一致していないのだ、俺たちは、……兄弟なんかじゃない、兄弟なんかじゃない。

 しかし「兄弟」を否定すればそこに新たなる問題の浮上することは明らかだ。甘んじて受け入れるしかない。そしてそもそも、自分はどれほど鬱陶しくてもあれをどうにかすることは、出来ないのだ。

 夜更け、隣室にカーグが戻った。

「ダーク?」

 薄い壁を通して、間抜けな声が聞こえる。ダークは返答しなかった。

「もう寝ちゃった? ……まあいいや、おやすみな」

 そう言われただけなのに、どうしてこうも俺は。

 

 

 

 

 深夜に、眠いのに、わざわざ。

 ダークは冷暗所に保管された、壊れたハートを取り出して食べる。甘いものは嫌いじゃなかった。どうしてああいうことを言うんだろうなと内心で歯軋りをしながらそれを齧る。きっともっと上手いやり方が在ることは、判っている。それをすれば、こんなイライラしなくても済むんだろう。こんな時間に起きてきて、息を殺しておいしいものを食べるような真似をしなくても済むんだろう。拘っているのはどこなんだ、そしてそれはなぜなんだ。

 カーグ。

 ――嬉しい、俺は、お前が嬉しい。

 


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