そう言う年頃なんだからしょうがないさ

 ああ……、しんどい、ダークはベッドに座って、膝に肘を置いて、うなだれた。ああ、これはしんどい、これは相当に、そしてこれからもっとしんどくなる。

 つい、さっきのことだ。

「いま、何をした」

「ん?」

「いま、何をした、と聞いているんだ」

「何って?」

「惚けるな! 貴様、いま……、いま……!」

 コニュケーションはいつも暖簾に腕押しの不愉快なイル・スタイル、ただそれだけで疲れを感じるような。カーグという男は憎たらしいほどに笑顔が爽やかで、実態を知らぬ殆どの者はその笑顔に騙され彼の者に「好青年」のレッテルを貼る。違う違う、違うのだ、この男はそんな善いもんじゃない、もっとずっと性質の悪い、いっそ気色の悪い、迷惑と気まぐれが服を着て歩いているような――

 確かに感じたのは、頬に湿気を帯びた肉の感触だった。

「ああ、キスのことか」

 さらりと言い退ける。これが「好青年」のすることか!? ああ!? 勘違いする輩の襟首を掴んでいまこの男がした一部始終を再現、されたら困るということに気付く。

 ごしごし、ごしごしごし、ごしごしごしごし、

「あんまり擦ると鱗が剥げちゃうぞ」

 手近にあった布で強く、熱くなるくらい拭っても、気色の悪い、生々しい、感触は容易にはそこから消え去らなかった。

「だって、お前は俺の、大切な兄弟だからな。どういう形でスキンシップを取ったって全ッ然構わないはずだろ?」

 穏和な微笑みで、抱擁を求めるような角度で両手を広げる。ダークは胸からこみ上げて来た胃液だか涙だか判らぬが何れにせよ不快な昂揚に、言葉一つ発することが出来なくなり、漸く掠れた声で搾り出すことが出来たのは、

「死んでしまえ」

 ただそれだけ。

 踵を返して、部屋を出て、意味のない鍵をかけ、ベッドに座って、今に至る。これはちょっと、しんどいことになってしまった、これは、ああ、困ったな……。

 ダークは、カーグの判りやすい、判り易すぎることを、まず恨んだ。

 ある程度の時間を生きた後の人間なら、他人の行動から他人の心を予測することは容易い。勿論、それが政界であるという保証はなくとも、人間は(或いは、魔族は)そう嘘吐きではないという、信頼という名の無知願望によって、一定水準以上「正しい」と断じることはできる。行動が即ち心という、短絡的な機構を内部に持った者というのもいる者で、ダークは自分自身を、どちらかと言えば複雑な機構を持っていると思っていた、そして、好例はカーグだとも。

 カーグが何を考えているか、どう思っているか、ダークは判りすぎるくらい、判ることが出来た。

 あの愚かな人間は、愚かさに上塗りをするように、俺のことが好きなのだな。

 その「好き」の色を、ダークはずっと、縋るような思いで「兄としての」「弟を想う」「好き」なのだと信じていた。信じたかったし、信じなければどうにかなってしまうと想っていた。何故って、それは望まれぬ二者択一で、何とかギリギリ我慢できるほうの選択だったから。もう一択は選択の余地もなかった、アリエナイただその一言で、切り捨ててしまえるものだった。

 同性愛という考え方のあることは、ダークも知っている。そういう存在のあることはあるのだろうとも思っていた。だが、よりによって、好むと好まざるとに拠らず自分の一番側にいる者が、そうであると考えたくはないではないか。

 自分のするこの拒絶は、誰に問題視されるものでもあるまい。

 ごくごく自然な振る舞いに違いない。

 だから「死んでしまえ」ばいい……。いや、さすがにそれは狭量か。いくら他と異なる考えを持っていたからといって即死の宣告というのはやはり良くなかったかもしれない。

 などと、ダークは考える、考えて、やっぱりどんな角度で見てもしんどい。

 とっとと全て捨ててしまえばいいのだ、ああ、判っているとも、そんな事くらい、よく判っているさ。

「ダーク? お兄ちゃんもう寝るからなあ?」

 黙れ……、黙れ黙れ、黙れ! チクショウ、何なんだ、何なんだ貴様は!

 カーグは、ダークにキスをしたことも、「死んでしまえ」と言われたことも、さほどの動揺のない、呼吸のようなものと想っているに違いない。ダークがこれだけ揺らぎ、否定するやり方以前にただ「否定」だけを決めてしまえばいいような問題に、健気に取り組もうとしているが故に、自己嫌悪し、悩んでいるのとは全く対照的と言ってよく、こうなると却ってダークのほうが愚かではないのかと、ダーク自身感じてしまう理不尽さ。

 ダークは知っていた。なまじ知らないほうが良かった。自分もカーグのように馬鹿であったなら、カーグの悪巧みにまだ気付かなくても済んだ、苦しまなくとも。

 何故俺がアイツのために苦しまなくてはならないんだ!!

 ……冷静に。考えうる限りの最大の悲劇を検討し、それに対する我が身の処し方を立案した方が建設的であると、ダークは大きく溜め息を吐いて、顔を上げた。

 この先に在る一番おぞましい事件というのは、つまり自分が反抗を諦め全てがカーグの思うが侭になった結果、やってくる生活、……結婚? 結婚生活?

 そして其処に付随するもの。……夫婦生活、この場合男同士だから夫夫生活とでも言うのだろうか、それとも片方が女役をやるとしてやはり夫婦生活なのだろうか。そう、片方が女役? どちらが? 俺か? 冗談では。アイツか? アイツだったら、駄目だ、気持ち悪いものを想像してダークは窓から唾を吐き捨てる、だったらまだ俺の方が似合っている、いや、しかし、しかしだ。

 同性同士の性行為……、性生活。

 冗談じゃ、ない……。

 「それ」がどういったやり方なのか、ダークも知っている。

かつて偉業を成し遂げた武勇の戦士たちは「男の」侍従を抱くことで満ち足りぬ欲求を晴らしたのだという。そう言ったときに――勿論男にはそれに最も適しているはずの膣はないわけだから――使うのは、例外なく口か肛門ということになる、口か肛門、……肛門……。

 しんどくなってきた。

 あの男が自分の身体を――具体的には肛門を――求めてきたなら、自分はどうするだろう。きっと全身全霊を持って抗うハズだと、ダークは確信する。剣を構え魔法を用い、最後の最後まで、この爪で拳でとにかく自分の身を守るはずだ。

 しかし、致命的な不安がダークには付き纏う。俺はあの男に勝てるだろうか? 猛者であるダークがそう危惧するに足るほど、確かにカーグは強い。隙の無い戦い方をする。何度か剣閃を交えたことはあるが、今一度して、最後まで果たしてどちらが勝つか。だから出来れば、怖いので、戦いたくは無い。しかし検討された最悪のケースにおいては、やはり自らの貞操を守るために、戦わざるを得なくなるだろう。

 勝てるだろうか。

 いや、勝たなければいけない。ダークのその戦い、彼に「敗北」は許されないのだ。もし剣を、両腕を、取り落としたなら、舌を噛んで逃げ切ってやる。予想される痛みは死と同等だったから、躊躇いなくそう決意することも出来た。

 と、ダークはここで一つ致命的な問題が生じていることに思い至った。そうだ、この部屋は「安全地帯」ではないのだ。あの男が本気になったならば、今宵もとりあえずの体でかけられた鍵など、何の役にも立たぬ。いや、鍵のみではない、この木の壁も、あの男は片腕で千切り捨てて侵入してくるだろうし、地上二階の窓からだって平気でやってくるだろう。そうだ、俺は今、全く危険な状態の中に身を置いているのだ。

 今すぐ此処から出るのだ。

 ダークは、立ち上がりかけて、しかし。

 ではなぜこの間、鍵を作らなかったのだとつき当たり、また脱力して、ベッドに座り込む。そうだ、そうだった。ダークは決定的なことを忘れていた。そしてそれに直面して、これまでで一番の困惑に苛まれることとなる。

 ああ、ああ、ああ、チクショウ。

 チクショウ……。

 愕然としつつ、呆然としつつ、ダークは暗い天井を仰ぎ見る。

 だからこんなにしんどいんだ。だからこんなに困るんだ。どうしようもない。自分自身が招いてしまったことだ、身から出た錆とはこのことか。

 一番困るのは、ダーク自身に、カーグを嫌いになりたくは無いという、途方も無い我が侭を内に隠していることだった。


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