目の中に入れても痛くないというのはあくまでものの喩えに過ぎないことをこの兄は理解していたが、それでも「俺はダークを目の中に入れても痛くない!」と、本当に入れた時のことまで考えて言い張る。
「ダーク、ほら朝だぞ! グッモーニング!! 起きろ!」
言い張る相手は誰になろうか。誰でもいい。ポーレットでもデルマでもいい。ベベドアに言ったところで微笑み殺されるだけであろうことは目に見えているので、彼女は避けるつもりだが、それ以外の誰に対してでもいい。
感情の動揺、殊、プラス方面への動揺は、誰かに話しそれを無理矢理にでも共有させることで、増幅したいと思うものだ。迷惑者と思われてもいいとカーグは勝手に心に決めている。彼はダークの為にどんな迷惑な人間にでもなりたいと願うのだ。仮にダークがそれを願っていなかったとしても、一方通行であったとしても、構わないという気持ちで。ただ単純にダークが可愛くて仕方がない。自分の中にその気持ちだけあればいいのであって、ダークがそれにつれなくても全く構わない。
自分のそういう考え方の、珍妙であることはカーグ自身も知っていることだ。
しかし、そうするほか出来ない。ダークはカーグにとって、たった一人の双子の弟であり、またそれのみの理由では説明できない可愛さを孕んだ命なのだ。
「……うるさい……」
「ほらほら、ねぼすけさん、ちゃんと起きなきゃ駄目だぞう、それとも、そうか、わかったぞ、お兄ちゃんにおはようのキスがして欲しいんだね!?」
「……」
ダークはむっくりと起き上がり、カーグの襟首を掴んで、部屋の外へ放り出す。そして、内側から鍵を閉める。
そして閉めたところでダークは気付く。
「おい……、貴様、どうやって入ってきた」
外側から、爽やかな笑い声、少しも悪びれた風はなく、
「決まっているだろう、合鍵だよ! 血の繋がった最愛の双子の弟の部屋にお兄ちゃんが入るのに理由がいるかい?」
かちゃり、と今しがた閉めたばかりの鍵が捻られる。ダークは反射的にそれをまた捻る。鍵と鍵の、熾烈な応酬が始まる。両者共に腕力はほぼ互角だから、鍵に異常な負荷がかかり、悲鳴が上がる。やがて、何かが歪む手ごたえがダークに与えられる、鍵はかちゃりと音を立てて閉まった。どうやらカーグの合鍵が歪んだらしい。
「どうだダーク、目が冷めただろ? 朝から運動するのは気分が良いなあ」
はあはあと肩を弾ませながらドアのノブに手をかけて、ダークは屈みこんだ、確かに、眠気は部屋の外に持って行かれたようだ。そうなると、もうこの部屋に閉じこもっている必要はない。どうせカーグが朝食を作って待っているのだ。食わないとまた何を言われるか判ったものではない。
この「何を言われるか」だって、ダークにとって決して辛苦のものではないのだ。「素直じゃないと余計に可愛いぞダーク!」「それとも何か、お兄ちゃんに食べさせて欲しいのかなあ?」、その言葉のたびに顔を歪めなければならないのは面倒なのだ。それが規則でもないのに、「そうだ」とダークは信じきっている。カーグの言葉には、必ず嫌な表情をしなければならない。
カーグとは、うざったくて、うっとうしくて、めんどくさくて、じゃまなばかりの。
そういう風にダークは思うことにしている。
ベーコンエッグ、玉子は二つ。ベーコンもわざわざ四枚を格子のように組んでいて、見栄えが無駄にいい。塩と胡椒がかかっている。完熟寸前で盛られていて、うっすらと敏感そうな黄身が一枚膜を通して伺える。それに、抜群のタイミングでバターの塗られたトースト、耳から零れそうなすんでのところで、溶けて吸い込まれるバター。そして食卓に彩りを沿える緑の野菜のサラダ。どれも簡単な見た目以上に、異常なまでに心の篭められた代物たち。
「丁度コーヒーが入ったところだ」
ダークが椅子を引く、ちょうどその瞬間を狙ったように、カーグは湯気を上げるコーヒーカップを持ってやってくる。
向かい合わせの椅子――それは部屋の構造上「上座」なのだが――に座って、
「さあ、食べよう」
カーグは朝には似合いすぎる爽やかさで言う。
朝には爽やかが似合うが、実際に爽やかに振舞うのは無理なケースの方が多い。ダークは憂鬱な顔でトーストを齧る。それが美味しいので、また顔を顰める。
「ダークは低血圧なのか?」
「……」
「いつもお前、朝なかなか起きて来ないんだもの。血圧低いんなら、それ相応のメニューにしないとな! 食事でも結構改善されるもんだ」
ギドの奴隷として働いていた当時、ダークは料理もこなすことを強いられていた。ゆえに、調理の腕前は男にしてはかなりのレベルにある。食べ物の味にこだわりはない、どんなものでも出されれば食べるが、舌は肥えているほうだ。それでも、この目玉焼き一皿、こんな単純なものなのに、どうしてこれほどの味になるのだろうか。それがまた、ダークの表情に険を作る原因となる。
更にダークを不愉快にさせることに、この目玉焼きの上手い理由は判っている。
先ほど扉の前でぐったりしていたダークの耳に響いていたのは、フライパンで油がはぜる音と、上機嫌なカーグの口笛だ。楽しげで嬉しげで、プラスのものを全て集めた音色が、ダークを犯していた。今思えば……。
思いびとの為に作る朝食。
阿呆らしいのと、下らないのと、寂しいのと、ごちゃごちゃしたものが、胃のあたりで蟠った。それを飲み込んで、ダークは今朝もカーグの食事を、残さず食べきった。これで三週間連続ということになる。猫舌だから、コーヒーはいつも冷めてから飲む。ダークのその癖を知っているから、カーグは一番最初にコーヒーを入れる。そうするとダークが食べ終える頃には、すっかり冷たくなっていて、ダークがぐっと一息で飲むには具合がよくなっているから。
いい加減にしてくれと、ダークは思う。
思い、顔を顰め、しかし、いい加減にしてくれ、しかし、やめないでおくれ、どうか、どうか、どうか……。絶対に口に出したりなどするものか。そんな無様な真似は絶対にするものか。自分の弱さを認めるような真似など。
「さて、と。ダーク、これからどうするんだ?」
「……部屋にいる。入ってくるな」
「二度寝するなよう?」
大きなお世話だ。
鍵をどうにかしようと思ったのだ。寝込みに入って来られるのは正直恐ろしい。あの男、何をするか判らない危うさがある。それに対して殆ど少しの警戒心も抱いていないくせに、ダークは鍵を作らずには要られなかった。扉の内側と壁に釘を打って、針金で巻いて結ぶ。扉を開けようとしても、引っかかって動かない。正直、カーグの力であればこの程度の代物、簡単に引き千切ることは可能だろうし、その気になればあの男は窓からだって入ってくるだろう。しかし、こうすることによってあの男に精神的疎外感を味合わせることが効果を発揮するのだと思う。あの男がこんなことで堪えてくれたならの話だが。
しかし、木づちで釘を打ちつけながら、自分は一体何をしているんだろうという気になる。なぜ、一緒に暮らすつもりも無い相手と一緒に暮らし、その相手から逃げるための策を打っているのだろう。不条理すぎて、まるでこれが当たり前のようにも感じられてくるが、あきらかに可笑しい。二本の釘を打ちつけ終えて、針金を巻きつけながら、行為に没頭しきれていない頭では途方に暮れている。何をやっているんだ俺は。考えたところで答えが出ないのは、答えなど無いから即ち、この行為は間違っているから。
針金をきっちりとぐるぐる巻きにして、鍵を外し、試しに扉を内側から押し開けようとしてみる。はたして、扉は釘の長さの分だけ開いて、針金によって食い止まった。二三度押してみるが、幾重にも念入りに巻いた針金はびくともしない。恐らく、その気になって無理矢理にすれば空いてしまうのだろうが、それ以前に、この「幾重にも念入りに」針金を巻いたことが重要なのだ。カーグに与える精神的ダメージは、さほど軽いとも思えない。
よし、とその簡易鍵の針金を見下ろして、はっと気付いた。気付いたところに、足音が近づいてきて、ノックの音がする。
「ダーク、昼ご飯は何時くらいがいい?」
「……!」
「食べたばかりで悪いけどさ、これから買い物に行って来るから。何時ごろがいいかなって。……あけるよ?」
「まっ……待て! 開けるんじゃない、入って来るんじゃない!!」
「え?」
「……っ、何時でもいい、だから、行くならとっとと行け、開けるな!」
「ダーク……? ……うーん、わかったよ、じゃあ一時くらいでいいかな。行って来るよ」
心臓がどきどきいっている。
そんな自分に気付いて、自分でも異様なほどに腹が立つ。
そして、大好きな者の為に昼食の買い物に行く奴だけが吹けるようなメロディーを流しながら、カーグの足音が遠ざかった後に、ダークは悄然と針金を解く、釘を抜く。
何をやっているんだろうな俺は。
「……馬鹿らしい」
こんなことをやったってあの男は入ってくるだろう。だから、こんなことは無駄だ、労力の無駄遣いだ。馬鹿らしい。
いや。
そうではない、こんなことをするのは、罪だ。罰当たりなことだ。ダークには、悔しいくらいにカーグのことが予想できた。鍵を合鍵で開けて、それでも扉が開かぬことで、カーグはダークの拒絶を確かな形で知るだろう。そうして、その程度はどうであれ、カーグの抱く気持ちは――
釘と針金には何の罪もないのに、ダークはそれを壁に投げ打って、ベッドの上に座り、そのまま、まだどきどきいっている胸が忌々しくて、溜め息を吐きながら仰向けになった、天井を見上げる、チクショウと口に出して言ってみる。その声が自分のものとは思えないくらい明るく清々しいのが、尚のことチクショウだとダークは思った。
判らないな、判らない。
カーグは或いは、自分の知らないとんでもない時に、この部屋に入っているのかもしれない。朝、寝起きの時のみとは限らない。警戒心の強いはずの自分が、朝あの男に揺り起こされるまで、あの男の気配に気付けないのだ。眠りの深い時間帯に、何をされているか判ったものではない。
そう考えることは恐ろしいので、至らぬうちにやめたが……。