物思い物書く人の日々

 彼には幾つかの名前があったが、その名のどれでもない名前が彼にはあるのだった。

 

 

 

 

「先生、どうか、どうか、お願いします、明後日までにどうにか、大まかな形だけでも作って頂かないことには、いえもう、文字列でいいんです、もうね、先生の書いて下さった文字列であれば!」

「うん……、君、あまり各方面に対して失礼なことを言うものではないよ」

「文字列がダメなら、じゃあこうしましょう。登場人物を整列させて端から番号を言わせて行くんです、十回ほどやって頂ければ乗り切れます」

「なかなか古風な遣り方だね」

 無茶なことを言う編集氏に苦笑するとき、彼は「先生」である。痩せぎすで髪が伸び放題、顎や鼻の下には無精髭が目立つし、若くとも四十は下るまいという顔立ちの彼は、

「まあ……、約束は約束だ。私も一度書くと言ったものを放擲するような真似はしないよ」

 立ち上がると、六尺ほどの長身。ただ、着慣れたというか着古された襟なしシャツと擦り切れたチノパンという出で立ちで、決して美麗な人ではない。

「先生、どうぞよろしくお願いします!」

 深々と頭を下げる編集氏に頷き、この男の胃炎を自分のせいで悪化させることがあってはいけないぞと改めて思う。思うのだが。

今ひとつ、筆が乗らない。

「先生」と呼ばれるときの彼は、小説家なのである。

 

 

 

 

 肩に古びたコートを引っ掛けて喫茶店を出た彼は、都電荒川線に乗って王子で降りた。まだ桜は固い蕾で、風も冷たい。「先生」と呼ばれ、社会と結び付きがある間、彼は自分の筆で糊口をしのぐが、彼自身この仕事が天職であるとは思っていない。とはいえ働かないではいられないし、どういう訳が彼の小説を愛している読者は少なくない。

そんな次第で、短編の仕事を受けたはいいが、締め切り三日前ながら遅々として筆が走り出さない。

 こういうとき、彼は散歩をする。このところずっと散歩をしている。

王子駅前からほど近い飛鳥山公園を登り、人っこ一人いない噴水を眺めるベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けた。こういうときの彼は名もなき中年男で、平日の午後三時にぼんやり時間を潰している暇人か、悪くすれば浮浪者のように映るかもしれない。……事実、似たようなものだなと彼は内心に苦笑し、しかしどうにかしなければなるまいと腰を据えて目を閉じる。

 言葉を捻り出すことそのものは、彼にはそう難しい仕事ではない。しかるに、曲がりなりにも仕事として捉えたときには、編集氏が言ったように作業的な文字列を並べるわけにも行くまいと思っているのである。

 職業作家であり、しかし見目はうだつの上がらない中年であり、また社会といま一つの関わり方を持っている彼は、ある種の神的な存在であった。人間の何倍も長く生きている。しかしそれを知る者はごく一握り。少なくとも彼の戸籍上の名前と同じ姓を持ち、親しく付き合う一族の者たちさえそれは知らないでいる。もっとも、知らせる必要はないと思っているのであるが。しかるに、神的存在とはいえ目の前の締め切りには少々の困惑を抱かざるを得ないし、彼はどちらかといえば人間らしい存在でいたく思うので、日常の大凡の時間、自分がどういう者であるのかを忘れている。

「……ん?」

 眠っていたわけではなかったが、すぐそばに存在が生じていることに気付くのが少し遅れた。

 隣に、小さな少年が座っている。じいっと彼の顔を覗き込んで、笑いを堪えるような、同時に案ずるような、そんな表情を浮かべている。

「荒川さん」

 小学校三年生である。しかし、もう少し幼くも見える。背が小さくて愛らしい顔をしていて、とりわけその柔らかそうな頬がそう見せるのだろう。

 その少年、土ノ日舎人はいつもの通り、お気に入りの白いキャスケットをかぶって、「荒川さん」と目が合うとにこーと微笑んだ。立ち上がると「荒川さん」の腰の辺りまでしか身長がない、まだほんの幼子である。幼子ではあるが、彼は立派に一つの鉄道路線を守護する精霊的存在である。とはいえ舎人は「荒川さん」のような神的存在ではなく、ごく普通の小学三年生である。浅草に住む、鞍馬・春陽・新・光の四兄弟がそうであるように。

「荒川さん」という彼の名は、彼が都電荒川線の守護聖であることに因む。都営の地下鉄四路線、浅草線の鞍馬、三田線の春陽、新宿線の新に、大江戸線の光、そして新交通システムである日暮里舎人ライナーの舎人と全員姓は「土ノ日」である通り、「荒川さん」も戸籍上の姓は土ノ日である。だが、一番古株の彼だけは他の者たちから「荒川さん」と呼ばれるのがいつの頃からか習わしになっているのだ。

「やあ……、君か。一人かい? まだ二時だが」

「今日は、学校おわるの早かったの。だからね、おさんぽ」

 日暮里舎人ライナーと都電荒川線は熊野前で乗り換えが可能だ。小学三年生の少年が一人で「おさんぽ」となれば、そう遠出をするはずもなく、かと言って電車に乗るのは慣れているわけで、王子飛鳥山公園がその行き先に選ばれるのは自然なことだろう。

「だれか知ってるひといないかなあって思ったら、荒川さんがいたよ。……ねてたの?」

 知らない大人にこんな風に話しかけてはいけないという教育は当然受けているはずだ。しかし舎人にとって荒川さんはちっとも「知らない大人」ではない。両親公認のもと、あの四兄弟に東葉高速鉄道線の守護聖である早葉碧も一緒に、去年の夏には研修合宿(という名の温泉旅行)に行った間柄である。

「いいや、……ちょっと考え事をしていただけだよ」

 同じ鉄道事業者の路線の守護聖同志だからと言って、定まったコミュニティがあるわけではない。あった方がいい、とは荒川さんは思うのであるが、仮にJR各線の守護聖がプライヴェートでの付き合いもあるとなれば、その付き合いだけで年間の予定が潰れてしまうだろう。また概ね各路線の守護聖は、ライバルに当たる路線の守護聖と交流を持とうとはしないし、逆に相互乗り入れの関係にある者同士なら(それが自然な形の相互乗り入れであれば)親しく付き合うようになることも多い。

 そんな中、荒川さんが守護する都電荒川線は都営地下鉄路線では三田線とかろうじて一駅乗り換えが可能であって、土ノ日春陽との付き合いはそこそこのものがあったが、昨年夏まで他の同胞たちとは縁がなかった。それが一緒に合宿旅行に行くまでの間柄になったのは、この舎人の存在が大きかった。

 昨年の夏、この飛鳥山公園で荒川さんは舎人と出会ったのだ。

 同世代かちょっと年上ぐらいの子供たちと、すぐそこの噴水で遊んでいた。同じ地域の子供たちではなさそうに見えたが、子供ら特有のコミュニケシーションですぐに仲良くなって、一緒に水遊びをする運びになったらしい。そのとき、水着を持って来ていなかった舎人の下半身は白いブリーフ一枚きりで、たまたまこの日陰のベンチで休憩していた荒川さんは、何となく危なっかしい気持ちでそれを眺めていたのである。……無防備な子供を狙う不埒者は今も昔も多い、あの少年がそういう者の毒牙に噛まれることのないようにと。

 そうして眺めていたときに、目が合った。……これでは私の方が不審者ではないかと微かに気持ちがざわめいたところで、少年ははにかんだように笑って、どうして自分がパンツで遊んでいるのか、……水着を持って来なかった、パンツも濡れてしまったから乾くのを待っている、そういう意味のことを言われた。名前は土ノ日舎人、小学三年生……。

 人間でいたい、出来れば善人で在りたいと願う荒川さんは、急いで王子駅前のビルに入った洋服屋で少年にぴったりのブリーフを購入して、舎人に与えた。彼が日暮里舎人ライナーの守護聖であったことは全くの偶然ではあったが、彼と知り合ってから間も無く鞍馬や新とも知り合い、交流が始まった。それより以前からも、東葉高速鉄道の碧とは偶然知り合って付き合いがあった荒川さんは、要するに風采に反して子供に好かれやすい大人なのであった。

「おしごと?」

 舎人は、荒川さんがどんな仕事をしているかを知っている。まだ舎人には難しいし、また読ませるべきではあまりないとは思っているが、舎人の両親が荒川さんの小説家としての仕事の熱烈なファンなのだ。ファンレターは編集部に保管してもらっているが、先日それを総ざらいしたら、なるほど、「土ノ日」姓の夫婦からのファンレターを見つけることはすぐ出来た。

「……まあ、そうだね。私の仕事というのは、頑張ったから上手に出来上がるというものでもないからね」

「荒川さんの書いたの、ぼくはまだ読めないけど、おとうさんとおかあさんは大好きだよ」

 そう言ってくれる人の存在は、荒川さんにとっては支えとなる。

 今でこそこうしてはるか年下の「友人」と喋ることも増えたが、基本的には孤独な存在であり、一月を振り返ってみても担当編集者としか話さなかったということもあったほどで、そういうとき荒川さんの心の支えになるのは顔の見えぬ距離の読者たちである。その存在があるからこそこれまで物書き稼業を続けて来られたのだし、今だって目先の締め切りをどうしようか悩むのである。

 舎人は父母が荒川さんのファンであることを知る以前も知って以後も、荒川さんへの態度を変えない。彼は荒川さんの「ともだち」だからだ。ただ、自分の出来ないことが出来る荒川さんのことを心から尊敬しているらしく、

「おはなしって、どんな風に作るの?」

 今日に限らずときどきこんな風に、作家の仕事について興味を持った。

「人によるだろうから、一概には言えないが……、私は、例えばこうして散歩をして、偶然君と出会った、それだけで一つの話はもう出来上がっていると思うよ」

 実際、荒川さんの話はそう大きなものがあるわけではない。この中年男性の容姿のように地味で、華やかさには欠如している。端的に言って、……小説家として働き始めて二十五年ほどになるが、その間に年間のベストセラーになったタイトルは一本もないし、映像化されたことも一度しかない。それでも書店に行けば荒川さんの本はどこにでもあるし、返本も少ない。いま荒川さんが抱えている小説雑誌の表紙に並ぶ作家名の、上から六番目ぐらいのところに、やや控え目なサイズで名前が並ぶ。

 そういう彼の作家としての手法あるいは作法も、決して特別なものでもない。一つひとつのプロセスを経て完成に導いて行く……、そうとしか言いようがない。荒川さん自身平凡であることを自覚している。

「じゃあ、日記みたいなの?」

 日記、なるほど、確かにそういう見方も出来るかもしれない。微妙なニュアンスの違いはもちろん認めた上で、

「そうだね」

 と荒川さんは首肯した。小学生が書く文章として最も身近なものは日記と読書感想文であろう。小学生だったことのない荒川さんでもそれぐらいの知識は持っている。

「毎日、当たり前に過ごしている。その中には数え切れないぐらいたくさんの、特別なことが起きているのだと私は思っている……」

「今日ここで荒川さんと会ったのも、とくべつなこと?」

 それはごくシンプルな言い方を選ぶならば「偶然」ということになろう。しかしその言葉で片付けてしまうには、物事はあまりにも複雑に成り立っていることを忘れてはいけない。締め切りに追われた荒川さんがふらふらと辿り着いたのがこの飛鳥山公園である。しかるに、平日の昼間であることを加味すれば、舎人の学校が午前中で終わらなければこうして出会うことだってなかった。

「……そうだね。こういう何気ないことを忘れずに、大切に覚えていることが、私の小説にとっては何よりも大事なんだ」

 しかし、商売物として「締め切りに追われた作家が小さな友人と出会う」だけでは成り立たないこともまた事実である。あの胃の悪い編集氏も気の毒だ。

「むずかしいねえ。ぼく、宿題の日記書くのもいっつもたいへんだよ。ひかりくんもそう言ってた。みどりちゃんは、作文とくいなんだって」

 舎人はいつもながらのんびりとした声でそう言う。ぴったりと荒川さんの隣に寄り添って、ただ座っているばかり。いっしょに遊んでとも言わないし、どこかへ連れて行ってとも言わない。ではそれで面白いのだろうかと思うけれど、にこにこ微笑んでいる。この幼い少年の周囲には、心を和ませる温かな空気が流れているかに思える……。

 そしてその空気はきっと、少年自身の心さえ弛緩させるのかもしれない。

「ふああ……、あふ」

舎人は、大きなあくびをした。

「……眠いのかい?」

「ん、ちょっとだけ……」

 幼い少年である。保育園児のように昼寝が必要だとは思わないが、一方で寝たい時に寝たっていいと思う。眠りに惹かれていることを否定したがっていること伝わってくるが、とはいえそんな無理をさせる必要もない。

「寄り掛かって構わないよ」

 荒川さんの言葉に、舎人は結局甘えた。柔らかで温かい身体が腕に寄り添い、やがて荒川さんの手に従って、膝に頬を寄せて、規則正しい寝息を立て始めた。荒川さんは自分のコートを器用に脱ぎ、……少々煙草臭いだろうかと案じながらも舎人の身体に被せた。そうするとき、中年男の荒川さんは案外に美しい。

 さて、どうしようか。……締め切りは護らなければならない。この子が起きるまで上手いこと纏ればいいのだが……、そう思いながら、再び荒川さんは瞑目する。全く小説家とは因果な商売だ。言葉というものを操るのが仕事であるはずが、もっと原始的な、心というものと無縁でいられない。人でいたいと願う神的存在の荒川さんにとって、人の心を十全に解し言葉へと換えて行くのは思いのほか難儀なことなのである。他方、その人間離れした視座が垣間見えるその文体こそが、舎人の両親のように熱狂的な読者を生み出し、長く仕事を続けてきたことに好ましい影響を与えてもいるのであるが……。

 

 

 

 

「あの、もしもし」

 荒川さんとしては迂闊なことであった。舎人の頭はまだ膝にあって、……よだれが垂れている。それは別にいい。問題は、自分まで一緒になって眠ってしまったということで。

 そしてそんな自分の前に、男が立っていることに目を開けるまで気付かなかったと言うこと。舎人の醸す和みの空気は神的存在である荒川さんの心まで包み込んでしまうらしい。もっとも、舎人にしても浅草の四兄弟にしても、……誰が言い出したのか判らないが「ソウルフルヴォイス」なる霊的な力を持つ「声」を発することが出来るのだが。

 荒川さんの胸が嫌な具合にざわつくのは、

「失礼ですけど、……ちょっとよろしいですかね?」

 目の前の男の着用している制服制帽を見たからだ。

 即ち目の前にいるのは、……おまわりさん。

 別段荒川さんに落ち度はなく、疚しいところもなく、かといって平常心でいられるかと言われればそうではない。いつでも沈着冷静な荒川さんだって、……おお、と思うわけだ、困ったぞ、と。

 だって、自分の膝を貸して寝ている舎人がいる。

「こちらは、お子さん?」

 荒川さん自身、美麗な見目をしているわけではないという自覚がある。場合によっては「不審者」と映ったって仕方がない。そういう男がこうやってベンチで、とても縁のありそうにもない少年を膝枕している様子というものが、第三者にどう映るかということにまで考えが至らないまま眠ってしまったのであるから、自業自得と言えばそれまでであるが。

 きっと、胡散臭く思った誰かが通報したのだろう。

 荒川さんは猜疑心を隠そうともしない若い警官に、

「……ああ、いや、違う。友人だ」

 抑制した声で言ったが、どうせ信じてもらえまいという思いは抱いていた。

「ああそうですか……、ご友人。失礼ですが、お名前とご住所を訊かせて頂いても?」

 舌打ちを荒川さんは飲み込む。舎人を包むコートの内ポケットにそっと手を差し込んで財布を取り出す、「……んん……」舎人の眉間に皺が寄った。この天使の甘やかな眠りを妨げてしまったことが、荒川さんには何よりも苦しく思われた。警官は全く気にした様子もなく、

「やあ坊や、こんにちは。このおじさんは坊やの『お友達』なの?」

 財布から保険証を取り出した荒川さんにではなく、起きたばかりの舎人に訊くことを選んだ。

「んー……、うん、そうだよー、荒川さんはぼくのおともだち……」

 その、舎人としては当然の答えは荒川さんを困惑させる結果を招いた。何故って、荒川さんの本名は決して「荒川さん」ではなく、その健康保険証には「土ノ日」からはじまる名前が記されているのだから。

 保険証を検めた警察官は、じっと荒川さんと舎人を見比べて、

「……ちょっと来て頂いても宜しいですか」

 慇懃無礼。有無を言わせぬ口調でそう言った。ここで徒に反論することが得策ではないということは理解している。警官が無線で何やらやり取りする横を、舎人が心細そうな顔で見ている。荒川さんに出来るのは、

「大丈夫だよ」

 ずれた舎人のキャスケットを直してやることぐらいで、はたしてそれがどれほどこの少年を安らがせることになったのか、荒川さんには覚束ない。

 

 

 

 

 交番の奥というのはこうなっていたのか、と荒川さんは知った。王子駅前のポリスボックスの奥と入口で荒川さんと舎人は分けられ、荒川さんは溜め息を吐く。

 舎人が入口の方で「荒川さんはともだちだよ、ぼくのともだちだもん」と泣きそうな声で言っているのが聴こえてきて、それが荒川さんの胸を傷ませた。そう、私たちは友達だ。……しかし、誰の目にもそう映るわけではないことを荒川さんは知っている。

「まあ待って待って。ね、いまお母さんに電話したから……」

 年配の警官が幼子をあやすように舎人に言っている。さっきから飴玉で機嫌を取ろうとしているのだが、「ともだち」に嫌な思いをさせている警官をはっきりと敵視する舎人にはちっとも効果がない。

「『荒川さん』っていうのは、何なんですかね、えー、ドノヒさんでいいんですか」

「ツチノヒ、だ」

「あの子と同じ苗字ですな。でもご親戚じゃないってさっき言ってましたね」

「同姓なのは単なる偶然だ」

「偶然。……じゃああなたは偶然あの公園であの子と知り合って、……『荒川さん』っていうのは偽名でいいんですかね」

「……どう解釈して貰っても構わないが」

 警官もやや苛立っているようだ。荒川さんは内心の困惑はどうあれ、事実しか喋っていないのだからあくまで堂々とした態度を崩さない。見た目が貧相な中年に過ぎず、児童を標的とした性犯罪者という迷惑なレッテルを貼られながらも自分は恥ずべきことは何もしていない、泰然としているのが気に食わないのであろう。

「まあいいです、……職業は?」

「自由業」

 小説家、と答えては、また面倒なことになりそうで荒川さんはそう誤魔化した。事実、小説家なんてそんな程度の仕事だ。

「自由業。ええと、生年月日を」

「一九六八年、五月九日……」

 じわじわと締め切りが近付いて来る時間に私は何をやっているのだろう、と呆れたい気持ちが溢れてきた。荒川さんは溜め息を吐き、「煙草を吸わせてもらうよ」と断って火を点けた。若い警官は鼻白んだようだが、荒川さんの興味は彼ではなく、ドアの向こうに隔てられた舎人へ向いている。……可哀相なことをした。私一人連れてくればいいだけの話ではないのか。

 そう思って、普段より苦い煙を吐き出したところだったか。

「あ、おかあさ」

 と言うところで、舎人の声は途切れた。

「あなたたちは……」

 微かに震え、上擦りそうなところを辛うじて抑えて……、声のヴォリュームからその魂の輪郭が溢れそうになっている女性の声が、荒川さんに慌てて煙草を消させた。舎人の母親が到着したらしい。

「ああ、お母さんですな、ご心配」

 なく、と言い掛けたに決まっている年嵩の警官が、椅子から転げ落ちた。即ち、

「先生にっ、何て失礼なことを! 先生はどこっ」

 金切り声が、破裂した。……彼女は守護聖ではない、だからその声は「ソウルフルヴォイス」ではないはずだが、「ひえっ」と若い警官も椅子から転げ落ちそうになる。荒川さんの頬もびりびり強張るような声である。

「先生っ」

 がらがらぴしゃ、と引き戸が開けられる。真っ赤な顔の舎人の母親、……まだ、三十になって少しの時間しか経っていないように見える、舎人がきっちりと受けついた大きな瞳、愛らしい顔立ちの女性である。

「先生……、ああ先生、申し訳ありませんっ」

 よたよたと歩み寄って、土下座せんばかりの勢いで頭を下げる。

「あ、ああ……、いえ……、私は」

「舎人っ、あなた、ちゃんとこの人たちに言わなかったの! この方が、この方が、偉大なる……っ、あんたたちっ」

 唖然とする警官二人を真っ赤な目で睨み据えて、舎人の母親は言い放つ。

「こちらにおわすお方を何と心得る! 畏れ多くもっ、この方はっ」

 交番の外にまで聴こえるような声で、荒川さんの小説家としての名前を披露した。

 が、地味な作家である荒川さんである。警官二人は顔を見合わせて、……お前、知ってるか? いえ、……深い深い困惑の中に陥るばかりである。

「おい、おい、君、声が外まで響いていたよ……、もう少し落ち着きなさい」

 息を切らせて駆け込んできたのは、

「あっ、おとうさん……」

 時間帯的に、仕事中だったのではないのか。舎人の若い父親である。荒川さんと目が合うと、急に畏まって、

「こ、これは先生っ、……この度はとんだことでございました……、大変なご迷惑をお掛けしてしまって、何とお詫びを申し上げればいいか!」

 腰を直角に折る。

「……ええ、いや……」

 騒々しい父母の闖入に、弱りきったのは警官二人である。優しい顔立ちの父がキッとばかりに二人を睨んで、

「君たち、其処に座りたまえ!」

 叱声を飛ばす。「君たちは、こちらにおわすお方をどなたと心得るっ」

「あなた、さっきそれ私が言った」

「そ、そうなの……、じゃ、じゃあもう判っているだろう! この方を、こんな狭苦しい、せせこましい、むさくるしい場所にいつまでも拘束していること、それ自体が最早罪だ!」

 舎人は両親の姿をぽかぁんと見上げている。同じような「ぽかぁん」の表情を浮かべているのは、警官二人も同じであり、……何だか、かえって気の毒になってさえ来る……。

「私は、大丈夫です。……お二人とも、外で人が見ていますよ」

 荒川さんは寧ろこの事態にこそ冷や汗をかきそうになりながら、二人を宥め、……ともあれ無罪放免、事実として無実の中年男性は、未だ興奮の収まらない熱狂的なファン二人を促して、どうにかこうにか交番を出ることと相成ったのである。

 

 

 

 

 王子飛鳥山公園から程近い喫茶店に、荒川さんは舎人親子とともに逃げ込んだ。

 舎人が悪いことをしたわけでもないのに、二人の熱狂的なファンは家に帰ったあと舎人のことを叱りつけさえしそうな勢いであった。荒川さんは何度も繰り返し、「舎人くんのことを叱るのでしたら、どうぞ私のことを叱ってください」と懇願し、二人から舎人を責めないという言質を得た。

「申し訳ありません……、お恥ずかしいところをお見せしました」

 恥じ入る父に、恥じるべき点が違うように荒川さんは思う。人の親になったことはないが、どこの馬の骨とも判らないような中年男と可愛い一人息子が「ともだち」であることを容認することは相当奇異な感覚なのではないかと想像するのだ。

 しかし、この夫婦は本当に荒川さんのことが好きであるらしい。好きすぎるのも考え物だ。

「私たちはですね、本当に、荒川さんさえ宜しければ、舎人を、荒川さんに嫁に貰って頂いてもいいくらいのことをいつも考えているのです」

 そこまで行くと熱狂的を通り越して偏執狂的でさえある。大体舎人は男の子である。

「まあ……、それは舎人くん自身が決めることですし……」

 とはいえ、浅草の四兄弟の上三人が光を溺愛していることは――そのやり方を含めて――承知している荒川さんであるから、関係性自体を否定するものではない。荒川さんのような性質の「人間」の嫁になるよりも、舎人にはもっと幸せになる方法があるに決まっているし、そもそもこの父親がそう言うのは単に、荒川さんとの距離を近づけたいというエゴに過ぎまい。

「ぼく、荒川さんのおよめさんになるの?」

 無垢な舎人はそのことに何ら疑問さえ抱かない。荒川さんは苦笑して、

「君自身のお嫁さんになりたいという人が、世界には必ず居る」

 優しく説くことぐらいしか出来ない。

「ぼくのおよめさんかぁ……。ぼくはひかりくんが好きだから、ひかりくんがおよめさんになってくれたらいいなあ」

 二親がどれほどのことを言ったって、舎人はそういう程度の認識しか持っていない。荒川さんは頷いて、三人の兄たちがどう思うかは一旦脇に置くとして、

「それでもいいだろう。彼の家はお寿司屋さんだから、彼と結婚したら毎日美味しいお寿司が食べられるだろうね」

 と冗談を言った。

「光くん……、浅草の土ノ日さんのところですか、……まあ、確かに『みやこ鮨』さんはいいお店でもありますし……」

「そうねえ……、あそこは一戸建てだし、お宅も広いし……」

 何を真剣に検討しているのか、この人たちは……。

「ぼく、お寿司好きだよ。でもひかりくんのことはもっと好き」

 にっこり笑って舎人は言う。その気持ちそのものは、きっとそれでいいのだろう。光だって舎人のことを可愛い弟のように思っているはずだから……。舎人のマイペースなものの捉えかた言葉の選びかた、どちらも、この両親から受け継いだものであることは明らかだった。

 マイペースな一家。

 しかし、家族であるというだけで、生涯そういったものとは無縁で生きてきた荒川さんには少し羨ましく思われる。やや傍迷惑なものではあるにせよ、荒川さんと舎人が「友達」であることを認める背景には、荒川さんが彼らの好きな小説家であるということ以上に、息子への信頼があることは間違いなかろう。だって荒川さんが初めて舎人の両親を訪ねたとき、まだ小説家としての素性を明らかにする以前から、

「まあ、まあぁ、すみません、息子がご迷惑をお掛けして……」

 荒川さんを怪しむということは全くしなかった。幼い息子を一人の人間として信じ、その感覚を認めるが故のことであったろう。

 家族間の信頼関係という点で言えば、浅草の四兄弟もまた同じだ。鞍馬・春陽・新の三人は光に恋をすると同時に、それぞれが兄としての役割を果たすべく日々に清らかに生きている。そして三つの愛情を身に享ける光も、ただその愛情を甘受するのみならず、一個の人間として兄たちを支え、思いを返そうと努めている。

 近年、家族関係、親子関係でさえも希薄なものとなりつつあるという。家族の居ない荒川さんにその実感は乏しかったが、二つの土ノ日家の在り方を見ていると、……こうでなくってはいけない、という気持ちにさせられるのだ。

 そこまで考えたところで、薄っすらと、白紙だった荒川さんの原稿用紙に文字が浮かび上がる。

 ああ、……そうだ、今日のことを書こう。

 日記のようなもの、と舎人が言っていた。

 そうだ、それでいいのだ。交番に拘置されることなど、得がたい経験であろう。この舎人の、珍妙な――と言ってはいけないが――両親も、そうそう居るものではない。しかるに、ここにあるのは一つの家族の出来事である。

「君のお陰で、締め切りに間に合いそうだよ」

 一家を見送るために熊野前の電停に下りた荒川さんは、舎人に視線の高さを合わせて言った。舎人に意味が伝わるはずもないが、舎人はにっこり笑って、「よかった」と言って、何度も繰り返しお辞儀をする両親の元へ行きかけて、……「あ」と声を上げて立ち止まり、また戻ってきた。

「ぼくね、ひかりくんがおよめさんになってくれなかったら、荒川さんのおよめさんになってもいいよ」

 無邪気な微笑と共に言う。何ということを言っているのだ……、そんな自覚も舎人はないはずで、「じゃあね、荒川さん、ばいばい」両親の元へと走っていく。

 まったく。

 荒川さんは微苦笑をしながら、両親が、もう豆粒のように小さくなってもぺこぺことお辞儀をするのをやめないものだから、いつまで経っても電停に立っていなければならなかった。


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