眼鏡を外すと何も見えない

 

 土ノ日家次男・春陽、二十一歳、身長百七十九糎、体重六十粁。其の数値表す通り貧弱な立姿。視力は小学生の頃より悪化の一途を辿り、小学三年生の段階で眼鏡着用。接眼型眼鏡は体質に合わず現在までほとんどの時間を縁眼鏡による矯正視にて過ごす。裸眼での視力は〇・一未満。

 体質的には虚弱、運動も不得手、食欲は慢性的に不振。一方で学業成績は幼少期より優秀、現在は都内のとある大学の文学部三年次、近代文学研究ゼミに籍を置き、進路志望は大学院への進学。

 そしてやはり、重度のショタコンでありブラコンである男は、いつでも何だか、疲れている。この優しく、体型の通りに気も細い男は、周囲に余計な気ばかり使って胃を傷めるという悪癖を幼い頃よりずっと繰り返している。このところは一応、もう大人であり、自分の精神も含めて体調を自己管理出来るようになっては居るけれど、些事に心乱しうろたえることしばしば。豪胆を絵に描いたような兄・鞍馬、だらしなさ過ぎるくらいに大らかな弟・新に囲まれて、この男は土ノ日家三人の兄たちの中で異色であるが、それでもやっぱり、末弟・光が可愛いと思うようになって長い年月、思いを秘めて幾星霜、ようやくその願いが叶ったとき以降は、他の二人と同じく心底から弟を愛し護りて生きていくことを誓って日々を過ごしている。

 この男の持つ「二面性」をはっきり理解しているのは末弟のみである。新は恐らく興味を向けないし、鞍馬は「そんなことがあるもんか。あいつぁ昔ッから優しいばっかりが取り得じゃねえか」と信じようとしないだろう。そもそも当の本人もまだ、半信半疑で居ることには。

 裸眼でぼやける視界が、この気弱な男に強靭な精神力を与えてしまうのである。

 光を愛している。心の底から愛している。春陽がそう自覚したとき、その類の感情が、性の欲と無関係ではいられないことを彼は同時に理解しない訳には行かなかった。然るに、優しいこの男がずっと年下の幼い弟に悪い手を伸ばすということを、抵抗なく出来るはずもなく、おめおめと新が光を掌中に収めるに至っては、ただ嫉妬と羨望の思いのみを狭い心に満たしていた。眼鏡を着用した土ノ日春陽は、己の幸せを希求する一方で、欲のみに駆られることを己に決して許さぬ、真面目で、少々刺激の足りない男であった。

 然るにこの男がいま、光と抱き合う日常を手にしているのは、他ならぬその「二面性」に拠るところが大きい。どうやら――未だ仮説の域を出ない――眼鏡を外すと僕は、極端なぐらいに強気に行動で来てしまうようなのだ……。

 記憶がないわけではない。寧ろ、光と抱き合う時の記憶は、彼の明晰なる頭脳はきちんと刻んでいるのであって、初めて光とそういった行為に及んだのは、事も在ろうに銭湯のサウナであった。平時の春陽であれば決して考えるはずもないような大胆不敵な舞台選択であると言わざるを得ない。この男は兄同様、道徳というものを尊んでいるので、公衆浴場にて弟に手を出すごとき悪魔の所業を決して選びはしないはずなのだ。そもそも、「弟に手を出す」ことそのものが躊躇われてならなかったはずなのだ。ただ春陽は、光が拒まぬのをいいことに、愛しい弟に口付けをした、その肌を撫ぜ、先端まですっぽりと皮に包まれた小さな性器を幾度となく愛撫し、口に含み、その精液までも飲み込んだ。

 そのときの春陽はそういった衝動に駆られる己を是とした。光を占有していた新に追い付き、結果的には光が「一人の恋人」ではなくて「三人の兄の恋人」となるに至る道筋を確定付けたのである。

 信じ難いことであるが、光は春陽のことを「きれい」と評するようになった。

 光にとって「かっこいい」のは鞍馬と新、春陽の上下に居る兄たちである。なるほど確かに春陽は、整った顔立ちをしてはいるが、鞍馬の持つ凛々しい陰影や、新の備える瑞々しさのようなものは持ち合わせては居ない。顔色も白く、目鼻立ちのつくりも大人しいため、目立たない。そういう自分で構わないと思っていたのに、愛しい弟は其処に美を見出した。

「春兄ちゃんはすげーきれいだよ」

 と。

 戸惑いつつも、「可愛い」という言葉は、光にこそ似合い、近代文学に習熟しつつもそれ以外の語の浮かばないことを春陽は自分に認める。だとすれば光が、乏しい語彙の中からその単語を選んで、ともかく自分を肯定してくれるのだとすれば、……素直に其れを有難がっていればいいのだ、そう思っている。

 

 

 

 

 大学三年生の日々は目まぐるしい。昼に人力車曳き、夜に寿司屋の板前と働く鞍馬とは比ぶべくもないが、それでも何やかんやと時間を奪われることが多く、帰宅が夕食どきに間に合わないのは日常茶飯事。これはそのまま、春陽の、光と共に過ごす時間が貴重であるということを意味する。兄たちの中で一番暇なのは文句なく、まだ高校生の新であり、逆説的に彼が最も長い時間、光の身体を占領していることになる。

 それでも新は――あの傲慢で無礼な、春陽の弟は――自分ばかりで光を埋め尽くすことはしない。というか、幾ら「暇」と言っても、彼にも彼なりの人付き合いがあって、年中無休に光の傍に居られるという訳でもないので。

 土曜日の午後は、春陽にも光にもぽっかりと時間の空白が生まれ、新は友達付き合いで新宿に行った。鞍馬は、冬の快晴の土曜日とあれば忙しく街路を走り回っている。春陽にとっては二週間ぶりに光とゆっくり過ごせる時間が降って湧いたのである。

 春陽はティーンエイジャーのようにそういう時間を待ち侘びていた。その貴重な時間をどうやって過ごそうか。……別に、性行為に没頭することはない。もちろん、其れが出来れば嬉しいし、したいとも思うのだけど、光と二人でならば、何処かへ出かけたり、……それこそ、小さな散歩をするだけでも楽しいに決まっているのだ。

 自分の期待感が光の重荷になってはいけないとは思うのだけれど、春陽はついつい楽しみで、その半日の過ごし方をずっとこのところ考えて居たのだった。

 ところが、……この男は損な性質である。「お人よし」と評されたこと幾多度。どうしてか回ってくるお鉢を、やり過ごして別の誰かに回してということが出来ない。其れは不器用ゆえに起こり得るわけだが、基本としてこの男の気の弱さが災いする。

「……はい、土ノ日で……、はい?」

 とうとう訪れた土曜日の朝、けたたましく鳴った携帯電話に不明瞭な声で出たとき、つい、習慣で眼鏡をかけてしまった。例えばそのときに、裸眼で居たならば。夢の続きのようにぼんやりとした景色の中で、教授の懇願を強気に突っ撥ねることだって出来ていたのかもしれない。

 曰く、……勉強会の発表資料を教授が忘れたまま発ってしまった。メールやファックスを受け取れる環境にないため、急遽届けに来て欲しい……、とのこと。

 場所は、と問えば、越後湯沢との答え。

「……に……、新潟」

 交通費は出すから、とにかく届けに来て欲しい。時間は、今日の正午。

 勉強会の資料は春陽が作成を手伝ったのだ。別に他の学生でも構わなかったはずだが、教授が「頼んで断らなさそうな奴」として春陽に依頼したことは明白である。

 教授はノースロップ・フライの提唱するトポロジー理論を頑固に研究する男で、その、やや時代遅れの研究に共に携わるという仕事は、春陽にとってさほど旨味のあるものではなかったが、実際頼まれて嫌と言えない春陽であるから、前三日は資料の整理を手伝った。

 だから、同じ物が手元にある。

「はい……、でも」

 でも、僕は今日、弟と。

 そういう言葉は宙に投げ出されたまま、虚ろに壁にぶつかった。

 呆然としている時間はない。土ノ日春陽は、社会に出ては居ないにしろ、物事の判断能力に於いては既に鞍馬に準ずるものを会得している。ただ譲れぬ線をはっきりと主張できる鞍馬に比べれば、やや自分を二の次にしてしまうきらいはあるが。

「光」

 ネクタイを締めながら、悄然と、たっぷり寝坊をした光の部屋をノックして覗く。今日はオネショをしていない。偉い、と褒めるようなことでは全くないが、ともあれ少年が健やかに爽やかな目覚めを迎えられたことは兄としても喜ばしい。

「僕、大学の用事で出かけなきゃいけなくなった」

 目を擦り、大きな欠伸をした光は残念そうに「そっか……」と呟く。新も間もなく出かけるし、鞍馬ももう出かけた後だから、四人暮らしの部屋にこの少年一人取り残されることになる。そんなことに文句を付けはしない光だけに、余計、春陽の気持ちは痛む。

 しかし、この兄は懇切丁寧に、自分が出て行かないと世話になっている教授が弱りきってしまうということを説明する。行き先も、もちろん告げた。

「……お昼過ぎに向こうを出るとして、新幹線を使えば三時か四時には帰って来られるとは思う。だから、ちょっと遅くなってしまうけどその後で」

 遊ぼう、と言い掛けたところで、光の目に羨ましそうな光が宿ったことに、春陽は気付く。はて、何処に羨ましがられるような言葉が在っただろうかと思い直したところで、

「おれも、一緒に行っちゃダメ?」

 光が欲をそのまま口にした。

「一緒に……、って」

「春兄ちゃんと一緒にさ、おれも、付いてっちゃダメ?」

 なるほど、と春陽は思い至った。「新幹線」だ。

「……ちょっと、待ってね」

 春陽は一旦退室し、緊張しながら財布を開く。

 僕の往復の交通費は先生が出してくれるとして、それにしたって片道は僕自身が立て替えなくてはならない。携帯電話で教授が出席する勉強会の会場までの交通費を確認する。……駅から、妙に遠い。地方のバスの本数はあてにならないからタクシーが必要だ。大体これぐらいかかるとして、……これに光の分の交通費を加えるとして。ああ、昼ごはんのお金も考えなければいけない……。

 ぎりぎり、足りるか足りないか。

 けれど、

「すぐ支度できる?」

「うん!」

 春陽にとってその判断は容易なものであった。確かに月末少々苦しくなる。けれど、……現在時刻は午前九時、大急ぎで行って帰って来ても、光と一緒に過ごす時間が大幅に減ってしまう。それが、一緒に行ったなら、三時間も長く一緒に過ごせるのだ。

 ――お金で解決出来るのならば。

 光は見事に七分で身支度を整えて見せた。彼らの家のある浅草からJRの上野駅までは、地下鉄ではなくタクシーに飛び乗り、見事に光は目覚めてから二十分後には新潟行き上越新幹線に飛び乗ることが出来た。土曜の朝に二人分の座席が取れるだろうかと懸念したが、臨時のMaxとき359号の二階席窓際が、有難いことに空席だった。

 兄弟は一路、越後湯沢へ。

 

 

 

 

 光は電車が好きである。其れは彼が生まれながらにして負う「任務」を考えれば当然のこととも言えた。車両の知識が特別に豊富なわけではないが、とにかく列車に乗るのが好きで、それは馴染みの地下鉄、路面電車、新交通システムの差はない。とにかく「電車に乗ってどこかへ行く」ということが楽しいらしい。小学校に上がったばかりの頃にはもう、鞍馬に小遣いを貰って、葛西の地下鉄博物館、東向島の東武博物館はもちろん、はるばる東急の電車とバスの博物館にまで遊びに行っていた。言うまでもないが、新や鞍馬が付き添っていたことも多かったが。

 そんな光にとって、やはり「新幹線」は格別であるようだ。

 とりわけ、二階建て新幹線の「MAX」は、子供心には新幹線のアイドル的存在である。何にせよ、視界が高く開けている。広々とした関東平野を見渡しているうちに高崎を過ぎ、「国境の長いトンネル」を抜けると、正しく其処は雪国である。

「すげー……」

 光は飽くことなく窓に齧りついている。幼い子供のようであるが、後ろ頭ばかり見せられていても春陽は、やはり連れてきて良かったと思わずには居られない。

 この弟が、やっぱり可愛くって可愛くって仕方がない。

 欲は主に、セックス関係の方へと流れてしまいがちだ。其れは自分の歳を考えれば仕方のないことと思いはすれど、あまり胸を張れることではないという自覚もある。少なくとも、「だって好きだったらやりたくなんの当り前じゃん」と言って憚らない新のようには思えない。が、弟と自分を差別化する一方で春陽の心の中にはいつでも暴れ出しそうな欲がある。

 この真面目な男が、光に対してそういう欲を抱き始めたのは高校の頃である。異性が苦手で、かといって同性愛者というわけでもない、ただ引っ込み思案でおくての少年だった春陽は、無垢で無邪気で、甘えるのが上手な弟に抱きつかれたとき、自分の胸が思ってもみないほど、強く衝かれるのを感じるようになった。

 ――なぜ?

 当然、春陽は自分の中に生まれてしまった感情を否定することからまず始めた。同性愛などありえない、まして光は、血こそ繋がっていないとは言え自分の「弟」である。そんな相手に、斯様な気持ちになることは間違っている。この繊細な男は大いに悩み、嘆いた。新がすんなりとそういう自分を受け容れられたのとは対象的に。

 春陽は徐々に、自分がそういう気持ちになるのがただ光という弟だけだということを理解していく。其れは其れで性質の悪いことではあるが、銭湯で光と同じ年頃の少年の裸身を見たところで何とも思わないのは事実である。そのくせ、光の裸を直視し難いような気になるという厄介極まりない性癖が自分の内心に完成されてしまったということは認めざるを得ない。

 以降のプロセスは、新とほとんど同じである。光の下着に執着するようになり、その裸身を独り占めに出来る浴室では、光に気付かれぬよう、表では到底言えぬような真似もした。そういう感情は――新のように開けっぴろげに光に欲を話せないから――このところ益々昂じているようにさえ思える。

 新がどうやら、とりわけ光のブリーフに強い欲を抱くのに対して、春陽はもう少し違う。……もちろん光の脱いだブリーフには欲情する、だから新をどうこう言うことは出来ないのだが、それにしても、光の陰茎は、臀部は、薄っぺたい胸は、何と魅力的なものだろうかと、要するにこの男は少年の備える少年らしい部分に強く惹かれる。

 いまや光は春陽にとっても恋人なのだ。「見たい」「触りたい」と言えば、光が其れを拒むはずがないと判っている。しかしながら、眼鏡を掛けているときのこの男は中々其れを言い出すことが出来ず、だから重ねた行為の回数もまた新を大きく下回る。今度は「自分がある種の偏執狂なのではないか」と悩み始めるしまつで、これはもう、この男の趣味の領域かもしれない。

 兄弟の乗る新幹線が徐々に減速を始めた。間もなく越後湯沢である。

「寒いからね、ちゃんとマフラーをして、手袋もして、耳当ても」

 東京は、ほんのり暖かく感じられるような陽気だったけれど、新幹線のホームに一歩降りた途端、滅多に感じぬほどの厳かで静かな寒気に襲われて、光は春陽の言葉が大げさではないことを理解したらしい。

「うー!」

 と震え上がって、春陽の背中にぴったりと纏わり付く。駅前のタクシー乗り場は今も降り続く雪が風に煽られて、まるで吹雪のようだ。除雪はされているものの、街路にはまた次々と白綿のごとき雪がぼつぼつと積もっていく。こう寒いと、光も雪で遊ぶことよりも暖かいタクシーの車内に逃げ込みたく思うらしい。

「柄の森ホテルまでお願いします。出来るだけ急いで」

 ほうほうの体で這入ったタクシーに乗り込むなり、春陽は大急ぎで言う。タクシーがややスリップしながら走り出した。

「大学の先生の勉強会って、こんな遠くでやんの?」

 光は真っ白の車窓から、時計を気にする春陽に視線を向けて訊いた。

「うん……、本当は東京にある大学のキャンパスを借りてやるのが普通なんだけど……」

 通称「土曜会」と呼ばれるこの勉強会は少々特殊な性質を持つのだ。。

 関東の各大学の近代文学教授たちが、毎月第三土曜日に、一都六県の地元観光地ホテルにて集まり、日中は勉強会、そのまま夜は地元の肴に舌鼓を打ち、温泉があれば温泉に入り、翌日は物見遊山、場合によっては酒池肉林のどんちゃん騒ぎと成り果てる。要するに「勉強会」と証した中高年男性の慰安旅行の趣であり、春陽のゼミ教授もこのおめでたい集まりの会員なのである。

 そういう意味のことを説明しながら、何だか、そんな観光旅行に「勉強会」という名を与えるための資料がやたらと軽いもののように思われて来る。

「ふーん……、大学の先生って、いいな」

 光の素朴な感想、春陽もそう思う。もっとも教授という以上、彼らがその立場に在るために求められたのは知力のみならず、春陽には到底真似できない権謀術数たくらみごとが付き纏う。春陽は大学院に進学して、文学研究に邁進し、ゆくゆくは何らかの斬新な学説をこの手で産み落としたいと思ってはいるものの、「教授」という政治的立場とは恐らく無縁な自分を、もうとうの昔に諦めきって居た。

 タクシーはぐんぐん山道を進んでいく。メーターも、負けじとぐんぐんとメートルを上げる。春陽がはらはらし始めたころ、ようやく車は会場となっているホテルの駐車場に駆け込み、……勉強会開始一時間前、どうにかこうにか、資料を携え、春陽は到着した。

「やあ、すまんすまん、ご苦労」

 現れた教授の顔を見て、光が目を丸くした気配がする。「教授」という職業から、恐らく光は顰めっ面の老人をイメージしていたのかもしれないが、残念ながら春陽の恩師はそういう「教授」とは全く趣の異なる男である。とは言え、「土曜会」の参加メンバーは、そういう既存の「教授」像にそぐわない者が多い。

「お待たせしました。……こちらが資料です」

 五十五になる文学教授は三度の離婚歴のある無頼男で、達磨のように小太り坊主頭、そのくせ、シャツにジャケットにスラックスと黒ずくめという異色のいでたち。光が驚くのも無理はない。

 教授は目ざとく春陽の傍らに立つ少年を、「弟か」と声を掛ける。

「はい、……光です」

 ぎょろりとした目を向けられて、大抵のことに物怖じしない光も戸惑う。ただ男らしく真っ直ぐに立ち、逃げも隠れもせずその視線に返す。教授は姓を「穂村」と言うのだが、ゼミの発表がまずい学生に対しては瞳の底に暗い炎をぐらぐら揺らして睨み付けるため「火焔達磨」の異名を取る。そういう男の視線に真っ直ぐ睨み返せる少年は、世の中広しと雖も僕の弟ぐらいのものだろうと、春陽は誇らしいような気持ちになる。

 穂村教授は相好を崩し、「寒ィか」と光に視線の高さを合わせる。

「平気です」

 臆することなく光は堂々と返す。春陽の弟は火焔達磨との睨めっこに勝ったのだ。達磨と呼ばれるほど恐ろしい顔立ちの男だが、笑うと案外人懐っこい。これが、厳しい一方で怠惰な指導を行うこの教授が学生から支持を集める理由であろう。

「飯は食って来たのか。その顔じゃまだだろう。何かおごってやる。付いて来い」

 ひょいひょいと短い足ながら大股で歩く教授に、二人で従い食堂に赴くと、……「土曜会」の参加メンバー、各大学の文学教授の歴々が一斉に振り向いた。

「何だ、穂村さん、間に合っちまったのかい」

 目にも鮮やかな赤いスーツを着た六十過ぎと思われる教授がからかうように声を上げた。「宿題忘れの罰ゲーム、楽しみにしてたのになあ」

 赤スーツの声に、誰かが「誰も達磨の裸踊りなんざ見たくないわ」と茶々を入れる。

「口が悪ィなあ。達磨の一物が目に焼きついて、老先生方、眠れなくなったら可哀相だってんで、私の自慢の学生がひとっ走り来てくれたんですぜ」

 どん、と穂村教授に背中を押され、忽ち春陽はその細い身に著名な老教授たちの視線を浴びることとなる。

 とは言え、……決して気の強くないこの青年は、そういう場で社会的な礼儀を失うことはない。穂村教授の思いつきで、知り合いだという小説家との呑み会に急遽呼び出されたことも何度か在って、度胸とは違う、対応能力だけは自然と身についた。其れが穂村教授なりの、僕という弱い人間の教育方法だったのだといまでは思うようにしている。

「土ノ日春陽と申します」

「土ノ日。どんな字を書くの? どこ出身?」

 背の高い、気障なパイプ煙草をくゆらせるロマンスグレーの老人に問われる。彼は近代文学における作中人物の姓名から作品を読み解くことを専門としているはずだ。

 春陽は丁寧に姓の字画と、東京生まれの東京育ちであることを伝えた。

「そっちの可愛い子は、君の弟かね」

 好色そうな目をした禿頭の老人が問うた。

「左様です。……光といいます」

「似ていないね」

 訊きにくいことでもずばりと訊いてくる。それが教授の「強さ」かも知れない。

「血が繋がっておりませんので」

「ほうか、……血の繋がらぬ兄弟、中々好い物だねえ。一緒に風呂に入ったりするのかね」

 禿頭教授はニヤニヤ笑いながらそう問いを重ね、隣の、明らかに鬘ということが判る奇妙なヘアスタイルの老教授に「あんたはすぐそうやって汚いことを考えるんだからなあ」と突っ込まれる。それで春陽は、好色そうな禿頭教授が、真岡という、近代文学を専門にしながら、ヤマトタケルの女装に始まり、織田信長と森蘭丸など、ありとあらゆる男性――実在のものも、非実在のものも差なく――を「同性愛者」と仮定して新解釈を発表すると言う物好きな老人であることに気付いた。

「あんたはロリコンだからそう言うけどね、ボーイズラブはこの国の文学を語る上では無視できんよ」

「あんたの場合は自分の性欲と研究が密接に関わっておるからなあ」

 まさかそんな老教授に、「恋人です」などとは言えない。光も察し良く黙っている。いや、「なー、ボーイズラブってなに?」と春陽の袖を引っ張ったから、単に教授の言っていることの意味が判らないだけかも知れないが。

 松花堂弁当を二つ持って来た穂村教授が、隅の席を春陽と光に薦めた。自分もそのテーブルにどっかと腰を下ろし、空腹の勢いのまま美しく彩られた弁当にがっつく光を満足そうに眺めている。

「美味いか?」

 あぐ、と光は敬語も忘れて応える。

「そうか。光はいくつだ?」

「十一歳、五年生」

「ほう。……確か土ノ日ンとこには他にも兄弟が居たな?」

 春陽は頷く。「上と、下にもう一人」

「上は確か寿司屋の板前をやってんだっけか」

「そうです。夜は板前を、昼は観光人力車を曳いています」

「ああ、そういや薄野に聴いたなあ、浅草でたまたま見かけたって。えれぇ色男だっつう話しじゃないか。え?」

 色男、という形容、自分の兄にされるものとしては何だか気恥ずかしい気がする。薄野は春陽と同学年ながら一浪しているせいで歳は一つ上の女学生。気が強く頭の回転よく、春陽をしばしば荷物持ちやレジュメ製作の助手として駆り出す女傑だ。

 正直、春陽は薄野が苦手である。というか、女性全般が幼少期より苦手な男である。

「そう、でしょうか。……日常目にしている人のことなので、よく判りません」

 日常目にしている弟は何度見たって可愛いと思っているくせにそんなことを言いながら、春陽は松花堂弁当を食べ終えた。光はごくごくと喉を鳴らして緑茶を飲んでいる。

「では、私たちはこれで失礼致します」

 立ち上がり、そう辞去しかけた春陽を、「おお、待て待て」と穂村教授はあわてて止めた。

「せっかく新幹線乗って来たんだ。いくら俺が乱暴だっつってもな、可愛い学生をだ、ただパシリに使ってそのまま帰らすような真似はしねえさ。なあ光」

 穂村教授は「可愛い学生」の可愛い弟に目を向けて、

「ここの温泉は広くていいぞ。お前、雪見風呂なんて入ったことあるか? いいもんだぞ?」

 雪見風呂、という言葉は知っているはずだ。しかし事実として体験したことがない光は、ぴくりと反応する。

 春陽だって、可愛い光にそういう体験をさせてあげたいという気はある。

 のだが、

「しかし……、しかしですね、あの」

 先立つ物がない。何せ、帰りのタクシーと新幹線代を出したら、あと一体幾ら残ることなのか。

 それに、さっさと家に帰って暖かい部屋で光と色々したい。

「なーに、気にすんな。お前らの金なら俺が出してやるからさ。今夜あのじじいたちとな、麻雀やって、二人の一泊二日分ぐらいは楽に儲かる」

 無頼なる穂村教授はそう言って恬として恥じない。

 押しに弱い春陽の土曜のみならず、日曜の予定までもが定まってしまった瞬間だった。

 

 

 

 

 土ノ日兄弟は「土曜会」の席の端っこに並んだ。春陽は光に「その辺、散歩してきていいよ」と言ったのだが、変わり者の教授たちの「勉強会」がいかなるものなのか、興味を抱いたらしく、

「外、何もないじゃん。風呂はあとで兄ちゃんと入るし、だからおれも一緒にいる」

 と言ったのだ。

 もっとも、十分も待たずに光は自分の選択を後悔したはずである。いかな奇人たちとはいえ、一応は大学で教鞭を振るう一流の教授たちであるから、その話が小学五年生の光にとって面白いものであるはずがない。

 一時間ごとに休憩、それが三回繰り返され、外がすっかり暗くなりつつあった頃に、

「今日は概ね、こんなところでしょうかな」

 という禿頭教授の言葉で「土曜会」は終わった。そのままお開き、食事まで風呂に入るも良し、昼寝をするも良しという時間になろうかというときに、

「ああ、ちょっと待ってくださいよ」

 穂村が手を挙げた。

「せっかくね、私の自慢の教え子が来てるんですから」

 いきなり存在を示唆されて、春陽は身を強張らせる。光は大きな欠伸。

「いい機会だ。こいつの研究について、先生方のお話を伺いたいと思うんですわ。こいつにとっても滅多にないことではあるし、どうですかな」

 どうですかな、じゃない。いいわけあるかこの黒達磨。

 などという言葉を吐けるほど春陽は強くない。呆気に取られて自分の卒業要件単位を深く握る達磨の顔を見るばかりだ。

「ほれ。お前の、いつものあれ、やれよ」

「し……、しかしっ、資料も何も持ってきていません!」

「構うもんか。お前の地頭ン中に入ってるのをそのまま言やいいんだ。トチったら評価下げるぞ」

 光が目を擦って、ぱちぱちと瞬きをする。

 春陽は眩暈を覚える。しかし、……評価を下げられるのは困る。決してそう裕福とは言えない土ノ日家に在って、中高と優秀な成績を修めたからこそ、「お前は何としても大学に行け」と鞍馬に言われている。やがて立派な働き手となって家を支える男に、春陽はならなければならないのだ。

「……判りました」

「俺の顔にドロを塗ンなよな?」

「……はい」

 春陽はゆっくりと立ち上がる。全身の関節という関節が、ぎしぎしと悲鳴を挙げるように軋んだ。

「土曜会」の参加者は二十人。数としてはさほどではないし、そもそも奇人教授がそんなにたくさん居ては近代文学研究のお先は真暗である。しかしながら全員が全員有名教授、それこそ単著のない者を探す方が難しいというほどのメンバー。それを向こうに、自分の研究を語るなど、……一学部生の仕事としては非常識なほどに重い。

「えー……」

 深呼吸、しても、息がそもそも震える。膝は笑い出しそうだし、顔が真っ白になっている自覚がある。

 追い討ちを掛けるような事態が起きたのは、そのときだ。

 貸し会議室の扉が開いた、と思ったら、見たことのある顔が覗いたのだ。

「失礼しまーす。あれ? もう終わっちゃった?」

 教授連相手に馴れ馴れしい口を聴くのは、薄野瑞夜だ。

「あっ、土ノ日くんじゃん、どうしたの? 発表?」

「おう、遅かったなぁ」

 穂村教授が鷹揚に自分の隣の空席を指し示し、「やあやあ、天女が来たぞ」「相変わらずお美しい」「わしは光くんの方が可愛いと思うけどなあ」などと教授たちが色めき立つ。

 どうやら薄野は「土曜会」に出入りしているらしい。……彼女に「土曜会」の研究への興味があるかどうかは疑わしい。恐らくは夕餉の酌を請け負い、その分穂村教授と共にあちこちの温泉を愉しんでいるのだろう。

 そんなことが判った所で、いまの春陽の救いにはならないのだけれど。

「あれ? ねえほむらちゃん、あの子だぁれ?」

「馬鹿、ほむらちゃんって此処で呼ぶな。……あいつぁ、土ノ日の弟だよ、光って言うんだ」

「へー、土ノ日くんってあんなちっちゃい弟さんが居たんだ。かわいい」

 年上の女性からの無遠慮な視線に晒されて、居心地悪そうな光はついと視線を春陽に向けて、……何の前触れもなく立ち上がった。大股でつかつかと会議室を横切り、ホワイトボードの傍らで硬直する春陽の前までやって来て、

「兄ちゃん」

 と背伸びをし、両手を、顔に伸ばす。

「……ひか、……り?」

 春陽の視界が変わった。

 全てがぼやける、幻に変わる。代わりに春陽の鼻は光の髪の匂いを感じる、愛しい弟が小さく「へへ」と笑う声を聞き分ける。

 光の足音が遠ざかって行った。椅子を引き、座りなおす音、光のささやかな体重で椅子が微かに軋む音までも、春陽は聞き分けた。

「それでは、……僭越ながら私の『天使の弓矢理論』についての考察をさせて頂きたく思います。高名な先生方に愚説を発表する機会を頂けましたことに、まず、心より感謝申し上げます」

 深々と頭を下げ、再び顔を上げた土ノ日春陽を、恐らく穂村教授も薄野瑞夜も知らない。

 凛然とその両眼は冴え渡り、力感さえ纏っている。

「『天使』……、と仮に呼ぶことに致しましょう。『キューピッド』と言い換えても宜しいのですが、概ね西洋に於いて恋人同士を結び付けると考えられている、空想上の存在です。彼ら、或いは彼女らが、未だ関係深からぬ『二人』の仲を取り持つために放たれるのが、『愛の矢』です。先生方もご存知の通り、天使の手がつがい、放つ矢は二人の心、ハートを射抜き、たちまち恋心を燃え上がらせるという、魔法の矢です。……古来より恋愛の不可思議さを説明するために我々は諸説を立てて参りましたが、そのドラスティックな興奮状態を表現するのにこの『矢』という小道具は非常に相応しいものではないでしょうか」

 立て板に水という喩えがしっくり来る語り口調。声は低く安定感を帯び、言葉は決して焦り速まるということはない。

 普段の春陽を知る穂村教授と薄野が目を丸くしている。彼らの知る「土ノ日春陽」の演習発表時の姿は概ね、自信なさげで声は小さく背中が丸まって、何だか泣きそうになりながらオーディエンスの投げ付ける質問にそれでも根気強く丁寧に答えていくものなのだ。然るにいまの春陽の姿は、……まるで別人である。

「さて。……ご出席の皆様に質問をするご無礼をお許しいただきましょう。皆様の中に、実際に弓を射った経験がある方は居られますか? ……なるほど、当然でしょう。弓道部やアーチェリー部のある学校はそう多くありません、そもそも競技人口の多くはないスポーツですから。しかし矢を強く、遠くへ飛ばすために、どのような力が働くべきなのか……、穂村先生」

「お、お? ……引っ張る力、張力、だな?」

「仰るとおりです。矢を強く遠くへ射るためには、弦を出来る限り強く引くこと。ですが、強すぎてもいけません。狙いが定まらなくなってしまいますから」

 春陽は口元に笑みさえ浮かべて、左手に弓を持ち、右手を引き、矢を放つような手振りを見せた。

「私の考える『天使の弓矢理論』は、世に溢れる恋愛小説の、……いえ、恋愛そのものにおける、ごく基本的な法則です。では、また質問をさせていただきます。皆様の中に、恋愛の末にいまの奥方様と結ばれた方は居られますか?」

 挙手したのは教授たちの半分ほど。年配者が多く、見合い結婚が珍しくない時代だったということだろう。穂村教授は両手を挙げていた。彼は三度の離婚以前に、無数の恋をしている男なのだ。

「失礼ながら、……時代背景的に、当時の恋愛結婚というものは、今よりも障害となるものが多かったことは事実でしょう。男子の側はおいそれと甘い言葉を口にするわけには行かず、女子も、……女性が参加している席でこのようなことを申し上げるのは甚だ心苦しいのですが、今のように露出狂的ファッションや超開放的関係模索など、到底許されなかったはずですから」

 はっきりと、薄野瑞夜を意識したようにそちらへ顔を向けて春陽は言い切る。薄野はぷいと顔を背けたが、その横顔、形のいい鼻が白くなっていることまで、春陽は見えない。

「しかし……、それだけに、自らの意志で結ばれんと願う男女に通い合う思いというものは強さが伴っていたはずです。其れが結果的に苦いもので終わろうと、とにもかくにも、マジックテープのようにくっついたり離れたりをコンビニエンスに繰り返す我々世代の恋愛に比べ、遥かに紆余曲折を経て、起伏に飛んだ一つの物語であったはずです」

「あー、それが、先ほどの『弓矢』とどう関係してくるのかな」

 老教授の一人が身を乗り出して訊く。鋭く其方へ(あくまで、そっちのほうへ)視線を送った春陽は唇の端を持ち上げるように微笑み、

「失礼しました、余談が過ぎたようです」

 と一口に詫びる。

「……『天使の弓矢理論』は、ごくシンプルな法則です。弓を射るとき」春陽は再び弓を引くポーズを取った。「強く引けば引くほど、勢いの良い矢が飛んでいくことは先ほど申し上げた通りです。……これは『天使』の放つ矢にしても同じことが言えるのではないでしょうか?」

 誰かが失笑した。「馬鹿馬鹿しい、そんな君、居もせん『天使』なんてものを持ち出さなくてもだね」

 先ほど恋愛結婚であったことを認めた白髭の教授であった。

「仰るとおり。『天使』は実在いたしません。……ですが、『恋愛感情』なるものはいつの世も確固として存在するのです。杉原先生がいまこうしてこの場に、左の薬指に指輪をしておられるように」

 杉原という白髭教授は「ほう」と胸を反らす。

「恋は物語を生みます」

 春陽はきっぱりと言い切る。

「人と人の恋は、古来より物語の題材として取り上げられてきたものです。そして読者はしばしば、スムーズに結ばれる二人の物語よりも、波乱万丈の末の結実、或いは悲劇的な結末さえ求めて来ました。『ロミオとジュリエット』が最たる例と言えるでしょう」

 視線を集めながらゆっくりとホワイトボードの前を一往復し、シェイクスピアの脚本の一節を紐解いてから、春陽は確認するように聴衆を見渡した。「この若き恋人たちを引き裂いたのは、……文字通り、生と死という形で引き裂くことになったのが両家の諍いごとであったのは今更説明する必要はないでしょう」

「もっとも」

 異論を唱えたのはベレー帽から紅い髪をはみ出させた洒落者の教授である。「近年、あれは単なる二つの家の争いではないという学説も在るがね。元々は神話を原典としたものであるし……」

「浦戸先生、著書を拝読させて頂きました」

 ヨーロッパ風の洒落たお辞儀をして、春陽は微笑む。「此処ではあくまで『ロミオとジュリエット』を、創作上独立した一文学作品として取り扱うことにどうかご理解を頂きたく思います」

 近現代の文学を取り扱うのみならず中世文学にも造詣の深い浦戸教授は納得したように頷いた。他の教授たちは皆、何となく身を乗り出して春陽の言葉に吸い込まれている。

「ロミオとジュリエット、若い二人の恋愛の障害となっていたのは、モンテッキ家とカプレーティ家の諍いでした。二人にとって恋愛は即ち、それぞれの家族に対しての裏切りにほかなりません。……悲劇的な終わりを迎えることはさて置き、僧侶ロレンスの助力の存在なくては、かりそめのものとは言え『結婚』という形での結実を見ることは在りませんでした。……では此処で疑問が一つ」

 春陽は細い人差し指を立てる。

「何故ロミオはジュリエットに惹かれたのか。……もちろん、逆でも構いません、ジュリエットは何故ロミオに惹かれたのか。若くとも賢明な二人です、自分たちの愛し合うことがどれだけの意味を持つのかということに考えの至らなかったはずは在りません」

「若い二人の恋愛感情に具体的な説明が出来るかね」

 ボーイズラブが好きな真岡教授がやや皮肉めいた口を挟むが、

「出来る、と仮定させてください」

 やんわりと、春陽は其れを下げさせる。

「私はそれこそ、『天使の弓矢』であろうと考えるのです。……よろしいですか、真岡先生、……ご専門であるところのボーイズラブが現在、一般社会での文学的価値の是非はともかくとして、文学作品の一ジャンルとして成立した背景に在るのは、『男性同性愛』という特殊な恋愛関係であるがゆえに生ずる数々の障害との、形はどうあれ格闘、葛藤……、が読者の心を揺さぶるからである、……『信長×蘭丸』の中で先生はそうご明察しておられました」

 満足そうに真岡教授が頷く。『信長×蘭丸』はあらゆる時代の同性愛描写を網羅し、現在の「ボーイズラブ文学」(これは真岡教授自身が命名したものだ)の価値を論じた彼の代表著書である。

 春陽は再び弓を引くポーズを取る。右手を緩く引く。

「天使とはか弱き存在です。多くの場合、幼児の姿で描かれるほどの。そのか細く短い腕から放たれる矢の威力など、高が知れている。……本来は」

 言葉が隅々まで染み渡るのを確かめるように、言葉を切って春陽は場を見渡した。

「……しかし、その矢が放たれることを妨害しようとされたなら、どうでしょう。天使の右手にある矢を、恋愛成就を妨害する何者か、……人でなくってもこの際構わないでしょう、ロミオとジュリエットのように家と家の事情かもしれません、時代そのものかもしれませんね、戦争が愛し合う二人を分かつ作品も非常に多いわけですから」

 春陽は胸を張り、見えない弦を握る右手をぐいいと強く引いて見せた。それはさながら天使が放たんとする矢を、何者かが邪魔するかのようである。

「天使自身、……つまり本来の『恋愛』そのもの以上の力が働くわけです。やがて天使の手を離れ放たれることになる矢は、其れを妨害したい存在にとっては皮肉なことに天使自身の腕力とは比べ物にならないほどの威力を発揮して、宙を飛んでゆくわけです……」

 恋をする生き物にとって、障害は大きければ大きいほど心を燃え上がらせる。

「其処に、物語が生まれるのです」

 春陽の言う「天使の弓矢理論」は、そういう恋愛小説の基本的法則を系統的に整理する方法である。『ロミオとジュリエット』における、天使の弓矢を妨害するものとは何か、……では『愛と死』なら、世に在るあらゆる恋愛小説も、結局のところは「天使の弓矢」を妨害する者が何であるかを看破することで、解読するための一歩を踏み出せる。

 春陽の言葉に、聴衆は耳を澄ませ目を剥いて意識を傾けていた。シンプルな理論である。そして、大学生のするものとしては少々ロマンティックに過ぎる。

 しかし春陽が次に言葉を切ったとき、場に居合わせた者たちはただ一人を除いて彼の理論にすっかり胸を打たれ、まるで自分が恋愛小説の読者として最上の者であるかのように錯覚しているのだった。それはもちろん、春陽の理論に対して全面降伏したからではなく、単に春陽の威風堂々とした振る舞いや力感のある声に丸め込まれたからに過ぎないのだが。

 春陽は小さく息を吐き出し、

「以上で、私の発表を終えさせていただきます。長々とお時間を賜りましたことを、心より感謝いたします」

 頭を下げた。唯一春陽の言葉の意味を判らずにぼうっとしていた光が、眼鏡を持って兄の元に駆け寄った。

 

 

 

 

「兄ちゃんはやっぱり頭いいんだな!」

 露天風呂ではほかの教授連と一緒になる。春陽と光は宛がわれた部屋のバスタブに湯を溜めて、身を重ねて入っていた。光はもちろん露天風呂に入りたがったが、「あとで必ず一緒に入ろう」と春陽が約束したから、納得してくれた。

 春陽は浴室の中にも関わらず眼鏡を掛けている。当然ながらすぐに曇ってしまい、視界はぼやけるのだが、それでも形のいい鼻の頭と耳の上でフレームが存在感を発揮しているから、先ほどのように「別人格」が目覚めてしまうことはないようだった。

「……どうだろうね」

 春陽は溜め息を吐く。思い出すだに、何だか空恐ろしい気になってしまうのだ。

 穂村教授に散々肩を叩かれ、教授連に取り囲まれるときにはもう眼鏡を掛けていた春陽であるから、冷や汗をかいてほうほうの体で光と共に逃げ出してきた。正直、自分が何を言ったのかということは記憶しているのだが、常時の自分があのような振る舞いを出来るはずがないこともまた理解しているのだ。

 ただ、眼鏡を外し視界がぼやけると、何も怖くなくなる。

 人間の恐怖心の多くは「視界」に拠るものなのかと改めて春陽は認識する。

 困ったものだ。最近の春陽は寝るときと顔や髪を洗うときを除いて、あまり眼鏡を外せなくなってしまった。いつまたあの「別人格」が目を醒ますか、判ったものではない。

「光は……、さっき僕が言ってたこと、わかった?」

「ぜんぜん!」

「そう……、そうだよね」

「でも、兄ちゃんすげーカッコよかったぞ。あの先生たちも感心してたし、あと、あの女の人もびっくりしてたし」

 そもそも「天使の弓矢理論」は光の存在あってこそ、春陽の中で芽生えた考え方なのだ。

 いまでこそ光と同じ浴槽に、一定以上に具体的な予定を立てて浸かっている。光も其れを理解していて、春陽の胸に自分を全て委ね、湯の中では手を握っている。

 けれど、こうなるまでが決して順風満帆な日々であったわけではない。誰より一番愛しい光は、血縁こそないものの春陽にとっては「弟」であり、そもそも男子なのだ。恋愛対象として捉えることそのものに問題がある。

 だからこそ、春陽の感情はどんどんと強まった。新が光と関係を発展させたと知ったときには、それこそ気が狂いそうなほどの悲嘆に暮れたのは記憶に新しいが、それもまた、元来奥床しい男である春陽には力となった。暴走特急とも言えるような強い感情は、いまもまっすぐに光へと向かっている。

 自分の体験と照合して恋愛小説を読んでみるに、……なーんだ、という思いが沸く。みんな、同じじゃないか。苦しんで、辛い思いをして、それでも諦めないで恋をするから、……それだけ強い思いが放たれる。そして其処に、物語が生まれる……。

 これが春陽の理論の構築された、あらましである。

「ねえ、……光?」

 未だ、「恋人」となった弟を後ろから抱き締めるときにはほんの少し緊張する。

 ただ、それでも言わなきゃ。そう思うから、気持ちが篭もる。

「……僕は、光にだけ『かっこいい』って思ってもらえたら、それで満足だよ。他の誰から見た僕がどんな風でも、光の前でだけは、少しぐらいは、格好いい男で居たいって思う」

 小さな耳に、ゆっくりと囁く。光はくすぐったそうに笑って、春陽の両手を自分の腹に回させた。

「兄ちゃんは、カッコいいし、すげーきれいな人だよ。だからおれ、兄ちゃんのこと大好きなんじゃん」

 愛しさは、喉を熱くする。

「矢」の形をした思いと欲のベクトルが、光の声で一層強くなる。

 ぎりぎりまで引き絞られたら、あとはもう、放つだけ。

 しかしこの優しく穏やかな――少なくともそう在りたいと願っている――兄は、光の肩をそっと湯面に浸からせて、心の中で十数える。……布団は、もう敷いてある。何故って、春陽にしろ光にしろ、何のために入浴するのか、判りきっていたから。

 五時である。予定ならもう、十分に愛し合っている頃。

 光の身体を丁寧に拭き、春陽はそのまま抱き上げて布団に横たえた。部屋は十分に暖かい。光の身体は、もっと温かい。

「兄ちゃん」

 と両手が髪に回される。そのまま重なる唇は、春陽自身もったいなく思えるくらいに、甘い。

「ん……、にぃちゃ……ン」

 重なった唇を先に開いたのは光のほうだ。舌は、いつ絡めても春陽の想定よりも柔らかく、ほんのり温かい。そういうものを精一杯伸ばして、自分の舌で兄を心地良くしようとする。……春陽にはまずその努力そのものが、十分に甘ったるく感じられるのだが。

「いとおしい」という、春陽の中ではそのまま光を示す言葉が色付く。

「光」

 口付けだけでとろんとした瞳に、春陽は精一杯の微笑を向ける。ただ、その双眸に自分の顔が移っていると思うただそれだけで春陽の胸は締め付けられた。

 だから、

「……好きだよ」

 言葉は、左の耳に差し込んで、

「んん……」

 そのまま小さな耳朶を唇で挟む。

 はじめは、くすぐったがっているばかりだったのだ。此処にしても、右の乳首にしても。いまは春陽の指の先で、触れただけで微かに唇から息を漏らさせ、微かに粒の形を成す。白い肌の中にあってごく薄い紅色をした場所は、春陽の指が触れることを、確かに喜びと認識するようになった。

「にいちゃん……」

「ん……?」

「うー……」

 光は指で乳首を捏ね繰り回す兄を恨めしげに見上げる。少し視線を緩めればそれだけで、春陽は光の幼茎がピンと反り立っているところを目撃することになる。

 小さく笑って、もう一度キス、それから細い首、まだ滑らかな喉、華奢な鎖骨に肩と経て、もう片方の胸飾りを啄ばむ。

「んぅ、そ、じゃなく、ってっ」

 反応の一つひとつが瑞々しい。光がまだ幼いからというだけでなく、他ならぬ「恋人」にそうされるからだと、春陽は思うことにする。これにしたって眼鏡を掛けているときのこの男としては、相当に強気な判断である。

「可愛いよ……、光、すごく可愛い」

 だから、僕にもっと見せて。

 意地悪なことを、春陽は考える。少し強く吸って、

「っあぅ!」

 光が小さく身を痙攣させる。それから慰めるように舐めて、肋骨、ごく薄い脂質を纏った腹部と、じりじりと下がって。

 この先にあるのは、光の熱の芯。

 淫らな匂いの届くほど顔を寄せて、しかし其処から、春陽は顔を逸らした。左の太腿の付け根から、跡を付けながら徐々に遠ざかっていく。

「なっ、なんでぇ……」

 涙声に胸が痛んでも、春陽はまだ顔を上げない。今週の半ばに擦り剥いて拵えた傷は避けて膝、脛、そして足の甲へ、足の指へ。

「んぃっ……!」

 あらぬところを咥えられた光の身体に走るのは、それでも快感であるらしい。視線を上げた春陽は、ぎゅっと自分のペニスを掴んでいる光の手を見る。そして余り皮の先端を濡らす、欲深な蜜の光を見る。

「もう、我慢できないの?」

 光はひくひく震えながら、頷く。

「だ、だって……っ、するって、思ってたしっ……」

「お風呂の中からずっと、して欲しかった?」

 反対側の足へと移って、小さな、本当に小さな小指をぺろりと舐めて訊く。くすぐったがりの光も、その舌の感触には少しも笑わない。

「光はえっちな子だよね。ちょっと前まで、……ほんの半年前までは、何にも知らなかったのに」

 優しい力でその手を解かせ、再び脛を、膝を、太腿を、上がっていく。光が期待に震わせる性器を間近に観察してから、春陽は竦み上がったような陰嚢を舐めた。

「あン!」

 光は、自分がどういう類の声を上げているのかという自覚が希薄に違いない。

 可愛い声だ。……それは間違いない。

 しかし、五年生の男の子が上げていい類の声ではないぐらい、いやらしい声だ。

「出したい? ……この中に溜まってるもの」

 ふっくらとした袋を指でくすぐって、春陽は最後の意地悪をする。

「出したいっ、……せーし、早く出したいっ……」

 光はほとんど泣いているも同然だった。……さすがに春陽の胸は痛みを覚える。

「いいよ、……たくさん出すといい」

 そのまま、口に含んだ。腺液の塩辛さやぬめりを覚えたのは一瞬だけ。すぐにそれは鼓動で上書きされ、どろりと重たさを伴う樹液で塗り潰された。……光以外の性器を口に含んだことのない春陽は、それでもこの初々しい反応は光だけが見せてくれるものと信じて疑わない。その根拠がどれほど希薄だったとしても、そう信じられるし、確かめようとも思わない。

「うぁあ……ぁう……」

 光は脱力しつつ、時折小刻みに身体を痙攣させる。口から抜いた精気はまだひくひくと弾んでいたし、全身が快楽の余韻に浸っているに違いなかった。

「はるにぃちゃん、いじわる……」

 潤んだ目でそう責められても、いまは素直に「ごめん」とは言わない。

「可愛かったから」

 などと、言い訳にならないことを口にする。これにしろ、普段の春陽なら絶対にしない思考に基づいての発言だ。

 光が身を起こす。

「春兄ちゃんがそんないじわるすんなら、おれだって春兄ちゃんにいじわるするぞ」

 春陽以上に優しいことは疑いようもない光の「いじわる」が、果たしてどれほどのものか。普段気弱なこの兄は微笑んで、

「そうだね。僕が意地悪しちゃったんだから、光にお返しさせてあげなきゃ不公平だよね」

 と悠然と言う。光は「おれみたく横になって」と強請った。

 まだ光の体温を濃く残す布団に仰向けになる。光は春陽の上に馬乗りになって、春陽の目が開かれた足の間に向くと、

「えっち。まだ見たらダメだぞ。おれが春兄ちゃんにいじわるしていたずらして遊ぶんだから」

 と手で隠す。勃ち上がったフォルムが苦しいぐらいに卑猥なものである一方で、いま脱力している其処は何とも甘ったるく愛らしい。触ればマシュマロのような柔らかさだということをもちろん春陽は知っている。春陽の記憶の限り、新が五年生のときより光は身体が一回り小さいし、比例してその場所も幼い。だからいつだったか、光は同い年の女子である早葉碧に「ちんちくりん」と言われからかわれていた。

 僕は「ちんちくりん」でも可愛いと思うけど。

 春陽はそんなことを思いながら、どうにか主導権を掌中に収めようと春陽の唇に何度も何度もキスをする光に身を委ねていた。

「にーちゃん、きもちぃ?」

 正直、くすぐったさの方が先に立つようなキスだ。でも、

「うん、気持ちいいし、どきどきするよ」

 というのもまた、春陽の素直な気持ちである。

 大人しく、自己主張に乏しい男である。これまでの人生で異性に告白されたことが、全くないという訳ではない。けれど「ごめんなさい、僕はまだそういうことは考えられないから」と断ってきた。それは光という最愛の弟を念頭に置かなくとも、陽の当たる場所を無意識に避けるような意識が働いたからだ。

 だから、この男は光以外の誰かと肌を重ねたことはない。もちろん、唇だって。

 誰かと比べてどうこうと言えるものではない。それは兄の鞍馬も、弟の新も、また同じはずだ。光という唯一であり、最上の存在。光から贈られるものだけを、手にして、どんな不足があるものか。

「へへ。春兄ちゃん、ちんちんボッキしてんの。やらしいなー……」

「いじわるをする」と宣言したはずなのに、光は嬉しそうにあっさりと春陽の砲身に手を伸ばした。要は、少年自身触りたかったに違いないのだ。けれど光なりにそう簡単に流されるのは沽券に関わるとでも思うのだろうか、春陽の胸に幾度か唇を落とし、その三つ目と四つ目で片方ずつ乳首を吸う。その舌の動きは、拙くとも十分に光の掌の中で春陽を震わせることに成功する。

「おれだって、にーちゃんのこと好きだからさ」

 痩せた腹にも口付けをして、光は春陽の足の間に手を付き、いよいよその砲身に顔を近付けた。光の顔の側に在るとき、春陽は自分の陰茎がとても醜く思えるのが常だ。

「だから、にーちゃんがおれでこんなんなるの、うれしいし、おれで気持ちよくなりたいって思ってんのわかるから、気持ちよくしてあげたいって思うし」

 優しい子、と春陽は光の髪を撫ぜた。

 思うに、光は愛に対して貪欲だ。……愛されることに対してのみならず、愛することに対しても。それは光にとって春陽も他の二人の兄たちも、都合上同居しているに過ぎない偽の「兄弟」関係であることが影響しているのかもしれないし、そもそも同性であることの無理矢理さを理解しているからかも知れない。

「天使の弓矢」理論への自信を、光を見ていても深めることが出来る春陽である。

「んーへへ……」

 光が紅い舌の面を見せながら、露を浮かべる春陽の尿道口を擽る。その舌に腺液が吸い込まれるように糸を引く様子には罪深さを禁じえない。それでも光が覚える味は光の舌を喜ばせ、その頬を綻ばせるのだ。

 この幸せは全く手に負えない。

「ひゅげーな、やっふぁ、にーひゃんぉ……」

 口に物を入れながら喋ってはいけない、と食事時に叱ったことがある。あと、ちくわはそうやって長いまま咥えるものではないとか。そう、恵方巻が流行り出した頃、そんなものコンビニが儲けるために儲けた怪説なのだから太巻をそんな風に食べるのは品がない、とも。

「あんれ、ほんぁおっひぃぉ……?」

 ただその流れで、アイスキャンディをちろちろと舐めるところまでは注意できなかった春陽である。

「……光」

「へへ」

 光は顔を上げて、涎の伝った唇から顎へかけて、手の甲でぐいと擦る。

「春兄ちゃん、おれの顔見てちんちんピクピクさしてた」

 ああ、意地悪だ。しかし春陽の頬には柔らかな苦笑が浮かぶだけだ。

「……僕はね、光」

「ん?」

「普段は、……人前に居るときには、こういう自分を出さないようにしているんだ。光のことが好きってことまでも隠して、光のことをただの弟としてしか見てないような顔をして、生きている」

 其れがどの程度達成できていることかどうかは、判らない。穂村教授が光を指して「土ノ日の自慢の弟だ」と言っていたことを思い出す。

「でもね、……光と二人きりのときには、どんな僕だって正直に見せていいような気になる。光のこと、好きな自分、……それこそ、変態な自分のことだって」

 光は、嫌いにならないでいてくれるはずだから。

 春陽の言葉に、

「おれだって、春兄ちゃんに何も隠してないぞ、いまは」

 と光は言う。そう、以前はちょびっと隠していた。春陽以前にまず新と、キスを含めこういった行為をしていたこと。親戚筋に当たる年下の少年である舎人と、そして、異性である早葉碧とさえ、こういう具合に遊んでいたということも。

 けれど春陽は、新から其れを聴かされた。「そうなの?」と聴いたら、真っ赤になって光は頷き、言い訳をすることはなかった。流石に鞍馬には――あの古風で硬い男には――刺激が強すぎると思ったから言わないでいるけれど。

「ってゆーか、……ちんちんもお尻の穴も全部見せちゃった相手に隠しごとなんてできねーよ。兄ちゃんとこういうことする前から、兄ちゃんおれのパンツのこととか全部知ってたわけだし……」

「パンツ……、ああ、まあね」

「そのこと、舎人も碧も知ってるし、だから……」

 光は考え込みそうになって、すぐ目の前で春陽の濡れた性器が相変わらずひくついていることに気付いたようだ。

「とにかく、おれは春兄ちゃんのこと好きだから、なんも隠さねーし、だから春兄ちゃんも何も隠すなよな」

 そう、男らしく約束を交わした上で、……光は再び深く春陽を咥え込む。

 言うなれば「横」の比較は出来ない。春陽が知るのは光だけだから、比較対象は今年の夏、まだこういうことをするようになったばかりの頃の光。

 上手になった、と思うわけだ。

 ちょっと、淫らになりすぎてはいないか。そんな心配をする。春陽自身は光が上手でなくても構わないとさえ思っているが、恐らく新は色々教えたのだろうし、ひょっとしたら舎人や碧とそういうことを学習というか習熟というか、とにかく上達する機会なら幾らでもあっただろう。

 何より、当の光が上手になりたいと思っている。「好きこそ物の上手なれ」という諺を春陽が吟味するだけの余裕は、もうあまり残されていない。

「出すよ……? 光」

 どんなに品のない音を立てられたって、春陽は叱らない。光の頭は激しく上下に往復し、その首や喉が心配になった瞬間が在った。しかし、真っ当な理性など掻き消されてしまうほどの少年の情熱に、春陽は甘んじて屈する。

「ん……」

 光はゆっくりと上下動のスピードを落としながら、春陽が口の中へ零したものを、緩やかに吸い上げていく。

「んぅ……、はぁああ……」

 光は顔を上げて、そんな息を吐いた。ぼんやりとした兄の顔に、にぃと笑って、「気持ちよかった?」と期待に満ちた目を向ける。

「ああ……、うん、すごい気持ちよかった。何ていうか、ちょっとびっくりするぐらい」

 起き上がった春陽の膝の上を独り占めして、光は「へへっ」と得意げに笑う。

「だってさー、頑張ったんだ。春兄ちゃんに気持ちよくなってもらいたかったしさ」

 得意げに、そして、嬉しそうに。

「キスしていい?」

 口を濯いでから、と言いたいところだが、

「……いいよ」

 春陽は許した。どうせ自分だって、光のものを飲み込んだのだ、お互い様である。

「大好きだよ、春兄ちゃん」

 四年生に上がったぐらいから、あまりべたべたと甘えることを自分に禁じていたらしい光だが、このところまた甘えん坊になったな、と思う。春陽にとっては全く問題視するべきことではなく、寧ろ大歓迎だ。ただそのせいか、このところおねしょの頻度がまた少し増えつつあるのは悩ましいし光自身恥ずかしいことのはずだが、それさえも新に言わせれば「光超可愛い」ということで。

 春陽も、その雑な言葉に同意する。……光は、超可愛い。

「……この先も、すんだよな?」

「光が、して欲しいなら僕はなんだってする。……でも、どうだろうね」

「ん? 春兄ちゃんしたくねーの?」

「いや、そういう訳じゃないよ。ただ、……この後、ご飯の後には、大きなお風呂に入りたいんじゃない?」

「うん、入りたいよ」

「だとしたら、……あまりお尻を柔らかくするのは得策じゃないように思えてくる」

 春陽の示唆するところを光は少年なりに正確に思い描いて、顔をきゅっと顰めて、「そっか……」と頷く。この少年はかつて、初めて自分の胎内に肉の塊を収めた直後、お腹が痛くなった経験がある。その相手が年下の舎人であり、自分よりも「ちんちくりん」という言葉がしっくり来る相手に排便するところを観察されてしまったことは、軽度ながら確かなトラウマである。

「わかった、じゃー、ご飯食べ終わったらしよう」

「うん、……でもね、光」

 春陽はもとより優しく繊細な腕を持つ。軽い光の身体の細胞一つだって傷つけないよう振る舞うことは、この男には当然、努めなくとも出来ることなのだった。布団の上に押し倒して、

「こんなおちんちんで新しいパンツ穿くわけには行かないよね?」

 小さくとも確かに太陽のような熱を帯びて震える光の短茎に囁く。

「へへ……」

 光が恥ずかしさを堪えて笑うのが、また可憐だった。

「じゃあ……、兄ちゃんがしてよ、パンツ穿いてもだいじょぶなようなちんちんにさ」

 光が太陽ならば、僕は月だ。

 詩的なことを、春陽は考えた。……太陽によって照らし出されたのが決して好ましくはない欲であったとしても、光の熱が僕を温める。

 この心も、身体も、熱くする。

 

 

 

 

 物好き教授たちの「土曜会」の名物は、豪華な食事、そして馬鹿げた宴である。そのことを知っているからこそ、薄野瑞夜は穂村達磨に付いてやって来て、ご相伴に与ろうとする。

 春陽と光、二人ほど増えたところで、宴席の膳が薄くなるということはなく、今頃家では鞍馬と新、仏頂面を付き合わせて食べているであろう夕飯を思って少々の申し訳なさと悪い快さが浮かぶ。

「なー、鞍馬兄ちゃんと新兄ちゃんって二人だとどんな話すんのかな」

 鱒の刺身を頬張りながら光も言った。それは春陽にも全く想像のつかないことだ。新が幼い頃にはまだ、話題も在っただろうけれど。

 もっとも、今は二人して共通の愛情項目として光が存在する。光の話になれば、途切れることはないはずだ。光を側に置いて二人きりの一夜を過ごせる僥倖を、いまさらのように春陽は山菜と共に噛み締めているのだった。

 春陽と光が並んで座るのは、宴席の一番隅。瑞夜はあちらの膳からこちらの膳へとビール日本酒注いで回って忙しいが、ちっとも面倒そうではない。行く先々で美しい美しいと評されることが、彼女の相貌をより煌かせているかのようだ。

「光くん、ジュースおかわりは?」

 瑞夜は二人の膳にまでやって来た。光は唇を尖らせて、「ありがとございます」とだけ言う。「土ノ日くんは? ビール」

「いえ、僕はいいです」

「そう? せっかく教授たちのオゴリなんだから、たくさん呑んだ方が得だよ」

 春陽が内心で彼女を苦手に思っていることを、光は敏感に察知したのだろう。

「あの人って、いっつもあんな風なの?」

 そっと春陽の耳元で囁いて訊く。

「そう、だね。呑み会のときはいつも。……今日は僕ら隅にいるし、他の教授たちもいるから大人しいほうだよ」

 いつも、酒に弱い春陽のピッチを上げさせて頭痛の種を植え付けてくれるのは彼女だ。光は春陽が「ゼミの呑み会」から帰った翌日、青白い顔を顰めておいしくない人参ジュースを飲んでいるところを何度も見たことがある。

 鞍馬はどんなに呑んでも潰れない。新は、不良ながら一応未成年ということで、家では酒を呑まない――外でどうしているかは、鞍馬の管理外だ――が、去年の正月だったか朝にお屠蘇を飲んで昼には寝込むという芸当を見せたから彼も春陽同様、強くはないはずだ。

 血の繋がりはない。然るに、「兄ちゃんたちの弟だ」と自覚して憚らない光は、

「おれ、大人になっても多分お酒呑まないんだろうな」

 と呟いた。その方がいいね、と春陽も思う。春陽のグラスには最初の乾杯の分のビールが、まだ半分ほど残っているのである。

 大人しい兄弟たちをよそに、宴は下品な盛り上がりを見せていた。げらげら笑うもの、ひひひと笑うもの、うへへと笑うもの、……中年から壮年以上の男たちが無遠慮に上げる笑い声が交じり合って、十畳の宴会場にはぐわんぐわん、騒音と呼ぶほかないような音が響き渡っている。

「あたしはねえ、あたしは、いいかい、あたしはねえ」

「ほらまたそれだ、あんたの言うことはいつもそれだよ」

「今更ってあんたはそう言うけどね、でもやっぱりアルチュセールの功績は無視するわけにはいかんのよ」

「教育の現場にねえ、やっぱりねえ、即戦力ばっかり送りこみゃいいっていう考え方がねえ」

「男児の性器っていうものはだね、いい? 文学作品でも繰り返し繰り返し描かれてる通りだね、いい?」

 最早、誰が誰に向かって喋っているのかも怪しい。混沌という言葉を春陽は思った。光も、いい大人が演じるみっともない姿を見て、何というか大人という生き物全体に失望したような表情を浮かべている。

「……こっそり抜けてお風呂に行こうか?」

「……うん」

 兄弟がそんな遣り取りをするのも、当然と言えば当然。教授たちの酔眼には自分たちが居ようと居なかろうと気付かれはしまいし、そもそも大した問題ではなかろうと。

 然るに、腰を浮かせかけた二人を、

「おい、そこの二人! お前ら! 土ノ日兄弟!」

 穂村が見咎めた。どろんと、充血させた目を濁らせて。

「お前ら、今日のゲストだ! 何だ、どこ行くつもりだ!」

 お陰様で、教授陣の視線が中腰の二人に一斉に集った。春陽は凍りつく、光も迷惑げに身じろぎをした。

「……どこ、へ、と仰いますと」

「まーだ始まったばっかりだろうが! 大体なぁ、お前は男のくせに酒呑めないとは何事だ!」

「穂村くん、其れは聞き捨てならないねえ」

 ジェンダー論を専門に扱う教授がじろりと睨むが、穂村は全く気にしない。胸を反らして、

「上井先生、今日の余興は何でしたかな」

「今日の? ……ああ、遅刻者の裸踊りということで決まっていたのではなかったかね」

「そうですそうです。本当ならね、あたしがこの立派な」……どん、と達磨の太鼓腹を叩いて「腹を皆さんに披露するとこなんですがね」

「やめろやめろ、酒が不味くなるわ」

「そんな訳でねえ、ここは一つ、若い衆に踊って貰うのが名案だと思うんですが、皆さん、どうですかね」

 何を言い出すんだこの達磨バカじゃないのか!

 そういう意味の言葉を咄嗟に吐き出せるような男ならば、そもそもそれは土ノ日春陽ではない、決してない。

「そりゃあいい、とてもいい、素晴らしいアイディアだ!」

 ボーイズラブ愛好家、というか、単に男色趣味の持ち主なのかもしれない真岡教授が膝を叩いた、勢いでビールの瓶を引っ繰り返すが、誰も其れを拭きに行こうとはしない。

「真岡先生もそう仰ってる、異議のある先生はいらっしゃいますかね」

 誰も達磨を止める者は居なかった。達磨なら達磨らしく転んだら起き上がれ、転がり回って迷惑を掛ける達磨なんて聴いたことがないぞ。春陽は真っ白な頭の中でひたすらに悪態を吐いていたが、相変わらず何の言葉も出てこない。

 すっくと光が立ち上がった。

「なんだよ、大人ってバカばっかりだな!」

 甲高い声で、そう怒鳴る。

「光」

「ヘンタイばっかりじゃねーか、春兄ちゃんの裸見たいなんて!」

 春陽は咄嗟に光の口を塞ごうと手を伸ばした。

 教授たちに対して悪い印象を与えるべきではないと思ったわけではない、……もちろん、一パーセントほどはそう思った部分もあったかもしれないが、春陽自身はそれを否定したい。

 そんなことはどうでもいい。春陽は自分よりもずっと彼らの興味を惹きそうな、愛らしい光に矛先が向くことを何よりも怖れたのである。

 しかしこの勇ましい弟は、

「男のちんちん見たいなんてヘンタイの言うことだ! 兄ちゃんの裸が見たけりゃ一緒に風呂入りゃいいんだし、おれはおれの兄ちゃんとおっさんたちが一緒に風呂入るのなんか許しゃしねーからな!」

 甲高い声でそう言い放って、「行こ、兄ちゃん」ぐいと兄の腕を引っ張る。兄の身体は体重以上に軽く、ずんずんと進む光の足に従って進むのみである。

 ……光のことをどう咎めればいいのか、春陽には全く判らなかった。情けないことにこの兄は弟の言葉ゆえに窮地を脱して部屋まで戻ったものの、教授連がどういうことを思うかを考えれば背筋が寒くなる。

 しかし光は胸を張って言ったのだ。

「兄ちゃんの裸はおれだけのものだもん」

 この弟が心底から自分への愛情に基づいてあのようなことを言ったのだということは判っている。

「誰だってさ、ちんちん人に見せるなんて嫌だよ。しかもさ、あんな、女の人いるとこなんて絶対嫌だ。それなのにあのおっさんたちあんな風に言うんだから、ヘンタイだし、バカだ。ヘンタイのことはヘンタイって言っていいし、バカだからそう言われなきゃわかんないんだ」

 ああ。光、強い子、勇ましい子。

 春陽は少しの間俯いて、……それから顔を上げて、

「あのままあそこに居たら、光が裸にされていたかもしれないね」

 光を抱き寄せた。

「僕だって光の裸を僕たち以外の誰かに見せたくなんかない。ましてや、あんな風に興味本位で見たいなんて言う人には光の肌の少しの部分だって見せたくない」

 光の身体は熱かった。まだ怒りの余韻が其処に在る。春陽は手のひらで、光の髪を撫ぜ背中を撫ぜ、この弱い男のために怒ってくれた少年をひたすらに愛さなければならないことを改めて知る。

「……ごめんな」

 光が胸の中から顔を上げて言った。

「ん?」

「……おれ、あんなこと言っちゃったから、……せっかく温泉来たのに、入れなくなっちゃったよな……?」

 夕食後に入るつもりで、さっきは部屋の風呂で済ませたのだ。

 しかし、構うものか。こんな旅館に泊まることになったのだって不幸なことなのだ、その中に在って、光が一緒に居てくれる。救いはそれだけ在れば十分過ぎるだろう。

 だからもう一度光を抱き締め、額に口付けたところで、部屋の扉がノックされた。

「……誰だろ」

「さあ……。教授かな」

 憂鬱な気分が再興するが、放っておくわけにも行かない。溜め息を飲み込んでドアを開けると、瑞夜が立っていた。ニヤニヤと、底意地の悪いような笑みを浮かべて。

「ほむらちゃんたちの面白い顔見せてくれてありがと」

 彼女は突っ立ったままの春陽に向けてそう言った。春陽の後ろから光がじいっと睨んでいるのに目を向けて、

「あんなカッコいいナイトが付いてたんじゃ、教授が何人束で掛かったって敵いっこないね。あたしは土ノ日くんの腹踊り見てみたかった気もするけど」

「んなこと、おれがさせねえ!」

 クスッと笑って、

「代わりに光くんがやるのも悪くなかったと思うけど、……真岡先生なんて大喜びしそう」

 付け加える。

「……あの、どういった用でしょうか」

 困惑して訊いた春陽に、瑞夜は肩を竦めて、

「君のことだから、教授たちがカンカンなんじゃないかって不安に震えてると思ったの。……安心して、いまはしょんぼりしちゃってるけど、どうせお酒の席のことだもの、どうせすぐ忘れちゃうわ」

「……そう、でしょうか」

「そうそう。大体ね、みんな教授だ先生だって偉そうにしてるばっかり、お酒入ったら大きい子供と変わんないの。たまにはあんな風にビシッと言ってやれば少しは謙虚さってモノを思い出せるでしょ。……まあ、あんなちっちゃい子に叱られるとは思ってなかっただろうけど」

「ちっちゃくねえ!」

 声を上げた光へ、春陽越しに瑞夜はウインクを投げて、

「教授たちはあと一時間ぐらい、あたしが宴会場に押さえておくわ」

 言った。「ほむらちゃんのお遣いでこんなとこまで来て、せっかくの温泉も入れずじまいで帰るなんて可哀相だから。土ノ日くんにはいっつも資料集めとか荷物持ちとかノートとか代返とかお願いしちゃってるから、せめてものお礼」

「んないろんなこと兄ちゃんにさせてんのかよ!」

「そういうわけだから、お風呂、ゆっくりね。……あたしも教授たちのお守り終わったら入ろっと」

 瑞夜は「おやすみ」と言い残してひらひら手を振って廊下に消えて行った。

 かくして土ノ日兄弟、無人の雪の露天風呂を借り切ってゆったりと安堵しつつの入浴を愉しむことが出来たのである。

「変な女」

 と光は言っていたが、……そして春陽もそれには同意見であるものの、少なくとも日頃の酷使を多少なりとも気にしていてくれたのだということは、春陽には嬉しく思えた。実際彼女が春陽に頼むことと言えば先に挙げたようなことのみならず、試験前の忙しい時期に彼女の所属する文芸サークルへの論文寄稿、自主出版する本への解説寄稿、果てはレポートの代筆に至るまで、この程度の「返し」では到底足らぬほどのものだが、そういうことは光に言う必要はない。

 土ノ日春陽は性善説に基づいて生きている。この点、光に「優しい春兄ちゃん」と評されるためには必要不可欠な心のパーツだった。

 

 

 

 

「春兄ちゃんは、すげー優しいと思う」

 さすがに温泉で、冷え易い体質の春陽もまだ身体の芯がぽかぽかしている。光はようやく汗が引いたところで、よく温めた部屋の布団の上、穿き替えたばかりのブリーフ一枚だけという格好で座り、そう言ったのだった。

「ああいうこと言われても、あんま怒んないしさ。……もっと怒ってもいいんだと思うけどなあ」

 そうだね、と春陽はまだ浴衣を脱がずに苦笑する。

「でも、僕は怒ることがあまり得意じゃない。……何て言うか、自分が怒ることで相手が不快に思ってしまうんじゃないかって、そういうことを考えてしまうんだ」

「けどさ、怒るのって、やなことされたからじゃん。兄ちゃんがいやだって思ったことは、ちゃんと相手に伝えてやんなきゃいけないような気がする」

「まあ……、僕だって怒るときは怒るよ」

 実際、自分に先んじて新が光を抱いたと知ったときには、酒の力も借りず眼鏡も外さずに新に対して食って掛かった春陽である。

「それにさっきも、……ほら、薄野さんが言ってたみたいに、光が裸にされそうになったら、間違いなく怒っていたよ」

 光はじいっと春陽の目を見詰める。しばらくそうやってその目を覗き込んでから、納得したように頷いて、

「……さっきさ、ちんちん見たがるの、ヘンタイだって言っちゃったの、あれ、兄ちゃんは入ってないからな」

 案じるように、言った。

「ん?」

「……だから、その、兄ちゃんはおれのちんちん見たいって思ったときは、見たいって言っていいんだし、それはヘンタイなんじゃなくて、おれのこと、好きでいてくれるからって、おれはちゃんとわかってるから」

 そんなこと、気にしなくてもいいのに。光の髪を撫ぜて、春陽は笑う。

「ありがとう。……でも、僕だって変態だと思うよ。自分の弟のおちんちんを見てみたいって思ってしまう時点で、十分すぎるくらい」

 純粋な愛情に基づいていたとしても、それは否定できない。

 光はむっと唇を尖らせる。

「……したら、おれだってヘンタイってことになっちゃうじゃん……」

「光は変態じゃないよ、それは僕が保証する」

「でも、……おれだって兄ちゃんのちんちん見たいって思うとき、あるし、……兄ちゃんのちんちん見たいって思うの、ヘンタイじゃないの?」

 ああ……、それは……。

 元々そういう知識を光に植えつけたのは新である。あの弟は、まさしく変態な弟は、入浴時などに光の裸を見るだけでは飽き足らず、実際「見たい」と言って見るような男だ。

 しかしそれだって、愛情に基づく行為だと言ってやることは出来る。

 いや、そうではない。

「……というか、光は僕のなんか見たいと思うときがあるの?」

 こくん、光は頷いた。

「いまだって、見たいし……」

 むう、と唇を尖らせて。

「お風呂でも、見たけどさ」

 春陽の頬には自然と笑みが浮かんだ。それは概ね滑らかで角のない、彼らしい優しいものであったようだ。

「光は男の子だし、僕は男だからね……」

 春陽はこの弟への――年不相応なベクトルを既に手にしてしまった弟への――いとおしさを形容するためにどんな言葉を用いればいいのかが判らない。その言葉まで、眼鏡を外した別人格に頼りたいとは思わなかった。

「心の中にあるものを閉じ込めておくのは、……女性はどうかは判らないけど、少なくとも男には難しい。新が始めにそうして、やがては鞍馬兄さんがそうしたように、光へ向かう気持ちだって僕は止められないし、……同じ男である以上、僕は光にそういう気持ちがあるっていうことを、嬉しいと思ってるよ」

「でも兄ちゃん、おれのちんちん見たいってあんま言わないじゃん」

「本当は見たいよ。でも僕は、新ほど度胸があるわけじゃないからね……」

 二人きりのときぐらいはもっと正直になっていいのかな、という気はする。とは言え今だって二人きりでいながら、こんな回りくどい物言いしか出来ない。だから光に不必要なまでに積極的にさせてしまうのかもしれないな、とは思う。

 眼鏡を外せば何も怖くなくなる。しかしそんな自分でいるしかないのは、却って怖くなる。何をしでかすか判ったものではない……。

「……なー、兄ちゃん。ちんちん、見せっこしようよ」

 光が恥ずかしさを振り払うように顔を上げて言う。

「おれ兄ちゃんのちんちん見たいし、兄ちゃんもおれの見たいだろ。だからさ、一緒に見せっこしよう」

 さすがに弱気な兄でも、その誘いには頷く。何だか子供っぽいなとは思うけれど、大人っぽい行為をするために無理に光に背伸びをさせる必要などどこにもない。

「いいよ」

 春陽は頷いた。光はにっこりと笑って、

「じゃー、いっせーのせで出すんだぞ」

 ブリーフのゴムに指を入れた「いっせぇの」光の号令に合わせて、慌てて春陽は浴衣の裾を捲り上げた。春陽が穿くのはボクサーブリーフである。上から、トランクス、ボクサーブリーフ、トランクス、ブリーフという四兄弟。

「せっ」

 伴う擬音があったなら、光は「ぽろん」というんだろうな。そんなことを春陽は思う。光はじいいと春陽がトランクスのウエストから取り出した性器を見詰め、春陽は春陽で、見せてくれるのだから見返せばいいとは思うのだが、やはり直視しかねる。

「……兄ちゃんさ、ちんちんの皮っていつごろむけたの?」

「はい?」

 思わず視線を送ると、光は相変わらず春陽の性器を直視しながら自分の短茎を摘んで手前に引っ張る。

「うー……、やっぱここまでしかいかないや……」

 生白い粘膜が密やかに現れるだけで、光が指を離すとそれだけで恥ずかしそうに戻ってしまう。太腿にブリーフを引っ掛けたそのまま、膝で春陽に歩み寄り、

「兄ちゃんみたいにさ、ちんちん皮むけてたら、パンツ汚れなくていいんだろうなーって思う。それにさ、兄ちゃんたち三人ともむけてんのにおれだけこんな形なの、つまんねーなーって。だからおれも早くむけるようになりたいんだ」

 はて、いつごろ剥けたのだろう。

「僕も、光ぐらいの頃にはまだ被ってたように思う……」

 同級生とそういう話をすることはなく、専ら書物に頼って身に付けた知識である。

「……中学の、一年生、いや、二年生ぐらいだったかな……」

 光という生き物が「可愛い」のだという認識をするに至ったのも、性欲を抱くようになったその頃だ。

「新兄ちゃんもそれぐらいって言ってたなー……」

「新は、……光は覚えてないかい? 光ぐらいの歳の頃は、いまの光よりももっと小さかったよ。そんな新でも中学には剥けてたっていうことは」

「おれも、遅くともそれぐらいにはちんちんむけるようになる?」

「そういうことだろうね」

「そっかー、……へへ」

 光は少し嬉しそうに自分の皮をまた剥いて、

「早く兄ちゃんたちとおそろいになりたいなー。皮剥けて毛も生えて、ちゃんと大人のちんちんになったらうれしいな。……こんなさ、ちっちゃいのだと、バカにされるもん」

 アクシデンタルに、同い年の少女である碧に見られたとき「ちんちくりん」と言われたことを光はずいぶん気にしているようである。

「……光のは可愛いから、僕はそのままでも好きだよ」

「んー……、どうなんだろ。新兄ちゃんもおんなじこと言ってた」

 普段は全く判る気もしないし判らなくってもいいと思っている新の気持ちが、春陽にはよく理解できた。理解できてしまうということは、春陽自身彼のことを「変態」などと評することは出来ないということだ。

「大きさも全然ちがうよなー……」

「お」

 光が指で皮を押さえたまま、春陽の先端に先端を重ねた。春陽は思わず声を漏らしたが、光はぴくんと震える。

「……やっぱ、先っぽってヘンな感じ……。でも兄ちゃんみたいなちんちん、先っぽ気持ちいいんだよな……?」

「……それは……、ええ、うん」

「おれなんてさ、そんな風に出したまんまにしてんの無理だし、ちょっと触っただけでヒャッてなる。……見た感じもちょっと違うよなー」

 諦めたように光は皮を元に戻す。砲身そのものが小さいものだから、皮は先端をすっぽり包むどころか余る。その柔らかいマシュマロのような感触が亀頭を擽る感触は、何と形容すればいいのか……。

「……兄ちゃん、これ、気持ちいいのか……?」

 ノーコメントが許されるならばそうするけれど。

「まあ……、そんなに、良くはない。けど、……ドキドキする」

「なんで?」

「……だって、……それは、ねえ」

「おれのちんちんでしてるから?」

「……そうです」

 ふうん……、と光は納得したような顔になる。自分の「変態」の度合いが高すぎて光を戸惑わせてしまっただろうか、……まずこの兄はそんなことを考える。

 光は不意に顔を上げて、

「兄ちゃんの携帯ってさ、ロックかかる?」

 そんなことを訊いた。

「け、携帯?」

「うん、ロック。パスワード」

 いつでも掛かっている。財布と同じぐらいに大切なスマートフォンである。慎重な男であるからどこかへ落とすような真似はまずするまいが。

「貸して」

「ああ……、うん、構わないけど……」

 四桁のパスコードは光の誕生日である。開錠して渡すと、光は「兄ちゃんにさ、プレゼント」と言って、……何をするのか判らないでぽかんとしている春陽に、シャッターの音を聴かせた。

「はい」

 返されたスマートフォンのカメラロールには、光自身のペニスが見下ろされた形で写っている。

「新兄ちゃんがさ、撮らせろって言って、……だから新兄ちゃん、おれのちんちんの写真何枚も持ってる。でも春兄ちゃんマジメだから持ってないだろ、不公平だと思うから、あげる。……でも、絶対携帯落としちゃダメだぞ、兄ちゃんだからこんなの撮るんだからな」

 春陽は暫し呆然としていた。スマートフォンの画面に映し出された光の、……下半身。まだ大人しく、ただ愛らしいばかりの弟の性器。

 そんなものを持ち歩いていると思うだけで、罪深さに押し潰されてしまいそうになる。

 しかしそれ以上に、それ以前に、

「……ありがとう……」

 そういう言葉は、すんなりと彼の唇から零れた。光は「へへ」と照れ臭そうに笑った。

「兄ちゃんはもっと欲しがっていいんだ、おれのこと。誰が何て言ったってさ、おれはそういう兄ちゃんのこと好きだし、『ヘンタイ』だなんて思わないよ」

 太腿に引っ掛かったブリーフを脱ぎ捨てて、兄の膝に光は乗る。首に手を回して、しっかりと抱き付いて、キスを強請る。それからふと思い出したように、兄の眼鏡のシャフトに指を当てた。

「兄ちゃんのメガネ、不思議だよな」

「……ん?」

「普段はさ、優しくって怖がりなのに、メガネ外すとあんな強くなっちゃうんだもんな」

「……うん」

 光は、どっちの「春陽」が好きなのだろうと、そういう思いが去来した瞬間は確かにあった。

「でもさ、お風呂で外したときとか、ふつーに寝るときとか起きたときとかはああならないじゃん」

「……それは、そうだね」

 温泉はメガネのレンズやフレームが損傷するおそれがある。だから脱衣所で外す。近眼の春陽は少々危うい足取りで鏡の前に座ったが、シャワーの温水と冷水を間違えた。

 少なくともあの時は、強気な別人格が表出することはなかった。光の言うとおり、寝るときいつもあんなに強気だったら大変だ、眠る時間さえなくなってしまう。

「おれ、思ったんだけどさ」

 光はひょいと春陽の眼鏡を外す。数秒、そのままにしてから戻した。ぼやけた視界が一気にシャープな焦点を結び、目の前の愛らしい少年を描き出す。

「たぶんだけど、メガネ外すと強くなるんじゃなくって、兄ちゃんが気持ちのスイッチ入れてるだけなんじゃねーのかなー」

「……気持ちの、スイッチ?」

 例えばさ……、膝の上の光は考え考え言う。

「おれと……、新兄ちゃんが最初にしたときはさ、新宿の、ラブホテルっていうの? ああいう場所だったんだけどさ、何ていうんだろ、あんなとこ行かなくたってさ、新兄ちゃんは幾らだって春兄ちゃんたちにナイショでおれのちんちん触りたいって言えば、触れてたと思うし、その先だって出来てたんじゃないかなって。でも、最初だったし、……新兄ちゃんはおれとしかしたことないんだ、だから、……きっとさ、緊張してたんだと思うし、そういうとこ行ってやるって思わなきゃ、そういうきっかけがなきゃ出来なかったんだと思う。……それと、同じなんじゃねーかなって」

 新が初めて光に手を出したと知った夜、春陽は大いに悲しんだものだが、今では光がこうして裸を好きなだけ見せてくれる。だから表情を変えずに春陽は聴いていた。

「同じ、と言うと……?」

「うん。徒競走のときのピストルの音みたいなもんだと思うんだ。『やるぞ、行けー』っていう、言葉じゃないけどさ、合図みたいなもん。運動会でさ、走る前の列に並んでるときはすげー緊張してるけど、ピストル鳴ったらもう走らなきゃって気持ちだけで頭いっぱいになっちゃうのと同じ。だから、メガネ外すのって、春兄ちゃんにとったら合図のスイッチとか、そういうもんなんじゃないのかなって。ほんとは何にも変わってないけど、でも、メガネ外したときにスイッチ入れてるんだよ、自分で」

 春陽が眼鏡を掛けるようになったのは小学五年生のときだ。コンタクトレンズは目に合わなくて、当時からずっと掛けている。とは言えもちろん当初から「別人格」が現れていたわけではなく、……眼鏡を外せば強気になれると気付いたのは、新に光を奪われた直後、初めて欲を篭めた指で光の裸に触れたときだ。

 心に鳴る号砲、……いまこのときを逃していつ戦うと言うのだ。そういう意識が胸の中で働いたのだとしたら、……そのためのきっかけを求めていたのだとしたら。

「だから、どっちもほんとの春兄ちゃんなんだと思うよ。だからおれ、どっちの春兄ちゃんも好きだよ」

 光は笑顔でそう言う。

 どちらも本当の自分、と言われれば、まさしくそれで得心が行く。「弓矢理論」にしても光に対して時に「変態」としか言えないような接し方をすることにしても、どちらも眼鏡を掛けているときに頭の中にあるものだ。

 だとすれば、……何の問題もないということになる。

「おれはー、兄ちゃんが大好き」

 愛らしい音を立てて唇が重なった。

「……どうする? 兄ちゃん、メガネ外す?」

 春陽は首を降った。考えてみれば「眼鏡を外した別人格」が自分の中に居たとして、……それは可哀相な男だ。だってこんなに愛らしい弟の顔を、きちんと見ることだって出来ていないのだから。

 眼鏡を外したら、何も見えない。

「僕も……、光が大好きだよ」

 手には、まだスマートフォンがあった。再びロックがかけられて、黒い画面。片手でロックを解き、改めて先ほどの写真を見る。

「……さっきまで、こんなだったのにね」

 光は照れ臭さを噛み潰して、

「だって、にーちゃんとこれからすんだもん」

 強気に言う。優しい腕で横たえて、清潔な印象しかない場所に指を当てる。ひくん、と不随意の揺れが指先へ伝わってくる。

「え……、ちんちん、こんななってんの、撮るの……?」

「どうしよう。……新はこういう形のときのものも持ってるの?」

 こくん、と光は頷く。

「…………こんなのとか、……新兄ちゃん、いろんなの、持ってる」

「そうか……。光は撮られるの嫌かい?」

 光は困ったように春陽の手のスマートフォンを見上げる。

「……やじゃないよ、だって、撮ればおれと兄ちゃん別のとこいても、兄ちゃんおれの、見れるって思うから。……でも、やっぱちょっと恥ずかしいよ。ちんちんだもん……」

 この季節には太陽の届かぬ白い肌、まだ薄い胸部に実る乳首からすっきりとした線で描かれる腹部。そこまではまだ子供そのもののそれ。しかしその下で欲を帯び、熱を集めた場所があるがゆえに、どんな生き物よりも光が淫らに映る。魅力的に映る。

 シャッターの音が一つ響いた。その音に、光が微かな震えを催す。

「……おれも、あとでにーちゃんの、撮るからな」

「僕の撮って面白いかな……」

「おれは面白いもん。いつでもにーちゃんのちんちん見たいし。だいじょぶだよ、おれもちゃんと携帯ロックかけるしさ」

 笑顔を浮かべた光が両手を広げて誘う。唇を重ねる、抱き締めあう。愛しさは、こんな風にこみ上げ、こんな風に果たされる。

 恐らく春陽は覚えていないし、光も想定していなかったこととして、二人が裸のまま布団に包まって眠りへと落ちたとき、「にーちゃんの撮る」と言っていた光の携帯電話がいつのまにか枕元にあって、その中に春陽の手によって撮影された写真が一枚加わっていたということ。其れがどんなものであったかを、春陽は忘れているし、光もしばらくは思い出せない。

 ただ光の望むとおり、春陽の陰茎はその写真に映っていた。それ以上に目を引いたのは光自身の裸身であったけれど。

 

 

 

 

 光にとってあらゆる睡眠がおねしょと隣り合わせという訳ではない。少なくとも兄の管理下の元、寝る前か夜中にか、きちんとトイレに行きさえすればそうそう失敗するようなだらしない子ではないのである。結論から言えばこの温泉旅館の布団を濡らすことは避けられた。というのも夕べの愛し合いの最中、光はごく非合法なやり方での放尿を一度して、膀胱の中をすっきり空っぽにしていたからである。

「おはよう、光」

 腕の中で弟が目を醒ますよりも五分だけ早く起きた春陽は、光が起きるまで身動き一つせずに待っていた。少年の生甘い寝顔がほどけて、大きなあくび一つを挟んで、柔らかく微笑む。

「おはよ、にーちゃん……」

 夕べ、呆れるほど遊んでしまった。普段は夜更かしにあまりいい顔をしない兄であるが、二人きりとなればまた話は別で、少々手前勝手ながら光の体力が許す限りに愛し合ったのである。もちろん、眠りに落ちたのはとうに日付が変わった後だっただろう。

「春兄ちゃんと二人だけで泊まんのって、これが初めて……、だよな?」

 布団から起きてもお互いまだ裸のままである。几帳面な春陽であるから光が眠りに落ちた後、彼自身も眠気を堪えつつ、愛する弟の身体を丁寧に拭き清めた。だからクシャクシャの布団以外、前夜の奔放な時間の余韻は残っていなかった。

「そういえばそうだね……。まあ、半分は教授のお遣いで、あんまりのんびり出来なかったのは残念だけど」

 元々土ノ日家はそう裕福な家庭ではない。都内に店舗付き持ち家があるとは言え、「守護精」の仕事は無報酬である。春夏冬の長期休暇にもあまり遠くへ連れて行ってやれないことを鞍馬は気にしている。

「今度はさ、あのおっさんたちの用事とかじゃなくって、ほんとに二人っきりでどっか泊まりに行こうよ」

 光が望むように、春陽も望む。

 しかし、まだ大学生の春陽だってそう金を持ってはいない。だからこそ近い将来に鞍馬とともに家計を支えなければと思っている。

 そういう将来にはこんな風に、いや今回よりももっといい形で「二人きり」の時間を設けることも出来るはずだ。

「そう、だね」

 やや答えが歯切れ悪くなってしまうのも仕方がない。だってこういうところ、普通に二人で一泊二食と考えたら、安く見積もっても一万五千円から。

「新兄ちゃんが連れてってくれたホテルだったらもっと安いんじゃないの?」

 光はいいアイディアを思いついたと言うように明るい顔でそう言う。

「だってさ、新兄ちゃんこづかいの中で連れてってくれたんだよ。ここみたいに寝るとこ広くなかったけどさ、部屋にお風呂付いてるし、あと前行ったときは入れなかったけどサウナもあったよ。……兄ちゃん?」

 暫し、光をじいっと見詰めてしまった。白い裸は窓から差し込む朝の光に無垢そのもの。それで居て、カップルズ・ホテルに自分の兄を誘うという、事実と事態のそぐわなさ。

「……兄ちゃん、ひょっとしてそういうホテル行くの嫌か?」

 しかし光が――たとえどこか「そうではない」部分を併せ持っていたとしても――純真無垢に見えるのは、何よりこの兄自身が光を「そういうもの」と信じているから。

「……そう、だねぇ……」

 春陽はそう苦笑して、大きく伸びをして立ち上がる。

「光が行きたいなら、僕がどこでも連れて行ってあげる」

 抱き着いた光の身体はまだ、細く芯のしっかりしない春陽の身体でも抱き留められる。

「ほんとに? ……へへ、じゃあ約束な!」

「うん。必ず連れて行ってあげるよ」

 抱き締めて、弟が背伸びをするより先に背中を丸めて口付けをする。兄弟であると同時に恋人同士だ、一対の惹かれあう身体と心だ。的をしっかり得た矢が抜けることはなく、また新しい熱を幾らでも煽り合う。

 春陽はまだ眼鏡をかけていない。しかし「……光みたいな小さな子を連れて、どうしたらそういう怪しまれずにそういうホテルに入れるんだろう……?」転がす思考は春陽自身のそれである。

 そして光を膝に乗せて改めて抱き締める腕の力も、春陽自身のそれである。

 優しい兄は弟の顔を間近に見詰めながら、微笑んでいた。


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