お天道様の寝た後で

 土ノ日光を心より愛する、土ノ日家の三人の兄たち。

 即ち、長兄鞍馬、次兄春陽、三兄新。

 昼は人力車曳きとして、夜は寿司屋の板前として忙しく働く鞍馬は百九十糎近い長身に九十を超える筋骨隆々たる伊達男である。先段既に記した通り、車に跳ねられたところで傷一つ負わない、少々異常なほど頑健な男であり、弟たち三人が古くなった貝に中って苦しんだときも、同じものを、一番多く食べておきながら、「おい大丈夫か、しっかりしろお前ら」とおろおろと看病する彼は、尾篭な話ながら普段通りの快便であった。多食し身体を動かし、冬でも日焼けして肌浅黒く、弟たちが何より布団を愛するような朝に庭での乾布摩擦を欠かさず、年中ほとんど休むことなく働くこの男、「疲労」なるものとは無縁、常に気力十分、無駄なほど元気、座右の銘は「仲良きことは美しき哉」で兄弟の和なることこそ至上命題。

 とにかく、心も身体も異常なほど逞しいのがこの男なのである。体系的にも精神的にも、

 ――大黒柱。

 という言葉が最もしっくり来るだろう。何せこの柱は車に跳ねられて十メートル吹っ飛んだ所でびくともしないのだから。

 とは言え、……自分の心身に不安を抱いたことのなかったこの男、弱点というものが無い訳ではなくて、色恋沙汰には滅法疎い。女の手も握ったことなく二十四年の時を過ごした、一言、童貞である。粋でいなせな色男であるから浅草界隈の女子に「土ノ日鞍馬」の名を知らぬ者はないし修学旅行の女学生から懸想文を送られることも幾多度、しかし平生彼は艶のある視線を自分に送る婦人たちから意識的に距離を置き、寧ろ六区の奥まった所にある行きつけの鄙びた喫茶店で、アイスクリームなど舐めているのが平和で良いなどと思っている。近所の世話焼きおばさんから縁談を持ち込まれたことも数知れないが、いつだって彼は「弟たちが全員ひとり立ちするまでは、俺はてめえの幸せなんざ後回しで良いんです」などと言う。

 とは言え、鞍馬とて木石漢ではない。人に思いを寄せたこと、一度や二度ならず。その度彼は右のような言葉を口にして、まず何より、自分に言い聞かせることでその五尺に及ぶ身体に思いを閉じ込めてきた。

 ――俺が一番大事にしなきゃなんねえもんは何だ?

 其れは常に、春陽であり、新であり、光である。心の底から愛して止まない、三人の弟たちである。

 土ノ日家は特殊事情により、正確には「兄弟」ではない。四つ年下の春陽は鞍馬が十の時に、七つ年下の新は十二の時に、十二年下の光は十五の時に、それぞれ「出来た」弟たちであるが、事情などあってないようなもの、一つ屋根の下で寝食を共にする弟たちのことを、彼は最優先に今まで生きてきた。楽しみと言えば唯一、人力車曳きの仕事からほとんど休まず寿司屋の板場に立ち、店をしまった夜遅くに熱い風呂に入り、スポーツニュースを見ながらビールを一本飲むこと。其れで居て、俺ぁ幸せな男だ、そう信じて疑ったことなどなかった。

 今年の夏までは、そうだった。

 頭のいい春陽が、立派な大学に入り、現在三年生に上がった。元々手の掛からぬ子で、少々心が細いのは気になるが、その分細やかな気遣いが出来るのが良い。

 素行に少々問題の在る新だったが、公立高校の二年生、成績は優秀で、文句は多いものの家のこともきちんとしている。素直なところはないように見えて、心根は優しいことも判っている。

 この二人の弟の、今後がそろそろ見えてきた時期である。高校時代に「本を作る仕事がしたい」と言っていた春陽はこのところ、本格的に文学というものに傾倒し始めた様子で、本人のやる気があるなら大学院に行かせてやってもいいと鞍馬は思っている。一方の新は、まだ将来のことを考えるのは時期尚早で、ひとまずは大学に進学してくれればそれでいい。ともあれ、この二人については遅かれ早かれかたが付く。それぞれに多少の問題はあれど、父も母も居ない家ではある中で、よく真っ直ぐに育ってくれたと、鞍馬は嬉しく感じている。

 問題は、末弟の光なのである。

 これといって問題がある子ではない。春陽や新に比べて勉強は苦手なようだが、その分運動が得意で、感受性も豊かだ。その点は俺に似ているな、うむ、そんな風に解釈している。春陽のように休みの日でもあまり外に出ず本ばかり読んでいるのも、まあ、悪くはないが、やっぱり子供は外で遊ぶべきだと考える鞍馬は、いまどきの子供にしては珍しく臆することなく外に出て行き、夏はよく日焼けする弟の在り様は好もしく映る。おねしょ癖は少々困ったものだが、春陽にしろ鞍馬にしろ、十歳ぐらいまでは時折やっていたし、斯く思う鞍馬自身だってそうだ。子供のうちはそういう恥をどんどんかいた方が、きっと大きな人間になる、……という程度の態度で、鞍馬は居る。

 では、何が問題なのか。

 それは、雷門前から見上げるスカイツリーの威容のごとく、はっきりしている。

 一日の仕事を終えて熱い風呂に入り、居間に上がると、テレビが付けっ放しになっている。なんだだらしねえなと思ってよく見れば、コタツで光が涎を垂らしている。天板の上にはすっかり冷め切った緑茶の入った愛用の湯飲み茶碗と、乾いたみかんの皮が二つ。

 春陽たちはどうしたんだと玄関に行けば、そう言えば今日は金曜日である。春陽はゼミの忘年会に出席しているはずだ。酒に弱く、飲むとしばしば記憶を失くすあの弟が、明日の朝また死にそうな顔で起きてくるのを思うと中々に痛々しい。じゃあ新はどうしたんだと言えば、一昨日から風邪をひいて寝込んで居たことを思い出す。病院に行けよと言ったのだが、鼻声で「あんたの弟だ、寝てりゃ治る」と言って、二日間学校を休んでいる。階段から二階の部屋を見上げるが、寂として音はない。ちゃんと薬は飲んだんだろうか。

 要するに光は退屈してテレビと睨めっこした結果、とうとう眠りこけてしまったのだろう。ビールを呑むどころではなくなって、

「おい、光、……光、起きねえか」

 揺すり起こすと、しばらくは「んんん」とうるさげに唸っていたが、やがてむにゃむにゃとなにごとか呟きながら、ようやく目を開ける。……この眠りの深さが、この少年のおねしょ癖と関係しているように鞍馬は考える。寝ていても、トイレに行きたくなったら行けばいいのだが、そういう行動が取れないくらい深い眠りに沈んでしまうのだろう。

「うにゃ……」

 やっと目が開いた。「あれ? にーちゃん? ……あれ?」

「おう。……お前なあ、こんなとこで寝たら風邪ひいちまうだろうが。寝るなら布団で寝ろよ」

 ぱちぱちと瞬きをして、テレビを観る。恐らく、バラエティ番組を観ていたのだろう。けれどいまはスポーツニュースがやっている。

「あ……」

 ようやく事態を理解したように、光は照れ笑いをする。「へへ、寝ちゃった……」

「晩飯は食ったのか」

「んー。おいなりさんと、あと、新兄ちゃんがスープ作ってくれた」

 風邪ひきのくせに、あのいい加減に見える弟は、光のためになら自分を犠牲にする。

「風呂は?」

「んー……、まだ」

「どうする。寝る前に入るか?」

 光は少し考える。大きな欠伸をして、冷たいお茶を一口啜って、「入ろかな……。兄ちゃんはもう入っちゃったの?」

 そうだと頷くと、光はコタツから出て、「じゃー、おれ、入ってくる」と言う。そうしろ、で、早く寝るんだ。そう背中に言ったら、ぴたりと止まって振り返って、

「……兄ちゃんは、もう入っちゃったんだよね?」

 いましがた確認したばかりのことを、また訊いた。

 ――例えばこういうとき、鞍馬はちょっと、困る。

 頑健な心身を持ち、常に弟たちのことを気遣う愛情溢れる男なのに、困ってしまう。

「……一人で入れんだろうが」

 そう咎めるように言いつつも、どっしりとした下半身は、軽々と立ち上がってしまう。「其れに、俺はさっき入ったばっかりなんだぞ」

 鞍馬はいつの頃からか、光の考えていることが読めるようになっていた。

 困惑の、大きな根拠は其処に在る。

 いや、元々判りやすい子だ。表情のあちこちに、考えていることが素直に出てしまうのだ、が。

 このところ、これまでこの男が全く以って不得手としてきた色恋沙汰関連のことまで、光の心を読めるようになってしまったのである。

 末弟は、一緒に風呂に入って欲しいのだ。

 普段、一番光を構う新が風邪をひいた。春陽はまだ当分帰って来ない、……終電に間に合えばいいほどだ。孤独で退屈な夜を過ごした光が、どういう気持ちで居るのかということが、鞍馬には判ってしまう。

 ――光は弟だぞ? まだ子供で、男の子だぞ?

 そういう問い掛けを、鞍馬は夏以降、一体何度繰り返してきたか判らない。しかしそれらに一つとして明確な答えを出せないまま、時間を重ね、光を愛する「新しいやり方」を漫然と繰り返している。自責の念は未だ消えないが、其れを上回るだけの欲求が、鞍馬の中に根付いていた。

 元はと言えば、新が悪いのだ。新が、こともあろうに自分の弟にそういう欲を隠せなくなった。もうすぐ夏休みになろうかという日の夜に、新は光を連れて新宿の、いかがわしいホテルに行った。その場で新は光を掌中に収めたのだ。

 丁度、鞍馬が光に対して正体不明の胸の疼きを持て余していた頃である。

 その直後、今度は春陽が、恐らくは新への嫉妬も煽りとなって、同じく光にそういう真似をした。

 本来ならば二人を殴って叱りつけるのが鞍馬の仕事である。

 しかしながら、彼に二人をどやしつけることが出来なかったのは、他ならぬ彼自身に、弟二人を羨ましく思う気持ちが在ったからだ。

 だから結局、鞍馬は光を抱いてしまった。光自身が其れを望んだこともある、春陽と新に唆されたと言い訳をする余地も在る。けれど、この男は自分の責任に於いて光を抱いたのだ。

 脱衣所であっという間に裸になって、

「兄ちゃん、背中流してよ」

 すのこに座って向けた背中は、まだまだ子供の其れである。鞍馬の隆々とした肉体に比べれば、その細さは際立つ。

「……ったく、しょうがねえな」

 湯を掛け、その背中を洗うときの腕の力も、以前よりは鈍ってしまった。この弟が、もうただ「弟」ではなくて、鞍馬が心の底から恋しく思う相手になってしまったからだ。

「可愛い」という感情を抱いたのは、まだ三つの光が保護士に連れられてきたのを見たときからで、ほっぺたの丸い幼児は新しい環境に臆すると言うよりは、ただ何が起きているのかも判らない様子で親指を咥えて、その当時から既に今の巨躯が思い描けるように体格のよかった鞍馬を大きな目で見上げていた。新と春陽はまだその頃、人の面倒を見られるほど責任感のある子供ではなかったから、必然的に鞍馬が幼少期の光の世話をすることとなった。

 三歳児である。まだ、「人間」と呼んでやるのも酷な年齢である。けれど鞍馬には光が可愛く思えた。元気一杯で手を焼かされることしばしばだが、心根が素直な子だということはすぐ判った。「にーちゃん」と呼んで後ろを付いて歩きたがることなど、何だかいま思い返してもにやけてしまうような甘美さで、鞍馬も暇さえあれば光を肩車してやり、一緒に銭湯に行った。いま思い返してみれば、それは「兄弟」というよりは寧ろ、「親子」と言った方が相応しいような関係だったかもしれない。

 そして、……だとすれば、一層困る。

「はーぁ……、あったけー……、お風呂大好き」

 鞍馬の広い懐に背中を預ける光は、いまも昔も裸である。これまで光の裸を、見飽きるぐらいに見てきた鞍馬であるから、今更どんな感慨を受けようというのか、……それが、受けるのである。光が一つ歳を重ねるごとに、鞍馬も歳を重ねるから、二人の体格差にはもう大きな変化は見られない。鞍馬の経験上、この歳でこれぐらいの体型・骨格をした少年は、成長期を迎えたところでそれほどきっぱりと変わることは考えにくい。新ほどの身長になることもないだろう。けれど春陽よりはもう少し肉付きのいい、健康的な体型になるだろうと思われる。三年前には「あと何年こうやって一緒に風呂に入りたいって言ってくれるかなあ」なんて思っていたけれど、僅かな空白期間を経て――この関係が完成した今となっては――今後何年でも、光が望む限りはこういう時間は続くだろう。だから鞍馬にとっては、もう貴重でも何でもない光の裸、隠すことさえされないで湯の中に漂う小さな陰茎も、手を伸ばせば触れられ、光自身、触れられることに頓着しない。触りたければ触っていい場所に触りたい物があるのだから、新や春陽は幸福でたまらないのだろう。要するに、鞍馬と違ってあの二人には責任がないから。

 ――俺は。

 鞍馬には、今後も末永く光の面倒を見ていく義務が在る。春陽と新が独り立ちするのは、そう遠い未来の話ではない。けれどまだ、今後十年ほど光のことを守り育んでいかなければいけない――兄というよりは、父として――鞍馬は、ときとして無邪気な二人が妬ましく憎たらしく思える。

 鞍馬は全く、そういうことを考え飽きるということはない。もう既に愛の火蓋は切って落とされて、関係は完成し切っているというのに、この豪快に見えてこの上なく繊細な男の頭の中では今日も同じ考えが巡らされる。いつだって結論は一つ、伴って、決意も一つ。即ち、「俺はもう光に手出しはしねえぞ」と思うのだが、禁煙禁酒の誓いと同じく、そういう大目標は誰の前にあっても守られたためしがない。鉄の如き意志の強さを持つ男であってもその鎖は無力だった。

 だって、「光が可愛い」という事実こそ、鞍馬がどんなに頑張ったって解き放つことの出来ない鎖なのだ。

 口を薄く開けて、瞼を閉じた、無防備な顔を見るだけで、……油断しきって自分に全てを委ねた、少年の心が見透かせる。光はいつだって遠慮し躊躇う鞍馬に言うのだ、「でも、おれ、鞍馬兄ちゃんとするの好きだよ、幸せだよ」……。

 この兄が弟の幸せを心底から願うのと同様、愛し守られ育まれた光も同じことを思うのだ、……おれも兄ちゃんのことを幸せにしたい……。

「ったく……」

 ――他にやり方なんて幾らだってあるだろうが。お前の身体に、俺たちの関係に、もっと相応しいやり方が……。よりによってどうしてこんな罪深い方法を選んじまったんだ。

 口火を切ったのは新だが、あいつだけを責める訳には行かない、もちろん其れに乗じた春陽も、結局の所は自分も。本当に其れが悪いことだと思ったならば、どんなに魅力的でも断ち切ることが出来たはず。

 ――こんなちっこい身体でなあ。

 光の体調管理もまた、鞍馬の大切な仕事である。とは言えこのところは、この少年を一番多く愛するのが新になっているから、新が責任を持って行っている。微細に観察して、「大丈夫だ」と請け負う。それこそあの場所に薬が必要になったこともない、それだけ三人が光の身体を大事に扱っていることの証拠である。それにしたって鞍馬には、光の身体が小さく思える。屈強な身体付きによく似合う、極めて男性的でボリューム感のある男性器を身に備えた鞍馬は、光の身体に自分がもう何度も入ったことがあるという事実が今更のように信じられなく思えてくる。光の細い腰……。

「おう、光……、そろそろ出るぞ、起きねえか……」

 彼が尻を滑らせてそのままざぶんと溺れることのないように、鞍馬の手は当人も無自覚のうちに光の腹に回されている。

「んーん……」

 いつだって眠りの濃い光は声を掛けた程度では中々起きない。気持ちよく眠っているところ可哀相ではあるが、いつまでも風呂の中に居るわけにも行かない。

「光」

 しかし鞍馬の声はまだそう大きくはならないし、無理に抱えて持ち上げるということもしない。夢うつつの中で甘えるように鞍馬の腕に頬を摺り寄せる光に、その声さえ抑えてしまいそうになる。こういうとき、こいつはどんな夢を見てるんだろう。幸せそうな寝顔で居てくれる限りは、悪い夢ではないはずだと思う。どんなときでも光が危ない目に遭えば駆け付けて護ってやるつもりでいるが、残念ながら瞼の内側にまでは責任を持てない。それだけに、光には甘い夢を見ていて欲しいものだと思う。

 のだが。

「あっ……! ひ、光ッ、光! おい! 起きろ!」

 慌てて鞍馬は声を上げた、光の身体を抱えて、ぐいと持ち上げて立ち上がる。

「お?」何が起きたのか判らない光はようやく開けた目を丸くする。

 何が起きたのか判って、

「……おあっ」

 声を上げる。

 そのか細い泌尿器が仕事をしていた。入浴剤など滅多に使わないから、透き通った湯の中へ、ちょろちょろと音を立てながら金色のせせらぎを注ぎ込んでいる。

「あ、あ……」

「……もういい、全部出し切っちまえ……」

「ご、ごめんなさい……」

 こんな具合に、光はごくしばしば、鞍馬を困惑させる、懊悩させる。俺の弟は本当に、本当に困った奴だ、……本当に!

 

 

 

 

 光が汚してくれたから、当然浴槽を満々と満たしていた湯は全て流さなければならなくなってしまった。間の悪いことに風呂を洗ってやれやれと洗面所に出れば、薄ら紅い顔で帰って来た春陽がうがいをしている。

「あ、春兄ちゃんおかえり」

「ただいま。珍しいね、こんな遅くにお風呂?」

「うん、……えーと、うん」

 ゼミの付き合いも大切な春陽の仕事であると思っているから、鞍馬は日付が変わってから帰って来た春陽を咎めはしない。

「風呂、抜いちまったから、シャワーで済ませろよ」

 寧ろこちらの気の咎めるようなことを言わざるを得ない鞍馬だった。

「えー……、はい、判りました」

 聞き分けよく春陽は頷くが、「……でも、どうして?」と光に訊く。

「うー……、と、それはー……」

「こいつが寝小便しやがったからだ」

 むっつりと、鞍馬は答える。

「に、兄ちゃっ……」

 春陽は、「だったら別に……」と言いかけて、口を噤む。鞍馬には、この知的な弟が何を言おうとしたか判ってしまうことが辛かった。「だったら別に、お湯を捨てる必要なんてないのに」……。

 正直、鞍馬だってそう思わないわけではなかった。けれど兄として、一家の大黒柱として、次男坊に末弟の小便交じりの風呂に浸からせるわけには行かない。

「全くもう、悪い子だね、光は」

 眼鏡を掛けて知的な眼元に穏やかな苦笑を浮かべ、視線の高さを合わせる。ばつの悪そうな顔をした弟のまだ濡れた髪を、自分の手が濡れることも気にせずに撫ぜ、頬を優しく抓り、流れのままに下腹部の、自己管理能力に欠如していることを恥じるように縮み上がった場所を指で弾く。「は、春兄っ……」

 この次男坊は、本来とても奥床しい。怒りや悲しみを感じても、余程のことがない限り其れを表出させるということはしない。思慮深く知的、そして穏やか。けれど酒が入ると少しばかりメッキが剥がれる。けれど光が教えてくれたところに拠れば、「春兄ちゃん、メガネ取るとすごいんだよ」ということで。「ちょっと、怖いくらいになるんだ。でもって、すっごい、あの、……変態っぽくなる」ということで。

「お布団をびしょびしょにされなくて良かった。……でしょう? 兄さん」

 クスクスと笑って立ち上がった春陽の言うことは的を射ていたが、冬の夜に裸の光をこれ以上放置するわけには行かない。新も風邪を引いていることだし、大急ぎで身体を拭き、下着を穿かせる。春陽が服を脱ぎ始めたから、「お前も風呂浴びたらとっとと寝るんだぞ」と言い残して洗面所を出た。

 はー、と光は溜め息を吐いて項垂れる。

「ごめんなさい、兄ちゃん」

 これぐらいの歳の少年にとって「おねしょ」が心に与えるダメージは小さくないだろう。可哀相だ、などと思ってしまうような甘い兄であるから、

「春陽の奴が言った通りだ。布団濡らすよりゃずっとマシだ」

 という言葉で髪をくしゃくしゃ撫ぜて片付けてしまう。だものだから、いまでも一週間に一度程度のペースでこの子は布団に大きな地図を描いてしまう。けれど幸いにしてそれ以上頻発することはないし、半年前に比べればずいぶん回数も減ってきた。あまりこの子の誇りを傷つけることのないうちに収まればいいとは思う。

 鞍馬が髪に置いた手に、両手で包んで下ろした光が見上げる。

「……あのな、おれ、……えっと」

 まだ肌から湯気が立っている。頬もほんのりと紅い。時間的には短いとは言え、二つの眠りを挟んだ跡だから身体も元気である。

「……ん?」

「その……、お風呂場でさ、入ってるとき、そのまんま、その、……兄ちゃんと、しようと思ってたんだ……」

「……何を」

「だから、その……」

 光はもじもじと、自分の手を弄ればいいのに、鞍馬の右手を弄り回す。鞍馬の分厚く大きな掌に比べて、何と華奢なことか。「……えっち。したいなって、思ってた」

 光が掌を握る力なんて、鞍馬に比べれば蟻のようなものだ。引き剥がすことなど容易である。

 そのはずなのに、鞍馬の手は動かない。そればかりか、少年の小さな言葉一つだけで鞍馬の巨体は雷に打たれたように萎縮する。

「今日、新兄ちゃん風邪だし、春兄ちゃんは帰り遅いし、……一日つまんなくって、だから、鞍馬兄ちゃんに遊んでもらえたらいいなって……」

 男同士の身体が裸でぶつかり合うことを「遊び」と呼ぶ語彙を鞍馬は持っていない。

 けれど光にとって――この歳の少年にとって――其れは楽しく心踊る遊び以外の何物でもないのかもしれない。自分の身体を傷つけるリスクさえも、愉楽のスパイスとなる……。

「……子供はもう寝る時間だろうが」

「で、でもっ……」

「明日になってから、春陽に遊んで貰やいい」

 洗面所の扉の向こうからは、シャワーの雨音が聴こえて来た。明日、きっと二日酔いになって動けない春陽が仮令その欲を抱いたとして光の願いを叶えることが出来るかどうかは鞍馬にはまるで覚束ない。

 禁忌のはずの行為を、現実的に事の順番として検討している自分に気付かされる。

「おれ、兄ちゃんとしたいんだ」

 光は切なげな目で見上げる。

 何処にそういう力を潜めているのか、……鞍馬には想像も付かない。

「今日、ずっと兄ちゃんとしたかった。さっき、寝ちゃったのは、でもって、おねしょ、しちゃったのは……、ごめんなさい、だけど……、お願い、おれ、兄ちゃんとしたいよ」

 ソウルフルヴォイス、……身に宿る力は使命のためのもの。無駄遣いしてるんじゃなかろうかと懸念したくなる。何のことはない。鞍馬にしろ、春陽にしろ新にしろ、この少年の声に此処まで心が震えるのは、単純に愛しいと思う心の、少年の言葉を受け入れる部分、急所でありながら待ち構えるようにガードを解いた状態で居るからだ。

 すっぽり内側に嵌まって、その声が響き渡る。

「ひゃっ……」

 片腕で担ぎ上げることなど容易だ。自分の心を制御するよりも、ずっと、ずっと。

 寿司屋の店舗部分と繋がっているこの家の、二階部分の六畳三間を春陽と新と光に宛がっている。鞍馬の部屋は廊下の奥の八畳間だ。光と新の部屋は注意してやらないとしょっちゅう散らかる、春陽は指摘しないとカーテンを閉めたきりで、本棚に詰まった小難しい書物の匂いが篭もっている。

 鞍馬の部屋はどうかと言えば、三人の弟の部屋よりも広いのだが、箪笥と文机が在るほかは、がらんと何もない。読書の習慣のない男だから本棚もなく、持ち物と言えば人力車曳きと板前の装束。清潔なそれが壁に掛けられている。春陽や新のように自室ですることがあるわけでもないから、この男が部屋に入るのは寝るときを於いて他にない。だから風呂上りの安らぎの時間、ビールを持って座るのは、いつでも居間のテレビの前で、飲酒の習慣が身に付く以前も、弟たちの顔を見て居たいからという理由で其処に陣取ることが多かった。

 畳の上に光を降ろし、部屋の隅に三つ畳みにした布団を広げる。

「兄ちゃん……」

「ちっとだけだぞ」

 鞍馬は顔を顰めて言い聞かせる。

「いいか光。男はな……、いつかは自分一人で生きなきゃなんねえもんなんだ、だからな、自分のことは全部、自分で出来るようになんなきゃなんねえんだ。判るか?」

 光を布団の真ん中に座らせて――何も言っていないのに、光は膝を揃えて正座する――鞍馬は苦しい声で。

「でも、お前はまだ子供だから、……そりゃあ、さっきみてえに寝小便しちまうのはしょうがねえし、まだまだ一人で出来ねえことも色々あるかも知れんけどな」

 言いながら、……俺は何を言っているのだ、と自問している。自分が光を抱き愛する理由を、責任を、目の前のこの小さな子供に押し付けようとしているだけではないのか……。

 だから、言葉はすぐに品切れする。行き詰まった鞍馬に、光は神妙な顔で見上げて、言った。

「……兄ちゃんは、おれと、えっち、すんの嫌い?」

 鞍馬は、……躊躇いがなかったと言えば嘘になる、兄として父として、大黒柱として、この子を導く者として、此処で「嫌いだ」と言えたなら。

 ――しかし、土ノ日鞍馬は男である。土ノ日家の大黒柱で在る以前に、一人の男で在る。

「……嫌いじゃねえ」

 光はきりりと冴えて凛然とした目で真っ直ぐに鞍馬の顔を見上げていた。

「だったら、……おれね、考えるんだ。おれ、幸せだなあって。大好きな兄ちゃんたちに『好き』って言ってもらえて、幸せにしてもらえて、欲しいと思ったものは何でも貰える」……実際には、鞍馬は光にそうたいしたものを贈ってやったことなどない。昼に夜に、人力車曳きに自営の寿司屋、二束の草鞋を履いて身体を酷使して働いてはいるものの、三人の弟のことを思えば経済的には裕福とは言い難い土ノ日家であるから。

「だから」

 けれど光にとっては不足の無い日々らしい。それが、この時代にしては珍しい、男ばかりの四兄弟であるということも影響しているだろう。家族の絆こそ子供にとっては最上の贈り物になり得るのだ。

「おれ、兄ちゃんたちがくれるもんに、ちゃんとお礼してかなきゃなんないし、でも、おれまだ兄ちゃんたちみたいにいろんなことちゃんとできねーから、だから一生懸命努力して、兄ちゃんたちのことをちゃんと幸せにしてあげなきゃって……」

 よりによって斯様な行為を選ばなくたっていいものだ。

 しかし鞍馬が弟たちを教育してくる上で常に念頭に置いて実践してきたのは、「興味の在ることは何でも好きなようにやらせる。矯めるようなことは決してするまい、……自主自尊自律」ということ。幼いうちには、大いに間違えるがいい。その尻拭いは全部、この俺がやる……。

 間違いに間違いを重ねて完成してしまった関係の中で鞍馬は己に課した役割をどれだけ果たせたか全く覚束ない。ただ、……全ては弟たちの幸せのため。無毒無害、……誰にも迷惑は掛けていない、はずだ。少なくともこの家の屋根の下で執り行われる限りは、光の、俺たちの、望む幸福を無限に生産し続ける以外に何の問題も起こりえないはずだ。

「……お前は、なあ」

 溜め息を吐き、天井の紐を引っ張って、灯りを一番小さく落とす。家の中で変事が起きた際、すぐに駆けつけられるよう、いつも全ては消さないのが鞍馬である。屈強な身体に細やかな神経を巡らせた男は、だから夜中も――トイレに起きた弟たちが転げ落ちては困るので――階段の明かりは消さないし、既にガスの元栓、勝手口の玄関なども全て確認した後だ。

 布団の光の隣に座り、「何でそんな無理しようとしやがるんだ……。お前がお前のまんまで居るだけで、俺たちは十分過ぎるぐれぇに幸せなんだ。そうでなきゃいけねえんだ……」

 許されたと思うのだろう。光が鞍馬の膝に乗る。昔に比べれば重量感を覚えて当然のはずだが、この男は光の身体を他の二人よりも安定感と共に迎え入れる。

 まだ冷め始めてはいない肌に、鞍馬は一安心する。

 いくら明日は学校が休みであるとは言え、子供の身体に過度の夜更かしをさせてやるべきではない。ならばこれから始めるような無茶だって禁物だと判っているけれど、既にキスを求めている少年の身体の底の火を消さないうちに、光に一人で眠れと言ってやるのは酷薄だ。本質的に「情」というものを何より大事にしたく思っている鞍馬には出来ない。

 結局の所――彼らの暮らす世界の現状において――鞍馬が光を抱いて満たすことが最善の策なのだ。

 ゆっくりと布団の上に横たえて、光の前髪を退かして唇を当ててやる。光の肌の表面はじんわりと熱いが、それ以上に肌の内側、心を燃料にして広がる熱の存在は明らかだった。

 春陽にしても新にしてもそうだろうが、鞍馬はセックスという行為はおろか、キスや抱擁にしたって光以外の誰ともしない。するつもりもない。そう誓っていればこそ、この行為は神聖なるものとなる。だから鞍馬は、初めて光を抱いた日からずっと、並々ならぬ決意と覚悟を帯びて光と唇を重ねるのだ。

「ん……」

 光が喉を鳴らす、まだ細い腕が首に回った。

 ……二人の弟たちはきっともっと上手に、光を愛してやるのだろう……、そう思っても、こういう技量が自分に身に付くことはないだろうと鞍馬には思われてならない。上手くならなくたっていいとも言える。申し訳ない気持ちにならざるを得なくても。

 しかし唇が離れたとき、光が眉間に皺を寄せて、微笑んで居るのが見える。

「兄ちゃん……、へへ……、おれ、兄ちゃん大好きだよ」

 言葉の意味さえこの子は変えてしまう、望むまま、思いのまま、自分の好きな形へと。

「ああ……、俺も、お前のことが大好きだよ」

 ぎこちなく答える鞍馬も、自分の口から発される言葉が半年前とはまるで変わってしまったことに気付いている。舌に乗せると、まるで自分の声とは思えないくらいに甘い……。

「なー、兄ちゃん、……おれ、兄ちゃんに触ってもいいか?」

 見上げる光の目元が、ほんの少し大人びたようだ。「俺に……?」と訊いた鞍馬に、こくんと頷いて、もう一度キスをする。

「兄ちゃん、きっと、おれが一回出しちゃったらもう『寝ろ』って言うだろ?」

 この期に及んで言い訳がましいが、そのつもりで在る。その目的が達せられれば、きっと光は穏やかな眠りに落ちてくれるだろう。そのために用いる手段は、何も身体に負担の掛かる方法でなくたっていい。鞍馬の右手でも口でも、何ら問題ないはずなのだから。

「でも、おれ、それじゃやだ。おれ一人で良くなるんじゃなくって、一緒に良くなんなきゃ意味ねーし、おれがどんくらい兄ちゃんで幸せになれてるか、兄ちゃんにいっぱい知ってほしいから」

「お、……おい……」

 光の指が鞍馬の下着に掛かる。トランクスという点では新と同じだが、鞍馬の穿くものは、チェックだったりボーダーだったり、柄としては大人しく、派手なものをいつも選んで買って来る新とは逆だ。何でそんな派手なパンツ穿くんだ、誰に見せる訳でもねえのに、と中学生の新に言ってやったことがある。まだ光は、下着に対してさほどの思い入れもないらしくて、いつでも鞍馬が買って来るブリーフを穿いている。

 何処からどう見ても成人男性の鞍馬が穿くトランクスと、光の未発達な部分を隠す白いブリーフは、最も不似合いな組み合わせであるように思える。光の指に触れられるだけで、申し訳なくなるような。

 其処に在る体温に、光が愛しげに掌を当てる。優しい、甘い、声で、

「起きて、兄ちゃん。座って」

 と強請った。

 素直に従ってしまってはいけないのであるが、この兄はこのところ、本当にとことんまでに、光に弱い。光が嬉しそうに起き上がり、鞍馬のトランクスから微熱を帯びたものを取り出す。両手で大事そうに包み込んで、「やっぱ、すっげー……、兄ちゃんのちんちん、でけー……」と感動したように呟き、溜め息を吐く。それから自分の下着をちらりと見て、「おれの、大人になってもこんななんねーよな……、きっと……」と残念そうに呟いた。

「……こんなもんで、人間の価値が決まってたまるか」

 鞍馬は顔を背けてそう呟く。

「うん、新兄ちゃんもおんなじこと言ってたよ」

 其れは、恐らく鞍馬が言うこととは意味が違う。けれどそういう子とは言わなかった。別の意味で鞍馬は新が羨ましく思えることがある。だって、光の身体を一番傷つける危険性が低いのは、新だろうと思うから。

 そんなことを思っているうちに、光の吐息が鞍馬の性根を擽った。ちょこんと膝を揃えて座る、……幼い頃から習慣づいているから、光は長時間の正座にも弱音を吐かない。お行儀のいい座り方をして、だけど背中を丸めて、手にしているものが何かと言えば、これからすることが何かと言えば、品性の欠片もないようなこと。

 なのに、

「いただきます」

 なんて言う。それで保たれる礼儀がどれぐらいあるのだろう。

 生温かい光の口の中に、鞍馬の性器は包まれた。

 舌が慈しむようにゆっくり、茎を辿る。その舌は柔らかいはずなのに、どうしてか、刺されるような思いを鞍馬に抱かせた。其れで居て、彼の逞しい男根は徐々に光の体温を上回り、暴れるように脈を刻み始める……。

 二十四の夏までこういうことをせずにきた男にとって、相変わらず行為は不慣れなものである、相手を考えれば、罪深くさえある。けれど、だからと言って、幸せを覚えずに居られるわけもなく。

「光……」

 紅い豆球の光の下で、元々燕脂の艶を帯びて見える光の髪は一層鮮やかに色付いて見える。白いシャツとブリーフをまだきちんと身に纏った姿は健全な少年そのものだ。角度的に鞍馬には光の口元が見えないことも手伝って、罪の雫が苦く湧き出る。

 けれど光は止まらないし、光に止める気がなければ鞍馬の熱は馬銜を取られたように走り出すばかりだ。

「んぅ……、ン、……ふ、……んん」

 太い鞍馬の性器を口一杯に収めて頭を動かす光の鼻から漏れる声はそんな風に甘ったるいものだが、苦しいのではないか、しんどいのではないか。そんなことばかり考えさせられてしまう。

 しかし顔を上げた光は、笑うのだ。

「へへっ、にーちゃんのちんちん硬くなった」

 ……苺大福というものを初めて食べたとき、鞍馬はまだ小学生だったが衝撃を受けたのを覚えている。あんこと苺、何と言うミスカップリング。しかし其れで居て、美味しくて病み付きで、一時期そればかり食べてちょっと太った記憶が在る。「何でこんなものがこんなものと」と思うような組み合わせが、訳の判らない相乗効果を発揮してしまうことはしばしばある。新は牛丼にフレンチドレッシングを掛けて食べるのが美味いと言っていた。春陽は大学受験のころ、生ラーメンの麺をそばつゆに胡麻油を垂らしたものを夜食によく食べていた。

 何故そんなことを思ったのかと言えば、……光の言うとおり、勃起した鞍馬の、大人の男の欲の象徴とでも言うべき男根と、光の愛らしい笑顔という取り合わせのぎこちなさに圧倒されたからだ。

 弟たちはこの光景を見て何と思うのだろうか。

 鞍馬は、光の添えた手に、悦びを表現するだけだ。

 光は舌での愛撫を再開する。「おれ、……んなことゆったら、にーちゃんに叱られちゃうかも、しんねーけど」と喋りながら、茎を横咥えにして濡れた唇を駆使して。

「にーちゃんの、ね、ちんちん、しゃぶんの……、すげー、好き」

「……何てこと言ってんだ」

 へひひ、と光は笑って、

「だってさー」

 言い訳をする。「おれが、ちゃーんと、にーちゃんのこと、気持ちよくしてんだなーって思うし、……真面目なにーちゃんが、さ、おれで、こんな風にえっちになってんの、わかるし、嬉しいんだー」

 そんなことを嬉しいと思ってどうする! 嬉しいっていう、気持ちは、嬉しいっていう気持ちはだなあ……!

 具体例は思い浮かばないし、光の言葉を聴いてそれこそ「嬉しい」と思ってしまうほどにまで、鞍馬は蕩けていた。精悍、と呼ぶしかない彫の深い顔には相変わらず不必要なほどの苦悩が浮かび、この幸せの時間には全く似つかわしくなかったが、その実、彼はもう光の口元に視線を固定しているのだった。純情なるこの男――に限らず、土ノ日家で十代の頃からアダルトビデオなどでせっせと性知識を吸収していたのは新だけであるが――にとっては、光が嬉しがって、そしてもう当然のように行うフェラチオにしたって鮮烈なのだ。婦人が男の性器を口にするという行為を想像するだけで何だか在ってはいけない気がする、現実として自分の弟が、自分の性器を口に含み、頬を唾液に濡らしながらちゅるちゅると音を立ててしているとなれば。

 いかな堅物の土ノ日鞍馬であっても、理性を放り出したって誰も咎めはしないだろう。

 自分の性器が体格の通り「立派」なものであることを誇りに思ったことは一度もない。宝の持ち腐れでこれまでやって来た。とは言え、光の幼い顔とのコントラストははっきり鞍馬に感じさせるものがある。

「にーちゃん……?」

 かぷ、と先端を咥えて光が首を傾げる。舌を少年自身はまだ碌に晒せない部分に当てて唾液を伝わせつつ、

「ひもちぃ?」

 と訊く。

 堪らなくなって、

「ああ……、もう……、お前は……」

 震えた声を絞り出して、弟の髪へ指を入れた。光の髪はそう強い癖が在るわけでもないのに、兄が指を入れるといつでもくしゅくしゅと砂糖のような音を立てた。

 存在そのものが砂糖菓子のようなものか。……甘い、甘い、砂糖菓子、そして、その口にはおよそ似合わぬ、何だか苦そうにさえ見える、自分自身の男根。

 この光景に欲情してしまう己を幾ら嘆いても収まらぬ。寧ろ、煽られる。

「あんま、見んじゃねえ……。辛い」

 鞍馬はせめてもの抗いに、光の円らな瞳をその大きな掌で覆って視界を塞ぐ。

「えー? なんでー?」

「何ででもだ」言い訳は男らしくない、かといって、そうやって問いそのものを突っ撥ねるのはもっと男らしくないことだろう。弟たちに、光にもそう言って育ててきた鞍馬である。だから、光が、自分よりも頑強な兄の指を持ってくいと退けるのも無理からぬことで、そもそも光の細い手に負けてしまうのも、当然のことと言えた。

「ちゃんと見なきゃダメ。だって、おれがにーちゃんのこと、ちゃんと気持ちよくしてんだもん、……頑張ってんだもん」

 全部が鞍馬を燃やすためのエネルギーになることを、きっと光は知っているのだ。

 太い赤鉄は深々とその狭い口に咥え込まれた。躍起になって頭を動かし、……しかし歯が立てられることはないし、その上、舌を絡めつけてくる。両手の指を追い立てるように茎へと絡ませ、扱きあげつつ……。

 鞍馬の弟は、鞍馬のことを愛していた。愛していなければ出来ないのだということを、繰り返し繰り返し鞍馬に教える。鋼の意志を以ってしてももう払い除けられない。快感が幸福と手を取り合って、螺旋を描いて鞍馬を罪深い快感へと強制連行する。

「っン……、んん……」こく、と喉が鳴る音が、鞍馬の呼吸のほか音を失った暗い部屋に行き渡る。「……んへへ」

 鞍馬は暫し呆然と、自分を見上げ、屈託の欠片もなく笑う光の顔を見ていた。

 これまでそんなこと、一度も思ったことなどなかったのに、……綺麗だ……、と思った。まだほんの小さな子供なのに、恐らく光は、鞍馬さえ浮かべたことのない表情を、無意識的に魔法のように操ってその頬に映し出して見せるのだ。「気持ちよかった? にーちゃん、幸せになれた?」

 その表情の前に、鞍馬はただ頷くばかりだ。

「そっか、へへ、よかった、嬉しいなー。おれにーちゃんにいっつもこんな風に……、んー、この何倍も幸せにしてもらってんだぜ。だからさ、ほんとはもっともっとたくさんこうゆうことさ、にーちゃんとたくさんしたいんだー」

 起き上がって唇をぺろりと舐めて、にひひと笑う。

 ……そりゃあこれまでだって「可愛い」と思ったことは何度だってあったさ、それこそ、こういう関係になるまで、初めてその顔を見たときから俺ぁずっと光が可愛く思えてならなかった、……それが……。

「なー、にーちゃん?」

 光が呆然と座ったままの兄の肩を頼りに膝立ちする。

「……あの、ほんとはさ、もう一回してあげたいなって思ったんだけど……」

 照れ臭そうに、光は笑う。

「可愛い」ではなくて「綺麗」だと思ったのは、少女を一人の異性と思うように、光がもう、「弟」とか「子供」とか言葉で括れるようなものではなくなっているからか。例えばそう、鞍馬が一番そう呼ぶのを怖れる単語を敢えて選ぶなら。

「恋人」と思ってしまっているからか。

「これ以上、してるとさ、……せっかく綺麗なパンツ、汚しちゃいそうだから、……だからさ、にーちゃん」

 ぎゅっと抱き着くその腕の力も、「セックス、しよーよ」と誘う言葉も、これまで鞍馬が一度も手に入れたことのない存在が齎すもの。

 ――俺の人生は全て弟たちのため。

「おれ、にーちゃん、欲しいな」

 滅私の思いで捧げてきた全ての時間で、出会いを願うことさえも一度として願わなかった鞍馬に与えられた贈り物は、他ならぬ、彼が守り育ててきた最愛の弟からのものだった。

 鞍馬が信じられるのは、お天道様と愛情の温もりに枯渇することはないということだ。即ち自分のこの思いも永続的なものだ。この先このまま何年だって持続可能な気持ち、温かな気持ちと共に抱き続けて行けるもの。

 鞍馬が無言で頷く――そのとき彼は、厳かな気持ちでさえあった――と、光は「へへ」と笑い、身を離し、ブリーフを下ろす。恐る恐る下着の内側を覗き込んで、「あ」と小さく呟く。それから気まずそうに、

「で、でも、こんくらいならだいじょぶ……、だよ、多分」

 と言い繕う。

「……見せてみろ」

 脱いだものを受け取り、確認する。光の性器はもう上を向いていて、相変わらず子供の形ではあるが、そういう姿勢になると妙に卑猥だ。そういう機能を持って生まれてきたのはまあ仕方がない、新が水をぶっかけて飛び起こさせるようなことをしなければまだ眠ったままで居たはずの本能が其処に滲ませた露で光の幼根の先端は濡れていて、其れはブリーフの内側にも少量、付着しているのが見えた。文机の脇に置かれた箱ティッシュを引っ張り寄せて、擦り取る。

「あ、あ、兄ちゃん、……いいよ、おれ、自分でやる……」

「いい、……もう取れた」

 まだ数十分しか穿いていないものだ。くるんと丸めて畳む。光は情けないような顔をして、

「おれのちんちん、だらしないのかなあ……」

 と自分の其れを摘んで皮を剥く。亀頭はほんの少し顔を見せただけで止まるし、光が指を離すと恥ずかしがるように顔を引っ込めてしまう。其処も、恐らくさっき光に鞍馬が少量飲ませてしまった男腺の露が白熱球の灯りを映じてきらきらしている。「こんなに出てるなんて思ってなかった……、出てても、ちょっとだけかなって……」

「仕方ねえだろ、……だって、お前はまだ子供なんだから」

「でもー……、おれと同い年のやつとかもみんなこんな出んのかなー……」

「同い年の子がこんなことするわけがねえだろう」

 あ、そっか、と光は思い出したように呟く。「なんか、いっつも兄ちゃんたちとしててさ、学校行ったりお風呂入ったりすんのとおんなじ感じになってた」

 それはそれで大いなる問題が孕むように思うが、鞍馬は咎めないでおいた。どんなに惑ったところで三人の兄が居る生活が光の日常だ、そして鞍馬も、もちろん春陽も新も、光を深く愛し切っている。人間の日常生活だ、と言うほかない。

 光は勝手知ったる兄の部屋、箪笥の一番下の段からローションとコンドームを持ってくる。浴室に備えてあるものといま一つ、各自の部屋に常にそれらが入っている。新の場合はよりによって通学鞄の中にも入っているという話で、「お前、そんなもん学校で先生に見付かったらどうすんだ!」と青褪めて叱る鞍馬に、

「知るかよ。『交通安全のお守りです』っつって何か問題ある?」

 悪びれもせずあの弟は言った。たまたまその場に春陽も居て、弟を汚らわしいものでも見るような目で、「何故交通安全なんだ」と訊けば、

「光は男の子だからなー、セックスしても子供出来ない、『当たんない』」

「お前は最低だな」

 兄弟喧嘩を見過ごすことは決してしない鞍馬だが、このときばかりは春陽の悪口に同調してしまいそうになった。

 光が開けた箱には元々、十二の個包が入っていた。開封したのが十一月の下旬で、今夜、師走半ばにあと九つになっている。およそ一週間に一つずつなくなっている。

 別に鞍馬が自分で買いに行くことを恥じているわけではないのだが、いつも新は自分の分を買うついでに鞍馬の分も買って来る。エクストラ・ラージ・サイズ、黒い箱に青鹿毛の馬の写真がプリントされている。「あんたには其れぐらいのがいいだろ」と新は言った。余計な気遣いをする奴だ。新と春陽が使用するものよりも高いということを知ったのはつい先日別件で薬局に寄ったとき、何の気もなしに棚に見つけたから。

 新が、春陽が、どれほどのペースで箱を消費するのかは知らない。鞍馬は清純な男であるから、二人に比べればゆったりと減っている、はずである。けれど、もうすぐなくなるなと思う頃に見透かしたように新が買って来るという事実は、何とも憎たらしい。大きなお世話だ! と怒鳴ってやろうにも、急所関連の話題であるからそれも出来かねる。「一杯愛してやりゃいいじゃん」いいじゃん、じゃねえ! さすがにそのときは若草色に染めた頭を一発引っ叩いてやったが。

「なー、にーちゃんのちんちんにさ、おれが付けてもいい?」

 光は器用な指先で黒いゴムを摘んで言う。「ちゃんと付けられるからさ」

 春陽にしたことがあんのか、それとも新か。

 そういうことはもう、問わないで置く。

「何でそんなことしてえんだよ……」

「えー、だってさ、にーちゃんのちんちんでかくてかっこいいじゃん。でもって、このゴムも黒くてさ、付けたらすっげーかっこよくなるから」

 不分明だが、したいと言うことは何だってさせてやる鞍馬であるし、そういう兄であることを、光もどうやら理解している。

「……そりゃいいけど、お前はどうすんだ、……その、そっちは」

「そっち? ……あー、こっち」

 自分の尻に目を向けて光は気付く。手元と尻とを交互に見て、「どうしよ」と鞍馬に訊く。

「ったく、しょうがねえな……。ちゃんと物事には順序ってもんがあんだろう」何でも其れを守ってやらないと。寿司屋を始めて五年になるが、客がどういう順番でネタを頼もうと文句はない。一方で人力車を曳いて街路を走るとき、割り込みをしてくる車には思わずむっとして睨んでしまう鞍馬である。

 光は思いついたように笑みを浮かべる。

「じゃー、にーちゃん一緒にしよ?」

「一緒?」

 訝って訊き返した鞍馬に、「寝て」と促す。

「お、おい」

「へへ、これならさ、一緒に出来るじゃん」

 全く、人の顔を跨ぐような教育をした覚えはない。しかも、よりによって尻。

「にーちゃんのちんちん、まだすっげー元気」

 無意識な日頃の行いはふとしたときに外でも出てしまうものだから、こういう悪い一面が露顕することがどうかないようにと願う鞍馬をよそに、光はゴムを被せる前にもう少し兄のその場所で遊ぼうと思ったらしい、顔を寄せて、左手を添えて、「んー」とキスをする。鞍馬はもう止めることもせずに、仏頂面のまま愛撫を享け、ローションのボトルの蓋を不器用に開け、少量手に取り、……ちょっと待て、これ、結局後でまた風呂入らなきゃなんなくなるんじゃねえか……。しかしもう粘液を手に取ってしまった後だから、仕方なくそのまま光の尻の穴にそっと塗りつける。

「んん……」

 途端、光の其処が、きゅっと引き締まる。

 元々寝小便を垂れてばかりいる子供であるし、もっと小さい頃にはより大きな失敗の片付けも、鞍馬が行ってきた。もちろんそういう事態があった後に身体を洗ってやったのも鞍馬である。だから、短い皺のぷつぷつと寄った小さな蕾のようなその場所をこうやって目の前に置くことに、それほど抵抗もない。新や春陽が欲を纏って「見たい」と願うずいぶん前から鞍馬はその場所を見てきた。……其れこそ、ギョウ虫検査のペタンコシールを光の尻に当ててやっていたのも鞍馬である。

 ただ、指を挿れるとなると、話はまた違ってくるわけで。

「ん、……はぁ……」

 光の愛撫の手が緩んだ。鞍馬の性器に間近な処にある口から、湿っぽい呼吸が短く繰り返される。「大丈夫か……?」と問えば、「ん」と短い応えが在るばかり。

 筋骨隆々たる鞍馬であるが、これは生活習慣によって成立した身体である。よって、各所の筋肉に正しい知識を持っているわけではない。光の括約筋がどの程度の柔軟性と強靭さを備えているのか、正確なところはほとんど判らず、それゆえ祈るような気持ちで少しずつ開いていくほかない。

「僕も、心配になったので少し調べてみましたが」と春陽が教えて暮れたところに拠れば、無理のないことと言えば嘘になる。だから僕らが愛してあげる際には、やっぱり慎重さを失ってはいけません、……そりゃそうだろうよ。

「残念ながら、僕たちの身体は僕たちの気持ちほど、愛し合うのに適した形はしていないようですから」でもそんな壁を超えて、僕たちは愛し合っていい。僕たちだけは、きっと、愛し合っていい……。本質的には繊細で優しいばかりの春陽が、そんなことを言うときには不意に大人の男として凛々しく見える。それは間違った凛々しさだとは思うけれど。

 指の、二本目を加えるとき、三本目を加えるとき、そして、四本目を加える段になっては、

「にーちゃん……っ」

 光の愛撫は完全に中絶していた。「もぉっ、もぉいいよう……」

「まだダメだ……、もっと、ちゃんと開いてやんねえと……」

 お前のためだ、仕方が在るまい。痛がる声は聴きたくねえんだ、と思ったところで、光のいま上げた声が、ちっとも痛そうなものでないことに、鞍馬は気付く。

「もぉ、それ以上、ぐりぐりされたらっ……、にーちゃんのちんちん入るまでガマンできなくなっちゃうよぉ……!」

 光が力を振り絞るように、ぎりぎりの動きで鞍馬にようやくゴムを被せた。鞍馬の頑丈な太腿に額を当てて、ふうふう息をする。

「だいじょぶだよぉ……」

 指を、そっと抜く。光は痺れたように少しの間そのまま動かず、その場所もしばらくの間は口を開けたままだった。

 何が大丈夫なもんか。そう思っても、こんな幼い弟の言葉を信じてやりたいなどという鞍馬のわがままを、きっと誰も否定することは出来ない。

 少なくともこの屋根の下に在る者は、全ていまの鞍馬を肯定するのだ。

 光がゆっくりと振り返り、「へへ……、開いた……、おれの、身体」と笑う。身体に芯が通っていないように見える。けれど少年は兄の身体から降り、自らころんと布団の上に仰向けに転がって、

「にーちゃん」

 両手を広げる。自分の懐を開く。そう広くも見えないくせに、新、春陽、そして鞍馬。この三人の兄たちを、一つ身体に受け入れてみせる。

 ――愛の力は何よりも強い、と言いきるだけの無鉄砲な力を、この歳幼い鞍馬の弟は知っているのだ。事によっては、鞍馬よりもずっとずっと詳しく。

「……ったく……」

 こんな関係でなくったって、……鞍馬は思う。こんな類の悦びが常に与えられるものでなくったって、俺はお前を愛してる。一生お前を幸せにし続ける、そのためだけに生きてんだ。俺たち三人とも、みんな、そうなんだ。お前はただ俺たちの与える無尽蔵の愛情を、そのちっこい身体に浴び続けていりゃそれでいいんだ、……それなのに。

「すっげ……、にーちゃんのちんちん、あっつい……」

 光の指できっちりとゴムを装着させられた鞍馬の先端が、光のまだ薄口を開けた孔に触れただけで、光はぶるりと震え、鞍馬の逞しい首に両腕で抱き着いた。背中を丸め、光の身に降るかも知れないあらゆる災厄から守ってやるように光を塞いで、ゆっくりと、腰を押し進める、……いっそ、恐ろしく思えるような快感が鞍馬の男根を握り、包んだ。意志のある動きで、光は鞍馬に快楽を与えようとする。

「力、抜いてろよ……? お前は、何もしねえでいいんだからな?」

 鞍馬が掠れた声で言うのに、光は首を振る。

「ダメ……、にーちゃん、の、こと、おれも、きもちよく、してあげたいし、……一緒じゃなきゃ意味ねーんだ、だって、セックス、すんだもん……」

 その単語に、きっと光は実際の行為以上に精神的な意味を纏わせているのだと判る。

 そう言われれば、鞍馬に返す言葉など見付からないのだ。この弟の欲しいものを、何でもと言うわけには行かないが、可能な限りは用意するつもりで居る鞍馬は、実際自分の身体で光を幸せにすることが出来るのならば――男である以上、其れは本当に基本的なことだ――なぜ躊躇う必要が在るのか。それにどんな意味が在ると言うのか。

 愛するほかないではないか。

「……ッン……んぅ……っ」

 鞍馬の強大な性器を、小さな身体に咥え込んで光はしばらく身動きを取らず、身体から余りそうな力を掴まる腕にだけ篭めていた。鞍馬は自分に抱き着くよりももっと強い力が光の肛路の中に滾っていて、自分の肉茎を千切らんばかりに掴んでいるのを覚える。湿っぽく濡れて、窮屈で居ながら、その壁面は柔らかく粘っこい動きをして、愛情以外何とも呼ばせないという光の決意が其処に漲っているように思われた。

 これだけで十分だ。鞍馬にとっては。然るに光には、まだ足りないのだ。こんなものでは、到底。

 そう言い聞かせて、奥詰まった身体を一度引いて、吸い付くような場所に誘われもう一度腰を進めたところで、光の身体が、重なった肌全体が、もちろん繋がった場所まで、

「ひゃ、あっ……! あっ……、ああ……!」

 電撃を浴びたようにびりびり震えるのを鞍馬は覚えた。

「あ……、あ……」

 光が悲しそうに声を漏らし、その右目からぽろりと涙を零した。時に、こんな風に手に負えないほど気の強くて、「男は人の見てるとこで泣いちゃダメだぞ」という鞍馬の教えを六歳の頃から忠実に守っている弟の涙は、鞍馬の胸を万力のような力で締め付ける。

 光は自分の下腹部へと目をやる。ぴくぴくと震える唇が痛々しい。鞍馬がそっと視線を緩めれば、未発達な腹筋の、痩せた腹の上に、光の陰茎が漏らした白濁した蜜が零れ落ちていた。

 一回だけ、と言った。その「一回」が終わってしまったことを、光は悲しんでいるのだと判った。

 泣くようなことじゃねえ。そもそもお前は泣いてねえ。言うために、鞍馬は光の濡れた頬に唇を当てる。

「まだ……」

「……え……?」

「まだ、『一回』じゃねえ。数えてねえ……」

 単に、俺の欲が募ってるから、……それだけじゃねえのか。お前を抱いて「これでお終い」なんて、納得が行かねえって、それだけじゃねえのか。

 違う、と胸を張って言うことは出来ない。冬でも浅黒いほど太陽に愛される男、しかしいまはお天道様に背を向けて居る。

 光を泣き止ませるために、変な顔をして見せた、肩車をしてやった、大好きなビスケットを食わせてやり、そして。

 愛するのだ。

 土ノ日鞍馬という不器用な男に出来るのは、ただそれだけなのだ。

「俺は……、お前を、愛してる。から、……どんな形でもいい、幸せにしてやりてえ」それで仮令背中を太陽に焼かれつくそうともいい。そういう覚悟がこの男にはある。

 人力車曳きの仕事中、信号無視して飛び出してきた車に跳ねられたときのこと。

 人力車は空だったが、その事故の様子をたまたま新が見ていた。ゆうに十メートルは弾き飛ばされたはずだ。なにせ、相手はトラックだった。

 くるくると宙を舞いながら、人力車がアスファルトに弾んで大破するのが鞍馬の目に入った。スローモーションだった、と記憶している。あれは、なるほど、冷静になって思い出してみれば死んでいたっておかしくない、というか、死ぬのが自然なぐらいの事故だった。

 けれど、鞍馬は死ぬわけには行かないので、死ななかった。俺が死んだら一体誰が弟たちを護り養うというのだ。だから死の壁として迫り来るアスファルトを、右の掌で跳ね返した。人力車曳きの仕事のときには手にはグローブを嵌める。それゆえ、掌の皮を擦り剥くということもなく。

「危ねえじゃねえか!」

 二本の足で鞍馬は、当たり前のように立って、怒鳴り返した。

「人間じゃねえよ」と新が後から振り返って言っていたと、光が教えてくれたことがある。「あ、死んだなって思ったのに、ケロッとしてやがんだ。フツーの人間なら百パー、百二十パー死んでるとこなのにな。あの兄貴は、どっかおかしい。人間じゃなくて、サイボーグかなんかだ」……違うよ。俺は人間だ、下らんことに悩む、不器用な、ただの人間だ。確かに俺たち兄弟には少々面妖な力が絡んでいる。けれど、何ていったか、……春陽が使った言葉、あいつの言うことは難しくていけねえや、……そうだ、「ハード」だ。「僕たちの『ソフト』は普通の人間では説明出来ないけれど、『ハード』という点では、別に何も特別な所はない」と春陽は言った。

 要は、普通の人間として、思いの強さだけで生きている。けれど護りたいと思ったときに生まれる力は他の何物にも勝るのだということを、当たり前のように鞍馬は二十四年間信じ続けて生きてきた。とは言え、其れを自覚するようになったのは、割と最近のことだと思っている。

 多分、光はもうそんなことは判りきっているのだ。

「……大丈夫か?」

 光の腹から伝って、精液がシーツを濡らす。道徳的な兄ならば此処で止めるところだろう。けれど鞍馬はそう訊いた。光は「ん」と頷く。それから、ちょっと照れたように、笑って、

「にーちゃんの、ずっと、入りっぱなしだったから、もう、だいじょぶだよ」

 兄の頬に唇を当てる。「にーちゃんの、いっぱい動いて、……でもって、教えて」

「……教える?」

 ん、と光は頷く。

「にーちゃんのさ、ちんちん、気持ちよくなってんの……、おれの、お尻の中でさ、熱くなってんの、判ったら、すっげー嬉しいから……」

 判った、と言うほかない。

 其れが強さだか弱さだか判らないけれど、ただ確かなのは光の方が鞍馬よりもずっと「強い」のだということだ。

 絆のように両腕が再び鞍馬の首に絡んだ。鞍馬はその背中を片腕で支え、……夢中になることを、自らにきつく禁じたが、さあ、どこまで其れを守れるかどうか。結局のところ、腰が動き始めれば頭の中は一色で塗り潰される。光が愛しいという、ただ一色。それでいいのだと言うように、光の声には全く一片の苦痛の響きもなく、喜悦の一色のみ。

 其れがこんなにも嬉しいから、鞍馬の腰は止まらない。

 一突きごとに光の小さい身体は弾み、声が散る。恐らく春陽は鞍馬がこうして光を抱いていることを知っているし、この分では新も気付いてしまうかもしれない。けれど二人の弟たちから苦情申し立てがあるとも思えない。

「に、っ、っちゃッ……」

 光が、渾身の力で抱き着く。「すっげ、……すっげぇ、きもちぃっ……」

「おう……、そうか」

 鞍馬の頬には微かな笑みが浮かんだ。この男が生まれてこの方いまだかつて、光を抱くときを除いては浮かべたことのない類の。

「俺も、……気持ちいい。……愛してるぞ」

 小さな身体で居て、これだけ膨大な愛情を駆使してみせる。光の身体がまた狂おしく震え、鞍馬に絡みつく肉壁が収縮し、一際狭くなった。奥へ――

 命の迸る瞬間、光と唇を重ねていた、舌が自然と絡んでいた。間違いなく愛し合っている一組の「恋人」として、鞍馬は改めてこの少年の幸せを、俺は全身全霊を以って護んなきゃならねえんだと、力が産まれて来るのを感じる。

 

 

 

 

 ――お前はいま幸せか?

 鞍馬は毎朝欠かさず寺参りをする。寺のみならず、神社に行っても、町内にある教会に招かれて行ったときにも、変わらず荘厳な気持ちになって頭を垂れる。これは神々を単一数では捉えない日本人ならではの風習であろう。とは言えこの男にとってもっとも親しみのある寺は、家からも程近い観音様である。一日あれほど身体を動かして尚、毎朝のジョギングを欠かさず、この季節ならまだ明るくなりきっていない時間に置き出して半袖短パンで街並みを駆けてから、最後に呼吸を整えながら仲見世を抜け、朝の挨拶を行う。もう何年も続く習慣であり、こういう古風な所もまた彼の男ぶりを上げていることに、当の本人は気付かない。

 合掌瞑目し思うのは家内安全、……弟たちが健やかに在りますように、そして最近加えて願うのは、俺も、あいつらを護ってやれるぐらいに強く在れますように、と。

 幸せなのだ。

 幸せだから怖くなることだってある。土ノ日家の最年長者としてこの男は、家中の思いが一つに重なった今年の夏以後、これまで以上に熱心に参るようになった。

「っし」

 隆々たる肩はいまだ冷めず、鞍馬の肌からは薄っすらと湯気さえ立ちのぼる。再び緩やかに走り始めた鞍馬の姿を饅頭屋の軒先から、若い女将が惚れ惚れと眺めて、

「男だねえ」

 と溜め息を吐いたが、鞍馬の耳には届かない。


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