夜半に通り過ぎるはずだった雨雲は、カーテンを開けてもまだ頭の上に居座っていた。水平線は茫洋としていて、朝が明けたのかこれから暮れる夕なのか、判然としなくて、俺は時計を見る。七時半。妥当な時間に目が醒めた。
「晴れていないのね」
ガラステーブルの上に灰皿があって、その中には何本かの吸殻が転がっている。一本、やたらに長く原型を止めた灰を引き摺ったのがあって、それが昨夜吸った最後の一本だと判る。オイルライターが床に落ちていて、俺は落下し、衝突する硬質な音を覚えていた。後は、耳というよりは、手で聞いていた。或いは、俺の肉体の中央の、いっとう敏感な器官で聞いていた。
いつも尻ポケットに入れてしまうせいで、角を失うソフトパックの中から、一本を引きずり出して、拾い上げたライターで火を点けた。ゆっくりと吸い込んで吐き出す俺の体は裸だった。
「……そういう季節だからしょうがないだろ」
少し、頭痛がする。
「それに、そういう季節を選んだのはティファだ」
ベッドの上に絡んだシーツの、空虚なカーブの中心に彼女も裸で座っている。ずっとこの先、見えるくらいの「先」までは、俺たちは鮮やかさを失わずに在りたい。
ふてくされたように尖らせた唇が少し乾いているのが見えて、三口吸った煙草を消した。台所で水を注いで、彼女の唇に移した。艶を取り戻してなお、少し色が悪く見える。俺は微笑んで
頬を撫ぜた。
「笑ったら? ……それともマリッジブルーか? お姫様」
悪い冗談に、彼女はそれでも微笑んでくれた。俺は面白がって、
「後悔したなら言ってくれて良いんだ、まだ間に合う、全部キャンセルして」
「やめて」
笑っていたが、それは懇願や命令といった響きを孕んでいた。俺はこの上なく優しい微笑をこの女に向けられる自分を誇りに思うのだ、そして、愛されるに足る自分であると、信じるのだ。
「練習しようか」
俺が寝乱れた黒髪を撫ぜると、少女そのもののようなきょとんとした表情を向ける。塩っぱさも辛さも酸っぱさもない、甘い、緩い、ミルクのような表情だ。俺は飽かずその顔を見ていたせいで、次の言葉まで、随分と不自然な間が生れた。
「……汝、ティファ=ロックハートは」
あと何度君はそう呼ばれるだろうね。
「クラウド=ストライフを生涯の夫とし、添い遂げることを誓いますか?」
ティファは微笑んで、頷く、もう一度頷く。
「……僕こと、クラウド=ストライフは、君ことティファ=ロックハートを、病めるときも健やかなるときも、愛することを誓います」
俺はそう言った。そう言ってキスをした。柔かくかすかに弾むような心地の唇に唇を合わせるのは楽しかった。恐らくは女性が男性に愛される為に、神はタオをその体を与えたのだ。そして、それは真ッ当な安定感と幸福を、例えば今俺に感じさせるには十分なのだ。
そして、この形は更に美しい形へと発展というか、進化というか、していける。俺とティファとでたくさんの幸福を、誰かの微笑を、生み出せるのだ。それは胸を張って見せられる、俺の手にした美しい心であり、幸福である。
俺が言葉を選び心を見せるときには当然誰かがそれを、文字列ならば「読む」ことを意識している。不特定の誰かに見せて、曇りの無い幸せに見えればいい。ただ、誰がどう受け取ろうと、俺にはあまり関係もない話で、俺は結婚式を今日の午後に控えた花婿であり、ティファは花嫁だ。この海の見える家の名前は一つになり、とても自然で、容認された形になるのだ。その揺らぎ様のない事実とここに存在する一組の成熟した恋人同士が、昨夜の記憶、最後の外の景色、銀の月、よりも硬く、未来を切り開く。
窓の外は一つ明るくなったかもしれない。水平線が霞んでいるのは変わらず、律されないリズムの波音が、まだ朦朧とした街の路地の一つひとつまで浸していく。空虚な腹の音に少し笑って、キスを中断した。
「奥さん」
ふざけて言った。それがおふざけで終わるのは今が最後だと思う。俺たちは恋人同士という朧な関係ではなく、夫婦になるのだ。俺と彼女で交換する指輪によって、契り合った夫と妻になるのだ。
近い未来の奥さんは、俺のための朝食の支度に、下着を身に付け、シャツを着、台所へ行く。
その背中を見送って、俺も服を探しながら、ティファが側に居る意味を考える。
居て欲しい、そう、思ったから、居てもらっている。平べったく言えばそうだ。俺はティファに、俺の一番側に居て欲しい。
自分の弱さを認めたとき、多少の甘えが同居した。「寂しい」という感情が俺の内奥から末梢までを、不意に支配した。母親の肉体から切り離されて在る自分に寂しさを覚えた瞬間、誰かに触れたい、痛烈にそう思った。「触りたい」、それは肉体の話に止まらない、声や目線や心を絡み合わせて、自分の温度を誰かが意識することで、自分が一人ではないことを確かめたい。
俺の側に居てくれるか?
俺がそう言った、数秒後、瞳を潤ませて微笑んで頷いた相手が、ティファだった。
エアリス、ザックス、セフィロス、俺の過去は、一人で背負い切れるものとは到底思えなかった。現実、一人で背負わなくてはならないものであったとしたなら、せめて、側で俺を見ていて欲しいと思った。俺が潰れないように。恐らく「護って欲しい」とも違う、そこまでは求めない、けれど、優しい視線が俺に向けられている、それに伴う安心感が、俺は欲しかった。
ティファが頷いた、ばかりか、「クラウドが一人で苦しむことじゃない」、そう言った。あっけなく俺は安堵する。
「俺は、君を幸せに出来るか判らないよ」
戸惑う俺に、ティファは首を振る。
ティファは俺に触った。俺もティファに触った。俺の手はスムーズに動いた。ティファを抱き締め、キスをする、唇が離れた瞬間、互いに、急に恥ずかしくなった。唐突なことのように思えた。何の前触れもなく衝動的にしてしまった行為のように思えた。ティファが顔を上げて、一瞬怯えたような顔を見せた。ただ、覚束ない腕が、俺の首をとらえ、離さなかった。だから俺もティファを抱き締めた腕を解かなかった。
ティファの柔かい体が俺に安らぎを与える。ティファから受け取る感情をしかと認識したとき、俺は誰かを愛することの意味を知る。
いくつもの夜を朝を、ティファと共に過ごした。そうして迎えた何百回目かの朝が、俺とティファの、恋人としての最後の時間で、俺たちは数時間後に夫婦となる。エンディングテーマとして、ティファが朝食を作る音を聞いている。
十全なる幸せがすぐ其処にある。俺はそれを手に入れる。胸を張って、曇りなきこの心を太陽として、ティファを温かく照らしていくのだと誓える。
クラウド=ストライフは、ティファ=ロックハートを、病めるときも健やかなるときも、永遠に、変わる事無く、愛することを誓う。
滑らかな舌がそう紡ぐ。どこまでもスムーズに、スマートに。
この世界が俺とティファとを祝福する。この屋根の下に雨が降ることはないと、他の誰もが納得した上で認め、またそれを願う。バレットが、レッドが、リーブが、シドが、そしてエアリスが、ザックスが。俺の世界の中で俺は、多分、かなりの本当らしさと共に英雄であり、俺にそういう錯覚をさせるほど、美しい愛する人、優しい友人たちに恵まれている。この俺の花嫁を、俺は幸せに出来るという自信も生れる。
全ての運命に片が付く。俺はあらゆる刃の届かぬ場所へ、ティファを連れて行く。
近い将来に俺とティファの間には子供が出来るだろう。男の子がいい? それとも女の子がいい? 夢想する日々も、多少はあった方がいい。幸せの甘味は焦らすように味わった方がいい。名前はどうしようか。どんな人間になってほしい? 二人でたくさんの時間、そういう会話に費やせたらいい。俺たちの間に、俺たちに世界で一番よく似た命が生れ、俺たちをもっともっと幸せにしてくれるのだ。生れ来る子供、若しくは子供たちのことも、世界は祝福するだろう。俺は父親になり、ティファは母親になる。俺たちは家族という最小で最上の幸福な単位となり、他の誰かの手で崩れたりはしない絆で結ばれあう。
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