横たえられた身体を盾に、何だって言えたはずだ。初めての時だって、今だって、同じように月が巡る空だったならば。その月を、同じように見ることが出来たならば。だが、ファリスはその唇を指を飲み込む。がらりと色の変わった夜を見上げて、途方に暮れてしまうのだ。苦しい思いを抜きには語れないくせに、困ってしまうくらい、足りないものが何もない。
ずっと眠っていてくれた。あるいは、寝たふりをしていてくれたのだろうか。チョコボは相変わらず、静かに喉を鳴らしている。
唐突に、バッツが言った。
「ココの子供たち、もう人乗せられるだろ?」
それは世間話を切り出すような、しかし、もちろん表情と声の強張りは、本人が思っている以上にずっと、ファリスに伝わっている。それがどうかしたかと、世間話に答えるような、和やかな声を出せるような状態だったとしても、恐らくは今のバッツのようにとても無様で不器用で、安っぽい剣のような声にしかならなかったろうと、ファリスは想像する。
「おまえが、そのうち、海に飽きて、……飽きなくてもいい、たまには陸に上がって旅したいって思った時には」
多分、おれたちは夜にしか会えない。
「言えよ。迎えに行くから」
熱くなりすぎた頭を冷やしながらでないと、まともに話も出来ないはずだ。だから、遠くからテントを見つけていながら、日が深く傾くまで近寄ろうとしなかった自分を、ファリスは憎たらしい程よく知っていた。
「……うん」
夜のマントの中に隠れてしまえばいい。男なのか女なのか定義出来ないような自分のまま、「ファリス」という仮の名を今も呼びつづける男と重ねる肌が濡れたとしても、それを夜露だと言って退ける。繋がっているのが自分ではないかもしれない、相手ではないかもしれない。今は眠っているのかもしれない。これが夢なのかもしれない。相手の顔がぎりぎり判るほどの闇で、……しかし、何と甘美な夢だろうか、……英雄さん。
ぼんやりしているうちに。
いや、ぼんやりしているつもりはなかった。それなりに律儀にしているつもりだった。ひんやりとした夜気が肌を撫ぜ、そこに細かな粒子としての露が形を為したとき、ファリスはバッツと手を繋いでいた。明日の朝には帰るよと、言った自分の唇も、まだかすかに濡れている。
「寂しいのか?」
あからさまにそういう顔をして見せてくれたから、ほんの少しの喜びが実った。バッツは夢なら夢のままで良いと言うように、うん、と頷いた。
「次はいつ逢えるかなとか、そう考える。……なあ? おまえに判るか判らないけど、寂しいもんだぜ? 一人旅。あの頃は楽しかったな、辛かったけど、側にいつもおまえたちがいた」
平和なのはいいことだ、などと、あまり意味の無いことを言った。
「……浸るのは、おまえの勝手だ」
身を起こし、髪の毛をざっくりとかきあげた。髪の先が散ることに頓着せず、開いたままの胸元を閉じることもせず、其処に視線が彷徨うことも指摘せず。バッツの表情があまりに無防備で、曝け出さなくて良いものまで曝け出しているものだから、彼女はかえってばつの悪い気になる。
「……風邪ひきたかないんだけどな」
挑むように言ってやったら、少し困ったように笑って、両手を伸ばして来た。背中に回った温かい手に、委ねるつもりもないが、ファリスはそれでもスムーズに男の腕の中へ収まった。「温かい?」、息の声が聞く。うんともすんとも言わないで、しばらく考えて、
「湿っぽい」
とだけ言った。すぐに、舌は慌てて、
「おれが」
付け加えた。バッツが笑う。憎たらしい気もした。攫ってしまおうか。中身も全部、飲み込んでしまおうか。潮の流れの中へ巻き込んで。だが、浮かべた船の上から曖昧に笑う男を見て居る方が、何だか楽しい気もした。誘われたって、その場所へ行きたいとも思えない自分だった。
そして恐らく、彼もそれは承知していた。
「守るもんがあるんだ、おれには」
恐らくは自分に向けて、ファリスは言った。
「そうそう陸に上がる暇なんてない」
波の行く音来る音、太陽と月を溶かし、彼方と此方を巡る潮の冷たさに、漂う舟で渡り行く海に、自分の母なり父なりを感じていた幼い子供は、多分、命の源を其処に感じていたのだろう。掴んでも指の隙間から流れ垂れ、決して一つ所にとどまることはない。ならば、自分がそこに居ればいい。それだけのこと。
「そっか」
腕の力は、呆気なく、強くなる。溜め息を飲み込むために、胸板が少し動いた。
「……悪かったな」
寂しがる様を見せられて、寂しいのは自分だけと思うなと、そんな愛らしい台詞の一つも思いつかないわけではないが、腕を突っ張って離れようとした。分け与えられた温もりのやり場に困る。だが、バッツが腕をほどくことはなかった。この体温が、嬉しい。この体温が、好きだ。きっと、海に頭を浸ければ消える想像も、陸の上ではファリスの肌の中へ染み、血に乗り、全身に巡るのだ。
「来たけりゃおまえが来い」
だから、一秒前の自分が思いもよらなかったことを、ファリスは言った。
バッツは何も言わなかった。
地図上は一本の入り組んだ海岸線に過ぎなくても、まるでそこに、壁でも在るかのように。ただ、バッツはかすかに身じろぎをした。ファリスが晒した心の裏側が、ちょうどその肩の辺りにあるらしい。男装をしても隠し切れない女の線に、バッツは唇を当てた。
さっさと服を着なかったのは、再びそうされることを承諾していたからだ。それでも、ほんの少しくらいは、震えたって許されるだろう?
まだ月は、高いところにあった。
チョコボは眠っている。夜風が濡れた身体を撫ぜた。時間が何もかもを許した。
触れるのは、男の指だ。
何度も重ねた突き指のせいで、彼女の指は決して華奢なものではない。男に混じり、男を従え、海を駆けた海賊の長ファリス、男を自覚して生きた時間に覚えた、男の言葉、男の在り方。本当に、……「ごめんよ」などとは言わないが、「おまえに抱かれるには、おれは、ちっとも可愛くなくって」。
それでも、バッツの硬質なラインで描かれる肌が、ファリスを女にする。女でいいのだと、告げる。肌をバッツの、ファリスよりもずっと無骨な指が辿るたび、身体の内側で、雄性は息を潜めていく。
「……してろよ」
「……え……?」
「楽にしてろよ」
バッツは柔らかな微笑を見せた。
何だその笑顔、何だってんだ、下はガチガチのくせに。詰ってやろうと思っても、思うような声は出なかった。ただ一つ、その腹に、少しだけ伸びた爪を立てた。頭の下に手を入れられて、自分でも容易すぎると思うが、否定出来ないほどに安心する。背中に手を回したとき、根本的に自分とは違う身体であることを思い知らされる。やや強引に、抱き上げられて、抱き締められて、それでも本当に優しくゆっくりと、一つに繋がったとき、彼女の中に生まれるのは、普段なら滑稽なはずの、姫の妄想だった。
とうの昔に、何の躊躇いもなくかなぐり捨てたはずの記号を、この男がおれに。
「……おれ、海、行こうかなあ」
そんな呆けた言葉を聞いたのは、繋がっている最中だったか、それとも終わった後だったか、或いは夢だったのか、判然としない。
「おう……、起きろよ」
小突いて薄く開いた瞳が捉えるのは、既に男の身形を整えた彼女の姿だ。身体のそこここに艶かしい線を隠し切れてはいなくとも、凛とした目元は朝霧を何処までも裂いて、至近距離ならバッツの寝起きの目を射抜くように鋭く光った。
「……ん。……っぶし」
「きっ、たねえな! クシャミすんなら口塞げ馬鹿」
「ん、ごめ……、いて。……って、もう、行くのか?」
ファリスは飛沫を拭って、立ち上がる。さっきまで自分を抱き締めて眠っていた腕は、空虚に彼の腿の上に在った。どうしてそんな場所を見たのかを、判らないふりをして見せるには、青く澄んだ朝の風が好都合だった。
「そうか、行くか」
あーあ、とあくびなんだか、溜め息なんだか、……ファリスには判別出来なかった。ただ、それは一つの呼吸だった。海と陸とを隔てる、あまりに深い呼吸だった。そんなもの飲み込んで「行くな」の一言も繕えないで、おまえはどうやっておれを。
あまり力感のない笑いで、バッツは言う、
「またな」
ファリスも、背を向けてから言う、
「うん、またな」
語るに足らぬ恋物語? 恋ではない、きっと違う。そんな甘ったるい感情ではない。そして、……ファリスは夢を見る、それが恋だと言うならば、海岸線ぐらい越えて来やがれ、それが出来ねえなら、勝手にしやがれ。
まず、それが出来ない彼女は、重くもない足取りで海への道を辿った。