幸せグラフィティ

 この家族にとって、何でもない一日の話である。

 

 

 

 

 昼食後から夕方まで、リュームはいつも外へ遊びに行く。

 尻の落ち着かず、大人しくじっとしていることの出来ない少年は、その小さな身体では到底収まらない生命力を持て余している。家の中で暴れられて何かを壊されるよりは、少々洗濯物が増える方がましだと考えるから、ルシアンは「気をつけて行っておいで」と送り出す。リュームはああ見えてとても賢い子である――知力を動員する手間を省かなければ――無茶なことはするまい。信頼に足るだけの結果をリュームが揃えてくれることは、ルシアンにはありがたいことだった。

 宿場町はすっかり秋の装いで、少年三人という、半ば機動力だけで取り仕切る宿の庭の木々も鮮やかに色付いた。このところ、リュームは服のあちこちに枯れ葉の破片を纏って帰ってくる。

「川に向かって降りてく道からちょっと外れた所に」

 以前、ルシアンはライに教わった。「急な崖なんだけど、下に落ち葉がいっぱい積もってて、クッションになってるとこがあるんだ。ちょっと怖いんだけど、思い切って落ちると楽しいっていう……」

 ルシアンにはそんなこと、怖くてとても出来ない。ライと真ッ向から太刀打ち出来るだけの剣閃の鋭さを持ってはいるが、基本的には家の中で本でも読んでいる方が好きな少年である。

 干した洗濯物を取り込みに庭へ出たとき、勝手口から外へ出て、川へと続く階段の方へ耳を済ませたら、……ぼすん、という気の抜けた落下音がした。一人で遊んでいるはずだが、無邪気な笑い声も聞こえてくる。どこまでもやんちゃなリュームであり、ライもそういうところがあって「心配しなくて大丈夫」と言われても無理に決まっているが、彼らは彼らなりの慎重さを持っているのかもしれないとこのところのルシアンは思うようにしている。たくさん遊んで、お腹が空いて、たっぷりご飯を食べて、一生懸命寝る。そういう健康的なサイクルの一助を担っている自分の立場を意識すれば、心に芯が通ったように背筋が伸びて、ルシアンは何枚もの大きなシーツに凛々しく立ち向かうのだ。

 妻であれ、母親であれ、ぼくはぼく。

 線の細く、まだ立ち姿にしたってどこか心細さが漂うような少年は、それでもとても男らしいと言えた。自分の人生を自分で決めて、自分の足で歩いていくルシアンの姿には、その相貌が幼い甘さと無縁で居られなくとも、強さが伴う。

 洗濯物を全て取り込んで、所定の場所にきちんとしまって、まだ宿泊客の受け入れ時間までは余裕があった。ライは食堂の窓辺の席で転寝をしていた。その膝に毛布をかけてやってから、ルシアンはエプロンを巻いてキッチンに入った。

 今日の昼前、歩いて数分の実家からポムニットが大量の蜜柑を届けてくれた。

 三人がかりで毎日食べたとしても、手が黄色くなってもまだ呆れるほど残っているであろうことが想像できるほどの量で、また、こう言ってはなんだが、あまり甘くない。蜜柑を食べるために林檎を我慢しなければならないのは何ともやるせない話である。

 二人のために、蜜柑を使った菓子を作ろうというのである。言うまでもなく料理はライの方がずっと上手い。ただ、ルシアンはライの側で手伝いながら、このところ見よう見まねで少しずつ料理の腕が上がってきた実感がある。

 リュームが、ルシアンが、ライと「家族」になるまでは、ライがほとんど一人ですべての仕事をこなして来た宿である。ライはすっかり慣れた様子で、早起きも苦にならないと言う。

 でも、ぼくたちがいる。

 特にルシアンは、ライの妻であるという自覚が強い。夫婦は、家族は、支えあっているべきだ。いつかぼくもキッチンに入ってライさんの料理を手伝うことが出来るようになれば、いまよりもっと、ライさんを支えてあげられる……。

 来るべきそんな日のための、言うなれば実践練習である。

 蜜柑の実を生地の中に入れて焼いたクラフティは、以前から蜜柑が手に入るたびにライが時折作っていた。これならば甘く仕上がるし、飽きない。幾度か作っているのを側で見て観察した結果、ルシアンはそのレシピを何となく覚えていた。粉を持ってきて慎重に計り、玉子を割って、……ちょっとでも、おいしいものになりますように、思いを篭めながら立ち向かう。

 

 

 

 

 ルシアンが何か作り始めたな、という気配を、耳のいいライはちゃんと聴き取って既に目を醒ましている。いつのまにか膝には毛布が掛けられていて、其れは日光の温もりをたっぷりと含んでいて、疲れたライの体をずっと眠りに縛り付けて離さないような優しい怖さを持っていた。片目を開けてルシアンの姿を伺いつつも、時折意識は途切れた。瞬きは一瞬どころか何秒にも延びて、気付けばルシアンが玉子を掻き混ぜる音が夢の中から響いてくるといった塩梅だ。

 ここで寝てしまうのが本当だろうか、という気もする。身体が疲れていることは事実であるし、ルシアンが掛けてくれた毛布だって自分の睡眠のために在るものだ。

 しかし、カウンターごしに見えるルシアンの顔を見ていたいな、という気もする。見て、何になるという訳でもなかったが、自分たちのために何かを作るルシアンの顔は、何だか見ないわけには行かないような気がするのだ。

 だってルシアンはおれの奥さんだ、すげー可愛い奥さんだ。

 決して「可愛い」だけの顔をしている訳ではないことを、ライはきちんと判った上でルシアンを愛している、ときには――というよりは頻繁に――性欲を抱くし、泣かせてやりたいと思うときもある。ただ確実に言えるのは、おれはそういう機会がもしあったなら、自分とルシアンの命を容易く天秤に掛けて、自分の物を平気で差し出すだろうということだ。

 妻に娶るというのは、要するにそういうことだろう。

 誰かに訊いたわけではない、教えられたわけでもないのに、ライはそういうことを躊躇いなく思えた。

 それだけの価値が、彼の奥さんには在るのだった。

 生活を円滑に進めていくという観点からも、ルシアンはいまやライにとっては欠かせない。わがままのリュームをきちんと制御し、教育すると共に、家事を率先してこなし、妻としての勤め、……かどうかは判断しかねるが、要するにそういうこともする。ルシアンが居るから、何でもうまいこと行くんだよな、という気さえする。もちろんその計算には彼自身の努力など、少しも含まれて居ない。おれの生活がスムーズに回るのは、だいたい全部ルシアンのお陰、とライは何の疑いもなくそう信じることが出来るのである。

 簡単な言葉で括るなら、ライはルシアンを愛している。ルシアンもライを愛している。そして二人揃ってリュームを愛し、愛されている。家族って、そういうもんだろう。一艘の船を力合わせて漕いで、多少の波にはびくともしない堅牢さを手にする。誰が櫓を、誰が櫂を握っているのかは判然としないが、一人でも欠ければたちまち沈没する、そういう共同作業。一人のときには一人で上手くいった、二人のときにも大丈夫だった、それなのに、もう数を減らす訳にはどうしても行かない気持ちにさせられる。愛すれば愛するほど、世界はより恐ろしいものに思え、自分が弱くなっていくことをライは意識した。それでも前を向いて「怖くも何ともねえや」と言い張って居られるのは、心の背筋を支える二人の存在ゆえに違いなかった。

 ルシアンは、ルシアンで居るだけでライの力になる。リュームにしたってそうだが、「家族」という枠を意識したとき、その枠が狭ければ狭いほど、ギュウギュウ詰めになって一つになって、それでも大いなる自由を感じられるくらいに感じられるのだ。隙間風は入らない。風邪をひく暇もない。いや、風邪はときどきひくけれど。

 玉子と粉を攪拌する音がまた夢を途絶えさせた。もう、眠る気はない。眠るのがつまらなくなった。ルシアンはライの覚醒に気付いた様子もない、というか手元に集中していなければ失敗してしまうと思うのだろう、視線はじっと下を向いている。真剣な眼差しは、自分の側に居ると決めたときからしばしばルシアンが見せるようになった、ライにとってはもう馴染み深いものだ。長い睫毛のルシアンが、普段はとても柔和な表情のルシアンが、そういう目をすることが在ることを知って居るのはきっとおれだけ。……うん、きっとリュームも知らないはずだ、だってあいつにとってルシアンは「お母さん」だもんな。

 おれだけの秘密、と思えば了見こそ狭いものの、何だか微笑みたくなるような気がするのだ。

 

 

 

 

「ひゃっほう!」

 声上げて、八回目のダイヴ、無茶こそ少年の特権、深く落ち窪んだ穴に身を躍らせる。頼もしく自分の身を支えてくれたふかふかの落ち葉のベッド、深く沈み込んで海から上がったリュームの青く硬い髪おあちこちには枯れ葉が引っ掛かっていた。

「ひゃー……」

 そんな訳の判らない声が自然と出た。「何故此れが楽しいのであるか」と緻密な考えを始めたら途端につまらなくなりそうだから、リュームは一先ず街に雪が降るまでこの遊びをやめないつもりである。

 ルシアンもライも知っての通り、リュームは本質的にはとても賢い子供である。何と言っても至竜なる身、神と連なる知識さえ宿しているのだから、知識に基づけば判断を誤ることは無いとさえ言ってよかった。そのくせ時折おねしょをして布団を濡らして見せるのは、その知識を引っ張り出すことに怠惰だからだ。

 ただ、例えば「崖上からダイヴトゥ落ち葉の穴」という行為をするに当たって、少年がその安全性を確かめたことは事実である。身長は百四十センチ、体重は三十キロほどの身体を、目算で二メートルの高さの崖から身を躍らせた際の重力加速度等々を計算した場合、どの程度のリスクがあるかということをリュームは緻密に計算した上で、「ひゃっほーい!」と無邪気にダイヴするのである。それは少年の身体に同化する至竜の知識が為せるわざであり、リューム自身は少々鬱陶しくもあったが、怪我をしてルシアンにーちゃんに心配かけるよりはマシだと割り切っている。

 なにせあのひとは、ほんのちょっと擦り傷を作っただけで大慌てである。

 リューム自身は――ときどきおねしょをするとは言え――一応、もう立派な「大人」のつもりで居るので、そういう風に甘やかされることを全面的に容認出来る訳ではない。率直なところを言えば、「おれがにーちゃん護った方が自然なくらいだ」ということだ。

 それでも、ルシアンの腕に抱き締められたときには、くすぐったくて、雄々しくありたいと願うその頬も綻んでしまう。ルシアンの身体はリュームの膚の上でほんのりと温かくて、全く太っているわけではないのにどういうわけか、柔らかいのだ。

 ルシアンにーちゃんは、おれの、「おかーさん」だから。

 そう考えれば――至竜の知識を引っ張ってくる必要もなく――リュームは全て説明出来るような気がする。

 リュームにも、かつて母なる竜が居た。もちろんその母をいとおしく思っているが、恋しく思うことがないのは、いまの彼の側にそれだけの存在感を伴ってルシアンが居るからだ。

 九回目のダイヴをしようかどうしようか、リュームは崖の上にしゃがんで少し考えた。もう、そろそろいいかな、という気がする。落ち葉のクッションは何度飛び降りてもリュームの痩せた身体を上手に受け止めてはくれるけれど、服は随分汚れてしまったし、細かな傷をあちこちに拵えてしまったことも事実である。

 でも、もう一回だけ飛んで行こうか。……「どうしてこんなことが楽しいのだろう」と自問すれば、答えようのない自分の居る事をリュームは知っている。自分という名の物体が自由落下するだけのことだ、冷静に考えれば「ひゃっほーい!」などと奇声を上げて臨むほどの行為ではないだろう。大体なんだ「ひゃっほーい!」って、おれは馬鹿か。

 悩んでいるうちに、少年の鼻腔を香ばしい匂いが擽った。思わず顔を上げれば、匂いは急坂の上、当に自分の家の方から流れて来ているようだ。

「おやつだ!」

 と思った瞬間、思考停止、ダイヴの楽しみは説明が付かないが、おやつの美味しさは万人に理解されるだろうと思うリュームである。

 

 

 

 

 器の縁、ほんの少し焦げたか。オーブンから注意深く取り出して、観察する。とりあえず、香りはとてもいい。串をそっと刺して引き抜いてきたが、中まできちんと火が通っている。問題は、甘いかどうか。三つしか作らなかったからこっそりと試食するわけにも行かない。ただ見た目ばかりは、愛らしい乳黄色のふっくらとした生地の所々に、鮮やかな橙色をした蜜柑の果肉が覗く。もちろんぷつぷつと細かな粒の中に秘められていた果汁のほとんどは生地に吸い込まれ、或いはオーブンの熱気で蒸発してかさかさしているが、其れが帰って食感のアクセントとなる。

 うん、とりあえず、いい匂い。

 匂いに惹かれたように、ずっと窓際で転寝をしていたライが起き出して来て、「何作ったんだ?」と案外に明瞭な声で覗き込む。

「上手に出来たかどうか判らないけど」

「美味そうじゃん。せっかくだから紅茶入れようぜ。ダージリン、……いや、アールグレイの方がいいかな」

 窓の外からどたどたと駆ける足音が近付いて来る。匂いに誘われたもう一人がやって来る。ルシアンが人数分のマグカップとスプーンを食堂隅のテーブルに並べる間、ライが紅茶を淹れ、リュームはちゃんと手を洗って来る。そして三人が席に着けば、上品に振る舞うことはあまり得意ではない少年たちの、品性の有る無しとは無関係に幸福な「ティータイム」というよりは「おやつ」の時間が完成する。

 ライが、

「丁度いいな」

 と言った。甘さの加減なのか焼き具合なのか、ルシアンには判然としなかった。リュームもうんうんと頷いて、「これからも焼いてくれよな」と言う。

 ライの作る飯を日夜食べて過ごせば自然と舌が肥えるに違いない。二人が綺麗に平らげてくれて、自分の舌にも悪くなく思えたなら、きっとこれが正解なのだろう。

 二人の幸せそうな顔を見れば、腹も心も満ち足りる、ルシアンだって幸せになる。奥さんとして、お母さんとして、するべきことがちゃんと出来た、そんな風に思うことがきっと、認められる瞬間だ。

 或いは当人に、ライが告げることもあるかもしれない、「ただおまえが幸せで居るだけで、十分に義務を果たしているんだ」と。


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